大相撲のコメント部屋

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応援コメント一覧 全2,728件

  1. #155316 | KON |
    北の富士さんvs玉の海関 1966年9月 千秋楽 ●(5)‐ ○(8) ㊝大鵬 北の富士、大関昇進 1966年11月 11日目 ●(5)‐ ○(9) ㊝大鵬 玉乃島、大関昇進 1967年1月 11日目 ○(6)‐ ●(9) ㊝大鵬 1967年3月 10日目 ○(7)‐ ●(9) ㊝北の富士(1) 1967年5月 12日目 ○(8)‐ ●(9) ㊝大鵬 1967年7月 千秋楽 ○(9)‐ ●(9) ㊝柏戸 1967年9月 千秋楽 ○(10)‐ ●(9) ㊝大鵬 1967年11月 11日目 ●(10)‐ ○(10) ㊝佐田の山 1968年1月 11日目 ●(10)‐ ○(11) ㊝佐田の山 1968年3月 13日目 ●(10)‐ ○(12) ㊝若浪 1968年5月 13日目 ●(10)‐ ○(13) ㊝玉乃島(1) 1968年7月 12日目 ○(11)‐ ●(13) ㊝琴桜 1968年9月 10日目 ●(11)‐ ○(14) ㊝大鵬 1968年11月 千秋楽 ○(12)‐ ●(14) ㊝大鵬 1969年1月 千秋楽 ○(13)‐ ●(14) ㊝大鵬 1969年3月 12日目 ●(13)‐ ○(15) ㊝琴桜 1969年5月 10日目 ○(14)‐ ●(15) ㊝大鵬 1969年7月 10日目 ○(15)‐ ●(15) ㊝清国 1969年9月 11日目 ●(15)‐ ○(16) ㊝玉乃島(2) 1969年11月 千秋楽 ○(16)‐ ●(16) ㊝北の富士(2) 1970年1月 千秋楽 ●(16)‐ ○(17) ㊝北の富士(3) 千秋楽北の富士1敗、玉乃島2敗で対戦 優勝決定戦は北の富士勝利。 1970年3月 千秋楽 ○(17)‐ ●(17) ㊝大鵬 北の富士、玉乃島とも横綱に昇進 1970年5月 13日目 ○(18)‐ ●(17) ㊝北の富士(4) 1970年7月 千秋楽 ○(19)‐ ●(17) ㊝北の富士(5) 1970年9月 千秋楽 ○(20)‐ ●(17) ㊝玉の海(3) 1970年11月 13日目 ●(20)‐ ○(18) ㊝玉の海(4) 1971年1月 13日目 ●(20)‐ ○(19) ㊝大鵬 1971年3月 13日目 ●(20)‐ ○(20) ㊝玉の海(5) 1971年5月 千秋楽 ○(21) ‐●(20) ㊝北の富士(6) 千秋楽北の富士全勝、玉の海1敗で対戦 1971年7月 千秋楽 ●(21)‐ ○(21) ㊝玉の海(6) 1971年9月 千秋楽 ○(22)‐ ●(21) ㊝北の富士(7) 最後の対戦 両者横綱昇進以前の対戦成績(1970年1月場所まで)は、玉の海の17勝16敗。 両者横綱同士の対戦成績(1970年3月場所以降)は、北の富士の6勝4敗。 大鵬が、最後となる32回目の優勝を果たした1971年1月初場所後4場所は、玉の海と北の富士が交互に優勝を重ねた。 特に、1971年7月名古屋場所では、玉の海が自身初にして結果的には最後となる全勝優勝を果たした一方で、北の富士は8勝に終わるという明暗が分かれたが、翌9月秋場所では、逆に北の富士が千秋楽で玉の海を破り全勝優勝を達成、これ以上ない復活を果たしたのでした。 つづく
  2. #155315 | KON |
    北の富士さんと玉の海関 4 両者の対戦は、1964年5月場所 - 1971年9月場所の45場所間に43回実現、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。 場所 対戦日 北の富士勝敗 (通算成績) 玉の海勝敗 (通算成績) ㊝優勝力士 備考 初対戦 1964年5 千秋楽 ●(0)‐ ○(1)㊝ 栃ノ海 1964年7月- - ㊝富士錦 北玉の両者の対戦はなし。 1964年9月 7日目 ●(0)‐ ○(2) ㊝大鵬 1964年11月 4日目 ○(1)‐ ●(2) ㊝大鵬 1965年1月 14日目 ○(2)‐ ●(2) ㊝佐田の山 1965年3月13日目 ●(2)‐ ○(3) ㊝大鵬 1965年5月8日目 ○(3)‐ ●(3) ㊝佐田の山 1965年7月 11日目 ○(4)‐ ●(3) ㊝大鵬 1965年9月 3日目 ●(4)‐ ○(4) ㊝柏戸 1965年11月 9日目 ●(4)‐ ○(5) ㊝大鵬 1966年1月- - -㊝ 柏戸 北玉の対戦なし。 1966年3月 2日目 ●(4)‐ ○(6) ㊝大鵬 1966年5月 14日目 ●(4)‐ ○(7) ㊝大鵬 1966年7月 千秋楽 ○(5)‐ ●(7) ㊝大鵬 つづく
  3. #155312 | KON |
    北の富士さんと玉の海関 3 、、、、 玉の海関が初の全勝優勝を御当地名古屋で飾った場所での千秋楽、 この場所の北の富士さんは8勝6敗と成績は上がらなかったが、千秋楽玉の海との横綱決戦は3分近い大熱戦となった。 立ち合い、突っ張った北の富士さんが得意の左差しで、右上手を引き、玉の海関は上手が取れない。上手をさぐるところを、上手投げで揺さぶられ、まわしに手が届かない。 だが、北の富士の寄りを、左からの下手投げを打って残し、上手をつかむ。 玉の海関は、腰を振り北の富士さんの上手を切ると、一気に寄り切った。 大熱戦の攻防に館内が大いに沸く中、お互いの健闘を讃えるかのように目を合わせて 少しうなづき合い、東西に分かれました。 駄目押しなんてものは二人の相撲には存在しない。品格のある “まさに大相撲”でした。 北の富士さんは左差しの脇が厳しく、必ずと言っていいほど得意の左四つに持ち込んでましたが、左四つでも相撲が取れる玉の海関とは毎場所毎場所好勝負となっていました。 つづく
  4. #155269 | KON |
    北の富士さんと玉の海関 2 ……仲良しとなった盟友玉の海関とは意外な共通点がありました。 豪放磊落というか派手な振る舞いが目立った北の富士さんに対して玉の海関は無口で質実剛健……というイメージを持たれてましたが、実は………… 玉の海関は 明るく気さくな性格。 趣味もプロ顔負けの腕前だったギターのほか、コンスタントに200点以上をたたき出していたボウリング、そして数々のスポーツカーでのドライブ……と趣味も多彩だった。…… 乗り回していた車は、カマロにはじまり、マーキュリー、クーガと乗り換え、どれもドアは運転席と助手席側しかない2ドアタイプ。同乗する付け人の浅間海らは、大きな体を折り曲げて後部座席に座らなければならなかった」(「大相撲」誌1997年11月号) 1970昭和45年に二人で横綱に同時昇進し、横綱経験者だけが参加できる「横綱会」に初参加した際には、 新横綱のしきたりである一芸披露において、玉の海のギター演奏に合わせて北の富士が大関時代に歌手デビューして大ヒットした曲『ネオン無情』を歌いました。 新横綱の1発芸で「歌」といえば、甚句を唄うか、故郷の民謡を謡うかがやまやまだったのに、ギターを弾いてムード歌謡を唄うとは…… その場にいた重鎮の立田川親方(=元横綱鏡里)や春日野親方(=元横綱・栃錦)や二子山親方(元横綱初代若乃花)らに 「びっくりしたよ。時代が変わったものだねぇ」と驚かれた。 つづく
  5. #155263 | KON |
    北の富士さんと玉の海関 生涯のライバルとなる北の富士と知り合ったのは、幕下時代らしい。北の富士が後年、振り返っている。 「玉の海関をはじめて知ったのは彼が幕下のころ、まだ玉乃嶋という四股名の頃だった。背は小さいが足腰がいいし、十両になって(自身が所属する)出羽海部屋に出稽古にきたとき、四つになればとてもしぶとかったので “ ん?これは!?”と意識するようになった。右四つはもちろん、左四つでも強かったから、三役に上がったころからライバルと思うようになった。とにかく玉の海関と相撲を取るのが楽しかったし、願ってもないライバルと思っていた。それにあの人は「聞き上手」だったな。一緒に酒を飲んで彼のギター伴奏で歌を歌ったこともあるし、楽しい思い出は いっぱいある」(「大相撲」誌1971年11月号) 生まれた年と初土俵は、1942年3月28日生まれの北の富士さんが1944年2月5日生まれの玉の海関より2年早い(初土俵も1957年1月の北の富士さんに対して玉乃嶋は1959年3月でした)が、玉の海関(当時は玉乃嶋→後に玉乃島→玉の海と改名)は北の富士さんの後を追うように番付を駆け上がり、新十両と新入幕も少しだけ北の富士さんが早かったが、それでも同じ年のことだった。 (北の富士さんの新十両が1963年3月で玉乃島が9月、新入幕は北の富士さんが1964年1月で玉乃島は翌3月) 角界でライバルと言えば顔も合わせないことが珍しくないが、2人は仲もよかった。 『北さん』「嶋ちゃん」と呼び合って、とても仲良しでした。 つづく
  6. #155228 | KON |
    北の富士さんの四股名 何度も改名しています 細かいことは気にしないダンディーなナイスガイなのに、意外と験担ぎ(げんかつぎ)が好き? 竹沢 勝昭(たけざわ かつあき): 1957年1月場所 - 1959年3月場所 → 竹美山 勝明(たけみやま かつあき): 1959年5月場所 - 1960年7月場所 → 北の冨士 勝明(きたのふじ かつあき):1960年9月場所 - 1967年7月場所 → 北の富士 勝明(きたのふじ かつあき ): 1967年9月場所 - 1968年1月場所 → 北の富士 洋行( ・・・ひろゆき): 1968年3月場所 → 北の富士 勝昭( ・・・ かつあき): 1968年5月場所 - 1971年1月場所 → 北の富士 勝晃( - かつあき):1971年3月場所 - 1972年5月場所 → 北の富士 勝昭( - かつあき):1972年7月場所 - 1974年7月場所
  7. #155205 | KON |
    多種多芸だった北の富士さん 2 そして本業の相撲でも 不知火型の土俵入りも出来た北の富士さん…… 盟友の横綱玉の海が巡業先の東北で病に倒れた際、別班で巡業に出ていた北の富士さんは、訃報を聞き、急きょ東北の巡業先に駆けつけ、玉の海の綱を締めて土俵入りを披露することになった。玉の海の土俵入りは両手を広げる不知火型で、北の富士さんは片手だけを伸ばし一方の片手は胸に手をやり“守りの型”を表す雲竜型でしたが、北の富士さんは不知火型で務めあげた。 NHK相撲担当アナウンサーから「何故、不知火型をできたのか……と、理由を問われた北の富士さんは「両方練習してたから。新弟子のときに。兄弟子たちからは『バカ!』って言われたよ。他人の稽古終わってから若い衆だけで隠れてみんなで土俵入りの練習をしてたねえ。『俺が横綱になったら何やる!』って。まだ若い時だよ。まだ夢を持ってるときだ。15、6歳のときだよ。俺が強くなったらこうだって。部屋の関取衆に言ったらバカって言われて。何を考えてんだ、お前ら?!って。夢を持ってたよ」と明かしていた。」 何ごとも器用だったんですねえ この頃 おわり
  8. #155196 | KON |
    一門別団体戦のこと、、、、 大相撲団体戦開催へ 前述の人数配分だと、有力な一門と上位力士が少ない一門で大きな差が出てしまうので、一部に修正し、 場所前に幕内・十両の力士70人の中で五つの一門別に分けて5名ずつを選出、ひと場所の勝敗を集計する。 同様に、幕下力士を五つの一門別に3名名ずつをピックアップ、三段目力士を同様に五つの一門別に2名ずつをピックアップしておいて、計10名の力士のその場所での勝敗を集計、 十両以上の関取・幕下力士・三段目力士の集計と合算して、一門別のその場所の勝敗とし、総勝ち数を比較して優劣を決める。 というのを 花相撲とか試験的にやってみて、運用に問題点が少なければ、一部改善して、本場所でも採用し、千秋楽の表彰式で団体優勝(一門別最優秀成績)した一門を表彰する…… この約80年ぶりの『団体優勝表彰』 これを相撲協会広報部に提案してみたいと思います。
  9. #155178 | KON |
    大相撲、一門別団体戦の提案 大相撲団体戦開催へ 大相撲には5つの一門(出羽海・二所ノ関・時津風・高砂・伊勢ヶ濱)があり、合計45の相撲部屋が所属しています。連合稽古や冠婚葬祭などでつながりを持つ、血縁・師弟関係のようなグループです。 5つの一門と所属部屋 「出羽海一門」 出羽海部屋、春日野部屋、立浪部屋、山響部屋、玉ノ井部屋、式秀部屋、境川部屋、木瀬部屋、尾上部屋、武蔵川部屋、雷部屋、二子山部屋、武隈部屋、、、、 「二所ノ関一門」 二所ノ関部屋、佐渡ヶ嶽部屋、片男波部屋、高田川部屋、松ヶ根/放駒部屋、阿武松部屋、大嶽部屋、田子ノ浦部屋、湊部屋、押尾川部屋、中村部屋、安治川部屋、鳴戸部屋、錣山部屋、、、、、 「時津風一門」 時津風部屋、伊勢ノ海部屋、鏡山部屋、湊部屋、井筒系、荒汐部屋、追手風部屋、浅香山部屋、立田川系など、、、、、 「高砂一門」 高砂部屋、若松部屋、東関部屋、朝乃山関連、九重部屋、八角部屋など、、、、、 「伊勢ヶ濱一門」 伊勢ヶ濱部屋、宮城野部屋(音羽山部屋へ継承など)、浅香山部屋(系譜)、朝日山部屋、、、、、 以上、五つの一門の力士による団体戦 場所前に幕内・十両の力士70人の中で五つの一門別に分けて8名ずつを選出、ひと場所の勝敗を集計する。 同様に、幕下力士を五つの一門別に5名ずつをピックアップしておいて、その場所での勝敗を集計、 十両以上の関取における集計と合算して、一門別のその場所の勝敗とし、総勝ち数を比較して優劣を決める。 本場所での開催の前に、花相撲などで 開催してみてはどうでしょうかねえ
  10. #155108 | KON |
    東前頭4枚目・大栄翔(32)=追手風=が11日、“ウルフ流トレ”で大関昇進に再び挑む決意を示した。 仙台市の夏巡業で、審判部として巡業に帯同する君ケ浜親方(元関脇・隠岐の海)から助言を受け、土俵周りで連続50回の腕立て伏せに挑戦。「若い時はできたけど、最後きつくてできなかった。昔とは体が違う」と痛感し、今後も筋持久力を鍛えるトレーニングに取り組む考えを示した。 提案した君ケ浜親方は、筋肉質の体で「ウルフ」の愛称で親しまれた名横綱・千代の富士さんの姿にヒントを得たと明かした。 「無理な投げ技で左肩の脱臼癖が直らず伸び悩んでいた千代関は、1979昭和54年春場所の取組で右肩まで脱臼してしまい、その瞬間『もう力士生命は終わり』とさすがに観念したという。医師は、手術すれば完治はするが、それでは腕の動きが悪くなると宣告。師匠(北の富士さん)が考えた打開策が“筋肉の鎧”で肩関節を守ること。1日500回の腕立伏せをノルマと指示されたが千代の富士はさら散々稽古した後にベンチプレスを70回ぐらいやっていた……というのを聞いて、筋持久力がすごかったのでは」と推測。 以前から気にかける大栄翔に向け「違う刺激になれば」と声をかけたという。 同親方に4月の春巡業では四股の指導を受けた大栄翔も「3年先の稽古と言われるが、3か月先の名古屋場所で10勝5敗だった」と感謝。今回の提案にも意欲的だった。 3年前に大関獲りに挑戦した “元大関候補”の大栄翔32歳は「現役でいる以上は常に上を目指すと決めている」と力を込める。 秋場所は7場所ぶりの三役返り咲きが確実。新たな刺激を加え、大関昇進の起点づくりを目指す。

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