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追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #22 ◆遊び(賭け事) 北の富士自身は麻雀をやらない。 その理由は父親が麻雀好きで家庭内での喧嘩が絶えなかったことを目の当たりにしたことや、出羽海部屋入門後に兄弟子の関取衆が麻雀をよくやり、若手だった北の富士は使い走りをさせられていたこともあって 麻雀が嫌いになったとのこと。師匠の8代出羽海(元幕内 出羽ノ花、後に日本相撲協会第4代武蔵川理事長)から「お前は麻雀をやらんのが偉いね」と感心されたという。 その一方で入門時の師匠だった7代出羽海(元横綱常ノ花)からは「麻雀は脇が甘くなる。だから相撲に生きないが、花札は打つ時に脇が締まるからいいのだ」と言われ、若手時代に兄弟弟子と良く花札をやって遊んでいたことを語っていました。 兄弟子の出羽錦からは「プロ野球は商売敵だから野球中継は見るな」と言われて育った。 そのため、野球出身者の北の富士さんですが日本の野球はあまり観ていないそうです。 それでも野球は嫌いではなく、大谷翔平投手がMLBに二刀流として挑戦して以降は 時間の許す限りテレビ観戦して応援している。また、大相撲にも大谷選手のようなスターが現れてほしいと願っていました。 つづく
九州場所を14勝1敗で初優勝した琴櫻が次の横綱の最有力候補になるが、千秋楽の相星決戦で負けて13勝2敗となった豊昇龍も来年の初場所が“綱取り場所になる”と理事長が明言した。横綱昇進は相撲協会の最大のテーマと言っているようなもの。できれば東西に正横綱を据えた番付でロンドン公演を開催したいのが本音でしょう。現在のひとり横綱が照ノ富士から同じモンゴル出身の豊昇龍に入れ替わるだけでなく、和製横綱の誕生が協会執行部の切実な願いのはずだ」 別の若手親方は「間違いなく和製横綱が誕生するだろう」と見る。 「そもそも、横綱昇進のハードルが下がるでしょう。ガチンコ時代は大関での2場所連続優勝という条件での横綱誕生はなかなか厳しい。どの力士も力をつけているから。ただ、力士たちにも横綱不在になることへの危機感が芽生えている。そういう状況下では琴櫻と同じ埼玉栄出身力士や、豊昇龍と同郷のモンゴル出身力士には全力でぶつかりにいきにくくなる事情がある。 逆に、9月場所の史上最速優勝で“横綱昇進間違いなし”といわれた大の里が苦戦するのではないか。師匠の二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)が先代(元横綱・隆の里)の教えを守って出稽古にいかない。 師匠と同様に不器用な力士になってしまえば、他の力士が形成する包囲網を突破できない。徹底的に研究されて、簡単には勝てなくなる。 執行部は大の里に期待していると思うが、3大関のなかでは最も綱から遠いのではないかだろうか」 果たして来年10月、どのような番付となっているのだろうか? 週刊P誌から
大相撲ロンドン公演2025 相撲番記者 曰く 「海外公演は国際親善を図ることから“裸の大使”とも呼ばれる。横綱の土俵入りは不可欠。1995年のヨーロッパ公演と1997年のオーストラリア公演では曙と貴乃花、1998年のカナダ公演では曙、貴乃花、若乃花が横綱として土俵入りを披露した。2004年の韓国公演と中国公演、2005年のラスベガス公演では朝青龍がいた。 海外巡業も1960~70年代にかけてハワイ巡業が8回も開催された。 ハワイ出身の人気力士の高見山(元東関親方)が活躍していたこともあるが、玉の海、北の富士、琴櫻、輪島、北の湖、二代目若乃花などの人気横綱がいた。 1990年代にかけてもスペインや香港、アメリカで海外巡業が行なわれたが、曙、貴乃花、若乃花が綱を張っていた。 2008年のモンゴル巡業は朝青龍と白鵬(現・宮城野親方)のモンゴル横綱が土俵入りを行なっている」 そうしたなかで来年10月開催が決まったロンドン公演。「横綱不在では話にならないし、やはり琴櫻、大の里といった和製横綱が誕生していてほしいという思いはある」(前出・若手親方)といった声が出るなかで、誰が大役を務めることになるのか。相撲ジャーナリストはこう言う。 「モンゴル出身で膝の悪い照ノ富士は師匠の伊勢ヶ濱親方が来年7月に65歳定年となるのに合わせて引退をすると見られている。そもそも、海外公演で両膝に大きなサポーターをつけての土俵入りでは絵にならない。 週刊P誌
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 21 ◆盟友とともに勘違いした “貫禄大関” 大関に昇進した1966年11月場所からの1年間(6場所)で4度も9勝6敗の成績だったため「クンロク大関」と呼ばれていた(当時)玉乃島。 ある日、玉の海は北の富士に対して「北さん、ぼく、最近、”カンロク大関”って言われています」と「クンロク大関」と呼ばれていることに気付いていない様子だった。 そしてひと場所早く大関となっていた北の富士さんも大関昇進して3場所は二桁勝利し、4場所目には14勝して初優勝を遂げたが、後援会の祝賀会へのお呼ばれに皆勤して飲みまくり遊び呆けていた。 優勝の翌場所なので綱獲り場所のはずで、周囲も期待していたのに、まさかの5勝10敗と二桁の黒星、翌場所も7勝8敗と連続負け越し。 今なら大関陥落となるところですが、この当時は「3場所連続負け越した場合は大関陥落」という ゆるーい制度だった為、関脇への陥落は免れた北の富士さん。 なので、ひと場所負け越しても気にせず、遊び呆けて稽古もせずに酔って帰宅しては布団にバタンキューの日々。 足腰の筋肉も一気に落ち、連合稽古でもすぐに息があがるほどスタミナ不足、本場所でそうそう勝てるわけもなかった。 2度目の優勝など遠い夢となり1969昭和44年3月場所から3場所連続の9勝6敗で、スポーツ紙などでは北の富士さんにも“クンロク大関”のあだ名がついた。 この頃のことを北の富士さんが50年後に回想し、 2022年3月場所初日のNHK大相撲中継で「貫禄と間違えてね、『とうとう俺たちも貫禄だな』」と同様の勘違いをしていたことを明かしました。 つづく
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 20 ◆改名裏話 ところで、春場所で初優勝した北の富士さんですが、口うるさい兄弟子たちがいない新生九重部屋という自由な環境のため、大阪での春場所を終え東京へ戻ると、有頂天で連日連夜の銀座通い。 稽古不足丸出しで、続く夏場所・名古屋場所を連続負け越し。 秋に北の富士と改名してなんとか カド番を脱出しました。 “どうせ 大関どまり”と観念していた北の富士さん。 翌年の1968年春には「引退する前に せめて外国に行ってみたい」という 力士としては やや不謹慎な理由で四股名を「勝明」から「洋行」に改名した北の富士さん。 そんな軽薄な思いつきでの改名も、夏には翻意して本名の勝昭に改名し直しました。 実は、名大関貴ノ花関も 師匠で実兄の初代若乃花の験担ぎにより、北の富士さんに負けず劣らず……というか 「花田満」→「貴ノ花満」→「貴ノ花利章」→「貴ノ花利彰」→「貴ノ花満郎」→「貴ノ花健士」→「貴乃花健士」→「貴ノ花利彰」 北の富士さんと同じで 細かく 7度も改名してました。 (北の富士さんヒストリー #8 参照) この大関貴ノ花と北の富士さんは、後述しますが、数々の名勝負を繰り広げ、特に本場所の中日(なかび)八日目を中心に日曜日の大相撲ファンが楽しみにする“ゴールデン・カード”となりました。 #21へ つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 19 ◆酒席での楽しい遊び方 話は前後しますが 北の富士さんが亡くなった後、同じ北海道生まれで歌手の松山千春さんが北海道内のラジオで語ってましたが 「九州場所は本当によく一緒になったな。 俺は ちょうどコンサートやってる時だから博多で一緒になると中洲で飲んでたなぁ、親方と千代の富士と俺と三人で。 ここだけの話だからな、これは俺たちしか知らないと思うんだけど」と前置きした上で、「ホステスさんのいる中洲のナイトクラブで酔っぱらってくると親方(北の富士さん)がね、ホステスさんのハイヒールにビールを入れるんだよ、いきなり、うん。 そしてな『じゃあ、戴くから』って、そのハイヒールに入ったビールをゴクゴクと一気に飲み干して『はぁ、うまかった。ありがとう』って言って新しい靴をまた買ってあげるんだけどさ、それが おっかしくて たまらないんだよ」と懐しんでいた千春さんでした。 つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 18 ◆師匠九重(元横綱千代の山)の教え 千代の山は 無口が多い角界では異例の “しゃべり好き” で知られていて、出羽海時代でも北の富士は 給仕をしながら毎日2時間ほど千代の山の話を聞くことがあったが 北の富士は「いやね、親方は話が面白いから、2時間ぐらいあっという間」と振り返っていました。 北の富士さんは 郷土の英雄である千代の山関から「酒の飲み方、女性との付き合い方、贔屓筋との付き合い方など」を色々と教わったが、相撲番記者から “どんな話だったんですか?” と訊かれた北の富士さん曰く 「あのね、記事だとか本だとか……文字にして世の中に出せないような艶話が多かったよ」と笑いながら語っていました。 つまり、北の富士さんの「酒・女性」にまつわる豪快な遊びっぷりは千代の山直伝だったことがわかりました。 ただし、サッポロビール園で大ジョッキ30杯も飲んで酔っぱらわなかった(当時の角界では指折りの)酒豪 千代の山とは異なり、北の富士さんは一般人が驚くような暴飲深酒はせず、その分、女性たちを楽しませる会話に満ちた宴 のほうに気持ちが向いていたそうでした。 #19へ つづく
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 17 ◆破門 話を戻すと 北の富士さんが十両での全勝優勝から幕内へ昇進→新入幕で13勝して “天狗”になっていた頃、出羽海部屋では騒動が起き始めていました。 1963昭和38年に横綱佐田の山が師匠8代出羽海(元前頭筆頭の出羽ノ花)の婿養子となったことで、自分が出羽ノ海後継の可能性が消滅したと確信した部屋付き親方の年寄九重(元千代の山)は 1967昭和42年1月に出羽海部屋からの独立を宣言。 出羽海親方(8代出羽海・元出羽ノ花)の制止を振り切り、同郷の北の富士を部屋頭に10人の力士を連れて独立しました。 しかし、出羽海一門からは破門となってしまいました。 大相撲では当時、どこの一門にも所属してないとなんの活動もできない。 困った九重(元千代の山)が四代高砂親方(元横綱前田山)に頭を下げて高砂一門に編入。 晴れて高砂一門の九重部屋となった春場所では 部屋頭となった北の富士が、突っ張りから得意の左四つに組み止めて寄り切る磐石な相撲で初日から白星を重ね、七日目の相手 “くせ者” 麒麟児には土俵際でうっちゃられそうになりながらも“必殺技”外掛けで倒し、終盤後半戦も勝ち進み12戦全勝、1差で追ってきた横綱大鵬には すくい投げで敗れたものの、十四日目には出羽海部屋時代の兄弟子だった佐田の山に取り直しの末に勝利し、千秋楽には横綱柏戸の電車道に劣勢となりましたが、得意の“黄金の引き足”をみせ「肩透かし」で下して 14勝1敗、初の幕内優勝となりました。 ともに移籍した弟弟子の松前山が十両優勝し、新生 九重部屋は、「我が世の春」と男泣きに暮れる九重親方の横で 対照的に 笑顔満面の北の富士を中心としてタニマチさんたちとともに歓喜に沸きました。 つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 16 玉の海の死因 虫垂炎手術後に併発した急性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症(現在の言い方では 術後の肺血栓)だったことが判明、特に右肺の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという。 春場所後の頃から日に日に激痛となっていく盲腸の痛みを我慢してしまった玉の海。 二所一門の恩師大鵬関の引退相撲で太刀持ちをすることを優先し、無理して本場所に出場し続けていた玉の海。 横綱昇進してからの10場所、1度も休場のないまま現役死してしまったのでした。 巡業先の岐阜羽島で突然の訃報を記者から聞いた北の富士さん。 最大のライバルかつ親友だった北の富士さんは、「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、最初は「解説の玉ノ海さん(玉ノ海梅吉さん)が亡くなったのか?」と思い、付け人に確認を取らせた。 関係者が「現役横綱の玉の海関です」と伝えても北の富士さんは全く信じようとせず、「ふざけるのもいい加減にしろ!」と激怒したという。 しかしその後、亡くなった人物が間違いなく親友の横綱・玉の海関本人であるという事実が判った時、北の富士さんは「むごい……。島ちゃんがあまりにも可哀想だ……。」と、その場で人目も はばからず しばし号泣しました。 つづく
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追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 #22
◆遊び(賭け事)
北の富士自身は麻雀をやらない。
その理由は父親が麻雀好きで家庭内での喧嘩が絶えなかったことを目の当たりにしたことや、出羽海部屋入門後に兄弟子の関取衆が麻雀をよくやり、若手だった北の富士は使い走りをさせられていたこともあって 麻雀が嫌いになったとのこと。師匠の8代出羽海(元幕内 出羽ノ花、後に日本相撲協会第4代武蔵川理事長)から「お前は麻雀をやらんのが偉いね」と感心されたという。
その一方で入門時の師匠だった7代出羽海(元横綱常ノ花)からは「麻雀は脇が甘くなる。だから相撲に生きないが、花札は打つ時に脇が締まるからいいのだ」と言われ、若手時代に兄弟弟子と良く花札をやって遊んでいたことを語っていました。
兄弟子の出羽錦からは「プロ野球は商売敵だから野球中継は見るな」と言われて育った。
そのため、野球出身者の北の富士さんですが日本の野球はあまり観ていないそうです。
それでも野球は嫌いではなく、大谷翔平投手がMLBに二刀流として挑戦して以降は 時間の許す限りテレビ観戦して応援している。また、大相撲にも大谷選手のようなスターが現れてほしいと願っていました。
つづく
九州場所を14勝1敗で初優勝した琴櫻が次の横綱の最有力候補になるが、千秋楽の相星決戦で負けて13勝2敗となった豊昇龍も来年の初場所が“綱取り場所になる”と理事長が明言した。横綱昇進は相撲協会の最大のテーマと言っているようなもの。できれば東西に正横綱を据えた番付でロンドン公演を開催したいのが本音でしょう。現在のひとり横綱が照ノ富士から同じモンゴル出身の豊昇龍に入れ替わるだけでなく、和製横綱の誕生が協会執行部の切実な願いのはずだ」 別の若手親方は「間違いなく和製横綱が誕生するだろう」と見る。
「そもそも、横綱昇進のハードルが下がるでしょう。ガチンコ時代は大関での2場所連続優勝という条件での横綱誕生はなかなか厳しい。どの力士も力をつけているから。ただ、力士たちにも横綱不在になることへの危機感が芽生えている。そういう状況下では琴櫻と同じ埼玉栄出身力士や、豊昇龍と同郷のモンゴル出身力士には全力でぶつかりにいきにくくなる事情がある。
逆に、9月場所の史上最速優勝で“横綱昇進間違いなし”といわれた大の里が苦戦するのではないか。師匠の二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)が先代(元横綱・隆の里)の教えを守って出稽古にいかない。
師匠と同様に不器用な力士になってしまえば、他の力士が形成する包囲網を突破できない。徹底的に研究されて、簡単には勝てなくなる。
執行部は大の里に期待していると思うが、3大関のなかでは最も綱から遠いのではないかだろうか」 果たして来年10月、どのような番付となっているのだろうか?
週刊P誌から
大相撲ロンドン公演2025
相撲番記者 曰く
「海外公演は国際親善を図ることから“裸の大使”とも呼ばれる。横綱の土俵入りは不可欠。1995年のヨーロッパ公演と1997年のオーストラリア公演では曙と貴乃花、1998年のカナダ公演では曙、貴乃花、若乃花が横綱として土俵入りを披露した。2004年の韓国公演と中国公演、2005年のラスベガス公演では朝青龍がいた。
海外巡業も1960~70年代にかけてハワイ巡業が8回も開催された。
ハワイ出身の人気力士の高見山(元東関親方)が活躍していたこともあるが、玉の海、北の富士、琴櫻、輪島、北の湖、二代目若乃花などの人気横綱がいた。
1990年代にかけてもスペインや香港、アメリカで海外巡業が行なわれたが、曙、貴乃花、若乃花が綱を張っていた。
2008年のモンゴル巡業は朝青龍と白鵬(現・宮城野親方)のモンゴル横綱が土俵入りを行なっている」
そうしたなかで来年10月開催が決まったロンドン公演。「横綱不在では話にならないし、やはり琴櫻、大の里といった和製横綱が誕生していてほしいという思いはある」(前出・若手親方)といった声が出るなかで、誰が大役を務めることになるのか。相撲ジャーナリストはこう言う。 「モンゴル出身で膝の悪い照ノ富士は師匠の伊勢ヶ濱親方が来年7月に65歳定年となるのに合わせて引退をすると見られている。そもそも、海外公演で両膝に大きなサポーターをつけての土俵入りでは絵にならない。
週刊P誌
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 21
◆盟友とともに勘違いした “貫禄大関”
大関に昇進した1966年11月場所からの1年間(6場所)で4度も9勝6敗の成績だったため「クンロク大関」と呼ばれていた(当時)玉乃島。
ある日、玉の海は北の富士に対して「北さん、ぼく、最近、”カンロク大関”って言われています」と「クンロク大関」と呼ばれていることに気付いていない様子だった。
そしてひと場所早く大関となっていた北の富士さんも大関昇進して3場所は二桁勝利し、4場所目には14勝して初優勝を遂げたが、後援会の祝賀会へのお呼ばれに皆勤して飲みまくり遊び呆けていた。
優勝の翌場所なので綱獲り場所のはずで、周囲も期待していたのに、まさかの5勝10敗と二桁の黒星、翌場所も7勝8敗と連続負け越し。
今なら大関陥落となるところですが、この当時は「3場所連続負け越した場合は大関陥落」という ゆるーい制度だった為、関脇への陥落は免れた北の富士さん。
なので、ひと場所負け越しても気にせず、遊び呆けて稽古もせずに酔って帰宅しては布団にバタンキューの日々。
足腰の筋肉も一気に落ち、連合稽古でもすぐに息があがるほどスタミナ不足、本場所でそうそう勝てるわけもなかった。
2度目の優勝など遠い夢となり1969昭和44年3月場所から3場所連続の9勝6敗で、スポーツ紙などでは北の富士さんにも“クンロク大関”のあだ名がついた。
この頃のことを北の富士さんが50年後に回想し、
2022年3月場所初日のNHK大相撲中継で「貫禄と間違えてね、『とうとう俺たちも貫禄だな』」と同様の勘違いをしていたことを明かしました。
つづく
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 20
◆改名裏話
ところで、春場所で初優勝した北の富士さんですが、口うるさい兄弟子たちがいない新生九重部屋という自由な環境のため、大阪での春場所を終え東京へ戻ると、有頂天で連日連夜の銀座通い。
稽古不足丸出しで、続く夏場所・名古屋場所を連続負け越し。
秋に北の富士と改名してなんとか カド番を脱出しました。
“どうせ 大関どまり”と観念していた北の富士さん。
翌年の1968年春には「引退する前に せめて外国に行ってみたい」という 力士としては やや不謹慎な理由で四股名を「勝明」から「洋行」に改名した北の富士さん。
そんな軽薄な思いつきでの改名も、夏には翻意して本名の勝昭に改名し直しました。
実は、名大関貴ノ花関も 師匠で実兄の初代若乃花の験担ぎにより、北の富士さんに負けず劣らず……というか
「花田満」→「貴ノ花満」→「貴ノ花利章」→「貴ノ花利彰」→「貴ノ花満郎」→「貴ノ花健士」→「貴乃花健士」→「貴ノ花利彰」
北の富士さんと同じで 細かく 7度も改名してました。
(北の富士さんヒストリー #8 参照)
この大関貴ノ花と北の富士さんは、後述しますが、数々の名勝負を繰り広げ、特に本場所の中日(なかび)八日目を中心に日曜日の大相撲ファンが楽しみにする“ゴールデン・カード”となりました。
#21へ つづく
そんな千代の富士さんマゲに別れを告げたあとに出たバラエティ番組での曲当てコーナーでイントロ相手に苦戦も松山千春の曲だとわかった途端に「あ、千春だ」ってさ。道産子同士はメチャクチャ義理堅いんですね。
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 19
◆酒席での楽しい遊び方
話は前後しますが
北の富士さんが亡くなった後、同じ北海道生まれで歌手の松山千春さんが北海道内のラジオで語ってましたが
「九州場所は本当によく一緒になったな。
俺は ちょうどコンサートやってる時だから博多で一緒になると中洲で飲んでたなぁ、親方と千代の富士と俺と三人で。
ここだけの話だからな、これは俺たちしか知らないと思うんだけど」と前置きした上で、「ホステスさんのいる中洲のナイトクラブで酔っぱらってくると親方(北の富士さん)がね、ホステスさんのハイヒールにビールを入れるんだよ、いきなり、うん。
そしてな『じゃあ、戴くから』って、そのハイヒールに入ったビールをゴクゴクと一気に飲み干して『はぁ、うまかった。ありがとう』って言って新しい靴をまた買ってあげるんだけどさ、それが おっかしくて たまらないんだよ」と懐しんでいた千春さんでした。
つづく
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 18
◆師匠九重(元横綱千代の山)の教え
千代の山は 無口が多い角界では異例の “しゃべり好き” で知られていて、出羽海時代でも北の富士は 給仕をしながら毎日2時間ほど千代の山の話を聞くことがあったが
北の富士は「いやね、親方は話が面白いから、2時間ぐらいあっという間」と振り返っていました。
北の富士さんは 郷土の英雄である千代の山関から「酒の飲み方、女性との付き合い方、贔屓筋との付き合い方など」を色々と教わったが、相撲番記者から “どんな話だったんですか?” と訊かれた北の富士さん曰く
「あのね、記事だとか本だとか……文字にして世の中に出せないような艶話が多かったよ」と笑いながら語っていました。
つまり、北の富士さんの「酒・女性」にまつわる豪快な遊びっぷりは千代の山直伝だったことがわかりました。
ただし、サッポロビール園で大ジョッキ30杯も飲んで酔っぱらわなかった(当時の角界では指折りの)酒豪 千代の山とは異なり、北の富士さんは一般人が驚くような暴飲深酒はせず、その分、女性たちを楽しませる会話に満ちた宴 のほうに気持ちが向いていたそうでした。
#19へ つづく
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 17
◆破門
話を戻すと
北の富士さんが十両での全勝優勝から幕内へ昇進→新入幕で13勝して “天狗”になっていた頃、出羽海部屋では騒動が起き始めていました。
1963昭和38年に横綱佐田の山が師匠8代出羽海(元前頭筆頭の出羽ノ花)の婿養子となったことで、自分が出羽ノ海後継の可能性が消滅したと確信した部屋付き親方の年寄九重(元千代の山)は 1967昭和42年1月に出羽海部屋からの独立を宣言。
出羽海親方(8代出羽海・元出羽ノ花)の制止を振り切り、同郷の北の富士を部屋頭に10人の力士を連れて独立しました。
しかし、出羽海一門からは破門となってしまいました。
大相撲では当時、どこの一門にも所属してないとなんの活動もできない。
困った九重(元千代の山)が四代高砂親方(元横綱前田山)に頭を下げて高砂一門に編入。
晴れて高砂一門の九重部屋となった春場所では 部屋頭となった北の富士が、突っ張りから得意の左四つに組み止めて寄り切る磐石な相撲で初日から白星を重ね、七日目の相手 “くせ者” 麒麟児には土俵際でうっちゃられそうになりながらも“必殺技”外掛けで倒し、終盤後半戦も勝ち進み12戦全勝、1差で追ってきた横綱大鵬には すくい投げで敗れたものの、十四日目には出羽海部屋時代の兄弟子だった佐田の山に取り直しの末に勝利し、千秋楽には横綱柏戸の電車道に劣勢となりましたが、得意の“黄金の引き足”をみせ「肩透かし」で下して 14勝1敗、初の幕内優勝となりました。
ともに移籍した弟弟子の松前山が十両優勝し、新生 九重部屋は、「我が世の春」と男泣きに暮れる九重親方の横で 対照的に 笑顔満面の北の富士を中心としてタニマチさんたちとともに歓喜に沸きました。
つづく
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 16
玉の海の死因
虫垂炎手術後に併発した急性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症(現在の言い方では 術後の肺血栓)だったことが判明、特に右肺の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという。
春場所後の頃から日に日に激痛となっていく盲腸の痛みを我慢してしまった玉の海。
二所一門の恩師大鵬関の引退相撲で太刀持ちをすることを優先し、無理して本場所に出場し続けていた玉の海。
横綱昇進してからの10場所、1度も休場のないまま現役死してしまったのでした。
巡業先の岐阜羽島で突然の訃報を記者から聞いた北の富士さん。
最大のライバルかつ親友だった北の富士さんは、「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、最初は「解説の玉ノ海さん(玉ノ海梅吉さん)が亡くなったのか?」と思い、付け人に確認を取らせた。
関係者が「現役横綱の玉の海関です」と伝えても北の富士さんは全く信じようとせず、「ふざけるのもいい加減にしろ!」と激怒したという。
しかしその後、亡くなった人物が間違いなく親友の横綱・玉の海関本人であるという事実が判った時、北の富士さんは「むごい……。島ちゃんがあまりにも可哀想だ……。」と、その場で人目も はばからず しばし号泣しました。
つづく