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今は感染者は出ていないようだから、抗体検査が終わり次第、稽古を再開するべきだろう。聞くところによると稽古はしないで済むし、場所も休みだし、喜んでいる不届き者もいるらしい。実に情けない。人間は一度楽を知ると、すぐにナマクラに成り下がってしまうものらしい。私が良い例で、先場所以来一度もペンを握っていないし、文章も書いていない。だからこのありさまであります。そもそも私は真面目な話が苦手である。2日目からは63年間の経験談などを書き述べてみようと思います。
そのためには、いつまでも感染を恐れて四股と鉄砲ばかりでは、本場所の土俵に立っても良い相撲を取れるはずがない。確かに相撲という競技は体と体をぶつけ組み合ってなんぼの世界である。3密を避けていたら、とても成り立たない。裸の体で激しく当たり合う。つばきや汗も顔にかかるし、時には血すら飛んでくる。寝る時も食事も大勢の若者が共同生活をする。このままで打つ手がない。と言っても始まらない。協会は一丸となってこの難局を乗り切らねばならない。まさかワクチンができるまで稽古もせず、ジーッと待つのか。そんなわけにはいくまい。 つづく
続北の富士さんエピソード ところで、もし私が死んだ時はとても他の新聞では1面は無理だろう。本紙とは長年の付き合いということもあるので、少しは期待していいかな。別に1面に載りたいわけではないので、気にしないでけっこうです。死んでしまえばおしまいさ。それでも見えを張りたいものよ、人間は。 さて軽口はこの位にして、今後の大相撲は一体どうなるのか心配である。名古屋場所を東京で行うのは決まったようだが、コロナの第2波が来るらしい。もしそうなると、秋場所だって分からなくなる。下手をすれば九州場所にも影響するだろう。例え開催できたとしても、無観客場所となる公算が大きい。これは他のスポーツにも言えることだ。夏の甲子園も中止が決まり、高校球児たちも涙をのんだ。私も元は野球少年だっただけに、同情を禁じ得ない。夢を絶たれた球児に比べ、力士たちはまだ幸せである。運が良ければ再度土俵に上がることができる。例えお客さんが不在でも、相撲が取れるだけでもありがたいと思ってもらいたい。 つづく
日本相撲協会は24日、東京・両国国技館で評議員会を開き、24年度(1~12月)の決算を承認し、経常収益から経常費用を差し引いた額は約14億4500万円の大幅黒字となったと発表しました。 協会担当者によれば「おそらく過去最高」の黒字額だという。 新型コロナウイルス禍の2020年度から3年間で計約113億円の赤字を計上したが、23年度に約3億4600万円の黒字に転じていた。 全6場所完売による入場券売り上げ収入や、巡業日の日数増加による巡業興業契約金収入が増加。 また、スポンサー協賛金や広告売り上げも増えた。グッズの売り上げなども好調という。 法人税の納付額は約2億9000万円だったということ
北の富士さん エピソード10 元NHK藤井康生アナ ・・・ 実は藤井アナ、幼少期の好きだった力士として元横綱栃ノ海を挙げてました。 「私自身のことを言ってなんですが……」と前置きした上で、「北の富士(勝昭)さんの前では(小学生時代は)『北の富士を応援してました』と言いますが、実はやっぱり当時は栃ノ海を応援してましたね。 “ 小よく大を制す ” 栃ノ海の相撲が好きでしたね」と明かしていました。 ・・・ 藤井さん、北の富士さんの前で『栃ノ海さんが好きだった』と話しても大丈夫だと思いますよ。 栃ノ海関は 北の富士さんが出羽の海部屋時代の出羽一門の兄弟子で、100人を超える力士たちが集まる“一門の連合稽古”において胸を出してもらった恩人が佐田の山関と栃ノ海さんでしたから、それを聞いたからと嫌な顔する北の富士さんではないでしょう。 あの猛稽古があったから北の富士さんの突っ張りに磨きがかかり、小兵力士への矢のような突き放しが身につき、突っ張りをかいくぐられ中に入られた時の対処などを学べたことが生きて、後に小兵力士を苦手としなくなって十両全勝優勝→(翌場所)新入幕での13勝という大躍進、横綱昇進後の金星配給の少なさにもつながったのですから北の富士さんにとって栃ノ海さんは大恩人でした。 九重親方が出羽海部屋から独立した際に一緒に独立することになった北の富士さんが出羽海部屋の佐田の山関・栃ノ海関と対戦するようになって、対戦することが『嫌で嫌でしかたなかった』とコメントしてましたね。 この先輩お二人との対戦成績は どちらも 北の富士の2勝4敗でした。 北の富士さんは 大鵬・柏戸・佐田の山・栃ノ海といった先輩横綱たちには “すべて ”勝ち越せませんでしたが、琴櫻・輪島・北の湖・三重ノ海といった後輩横綱たちには “すべて ”勝ち越し、先輩横綱としての壁となり立派に責任を果たしました。
北の富士さんエピソード9 北の富士さんの解説が面白いのは皆さん御承知ですが、実は テレビでの解説よりもラジオでの解説の時のほうがリラックスしてるというか 本音まる出しというか ある意味 やりたい放題でした。 ラジオ実況中に 解説席のすぐ隣の舛席のお客様に声をかけられることがしばしばあり、時には そちらの話に夢中になって土俵を見てない・ラジオ実況アナウンサーからの質問も聞いてない。 そして時折、解説をホッポリ出してトイレへ行ってしまうことがありました。 そんな時には実況アナはひとりで話して時間をつないでいたものですが藤井アナウンサーだけは 「えー、ただいま北の富士さんはトイレへお出かけされてます。ちょっと長いですが、通路とかで知り合いにでも遭遇して話し込んでいるのかもしれません」と微妙な説明をしていました。 しかし北の富士さんは席に戻ってくるなり『よっこらしょ!いやいや、朝から腹の調子が悪くてね。なんか変なもん食ったかなぁ?』と説明してましたがマイクがオフになってなかったので全て聴取者に聞こえてました。 せっかく藤井アナが取り繕ってくれてたのに…… つづく
北の富士さんエピソード8 【インタビュー】元NHK藤井康生アナウンサー 過去の大相撲中継では、北の富士氏、舞の海秀平氏(53)らとの掛け合いがファンの間で人気を博し、藤井アナの最後のテレビ実況にツイッターでは「寂しい限り」「寂しくなるなあ」などのコメントが寄せられた。 また、藤井アナと解説陣とのやりとりを楽しみにしていたファンからは「解説の北の富士さん、舞の海さんと3人での中継は一部ファンから『漫才トリオ』と呼ばれていて実に楽しかった」「北の富士と藤井さんのフジ・フジコンビ好きやったなぁ」などのコメントが寄せられてました。 実は、両国国技館の場合、向こう正面の解説者席の舞の海さんから正面解説者席の北の富士さんが丸見えで、北の富士さんがよそ見している時など、意識的に土俵上の力士が見せた細かい動きについて 『北の富士さん、今の動きはどういう意図があったんでしょうねえ?』と不意打ち的に質問を投げ掛け、北の富士さんが「ん? 今の? あっごめん、ちょっと見てなかった」と言い訳して咳払い。 狙い打ちに成功した舞の海さんは、してやったり。やり込められてばかりではない舞の海さんでした。 つづく
北の富士さんのエピソード 6 【インタビュー】元NHK藤井康生アナウンサー これまで藤井アナとコンビを組んで解説を務めてきた北の富士さんは「藤井さんのおかげでずいぶん話を盛ってもらってね。(私の)つまらん話を面白くしてくれました」と振り返り、藤井アナは「いえいえ、面白い話を頂きました」と感謝の言葉を口にした。 多くのファンから『漫才トリオ』と呼ばれていて実に楽しかったとの声 北の富士氏の突然の振りにも冷静さを失わなかった藤井アナは「土俵上の実況の最中に昔話をしてしまいましたが」とすぐに話題を土俵に切り替え、無難に実況を続けました。 話のネタがない時など、正月の初場所初日に北の富士さんに倣って和装で登場した舞の海さんに向かって北の富士さんが『舞の海くん、どうしたの?今日、七五三?』と放った一撃には藤井アナも笑いをこらえていたのか、しばし無言でした。 舞の海さんは顔を真っ赤にして黙っちゃうし、、、 確かに年齢不相応な童顔で丸顔の舞の海さん、当時47~48歳でしたが、和服を着た ひとまわりも年下の力士たちよりずっと若く見えました。 その『七五三?……』のあと その日の実況中継は北の富士さんの独壇場でしたねえ。 また、優勝争いをしてる力士の“ここ一番”にかける思いを論じてる舞の海さんに『君は優勝争いしたことないから解らんでしょ!?』と かました時には “それを言っちゃあ お仕舞いですよ、北の富士さん”と思いました つづく
北の富士さんエピソード5 【インタビュー】元NHK藤井康生アナウンサー 祖父や父から後に聞いた話ですけれども、小学校の2年生3年生くらいですかね、「お前は最初に『大鵬』という漢字を書いたんだよ」と。 それくらいきっと好きだったというのと、そういう雑誌が毎月欠かさずありましたから、読んだり、見たりするのが好きだったんでしょうね 取組の終盤戦に藤井アナが北の富士さんの入門当時の話題に触れ、北の富士さんが入門するために1957年1月に上京した時の様子を語る中で『藤井さんはその頃に生まれたんだな』 と話を振った。 1957年1月生まれの藤井アナは「そうなんです。北の富士さんが上野駅に降り立った日の朝、ちょうど同じくらいの時刻におそらく岡山の田舎で生まれたわけですが」と返答した。 そして北の富士さんは「どうして、ところで今日が最後なの?」と語りかけ、 「定年だから?……定年だと最後になっちゃうの?」とあまり納得できない北の富士さん 藤井アナは 「NHKの放送としては、大相撲放送としては、です。本当にお世話になりました」と、この日が最後の大相撲実況となることを明かしました。 つづく
北の富士さんエピソード1 【インタビュー】元NHK藤井康生アナウンサー ー北の富士さんがそれだけお話しされたのも藤井さんだからこそですね (藤井アナ) 子供のころから相撲を見ていましたから。相撲の雑誌は祖父が毎月買ってくれたんです。 3歳の時、昭和35年くらいですけど わが家に白黒テレビが入ってくるわけです。 祖父が大相撲が大好きで、相撲をどうしても見たいと。決して裕福な家ではなかったんですけど、当時世の中に広がり始めた白黒テレビを買ってきて。 そして、いつも私は祖父のあぐらの中にちょこんと座って、相撲を見ていたらしいんです。 つづく
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,643件 』
今は感染者は出ていないようだから、抗体検査が終わり次第、稽古を再開するべきだろう。聞くところによると稽古はしないで済むし、場所も休みだし、喜んでいる不届き者もいるらしい。実に情けない。人間は一度楽を知ると、すぐにナマクラに成り下がってしまうものらしい。私が良い例で、先場所以来一度もペンを握っていないし、文章も書いていない。だからこのありさまであります。そもそも私は真面目な話が苦手である。2日目からは63年間の経験談などを書き述べてみようと思います。
そのためには、いつまでも感染を恐れて四股と鉄砲ばかりでは、本場所の土俵に立っても良い相撲を取れるはずがない。確かに相撲という競技は体と体をぶつけ組み合ってなんぼの世界である。3密を避けていたら、とても成り立たない。裸の体で激しく当たり合う。つばきや汗も顔にかかるし、時には血すら飛んでくる。寝る時も食事も大勢の若者が共同生活をする。このままで打つ手がない。と言っても始まらない。協会は一丸となってこの難局を乗り切らねばならない。まさかワクチンができるまで稽古もせず、ジーッと待つのか。そんなわけにはいくまい。
つづく
続北の富士さんエピソード
ところで、もし私が死んだ時はとても他の新聞では1面は無理だろう。本紙とは長年の付き合いということもあるので、少しは期待していいかな。別に1面に載りたいわけではないので、気にしないでけっこうです。死んでしまえばおしまいさ。それでも見えを張りたいものよ、人間は。
さて軽口はこの位にして、今後の大相撲は一体どうなるのか心配である。名古屋場所を東京で行うのは決まったようだが、コロナの第2波が来るらしい。もしそうなると、秋場所だって分からなくなる。下手をすれば九州場所にも影響するだろう。例え開催できたとしても、無観客場所となる公算が大きい。これは他のスポーツにも言えることだ。夏の甲子園も中止が決まり、高校球児たちも涙をのんだ。私も元は野球少年だっただけに、同情を禁じ得ない。夢を絶たれた球児に比べ、力士たちはまだ幸せである。運が良ければ再度土俵に上がることができる。例えお客さんが不在でも、相撲が取れるだけでもありがたいと思ってもらいたい。
つづく
日本相撲協会は24日、東京・両国国技館で評議員会を開き、24年度(1~12月)の決算を承認し、経常収益から経常費用を差し引いた額は約14億4500万円の大幅黒字となったと発表しました。
協会担当者によれば「おそらく過去最高」の黒字額だという。
新型コロナウイルス禍の2020年度から3年間で計約113億円の赤字を計上したが、23年度に約3億4600万円の黒字に転じていた。
全6場所完売による入場券売り上げ収入や、巡業日の日数増加による巡業興業契約金収入が増加。
また、スポンサー協賛金や広告売り上げも増えた。グッズの売り上げなども好調という。
法人税の納付額は約2億9000万円だったということ
北の富士さん エピソード10
元NHK藤井康生アナ
・・・
実は藤井アナ、幼少期の好きだった力士として元横綱栃ノ海を挙げてました。
「私自身のことを言ってなんですが……」と前置きした上で、「北の富士(勝昭)さんの前では(小学生時代は)『北の富士を応援してました』と言いますが、実はやっぱり当時は栃ノ海を応援してましたね。
“ 小よく大を制す ” 栃ノ海の相撲が好きでしたね」と明かしていました。
・・・
藤井さん、北の富士さんの前で『栃ノ海さんが好きだった』と話しても大丈夫だと思いますよ。
栃ノ海関は 北の富士さんが出羽の海部屋時代の出羽一門の兄弟子で、100人を超える力士たちが集まる“一門の連合稽古”において胸を出してもらった恩人が佐田の山関と栃ノ海さんでしたから、それを聞いたからと嫌な顔する北の富士さんではないでしょう。
あの猛稽古があったから北の富士さんの突っ張りに磨きがかかり、小兵力士への矢のような突き放しが身につき、突っ張りをかいくぐられ中に入られた時の対処などを学べたことが生きて、後に小兵力士を苦手としなくなって十両全勝優勝→(翌場所)新入幕での13勝という大躍進、横綱昇進後の金星配給の少なさにもつながったのですから北の富士さんにとって栃ノ海さんは大恩人でした。
九重親方が出羽海部屋から独立した際に一緒に独立することになった北の富士さんが出羽海部屋の佐田の山関・栃ノ海関と対戦するようになって、対戦することが『嫌で嫌でしかたなかった』とコメントしてましたね。
この先輩お二人との対戦成績は どちらも
北の富士の2勝4敗でした。
北の富士さんは 大鵬・柏戸・佐田の山・栃ノ海といった先輩横綱たちには “すべて ”勝ち越せませんでしたが、琴櫻・輪島・北の湖・三重ノ海といった後輩横綱たちには “すべて ”勝ち越し、先輩横綱としての壁となり立派に責任を果たしました。
北の富士さんエピソード9
北の富士さんの解説が面白いのは皆さん御承知ですが、実は
テレビでの解説よりもラジオでの解説の時のほうがリラックスしてるというか 本音まる出しというか
ある意味 やりたい放題でした。
ラジオ実況中に 解説席のすぐ隣の舛席のお客様に声をかけられることがしばしばあり、時には そちらの話に夢中になって土俵を見てない・ラジオ実況アナウンサーからの質問も聞いてない。
そして時折、解説をホッポリ出してトイレへ行ってしまうことがありました。
そんな時には実況アナはひとりで話して時間をつないでいたものですが藤井アナウンサーだけは
「えー、ただいま北の富士さんはトイレへお出かけされてます。ちょっと長いですが、通路とかで知り合いにでも遭遇して話し込んでいるのかもしれません」と微妙な説明をしていました。
しかし北の富士さんは席に戻ってくるなり『よっこらしょ!いやいや、朝から腹の調子が悪くてね。なんか変なもん食ったかなぁ?』と説明してましたがマイクがオフになってなかったので全て聴取者に聞こえてました。
せっかく藤井アナが取り繕ってくれてたのに……
つづく
北の富士さんエピソード8
【インタビュー】元NHK藤井康生アナウンサー
過去の大相撲中継では、北の富士氏、舞の海秀平氏(53)らとの掛け合いがファンの間で人気を博し、藤井アナの最後のテレビ実況にツイッターでは「寂しい限り」「寂しくなるなあ」などのコメントが寄せられた。
また、藤井アナと解説陣とのやりとりを楽しみにしていたファンからは「解説の北の富士さん、舞の海さんと3人での中継は一部ファンから『漫才トリオ』と呼ばれていて実に楽しかった」「北の富士と藤井さんのフジ・フジコンビ好きやったなぁ」などのコメントが寄せられてました。
実は、両国国技館の場合、向こう正面の解説者席の舞の海さんから正面解説者席の北の富士さんが丸見えで、北の富士さんがよそ見している時など、意識的に土俵上の力士が見せた細かい動きについて
『北の富士さん、今の動きはどういう意図があったんでしょうねえ?』と不意打ち的に質問を投げ掛け、北の富士さんが「ん? 今の? あっごめん、ちょっと見てなかった」と言い訳して咳払い。
狙い打ちに成功した舞の海さんは、してやったり。やり込められてばかりではない舞の海さんでした。
つづく
北の富士さんのエピソード 6
【インタビュー】元NHK藤井康生アナウンサー
これまで藤井アナとコンビを組んで解説を務めてきた北の富士さんは「藤井さんのおかげでずいぶん話を盛ってもらってね。(私の)つまらん話を面白くしてくれました」と振り返り、藤井アナは「いえいえ、面白い話を頂きました」と感謝の言葉を口にした。
多くのファンから『漫才トリオ』と呼ばれていて実に楽しかったとの声
北の富士氏の突然の振りにも冷静さを失わなかった藤井アナは「土俵上の実況の最中に昔話をしてしまいましたが」とすぐに話題を土俵に切り替え、無難に実況を続けました。
話のネタがない時など、正月の初場所初日に北の富士さんに倣って和装で登場した舞の海さんに向かって北の富士さんが『舞の海くん、どうしたの?今日、七五三?』と放った一撃には藤井アナも笑いをこらえていたのか、しばし無言でした。
舞の海さんは顔を真っ赤にして黙っちゃうし、、、
確かに年齢不相応な童顔で丸顔の舞の海さん、当時47~48歳でしたが、和服を着た ひとまわりも年下の力士たちよりずっと若く見えました。
その『七五三?……』のあと その日の実況中継は北の富士さんの独壇場でしたねえ。
また、優勝争いをしてる力士の“ここ一番”にかける思いを論じてる舞の海さんに『君は優勝争いしたことないから解らんでしょ!?』と かました時には
“それを言っちゃあ お仕舞いですよ、北の富士さん”と思いました
つづく
北の富士さんエピソード5
【インタビュー】元NHK藤井康生アナウンサー
祖父や父から後に聞いた話ですけれども、小学校の2年生3年生くらいですかね、「お前は最初に『大鵬』という漢字を書いたんだよ」と。
それくらいきっと好きだったというのと、そういう雑誌が毎月欠かさずありましたから、読んだり、見たりするのが好きだったんでしょうね
取組の終盤戦に藤井アナが北の富士さんの入門当時の話題に触れ、北の富士さんが入門するために1957年1月に上京した時の様子を語る中で『藤井さんはその頃に生まれたんだな』 と話を振った。
1957年1月生まれの藤井アナは「そうなんです。北の富士さんが上野駅に降り立った日の朝、ちょうど同じくらいの時刻におそらく岡山の田舎で生まれたわけですが」と返答した。
そして北の富士さんは「どうして、ところで今日が最後なの?」と語りかけ、
「定年だから?……定年だと最後になっちゃうの?」とあまり納得できない北の富士さん
藤井アナは
「NHKの放送としては、大相撲放送としては、です。本当にお世話になりました」と、この日が最後の大相撲実況となることを明かしました。
つづく
北の富士さんエピソード1
【インタビュー】元NHK藤井康生アナウンサー
ー北の富士さんがそれだけお話しされたのも藤井さんだからこそですね
(藤井アナ)
子供のころから相撲を見ていましたから。相撲の雑誌は祖父が毎月買ってくれたんです。
3歳の時、昭和35年くらいですけど わが家に白黒テレビが入ってくるわけです。
祖父が大相撲が大好きで、相撲をどうしても見たいと。決して裕福な家ではなかったんですけど、当時世の中に広がり始めた白黒テレビを買ってきて。
そして、いつも私は祖父のあぐらの中にちょこんと座って、相撲を見ていたらしいんです。
つづく