大相撲のコメント部屋

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externallinkコメント一覧

大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,747件 』

  • 投稿者:Y

    増位山さをの訃報残念です。
    ちゃんこ屋根さんも行きましたし、唄は軽く唄いムーディでしたね。
    夜の世界の唄も多かったので女性ファン多かったし昨夜は増位山さんの曲唄う方が多かったです。北の富士さんも元気な時は冬子のブルースを唄ってました。
    凄くムードがあって好きでした。
    好きな方々が居なくなっていくのは本当に寂しいです。

  • 投稿者:KON

    増位山さんの内掛け
    ・・
    お父さんの初代増位山=増位山大志郎さんと同じく 相撲も上手いが絵の才能も父子揃ってとても上手で二科展の常連だった増位山太志郎さん。
     そして歌も父子揃ってとても上手で、父子で相撲甚句のCDを発売し、甚句のCDとしては異例の売り上げだった。
    相撲の話に戻ると、二代増位山の内掛けは、昭和では 戦後の琴ヶ濱と並び「内掛け名人」と称されました。
    鎌で刈り取るが如く足を飛ばす琴ヶ濱の内掛け、
    一方、増位山さんは 出し投げをうって相手の上体を崩し、相手が身構えて重心を後ろに移した瞬間、間髪入れずに内掛けを仕掛けて体を預けるというスピード感のある必殺技でした。

  • 投稿者:KON

    大相撲の元大関・2代目増位山の増位山太志郎さん=沢田昇(さわだ・のぼる)さんが15日午後2時38分、肝不全のため死去した。76歳。17日に日本相撲協会などが発表した。
    増位山さんの悲報を受け、現役当時ライバルだった元大関の琴風さんが追悼した。

    ******
    粋な力士だった。イケメンでスタイルも抜群、歌もうまかった。
    私には「まわり道」というヒット曲がありましたが、増位山さんは「そんな夕子にほれました」「そんな女のひとりごと」などが大ヒットし有線音楽大賞も受賞した。
    私なんかとは まるでレベルが違っていた。

    2人で大晦日(おおみそか)に行なわれたテレビ東京の「年忘れにっぽんの歌」に出たこともある。ライバルではない。私の歌唱法はどちらかというと正統派だと思う。増位山さんは夜の世界で働く女性が好むような、すすり泣くような歌声だった。

    日本相撲協会を65歳で定年退職する時、増位山さんに「これからどうするんですか」と聞いたことがある。すると「俺には歌があるから幸せだよ」と言っていた。
    増位山さんは女性人気もすごかった。
    私が若い頃の地方巡業は土俵が屋外にあり、支度部屋もロープでつなぎ合わせた簡易的なものだった。私が片付けを始めた時、支度部屋の奥で若い女性と肩を寄せ合っていた増位山さんと目があってしまったこともあった。いい思い出だ。
    増位山さんの相撲は立ち合いで手を出して相手の動きを止め、懐に入って内掛け、肩透かしを決める技巧派。
    過去の対戦は7勝3敗と私がまわしを取って引きつけて勝ち負けの数では圧倒した形が、負けた3番は はたき込み、掛け投げ、肩透かしと術中にはまった。
    2人とも親方になってからは「大関会」でご一緒させてもらったが、朝潮さん、旭国さん、そして増位山さんと同年代の仲間がみんな逝ってしまった。本当にさみしくて悲しい。合掌
    (元大関・琴風、スポーツ報知評論家)

  • 投稿者:匿名

    増位山太志郎さん

    増位山さんは学生時代に水泳でインターハイに出たことがあるアスリート系力士だった。
    だが同じような経歴の貴ノ花満さんが、メキシコ五輪の星と言われた才能の持ち主だっただけに、水泳の話をしようと水を向けても「俺は彼とは比較になんないから」と乗ってこなかった。
    大関になっても同部屋に大横綱の北の湖さんがいて、その陰に隠れる存在だった。

    ただマイクを握ると一変。
    増位山さんが現役を引退し記者クラブの担当親方だった頃、私が幹事役で相撲協会と記者クラブの懇親会を温泉街のホテルで開いた。

    協会からは春日野理事長(元横綱・栃錦)ら重鎮が参加。
    宴会が予想以上に盛り上がり、芸者さんの拘束時間が予定をオーバー。
    ホテルの女将さんに「花代が予算を超えてます」と泣きつかれた。
    理事長にそのことを相談すると「じゃあ、歌わせろ!!」と増位山さんにカラオケ指令が飛んだ。
    それで増位山さんが大ヒット曲の「そんな女のひとりごと」を熱唱し始めると芸者さんたちは大喜び。
    ホテル中から一般のお客さんも集まってきて、結局 花代はチャラになった。

    増位山さんの現役時代にテイチクレコードに取材に行った時には「うちで一番印税が高い(石原)裕次郎さんと同じレコード1枚あたり5円」と教えてもらった。
    理由を尋ねると「増位山さんを知らない人はいないから」と説明され、昭和の大スターと肩を並べるその存在感に驚いたことを覚えている。
    (スポニチOB、東京相撲記者クラブ会友・龍川 裕)

  • 投稿者:匿名

    元大関2代目増位山太志郎さんが亡くなりました。76歳でした。右四つからの内掛けが十八番でしたが画家として歌手としても活躍された異色の力士でしたね。場内アナウンスでは兵庫県姫路市でしたが実際は東京都の出身で実父で先代の大関増位山太志郎の出身がアナウンスされたんですね。持ち歌は『そんな夕子にほれました』『そんな女のひとりごと』『そんなナイトパブ』『男の背中』等でしたね。定年退職後に『夢の花を咲かそう』で本格的歌手活動を始めたのですが……………最近テレビで見なくて心配してたのですが残念です。天国では現役時代の対戦相手の皆さまがお待ちしてますので彼らの前でその歌声を披露してあげてください。

  • 投稿者:KON

    幕内優勝力士が千秋楽のパレードで乗車するトヨタのセンチュリーSUVのオープンカーの継続使用に“待った”がかかった? 
    12日の愛知・豊田市内でのトヨタの株主総会で豊田章男会長が株主からの質疑応答に対応。その中で日本相撲協会を退職した白鵬翔さんをバックアップすることについて聞かれ、回答の流れの中でセンチュリーの提供について1度、引き取ることを示唆した。
    なんと了見の狭い、というか、目の前しか見てないというか、会長の個人的な好き嫌いで会社のイメージの悪化など 構っちゃいないのか?
    ならば相撲協会は、日産自動車のGT-Rでもインフィニティでも好きなのを選んで大々的にアピールすればいい。また、国産車に限らず、オータニさんと繋がってるPORSCHEでもいいし、間もなくイギリスでの海外公演があるので、ロールスロイスにしてはどうでしょうか?
    フランスのブガッティがあれば、それでもいいのですが……
    やはりロールスロイスがいいかな

  • 投稿者:KON

    そして、この初優勝の直後から、本来ならマスコミの取材攻めに遭って稽古どころではなくなるはずだった “時の人” 千代の富士をマスコミから守ったのは、誰あろう……二代九重親方(=北の富士さん)でした。
    まだ口が重く、気のきいた返答ができなかった千代の富士に代わり、歴代の大相撲の親方では、春日野親方(=元栃錦)に匹敵する弁舌の軽やかさと話題の豊富さでスポーツ新聞の大相撲担当記者たちは こぞって九重部屋に通い詰め、毎日のように楽しい記事を書くことができたそうです。
    あとで聞いた話では、親方自身が大関のころに 稽古よりも 銀座で酒飲んで楽しい時間を過ごす毎日で、歌もヒットしたのでテレビ番組出演が忙しくて、またそれが楽しくて大関の地位に長居してしまい横綱へはずいぶん遠回りした……
    と言ってたそうです。
    七月名古屋場所(7月13日初日)に向けて 約4週間あまり
    「北の富士流」(村松視 著)から
    北の富士さんの裏話をいくつかご紹介しますね

  • 投稿者:KON

    北の富士流

    元千代の冨士(後の第三代目の九重親方)にインタビューしていた時のこと

    “関脇千代ノ富士、初優勝”
    北の湖vs貴ノ花 満の番組視聴率記録 50.6%を上回る大相撲史上最高の52.1%(瞬間視聴率は65.3%)を記録した瞬間でした。
     千代の富士が引退し三代目の九重親方となり、もう何年も経ってから当時の話を聞いたことがあります。 「初めての優勝パレード、国技館を出発する時もものすごい数の人で、へー、これが優勝なんだと思ったね。それよりもすごかったのが(九重)部屋に着く時だよ。
    当時、江戸川区に部屋があってね、部屋の100mぐらい手前でオープンカーを降りて歩くんだけど、もう前に進めない。後で聞いたら1万人も部屋の周りに集まっていたっていうからね。100mを30分以上かけて人をかき分けながら歩いた。
    親方(元横綱北の富士)が待っている部屋の前に到着した時には、羽織の紐がないんだよね、もぎ取られたみたいで……。
    草履は踏まれるし、大銀杏も崩れるし……。
    やっとのことで(九重)部屋に戻りましたが その夜、親方(二代目九重親方=北の富士) から『お前の人生、これから変わるぞ』と言われたのを覚えている」
    優勝の報告をひと通りし終えて 部屋の座敷で一杯呑みながらでしたが、そんな話をしてくれました。
    その答えはすぐに、わかりました。
    翌日からマスコミの記者さんたちの部屋への取材が一気に10倍になったのです。
    幸い、親方(元横綱北の富士)が記者さんたちの対応に長けていたので、自分たち力士に影響は少なかったのですが、カメラを回されての稽古に浮き足立つ力士もいましたね。
    それとテレビや新聞雑誌の取材も増えてきましたが、そこも親方が稽古の時間を割いての取材は一切断ってくれてましたので本場所の成績に影響が出ることはなく、初優勝で大関昇進し3場所で横綱昇進
    同じ年に、関脇、大関、横綱と3つの番付位置すべてで優勝したのは、大相撲史上初でした。
    初優勝した時に(九重)親方が厳しく律してくれなかったら、タニマチさんの誘いを全部受けて 有頂天になって稽古そっちのけで飲み歩いて駄目になっていたでしょう。
    つづく

  • 投稿者:KON

    訃報

    元大関で歌手の増位山太志郎さん=本名・沢田昇(さわだ・のぼる)が6月15日午後2時38分に肝不全で亡くなったことが17日、関係者への取材で分かった。東京都出身。76歳

    2度の幕内優勝など名大関として活躍した初代増位山大志郎の長男として生まれ、日大一高では水泳選手として活躍。卒業直前に力士を志願し、父の反対を押し切って父が師匠を務める三保ケ関部屋に入門した。67年初場所で初土俵、同部屋同期には北の湖がいた。70年春場所で新入幕。80年春場所で大関に昇進。初の「親子大関」で騒がれた。大関在位は7場所と短かったが、手を伸ばして相手の出足を止める独特の立ち合いや、柔軟な足腰を生かした右上手投げ、内掛けや外掛けなど多才な技を駆使して活躍した。

    81年春場所で引退し年寄「小野川」を襲名、84年に三保ケ関部屋を継承した。また日本相撲協会の審判部副部長などを務めた。

    土俵以外でも多芸多才ぶりを発揮し1972年に「いろは恋唄」で歌手デビュー。
    1974年「そんな夕子にほれました」、77年「そんな女のひとりごと」などをヒットさせた。
    1978年の第11回日本有線大賞では同曲で有線音楽賞とベストヒット賞を受賞。

    また、画家としても父親(初代増位山)の血を引き継いで才能を発揮、二科展入選の常連でした。

    2013年11年に日本相撲協会を定年退職。本格的に歌手活動を開始してました。

  • 投稿者:匿名

    元大関増位山で元三保ヶ関親方の沢田昇氏が亡くなりました。
    76歳でした。
    史上初の親子大関で歌手としても活躍し、数々のヒット曲を生み出しました。

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