大相撲のコメント部屋

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応援コメント一覧 全2,720件

  1. #155335 | KON |
    ペロッと口を滑らせた北の富士さんが慌てて…… 1953年の入局以来、70年以上にわたって相撲の魅力を伝え続けてきた元NHKアナウンサーの杉山邦博氏。歴史の生き証人ともいえる杉山氏が、相撲ジャーナリストの荒井太郎氏を聞き手に昭和の名場面の数々を振り返る『杉山アナのアンチ巨人、大鵬、卵焼き』(大空出版)より、「大横綱の引き際」について語った章を抜粋 荒井さん、、、 平成3年夏場所初日の千代の富士 対 貴花田の一番は、大相撲史における時代の変わり目となった象徴的な相撲でした。 千代の富士35歳「貴花田18歳に負けて引退」は本当か? 実は違った “最後の対戦相手”…元NHK名物アナが語る大横綱の引き際 杉山邦博氏+荒井太郎氏 杉山さん………… 横綱千代の富士が負けましたけど、1月、3月ごろから千代の富士と貴花田(のちの貴乃花)、両者はいつ当たるんだろう、早く見たいというのはあちこちから望まれていたんですね。 当時の鏡山審判部長(元横綱柏戸)が何日目に対戦させるかというのを、審判部みんなに訊ね、あれこれ詮索していました。そこで最終的に、鏡山さんが、「俺の決断で決めた!」ってことを何度も本人の口から聞いています。「初日しかない! そう思って俺が決めた。どちらかが一つでも黒星がついたり、何かあったりとかそういう状況じゃなくて、まっさらな状況で2人が対戦するほうが綺麗だ」と。 これは鏡山さん、さすがですよ。ほかの審判部長だったらどうか分かりません。それであのタイミングで実現したんですけど、負けた千代の富士はその日には引退しなかったんだよね。 荒井さん………… 慣例でいくと初日の横綱の対戦相手は、違う方屋の小結となるところですね。この場所は4横綱ですが東西の正横綱である北勝海、大乃国が初日から休場なので、西の張出横綱だった千代の富士は東小結の寺尾あたりになるところでしたが、あえて西前頭筆頭の18歳9カ月の貴花田をもってきた。これは鏡山審判部長の大英断です。 結果的にこの一番で、貴花田が今も破られていない史上最年少金星を挙げることになります。 取組前に千代の富士さんは「負けても引退しないよ」と言っていたんですがね(笑)。このとき千代の富士さん 35歳11カ月です。 実は「貴闘力に負けて引退」でしたが… 杉山さん………… 三日目に貴闘力に負けて引退を表明しましたね。ただ、貴乃花に負けて引退したって、みんなそういうふうに書いたり言ったりしています。それでいいんじゃないですか。そっちのほうが時代を象徴しているし、綺麗ですから。 荒井さん………… 僕は実際に千代の富士さんにインタビューしたとき、やはり貴花田に負けて引退を決意したと言っていました。 杉山さん………… それでいいと思いますよ。 貴闘力関のことは、かき消されてしまいましたけどね。 荒井さん………… これも余談ですが、千代の富士の引退表明は師弟とも話して四日目の予定だったらしいですが、三日目の夜に急遽、親方の北の富士さんがマスコミに喋ってしまったんで、このタイミングになったそうです。自宅でテレビを見ていたら、「千代の富士引退」というテロップが出て、千代の富士さん本人が一番驚いたそうです(笑)。それで急いで部屋に駆けつけたとおっしゃっていました。 杉山さん…… マスコミが大挙して部屋に押しかけていましたからね。北の富士さんも収拾がつかずに言ってしまったんでしょう。 ………… ついつい、リップサービスが度を越してしまい、まだ発表すべきでないことなのに口を滑らせてしまうドジャースのロバーツ監督みたいですね
  2. #155322 | KON |
    横綱豊昇龍(27)=立浪=が8月19日、両国国技館内で行なわれた定期健康診断に訪れ、途中休場した名古屋場所後に右膝を手術したことを明かしました。  千秋楽翌日の7月27日に都内の病院を受診し「手術しなければ復帰に1年かかると言われた。こんなひどいとは思わなかった」と語った。 同29日に靱帯を修復する手術を受け、1週間入院した。  名古屋場所は14日目から途中休場。 「蹲踞もできないくらいだった」と明かした。 「早く復帰できるようにしたい。ファンの方には合わす顔がない」と語りました。 秋場所の出場は厳しい見通しだという。
  3. #155316 | KON |
    北の富士さんvs玉の海関 1966年9月 千秋楽 ●(5)‐ ○(8) ㊝大鵬 北の富士、大関昇進 1966年11月 11日目 ●(5)‐ ○(9) ㊝大鵬 玉乃島、大関昇進 1967年1月 11日目 ○(6)‐ ●(9) ㊝大鵬 1967年3月 10日目 ○(7)‐ ●(9) ㊝北の富士(1) 1967年5月 12日目 ○(8)‐ ●(9) ㊝大鵬 1967年7月 千秋楽 ○(9)‐ ●(9) ㊝柏戸 1967年9月 千秋楽 ○(10)‐ ●(9) ㊝大鵬 1967年11月 11日目 ●(10)‐ ○(10) ㊝佐田の山 1968年1月 11日目 ●(10)‐ ○(11) ㊝佐田の山 1968年3月 13日目 ●(10)‐ ○(12) ㊝若浪 1968年5月 13日目 ●(10)‐ ○(13) ㊝玉乃島(1) 1968年7月 12日目 ○(11)‐ ●(13) ㊝琴桜 1968年9月 10日目 ●(11)‐ ○(14) ㊝大鵬 1968年11月 千秋楽 ○(12)‐ ●(14) ㊝大鵬 1969年1月 千秋楽 ○(13)‐ ●(14) ㊝大鵬 1969年3月 12日目 ●(13)‐ ○(15) ㊝琴桜 1969年5月 10日目 ○(14)‐ ●(15) ㊝大鵬 1969年7月 10日目 ○(15)‐ ●(15) ㊝清国 1969年9月 11日目 ●(15)‐ ○(16) ㊝玉乃島(2) 1969年11月 千秋楽 ○(16)‐ ●(16) ㊝北の富士(2) 1970年1月 千秋楽 ●(16)‐ ○(17) ㊝北の富士(3) 千秋楽北の富士1敗、玉乃島2敗で対戦 優勝決定戦は北の富士勝利。 1970年3月 千秋楽 ○(17)‐ ●(17) ㊝大鵬 北の富士、玉乃島とも横綱に昇進 1970年5月 13日目 ○(18)‐ ●(17) ㊝北の富士(4) 1970年7月 千秋楽 ○(19)‐ ●(17) ㊝北の富士(5) 1970年9月 千秋楽 ○(20)‐ ●(17) ㊝玉の海(3) 1970年11月 13日目 ●(20)‐ ○(18) ㊝玉の海(4) 1971年1月 13日目 ●(20)‐ ○(19) ㊝大鵬 1971年3月 13日目 ●(20)‐ ○(20) ㊝玉の海(5) 1971年5月 千秋楽 ○(21) ‐●(20) ㊝北の富士(6) 千秋楽北の富士全勝、玉の海1敗で対戦 1971年7月 千秋楽 ●(21)‐ ○(21) ㊝玉の海(6) 1971年9月 千秋楽 ○(22)‐ ●(21) ㊝北の富士(7) 最後の対戦 両者横綱昇進以前の対戦成績(1970年1月場所まで)は、玉の海の17勝16敗。 両者横綱同士の対戦成績(1970年3月場所以降)は、北の富士の6勝4敗。 大鵬が、最後となる32回目の優勝を果たした1971年1月初場所後4場所は、玉の海と北の富士が交互に優勝を重ねた。 特に、1971年7月名古屋場所では、玉の海が自身初にして結果的には最後となる全勝優勝を果たした一方で、北の富士は8勝に終わるという明暗が分かれたが、翌9月秋場所では、逆に北の富士が千秋楽で玉の海を破り全勝優勝を達成、これ以上ない復活を果たしたのでした。 つづく
  4. #155315 | KON |
    北の富士さんと玉の海関 4 両者の対戦は、1964年5月場所 - 1971年9月場所の45場所間に43回実現、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。 場所 対戦日 北の富士勝敗 (通算成績) 玉の海勝敗 (通算成績) ㊝優勝力士 備考 初対戦 1964年5 千秋楽 ●(0)‐ ○(1)㊝ 栃ノ海 1964年7月- - ㊝富士錦 北玉の両者の対戦はなし。 1964年9月 7日目 ●(0)‐ ○(2) ㊝大鵬 1964年11月 4日目 ○(1)‐ ●(2) ㊝大鵬 1965年1月 14日目 ○(2)‐ ●(2) ㊝佐田の山 1965年3月13日目 ●(2)‐ ○(3) ㊝大鵬 1965年5月8日目 ○(3)‐ ●(3) ㊝佐田の山 1965年7月 11日目 ○(4)‐ ●(3) ㊝大鵬 1965年9月 3日目 ●(4)‐ ○(4) ㊝柏戸 1965年11月 9日目 ●(4)‐ ○(5) ㊝大鵬 1966年1月- - -㊝ 柏戸 北玉の対戦なし。 1966年3月 2日目 ●(4)‐ ○(6) ㊝大鵬 1966年5月 14日目 ●(4)‐ ○(7) ㊝大鵬 1966年7月 千秋楽 ○(5)‐ ●(7) ㊝大鵬 つづく
  5. #155312 | KON |
    北の富士さんと玉の海関 3 、、、、 玉の海関が初の全勝優勝を御当地名古屋で飾った場所での千秋楽、 この場所の北の富士さんは8勝6敗と成績は上がらなかったが、千秋楽玉の海との横綱決戦は3分近い大熱戦となった。 立ち合い、突っ張った北の富士さんが得意の左差しで、右上手を引き、玉の海関は上手が取れない。上手をさぐるところを、上手投げで揺さぶられ、まわしに手が届かない。 だが、北の富士の寄りを、左からの下手投げを打って残し、上手をつかむ。 玉の海関は、腰を振り北の富士さんの上手を切ると、一気に寄り切った。 大熱戦の攻防に館内が大いに沸く中、お互いの健闘を讃えるかのように目を合わせて 少しうなづき合い、東西に分かれました。 駄目押しなんてものは二人の相撲には存在しない。品格のある “まさに大相撲”でした。 北の富士さんは左差しの脇が厳しく、必ずと言っていいほど得意の左四つに持ち込んでましたが、左四つでも相撲が取れる玉の海関とは毎場所毎場所好勝負となっていました。 つづく
  6. #155269 | KON |
    北の富士さんと玉の海関 2 ……仲良しとなった盟友玉の海関とは意外な共通点がありました。 豪放磊落というか派手な振る舞いが目立った北の富士さんに対して玉の海関は無口で質実剛健……というイメージを持たれてましたが、実は………… 玉の海関は 明るく気さくな性格。 趣味もプロ顔負けの腕前だったギターのほか、コンスタントに200点以上をたたき出していたボウリング、そして数々のスポーツカーでのドライブ……と趣味も多彩だった。…… 乗り回していた車は、カマロにはじまり、マーキュリー、クーガと乗り換え、どれもドアは運転席と助手席側しかない2ドアタイプ。同乗する付け人の浅間海らは、大きな体を折り曲げて後部座席に座らなければならなかった」(「大相撲」誌1997年11月号) 1970昭和45年に二人で横綱に同時昇進し、横綱経験者だけが参加できる「横綱会」に初参加した際には、 新横綱のしきたりである一芸披露において、玉の海のギター演奏に合わせて北の富士が大関時代に歌手デビューして大ヒットした曲『ネオン無情』を歌いました。 新横綱の1発芸で「歌」といえば、甚句を唄うか、故郷の民謡を謡うかがやまやまだったのに、ギターを弾いてムード歌謡を唄うとは…… その場にいた重鎮の立田川親方(=元横綱鏡里)や春日野親方(=元横綱・栃錦)や二子山親方(元横綱初代若乃花)らに 「びっくりしたよ。時代が変わったものだねぇ」と驚かれた。 つづく
  7. #155263 | KON |
    北の富士さんと玉の海関 生涯のライバルとなる北の富士と知り合ったのは、幕下時代らしい。北の富士が後年、振り返っている。 「玉の海関をはじめて知ったのは彼が幕下のころ、まだ玉乃嶋という四股名の頃だった。背は小さいが足腰がいいし、十両になって(自身が所属する)出羽海部屋に出稽古にきたとき、四つになればとてもしぶとかったので “ ん?これは!?”と意識するようになった。右四つはもちろん、左四つでも強かったから、三役に上がったころからライバルと思うようになった。とにかく玉の海関と相撲を取るのが楽しかったし、願ってもないライバルと思っていた。それにあの人は「聞き上手」だったな。一緒に酒を飲んで彼のギター伴奏で歌を歌ったこともあるし、楽しい思い出は いっぱいある」(「大相撲」誌1971年11月号) 生まれた年と初土俵は、1942年3月28日生まれの北の富士さんが1944年2月5日生まれの玉の海関より2年早い(初土俵も1957年1月の北の富士さんに対して玉乃嶋は1959年3月でした)が、玉の海関(当時は玉乃嶋→後に玉乃島→玉の海と改名)は北の富士さんの後を追うように番付を駆け上がり、新十両と新入幕も少しだけ北の富士さんが早かったが、それでも同じ年のことだった。 (北の富士さんの新十両が1963年3月で玉乃島が9月、新入幕は北の富士さんが1964年1月で玉乃島は翌3月) 角界でライバルと言えば顔も合わせないことが珍しくないが、2人は仲もよかった。 『北さん』「嶋ちゃん」と呼び合って、とても仲良しでした。 つづく
  8. #155228 | KON |
    北の富士さんの四股名 何度も改名しています 細かいことは気にしないダンディーなナイスガイなのに、意外と験担ぎ(げんかつぎ)が好き? 竹沢 勝昭(たけざわ かつあき): 1957年1月場所 - 1959年3月場所 → 竹美山 勝明(たけみやま かつあき): 1959年5月場所 - 1960年7月場所 → 北の冨士 勝明(きたのふじ かつあき):1960年9月場所 - 1967年7月場所 → 北の富士 勝明(きたのふじ かつあき ): 1967年9月場所 - 1968年1月場所 → 北の富士 洋行( ・・・ひろゆき): 1968年3月場所 → 北の富士 勝昭( ・・・ かつあき): 1968年5月場所 - 1971年1月場所 → 北の富士 勝晃( - かつあき):1971年3月場所 - 1972年5月場所 → 北の富士 勝昭( - かつあき):1972年7月場所 - 1974年7月場所
  9. #155205 | KON |
    多種多芸だった北の富士さん 2 そして本業の相撲でも 不知火型の土俵入りも出来た北の富士さん…… 盟友の横綱玉の海が巡業先の東北で病に倒れた際、別班で巡業に出ていた北の富士さんは、訃報を聞き、急きょ東北の巡業先に駆けつけ、玉の海の綱を締めて土俵入りを披露することになった。玉の海の土俵入りは両手を広げる不知火型で、北の富士さんは片手だけを伸ばし一方の片手は胸に手をやり“守りの型”を表す雲竜型でしたが、北の富士さんは不知火型で務めあげた。 NHK相撲担当アナウンサーから「何故、不知火型をできたのか……と、理由を問われた北の富士さんは「両方練習してたから。新弟子のときに。兄弟子たちからは『バカ!』って言われたよ。他人の稽古終わってから若い衆だけで隠れてみんなで土俵入りの練習をしてたねえ。『俺が横綱になったら何やる!』って。まだ若い時だよ。まだ夢を持ってるときだ。15、6歳のときだよ。俺が強くなったらこうだって。部屋の関取衆に言ったらバカって言われて。何を考えてんだ、お前ら?!って。夢を持ってたよ」と明かしていた。」 何ごとも器用だったんですねえ この頃 おわり
  10. #155196 | KON |
    一門別団体戦のこと、、、、 大相撲団体戦開催へ 前述の人数配分だと、有力な一門と上位力士が少ない一門で大きな差が出てしまうので、一部に修正し、 場所前に幕内・十両の力士70人の中で五つの一門別に分けて5名ずつを選出、ひと場所の勝敗を集計する。 同様に、幕下力士を五つの一門別に3名名ずつをピックアップ、三段目力士を同様に五つの一門別に2名ずつをピックアップしておいて、計10名の力士のその場所での勝敗を集計、 十両以上の関取・幕下力士・三段目力士の集計と合算して、一門別のその場所の勝敗とし、総勝ち数を比較して優劣を決める。 というのを 花相撲とか試験的にやってみて、運用に問題点が少なければ、一部改善して、本場所でも採用し、千秋楽の表彰式で団体優勝(一門別最優秀成績)した一門を表彰する…… この約80年ぶりの『団体優勝表彰』 これを相撲協会広報部に提案してみたいと思います。

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