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14歳の少年には、上京初日にあまりにも刺激が強すぎました。 「大変なところに来てしまった」と思っても、もうどうすることもできません。親元を離れ不安な中で、これからどのように生活していくのか、いけるのか。 出羽海部屋での生活に慣れていくのにも時間はかかりました。 「慣れる前に、やっぱりつらかったねえ。食べる順番がやっと回ってきたら、おかずはないんだよね。寝ようと思っても、布団は油くさいし汚いし湿っているし……。稽古場の上がり座敷の板の間に、何人か並んで寝かされて、それはもう寒くてねえ。もう最初の晩から泣いてたよね。 どうだろう、ひと月ぐらいかな、毎晩のように、北海道を思い出しましたよ。生まれ育った北海道の楽しいことばかりが目に浮かぶよね。夏は川で泳いで、冬は山でスキー。勉強もせず、遊んでばかりいたからねえ。楽しかった。それを思い出すと帰りたいよね。歩いてでも帰りたかった。でも海があるから無理だよね。もし帰れたとしても、旭川で見送ってくれた両親や友達に合わせる顔がない。旭川駅のホームには、三橋美智也の『リンゴ村から』って曲が流れてたと思うよ。万歳三唱で送り出してもらったからね。まさに出征兵みたいなもんですよ。逃げて帰れるはずもなかったね。これから東京でね、こんな相撲部屋生活が続くわけだから、遊ぶなんてことは考えられないって思うと悲しかったねえ。 14歳、まだ子どもですよ。今、思い出してもつらかったよね。まあ、それでも3〜4年経ったら、少し遊びを覚えてきたけどね」 話に「落ち」を付けるのも北の富士さんの名人芸でした
つづき 特別大きな兄弟子の後ろをしばらく歩くと、千代の山関の自宅に到着します。立派な屋敷でした。兄弟子は「ここが、横綱の自宅だ」と言って帰って行きました。勝昭少年は玄関を開けて中に入ります。 「そこでまた二度目のびっくりですよ。応接間に通されて、しばらく待っていたら、風呂上がりらしき千代の山関が入ってきた。髪の毛はバーッと垂らした洗い髪でね。腰にバスタオルを巻いてね。当時はバスタオルなんて言葉はなかったかな。上半身裸で現れた。旭川の巡業で会った千代の山関は、痩せてガリガリに見えたんだけどね。それがこの時見ると、筋肉質のごっつい体だった。その体を見た時は、驚いたねえ。すごい体だなあって。しかも、マゲも結っていなかった。何より、顔もすごいしね。髪の毛を垂らすと、まさに鬼ですよ。鬼瓦みたいで、うん。今度こそ、もう帰ろうと思ったね。人間とは思えないもんね、ほんとに……。驚いたの何のって」 つづく
最後まで残って小豆を集めてくれたおじさんが、声をかけてくれてね。『にいちゃん、歳はいくつだ?』『14歳です』『学生服に下駄か、背が高いなあ。ん? ひょっとして相撲に行くのか?』『はい、これから出羽海部屋に入門します』『そうか。俺、相撲が大好きなんだよ。頑張れよ。名前は何ていうんだ?』『竹澤勝昭です』『そうか、竹澤くんか。わかった。応援してやるぞ。強くなれよ』ってね。もうねえ、涙をこらえるのに大変だったですよ。旭川を出る時に、『東京は怖いところだから気をつけろ』ってね、さんざん言われたけど、いきなりいい人ばかりでね。安心したのを憶えてますよ」 えらいところに来てしまった 竹澤勝昭少年は、3つの麻袋を担いで、出羽海部屋の門をたたきます。 「部屋に着いて『ごめんください』って言ったらね、それはもう、今までに見たことがないようなデカい人がぬうっと出てきた。後で知ったけど、前の年に入門した風ヶ峰 (当時序二段・のちの風ヶ峯)っていう兄弟子でね、背が2メートルぐらいはあった、うん。もうびっくりしたの何のってね。入門当時、俺は1メートル80センチ足らずだったんだけど、田舎にいた時は、俺より大きい人はほとんどいなかったからねえ。こんなデカい人間がいるんだって、もう驚いてね。こんな人と相撲を取るなんて考えられない。すぐ北海道に帰りたくなった。これはえらいところに来てしまったなってね。そうは言っても帰るわけにもいかない。仕方がないから『千代の山関に会いたい』って言うとね、『千代の山関は自宅にいる』と言って、その2メートルの兄弟子が、これまたデカい下駄を履いて、親切に案内してくれたんだよね つづく
つづき 赤いダイヤ そうそう、「はじめに」で触れた、北の富士さんが上京した時の物語、その続きを記しておかなければなりません。北の富士さんの上京日に、私が生まれたことを初めて伝えた時のことです。 「えっ? 藤井さん、その日に生まれたの? へー、1月7日の朝? そうなの。これは大変な奇跡だねえ。いやあ、縁があるんだねえ」 そこから話は広がります。 青函連絡船に「死ぬかと思った」ほど揺られ、たどり着いた青森。そこから夜行列車に乗り、上野駅を目指しました。 「14歳でしょ。元気なつもりでいたけど、青森に着いたら立っていることもできなかった。ふらふらだったねえ。そこから夜行列車。疲れてずいぶん眠ったと思うよ。上野に着いたら、少し明るくなってた。ところが、ここで失敗しちゃってねえ。改札口を間違えて、動物園側に出てしまった。坂があったんだよね。そこですってんころりんですよ。旭川を出る時におふくろから白い麻袋を3つ渡されて担いできた。転んだ瞬間に、そのうちのひとつをバアーっとぶちまけてしまって……。中身は、小豆ですよ。当時『赤いダイヤ』と言われて、それはもう高価なものだったんですよ」 雪が積もっていたわけではありません。 「旭川で下駄の裏に鋲を打ってもらってね。それが裏目に出たかな。坂道で滑ったんだよ。小豆の3つの袋、ひとつはこれから世話になる出羽海部屋に、ひとつは相撲界に誘ってもらった千代の山関に、そしてもうひとつは東京まで案内してくれたおじさんの知り合いで、これからお世話になる人に……。金もないのにねえ、おふくろが持たせてくれた土産だったんですよ。そのままにしておけないでしょ。大変なことになったと思いながら、少しでもと思って、散らばった小豆を集めようとした。そうしたらね、上野駅に向かう人、改札口から出てくる人、通勤の人たちが大勢集まってくれて、一緒になって手伝ってくれてね。ぶちまけたひとつの袋にかなりの小豆が戻ってきた。砂もずいぶん混ざってたけどね」 当時の情景が目に浮かびます。北の富士さんの昔話には、惹きつけられる技があります。早くその先を聞きたくなります。 つづく
天皇杯・全日本相撲選手権 日大一年・鮫島輝選手 優勝おめでとうございます! 金沢学院大学主将・大森康弘選手 惜しくも準優勝でしたが ゴッツイ体(ガタイ)で投げ技など ゴッツイ相撲で面白いです! これからも頑張って下さい♪
千代の富士は、上がり座敷の中央に座る師匠に「おはようございます」と挨拶をした後、土俵の外でゆっくりと体を動かし始めました。それと同時に、北勝海をはじめ孝乃富士、富士乃真といった関取衆が順に、柄杓の水を千代の富士に差し出します。「今日も胸を借ります。よろしくお願いします」、そんな意味を込めた「力水」です。 千代の富士は、口に含んだ少量の水を足元に吐き出すと、おもむろに準備運動に入りました。広げた大きめのバスタオルの上で股割り、そして柔軟体操、その後ゆったりと四股を踏みます。そして、すり足、てっぽうなど、いつもの念入りな動きです。 それから、わずかな時が流れました。すると、座敷の中央に胡坐をかいていた北の富士さんが、突然立ち上がります。そして、少し後ろに座っていた私に話しかけます。座敷には、後援者や近所の人たち十数人が腰を下ろし、シーンとした中で稽古を見つめていました。 「ちょっと出てくるから、藤井さん、稽古を見ていて……」 それだけ言い残すと、稽古場を出て行きました。「ちょっと出てくる」という言葉から、ほんの少しの時間だと思っていました。ところが、30分経っても40分経っても帰ってきません。 1時間以上は経過していました。千代の富士が土俵に入り、孝乃富士や富士乃真を相手に稽古を始めた頃です。ようやく北の富士さんが稽古場に戻ってきました。トレーニングウェアに帽子を被り、タオルで汗を拭いながらの再登場です。稽古場の上がり座敷で稽古を見学する人たちのほとんどが、その姿を見てあっけに取られていました。 稽古の後、親方に訊きました。「親方、ジョギングですか? 稽古中に?」 つづく
弟弟子の保志(のちの61代横綱・北勝海、現・八角理事長)は三役に定着し、大関の地位が近づいてきている時です。準備運動の後、ふたりが数番だけ相撲を取りました。バチーンとぶつかり合う音にも度肝を抜かれました。 稽古が終わり、北の富士さんに名刺を差し出し挨拶をすると、気さくな言葉が返ってきました。 「ああ、こちらこそよろしく。NHKには、いろんな先輩がいるからねえ、話を聞いて勉強してくださいよ。うちの稽古場で良ければいつでもいらっしゃい。場所中じゃないほうが、稽古場らしくていいと思いますよ」 この程度の会話でしたが、小学生の頃からテレビで観ていた横綱と、初めて面と向かって話をしました。しかも、颯爽と土俵に立っていた、あの横綱・北の富士です。今の言葉でいえば、強烈な「オーラ」に圧倒される思いでした。緊張のあまり、名刺を差し出す手も、少し震えていた気がします。 それから2年ほど経った頃のことです。北の富士さんにも「NHKの藤井」と覚えていただき、本場所中や稽古場でも、ある程度の会話はできるようになっていました。 さて、1987昭和62年三月場所前、当時、大阪府羽曳野市にあった九重部屋の宿舎にお邪魔して、朝稽古を取材していました。上がり座敷の中央には、北の富士さんが胡坐をかいて、稽古を見つめています。この日は、君ヶ濱親方(元関脇・北瀬海)の姿はありません。まだ幕下以下の「若衆(わかいしゅう)」と呼ばれる力士たちが、次から次へと土俵に入り、泥だらけになって汗を流していました。 そこに突然、横綱・千代の富士が姿を見せます。すると、稽古場の空気が一変しました。大関の北勝海や他の力士たちが、すかさず「まーっし」と挨拶をします。「おはようございます」の語尾の「まーす」だけを発音する相撲界独特の挨拶の言葉です。 つづく
元NHKアナウンサーで、長く大相撲中継の実況を担当した藤井康生さんの新刊『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』が11月26日に発売になりました。実況と解説でコンビを組み、最も尊敬する52代横綱・北の富士勝昭さんについて描いたノンフィクション。 今回は、北の富士さんの上京の日(この日は著者の誕生日でもあった!)について、本書の「1章 出会い」の一部抜粋、再構成してお届けする。 北の富士さんの「ちょっと出てくる」の意味 北の富士さんとの出会いは、1985昭和60年三月場所の最中でした。 私はNHK大相撲中継の一員となって、朝稽古の取材も自由にできるようになっていました。千代の富士が横綱(58代)に昇進して4年目です。優勝回数も2桁に乗せ、充実期を迎えようとしていました。 この時、生まれて初めて、横綱の稽古を目の前で観ました。後で思えば、場所中でしたから、横綱・千代の富士にとっては軽く汗を流す程度だったと思います。それでも、その迫力に圧倒されたのを憶えています。 つづく
日本相撲協会は27日、東京・両国国技館で定例の理事会を開き、元大関貴景勝の湊川親方が 常盤山部屋を継承し、2026年1月26日付で部屋を湊川部屋に改称することを承認した。 常盤山親方(元小結隆三杉)は来年3月1日に65歳の誕生日を迎えるため、師匠としての定年が迫っていましたので、常盤山部屋は、来年1月の初場所が最後になります。 1月26日付で、常盤山親方は湊川部屋の部屋付き親方になるとのこと。 湊川部屋とは 江戸後期の1837天保8年10月、雷部屋の四海浪 吉五郎改め由良ノ海 楫五郎が二枚鑑札として湊川 由三郎を名乗り湊川部屋を興して幕内力士などを育て上げました。 大正から昭和にかけて湊川部屋は閉鎖されたり再興されたりを繰り返しましたが、1965昭和40年1月に部屋を閉じて、現在に至ってました。
冬巡業休場 九州場所千秋楽で休場した横綱大の里(25=二所ノ関)ら10力士の休場と発表されました。 横綱 大の里 小結 高安 前頭 伯桜鵬 前頭 若隆景 前頭 宇良 前頭 狼雅 前頭 明生 十両 日翔志 十両 琴栄峰 十両 三田 ・・・ 人気力士が軒並み休場となり、地元へやってくる巡業を楽しみにしてチケットを買い求めたファンには残念なお知らせですねぇ 怪我などての故障箇所をしっかり治して正月初場所で元気な相撲を魅せて欲しいです
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 2,246件 』
14歳の少年には、上京初日にあまりにも刺激が強すぎました。
「大変なところに来てしまった」と思っても、もうどうすることもできません。親元を離れ不安な中で、これからどのように生活していくのか、いけるのか。
出羽海部屋での生活に慣れていくのにも時間はかかりました。
「慣れる前に、やっぱりつらかったねえ。食べる順番がやっと回ってきたら、おかずはないんだよね。寝ようと思っても、布団は油くさいし汚いし湿っているし……。稽古場の上がり座敷の板の間に、何人か並んで寝かされて、それはもう寒くてねえ。もう最初の晩から泣いてたよね。
どうだろう、ひと月ぐらいかな、毎晩のように、北海道を思い出しましたよ。生まれ育った北海道の楽しいことばかりが目に浮かぶよね。夏は川で泳いで、冬は山でスキー。勉強もせず、遊んでばかりいたからねえ。楽しかった。それを思い出すと帰りたいよね。歩いてでも帰りたかった。でも海があるから無理だよね。もし帰れたとしても、旭川で見送ってくれた両親や友達に合わせる顔がない。旭川駅のホームには、三橋美智也の『リンゴ村から』って曲が流れてたと思うよ。万歳三唱で送り出してもらったからね。まさに出征兵みたいなもんですよ。逃げて帰れるはずもなかったね。これから東京でね、こんな相撲部屋生活が続くわけだから、遊ぶなんてことは考えられないって思うと悲しかったねえ。
14歳、まだ子どもですよ。今、思い出してもつらかったよね。まあ、それでも3〜4年経ったら、少し遊びを覚えてきたけどね」
話に「落ち」を付けるのも北の富士さんの名人芸でした
つづき
特別大きな兄弟子の後ろをしばらく歩くと、千代の山関の自宅に到着します。立派な屋敷でした。兄弟子は「ここが、横綱の自宅だ」と言って帰って行きました。勝昭少年は玄関を開けて中に入ります。
「そこでまた二度目のびっくりですよ。応接間に通されて、しばらく待っていたら、風呂上がりらしき千代の山関が入ってきた。髪の毛はバーッと垂らした洗い髪でね。腰にバスタオルを巻いてね。当時はバスタオルなんて言葉はなかったかな。上半身裸で現れた。旭川の巡業で会った千代の山関は、痩せてガリガリに見えたんだけどね。それがこの時見ると、筋肉質のごっつい体だった。その体を見た時は、驚いたねえ。すごい体だなあって。しかも、マゲも結っていなかった。何より、顔もすごいしね。髪の毛を垂らすと、まさに鬼ですよ。鬼瓦みたいで、うん。今度こそ、もう帰ろうと思ったね。人間とは思えないもんね、ほんとに……。驚いたの何のって」
つづく
最後まで残って小豆を集めてくれたおじさんが、声をかけてくれてね。『にいちゃん、歳はいくつだ?』『14歳です』『学生服に下駄か、背が高いなあ。ん? ひょっとして相撲に行くのか?』『はい、これから出羽海部屋に入門します』『そうか。俺、相撲が大好きなんだよ。頑張れよ。名前は何ていうんだ?』『竹澤勝昭です』『そうか、竹澤くんか。わかった。応援してやるぞ。強くなれよ』ってね。もうねえ、涙をこらえるのに大変だったですよ。旭川を出る時に、『東京は怖いところだから気をつけろ』ってね、さんざん言われたけど、いきなりいい人ばかりでね。安心したのを憶えてますよ」
えらいところに来てしまった
竹澤勝昭少年は、3つの麻袋を担いで、出羽海部屋の門をたたきます。
「部屋に着いて『ごめんください』って言ったらね、それはもう、今までに見たことがないようなデカい人がぬうっと出てきた。後で知ったけど、前の年に入門した風ヶ峰 (当時序二段・のちの風ヶ峯)っていう兄弟子でね、背が2メートルぐらいはあった、うん。もうびっくりしたの何のってね。入門当時、俺は1メートル80センチ足らずだったんだけど、田舎にいた時は、俺より大きい人はほとんどいなかったからねえ。こんなデカい人間がいるんだって、もう驚いてね。こんな人と相撲を取るなんて考えられない。すぐ北海道に帰りたくなった。これはえらいところに来てしまったなってね。そうは言っても帰るわけにもいかない。仕方がないから『千代の山関に会いたい』って言うとね、『千代の山関は自宅にいる』と言って、その2メートルの兄弟子が、これまたデカい下駄を履いて、親切に案内してくれたんだよね
つづく
つづき
赤いダイヤ
そうそう、「はじめに」で触れた、北の富士さんが上京した時の物語、その続きを記しておかなければなりません。北の富士さんの上京日に、私が生まれたことを初めて伝えた時のことです。
「えっ? 藤井さん、その日に生まれたの? へー、1月7日の朝? そうなの。これは大変な奇跡だねえ。いやあ、縁があるんだねえ」
そこから話は広がります。
青函連絡船に「死ぬかと思った」ほど揺られ、たどり着いた青森。そこから夜行列車に乗り、上野駅を目指しました。
「14歳でしょ。元気なつもりでいたけど、青森に着いたら立っていることもできなかった。ふらふらだったねえ。そこから夜行列車。疲れてずいぶん眠ったと思うよ。上野に着いたら、少し明るくなってた。ところが、ここで失敗しちゃってねえ。改札口を間違えて、動物園側に出てしまった。坂があったんだよね。そこですってんころりんですよ。旭川を出る時におふくろから白い麻袋を3つ渡されて担いできた。転んだ瞬間に、そのうちのひとつをバアーっとぶちまけてしまって……。中身は、小豆ですよ。当時『赤いダイヤ』と言われて、それはもう高価なものだったんですよ」
雪が積もっていたわけではありません。
「旭川で下駄の裏に鋲を打ってもらってね。それが裏目に出たかな。坂道で滑ったんだよ。小豆の3つの袋、ひとつはこれから世話になる出羽海部屋に、ひとつは相撲界に誘ってもらった千代の山関に、そしてもうひとつは東京まで案内してくれたおじさんの知り合いで、これからお世話になる人に……。金もないのにねえ、おふくろが持たせてくれた土産だったんですよ。そのままにしておけないでしょ。大変なことになったと思いながら、少しでもと思って、散らばった小豆を集めようとした。そうしたらね、上野駅に向かう人、改札口から出てくる人、通勤の人たちが大勢集まってくれて、一緒になって手伝ってくれてね。ぶちまけたひとつの袋にかなりの小豆が戻ってきた。砂もずいぶん混ざってたけどね」
当時の情景が目に浮かびます。北の富士さんの昔話には、惹きつけられる技があります。早くその先を聞きたくなります。
つづく
天皇杯・全日本相撲選手権
日大一年・鮫島輝選手
優勝おめでとうございます!
金沢学院大学主将・大森康弘選手
惜しくも準優勝でしたが
ゴッツイ体(ガタイ)で投げ技など
ゴッツイ相撲で面白いです!
これからも頑張って下さい♪
千代の富士は、上がり座敷の中央に座る師匠に「おはようございます」と挨拶をした後、土俵の外でゆっくりと体を動かし始めました。それと同時に、北勝海をはじめ孝乃富士、富士乃真といった関取衆が順に、柄杓の水を千代の富士に差し出します。「今日も胸を借ります。よろしくお願いします」、そんな意味を込めた「力水」です。
千代の富士は、口に含んだ少量の水を足元に吐き出すと、おもむろに準備運動に入りました。広げた大きめのバスタオルの上で股割り、そして柔軟体操、その後ゆったりと四股を踏みます。そして、すり足、てっぽうなど、いつもの念入りな動きです。
それから、わずかな時が流れました。すると、座敷の中央に胡坐をかいていた北の富士さんが、突然立ち上がります。そして、少し後ろに座っていた私に話しかけます。座敷には、後援者や近所の人たち十数人が腰を下ろし、シーンとした中で稽古を見つめていました。
「ちょっと出てくるから、藤井さん、稽古を見ていて……」
それだけ言い残すと、稽古場を出て行きました。「ちょっと出てくる」という言葉から、ほんの少しの時間だと思っていました。ところが、30分経っても40分経っても帰ってきません。
1時間以上は経過していました。千代の富士が土俵に入り、孝乃富士や富士乃真を相手に稽古を始めた頃です。ようやく北の富士さんが稽古場に戻ってきました。トレーニングウェアに帽子を被り、タオルで汗を拭いながらの再登場です。稽古場の上がり座敷で稽古を見学する人たちのほとんどが、その姿を見てあっけに取られていました。
稽古の後、親方に訊きました。「親方、ジョギングですか? 稽古中に?」
つづく
弟弟子の保志(のちの61代横綱・北勝海、現・八角理事長)は三役に定着し、大関の地位が近づいてきている時です。準備運動の後、ふたりが数番だけ相撲を取りました。バチーンとぶつかり合う音にも度肝を抜かれました。
稽古が終わり、北の富士さんに名刺を差し出し挨拶をすると、気さくな言葉が返ってきました。
「ああ、こちらこそよろしく。NHKには、いろんな先輩がいるからねえ、話を聞いて勉強してくださいよ。うちの稽古場で良ければいつでもいらっしゃい。場所中じゃないほうが、稽古場らしくていいと思いますよ」
この程度の会話でしたが、小学生の頃からテレビで観ていた横綱と、初めて面と向かって話をしました。しかも、颯爽と土俵に立っていた、あの横綱・北の富士です。今の言葉でいえば、強烈な「オーラ」に圧倒される思いでした。緊張のあまり、名刺を差し出す手も、少し震えていた気がします。
それから2年ほど経った頃のことです。北の富士さんにも「NHKの藤井」と覚えていただき、本場所中や稽古場でも、ある程度の会話はできるようになっていました。
さて、1987昭和62年三月場所前、当時、大阪府羽曳野市にあった九重部屋の宿舎にお邪魔して、朝稽古を取材していました。上がり座敷の中央には、北の富士さんが胡坐をかいて、稽古を見つめています。この日は、君ヶ濱親方(元関脇・北瀬海)の姿はありません。まだ幕下以下の「若衆(わかいしゅう)」と呼ばれる力士たちが、次から次へと土俵に入り、泥だらけになって汗を流していました。
そこに突然、横綱・千代の富士が姿を見せます。すると、稽古場の空気が一変しました。大関の北勝海や他の力士たちが、すかさず「まーっし」と挨拶をします。「おはようございます」の語尾の「まーす」だけを発音する相撲界独特の挨拶の言葉です。
つづく
元NHKアナウンサーで、長く大相撲中継の実況を担当した藤井康生さんの新刊『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』が11月26日に発売になりました。実況と解説でコンビを組み、最も尊敬する52代横綱・北の富士勝昭さんについて描いたノンフィクション。
今回は、北の富士さんの上京の日(この日は著者の誕生日でもあった!)について、本書の「1章 出会い」の一部抜粋、再構成してお届けする。
北の富士さんの「ちょっと出てくる」の意味
北の富士さんとの出会いは、1985昭和60年三月場所の最中でした。
私はNHK大相撲中継の一員となって、朝稽古の取材も自由にできるようになっていました。千代の富士が横綱(58代)に昇進して4年目です。優勝回数も2桁に乗せ、充実期を迎えようとしていました。
この時、生まれて初めて、横綱の稽古を目の前で観ました。後で思えば、場所中でしたから、横綱・千代の富士にとっては軽く汗を流す程度だったと思います。それでも、その迫力に圧倒されたのを憶えています。
つづく
日本相撲協会は27日、東京・両国国技館で定例の理事会を開き、元大関貴景勝の湊川親方が 常盤山部屋を継承し、2026年1月26日付で部屋を湊川部屋に改称することを承認した。
常盤山親方(元小結隆三杉)は来年3月1日に65歳の誕生日を迎えるため、師匠としての定年が迫っていましたので、常盤山部屋は、来年1月の初場所が最後になります。
1月26日付で、常盤山親方は湊川部屋の部屋付き親方になるとのこと。
湊川部屋とは
江戸後期の1837天保8年10月、雷部屋の四海浪 吉五郎改め由良ノ海 楫五郎が二枚鑑札として湊川 由三郎を名乗り湊川部屋を興して幕内力士などを育て上げました。
大正から昭和にかけて湊川部屋は閉鎖されたり再興されたりを繰り返しましたが、1965昭和40年1月に部屋を閉じて、現在に至ってました。
冬巡業休場
九州場所千秋楽で休場した横綱大の里(25=二所ノ関)ら10力士の休場と発表されました。
横綱 大の里
小結 高安
前頭 伯桜鵬
前頭 若隆景
前頭 宇良
前頭 狼雅
前頭 明生
十両 日翔志
十両 琴栄峰
十両 三田
・・・
人気力士が軒並み休場となり、地元へやってくる巡業を楽しみにしてチケットを買い求めたファンには残念なお知らせですねぇ
怪我などての故障箇所をしっかり治して正月初場所で元気な相撲を魅せて欲しいです