大相撲のコメント部屋

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応援コメント一覧 全2,747件

  1. #155751 | KON |
    もっと詳しく北の富士さんのことを…………という場合は 村松友視さんの著書 「北の富士流」 をアマゾンなどネットで入手するか、図書館で借りてみるといいと思います。 村松友視さんの「北の富士流」 目次をご紹介すると 第一章 北の富士前夜、北海道のけしき↵ 第二章 私と相撲の遠距離交際 ↵ 第三章 猛稽古と遊びの方程式 ↵ 第四章 出世みち三歩進んで二歩下がる ↵ 第五章 破門から初優勝への大逆転 ↵ 第六章 ライバル玉の海との出世競争と熱き 友情 ↵ 第七章 「夜の帝王」と「ネオン無情」の極 彩色 ↵ 第八章 横綱時代の万華鏡 ↵ 第九章 二横綱を育てた名伯楽の奥行き ↵ 第十章 北の富士流の試練 ↵ 第十一章 テレビ解説者の粋、華、情 ………… 読みたくなりますよねえ
  2. #155747 | KON |
    北の富士さん 「稽古しないで勝つのが一番格好いいんだ」と自ら言うほど、“努力する姿を見られる”ことが嫌いだった北の富士さん。 そのあたりは長嶋茂雄さんと似てますね。 酒も飲まず早寝早起きと記者たちには言い続けていた長嶋茂雄さんでしたが、自宅の地下室に広いバッティング練習スペースを設けてあって、ノーヒットに終わった試合の夜には夜中まで素振りをしていたという。。。 北の富士さんは、酒席では過去の栄光など誇らず、話題はもっぱら自らの失敗談。 現役時代、知人にもらった拳銃が実弾入りの本物で、慌てて両国橋から隅田川に捨てたんだけど、結局ばれて警察に呼ばれた。 大鵬さんと柏戸さんも同罪なんだけど、有名な二人は新聞記事になったけど “小者(こもの)”の俺は記事にもならなかった……とオチをつけて吐露。 引退相撲で断髪後にタキシードで土俵へあいさつに上がり、歌を披露して協会から叱られた。 ……などなど 山ほどある逸話を、面白おかしく語り、座を盛り上げてから同席していた記者たちに向かって 「俺は絶対に君たちより先に死なないぞ。後で何を書かれるか分からんからな」。と言い放っていた北の富士さん。。。 まあ、何を書いても、雲の上で笑って許してくれそうな顔ですよね この頃、おわり
  3. #155746 | KON |
    北の富士さんは何故協会を離れたのか? 千代の富士が横綱になった頃だった。稽古場に親方の姿はない。やがてジョギングから帰ってくる。親方衆のダイエットの先駆けだった。腹筋運動をしながら弟子の稽古をチラチラ。ツボを押さえて一言。力士をその気にさせるのがうまかった。 ダンディーで新しいもの好き。粋でやんちゃな男の色気。力士、親方、そして解説者としても脚光を浴びた。まばゆいほどの相撲人生だが、たどれば波乱万丈だった。 横綱千代の山に誘われ、14歳で入門した。北海道の生家は事業に失敗し、「帰っても飯が食えんから、つらくても帰ろうとは思わなかった」。 15戦全勝優勝を含め優勝10回という堂々たる成績を残して現役を引退。 1998年、役員選挙の混乱に嫌気が差して相撲協会を退職した北の富士さん。 審判部長も務め、将来の理事長候補にも挙がっていた頃でした。 「正直、残っていればなれたかもしれん。境川理事長(当時、元横綱佐田の山)からも1期だけ我慢しろと言われたが、もういいやと思ったんだ」。 圧倒的勢力を持つ出羽ノ海一門の総帥である境川理事長でしたから、一門の、親方衆をを納得させた上で後任に北の富士さんを指名することは難しいことではなかった。 いかにも北の富士さんらしい。 素顔は情に厚くて古風。 解説席にはよく着物姿で座ったし、赤いレザーのジャケットを見事に着こなしてもいた北の富士さん。 スポーツ紙のコラムは自分で書いた。 その執筆のスピードは記者より速く、しかも正確で、デスクが直すところがなかったという。 他社からも誘われたが、千代の山時代から縁のあるサンケイスポーツ社との関係を守った。 陽気なイメージは「涙もろいところを見せないうちに、先に明るく振る舞っちゃえと思った」結果でもある。 つづく
  4. #155745 | KON |
    北の富士さんの人気と魅力 3 それは、ひとつには 北の富士さんは本当の意味でユーモアにあふれた人で、面白い話で周囲を笑わせていましたが、他人をからかったり、クサしたりは絶対にしない。 そして、 自慢話、手柄話、苦労話はしない。 横綱2人を育てたことについて訊ねても、『弟子が頑張ったからだよ』としか言いませんでした。 北の富士さんが主に話していたのはご自分の失敗談でした。 相撲協会の理事時代、理事会があることを忘れてゴルフに行ってしまった北の富士さん。 勿論、連絡も入れてない。 翌日になって公務をすっぽかしたことに気付き、慌てて春日野理事長(元横綱栃錦)に謝罪すると、『そんなことだろうと思っていたよ』と言われたが、理事長の目は、怒って睨みつけるような目ではなかったけど、笑ってもいなかった。その横で、二子山さん(元横綱初代若乃花さん)が、最初は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたが、口元が緩んでて今にも笑い出しそうだった……という。 今だったら、大変なことですよね。 また、北の富士さんは現役時代、『プレイボーイ横綱』と言われたように女性にモテましたが、本人に言わせると『柏戸さんの方がモテたよ』と言ってました。 ある場所での終盤、柏戸関に勝って意気揚々と国技館を出たところ、後ろから突然、後頭部を はたかれた。 驚いて振り向くと、馴染の芸者だった。 『なんで柏戸に勝つの!?!って怒られた』と、笑いながら振り返っていました。。。 ご本人曰く、『若い頃の自分のポッチャリ顔は嫌い』とのことで、引退後は減量に励んでいました。 現在の角界では、引退してダイエットをする親方が多いのですが、北の富士さんはそのハシリと言っていいでしょう。 一方で、入門当時は体が細く、恰幅のいい姿に憧れていたこともあったようです。 着物や浴衣は太っている方が見栄えがするので、北の富士さんは着物の下にタオルを巻いて、夏の銭湯帰りの細身のサラリーマンの浴衣姿みたいにならないように、わざと太っているように見せていたのだとか。 そんな話ばかりですね。
  5. #155744 | KON |
    北の富士さんの人気の秘密 2 四股名を言い間違えても「覚えづらい四股名だねぇ、なんとかならんかね?」と力士の四股名のせいにしてあっけらかん。 特に北の富士さんが言いづらかった四股名 【栃乃洋】=とちのなだ のことはしょっちゅう「とちのだな」と言ってしまい、アナウンサーに言い直されると「んー、まあどっちでもいいけどね」と反省する素振りも見せないおおらかさ。 意外に【若隆景】のことは早くから ちゃんと言えるようになっていて「“若貴”をイメージして ワカタカといってから カゲを足すんだよ」と藤井アナウンサーにコツを指導してました。 つづく
  6. #155743 | KON |
    北の富士勝昭さんの人気の秘密 現役時代は速攻を得意とする横綱として、引退後は辛口だが愛のある解説者として、多くのファンに愛された存在だった北の富士さん。 あれだけ自由奔放に喋り、協会執行部やNHKにも忖度しないコメントを続けていたのに、北の富士さんを非難する人は誰もいませんでした。 北の富士さんの大相撲中継の解説を楽しみにしていた大相撲ファンは非常に多く、持ち回りでほかの口ベタな親方が解説席に座る日には、NHKへ抗議の電話が何本も入ったという。 北の富士さんの大相撲解説には ①テレビ中継の正面解説、 ②NHKラジオ中継の時の解説 がありましたが、 テレビでも言いたいことを言ってるようでしたが、あれはかなり抑えての発言で ラジオの時には言いたい放題にやりたい放題。 中入り後から始まる解説の仕事ですが、途中の前半戦終了〜後半戦開始までの間に済ませておくべきトイレの用足しを取組中にも席を立って行ってしまう。 戻ってくるなり「今日は冷えるねえ。こんな寒い日なのにこんなに、たくさんお客さんが来てくれてありがたいことですねえ」と、ラジオ中継のさなかにフェードアウトしたことを満員のお客さんへの御礼にすり替えてしまってました。 ラジオ中継のアナウンサーが『今の一番は立ち合いが勝負の分かれどころでしたよね、北の富士さん……あっ北の富士さん!』 「えっ?あぁ今の…ね?見てなかった。隣の舛席のお客さんと話してたから……」と全く悪びれない。 つづく
  7. #155718 | KON |
    私を送り出すにあたって親方は 「お前はオレと同じ道産子なんだから、どの道に行っても一丁前になれよ」と声を掛けてくれた。 以来、この言葉を支えに、私は無我夢中で働いた。そして時間こそかかったが、小さいながらも一広告会社を経営し、後援会の片隅にも置いても貰えるようにもなった。 その途中で、こんなことがあった。まだ東芝に勤め始めて3年ほど経った頃、私は親方のことがたまらなく懐かしくなって、恐る恐る部屋を訪ねたことがある。 「その節は、お陰さまで」と顔を出すと、親方は貧相な若僧のことをちゃんと覚えていてくれたばかりか、車で出掛ける途中だったのに、わざわざ戻って若い衆になんと、「おい、みんな、この人はオレの友達だからな」と紹介してくれたのである。 散々迷惑をかけた落第生を、OBどころか友達とまで……どこまで大きな人なんだろう! 一生この人を師と仰いでいきたいと、改めて痛切に思ったのだった。 私にとって世界中のどんな山よりも高い千代の山の恩。思い出の栞はきりがないが、その温かい人柄と愛情、部屋の師匠としての充実感は、私の心にずっとあり続けています。 ・・・・・ 気は優しくて力持ち…… いい人が多い角界でも、特に、情に厚いと有名だった千代の山さんでした。 おわり
  8. #155717 | KON |
    千代の山……その熱き心 背の高さと、情熱だけで相撲部屋に押しかけ、入門を希望したものの、あっさり不合格となった道産子少年。体つきから素質ゼロを見極められ、新弟子にもなれなかった男、 後に東芝へ入社後、独立し広告会社善福堂の社長となった鈴木重一が千代の山さんを語る 今でも部屋の親方を師と仰ぎ、親と慕ってやまない。 それはその親方の人間的な優しさに救われ、一生に通じる教えと激励を受けたからにほかならない。 昭和22年生まれの私は、北海道は雪深い稚内の生まれ。 しかし、物心もつかぬうちに両親を事故と病気で次々に亡くしたので、牧場を営む叔父に引き取られ少年期を過ごした。 楽しみはなんといっても大相撲。ラジオにかじりついて、怪力と猛突っ張りで鳴らす故郷の英雄・千代の山を応援した。新聞、雑誌で報じられる道産子第1号横綱の勇姿には ひとしきり胸をときめかせたものだ。 中学を卒業したら早く上京して力士になりたかったが、お世話になったお礼奉公の意味で4年間牧場の働き手となって時期を待ち、19歳になった私は家出し、札幌で半年間のアルバイトをして上京資金を貯めた。 すべては千代の山の弟子になりたいがためだった。勝手に九重部屋に入門すると決めていた私は、部屋にまず自分の布団を送っておいて、親戚を頼り上京、42年4月7日、当時独立直後で浅草橋にあった部屋を訪ねた。 いきなりの入門希望者におかみさんはびっくり。春場所の後始末でまだ大阪にいた親方に連絡を取った。「俺が帰るまで部屋に待たせとけ」ということで、とりあえず寝泊りさせてもらえることに。 2~3日して帰京した親方は、私の体をざっと見るなり、「力士には向いていない。帰りなさい」とあっさり不合格の判定。 痩身ながら骨太だった千代の山さんと違って骨も細いから駄目だという。 本当に見込みのない若者を弟子にしてくすぶらせると、いろんな可能性があるはずのその男の人生を無駄にしてしまう……という理由で断わるというのが千代の山さんの考え だが私も必死だった。 「一生懸命やりますから、何とかお願いします」と食い下がる。根負けした親方が、「じゃあ、女房のやっている料亭の板前に」とまで譲歩してくれたのだが、私は「なんとか力士に」と、なおも やり取りを重ねて居候。その日数は2週間に及んだ。結局は、困り果てたおかみさんが東京の親戚に連絡して、引き取られることになるのだが、憧れの人の人間的魅力に直接触れた、私の長い人生において最も濃密な2週間だった。 つづく
  9. #155716 | KON |
    勝てるようになると、調子に乗って稽古にも身が入り、幕下を2年足らずで通過、十両も1年足らずで通過。 特に十両で15戦全勝優勝して新入幕となった1964昭和39年初場所では13勝2敗という大活躍、一気に春場所で小結となった北の富士さん。 “幕内なんて、こんなものか……”と 「遊び大好き虫」が心に満ちてきてしまった北の富士さん。 怖い師匠(元千代の山)に尻を叩かれるとやる気を出す北の富士さんでしたが、幕内に居つくようになると、また酒や夜の繁華街への誘惑に負けて出世も遅れました。 大関昇進後は皆様ご存知の通り 話を戻して 現役引退後、年寄井筒を襲名し井筒親方だった北の富士さんが、千代の山さんが病に倒れたことで『九重』を襲名し九重部屋の親方となりました。 現在の陣幕親方(元富士乃真)が、まだ一番新弟子のほうだった時のある日、朝一番に起きると、“大師匠”千代の山さんの写真が額ごと落ちて、ガラスが割れて床に散らばっていたんです。その日のうちに、千代の山さんが亡くなったと部屋に連絡が来ましたとのこと。 ドラマや映画で、お茶碗が、割れると不吉なことが…… というシーンがありますが、本当にこんなことがあるんですね つづく
  10. #155715 | KON |
    横綱千代の山が土俵に降りて胸を出してくれるという 非常にありがたい直接指導なのですが、その硬い胸板にぶつかるのが嫌で逃げ回っていたという。 190cm122kgという均整の取れた金剛力士立像のような千代の山は痩身ながらその胸板は厚く、肉の緩衝材でラップしてあるようなアンコ型の力士にぶつかるのとは衝撃がまるで違う。 突っ張りで勝つのは好きなんだけど、おでこや顔が痛くなる稽古は大の苦手だったという北の富士さんは引退後にも「あの頃、師匠に胸を借りると、まるで岩にぶつかっているようで顔・おでこ・首が本当に痛かった」と語ってました。 千代の山は「鉄のクレーン」とも称された並外れた突っ張りと、鍛え抜かれた鋼のような肉体の持ち主でした。北の富士さんが若手時代、その厳しいぶつかり稽古で何度も圧倒され、体中を真っ赤にし息も絶え絶えなのに野太い声で『まだまだぁ!もう一丁!』と怒鳴られ周囲に引きずり起こされて再び向かっていき、ボロボロになりながら少しずつ力をつけていったという。 入門5年目の正月、師匠千代の山から呼ばれ、例の怖い顔で、当時制定されていた「30場所で幕下へ昇進できけなければ廃業」の規約があるから、もう少しで廃業をしなくちゃならんことになるんだぞ』『くに(旭川)へ帰るか、稽古に打ち込んで幕下へ上がるか?どっちだ?』と諭され、強い危機感を持って奮起し、初場所〜春場所〜夏場所と3場所連続で勝ち越し。その年の夏場所での5勝2敗を以て名古屋場所で幕下昇進を果たしたという。 つづく

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