大相撲のコメント部屋

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externallinkコメント一覧

大相撲のコメント部屋 へのコメント 2,141件 』

  • 投稿者:匿名

    どうも九重部屋の取材が日テレバラエティの恒例になりつつあります。行きつけのお店では野菜のケースたくさん用意してもらってる(笑) とにかく相撲部屋の世界は一般のソレとはケタもスケールも何もかも異次元ですハイ。

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    をもう一度 37

    ◆無類の遊び好き

     夜の帝王、プレーボーイ横綱などと呼ばれ、ちゃんこ店やキャバレーも経営。
    1975年の引退相撲では断髪後に白のタキシード姿で登場し、持ち歌の『ネオン無情』を歌って喝采を浴びた。
    師匠になって午後11時門限で罰金5000円としたが、自らが一番多かった。
    また、女性芸能人(特に女優さん)と数々の浮き名を流していた北の富士さん。
    とある深夜テレビ番組で山城新伍が兄貴分の梅宮辰夫とウイスキーを飲みながら雑談をしていたシーンがありましたが、そこで、「兄ぃよ、俺は北の富士だけは許せねえ!あの野郎、女優を何人も食っちまいやがって、◯◯も……□□も……△△もだぜ、絶対許せねえ!」と マジな目で くだを巻いてましたが、梅宮に『おい、兄弟、その女たちはお前のモンじゃないんだから そんなにおめぇが怒るこたぁ ねえだろ?』と諌められてました。
    しかし、山城新伍は「いやいや、あの3人は俺が食うはずだったんだ。それを北の富士の野郎が先にかっさらいやがって」と真顔で怒ってました。
    テレビ番組収録中に本気酔いして言いたいことを言ってる山城に、梅宮辰夫さんは、ため息をつきながら呆れてました。

    #38へ つづく

  • 投稿者:SAI

    NHK大相撲この一年を見ました!
    尊富士の新入幕優勝は漫画を超えた?
    これからも頑張って下さい♪

  • 投稿者:オバァ

    大相撲この一年、見ていたら北の富士さんでました。
    少し気持ちも落ち着いてたのに見るとかっこよさ再認識だし又寂しい気持が湧いてきてしまったよ。
    やはり寂しいね。
    特集やらないのかなNHKは!
    今は北の富士ヒストリー見るのが楽しみだ。
    年末までありがとうね、KONさん。

  • 投稿者:KON

    今日の夕方18:05~

    大相撲この一年
    〜受け継がれるもの〜
    12月29日(日)
    NHK①
    18:05〜18:45

    番組概要
    二人の新大関が誕生した今年の大相撲。夏場所で史上最速優勝を飾った大の里。九州場所で悲願の初優勝を果たした琴櫻。二人の活躍を軸にこの一年を振り返る。

    番組内容
    九州場所で悲願の初優勝を果たした琴櫻。第53代横綱だった祖父のしこ名を引き継ぎ、大関としてもがき続けた一年だった。夏場所で史上最速優勝を飾った大の里。師匠の二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)から伝授された技で秋場所で2回目の優勝。さらなる高みをめざす二人の思いに迫る。土俵に別れを告げた湊川親方(元大関・貴景勝)、110年ぶり新入幕優勝の尊富士など今年の大相撲の話題満載で伝える。

    【出演】琴櫻,大の里,湊川親方

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    をもう一度 36

    ◇北の富士さん・増位山 太志郎さん・琴風さんの意外な共通点

    それは
    大関昇進時の協会の事情(都合)

    3場所合計28勝なのに突如大関昇進となった北の富士さんが大関なったときの番付は
    大関が豊山ひとり。

    増位山さんが大関昇進となった時も、大関が貴ノ花 満=若貴兄弟の父 ひとりでしたので、3場所合計31勝で優勝に絡むこともなかった増位山でしたが 協会都合で強引に大関に引き上げられました。

    そして、琴風さんの時は、前の場所で大関千代の富士が優勝して横綱に昇進してしまった為、なんと番付から大関がひとりもいなくなる“非常事態中の非常事態!”。
    東西の正横綱である輪島と北の湖が 番付上「横綱大関」として大関を兼ねる“緊急措置”となっていましたので、琴風が3場所合計31勝、しかも初優勝を遂げてくれたので 協会執行部は胸を撫で下ろしたそうです。

    因みに、北の富士さんのひとり前の大関昇進者 豊山は3場所合計37勝もしてました。
    北の富士さんの次の大関昇進者 玉乃島は3場所30勝でした。
    増位山さんの前後の大関昇進者は(大関陥落後に2度目の昇進となった)魁傑の3場所合計36勝、増位山さんの次は千代の富士の3場所合計35勝。
    琴風さんの場合も、直前の千代の富士の35勝、直後の隆の里が33勝でしたから
    北の富士さん・増位山太志郎さん・琴風さんの3場所勝ち星は突出して少なかったんです。

    そして「大関昇進には三役にて直近3場所で33勝」というのはNHKのアナウンサーがデータを見てるうちに『この33勝が昇進ライン?』と考えて言い出したことで、それを各スポーツ紙や民放のスポーツニュースが倣ってるだけ。
    協会の規定に「3場所33勝以上……」などという文言は今も昔もありません。

    付け加えますと
    増位山さんと琴風さんは大関どまりでしたが、北の富士さんは (繰り返しになりますが) 見事に横綱へ昇進し、10度の優勝・3度の全勝優勝など双葉山と大鵬に次ぐ史上3人目という輝かしい記録を残しました。

    #37 へ つづく

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリーを
    もう一度 35

     ◆歌手活動
    1970年、新横綱として出席した初の横綱会では、余興の時間に 新横綱は何か隠し芸を披露することが通例で、皆、声は良くても 相撲甚句や故郷の民謡を拙い歌い方で披露するのが定石でしたが、
    盟友玉の海さんが弾くギターの伴奏で、北の富士さんがプロの歌手も顔負けの美声で見事に歌い切った。
    それを見て、春日野親方(元横綱・栃錦)が「はぁーっ、時代が変わったもんだ」と驚いた逸話があります。
    1967年には なんと テイチクレコードから「ネオン無情」をリリースして 50万枚を超える売り上げ。4曲リリースし、1969昭和44年には歌番組「夜のヒットスタジオ」にも出演、以降 毎週のようにフジテレビに通って番組出演して生放送などでも『ネオン無情』を披露した。
    先駆者となって道を切り開いてくれた北の富士さんのおかげで、
    後に
    元大関増位山太志郎さん(レコード発売時は大関昇進前)が
    1974年、レコードデビュー3曲目として 林家三平師匠の奥様=海老名香葉子さん作詞して頂いたムード演歌『そんな夕子に惚れました』を大ヒットさせ 発売年に70万枚の売上、ロングセラーとなって現在までに累計120万枚超の売上という (北の富士さんの『ネオン無情』を大きく上回る ) 力士の歌としては空前の大ヒットをさせると、さらに8曲目の『そんな女のひとりごと』では 1978年 第11回 日本有線放送大賞を獲得する偉業達成、130万枚超を売上げ その年のベストヒット賞も受賞。

    さらに、最近NHKの大相撲中継の解説者に正式に就任した元大関琴風さん(後の尾車親方)も 大関在位中だった1982昭和57年に『まわり道』などをスマッシュヒットさせ 歌手活動しました。

    北の富士さん・増位山太志郎さん・琴風豪規さん
    この歌手デビューしヒット曲を持つ三力士の
    もうひとつの共通点とは……

    #36 へつづく

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリーを
    もう一度 34

    ◇意外に⁉️ 安定していた “横綱北の富士”

    北の富士さんの金星配給は
    横綱在位27場所で17個、ひと場所平均0.63個は 双葉山や初代若乃花の場所平均金星配給数よりも少なく、
    横綱在位時の平幕力士との対戦通算137番で27敗ですから金星配給率としては 歴代6番目の低さ 0.124

    平幕との対戦100番以上の横綱として、北の富士さんよりも金星配給率が低い横綱は 当時は双葉山・大鵬だけ。北の富士さん以降だと 千代の富士・朝青龍・白鵬の5人しかいない。
    “土俵の鬼”初代若乃花や “名人横綱”栃錦も、“天才”輪島や “憎たらしいほど強かった ” 北の湖も、“平成の大横綱” 貴乃花や貴乃花のライバルだった曙・武蔵丸ら「ガチンコ相撲を貫いての平成の大相撲ブーム」を築いた強者(つわもの)トリオ……も北の富士さんの金星配給率(=与金星率)の低さには及びません。

    いつも実況解説にて ご自身の記録については 非常に謙虚な北の富士さんでしたが
    (当時)双葉山・大鵬に次ぐ優勝回数・15戦全勝優勝回数の史上3位タイのみならず
    たいへんな記録の数々の持ち主だったのです。

    #35 へつづく

  • 投稿者:KON

    北の富士さんヒストリーを
    もう一度 33

    ◇世代交代を確認しての突如の引退

    貴ノ花との熱戦の翌年1973昭和48年、
    九月場所は 双葉山・大鵬に並ぶ史上最多の3回目の15戦全勝優勝を果たして完全復活をアピールした北の富士さんでしたが、ひとり(独り)横綱の8場所中で、後に初の学士横綱となる“天才”輪島大士(同5月場所)とハワイから身を投じてきた高見山大五郎(同7月場所)が初優勝を果たし、“プリンス”貴ノ花と “天才”輪島が同時に大関昇進(同9月場所後)するなど、角界の世代交代を実感する結果となりました。
    1973年1月場所後に琴櫻が横綱へ昇進して 二人横綱となると、三月場所には14勝1敗で双葉山・大鵬に次ぎ常ノ花に並ぶ史上3位タイの10度目の優勝を果たし、七月場所にも14勝1敗で琴櫻と決定戦を行なうなど、健在ぶりを印象づけた北の富士さんではありましたが、それ以後の1年や間は 千秋楽まで出場した皆勤場所が1場所だけと急速に衰えていき、特に1974年三月場所前の稽古で右ひざを痛めたのが致命傷となった。
    盟友玉の海が突然の病死してしまったあと、折れそうになる気持ちを奮い立たせてきた北の富士さんでしたが、右膝の大怪我とともに気力も萎えてしまい、3場所連続休場後に迎えた1974年七月場所で初日に 前頭筆頭の旭國斗雄に敗れ通算17個目の金星配給、ニ日目に張出関脇大受久晃も屈して連敗、大受に敗れた結びの一番から わずか1時間後に「体力の限界」を理由にして親方にも相談せずに、あっけなく現役引退を発表してしまいました。
    翌日に引退届を提出した直後の会見では
    「昨夜はよく眠れましたよ。今日から相撲がないので思い切り飲んだ」と語ったが、引退が大々的に報道されて自分がさっさと引退したことを初めて強く自覚し、会見後の夜は眠れなかったという。

    なお、1942昭和17年3月生まれの北の富士さんが引退したことにより、戦前・戦中生まれの横綱経験者は全員現役を引退した……ということになりました。

    #34へ つづく

  • 投稿者:KON

    貴ノ花との因縁2の続編

    その同年3月場所七日目、貴ノ花との結びの一番では、北の富士が左足で外掛けをかけながら貴ノ花を土俵外へ追い詰めたが、貴ノ花がくるりと体を捻りながら うっちゃり気味にこらえた為、北の富士の足も“送り足”のように土俵を踏み越しながら土俵際で両者がほぼ同時に倒れ込み、またもや物言いが付く大相撲となった。
    北の富士vs貴ノ花戦の差し違いの責任を取って退職してしまった 25代 木村庄之助に代わって 立行司を務めていた 22代 式守伊之助の軍配は 北の富士に挙がりましたが、またもや “物言い”の協議によって北の富士の左足が僅かに先に出ていたと判定され、北の富士の勇み足! 行司差し違えで貴ノ花の白星となりました。
    この一番は 直前場所でも北の富士のつき手・かばい手を巡って揉めに揉めていたので、同じ顔合わせで 再び立行司が軍配を差し違えてしまう珍事となった。
    この一番で差し違いをしてしまった式守伊之助も打ち出し後に理事長室に赴き、退職願いを提出したので、慌てた理事長が懸命に慰留したそうです。

    #33へつづく

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