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61年ぷりに「勧進相撲開催」へ 日本相撲協会は1日、両国国技館で定例理事会を開き、発災から1カ月が経った能登半島地震で被災した石川県に対し、震災義援金として1000万円、1月の初場所中に館内で行なった募金活動で集まった募金約530万円を寄付することなどを決めました。 「勧進相撲」が実現すれば、1962昭和37年10月7日から15日間開催で大阪・「四天王寺復興勧進大相撲」が開かれて以来となります。 芝田山部長は「有料で費用を協会が負担して寄付ができれば。継続支援をしていきたい。固まったら発表したい」とコメントしました。 3月の春場所(10日初日、エディオンアリーナ大阪)でも会場内で募金活動を実施する。 芝田山広報部長(元横綱大乃国)によると、計画段階ながら4月に国技館で「勧進相撲」を開き、その収入を寄付する案が浮上しているという。勧進相撲は江戸時代には各地で行なわれ、神社仏閣の新造、修復などの「勧進」を趣旨とし、資金調達を目的として開催された。 のちに寄付を集める方法として興行を催し、その収入をあてるようになりました。
千葉県出身の横綱 4人目は 鳳 谷五郎 千葉県印西市出身、宮城野部屋の元力士で最高位は横綱。強靭な足腰で繰り出す掛け投げが得意で「鳳のケンケン」と呼ばれて人気を誇った。 小部屋で苦労したが稽古に専念し、1908明治41年5場所で新十両昇進、6勝1分1預の土つかずで翌場所には新入幕となった。幕内では初日早々に大関・駒ヶ嶽を破る殊勲をあげて俄然注目を集める。 スピード感あふれる取り口と鮮やかな掛け投げ、そして容姿端麗な美男子とあって一躍人気者となった。 1913大正2年春場所に大関に昇進、そこで初優勝を決め、1915大正4年春場所には10戦全勝で2度目の優勝。場所後に横綱へと昇進。 実はこの時、吉田司家は時期尚早とみて難色を示していたが「鳳人気」に押された相撲協会からの たっての要請で横綱免許が下ったという。 しかし吉田司家の危惧は当たってしまう。横綱になってからの鳳は生彩を欠いた受け身の相撲に変わってしまい成績はいまひとつに終わってしまった。 引退後は7代宮城野を襲名、弟子育成に尽力し、協会理事も務めた。 四股名 :鳳 谷五郎(おおとり たにごろう) 最高位 :第24代横綱 年寄名跡:7代宮城野 出身地 :千葉県印西市大森 生年月日:1887明治20年4月3日 没年月日:1956昭和31年11月16日(享年69歳) 所属部屋:宮城野⇒勝ノ浦⇒宮城野部屋 改名歴 :大鳥⇒鳳 初土俵 :1903明治36年5月・(16歳1ヵ月) 新十両 :1908明治41年5月(21歳1ヵ月) 新入幕 :1909明治42年1月(21歳9ヵ月) 新三役 :1910明治43年1月(22歳9ヵ月) 新大関 :1913大正2年1月(25歳9ヵ月) 横綱昇進:1915大正4年6月(28歳2ヵ月) 生涯戦歴:113勝49敗68休7分11預/180出場(25場所) 生涯勝率:69.8% 優勝等 :幕内優勝2回(次点2) 幕内戦歴:107勝49敗68休6分10預(24場所)勝率:68.6% 横綱:35勝24敗49休1分1預(11場所)勝率:59.3% 大関:36勝4敗7休2分1預(5場所)勝率:90.0%
千葉県出身の横綱 3人目は若嶌。 前者二人ほど強くはなかったようだが、右差しからの寄りに蹴手繰りなどがある派手な取り口で、東京相撲との合併相撲では常陸山谷右エ門にはかなり分が悪かったが、大砲万右エ門・梅ヶ谷藤太郎 (2代)・太刀山峯右衛門には互角に取る実力を見せ、大坂相撲復興の第一人者となっていた実力者。 東京相撲では 男前が原因で土俵が疎かになり脱走、大阪相撲に加入すると頭角を現して無敵の存在に。大阪力士として初めて吉田司家から横綱免許を正式に授与された。 最高位 :第21代横綱 年寄名跡:若島(大阪相撲) 出身地 :千葉県市川市 本 名 :高橋 権四郎⇒加藤 権四郎 生年月日:明治9年(1876)1月19日 没年月日:昭和18年(1943)10月23日(享年67歳) 所属部屋:楯山⇒粂川⇒友綱⇒草風(京都)⇒中村(大阪)部屋 改名歴 :松若⇒楯甲⇒若嶌 初土俵:明治24年(1891)5月(15歳4ヵ月) 新入幕:明治29年(1896)1月(20歳0ヵ月)(東京) 新入幕:明治31年(1898)10月(22歳9ヵ月)(大阪) 新大関:明治34年(1901)5月(25歳4ヶ月)(大阪) 準横綱:明治35年(1902)6月(26歳5ヶ月)(大阪) 横綱昇進:明治38年(1905)4月(29歳3ヶ月)(大阪)吉田司家 最終場所:明治40年(1907)1月(31歳0ヵ月) 生涯戦歴:82勝32敗16休8分4預/126出場(20場所) 優勝等 :優勝4回(大阪相撲) 幕内戦歴:13勝26敗16休4分1預(6場所)勝率:33.3%(東京) 幕内戦歴:69勝6敗4分3預(14場所)勝率:92.0%(大阪)
千葉県出身の横綱2 小錦八十吉(初代) 新入幕の初日から勝って勝って勝ちまくり、4年間で39連勝=大相撲記録。 連勝がストップした時には大関になっていた。 立ち合い鋭くまた臨機応変で俊敏な取り口で絶大な人気を誇った。引退後は二十山部屋を興し、次期高砂の後継者に内定していたが先代の後を追うように亡くなる 四股名:小錦 八十吉(初代)(こにしき やそきち) 最高位 :第17代横綱 年寄名跡:6代二十山 出身地 :千葉県山武郡 本 名 :岩井 八十吉 生年月日:慶応2(1866)年10月15日 没年月日:大正3年(1914)10月22日(享年48歳) 所属部屋:高砂部屋 初土俵 :明治16年(1883)5月 新入幕 :明治21年(1888)5月(21歳7ヶ月) 新三役 :明治22年(1889)5月(22歳7ヶ月) 新大関 :明治23年(1890)5月(23歳7ヶ月) 横綱昇進:明治29年(1896)5月(29歳7ヶ月) 最終場所:明治34年(1901)1月(35歳3ヶ月) 生涯戦歴:127勝26敗101休9分7預/169出場(27場所) 生涯勝率:83.0% 優勝等 :優勝相当7回 幕内戦歴:119勝24敗101休9分7預(26場所)勝率:83.2% 横綱:37勝17敗37休6分3預(10場所)勝率:68.5% 大関:52勝7敗59休1分1預(12場所)勝率:88.1% 小結:15勝0敗3休1分1預(2場所)勝率:100.0% 前頭:15勝0敗2休1分2預(2場所)勝率:100.0% 十両戦歴:8勝2敗(1場所)勝率:80.0%
無事に大関昇進を果たした二代琴ノ若。 千葉県松戸市出身の琴ノ若は、千葉県出身力士としては史上5人目の横綱を目指すことになります。 千葉出身の横綱は 過去に4人いましたが、特に強かったのが境川浪右エ門と初代小錦八十吉。 まずは 境川 浪右エ門 相手十分で相撲を取らせてから勝ちに出るその土俵態度は 対戦相手から好感を持たれ、後に「横綱相撲の手本」と言われ、明治の常陸山谷右衛門・戦前の双葉山定次・戦後の大鵬幸喜・平成の貴乃花光司が “横綱のあるべき姿”として横綱相撲を引き継いだ……と言われている。 四股名 :境川 浪右エ門(さかいがわ なみえもん) 最高位 :大関(横綱免許)第14代横綱 年寄名跡:6代境川 出身地 :千葉県市川市 本 名 :宇田川 政吉⇒市川 浪右衛門 生年月日:天保12年(1842)4月8日 没年月日:明治20年(1887)9月16日(享年46歳) 所属部屋:境川部屋 改名歴 :小西川⇒四方山⇒増位山⇒境川 初土俵 :安政4年(1857)11月 新入幕 :慶応3年(1867)4月(25歳0ヵ月) 新大関 :明治3年(1870)4月(28歳0ヵ月) 横綱免許:明治9年(1876)12月(34歳8ヶ月)京都五条家承認: 明治10年(1877)2月(34歳10ヶ月)吉田司家承認 最終場所:明治14年(1881)1月(38歳9ヵ月) 生涯戦歴:130勝26敗63休73分6預/235出場(30場所) 生涯勝率:83.3% 優勝等 :優勝相当5回 幕内戦歴:118勝23敗63休71分5預(28場所)勝率:83.7% 大関:83勝19敗57休56分5預(22場所)勝率:81.4% 関脇:15勝0敗2休3分(2場所)勝率:100.0%
松戸市にある佐渡ケ嶽部屋で行なわれた昇進伝達式で、協会の使者の花籠親方(元関脇太寿山)、鳴戸親方(元大関琴欧洲)を迎えた琴ノ若は「謹んでお受けいたします。大関の名に恥じぬよう感謝の気持ちを持って相撲道に精進して参ります」と口上を述べました。 父でもあり師匠でもある佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)は『師匠としては師匠孝行、親としては親孝行してくれているな……と。本当にうれしい。最高にうれしいですよ。嬉しいの一言です』と目に涙を浮かべながらも感慨深げに語りました。 琴ノ若は新大関として迎える春場所は現状の四股名を使う考えだそうで、その後、琴櫻(または琴桜)を襲名する方針を明かした。 これについても佐渡ケ嶽親方は『私が関脇で引退しているので、その名前を大関にまで上げてくれるというのは感謝ですね』と語りました。 ・・・これで、昭和の横綱琴櫻のお孫さんが大関! さぁ、大鵬のお孫さんが大関に上がってくるのは来年(2025年)? 大鵬と琴櫻が揃って横綱だったのは今から53年前の1971昭和46年5月場所まで。
琴ノ若「255人目の大関昇進」 度重なる江戸の大火や大正8年の関東大震災・昭和20年3月10日の東京大空襲などによって燃えてしまった数多の大相撲資料。残った資料による江戸の相撲での最古の大関雪見山から数えて255人目となる大関琴ノ若。 〈雪見山は剛力で右を差せば無敵であったと伝えられ、宝暦6年(1756年)に上方(京・大坂)に初上りして江戸には宝暦7年(1757年)10月に東大関として番付に登録されていました。 それ以前の初代谷風も大関だったことは解ってますが、番付が残ってない為、“現存する最古の番付に載っていた大関”として雪見山が、(初代ではなく)1人目とカウントしています。〉
十両へ陥落見込みは北青鵬、遠藤、友風、宝富士、武将山、碧山あたりか。入幕可能性あるのは大奄美、錦富士、東白龍、狼雅、北の若、時疾風かな。 佐渡ヶ嶽親方の若い頃はそりゃイケメンでしたな。今春NHK退社予定の青井実アナに似てるかな。
第53代横綱琴櫻が現役を引退したのが 1974昭和49年7月。 それからちょうど50年の月日が流れ、お孫さんである二代琴ノ若が大関に昇進します。祖父琴櫻の十七回忌だった昨年、初場所からの6場所すべて三役の地位で連続で勝ち越しを続け、大関獲りにリーチ(聴牌)して臨んだ今場所で見事に13番も勝ちました。 先輩大関貴景勝が満身創痍、ここ最近大関になった霧島と豊昇龍はモンゴル出身。 復活優勝した照ノ富士もモンゴル出身。 曙・武蔵丸のハワイ勢の巨躯に挑んで盛り上がったガチンコ4横綱の群雄割拠最強時代から一転、朝青龍~白鵬の「モンゴル天下」となって日本人大相撲ファンがかなり冷めてしまった平成15年~平成28年の14年間。 人気者稀勢の里がようやく優勝と横綱を手にして沸いたのもつかの間、大怪我により短命横綱に終わってしまったこともあり、平成30年からは、平幕の栃ノ心・関脇御嶽海・小結貴景勝・関脇玉鷲・平幕朝乃山・幕尻の徳勝龍・関脇正代・平幕大栄翔らの初優勝が続き、毎場所初日の展望で「誰が優勝してもおかしくない」という状況が続いた後、「照ノ富士・霧馬山改め霧島・豊昇龍時代」になろうかというところで現れた 純日本人の大型力士、それも血統書つきの琴ノ若! 26歳❗ これからが楽しみです。 大関になったら「琴櫻襲名」と噂されたましたが、『父親の四股名である“琴ノ若”を歴代大関のリストに残したい。そもそも“大関琴ノ若”として土俵に立ちたい』と意思を通しました。 師匠佐渡ヶ嶽親方からすれば、こんなに親孝行なことはない!と感激しています。 琴櫻襲名は横綱昇進を果たしてから…… と、夢の続きは まだ先。
琴ノ若 大関昇進決定! 昭和の一大相撲ブーム“柏鵬時代”に「ぶちかましのデコイチ」の異名を取った元横綱琴櫻の娘が結婚した相手である先代琴ノ若。その長男として生まれた二代目琴ノ若。 相撲一家に生まれたからこそ、難しい選択を迫られる機会も多かった。小学6年時。琴ノ若は、埼玉栄中に進学したいと両親に伝えた。 すると、厳しく迫ってきたのは母真千子さんだった。 「逃げて帰ってくるようなことは、絶対にしちゃダメだからね。逃げたら、あなたの住むところはないと思いなさい」。 佐渡ケ嶽部屋は、1964年九州場所から幕内力士が在籍し続けている名門。 その1人息子が、いくら強豪相撲部とはいえ 逃げ帰ってくれば、名門の名折れとなるだけに、その覚悟を問われたのでした。 ましてや、プロの大相撲の稽古……それも角界一厳しい二所一門の荒稽稽古についていけずに逃げ出せば、親との住まいでもあった佐渡ヶ嶽部屋から出ることになり、帰るところは本当になくなる。 ただ、琴ノ若の覚悟は決まっていた。そもそも、佐渡ケ嶽親方が埼玉栄中、高にスカウトに訪れたのが縁の始まり。山田道紀監督から逆に「息子さんいらっしゃいますよね?」と返された。当時小学5年だった琴ノ若は、初対面で山田監督の人柄に心酔。「どうしても栄で相撲をやりたい」と両親に訴えた。佐渡ケ嶽親方は「逃げ道をつくると、あきらめてしまう。おかみは心を鬼にして、本人のために言っていた」と当時を振り返る。琴ノ若は埼玉栄高3年時に主将となり、全国高校総体団体優勝へ導いた。孝行息子は 常に、両親の心配を杞憂に終えていた。
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61年ぷりに「勧進相撲開催」へ
日本相撲協会は1日、両国国技館で定例理事会を開き、発災から1カ月が経った能登半島地震で被災した石川県に対し、震災義援金として1000万円、1月の初場所中に館内で行なった募金活動で集まった募金約530万円を寄付することなどを決めました。
「勧進相撲」が実現すれば、1962昭和37年10月7日から15日間開催で大阪・「四天王寺復興勧進大相撲」が開かれて以来となります。
芝田山部長は「有料で費用を協会が負担して寄付ができれば。継続支援をしていきたい。固まったら発表したい」とコメントしました。
3月の春場所(10日初日、エディオンアリーナ大阪)でも会場内で募金活動を実施する。
芝田山広報部長(元横綱大乃国)によると、計画段階ながら4月に国技館で「勧進相撲」を開き、その収入を寄付する案が浮上しているという。勧進相撲は江戸時代には各地で行なわれ、神社仏閣の新造、修復などの「勧進」を趣旨とし、資金調達を目的として開催された。
のちに寄付を集める方法として興行を催し、その収入をあてるようになりました。
千葉県出身の横綱
4人目は
鳳 谷五郎
千葉県印西市出身、宮城野部屋の元力士で最高位は横綱。強靭な足腰で繰り出す掛け投げが得意で「鳳のケンケン」と呼ばれて人気を誇った。
小部屋で苦労したが稽古に専念し、1908明治41年5場所で新十両昇進、6勝1分1預の土つかずで翌場所には新入幕となった。幕内では初日早々に大関・駒ヶ嶽を破る殊勲をあげて俄然注目を集める。
スピード感あふれる取り口と鮮やかな掛け投げ、そして容姿端麗な美男子とあって一躍人気者となった。
1913大正2年春場所に大関に昇進、そこで初優勝を決め、1915大正4年春場所には10戦全勝で2度目の優勝。場所後に横綱へと昇進。
実はこの時、吉田司家は時期尚早とみて難色を示していたが「鳳人気」に押された相撲協会からの たっての要請で横綱免許が下ったという。
しかし吉田司家の危惧は当たってしまう。横綱になってからの鳳は生彩を欠いた受け身の相撲に変わってしまい成績はいまひとつに終わってしまった。
引退後は7代宮城野を襲名、弟子育成に尽力し、協会理事も務めた。
四股名 :鳳 谷五郎(おおとり たにごろう)
最高位 :第24代横綱
年寄名跡:7代宮城野
出身地 :千葉県印西市大森
生年月日:1887明治20年4月3日
没年月日:1956昭和31年11月16日(享年69歳)
所属部屋:宮城野⇒勝ノ浦⇒宮城野部屋
改名歴 :大鳥⇒鳳
初土俵 :1903明治36年5月・(16歳1ヵ月)
新十両 :1908明治41年5月(21歳1ヵ月)
新入幕 :1909明治42年1月(21歳9ヵ月)
新三役 :1910明治43年1月(22歳9ヵ月)
新大関 :1913大正2年1月(25歳9ヵ月)
横綱昇進:1915大正4年6月(28歳2ヵ月)
生涯戦歴:113勝49敗68休7分11預/180出場(25場所)
生涯勝率:69.8%
優勝等 :幕内優勝2回(次点2)
幕内戦歴:107勝49敗68休6分10預(24場所)勝率:68.6%
横綱:35勝24敗49休1分1預(11場所)勝率:59.3%
大関:36勝4敗7休2分1預(5場所)勝率:90.0%
千葉県出身の横綱
3人目は若嶌。
前者二人ほど強くはなかったようだが、右差しからの寄りに蹴手繰りなどがある派手な取り口で、東京相撲との合併相撲では常陸山谷右エ門にはかなり分が悪かったが、大砲万右エ門・梅ヶ谷藤太郎 (2代)・太刀山峯右衛門には互角に取る実力を見せ、大坂相撲復興の第一人者となっていた実力者。
東京相撲では 男前が原因で土俵が疎かになり脱走、大阪相撲に加入すると頭角を現して無敵の存在に。大阪力士として初めて吉田司家から横綱免許を正式に授与された。
最高位 :第21代横綱
年寄名跡:若島(大阪相撲)
出身地 :千葉県市川市
本 名 :高橋 権四郎⇒加藤 権四郎
生年月日:明治9年(1876)1月19日
没年月日:昭和18年(1943)10月23日(享年67歳)
所属部屋:楯山⇒粂川⇒友綱⇒草風(京都)⇒中村(大阪)部屋
改名歴 :松若⇒楯甲⇒若嶌
初土俵:明治24年(1891)5月(15歳4ヵ月)
新入幕:明治29年(1896)1月(20歳0ヵ月)(東京) 新入幕:明治31年(1898)10月(22歳9ヵ月)(大阪)
新大関:明治34年(1901)5月(25歳4ヶ月)(大阪)
準横綱:明治35年(1902)6月(26歳5ヶ月)(大阪)
横綱昇進:明治38年(1905)4月(29歳3ヶ月)(大阪)吉田司家
最終場所:明治40年(1907)1月(31歳0ヵ月)
生涯戦歴:82勝32敗16休8分4預/126出場(20場所)
優勝等 :優勝4回(大阪相撲)
幕内戦歴:13勝26敗16休4分1預(6場所)勝率:33.3%(東京)
幕内戦歴:69勝6敗4分3預(14場所)勝率:92.0%(大阪)
千葉県出身の横綱2
小錦八十吉(初代)
新入幕の初日から勝って勝って勝ちまくり、4年間で39連勝=大相撲記録。
連勝がストップした時には大関になっていた。
立ち合い鋭くまた臨機応変で俊敏な取り口で絶大な人気を誇った。引退後は二十山部屋を興し、次期高砂の後継者に内定していたが先代の後を追うように亡くなる
四股名:小錦 八十吉(初代)(こにしき やそきち)
最高位 :第17代横綱
年寄名跡:6代二十山
出身地 :千葉県山武郡
本 名 :岩井 八十吉
生年月日:慶応2(1866)年10月15日
没年月日:大正3年(1914)10月22日(享年48歳)
所属部屋:高砂部屋
初土俵 :明治16年(1883)5月
新入幕 :明治21年(1888)5月(21歳7ヶ月)
新三役 :明治22年(1889)5月(22歳7ヶ月)
新大関 :明治23年(1890)5月(23歳7ヶ月)
横綱昇進:明治29年(1896)5月(29歳7ヶ月)
最終場所:明治34年(1901)1月(35歳3ヶ月)
生涯戦歴:127勝26敗101休9分7預/169出場(27場所)
生涯勝率:83.0%
優勝等 :優勝相当7回
幕内戦歴:119勝24敗101休9分7預(26場所)勝率:83.2%
横綱:37勝17敗37休6分3預(10場所)勝率:68.5%
大関:52勝7敗59休1分1預(12場所)勝率:88.1%
小結:15勝0敗3休1分1預(2場所)勝率:100.0%
前頭:15勝0敗2休1分2預(2場所)勝率:100.0%
十両戦歴:8勝2敗(1場所)勝率:80.0%
無事に大関昇進を果たした二代琴ノ若。
千葉県松戸市出身の琴ノ若は、千葉県出身力士としては史上5人目の横綱を目指すことになります。
千葉出身の横綱は
過去に4人いましたが、特に強かったのが境川浪右エ門と初代小錦八十吉。
まずは
境川 浪右エ門
相手十分で相撲を取らせてから勝ちに出るその土俵態度は 対戦相手から好感を持たれ、後に「横綱相撲の手本」と言われ、明治の常陸山谷右衛門・戦前の双葉山定次・戦後の大鵬幸喜・平成の貴乃花光司が “横綱のあるべき姿”として横綱相撲を引き継いだ……と言われている。
四股名 :境川 浪右エ門(さかいがわ なみえもん)
最高位 :大関(横綱免許)第14代横綱
年寄名跡:6代境川
出身地 :千葉県市川市
本 名 :宇田川 政吉⇒市川 浪右衛門
生年月日:天保12年(1842)4月8日
没年月日:明治20年(1887)9月16日(享年46歳)
所属部屋:境川部屋
改名歴 :小西川⇒四方山⇒増位山⇒境川
初土俵 :安政4年(1857)11月
新入幕 :慶応3年(1867)4月(25歳0ヵ月)
新大関 :明治3年(1870)4月(28歳0ヵ月)
横綱免許:明治9年(1876)12月(34歳8ヶ月)京都五条家承認:
明治10年(1877)2月(34歳10ヶ月)吉田司家承認
最終場所:明治14年(1881)1月(38歳9ヵ月)
生涯戦歴:130勝26敗63休73分6預/235出場(30場所)
生涯勝率:83.3%
優勝等 :優勝相当5回
幕内戦歴:118勝23敗63休71分5預(28場所)勝率:83.7%
大関:83勝19敗57休56分5預(22場所)勝率:81.4%
関脇:15勝0敗2休3分(2場所)勝率:100.0%
松戸市にある佐渡ケ嶽部屋で行なわれた昇進伝達式で、協会の使者の花籠親方(元関脇太寿山)、鳴戸親方(元大関琴欧洲)を迎えた琴ノ若は「謹んでお受けいたします。大関の名に恥じぬよう感謝の気持ちを持って相撲道に精進して参ります」と口上を述べました。
父でもあり師匠でもある佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)は『師匠としては師匠孝行、親としては親孝行してくれているな……と。本当にうれしい。最高にうれしいですよ。嬉しいの一言です』と目に涙を浮かべながらも感慨深げに語りました。
琴ノ若は新大関として迎える春場所は現状の四股名を使う考えだそうで、その後、琴櫻(または琴桜)を襲名する方針を明かした。
これについても佐渡ケ嶽親方は『私が関脇で引退しているので、その名前を大関にまで上げてくれるというのは感謝ですね』と語りました。
・・・これで、昭和の横綱琴櫻のお孫さんが大関!
さぁ、大鵬のお孫さんが大関に上がってくるのは来年(2025年)?
大鵬と琴櫻が揃って横綱だったのは今から53年前の1971昭和46年5月場所まで。
琴ノ若「255人目の大関昇進」
度重なる江戸の大火や大正8年の関東大震災・昭和20年3月10日の東京大空襲などによって燃えてしまった数多の大相撲資料。残った資料による江戸の相撲での最古の大関雪見山から数えて255人目となる大関琴ノ若。
〈雪見山は剛力で右を差せば無敵であったと伝えられ、宝暦6年(1756年)に上方(京・大坂)に初上りして江戸には宝暦7年(1757年)10月に東大関として番付に登録されていました。
それ以前の初代谷風も大関だったことは解ってますが、番付が残ってない為、“現存する最古の番付に載っていた大関”として雪見山が、(初代ではなく)1人目とカウントしています。〉
十両へ陥落見込みは北青鵬、遠藤、友風、宝富士、武将山、碧山あたりか。入幕可能性あるのは大奄美、錦富士、東白龍、狼雅、北の若、時疾風かな。
佐渡ヶ嶽親方の若い頃はそりゃイケメンでしたな。今春NHK退社予定の青井実アナに似てるかな。
第53代横綱琴櫻が現役を引退したのが 1974昭和49年7月。
それからちょうど50年の月日が流れ、お孫さんである二代琴ノ若が大関に昇進します。祖父琴櫻の十七回忌だった昨年、初場所からの6場所すべて三役の地位で連続で勝ち越しを続け、大関獲りにリーチ(聴牌)して臨んだ今場所で見事に13番も勝ちました。
先輩大関貴景勝が満身創痍、ここ最近大関になった霧島と豊昇龍はモンゴル出身。
復活優勝した照ノ富士もモンゴル出身。
曙・武蔵丸のハワイ勢の巨躯に挑んで盛り上がったガチンコ4横綱の群雄割拠最強時代から一転、朝青龍~白鵬の「モンゴル天下」となって日本人大相撲ファンがかなり冷めてしまった平成15年~平成28年の14年間。
人気者稀勢の里がようやく優勝と横綱を手にして沸いたのもつかの間、大怪我により短命横綱に終わってしまったこともあり、平成30年からは、平幕の栃ノ心・関脇御嶽海・小結貴景勝・関脇玉鷲・平幕朝乃山・幕尻の徳勝龍・関脇正代・平幕大栄翔らの初優勝が続き、毎場所初日の展望で「誰が優勝してもおかしくない」という状況が続いた後、「照ノ富士・霧馬山改め霧島・豊昇龍時代」になろうかというところで現れた
純日本人の大型力士、それも血統書つきの琴ノ若! 26歳❗
これからが楽しみです。
大関になったら「琴櫻襲名」と噂されたましたが、『父親の四股名である“琴ノ若”を歴代大関のリストに残したい。そもそも“大関琴ノ若”として土俵に立ちたい』と意思を通しました。
師匠佐渡ヶ嶽親方からすれば、こんなに親孝行なことはない!と感激しています。
琴櫻襲名は横綱昇進を果たしてから……
と、夢の続きは まだ先。
琴ノ若 大関昇進決定!
昭和の一大相撲ブーム“柏鵬時代”に「ぶちかましのデコイチ」の異名を取った元横綱琴櫻の娘が結婚した相手である先代琴ノ若。その長男として生まれた二代目琴ノ若。
相撲一家に生まれたからこそ、難しい選択を迫られる機会も多かった。小学6年時。琴ノ若は、埼玉栄中に進学したいと両親に伝えた。
すると、厳しく迫ってきたのは母真千子さんだった。
「逃げて帰ってくるようなことは、絶対にしちゃダメだからね。逃げたら、あなたの住むところはないと思いなさい」。
佐渡ケ嶽部屋は、1964年九州場所から幕内力士が在籍し続けている名門。
その1人息子が、いくら強豪相撲部とはいえ 逃げ帰ってくれば、名門の名折れとなるだけに、その覚悟を問われたのでした。
ましてや、プロの大相撲の稽古……それも角界一厳しい二所一門の荒稽稽古についていけずに逃げ出せば、親との住まいでもあった佐渡ヶ嶽部屋から出ることになり、帰るところは本当になくなる。
ただ、琴ノ若の覚悟は決まっていた。そもそも、佐渡ケ嶽親方が埼玉栄中、高にスカウトに訪れたのが縁の始まり。山田道紀監督から逆に「息子さんいらっしゃいますよね?」と返された。当時小学5年だった琴ノ若は、初対面で山田監督の人柄に心酔。「どうしても栄で相撲をやりたい」と両親に訴えた。佐渡ケ嶽親方は「逃げ道をつくると、あきらめてしまう。おかみは心を鬼にして、本人のために言っていた」と当時を振り返る。琴ノ若は埼玉栄高3年時に主将となり、全国高校総体団体優勝へ導いた。孝行息子は 常に、両親の心配を杞憂に終えていた。