大相撲のコメント部屋

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応援コメント一覧 全2,501件

  1. #151638 | KON |
    戦後のモテ男 5傑 5 貴ノ花利彰(大関)  初代若乃花の実弟で端正なマスクから「角界のプリンス」と呼ばれた。軽量ながらも稽古熱心で相撲一筋。土俵上にはやや悲愴感が漂い、判官びいきの日本人にはたまらない存在で、史上最も人気のあった大関といっていいでしょう。 183cm、105kg。左四つからのつり寄りが得意。スリムな体形ながら絶体絶命の形からでも脅威の粘り腰で勝負を諦めないファンを魅了した。 三役時代にはNHKの解説者だった玉ノ海梅吉氏が「貴ノ花の下半身にはもうひとつの命がある」の名言を吐いた。 ほぼ毎場所のように八日目の(家族連れの観客が多くテレビ視聴率も高い)日曜日に「サンデースペシャル」とスポーツ紙に名付けられた期待通りに 毎回毎回熱戦を繰り広げた北の富士さんとの対戦がありました。 昭和47年1月場所の北の富士戦では、貴ノ花は北の富士の右外掛けで弓なりになりながらも左後方へ振り、北の富士の右手が「つき手」か「かばい手」かの大論争を巻き起こしたこともある。  最後まで軽量に悩まされ、最高位を極めることができなかったが、大関在位はその後千代大海と魁皇に破られたものの、当時としては大相撲史上1位の50場所だった。 引退後は藤島部屋を興し、その後二子山部屋と合併。実子の横綱貴乃花・3代目若乃花や大関貴ノ浪、関脇安芸乃島・貴闘力など、平成の相撲ブームをけん引した数多くの力士を育成。相撲人気に関しては、並みの横綱以上ともいえる抜群の貢献を果たした。  2005平成17年5月30日に口腔底がんのため死去。55歳の若さだった。 この項、終わり 角界ではこの後に、 昭和の終わりから平成にかけて 筋肉美の千代の富士が1大ブームをお越し、さらに若貴兄弟による若貴フィーバーとなっていきますが 男前という意味でのモテ男列伝は 昭和の終わり頃の千代の富士や霧島、琴の若らで 終止符を打ったようですね
  2. #151637 | KON |
    戦後のモテ男 5傑 4 龍虎勢朋(小結)  龍虎は 1957昭和32年、1月場所初土俵で横綱北の富士と同期。その美男横綱をしても「龍虎にはカッコよさ負けするなあ」と北の富士が嘆いたほどのイケメン力士だった。 186cm、132kg。右四つになっての外掛けや、突っ張っておいての肩透かしなど、江戸っ子らしい気っ風のいい相撲が持ち味。入幕後は小結を務めたり、13勝を挙げて準優勝を記録するなど、人気力士として活躍していたが、2度もアキレス腱を切断。幕下下位まで落ちながらまた小結に返り咲いた。  その “男の色気たっぷり” の男前の顔立ちとスラッとした体軀から “プレイボーイ”と言われ、一見 ちゃらんぽらんに見られたものの、実は 龍虎こそ兄弟子・二子山親方(元横綱初代若乃花)の座右の銘だった「人間、辛抱だ」の実践者だった。  引退後は一時放駒を襲名したがすぐに廃業。タレントに転身し、テレビ番組や「暴れん坊将軍」などの時代劇で活躍し、共演する二枚目男優たちにひけをとらない風貌で、ともすると主役俳優よりも女性ファンから人気があったほどだった。 つづく
  3. #151636 | KON |
    戦後のモテ男 5傑 3 北の富士勝昭(横綱)  明朗活発で、それまでのやや堅苦しいイメージの横綱像を一新させ、“現代っ子横綱”と言われた。  1942昭和17年3月28日に北海道旭川市で生まれた。中学時代は野球部に所属し、プロ野球を目指していたが、肩を痛めていた時期に出羽海部屋のスカウトに勧誘され、東京へ行きたい一新で入門を決めた。 昭和44年11月場所、翌45年1月場所と連覇を果たし、場所後、ライバル玉の海とともに横綱に昇進。  185cm、135kg。かち上げから左を差しての速攻相撲が持ち味で、強烈な右上手投げ、外掛けも得意だった。気合が乗った場所では爆発的な強みを見せたが、序盤につまずくと大きく崩れるなど、天才肌に付き物の気まぐれな面が存在した。  甘いマスクに、開放的な性格で話術も巧み。大関時代にはレコードを発売してヒットするなど、常に話題を提供した。夜の銀座では最もモテた力士とも言われ、有名俳優たちを凌ぐほどモテていたという。  昭和49年7月場所で引退。年寄井筒から九重になり、横綱千代の富士、北勝海らを育てた。1992平成4年に千代の富士に九重を譲り、陣幕に名跡変更して理事としても協会に貢献した。 平成10年1月限りで角界を離れ、NHKの名解説者として活躍していたが、2024令和6年11月12日に82歳7か月で亡くなった。昭和以降に生まれた横綱では、栃ノ海の82歳10か月に次ぐ長寿だった。 そんな北の富士さんが『格好良さでは奴に負ける』と嘆いたのが龍虎さんでした。 つづく
  4. #151635 | KON |
    戦後のモテ男 5傑 2 大鵬幸喜(横綱)  全盛期には“巨人・大鵬・卵焼き”と、子供の大好きなものに例えられる流行語が生まれた。双葉山とともに昭和を代表する角界の大ヒーロー。 柏鵬時代の一方の雄、柏戸が相撲っぷりから 剛の強さとガラスの脆さの両方がありハラハラさせる相撲で玄人好みと言われたが、柔の大鵬の負けない相撲は特に子供と女性に人気でした。 激しい鍛錬が実を結び、昭和35年1月場所に19歳7か月で新入幕を果たすと、初日から11連勝の快進撃。色白の美男だったため、当時、大鵬が登場する頃になると女風呂がガラガラになる、といった「君の名は」ばりのエピソードまで語られた。 それまで若い女性は殆ど相撲に興味を示さなかったが、今で言う“スー女”が数多く誕生し、ファン層を拡大したことは、大鵬の功績の1つだと言っていいでしょう。 つづく
  5. #151634 | KON |
    戦後の角界モテ男 5傑 戦後の横綱乱立時代において、特にモテていたのが吉葉山。 吉葉山潤之輔(横綱)  吉葉山は1920大正9年4月に北海道石狩市に生まれた。実家は網元だったが、大正末期に漁獲量が激減し倒産。高等小学校を卒業すると、帯広の会社に工員として採用されるが、学問を志して1938昭和13年に上京。その時、汽車の座席の前に座っていた力士志願の青年が、途中で逃げ出してしまった。 上野駅に着いた途端、大きな体を間違えられ高島部屋に連れ込まれる。こうして身代わり入門という形で相撲界入りを決意するという、ユニークなエピソードを持つ。 昭和17年幕下筆頭で優勝。十両入りを約束されながら応召され、中国大陸の戦線に従軍した。左大太腿部に貫通銃創を受けるなどで生死の境をさまよう体験もしたが、21年6月に復員。体重が30kgほど減り、60kg台になっていたが、“胃袋吉葉”の異名を取るほど食べ、わずか半年で元の体重に戻した。  翌 昭和22年6月場所に5年ぶりに土俵に戻り、十両4枚目に付け出された。トントン拍子に出世して、26年1月場所後に大関昇進。29年1月場所に全勝で初優勝を果たすと、場所後、33歳9か月で横綱に昇進。  180cm、145kg。腕力が強く、左四つからの寄り、投げ、ひねりなどは威力があった。戦争で受けた古傷などもあり、やや下半身に欠陥があったため、取りこぼしも多かった。 「吉葉山関は美丈夫です。おそらく古今の大力士の中、これほど押し出しの立派な関取がまたお二人とあったでしょうか」(和藤鶴子「関取衆美しいお花見立帖」)  均整の取れた堂々たる体軀に、まれに見る美男。戦争の被害を最も受け、波乱万丈の力士人生を歩んだこともあり、初優勝時の頃の人気は、戦後ナンバーワンといってもいいほどの凄まじさだった。 つづく
  6. #151611 | KON |
    来週の月曜日(4月13日)、靖国神社で行なわれる「靖国神社奉納大相撲」へ行ってきます。 朝早く行かないと先着6000名で入場締め切りとなってしまうので、超早起きしないと。昨年は、ちょっと出遅れてしまい、仲間は観覧してましたが、私は入場できず断念。出口で待ってて、打ち出し後に皆と合流し、ちょこっと食事会で歓談しました。 今回は、靖国神社がある市ヶ谷から両国へ繰り出し、ちゃんこ屋さんで「遅めの昼食&ビールや焼酎……」という予定です。 天気も良さそうなので楽しみです。 安青錦は巡業休場だそうですが、仲間たちは、それぞれ 義ノ富士関や翔猿関など推しの力士がいるので、皆、楽しみにしています。
  7. #151506 | KON |
    安青錦は足の小指を骨折していたらしい。 夏場所でのカド番脱出に向け治療に専念する為、巡業を休場して帰京したようです。
  8. #151448 | 匿名 |
    外掛けは小学校時代に砂場で相撲で遊んだ時によく使ったなあ。2代目若乃花が三重ノ海が隆の里がよく使ってた記憶ありますよ。
  9. #151429 | SAI |
    北の富士さんと言えば 得意技の外掛けです! 左右両方共に 得意だったそうです! 突っ張りや右の上手投げも得意で オールラウンダータイプの 横綱だったそうです! 天国でも解説を頑張って下さい
  10. #151365 | 匿名 |
    千代の富士6度目の優勝確かにテレビで見た記憶あります。敗戦後のためかインタビューでは苦笑いまじりでしたね。この当時の幕内力士も多数が鬼籍の人だよ。

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