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追悼 北の富士さんヒストリー を もう一度 #46 ◇猛稽古 実際、“大の稽古嫌い”と毎回毎回スポーツ紙に報道されてた北の富士さんでしたが、1969昭和44年夏巡業の頃から、まるで人が変わったように稽古に打ち込んだ。 その背景には、 上京してから入門するまで1ヶ月間も自宅に引き取って面倒を見てくれた人物である恩師の村上精一郎氏が脳軟化症で余命幾許もない(同年12月14日に死去)という状況があり、村上氏からは「お前が綱を張ることを信じている」と激励された。 同年9月場所は玉乃島関と最後まで優勝を争い12勝3敗、11月場所は13勝で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。 場所後に協会は北の富士さんの横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、前年 玉乃島関の横綱昇進が否決された時と比べて成績で劣ること、この場所十四日目の麒麟児戦での黒星の印象で悪かったこと等から、もうひと場所様子を見るべきと審議委員全員の反対で否。 ひとり横綱だった大鵬の衰えが明らかであった事情から “ふた場所連続優勝かそれに準ずる成績”という内規を満たした北の富士さんを一応諮問した形だったが、事前の報道でも昇進見送りの公算が強く、案の定、否決が決まると北の富士さん自身も、「九分通り諦めていたのでがっかりはしないですよ」と答えた。 つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 #45 ◇大先輩であるNHK解説者たちから とことん嫌われていた北の富士さん 「ネオン無情」のスマッシュヒットのあと、北の富士さん。 その歌手活動が大関で成績が停滞していた時期と重なったために、NHK相撲中継の解説者天竜氏から「北の富士?本業が歌手で相撲は内職だろ!」と毒づかれ、同じく解説者をしていた玉の海梅吉さんからも「歌手が本業で、テレビ出演の合い間に相撲をとってるよ」だとか 「底の浅い現代相撲」と 突いて はたいて、外掛けで浴びせ倒すという その取り口を酷評され、本格的な右四つの型を完成させた相撲であったライバルの玉の海が好まれたのとは好対照を為した。 北の富士さんは後年「稽古を見ていない割には『稽古が足りない』とか言うんだよ」と 当時、部屋に稽古を見に来たこともない親方衆や先輩方の批判に対して反論してました。 出羽海部屋から破門された形で独立した九重部屋に移籍したことからか、相撲解説者の天竜三郎はさらに酷く、実際のNHK放送で「あいつは生意気ですよ」と直線的な言い方で非難したことがありました。 コアな大相撲ファンであるつもりの私達からすれば、 昭和初期に 相撲協会の運営に不満があるからと十両以上の関取30人以上を煽動して協会を脱退、勝手に髷を落として新団体を作り興行を張るなどして 大相撲存続の最大のピンチを招いた “春秋園事件=別名天竜事件”の首謀者・張本人である天竜が今さら何を言うか⁉️ と思っています。 #46 へ つづく
つづき 満60歳を迎えた2002年には 都内のホテル(イースト21)において、露払いに北勝海、太刀持ちに千代の富士を従えて、重さ約5kgはある赤い“横綱”を締めて 大正時代の無敵横綱太刀山以来7人目となる “還暦横綱土俵入り”を披露しました。 還暦土俵入り 現役時代の最高位が横綱の元力士が還暦を迎える際に赤い綱をつけて行なわれる 特別な土俵入りで、1937昭和12年2月6日に太刀山峯右エ門が上野精養軒で開催したのが始まり。 現在まで12人が還暦土俵入りを行なうことができました。 無事に還暦を迎えても病気などで土俵入りができないから……などの理由で せっかくの還暦土俵入りを辞退する元横綱(鏡里・栃ノ海・初代琴櫻・二代若乃花・大乃国)もいました。 還暦土俵入りは 協会に在籍中であれば国技館を(使用料無料で)使えての御披露目興行ができるので、入場者の数だけチケットが売れれば 例えば 5000人x5000円でも 2500万円という臨時収入になりますが、退職されてる場合は 近隣のホテルなどで行なわれます。 #45へつづく
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #44 ◆区切り 「師匠は50歳まで」という持論を有言実行し、1992平成4年には現役を引退していた千代の富士に九重部屋をあっさり譲り、部屋付きの陣幕親方となりましたが、93年に北勝海が八角部屋で独立するとそちら(八角部屋)へ移籍。 引退後には現役時の最高体重(136kg)から40kgも減量して周囲を驚かせ、他の太った親方衆とは全く異なるシルエットの北の富士さん。 相撲では弱点とされた腰高の原因だった脚の長さも スーツ姿や革ジャン姿では なおさら映える格好良さ。 颯爽と歩く 185cmのスリムな九重親方の回りにはいつも取材陣のカメラと女性ファンが群がっていました。特に相撲番として報道各社から派遣されてくる女性記者たちは現役力士そっちのけで北の富士さんを追い掛けて取材しまくってました。 1986年からは協会の理事に就任して審判部長、94年は新設広報部長など6期12年務め、そろそろ理事長候補とも言われた北の富士さんでしたが、1998平成10年に高砂一門の会合で理事候補から外されると あっさりと相撲協会を退職した。 春場所から 元大関経験者以上では初のNHK解説者となった北の富士さん。 つづく
あれーラジオききのがしたよ! 残念だよ。 昨日は仲間と新年会。 毎年人数が減ってくるわ。 一番相撲に詳しい人が身内に迷惑かけたくないと施設に自発的に入る。 足以外はしゃんとしてるんだけどね。 寂しいよ。 今回は名前忘れないで書くよ。一つ気になるのは Yさんはどうしたんだろう。 気にかけてるんだけどね。
つづき 千代の富士がまだ 本名の苗字に「大」をつけた “大秋元”という四股名だった新弟子時代に「目付きがオオカミに似ている」と “ウルフ”のニックネームをつけた名付け親でもある北の富士さん。 千代の富士の立ち合いからの一気の攻めを磨く為に押し相撲の保志を噛ませ犬のように向かわせ、三年間以上も三番稽古を連日50番以上を取らせたことで保志の実力も引き上げられたことは勿論、千代の富士も当初苦手だった押し相撲力士を苦にしなくなる相乗効果となりました。 北勝海との2横綱で弟子の優勝として39回の当時大相撲史上最多記録。 1985昭和60年秋場所の千代の富士の優勝から1987年春場所の北勝海の優勝まで、九重部屋による同一部屋10連覇(大正時代に黄金時代を築いた出羽ノ海部屋と並ぶ 史上1位タイ)も達成。 当時の春日野理事長(元横綱栃錦)がインタビューで 幕内最高優勝者に贈られる「全農賞」の副賞である お米30俵について、「オレが農協さん(JA全国農業協同組合)に頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には米俵の山が一度も来ない。いつも九重部屋に持っていかれるんだから情けない。九重部屋では米を買ったことがないっていうじゃないか!?」と不満を言い出したほど、当時の九重部屋の台所は潤ってました。 #44 へ つづく
追悼 北の富士さんヒストリー を もう一度 #43 ◆九重部屋の繁栄 二人の横綱を育て上げた名伯楽 北の富士さん 北の富士さん自身は (大正から昭和の)常ノ花寛市・ (戦前から終戦までの)双葉山定次・ そして戦後の大鵬幸喜に次ぐ 当時、歴代3位タイとなる10度の幕内優勝を飾り、1974年に引退。 先代から九重部屋を継承し、千代の富士、北勝海の両横綱を育てたのは御承知のとおり。 北の富士さん自身は現役引退後、1974昭和49年9月に井筒部屋として独立、77年11月に九重親方が死去し、合併の形で九重部屋を継いだ北の富士さん。 関取を9人も育てたのも特筆すべきことでしたが、特に、 大師匠千代の山と同じ北海道の福島町出身の弟弟子の千代の富士を「体格で勝る相手に対して 小兵なのに肩の脱臼につながる強引な上手投げ主体の粗っぽい相撲」から一変させ、毎日毎日腕立て伏せを千回やることを義務付け、脱臼癖の両肩に筋肉の鎧を纏わせた北の富士さん(二代九重親方)は、さらに “自分が対戦していちばん怖かった柏戸さんばり”の「立ち合いにグイっと踏み込んですぐに左前みつを取り 一気に前へ出る速攻相撲」に変身させて “小さな大横綱”にまで育て上げました。 つづく
北の富士勝昭関 優勝ミニ額 大相撲ミニ額 大相撲優勝額 昭和45年7月場所 優勝 横綱 北の富士勝昭関(5回目の優勝)優勝記念品 相撲グッズ 力士グッズ 相撲取りグッズ 国技館 限定品 記念品 コレクション 写真 S4507 大相撲優勝ミニ額 21,980円 送料無料 昭和45(1970)年7月場所で優勝した、横綱 北の富士勝昭関の優勝額ミニチュア版です。 ミニ額の写真は、富士フイルムの高級プリント、写真はアクリルで保護されており、額は木製です。 ※価格は、消費税、送料込みです。受注生産のため、お客様のお手元に届くのは、お申し込みから約1カ月かかります。 商品概要:富士フイルムの技術協力により製作された優勝ミニチュア額 商品サイズ:縦32センチ、横23センチ、厚さ1.5センチ 素材:木、アクリル等 当サイトは、毎日新聞グループ子会社、高速オフセットが毎日新聞社から許諾を得て販売しています。 ※無断転載、転売は固くお断りいたします。 ※写真提供:毎日新聞社 【毎日新聞社・大相撲優勝ミニ額について】 大相撲優勝ミニ額は、両国国技館に掲揚されている幕内優勝力士を顕彰する額(畳5枚分)をそのまま小さくした、毎日新聞社のオリジナル商品です(縦32cm、横23cm)。 額は各場所が終わるたびに、東京都内のスタジオで撮影します。 優勝力士の意見も聞きながらセレクトし、富士フイルムの工場で縦3m、横2mを超す大きな写真額に仕上げます。 優勝額と同じ写真を木製のフレームに収めており、お手元に置くことで優勝の感動を思い起こすことができます。 本サイトでは、直近の優勝力士のほか、毎日新聞社所蔵の戦後に優勝した力士の額すべてをご注文いただけます。 なお、受注生産品のため、お申し込みから商品到着まで約1カ月かかります。ご了承ください。商品は宅配便でお届けします…… とのことですが 令和7年となった今でも受け付けているのか否か 要確認です
追悼 北の富士さんヒストリー を もう一度 #42 盟友玉の海との最後の一番 14日目に大関・大麒麟を破り、6度目の優勝を決め、千秋楽の横綱・北の富士に勝ち、初の全勝優勝を成し遂げた玉の海。 この場所、北の富士は8勝と成績は上がらなかったが、玉の海との横綱決戦は3分近い大熱戦となりました。 立ち合い、突っ張った北の富士が得意の左差しで、右上手を引き、玉の海は上手が取れない。上手まわしをさぐるところを北の富士の左上手投げで防がれる。だが、北の富士の寄りを左からの下手投げを打って残し、上手をつかむ。玉の海は腰を振り北の富士の上手を切ると、一気に寄り切った。 「初優勝の時と同じようにうれしい。横綱になって初めて地元で迎えた前年(昭和45年)が悪かっただけに、やっと地元のファンに恩返しができた」と語った玉の海は 愛知県蒲郡出身の “キョッポ”(=在日韓国人の子息、韓国語はほとんど喋れない。もちろん国籍は日本)で ご当地場所、前年の名古屋場所では9勝6敗だっただけに、喜びもひとしおだった。 右四つになると抜群の安定感を誇っていた玉の海は、昭和45年春場所に横綱昇進後、同年秋場所から4場所連続で14勝1敗を挙げるなど、“大横綱の双葉山の再来”との声も上がった。 ライバルだった北の富士さんは「だいたい右に組み勝つんだけど、それからが大変だったね。上手投げをタイミングよく打ってもしっかり堪えて(こらえて)決めさせてくれなかった。 足腰が柔らかくて抜群によかった。吊りもうまかったね」と、その強さを振り返った北の富士さんでした。 #43 へ つづく
今朝8時から 2時間! NHKラジオ第一594 にて 「ハッキヨイ(発揮よい) もっと大相撲」 出演 能町みね子、琴風浩一(元大関・NHK大相撲中継にて北の富士さんの後任解説者) 司会 吉田賢アナウンサー 大相撲をもっともっと楽しむための特集番組。 今回は先日亡くなった北の富士勝昭さんの追悼企画を放送。 懐かしい音声を紹介し、北の富士さんの思い出を語り合います。 大相撲をもっともっと楽しむための特集番組。若手力士の活躍で盛り上がる大相撲、2024年の「激アツ取組」を振り返りつつ、2025年の注目力士を大胆予測!恒例、番組から皆さんへの「お年玉」人気力士からの新年メッセージもお伝えします。 11月に亡くなった北の富士勝昭さんの追悼企画も放送。懐かしい音声、リスナーの皆さんからのメッセージをご紹介し、北の富士さんの思い出を語り合います。 このコメントの掲載が間に合わず、聴き逃された場合は NHKラジオ聞き逃し配信 というのをスマホから探してみて是非とも聴いてください
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追悼
北の富士さんヒストリー
を もう一度 #46
◇猛稽古
実際、“大の稽古嫌い”と毎回毎回スポーツ紙に報道されてた北の富士さんでしたが、1969昭和44年夏巡業の頃から、まるで人が変わったように稽古に打ち込んだ。
その背景には、
上京してから入門するまで1ヶ月間も自宅に引き取って面倒を見てくれた人物である恩師の村上精一郎氏が脳軟化症で余命幾許もない(同年12月14日に死去)という状況があり、村上氏からは「お前が綱を張ることを信じている」と激励された。
同年9月場所は玉乃島関と最後まで優勝を争い12勝3敗、11月場所は13勝で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。
場所後に協会は北の富士さんの横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、前年 玉乃島関の横綱昇進が否決された時と比べて成績で劣ること、この場所十四日目の麒麟児戦での黒星の印象で悪かったこと等から、もうひと場所様子を見るべきと審議委員全員の反対で否。
ひとり横綱だった大鵬の衰えが明らかであった事情から “ふた場所連続優勝かそれに準ずる成績”という内規を満たした北の富士さんを一応諮問した形だったが、事前の報道でも昇進見送りの公算が強く、案の定、否決が決まると北の富士さん自身も、「九分通り諦めていたのでがっかりはしないですよ」と答えた。
つづく
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 #45
◇大先輩であるNHK解説者たちから とことん嫌われていた北の富士さん
「ネオン無情」のスマッシュヒットのあと、北の富士さん。
その歌手活動が大関で成績が停滞していた時期と重なったために、NHK相撲中継の解説者天竜氏から「北の富士?本業が歌手で相撲は内職だろ!」と毒づかれ、同じく解説者をしていた玉の海梅吉さんからも「歌手が本業で、テレビ出演の合い間に相撲をとってるよ」だとか
「底の浅い現代相撲」と 突いて はたいて、外掛けで浴びせ倒すという その取り口を酷評され、本格的な右四つの型を完成させた相撲であったライバルの玉の海が好まれたのとは好対照を為した。
北の富士さんは後年「稽古を見ていない割には『稽古が足りない』とか言うんだよ」と 当時、部屋に稽古を見に来たこともない親方衆や先輩方の批判に対して反論してました。
出羽海部屋から破門された形で独立した九重部屋に移籍したことからか、相撲解説者の天竜三郎はさらに酷く、実際のNHK放送で「あいつは生意気ですよ」と直線的な言い方で非難したことがありました。
コアな大相撲ファンであるつもりの私達からすれば、
昭和初期に 相撲協会の運営に不満があるからと十両以上の関取30人以上を煽動して協会を脱退、勝手に髷を落として新団体を作り興行を張るなどして 大相撲存続の最大のピンチを招いた “春秋園事件=別名天竜事件”の首謀者・張本人である天竜が今さら何を言うか⁉️
と思っています。
#46 へ つづく
つづき
満60歳を迎えた2002年には 都内のホテル(イースト21)において、露払いに北勝海、太刀持ちに千代の富士を従えて、重さ約5kgはある赤い“横綱”を締めて 大正時代の無敵横綱太刀山以来7人目となる “還暦横綱土俵入り”を披露しました。
還暦土俵入り
現役時代の最高位が横綱の元力士が還暦を迎える際に赤い綱をつけて行なわれる 特別な土俵入りで、1937昭和12年2月6日に太刀山峯右エ門が上野精養軒で開催したのが始まり。
現在まで12人が還暦土俵入りを行なうことができました。
無事に還暦を迎えても病気などで土俵入りができないから……などの理由で
せっかくの還暦土俵入りを辞退する元横綱(鏡里・栃ノ海・初代琴櫻・二代若乃花・大乃国)もいました。
還暦土俵入りは
協会に在籍中であれば国技館を(使用料無料で)使えての御披露目興行ができるので、入場者の数だけチケットが売れれば 例えば 5000人x5000円でも 2500万円という臨時収入になりますが、退職されてる場合は 近隣のホテルなどで行なわれます。
#45へつづく
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 #44
◆区切り
「師匠は50歳まで」という持論を有言実行し、1992平成4年には現役を引退していた千代の富士に九重部屋をあっさり譲り、部屋付きの陣幕親方となりましたが、93年に北勝海が八角部屋で独立するとそちら(八角部屋)へ移籍。
引退後には現役時の最高体重(136kg)から40kgも減量して周囲を驚かせ、他の太った親方衆とは全く異なるシルエットの北の富士さん。
相撲では弱点とされた腰高の原因だった脚の長さも スーツ姿や革ジャン姿では なおさら映える格好良さ。
颯爽と歩く 185cmのスリムな九重親方の回りにはいつも取材陣のカメラと女性ファンが群がっていました。特に相撲番として報道各社から派遣されてくる女性記者たちは現役力士そっちのけで北の富士さんを追い掛けて取材しまくってました。
1986年からは協会の理事に就任して審判部長、94年は新設広報部長など6期12年務め、そろそろ理事長候補とも言われた北の富士さんでしたが、1998平成10年に高砂一門の会合で理事候補から外されると あっさりと相撲協会を退職した。
春場所から 元大関経験者以上では初のNHK解説者となった北の富士さん。
つづく
あれーラジオききのがしたよ!
残念だよ。
昨日は仲間と新年会。
毎年人数が減ってくるわ。
一番相撲に詳しい人が身内に迷惑かけたくないと施設に自発的に入る。
足以外はしゃんとしてるんだけどね。
寂しいよ。
今回は名前忘れないで書くよ。一つ気になるのは
Yさんはどうしたんだろう。
気にかけてるんだけどね。
つづき
千代の富士がまだ 本名の苗字に「大」をつけた “大秋元”という四股名だった新弟子時代に「目付きがオオカミに似ている」と “ウルフ”のニックネームをつけた名付け親でもある北の富士さん。
千代の富士の立ち合いからの一気の攻めを磨く為に押し相撲の保志を噛ませ犬のように向かわせ、三年間以上も三番稽古を連日50番以上を取らせたことで保志の実力も引き上げられたことは勿論、千代の富士も当初苦手だった押し相撲力士を苦にしなくなる相乗効果となりました。
北勝海との2横綱で弟子の優勝として39回の当時大相撲史上最多記録。
1985昭和60年秋場所の千代の富士の優勝から1987年春場所の北勝海の優勝まで、九重部屋による同一部屋10連覇(大正時代に黄金時代を築いた出羽ノ海部屋と並ぶ 史上1位タイ)も達成。
当時の春日野理事長(元横綱栃錦)がインタビューで
幕内最高優勝者に贈られる「全農賞」の副賞である お米30俵について、「オレが農協さん(JA全国農業協同組合)に頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には米俵の山が一度も来ない。いつも九重部屋に持っていかれるんだから情けない。九重部屋では米を買ったことがないっていうじゃないか!?」と不満を言い出したほど、当時の九重部屋の台所は潤ってました。
#44 へ つづく
追悼
北の富士さんヒストリー
を もう一度 #43
◆九重部屋の繁栄
二人の横綱を育て上げた名伯楽 北の富士さん
北の富士さん自身は (大正から昭和の)常ノ花寛市・
(戦前から終戦までの)双葉山定次・
そして戦後の大鵬幸喜に次ぐ
当時、歴代3位タイとなる10度の幕内優勝を飾り、1974年に引退。
先代から九重部屋を継承し、千代の富士、北勝海の両横綱を育てたのは御承知のとおり。
北の富士さん自身は現役引退後、1974昭和49年9月に井筒部屋として独立、77年11月に九重親方が死去し、合併の形で九重部屋を継いだ北の富士さん。
関取を9人も育てたのも特筆すべきことでしたが、特に、
大師匠千代の山と同じ北海道の福島町出身の弟弟子の千代の富士を「体格で勝る相手に対して 小兵なのに肩の脱臼につながる強引な上手投げ主体の粗っぽい相撲」から一変させ、毎日毎日腕立て伏せを千回やることを義務付け、脱臼癖の両肩に筋肉の鎧を纏わせた北の富士さん(二代九重親方)は、さらに
“自分が対戦していちばん怖かった柏戸さんばり”の「立ち合いにグイっと踏み込んですぐに左前みつを取り 一気に前へ出る速攻相撲」に変身させて “小さな大横綱”にまで育て上げました。
つづく
北の富士勝昭関
優勝ミニ額 大相撲ミニ額 大相撲優勝額 昭和45年7月場所 優勝 横綱 北の富士勝昭関(5回目の優勝)優勝記念品 相撲グッズ 力士グッズ 相撲取りグッズ 国技館 限定品 記念品 コレクション 写真 S4507
大相撲優勝ミニ額
21,980円
送料無料
昭和45(1970)年7月場所で優勝した、横綱 北の富士勝昭関の優勝額ミニチュア版です。
ミニ額の写真は、富士フイルムの高級プリント、写真はアクリルで保護されており、額は木製です。
※価格は、消費税、送料込みです。受注生産のため、お客様のお手元に届くのは、お申し込みから約1カ月かかります。
商品概要:富士フイルムの技術協力により製作された優勝ミニチュア額
商品サイズ:縦32センチ、横23センチ、厚さ1.5センチ
素材:木、アクリル等
当サイトは、毎日新聞グループ子会社、高速オフセットが毎日新聞社から許諾を得て販売しています。
※無断転載、転売は固くお断りいたします。
※写真提供:毎日新聞社
【毎日新聞社・大相撲優勝ミニ額について】
大相撲優勝ミニ額は、両国国技館に掲揚されている幕内優勝力士を顕彰する額(畳5枚分)をそのまま小さくした、毎日新聞社のオリジナル商品です(縦32cm、横23cm)。
額は各場所が終わるたびに、東京都内のスタジオで撮影します。
優勝力士の意見も聞きながらセレクトし、富士フイルムの工場で縦3m、横2mを超す大きな写真額に仕上げます。
優勝額と同じ写真を木製のフレームに収めており、お手元に置くことで優勝の感動を思い起こすことができます。
本サイトでは、直近の優勝力士のほか、毎日新聞社所蔵の戦後に優勝した力士の額すべてをご注文いただけます。
なお、受注生産品のため、お申し込みから商品到着まで約1カ月かかります。ご了承ください。商品は宅配便でお届けします……
とのことですが
令和7年となった今でも受け付けているのか否か
要確認です
追悼
北の富士さんヒストリー
を もう一度 #42
盟友玉の海との最後の一番
14日目に大関・大麒麟を破り、6度目の優勝を決め、千秋楽の横綱・北の富士に勝ち、初の全勝優勝を成し遂げた玉の海。
この場所、北の富士は8勝と成績は上がらなかったが、玉の海との横綱決戦は3分近い大熱戦となりました。
立ち合い、突っ張った北の富士が得意の左差しで、右上手を引き、玉の海は上手が取れない。上手まわしをさぐるところを北の富士の左上手投げで防がれる。だが、北の富士の寄りを左からの下手投げを打って残し、上手をつかむ。玉の海は腰を振り北の富士の上手を切ると、一気に寄り切った。
「初優勝の時と同じようにうれしい。横綱になって初めて地元で迎えた前年(昭和45年)が悪かっただけに、やっと地元のファンに恩返しができた」と語った玉の海は 愛知県蒲郡出身の “キョッポ”(=在日韓国人の子息、韓国語はほとんど喋れない。もちろん国籍は日本)で ご当地場所、前年の名古屋場所では9勝6敗だっただけに、喜びもひとしおだった。
右四つになると抜群の安定感を誇っていた玉の海は、昭和45年春場所に横綱昇進後、同年秋場所から4場所連続で14勝1敗を挙げるなど、“大横綱の双葉山の再来”との声も上がった。
ライバルだった北の富士さんは「だいたい右に組み勝つんだけど、それからが大変だったね。上手投げをタイミングよく打ってもしっかり堪えて(こらえて)決めさせてくれなかった。
足腰が柔らかくて抜群によかった。吊りもうまかったね」と、その強さを振り返った北の富士さんでした。
#43 へ つづく
今朝8時から 2時間!
NHKラジオ第一594
にて
「ハッキヨイ(発揮よい) もっと大相撲」
出演
能町みね子、琴風浩一(元大関・NHK大相撲中継にて北の富士さんの後任解説者)
司会 吉田賢アナウンサー
大相撲をもっともっと楽しむための特集番組。
今回は先日亡くなった北の富士勝昭さんの追悼企画を放送。
懐かしい音声を紹介し、北の富士さんの思い出を語り合います。
大相撲をもっともっと楽しむための特集番組。若手力士の活躍で盛り上がる大相撲、2024年の「激アツ取組」を振り返りつつ、2025年の注目力士を大胆予測!恒例、番組から皆さんへの「お年玉」人気力士からの新年メッセージもお伝えします。
11月に亡くなった北の富士勝昭さんの追悼企画も放送。懐かしい音声、リスナーの皆さんからのメッセージをご紹介し、北の富士さんの思い出を語り合います。
このコメントの掲載が間に合わず、聴き逃された場合は NHKラジオ聞き逃し配信 というのをスマホから探してみて是非とも聴いてください