大相撲のコメント部屋

※コメント投稿の際に名前欄にメールアドレスを記載しないでください。
※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。
※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。

※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。
※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。

みんなで応援しよう!

この試合・選手についてのコメントを投稿してください

※ コメントは承認後に表示されます
※ 誤謗中傷や不適切な内容は掲載されません

応援コメント一覧 全2,383件

  1. #150692 | KON |
    ご近所の方が奥様とご一緒に、昨日の大相撲トーナメントを観覧して来られ、安青錦とプリントされた応援タオルや国技館名物の焼き鳥をお土産に買って来てくれました。 初国技館とのことだったので そもそものチケット入手方法から国技館での注意事項を色々お伝えしておいたので、 とても満喫して帰ってこられました。 悪天候で、行きは駅まで雪道、帰路は在来線が運休の為新幹線を利用したりで大変だったようですが、とても楽しめたそうです。 私の予定では、次回の相撲観戦・観覧は、今年も4月の靖国神社奉納相撲ですね
  2. #150681 | KON |
    北の富士さんストーリー最終章 「春日野親方(44代横綱・栃錦)がね、理事長の時代だったかな、こんなことを言ってくれたことがあったんだよね。『俺もよ、お前の出羽海への復帰をよ、一門にはかって、何とかしようと思ってきたんだけど、もう定年も近くなったしよ、もういいよな』ってね。 つまり、九重部屋は、今は高砂一門だけど、もう一度、出羽海一門に戻してやろうという温情ですよ。実現はしなかったけどね。ただ、出羽海の後援会で『友愛会』ってのがあるんだよね。ここでね、北の富士を出羽海一門に復帰させてやろうという話が持ち上がったんですよ。で、全会一致で出羽海部屋に出入りが許された。 だから、今は自由に出入りができるわけでね。それまでは行けなかったからね、出羽海部屋には。まあ、頼めば、部屋に入ることぐらいはできたと思うけどね。やっぱり自分自身の心の中で、線を引いていた部分があったよね」 師匠・九重親方 ここで、この人に触れておかなければなりません。北の富士さんにこれほどの決断をさせた師匠・九重親方(千代の山)はどんな人だったのでしょうか。 「俺が入門した昭和32(1957)年の一月場所で、千代の山さんはいきなり全勝優勝ですよ。 後で思えば、この6回目の優勝が千代の山さんの最後の優勝なんだけどね。忘れもしないのが、そのときの副賞ですよ。 森永製菓の『三色アイスクリーム』ってのがあってね、これをどんぶりで山盛り2杯も食べさせてもらった。嬉しかったねえ。この世界に入ってよかったってね。鮮明に憶えてる」 そこから2年、千代の山は昭和34(1959)年一月場所で引退となります。 「入門からずっと千代の山関に付いていた(付け人をしていた)わけだけど、性格も穏やかで優しい人だったよ。当然、横綱ですからね、若衆に指導をしたり、指示をしたりすることはありますよ。 ただ、誰に対しても、大きな声を出したり、怒鳴ったりすることはない。手を上げることも一切なかったですよ。当時としてはとてもめずらしかったんじゃないかな。『兄弟子は、無理へんにげんこつと書く』なんて時代だからね。九重親方になってからも全く変わらなかったですよ。何よりも、いい意味でのお人よしっていうのかな、他人のために何でもできる人だった。 稽古が終わると一緒にちゃんこを囲んでね、とても気さくで陽気な人だった。冗談も言うしね。ただ、飲んで気分が良くなると、話が長くなる。とくに昔話が長いんだよね。でも、その話が面白い。若衆は料理を出したり酒を注いだりしながら、笑いながら聞いてる。 俺も、そろそろ席を立ちたいと思っても、師匠がしゃべっているんだから、そうもいかないんだよね。女の話や酒の飲み方、戦時中の相撲界の話まで。話の引き出しが豊富だから、話し始めると、2〜3時間は止まらない。 稽古場を離れると弟子には甘かった。みんなを本当にかわいがってくれましたよ。やっぱり、破門されてでもついてきた弟子たちだから、かわいかったんですよ。つらい思いをさせたって感じていたんじゃないかな」 文/藤井康生さん
  3. #150680 | KON |
    北の富士さんストーリー8 この章の冒頭で、2018平成30年七月場所、当時関脇だった御嶽海の幕内最高優勝に触れました。 出羽海部屋の力士としては1980昭和55年一月場所の横綱・三重ノ海(57代)以来、実に38年ぶりの優勝。 北の富士さんには並々ならぬ思いがありました。 「38年ぶり、長かったですよ。我々、出羽海のOBや関係者にとっては『待ちに待った』優勝ですよ。でも今ね、出羽海部屋の稽古を見ると、欲がないねえ。もうひとつもふたつも物足りない。力士の数も俺たちの時代とは違うから、活気の差は歴然としているけどね。それにしても、稽古場から伝わってくるものが感じられない。意欲が見えてこないよね」 たびたび、そうした苦言を呈するのも、出羽海部屋への思いがあればこそです。 「どうしても出羽海部屋の稽古場だけは、思いが他とは全く違ってくるんだよね。自分を育ててもらったということだけではなくて、やっぱり、うーん、何だろうね。『破門』という事実が、半世紀も経った今でも、何か乗っかっているのかな。だからね、出羽海部屋に入る時には、今でも正面玄関から入らないですよ。稽古を観る時だけではなくて、他の用事で訪ねる時も同じでね。通用口から入りますよ。部屋の横の入り口からね」 周囲の親方や関係者が、北の富士さんを今一度、出羽海一門の親方として受け入れようとする配慮も見られました。 つづく
  4. #150679 | KON |
    北の富士さんストーリー7 破門後の場所だから、恥ずかしくない成績を残したいという思いはあったけどね」 その後、優勝パレードを終えて宿舎に戻ると、すでに後援会の人で溢れかえっていました。 「今はホテルや宴会場で千秋楽の打ち上げパーティーを開く部屋も多いけど、当時はそれぞれの部屋での打ち上げだったよね。小さなお寺の宿舎で、十両優勝の松前山と一緒に、大騒ぎの祝勝会ですよ。そこで、ようやく『ああ、優勝したんだなあ』ってね。実感というものが湧いてきたかな」 1967昭和42年三月場所、幕内最高優勝は北の冨士。十両優勝は北の冨士とともに九重親方に従った松前山でした。 まさに、ドラマのような「九重場所」となったのです。 「俺は入門からちょうど10年で出羽海部屋を離れるんだよね。それでも、こうして今も大相撲とつながっているとね、出羽海はやはり一番気になる部屋ですよ。俺と一緒に九重親方について行った松前山は今、北海道に戻って暮らしているんだけど、電話でいつも出羽海部屋の話をしますよ。出羽海部屋にいた若い頃の話とか、今の出羽海部屋の話とかね。頑張ってほしいってね」 つづく
  5. #150678 | KON |
    北の富士さんストーリー6 そう言われれば、確かに佐田の山さんって人は、そんなところがあるかもしれないねえ。あれは、佐田の山さんが新大関の場所だったかな、学生相撲から来た豊山(のちの時津風理事長)と対戦するんですよ。 ここで突き倒されて負けた時に、『辞める』って大騒ぎになったんだよ。負けたその日ですよ。『こんなみっともないことはない』ってね。だから、相撲に美学を持った人だったんだね」 そして、己にも厳しい兄弟子の姿を思い起こすように、こんな話もしてくれました。 「ある時、稽古場でね。まあとにかく、稽古は緩めない人だから。その日もがんがんやっててね。俵に引っかかったのか、足の親指の爪が剥がれそうになったんですよ。そうするとね、そのぶらんぶらんとなった爪を、自分で引きちぎってね。血が噴き出すんだけど、若衆に『おい、包帯持って来い』ってね。水で流して包帯を巻いて、また稽古を続けるわけですよ。そんな人ですよ。 俺なんかには絶対にできない。血を見たら倒れそうになるもん。自分で爪は引きちぎれないよね。他人にちぎってもらうのも嫌だけど」 北の富士さんが出羽海部屋を思い続ける中での、重要な登場人物のひとりは、間違いなく50代横綱・佐田の山です。 佐田の山さん自身も「部屋が別になって、北の富士との対戦が何よりも嫌だった」と回想しています。 出羽海部屋への思い 話を破門後の初優勝に戻しましょう。 「支度部屋に戻ったらね、九重親方が勢い込んで、泣きながら支度部屋まで入って来て。もう泣いているんだよ。師匠が先に泣いて来たからね。先に泣かれて、こっちは泣くに泣けない。握手しても、なぜか涙は出なかった。写真が残っているよ、親方が泣いていて、俺はケロッとしているところが。 武蔵川の親方にも、すれ違った時に『おめでとう』って言ってもらってね。これは嬉しかったね。『おかげさんで……』ぐらいしか言えなかったと思うけど。でもね、俺自身は、初優勝といっても嬉しくはなかった。どこかに、手放しで喜んではいけないというね、そんな気持ちもあったんだと思いますよ。 つづく
  6. #150677 | KON |
    北の富士さんストーリー5 「西の方屋でね。佐田の山さんに道を譲ろうとしたら、佐田の山さんが『おめでとう』と言ってくれた。あのひと言、佐田の山さんの太くて小さい声だったけど、今も忘れられないねえ。前日の対戦は悪夢だったけど、あの言葉は本当に嬉しかった。そこで、少しジーンときたね」 佐田の山の引退はこの翌年、1968昭和43年三月場所でした。 4日目に高見山、5日目に麒麟児(のちの大関・大麒麟)に敗れ、2勝3敗となったところで引退を決意します。 直前の、1967昭和42年十一月場所、翌1968昭和43年一月場所と連続優勝を果たした横綱です。しかし、次の三月場所で序盤黒星が先行すると、突然の引退です。 当時、私は小学5年生でした。大相撲が大好きで、場所中は放課後の寄り道もせず、一目散に帰宅してテレビにかじりついていました。 三月場所6日目、佐田の山の引退をテレビで知りました。子ども心にも、あまりにもあっけなく信じられない幕引きに映りました。 この仕事を始めて、佐田の山さんと話ができるようになった時に、引退の時の心の内を訊いてみました。 「新聞や雑誌が当時、『4日目に、高見山に負けたことで引退を決意した』というふうに報道していたけど、それは違うんですよ。そうじゃない。もしも、高見山に負けたのが引き金だったら、その日に辞めていますよ。実はね、その1年も前から引退を考えていたんですよ。 1年前の三月場所、出羽海部屋から出て行くことになった北の冨士が優勝したでしょ。その14日目に、本場所で初めて北の冨士と対戦して、取り直しになったけど、結局負けてしまった。そのときですよ、引退が頭に浮かんだのは……。稽古場であれだけ叩きつけた弟弟子に負けてしまった。取り直しも含めて2番取って、どちらもその内容は負けた相撲ですよ。 あのときに『もう終わったな』と思いましたよ。北の富士本人には話したことはないけどね。事情があって、そこで引退とは言えませんでしたがね」 この佐田の山さんの証言を、北の富士さんに話したことがあります。 「えっ。そうなの。知らなかった。初めて聞いた。佐田の山さん本人からも、そんな話は聞いたことがないなあ。 つづく
  7. #150675 | KON |
    北の富士さんストーリー4 「悪夢ですよ。よりによって佐田の山さんと、なぜもう一番取らなきゃならないのか……。運命を恨みましたよ。でも、取り直しと決まってしまった。もう一丁、取るしかない。仕方がないよね。取り直しの仕切りも目を合わせることなくね。そして時間一杯。思いっきりぶつかったらまた左が入った。そして一気に出たんだよ。土俵際、今度も佐田の山さんの突き落としが来た。 でも、もたれ込んだ。土俵下の審判を見たけど、物言いはない。勝ったんだよね。勝てた。勝ち名乗りを受ける時も、茫然って感じだったかな。しかし、不思議なことはあるもんだねえ。稽古場では20番取って2〜3番しか勝てないのにね。そのときばかりは、なぜか勝ってしまうんだからねえ。信じられない気持ちでしたよ。 それよりも何よりも『終わってよかった』。うん、その気持ちのほうが強かったな。だから、はっきり言って、何の喜びも、何の感動もなかったね」 この日、北の冨士と優勝を争っていた大鵬が柏戸に敗れて2敗となります。そして、翌日の千秋楽、北の冨士は柏戸を肩透かしで破り、大関4場所目、破門独立となった最初の場所で幕内初優勝を決めました。 「このとき、結び前に優勝を決めて、勝ち残りで土俵下に腰を下ろすんだけど、喜びが湧いてくるわけでもないんだよね。感激というものがないんですよ。最近のお相撲さんだったらタオルで涙を抑えたりするよね。でも全然、こみ上げてくるものもなかった」 つづく
  8. #150674 | KON |
    北の富士さんストーリー 3 1965 昭和40年に「一門系統別総当たり制」が廃止され、「部屋別総当たり制」となっていました。部屋が異なれば佐田の山と対戦するのは必至です。もっとも、出羽海一門から破門された九重部屋は、この時すでに高砂一門ですから、「一門系統別総当たり制」が続いていても対戦は組まれたはずです。 呼出の声に促されて、西から横綱・佐田の山、東から大関・北の冨士が土俵に上がります。蔵前国技館は、異様な雰囲気に包まれました。 「仕切りを繰り返す最中も、何か上の空って言うのかな、集中できないんだよね。まるで、悪い夢でも見ているような。嫌な気分……うーん、というのとも違うかな。かと言って、いい気分なわけはない。闘志が湧いてくるなんてこともない。『夢だったらいいんだけどなあ』って考えながら、目も合わせず仕切っていたと思うねえ。 でもね、土俵下の呼出に『時間です』って言われた時には、ガッと何か、目が覚めたようにね。本能なのかな。 立合い、思いっきり当たっていったと思うよ。左が入って一気に持って行った。ところが、佐田の山さんにうっちゃられた。土俵際、もつれてね、微妙だった。ちょっと俺に分があるかなと思ったけどね。軍配は俺に上がった。しかし、物言いですよ。審判の協議が始まった。待つ間が長いんだよ。すんなり、そのまま軍配通り終わってくれと願っていたねえ」 その願いもむなしく、協議の結果、取り直しとなります。国技館が揺れるような歓声を耳にしながら、胸中は複雑でした。 つづく
  9. #150673 | KON |
    北の富士さん物語 2 奇跡的な白星もありながら、初日から12連勝として迎えた13日目。11勝1敗で追う大鵬との対戦でした。 「実はね、この場所前に、大鵬さんのところに胸を借りに出稽古に行っているんですよ。そのときに7連勝か8連勝したんだ、うん。で、大鵬さんが途中でね、『おまえどうしたんだ。すごく元気だな。今日のところは、このぐらいで勘弁してくれ』ってね。そもそも、大鵬さんに胸を借りても、10番に1番勝てるかどうかだったんだよ。 大鵬さんが連敗することなんて、稽古場でも見ることはなかったからね。その大鵬さんが『もう勘弁してくれ』なんて普段は言わないですよ。多少、冗談っぽくだったかもしれないけどね。でもねえ、自信はついたよね。それは確かだと思う」 ところが、大鵬の強さを改めて思い知らされます。 「13日目はね、『今回は勝てるかもしれない。いや、絶対に勝てる』って、自分に言い聞かせて臨んだと思うよ。めずらしく自信をもってね。でも、やっぱり全く相撲にならなかった。すぐに左四つに組み止められてね。いつもの『あっさり』ですよ。何もできなかった。 見えない力も、大鵬さんの前では役に立たなかったねえ。『やっぱり大鵬は違う。偉大な横綱だなあ』ってね。改めて感じたよね。他人事みたいにね」 続く14日目、いよいよ運命の日を迎えます。常に胸を借り、稽古をつけてもらった兄弟子、横綱・佐田の山との対戦です。 つづく
  10. #150672 | KON |
    北の富士さん物語 NHKの大相撲中継で実況と解説でコンビを組み、最も尊敬する52代横綱・北の富士勝昭さんについて藤井康生さんが描いた『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』。 今回は、北の富士さんが「相撲人生の中で最大の出来事」と何度も口にしていた、1967昭和42年の「出羽海部屋からの独立」後の初優勝の物語を、本書より一部抜粋、再構成してお届けする。 運命の初対戦と初優勝 そんな独立劇を乗り越えて、1967昭和42年三月場所を迎えます。 この15日間にも、北の富士さんが生涯忘れることのできないドラマがありました。 「1966昭和41年の九月場所後、バタバタで大関に昇進してから、俺も世間の目が気になるよね。だって『まさかの大関昇進』ですよ。世の中には『甘すぎる昇進』なんて言う人が大勢いたからね。大関昇進を認められていないような、そんな雰囲気もあった。 しかも、新大関の九月十一月、年が明けて一月、3場所続けて、10勝5敗ですよ。『クンロク(9勝6敗)』とは言われないけど、大関としては最低ラインだよね。 それでもって、またあの頃は大鵬さんが強すぎた。 言ってみれば、大鵬さんの2度目の全盛期ですよ。 ちょうど俺が大関に上がった頃、大鵬さん、6場所連続優勝だったかな。それが大鵬さん自身、2度目の6連覇だった。 優勝回数もあっという間に20回を超えてね。 そこにもってきて、柏戸さん、佐田の山関っているしね。佐田の山さんには、稽古でいつも胸を借りていたから、その強さはわかっているわけでしょ。その佐田の山さんでさえ簡単に優勝できない。そんなところに俺が割り込んでいけるわけがないよね。 ところがね、何だったんだろうね。あの場所は、何か目に見えないような力があったんだよね。火事場の馬鹿力じゃないけど。それはもう、勝った中にも危なっかしい相撲がいくつもあった。負けたと思った相撲でも、奇跡的に土俵際で粘って残してね、なぜか勝つんだよ。『また勝っちゃった』ってね。自分でも信じられないような相撲が何番かあったね。 俺にはそんな粘っこいところはないんですよ。だいたい何にしても淡白な方だからね。(小指を立てながら)これに対してもね。あっさりしているんですよ」 つづく

応援コメントを投稿

が付いている欄は必須項目です

※ 不適切な内容は掲載されません
※ 日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)