TheNews(ザ・ニュース) > コメント部屋 > 大相撲のコメント部屋大相撲のコメント部屋 ※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。 ※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。 ※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。 ※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。
大相撲出身の元プロレスラー天龍源一郎氏も北の富士さんに心酔したひとり。ゴルフ、ハワイ、銀座…………今では当たり前の行動も北の富士さんが力士としての先駆者だったんですね。天龍さんもソコに憧れていたんですね。現役時代は一度だけ対戦して北の富士さんの勝ちでしたがプロレスラー転向後にも天龍ちゃんと声かけてくれたのが嬉しかったそうです。輪島、大関貴ノ花も北の富士さんから学んだ男としての粋な振る舞いを身につけたんでしょうなあ。
お別れ会何とか時間とりいってきた。 待つ人はビルの回りだから日が当たらず寒い。 祭壇も小さいし何だかなーと思ったが送る人の気持だからもうあの格好いい姿、楽しい解説がきけなくなる寂しさと今までのお礼、あちらで千代の富士と共に酒酌み交わして下さいと手をあわせてきた。 久し振りに仲間揃ったので北の富士が愛した銀座に出て会食してこれから二次会だけどもうみんな店がなくなって行く所がない。 一番若手か知ってる店に行く。 北の富士さんの話題で飲みます。
すったもんだしたけど北の富士さん忍ぶ会行ってきましたよ。孫がオバァ達連れて電車で、八角部屋が分からなくてやっと着いたのが一時過ぎ。まだ関係者のお別れが先に行われていて一般は二時から。では一般の方並んでと言われて孫が機敏に先頭の方を並んでくれたから助かった。1時間も日当たりの悪いビルの横に並ばされて冷え冷えだったけど、後からきた人が ビル囲んで並んでたよ。やっと記帳してから中入れたけど、菊の花をもらいステキな着物きた大きな北の富士さんに花を捧げて拝んで、戒名もあったけどゆっくり読めなかった。 写真はステキな菅平だったよ。 お礼いってきた。 でも北の富士さんの会にしては中に入っても急場作りでビニールみたいのひいてテープでとめて係の人が段差ありますからとかすべるからとかで、もう少しちゃんとしたお別れ会の方がと思ったし並んでいる時みんな話していたよ。 琴櫻、親方になれなくて今はタレントの名前いまど忘れ、横野礼子さん、私達が見たのはそれだけだった。 今体冷え切ってしまったので駅の近くで温かい飲み物飲んで帰る。 孫に感謝だね。 寂しいけど北の富士さんおくれてよかった。ありがとう北の富士さん!
追悼 北の富士さんヒストリー を もう一度 #27 ◇横綱同時昇進 横綱同時昇進は過去に5例。 1例目 江戸時代(寛政) 第四代横綱 2代目 谷風 梶之助・第五代横綱 小野川 喜三郎 2例目 明治時代 第十九代横綱 常陸山 谷右衛門・第二十代横綱 2代目 梅ケ谷 藤太郎 3例目(戦時中) 第三十七代横綱 安藝ノ海 節男・第三十八代横綱 照國 萬蔵 4例目 昭和(戦後) 第四十七代横綱 柏戸 剛・第四十八代横綱 大鵬 幸喜 5例目 昭和 第五十一代横綱 玉の海(玉乃島) 正洋・第五十二代横綱 北の富士 勝昭 〖同時昇進横綱の代数は先に引退した力士が若い代数となります〗 昭和以降で見ると、たったの3例で 1943昭和18年1月場所の安藝ノ海と照國、 次いで1961昭和36年11月場所の柏戸と大鵬、 そして1970昭和45年3月場所 の玉の海と北の富士 なんと平成以降は全くなし。 玉の海と北の富士の最後の横綱同時昇進から、もう54年が過ぎています。 “横綱同時昇進”といのは まったくレアなこととなりました。 #28へつづく
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #26 ◆昇進見送り 1969年九州場所で2度目の優勝を飾り、協会は横綱審議委員会に北の富士の横綱昇進を諮問したが、「大関在位期間の成績に安定感がない」と判断され 横審に却下されてしまいました。 翌1970昭和45年初場所は 千秋楽に玉の海に負けはしましたが、優勝決定戦で雪辱して2場所連続優勝を果たしました。 “2場所連続優勝”ながら、「北の富士に関しては 常日頃の品行に問題あり」と ここでも異議が挙がりました。 「大関昇進の時も、全く星が足りなかったが お情けで大関にしたようなもの。横幅昇進はその分厳しめに!」などと一部審議委員が言い出す始末。 ひとり大関を避ける為という協会都合で昇進させておいたのに、なんという ご都合主義でしょう。 大関での負け越し回数も問題視されましたが、それよりも大関在位期間中の歌手活動に精を出す北の富士に 明治・大正生まればかりの旧態依然とした横審メンバーにとって どうしても気に入らない。“No”の理由が次から次へと出るわ出るわ。 逆に、優勝はしていないが安定感もあり“力士の鑑(かがみ)”のような品行方正ぶりの玉の海のほうがすんなり横綱への推挙が決まり、問題は北の富士。 長い協議の末 「まあ2場所連続優勝は無視できない」と賛成者がギリギリ過半数を超え、“反対少数”により 北の富士は玉の海と同時昇進でついに52代横綱となりました。 #27 へ つづく
18日の東京都心の朝の最低気温が今日あたりの1℃よりは3℃くらい高い4℃だそうなので 午前中から午後にかけての気温は それほど極寒とはならなさそうです。 まあ、列に並ぶことになるでしょうから、アツギのタイツ・スパッツ・ヒートテックなどのインナーで下半身を寒さから守る格好をされることをお勧めします。 また、立ちっぱなしも膝の関節やふくらはぎに宜しくないので、折り畳み式のミニ椅子を持参されると楽だと思います。 お孫さんとかの「レッグウォーマーやルーズソックスなどを借りられたら ふくらはぎの保温に有効だと思います。 真冬に徹夜でチケットを取ろうと国技館前に並んだ際に私も持参し、使用しました。 献花やご焼香が終わったら、ちゃんこ鍋屋さんへ直行がいいですねえ。 あと、 私が頻尿気味なので、トイレの心配も無視できません。 乾燥注意報が出てるでしょうから、水分は こまめに そして ちょこっとずつ摂取されるといいと思います
KONさんありがとね。 18日のお別れ会行く気満々で汚らしいばぁさんが何人もで行ったらお洒落だった北の富士さん嫌だろうと、カットに行ったり黒い服の手入れしたりしていたが、ここの所の寒さ、そして皆持病ありだし早めについても八角部屋の状態は分からんし外で待つかもしれないし、時間読めないし何かあったら困るから皆の家族からも反対との話で孫も協力してくれると言っていたが、辞めるのが賢明かなと考えてる。 残念だけどね。 喪失感は日増しに増えてくる。 行く方は後日でも知らせてほしい。
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #24 ◇北の富士さんが嫌いな相撲は 頭・額からぶつかる「ぶちかまし」 北の富士さんは 何が嫌って、痛いのが大嫌い!! そして、“自慢の顔に傷がつくのを こよなく嫌う”北の富士さん 怖い柏戸さんとぶちかましの琴櫻 番付最上位に君臨する大鵬・柏戸の両横綱。 北の富士さんと比べ、柏戸が3歳上、大鵬にいたっては僅か1歳上という若き横綱が長く君臨していた時代。 “負けない相撲”で左四つの相四つだった大鵬、柔らかい上体で相手の当たる衝撃を吸収し左四つからのいつの間にか土俵際まて追い詰められ堪えるところを“必殺技”の すくい投げで相手を転がす大鵬に対し、 柏戸は立ち合いでガツンと当たってきて右四つ・左前みつを掴むや 一気に電車道の怒涛の寄り、右を差せず双差しとなられても構わずに攻めてきて土俵の外まで猛然と寄り立てる速攻相撲。 北の富士さんが当たっていっても その胸板の硬さと前へ出てくる圧力に 首を痛めてしまう。 北の富士さんが何度も後述してましたが 『柏戸さんねえ、痛いんだよ、立ち合いが! ましてや 柏戸さんの土俵上での顔が怖い!もう、嫌で嫌で。 不戦敗でもいいから土俵に上がりたくないと思ったことは1度や2度じゃなかったよ』と述べてました。 そして もうひとり、機関車の“デコイチ”の異名だった琴櫻。 低い構えからオデコでぶちかましてくる琴櫻の機関車D51のような立ち合いも脅威だった北の富士さん。 横幅の広い顔と身体で 北の富士さん自慢の色白で甘いマスクの顔面に向かって やや斜め下からオデコでぶつかってくる琴櫻の立ち合いを 北の富士さんは本当に嫌いで 『顔にキズなんか作って銀座へ飲みに行ったら大変なんだよ 1度顔を腫らして傷に絆創膏を貼って飲みに行った時なんか 銀座のホステスさんたちが怒り出して “その相手の相撲取りの部屋は何処なの? 明日みんなで押し掛けるから!”と騒ぎ出したもんだよ』とも語ってました。 #25 へ つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 #23 ◇北の富士さんが嫌いな言葉 「根性」 「死ぬ気で頑張る」 「無理へんにゲンコツ」 玉の海と二人、“現代っ子横綱”と言われたほど、革新的で現代の感覚に近い意見をいつも述べていた北の富士さん。 中学生まで野球をしていた時のチーム監督も東京での師匠たちも論理的でない根性論を振りかざす時代で、北の富士さんは全く理解を示しませんでした。 「死ぬ気で頑張れ」と若い衆に言っていた親方衆の指導ぶりにも 小声で『本当に死ぬ気でやったら死んじゃうよ!他に言い方がないのかね』と呟き 呆れていました。 「無理へんにゲンコツ」も昔から角界の常識で、先輩力士・親方らが言うことは絶対! 例え間違ってても親方が「右だ」と言ったら絶対に右! という時代でした。 幸いなことに (既述のとおり)出羽海部屋の親方が、明治生まれの7代目出羽海(元横綱常ノ花)から 大正生まれの8代目(元出羽ノ花)へ代替わりしたことにより、部屋の食事から稽古のやり方まで改革していってくれたことで、北の富士さんも早くから 角界のしきたりを“本当にこのままでいいのだろうか?”と常に疑問を持ちながら過ごしていたといいいます。 #24 へ つづく
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 2,141件 』
元小結阿武咲が現役引退して角界を離れる運びとなりました。奇しくも貴景勝同様に28歳の若さで現役退いてしまいましたがケガの多さが悔やまれますね。
大相撲出身の元プロレスラー天龍源一郎氏も北の富士さんに心酔したひとり。ゴルフ、ハワイ、銀座…………今では当たり前の行動も北の富士さんが力士としての先駆者だったんですね。天龍さんもソコに憧れていたんですね。現役時代は一度だけ対戦して北の富士さんの勝ちでしたがプロレスラー転向後にも天龍ちゃんと声かけてくれたのが嬉しかったそうです。輪島、大関貴ノ花も北の富士さんから学んだ男としての粋な振る舞いを身につけたんでしょうなあ。
お別れ会何とか時間とりいってきた。
待つ人はビルの回りだから日が当たらず寒い。
祭壇も小さいし何だかなーと思ったが送る人の気持だからもうあの格好いい姿、楽しい解説がきけなくなる寂しさと今までのお礼、あちらで千代の富士と共に酒酌み交わして下さいと手をあわせてきた。
久し振りに仲間揃ったので北の富士が愛した銀座に出て会食してこれから二次会だけどもうみんな店がなくなって行く所がない。
一番若手か知ってる店に行く。
北の富士さんの話題で飲みます。
すったもんだしたけど北の富士さん忍ぶ会行ってきましたよ。孫がオバァ達連れて電車で、八角部屋が分からなくてやっと着いたのが一時過ぎ。まだ関係者のお別れが先に行われていて一般は二時から。では一般の方並んでと言われて孫が機敏に先頭の方を並んでくれたから助かった。1時間も日当たりの悪いビルの横に並ばされて冷え冷えだったけど、後からきた人が
ビル囲んで並んでたよ。やっと記帳してから中入れたけど、菊の花をもらいステキな着物きた大きな北の富士さんに花を捧げて拝んで、戒名もあったけどゆっくり読めなかった。
写真はステキな菅平だったよ。
お礼いってきた。
でも北の富士さんの会にしては中に入っても急場作りでビニールみたいのひいてテープでとめて係の人が段差ありますからとかすべるからとかで、もう少しちゃんとしたお別れ会の方がと思ったし並んでいる時みんな話していたよ。
琴櫻、親方になれなくて今はタレントの名前いまど忘れ、横野礼子さん、私達が見たのはそれだけだった。
今体冷え切ってしまったので駅の近くで温かい飲み物飲んで帰る。
孫に感謝だね。
寂しいけど北の富士さんおくれてよかった。ありがとう北の富士さん!
追悼
北の富士さんヒストリー
を もう一度 #27
◇横綱同時昇進
横綱同時昇進は過去に5例。
1例目
江戸時代(寛政)
第四代横綱 2代目 谷風 梶之助・第五代横綱 小野川 喜三郎
2例目
明治時代
第十九代横綱 常陸山 谷右衛門・第二十代横綱 2代目 梅ケ谷 藤太郎
3例目(戦時中)
第三十七代横綱 安藝ノ海 節男・第三十八代横綱 照國 萬蔵
4例目
昭和(戦後)
第四十七代横綱 柏戸 剛・第四十八代横綱 大鵬 幸喜
5例目
昭和
第五十一代横綱 玉の海(玉乃島) 正洋・第五十二代横綱 北の富士 勝昭
〖同時昇進横綱の代数は先に引退した力士が若い代数となります〗
昭和以降で見ると、たったの3例で
1943昭和18年1月場所の安藝ノ海と照國、
次いで1961昭和36年11月場所の柏戸と大鵬、
そして1970昭和45年3月場所 の玉の海と北の富士
なんと平成以降は全くなし。
玉の海と北の富士の最後の横綱同時昇進から、もう54年が過ぎています。
“横綱同時昇進”といのは まったくレアなこととなりました。
#28へつづく
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 #26
◆昇進見送り
1969年九州場所で2度目の優勝を飾り、協会は横綱審議委員会に北の富士の横綱昇進を諮問したが、「大関在位期間の成績に安定感がない」と判断され 横審に却下されてしまいました。
翌1970昭和45年初場所は 千秋楽に玉の海に負けはしましたが、優勝決定戦で雪辱して2場所連続優勝を果たしました。
“2場所連続優勝”ながら、「北の富士に関しては 常日頃の品行に問題あり」と ここでも異議が挙がりました。
「大関昇進の時も、全く星が足りなかったが お情けで大関にしたようなもの。横幅昇進はその分厳しめに!」などと一部審議委員が言い出す始末。
ひとり大関を避ける為という協会都合で昇進させておいたのに、なんという ご都合主義でしょう。
大関での負け越し回数も問題視されましたが、それよりも大関在位期間中の歌手活動に精を出す北の富士に 明治・大正生まればかりの旧態依然とした横審メンバーにとって どうしても気に入らない。“No”の理由が次から次へと出るわ出るわ。
逆に、優勝はしていないが安定感もあり“力士の鑑(かがみ)”のような品行方正ぶりの玉の海のほうがすんなり横綱への推挙が決まり、問題は北の富士。
長い協議の末
「まあ2場所連続優勝は無視できない」と賛成者がギリギリ過半数を超え、“反対少数”により 北の富士は玉の海と同時昇進でついに52代横綱となりました。
#27 へ つづく
18日の東京都心の朝の最低気温が今日あたりの1℃よりは3℃くらい高い4℃だそうなので
午前中から午後にかけての気温は それほど極寒とはならなさそうです。
まあ、列に並ぶことになるでしょうから、アツギのタイツ・スパッツ・ヒートテックなどのインナーで下半身を寒さから守る格好をされることをお勧めします。
また、立ちっぱなしも膝の関節やふくらはぎに宜しくないので、折り畳み式のミニ椅子を持参されると楽だと思います。
お孫さんとかの「レッグウォーマーやルーズソックスなどを借りられたら ふくらはぎの保温に有効だと思います。
真冬に徹夜でチケットを取ろうと国技館前に並んだ際に私も持参し、使用しました。
献花やご焼香が終わったら、ちゃんこ鍋屋さんへ直行がいいですねえ。
あと、
私が頻尿気味なので、トイレの心配も無視できません。
乾燥注意報が出てるでしょうから、水分は こまめに そして ちょこっとずつ摂取されるといいと思います
KONさんありがとね。
18日のお別れ会行く気満々で汚らしいばぁさんが何人もで行ったらお洒落だった北の富士さん嫌だろうと、カットに行ったり黒い服の手入れしたりしていたが、ここの所の寒さ、そして皆持病ありだし早めについても八角部屋の状態は分からんし外で待つかもしれないし、時間読めないし何かあったら困るから皆の家族からも反対との話で孫も協力してくれると言っていたが、辞めるのが賢明かなと考えてる。
残念だけどね。
喪失感は日増しに増えてくる。
行く方は後日でも知らせてほしい。
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 #24
◇北の富士さんが嫌いな相撲は
頭・額からぶつかる「ぶちかまし」
北の富士さんは
何が嫌って、痛いのが大嫌い!!
そして、“自慢の顔に傷がつくのを こよなく嫌う”北の富士さん
怖い柏戸さんとぶちかましの琴櫻
番付最上位に君臨する大鵬・柏戸の両横綱。
北の富士さんと比べ、柏戸が3歳上、大鵬にいたっては僅か1歳上という若き横綱が長く君臨していた時代。
“負けない相撲”で左四つの相四つだった大鵬、柔らかい上体で相手の当たる衝撃を吸収し左四つからのいつの間にか土俵際まて追い詰められ堪えるところを“必殺技”の すくい投げで相手を転がす大鵬に対し、
柏戸は立ち合いでガツンと当たってきて右四つ・左前みつを掴むや 一気に電車道の怒涛の寄り、右を差せず双差しとなられても構わずに攻めてきて土俵の外まで猛然と寄り立てる速攻相撲。
北の富士さんが当たっていっても その胸板の硬さと前へ出てくる圧力に 首を痛めてしまう。
北の富士さんが何度も後述してましたが
『柏戸さんねえ、痛いんだよ、立ち合いが!
ましてや 柏戸さんの土俵上での顔が怖い!もう、嫌で嫌で。
不戦敗でもいいから土俵に上がりたくないと思ったことは1度や2度じゃなかったよ』と述べてました。
そして もうひとり、機関車の“デコイチ”の異名だった琴櫻。
低い構えからオデコでぶちかましてくる琴櫻の機関車D51のような立ち合いも脅威だった北の富士さん。
横幅の広い顔と身体で 北の富士さん自慢の色白で甘いマスクの顔面に向かって やや斜め下からオデコでぶつかってくる琴櫻の立ち合いを 北の富士さんは本当に嫌いで
『顔にキズなんか作って銀座へ飲みに行ったら大変なんだよ 1度顔を腫らして傷に絆創膏を貼って飲みに行った時なんか 銀座のホステスさんたちが怒り出して “その相手の相撲取りの部屋は何処なの? 明日みんなで押し掛けるから!”と騒ぎ出したもんだよ』とも語ってました。
#25 へ つづく
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 #23
◇北の富士さんが嫌いな言葉
「根性」
「死ぬ気で頑張る」
「無理へんにゲンコツ」
玉の海と二人、“現代っ子横綱”と言われたほど、革新的で現代の感覚に近い意見をいつも述べていた北の富士さん。
中学生まで野球をしていた時のチーム監督も東京での師匠たちも論理的でない根性論を振りかざす時代で、北の富士さんは全く理解を示しませんでした。
「死ぬ気で頑張れ」と若い衆に言っていた親方衆の指導ぶりにも 小声で『本当に死ぬ気でやったら死んじゃうよ!他に言い方がないのかね』と呟き 呆れていました。
「無理へんにゲンコツ」も昔から角界の常識で、先輩力士・親方らが言うことは絶対!
例え間違ってても親方が「右だ」と言ったら絶対に右!
という時代でした。
幸いなことに
(既述のとおり)出羽海部屋の親方が、明治生まれの7代目出羽海(元横綱常ノ花)から 大正生まれの8代目(元出羽ノ花)へ代替わりしたことにより、部屋の食事から稽古のやり方まで改革していってくれたことで、北の富士さんも早くから
角界のしきたりを“本当にこのままでいいのだろうか?”と常に疑問を持ちながら過ごしていたといいいます。
#24 へ つづく