大相撲のコメント部屋

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externallinkコメント一覧

大相撲のコメント部屋 へのコメント 2,141件 』

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    をもう一度
    #32

    ◇プリンス貴ノ花との因縁2

    3連覇の期待がかかり、優勝争いの本命とみられていた1972年1月場所では、初日にいきなり大関・初代琴櫻との取組が組まれて敗れると、八日目の関脇・貴ノ花戦では、北の富士の つき手? かばい手?、貴ノ花が生き体か?死に体なのか?で大きな話題となった。
    25代木村庄之助は北の富士の付いた手が「つき手」と見て貴ノ花に軍配を上げたが、物言いによって北の富士の勝ちとなった(決まり手は浴びせ倒し)。
    この時「つき手」を主張したものの受け入れられず、差し違えとされた立行司25代木村庄之助は翌日から千秋楽まで謹慎となり、憤懣やるかたない庄之助は三月場所前には廃業してしまうという事態となった。
    しかし、後年2005年に貴ノ花が亡くなった際、この取組が思い出として多く取り上げられるようになると、北の富士は「あの大相撲は、本当は俺の負け。俺の手は『かばい手』では無く『つき手』で、しかも貴ノ花は完全な『生き体』だった。当時は意地でも認めたくなかったが今は認める。生涯に残る相撲」と涙ながらに振り返っていました。
    貴ノ花戦の後、十日目まで6勝4敗、さらに十二日目・十三日目と連敗する乱調ぶりで、十四日目より胃炎・高血圧などの体調不良で途中休場となった(7勝7敗1休)。
    これにより、1967年9月場所 – 1971年11月場所まで続いた通算(幕内)連続勝ち越しは26場所で止まってしまい、当時史上1位だった玉の海の27場所連続に惜しくも届かなかった。
    (この連続勝ち越し記録は後に北の湖や武蔵丸らに抜かれた。)
    翌3月場所も序盤から取りこぼしが続いて早々に優勝争いから脱落し、勝ち越したものの9勝6敗に終わる。

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    を もう一度
    #31

    ◆サーフィン

    盟友 玉の海急死後、1人横綱を8場所務めるがライバル急死が精神的に大きな痛手となり休場が増えるようになりました。

    1973年5月夏場所は負けが先行し八日目までで3勝5敗、途中休場しようとしたが、特にどこが病気や怪我というわけではない。
    休場するには 医師の診断書が必要なのですが、極度の不振とはいえ身体に悪いところはどこにも見当たらない横綱北の富士。
    相撲診療所で医師に診て貰ったが検査の結果は どこも異常なし。困った医師はそこで「夜は眠れるか?」と問い、北の富士は調子が上がらない悩みから「最近寝付きが悪い」と否定したので、「ならば不眠症だな」となって、医師がようやく “不眠症”の診断書を書いてくれた為、その足で協会に休場届けを提出した北の富士さん。
    その届けが無事受理されると急ぎ足で部屋へ戻って師匠(九重親方=元千代の山)へ報告。
    部屋での夕飯(ちゃんこ鍋)もそこそこに、タクシーを呼び銀座へ手掛けてしまいました。
    “豪放磊落”というか “ノー天気”というか 場所を途中休場した横綱としては 甚だ無責任な北の富士さんでした。
    さらに北の富士さんは 夏場所後にハワイへ飛び、気分転換の休暇をとり 現地の美女たちと歓談したりサーフィンに興じていた写真が週刊誌や新聞に載り、その記事を見た協会幹部が激怒。即刻帰国するよう指令が出て、戻ってきた北の富士さんは協会に呼びつけられ厳重注意処分を科されてしまいました。

    #32 へ つづく

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    をもう一度
    #30

    ◆プリンス貴ノ花との“因縁” 
    今もYouTubeで映像を視聴することができますが、1972昭和47年初場所の関脇貴ノ花戦、外掛けも上手投げを返されて右手が先につく。軍配は貴ノ花も物言いで長い長い協議の末 「かばい手」となり、“行司差し違え”にて北の富士が「浴びせ倒し」の勝ち。
    帰りは蔵前国技館から車で出て来たところ怒り収まらない貴ノ花ファンに車を蹴られてボコボコにされる。
    翌春場所では土俵際で得意の外掛けを繰り出し浴びせ倒そうとしあが うっちゃられ、軍配は北の富士有利と見たがまたも物言い。
    再び長い協議となりました。
    〖私の私見では、前場所が貴ノ花の「うっちゃり」が有効。この場所は北の富士の「寄り倒し」か 「同体につち取り直し」とみました。
    結果 前場所の借りを返すかのように「勇み足」で貴ノ花の勝ちに。 
    ・・・
    即、日本相撲協会へその旨、お手紙を書きました。『先場所が間違えてた!とは言えないから辻褄を合わせたのですね』と付け加えて。〗

    後年、北の富士さんは「あれはね “かばい手”っといっても自分の顔をかばったんだよ。顔なんか擦りむいたら銀座に行けない!っていうか 対戦相手を恨む銀座の女性たちが暴動を起こして二子山部屋が襲われる⁉️」「2度目の物言いは かばい足にしてほしかった」とテレビで吐露してました。
    プリンス貴ノ花の死後、息子の貴乃花とのテレビ対談などで同様のことを貴乃花に伝えてました。
    実際、55歳で亡くなったプリンス貴ノ花の葬儀にて 祭壇に手を合わせながら『あの時は あんたが勝ってました。』と遺影に向かって小声で語ったそうです。
    #31へ つづく

  • 投稿者:KON

    今日のスポーツ紙各紙で
    年明け1月の初場所の新番付が克明に載っています。
    特に日刊スポーツ・スポニチでは幕内力士ごとの「持ち給金=別名:力士褒賞金」(これは本場所ごとに現金で本人に手渡されるもので、番付ごとの基本持ち給金に加えて、特別加算として
    幕内で勝ち越すと勝ち越した分が0.5円、10勝5敗なら5×0.5で2.5円加算され、金星獲得すると金星1勝につき100円、幕内優勝すると30円で 15戦全勝優勝なら50円が自身の持ち給金に加算され現役引退まで本場所ごとに支給され続け減ることはありません。ただし十両へ陥落すると不支給)
    0.5円だとか 優勝して30円だとか 時代錯誤な金額にみえますが、実際には この持ち給金を現在の金銭価値にあわせて(下記のように)数千倍したものが支払われてます。
    1960~1969年まで:1,000倍
    1970年-1984年:1,500倍
    1985年-1997年:2,500倍
    1998年-現在(2024年):4,000倍

    休場の場合は不支給。途中休場した場合は出場日数を日割りして計算。

    北の富士さんが横綱だった頃(昭和40年代)には 1000~1500倍でしたから 幕内優勝10回で全勝優勝3回だった北の富士さんは横綱としての晩年には、優勝の分だけで 30円+7+50円×3で360円の特別加算、これを1500倍した54万円が横綱としての基本持ち給金(150円)に加算されて毎場所キャッシュで貰ってたことになります。

    サンスポは力士報奨金については余り詳しく載ってませんが、他紙のような十両力士まで……ではなく序ノ口力士までの全力士について載っています。
    コンビニででもお求めください。

  • 投稿者:KON

    北の富士さんのお別れ会

    歌手、松山千春さん(69)が22日、FM NACK5「松山千春 ON THE RADIO」(日曜後9・0)に生出演。
    今月18日に東京・墨田区の八角部屋で開かれた 大相撲の元横綱で解説者としても人気があり、11月12日に82歳で死去した北の富士勝昭(本名・竹沢勝昭)さんをしのぶ会に出席したことを報告。
    松山千春さんは「私、勝昭のお別れ会へ行って帰ってきたら風邪をひいてました。要はよ こっち、札幌でるときは寒かったんだよ。俺は分厚いコートを着てですね、張り切って行ったわけですよ。そしたら東京、暖かかったんですよ。汗だくになりながらですね、あれが悪かったんだと思いますけどね」と明かしていました。

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリーを
    もう一度 #29

    ◇横綱北の富士

    大関所要21場所での横綱昇進は 当時の大相撲史上最長記録という “スロー出世”。

    大関在位21場所で最も遅い横綱昇進……という意外な感じですが
    昭和33年に年6場所制が確立されるまでは
    年5場所、年4場所、年3場所と 色々と本場所改革が繰り返されてましたし、それ以前の昭和22年までは年2場所制でしたので
    大関在位21場所というと7年~10年も大関で過ごしてこから横綱になる……ということになるのでした。

    そして、北の富士さん
    横綱審議会の一部委員の懸念をよそに
    横綱2場所目の1970昭和45年夏場所、つづく名古屋場所と 連続優勝して、周囲の心配を吹き飛ばした北の富士さん。
    しかし
    ここでまたもや悪い虫。

    ちょっと気を抜くと朝稽古よりも夜の活動に重点を置くようになり成績が不安定。
    すぐに 4場所連続11勝4敗の成績に終わり当然優勝には絡まない。
    11勝ばかりなので “イレブン横綱”とマスコミにアダ名されてしまいました。
    しかし
    “大横綱”大鵬の引退も刺激になり 1971昭和46年夏には全勝優勝しました。

    最終章 #30へ つづく

  • 投稿者:KON

    あ追悼
    北の富士さんヒストリー
    をもう一度 28

    ◇横綱同時昇進2

    まだ煩い(うるさい)横綱審議委員会もなく「2場所連続優勝またはそれに準じる」もなかった戦前の安藝ノ海と照國はともかく(ちなみに2人とも優勝はなしで昇進、、この前後は
    横綱・双葉山が4場所連続優勝中だったし、年間2場所制のもとですから仕方ない)、
    柏・鵬の場合は大鵬が連続優勝で柏戸は優勝同点での昇進、
    北・玉は直前3場所を玉ノ海(玉乃島)、北の富士、北の富士(玉乃島と同点)の順で優勝して同時昇進。
    「それに準じる」が存分に活用されていました。

    柏鵬の柏戸も大鵬が優勝回数記録更新し続けるなか、怪我に苦しみながらも千秋楽の大鵬戦では毎場所相撲ファンから大いに期待され「柔の大鵬vs剛の柏戸」の熱戦を展開し、優勝回数32回vs5回
    と大きな差をつけられながら直接の対戦成績は 柏戸の糖尿病が悪化した晩年の5戦で5連敗するまでは 16勝ー16勝と拮抗してました。

    また連覇した北の富士と同時昇進した玉の海は新横綱からの10場所で130勝20敗・勝率.866、休場0、与金星も0。
    優勝4回(うち全勝優勝1回) そして 準優勝5回!
    在位10場所のうち9場所で優勝か準優勝という絶対的安定感でした。
    この“連続10場所での準優勝以上の確率9割”という記録は、貴乃花と並び、雷電為右衛門や谷風梶之助に次ぐものであり 双葉山や大鵬・北の湖や千代の富士を超える安定感でした。
    一方、北の富士は、同じ10場所で 122勝28敗・勝率.813、与金星5。
    全勝優勝2回を含む優勝4回・準優勝1回。
    特に横綱昇進9場所目には、平幕に敗れる金星配給こそなかったものの、初日に小結高見山にうっちゃられ、五日目には小結貴ノ花に吊りだされて2敗目。関脇長谷川にも吊りだされて腰高が露呈。
    さらに前の山・大麒麟・清國の3大関にも四つ相撲から寄り切られて全敗、千秋楽には玉の海にもガップリ四つから寄り切られて ついに7敗。
    8勝7敗で場所を終えました。
    いい時は全勝優勝するのにムラっ気が激しい北の富士。
    やはり当時の横綱審議会の目は正しく、安定感ては玉の海が上でした。

    #29 へ つづく

  • 投稿者:匿名

    阿武咲が引退しました
    先場所は十両でなかなか勝てずに大きく負け越してたので
    幕下に落ちてしまうのかと思ってました
    度重なる怪我で思うような相撲が取れなくなったと引退を決めたそうです
    引退後は相撲会には残らずに
    将来の独立を目指して会社員となるそうです
    まだ28歳だし
    独身なら、まだまだやれると現役を続けたかもしれないですが
    奥さまやお子さんがいるのでとスッパリと引退する事を決めたそうです
    経験のない場所での新しいスタートを頑張って欲しいです
    でも、年寄株を取得できたら相撲協会に残っただろうと思うと
    いつまでも相撲協会から退かないでいる年配の親方らは、どうにかならないかと思います

    引退して、親方となっても
    他の力士の年寄株を借りて相撲協会に残ってる人も多いし
    振分の年寄株を借りて協会に残っていた親方も、その株を取得していた
    妙義龍が引退で振分親方となったので
    退職しました

    今は朝日山親方の琴錦は引退してからは、いろんな年寄株を借りていて
    しょっちゅう親方の名前が変わっていたけど
    どうにか最後に朝日山の年寄株を取得できて、部屋を興しましたが
    今は、借りられる年寄株も少ない状態なのかなと思います

  • 投稿者:匿名

    銀座が似合う男。
    石原裕次郎、そして北の富士。
    これはずっと変わらない。

  • 投稿者:KON

    故北の富士さん の お別れ会
    寒い中、お疲れ様でございました。

    戒名は「徳粋院殿釋勝縁大居士(とくすいいんでんしゃく しょうえんだいこじ)」だそうです。

     参列者は関係者が350人、一般が1600人強で約2000人以上が北の富士さんとの別れを惜しんだという。

    舞の海さんがコメント

    北の富士さんがNHKの解説を務めたのは昨年1月が最後。闘病生活に入って以来、会うことができなかったという。お見舞いに行く事も許されず、「何度かお願いしたんですが、誰とも会わないということだったので…。無理やり行こうかとも思ったんですけどね。どうしても顔を見たかったんですけど。北の富士さんは美学を持っていたので、カッコ悪い、そういうところは見せたくない強い人なので、その気持ちを尊重したほうがいいのかと葛藤しました」と振り返った。
    今年7月の名古屋場所でNHKにVTR出演した際も、舞の海さんは会えなかった。「ここまで話せるようになったんだ、と。もう少し頑張れば一緒にできるなと思ったんですけどね。本当に張り合いがなくなりましたね」と落胆した。

     北の富士さんについて「解説を生かしてくれた恩人」と表現。舞の海さんへの気遣いも感じられたとし、「一緒に解説していて私と同じ意見なのに、あえて反対のことを自分が悪役になって、私をたてると言いますか、いい人にしたてあげてくれているなあと思うことが何度もありました。『俺が放送中に何か言うと、舞の海をいじめるなと言われる』らしいんですよね(笑)。
    『自分も同じこと言われます』と言うと『そうか』と。いじめているんではなく、たててくれているんですよね」と、うなずいた。
    「がっかりですね…」とため息まじりに繰り返したが、最後は自らに言い聞かせるように「これまでの相撲に対する考え方、北の富士さんの思いは生き続けると思うので、もう一度、思い出しながら解説していけたらと思います」と必死に顔を上げた。

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