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とにかく大所帯で若者の1人、2人脱走しても誰も気がつかないほどでした。師匠は出羽海秀光、元横綱常ノ花。優勝10回を誇る大横綱。相撲協会の理事長であり、名門中の名門出羽海一門の総帥でもあります。しかし部屋の実情は大変で、千代の山関は休場が続き、引退もささやかれていた。 出羽錦、羽島山、その他の関取衆もベテランばかり。新聞、雑誌に斜陽出羽海部屋と書かれ始めていた。子供の私には何の事やらさっぱり理解できなかったが、太宰治の小説から引用したようだ。そんな時に発奮したかどうかは分からないが、千代の山関が破竹の勢いで連戦連勝、15戦全勝を果たしたではありませんか。千代の山関、6度目、最後の優勝でした。 つづく
復刻配信・北の富士コラム特別寄稿4】「親方が腹を切ったぞ」兄弟子が叫んだ…地方巡業で起きた衝撃の出来事 師匠の自殺未遂は15歳の私にとってあまりにも大きい体験でした 特別寄稿~4~、2020年5月27日付 27日で4日目。相撲抜きで記事を書くのはけっこう難しいものですね。何しろ基礎ができていないのだからお許しを願いたい。 それでは3日目の続きです。当時の出羽海部屋は横綱千代の山を筆頭に出羽錦、大晃、巨漢の大起、やぐら投げの羽島山、けたぐりの名人出羽湊。まだいたと思うが、忘れてしまった。十両も5、6人いました。この他行司、呼び出し、床山、幕下以下の力士も合わせると優に100人は超えていたと思われます。 つづく
優勝の報告をひと通りし終えて 部屋の座敷で一杯呑みながらでしたが、そんな話をしてくれました。 その答えはすぐに、わかりました。 翌日からマスコミの記者さんたちの部屋への取材が一気に10倍になったのです。 幸い、親方(元横綱北の富士)が記者さんたちの対応に長けていたので、自分たち力士に影響は少なかったのですが、カメラを回されての稽古に浮き足立つ力士もいましたね。 それとテレビや新聞雑誌の取材も増えてきましたが、そこも親方が稽古の時間を割いての取材は一切断ってくれてましたので本場所の成績に影響が出ることはなく、初優勝で大関昇進し、3場所で横綱昇進 同じ年に、関脇、大関、横綱と3つの番付位置すべてで優勝したのは、大相撲史上初でした。 初優勝した時に(九重)親方が厳しく律してくれなかったら、タニマチさんの誘いを全部受けて 有頂天になって稽古そっちのけで飲み歩いて駄目になっていたでしょう。 あとで聞いた話では、親方自身が大関のころに 稽古よりも 銀座で酒飲んで楽しい時間を過ごす毎日で、歌もヒットしたのでテレビ番組出演が忙しくて、またそれが楽しくて大関の地位に長居してしまい横綱へはずいぶん遠回りした…… と言ってたそうです。
NHKを定年退職された藤井アナウンサーが振り返る北の冨士さん 元千代の冨士(後の第三代目の九重親方)にインタビューしていた時のこと “関脇千代ノ富士、初優勝” 北の湖vs貴ノ花 満の番組視聴率記録 50.6%を上回る大相撲史上最高の52.1%(瞬間視聴率は65.3%)を記録した瞬間でした。 千代の富士が引退して 三代目の九重親方となり、もう何年も経ってから当時の話を聞いたことがあります。 「初めての優勝パレード、国技館を出発する時もものすごい数の人で、へー、これが優勝なんだと思ったね。それよりもすごかったのが(九重)部屋に着く時だよ。当時、江戸川区に部屋があってね、部屋の100mぐらい手前でオープンカーを降りて歩くんだけど、もう前に進めない。後で聞いたら1万人も部屋の周りに集まっていたっていうからね。100mを30分以上かけて人をかき分けながら歩いた。 親方(元横綱北の富士)が待っている部屋の前に到着した時には、羽織の紐がないんだよね、もぎ取られたみたいで……。草履は踏まれるし、大銀杏も崩れるし……。 やっとのことで(九重)部屋に戻りましたが その夜、親方(二代目九重親方=北の富士) から『お前の人生、これから変わるぞ』と言われたのを覚えている
やっとタクシーに乗って、両国の出羽海部屋に着きました。あのころのタクシーはルノーだったと思います。生まれて初めてタクシーに乗れたのも、うれしいことでした。 「東京へ来てよかったなあ」と思いながら出羽海部屋の玄関に入った途端、楽しい夢が一気に吹っ飛んでしまいます。 「ごめん下さい」「ハーイ」と出てきたお相撲さんのでかいこと。当時、私は180センチ以上あって、田舎では自分より大きい人をあまり見たことはありません。ところがその若い力士は2メートル近くもあり、とにかくでかい。声もでかい。顔も大きくて怖い。それだけで「早く帰りたい。殺される」と思いました。 親方と千代の山関に会って、おじさんが国に帰る時、一緒に帰ろうと本当に思ったのです。さて、これから先どうなりますやら。4日目に続きます。今回は連載物になりそうです。お付き合い願います。 つづく
道中、母が持たせてくれたにぎり飯もどこかに転がっていってしまいました。翌朝、上野駅に到着。とにかく朝だったと思います。連れて来ていただいたおじさんは、もう何度も来ているようでしたが、どうやら出口を間違え、動物園口の方から出ました。 今乗ってきた汽車のホームにお相撲さんが1人いました。この人が迎えに来たお相撲さんだと考えていました。まるで夢を見ているような変な感じ。「ここが東京か」と思ったら急に北海道に帰りたくなりました。 ボーッとしながら坂道を歩き始めると、足を滑らし、ひっくり返りました。靴ではなく私は下駄を履いていたのです。 東京へ行ったら着物を着て、どうせ下駄を履くのだからと家を出る時からけでした。ご丁寧に滑り止めの金具を打ってくれていたのが悪く、アスファルトの道路で滑ってしまったのです。田舎の人は東京もまだ道は土と思っていたんですね。 転んだはずみでお土産に持ってきた小豆の一袋が破れ、赤い小豆がバラバラと一気に坂を転がっていく。私は呆然と見ているばかりでしたが、このあたりの土産屋のおじさんや通行人が一生懸命拾ってくれました。 あの当時、小豆は赤いダイヤと言われ、東京でも珍重されていたらしく、私をスカウトしてくれた千代の山関と出羽海親方、そして、おじさんがいつも泊まる旅館へのお土産として持たせてくれました。東京に行ったら気をつけろと言われていたから、親切は本当にうれしかったものです。 つづく
NHKアナウンサーで大相撲中継のエースとして活躍した藤井康生氏が、自身のYouTubeチャンネル「藤井康生のうっちゃり大相撲」で大関大の里(二所ノ関)の綱取りについて言及。大の里は3月の春場所で12勝3敗の成績で、3場所ぶり3度目の優勝を達成。5月の夏場所では自身初の綱取りに挑む。藤井氏は「(春場所では)彼が力を示したなという気はいたしました。綱取りの可能性も、巡業から次の5月場所に向かっての1か月少々の過ごし方が、大の里が満足がいくような稽古ができて体の調整が順調にできれば、私はもう7割方、横綱になれるのではないかなと。周りとの比較も含めて、優勝の可能性があるのではないかという気がします」と、ズバリ予想した。 その後に視聴者から寄せられた「11勝で優勝したらどうするか」とのコメントにも反応。藤井氏は「2場所連続優勝で横綱に昇進できなかったというのは、近年ではありませんので。だから優勝すれば上がると思います。11勝でも上がるんじゃないかなと思います、大袈裟に言えばね」と指摘。 その上で「11勝で優勝ということは(確率的に)ほぼ考えられないと思います。歴史上、まだ3回しかないはずですから。大丈夫だと思うんですけどね。まあ、圧倒的な強さで勝ったら、それでいいんじゃないですか」と好成績での綱取りに期待した。
続・北の富士さんエピソード 北の富士場所2日目 つづき 話は戻ります。入門当時の師匠だった出羽海理事長(元横綱常ノ花)が大のマージャン嫌いだったのです。親方いわく「パイを交ぜる時、打つ時に脇が空くマージャンをやると脇が甘くなる」が持論でした。時々マージャンをやっているところを見つけると、いつも持ち歩いている象牙のステッキで思い切り頭を殴ってました。 話は続きます。これからが面白いのです。師匠はこうも言いました。「マージャンは脇が空くので相撲の為にはならないが、その点花札は、札を打つ時に脇が締まるので稽古になる」。言い得て妙な話である。それ以来私は花札が好きになりました。何の娯楽もない時代であります。ちゃんこ場の片隅で座布団を挟んで兄弟弟子と一文10円、1、2時間取ったり取られたりしてせいぜい何百円。ささやかな楽しみです。 師匠はこんなことも言っています。「マージャンは中国から来たもの。花札は日本古来の文化。大いにやるべし」。いい時代でした。というわけで今回の黒川さんの件はアウト。やはり出羽海親方はすごい。「マージャンは脇が空くから駄目」。黒川さんは文字通り脇が甘かったようだ。おしまい。お後がよろしいようで。 つづく
続・北の富士さん、エピソード北の富士場所 復刻配信・北の富士コラム特別寄稿2 北の富士さんに言わせると、マージャンは力士にとっても「即アウト」…遊んでいいのは、花札だとか。さて、その理由は!? 北の富士場所2日目は、今話題の賭けマージャンであります。北の富士さんに言わせると、マージャンは力士にとっても「即アウト」。遊んでいいのは、花札だとか。さて、その理由は-。 二人の横綱が元気いっぱいの頃の映像がNHKでながれてましたか!私も若かったし、故千代の富士(元九重親方)も絶頂期を迎えんとしていた時期だけに、自信にあふれて、いい顔をしていたね。北勝海(現八角親方)は、まだ初々しくかわいかったが、今では理事長である。私なんぞは側にも寄れない存在であります。この2人で10連覇、9連覇と怒濤の進撃が始まるのであります。まさにこの世の春を体験させてもらいました。 さて、きょうは何を書きましょうか。何しろ肝心の相撲がないので、どのように話を進めていいのか苦労する。入門時から始めようと考えてはいましたが、気になることがニュースになったので、ちょっとだけ触れてみたいと思います。長いこと、この仕事をさせてもらってますが、固い話はなかったと思う。まして私風情(わたしふぜい)が政治を語るとは恐ろしい世の中になったものです。 最近で気になった話とは黒川検事長が、賭けマージャンで辞任したことであります。ちなみに私はマージャンはしません、できません。多分、父親が大変なマージャン好きで、母と年中けんかをしているのを見て育ち、自然にマージャンは悪い遊びと思ったのでしょう。 ところが相撲部屋に入門して驚きました。関取衆は稽古が終わり飯を食うとすぐにマージャン。暇さえあればマージャン。夜も遅くまでマージャンが続く。腹がすくとラーメンを頼め、水を持ってこい。われわれ若い力士は寝る暇さえないほどで、ますますマージャン嫌いになったのです。後年、武蔵川理事長(元幕内出羽ノ花)に「おまえはマージャンをしないのだけが偉い」とほめられました。 つづく
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とにかく大所帯で若者の1人、2人脱走しても誰も気がつかないほどでした。師匠は出羽海秀光、元横綱常ノ花。優勝10回を誇る大横綱。相撲協会の理事長であり、名門中の名門出羽海一門の総帥でもあります。しかし部屋の実情は大変で、千代の山関は休場が続き、引退もささやかれていた。
出羽錦、羽島山、その他の関取衆もベテランばかり。新聞、雑誌に斜陽出羽海部屋と書かれ始めていた。子供の私には何の事やらさっぱり理解できなかったが、太宰治の小説から引用したようだ。そんな時に発奮したかどうかは分からないが、千代の山関が破竹の勢いで連戦連勝、15戦全勝を果たしたではありませんか。千代の山関、6度目、最後の優勝でした。
つづく
復刻配信・北の富士コラム特別寄稿4】「親方が腹を切ったぞ」兄弟子が叫んだ…地方巡業で起きた衝撃の出来事 師匠の自殺未遂は15歳の私にとってあまりにも大きい体験でした
特別寄稿~4~、2020年5月27日付
27日で4日目。相撲抜きで記事を書くのはけっこう難しいものですね。何しろ基礎ができていないのだからお許しを願いたい。
それでは3日目の続きです。当時の出羽海部屋は横綱千代の山を筆頭に出羽錦、大晃、巨漢の大起、やぐら投げの羽島山、けたぐりの名人出羽湊。まだいたと思うが、忘れてしまった。十両も5、6人いました。この他行司、呼び出し、床山、幕下以下の力士も合わせると優に100人は超えていたと思われます。
つづく
優勝の報告をひと通りし終えて 部屋の座敷で一杯呑みながらでしたが、そんな話をしてくれました。
その答えはすぐに、わかりました。
翌日からマスコミの記者さんたちの部屋への取材が一気に10倍になったのです。
幸い、親方(元横綱北の富士)が記者さんたちの対応に長けていたので、自分たち力士に影響は少なかったのですが、カメラを回されての稽古に浮き足立つ力士もいましたね。
それとテレビや新聞雑誌の取材も増えてきましたが、そこも親方が稽古の時間を割いての取材は一切断ってくれてましたので本場所の成績に影響が出ることはなく、初優勝で大関昇進し、3場所で横綱昇進
同じ年に、関脇、大関、横綱と3つの番付位置すべてで優勝したのは、大相撲史上初でした。
初優勝した時に(九重)親方が厳しく律してくれなかったら、タニマチさんの誘いを全部受けて 有頂天になって稽古そっちのけで飲み歩いて駄目になっていたでしょう。
あとで聞いた話では、親方自身が大関のころに 稽古よりも 銀座で酒飲んで楽しい時間を過ごす毎日で、歌もヒットしたのでテレビ番組出演が忙しくて、またそれが楽しくて大関の地位に長居してしまい横綱へはずいぶん遠回りした……
と言ってたそうです。
NHKを定年退職された藤井アナウンサーが振り返る北の冨士さん
元千代の冨士(後の第三代目の九重親方)にインタビューしていた時のこと
“関脇千代ノ富士、初優勝”
北の湖vs貴ノ花 満の番組視聴率記録 50.6%を上回る大相撲史上最高の52.1%(瞬間視聴率は65.3%)を記録した瞬間でした。
千代の富士が引退して 三代目の九重親方となり、もう何年も経ってから当時の話を聞いたことがあります。
「初めての優勝パレード、国技館を出発する時もものすごい数の人で、へー、これが優勝なんだと思ったね。それよりもすごかったのが(九重)部屋に着く時だよ。当時、江戸川区に部屋があってね、部屋の100mぐらい手前でオープンカーを降りて歩くんだけど、もう前に進めない。後で聞いたら1万人も部屋の周りに集まっていたっていうからね。100mを30分以上かけて人をかき分けながら歩いた。
親方(元横綱北の富士)が待っている部屋の前に到着した時には、羽織の紐がないんだよね、もぎ取られたみたいで……。草履は踏まれるし、大銀杏も崩れるし……。
やっとのことで(九重)部屋に戻りましたが その夜、親方(二代目九重親方=北の富士) から『お前の人生、これから変わるぞ』と言われたのを覚えている
やっとタクシーに乗って、両国の出羽海部屋に着きました。あのころのタクシーはルノーだったと思います。生まれて初めてタクシーに乗れたのも、うれしいことでした。
「東京へ来てよかったなあ」と思いながら出羽海部屋の玄関に入った途端、楽しい夢が一気に吹っ飛んでしまいます。
「ごめん下さい」「ハーイ」と出てきたお相撲さんのでかいこと。当時、私は180センチ以上あって、田舎では自分より大きい人をあまり見たことはありません。ところがその若い力士は2メートル近くもあり、とにかくでかい。声もでかい。顔も大きくて怖い。それだけで「早く帰りたい。殺される」と思いました。
親方と千代の山関に会って、おじさんが国に帰る時、一緒に帰ろうと本当に思ったのです。さて、これから先どうなりますやら。4日目に続きます。今回は連載物になりそうです。お付き合い願います。
つづく
道中、母が持たせてくれたにぎり飯もどこかに転がっていってしまいました。翌朝、上野駅に到着。とにかく朝だったと思います。連れて来ていただいたおじさんは、もう何度も来ているようでしたが、どうやら出口を間違え、動物園口の方から出ました。
今乗ってきた汽車のホームにお相撲さんが1人いました。この人が迎えに来たお相撲さんだと考えていました。まるで夢を見ているような変な感じ。「ここが東京か」と思ったら急に北海道に帰りたくなりました。
ボーッとしながら坂道を歩き始めると、足を滑らし、ひっくり返りました。靴ではなく私は下駄を履いていたのです。
東京へ行ったら着物を着て、どうせ下駄を履くのだからと家を出る時からけでした。ご丁寧に滑り止めの金具を打ってくれていたのが悪く、アスファルトの道路で滑ってしまったのです。田舎の人は東京もまだ道は土と思っていたんですね。
転んだはずみでお土産に持ってきた小豆の一袋が破れ、赤い小豆がバラバラと一気に坂を転がっていく。私は呆然と見ているばかりでしたが、このあたりの土産屋のおじさんや通行人が一生懸命拾ってくれました。
あの当時、小豆は赤いダイヤと言われ、東京でも珍重されていたらしく、私をスカウトしてくれた千代の山関と出羽海親方、そして、おじさんがいつも泊まる旅館へのお土産として持たせてくれました。東京に行ったら気をつけろと言われていたから、親切は本当にうれしかったものです。
つづく
NHKアナウンサーで大相撲中継のエースとして活躍した藤井康生氏が、自身のYouTubeチャンネル「藤井康生のうっちゃり大相撲」で大関大の里(二所ノ関)の綱取りについて言及。大の里は3月の春場所で12勝3敗の成績で、3場所ぶり3度目の優勝を達成。5月の夏場所では自身初の綱取りに挑む。藤井氏は「(春場所では)彼が力を示したなという気はいたしました。綱取りの可能性も、巡業から次の5月場所に向かっての1か月少々の過ごし方が、大の里が満足がいくような稽古ができて体の調整が順調にできれば、私はもう7割方、横綱になれるのではないかなと。周りとの比較も含めて、優勝の可能性があるのではないかという気がします」と、ズバリ予想した。 その後に視聴者から寄せられた「11勝で優勝したらどうするか」とのコメントにも反応。藤井氏は「2場所連続優勝で横綱に昇進できなかったというのは、近年ではありませんので。だから優勝すれば上がると思います。11勝でも上がるんじゃないかなと思います、大袈裟に言えばね」と指摘。 その上で「11勝で優勝ということは(確率的に)ほぼ考えられないと思います。歴史上、まだ3回しかないはずですから。大丈夫だと思うんですけどね。まあ、圧倒的な強さで勝ったら、それでいいんじゃないですか」と好成績での綱取りに期待した。
そ~言えば黒川氏、自身の身辺が安泰のツモりが賭け麻雀をやってしまってはロン外となってしまったわけだな。
続・北の富士さんエピソード
北の富士場所2日目 つづき
話は戻ります。入門当時の師匠だった出羽海理事長(元横綱常ノ花)が大のマージャン嫌いだったのです。親方いわく「パイを交ぜる時、打つ時に脇が空くマージャンをやると脇が甘くなる」が持論でした。時々マージャンをやっているところを見つけると、いつも持ち歩いている象牙のステッキで思い切り頭を殴ってました。
話は続きます。これからが面白いのです。師匠はこうも言いました。「マージャンは脇が空くので相撲の為にはならないが、その点花札は、札を打つ時に脇が締まるので稽古になる」。言い得て妙な話である。それ以来私は花札が好きになりました。何の娯楽もない時代であります。ちゃんこ場の片隅で座布団を挟んで兄弟弟子と一文10円、1、2時間取ったり取られたりしてせいぜい何百円。ささやかな楽しみです。
師匠はこんなことも言っています。「マージャンは中国から来たもの。花札は日本古来の文化。大いにやるべし」。いい時代でした。というわけで今回の黒川さんの件はアウト。やはり出羽海親方はすごい。「マージャンは脇が空くから駄目」。黒川さんは文字通り脇が甘かったようだ。おしまい。お後がよろしいようで。
つづく
続・北の富士さん、エピソード北の富士場所
復刻配信・北の富士コラム特別寄稿2
北の富士さんに言わせると、マージャンは力士にとっても「即アウト」…遊んでいいのは、花札だとか。さて、その理由は!?
北の富士場所2日目は、今話題の賭けマージャンであります。北の富士さんに言わせると、マージャンは力士にとっても「即アウト」。遊んでいいのは、花札だとか。さて、その理由は-。
二人の横綱が元気いっぱいの頃の映像がNHKでながれてましたか!私も若かったし、故千代の富士(元九重親方)も絶頂期を迎えんとしていた時期だけに、自信にあふれて、いい顔をしていたね。北勝海(現八角親方)は、まだ初々しくかわいかったが、今では理事長である。私なんぞは側にも寄れない存在であります。この2人で10連覇、9連覇と怒濤の進撃が始まるのであります。まさにこの世の春を体験させてもらいました。
さて、きょうは何を書きましょうか。何しろ肝心の相撲がないので、どのように話を進めていいのか苦労する。入門時から始めようと考えてはいましたが、気になることがニュースになったので、ちょっとだけ触れてみたいと思います。長いこと、この仕事をさせてもらってますが、固い話はなかったと思う。まして私風情(わたしふぜい)が政治を語るとは恐ろしい世の中になったものです。
最近で気になった話とは黒川検事長が、賭けマージャンで辞任したことであります。ちなみに私はマージャンはしません、できません。多分、父親が大変なマージャン好きで、母と年中けんかをしているのを見て育ち、自然にマージャンは悪い遊びと思ったのでしょう。
ところが相撲部屋に入門して驚きました。関取衆は稽古が終わり飯を食うとすぐにマージャン。暇さえあればマージャン。夜も遅くまでマージャンが続く。腹がすくとラーメンを頼め、水を持ってこい。われわれ若い力士は寝る暇さえないほどで、ますますマージャン嫌いになったのです。後年、武蔵川理事長(元幕内出羽ノ花)に「おまえはマージャンをしないのだけが偉い」とほめられました。
つづく