大相撲のコメント部屋

※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。
※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。

※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。
※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。

externallinkコメント一覧

大相撲のコメント部屋 へのコメント 2,138件 』

  • 投稿者:KON

    初日と二日目の割が発表されました。

    日本相撲協会は今朝、両国国技館で取組編成会議を開いて、初日の十両と幕内、2日目の幕内の取組を決め発表しました。

     綱獲り場所となる大関・琴桜(佐渡ヶ嶽)は
    初日に隆の勝(常盤山)、二日目に阿炎(錣山)との割が組まれました。
    隆の勝とは過去7勝2敗で現在、6連勝中。阿炎とは10勝4敗でそれぞれ圧倒している。

    同じく綱獲りの可能性がある大関・豊昇龍(立浪)は
    初日に元大関の霧島(音羽山)、二日目に翔猿(追手風)との割が組まれました。
    霧島とは過去、10勝9敗1不戦敗、翔猿とは14勝10敗といずれも拮抗(きっこう)している。序盤から難敵を迎えるといってもいいでしょう。

    大関昇進2場所目の大の里は初日に翔猿、二日目に霧島と顔を合わせる。

     3場所ぶりの出場となる横綱・照ノ富士(伊勢ケ浜)は 初日に若隆景(荒汐)と対戦する。下から攻められても両腕を決める豪快な相撲で現在9連勝中の相手でもある。
    二日目は隆の勝の挑戦を受けるが、ここが第一の関門!
    対戦成績は 優勝決定戦の1勝を含めても横綱の8勝7敗と、本割では五分。下から当たって斜め上に押してくる爆発力のある押し相撲に定評があり、的が大きい照ノ富士も立ち合いから一気に押し込まれ、土俵を割ったことがありましたね。
    まだエンジンがかかりきらない二日目に当たる相手としては実に厄介⁉️

    ・・・・・・・・・

    注目の三大関の昨年一年間のそれぞれの対戦成績は

     琴櫻 豊昇龍 大の里

    櫻 3-2 4-2


    昇 2-3 4-1


    の 2-4 1-4

    横綱照ノ富士に対しては

    琴櫻が1勝7敗
    (ただし直近の名古屋場所では初勝利)

    豊昇龍は対照ノ富士戦で9戦全敗

    大の里は2勝1敗と勝ち越しています。

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    をもう一度 #49

    ◆酒席での楽しい遊び方

    北の富士さんが亡くなった後、同じ北海道生まれで歌手の松山千春さんがメディアのインタビューに応えて語っていたところによると
    「九州場所は本当によく一緒になったな。俺はちょうど博多でコンサートやってる時期だから 博多で一緒になって中洲で飲んでたな、親方と千代の富士と俺と三人で。
    それとさ、ここだけの話だからな、これは俺たちしか知らないと思うんだけど」と前置きした上で、「ホステスさんのいる中洲のナイトクラブで 三人して少し酔ってくると親方(北の富士さん)がね、ホステスさんのハイヒールを脱がせて その靴にビールを入れるんだよ、いきなり。
    そして『じゃあ、戴くから』って、そのハイヒールに入ったビールをゴクゴクと一気に飲み干して『はぁ、うまかった。ありがとう』って言ってその女性に新しい靴をまた買ってあげるんだけどさ、
    それが おっかしくて たまらないんだよ」と懐しんでいた千春さんでした。

    #50 へ つづく

  • 投稿者:KON

    昨年の幕内優勝力士は
    照ノ富士→尊富士→大の里→照ノ富士→大の里→琴櫻

    照ノ富士がフル出場した場所では二度とも照ノ富士が優勝しましたが、残りの四場所は、1914大正3年5月場所の両國勇治郎以来 110年ぶりの新入幕優勝した尊富士や 明治42年の個人優勝制度確立以来最速となる 初土俵から7場所目で幕内優勝を果たした大の里という ちょん髷力士が優勝、秋場所では大の里が2度目の優勝を果たしましたが、この時点でも大の里はまだ大銀杏も結えなかった。
    九州場所では第53代横綱の琴櫻の孫である大関琴ノ若改め琴櫻が初優勝し今場所に綱獲りを目指してます。
    とにかく話題の多い一年でした。

    そして今年、
    昨年の優勝争いでは大の里や琴櫻に後塵を拝する形となりましたが、一応“先輩大関”にあたる豊昇龍も先場所の優勝決定戦進出により、今場所優勝すれば相撲内容によっては横綱昇進が夢ではありません。

    三大関の直接対戦成績や初場所前の稽古では豊昇龍が一番優位に立ってました。
    無理な投げ技を多用するため粗い相撲が多く、下位力士に取りこぼしが多くて優勝争いから脱落するケースが目立つ豊昇龍。

    虎視眈々と上位力士を食ってしまおうとしてる阿炎や翔猿、安定した実力を魅せてきてる若元春・若隆景の大波兄弟、そして急速に実力を上げてきた隆の勝は横綱照ノ富士と互角の戦いをし続けてますし、大関復帰を目指す霧島も好調なようです。

    楽しみな初場所、もうすぐ初日ですね

  • 投稿者:KON

    追悼
    第52代横綱 北の富士さんヒストリー
    をもう一度 # 48

    ◆親友龍虎との別れ

    元小結龍虎は同期生で、プライベートで飲み歩くなど一番仲が良かった。
    同じ1957昭和32年に初土俵を踏んだ北の富士さんと龍虎さん。
    北の富士さんは
    「50人の新弟子の中で一番弱かったのが俺と龍虎でした。俺と同じで、細くて へなちょこ だったけれど、土俵を縦横無尽に暴れて俺にはないものを持っていた。
    なんか おかしなもので50人中、幕内になったのは俺と龍虎だけです」と懐かしそうに振り返った。

     龍虎さんは花籠部屋出身ですが、北の富士氏が師匠だった九重部屋で2人の横綱(千代の富士、北勝海)を誕生させた時、自分のことのように喜んでくれたと北の富士さん。
    龍虎さんは初土俵から66場所もかかって史上最も遅い幕内昇進。これは北の富士さんより4年余り遅い出世でしたが、幕内に上がった途端 (甘いマスクの北の富士さんとは少し異なる) “男臭さも感じられる 脂ぎった男らしい男という感じの美男力士”として人気を博し、大横綱の大鵬から金星を挙げるなど三場所連続で優勝力士から白星を挙げる珍記録、左アキレス腱断裂の大怪我で幕下まで転落したが猛稽古で見事に復活、幕内へ戻ると新横綱北の湖から金星!
    三役へ復帰しましたが 今度は右アキレス腱断裂。ついに力士を諦め現役引退。後年には引退後に芸能界へ。
    タレント→俳優「暴れん坊将軍」をはじめとした数々の人気時代劇に出演、時代劇俳優になり、人気料理番組「料理天国」の名物試食人として活躍した龍虎さんでしたが、1990年に くも膜下出血で倒れ、回復しましたが18年後に再発、その6年後2014平成6年に、病気が治ったことをお礼参りするため家族と訪れた事任八幡宮(掛川市)で本宮への階段を昇っている時に倒れ家族の救命措置も叶わず搬送先の病院(掛川市)で死去。

    その葬儀で葬儀委員長を務めた北の富士さんが 弔辞で「おれにはやり残した夢がある。日本人横綱を見届けてからそちらに行く」と声を震わせながら挨拶をしました。

    #49 へ つづく

  • 投稿者:KON

    北の富士さんの“郷土の後輩”が引退

    元幕内旭大星(35)=大島部屋、本名・大串拓也=が8日、両国国技館内で引退会見を行ないました。
     旭大星は昨年末に日本相撲協会に引退届を提出。この日は師匠の大島親方(元関脇旭天鵬)とともに出席し「皆様の応援があって、ここまで相撲を取ることができた。ありがとうごいます」と切り出し「楽しい17年でした。きついことも楽しいこともありましたが全部が良かった」と、すがすがしい笑顔を見せた。
     北海道旭川市出身。2008平成20年初場所で初土俵を踏み、2014年名古屋場所で新十両。18年夏場所で新入幕を果たし、10勝を挙げて敢闘賞を受賞した。イケメンぶりでも知られ、自身の入門をテーマにしたフランス人監督によるドキュメンタリー映画「辛抱」は、多くの国際映画祭に出品された。
     2022年初場所で関取の地位から転落し、程なく左膝を手術するなどして番付を下げ、序ノ口から再起。昨年の名古屋場所では西幕下19枚目まで戻したが負け越した。「うちの部屋は皆が関取を目指して頑張っている。関取は無理だと思って残るのは失礼。無理だと思ったら辞めると決めていた」と決断した。
     幕内在位は4場所。最高位は西前頭8枚目。序ノ口からの奮闘は「全然苦じゃなかった。新十両に上がる頃よりも楽しかった」と述懐
     同郷出身横綱で昨年11月に死去した北の富士勝昭さんには、関取になった際に旭川滞在中に寿司店に呼び出され会食した。「お祝いしてもらい、頑張れよと言ってもらいました」と話し、故郷に対して「強みでした。皆を喜ばせたかった」と感謝を口にした。
    北の富士さんが解説者の時に『旭川出身ね、頑張って貰いたいねぇ。大島親方(元大関旭國)の言うことをよく聴いて親方みたいな粘っこい相撲を取ってほしいもんだね』と語ってました。
    奇しくも、北の富士さんが逝去されて間もなくというタイミングでの現役引退となりました。

  • 投稿者:KON

    つづき

    実際のところ、北の富士さんは、稽古に励む度合いに 他の力士よりも抑揚が大きくあるだけで、やる時はやる!
    メリハリのある稽古をしていた北の富士さん。
    本場所での結果も スイッチが入り波にのると圧倒的な強さを見せたのは周知のとおり。
    そうでなければ、素質だけで幕内優勝10回、15
    戦全勝優勝3回(ともに当時の大相撲史上3位で “昭和の2大横綱” 双葉山・大鵬に並ぶ大記録)なんて立派な記録を残せるはずもありません!

    #48 へ つづく

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    をもう一度 #47

    ◇うるさ型の古参解説者のみならず、スポーツ紙などのマスコミからも……

    旧い伝統を良しと信じる年長の編集長がいるスポーツ紙からも 言動を色眼鏡で見られていた北の富士さん。
    長年にわたる印象操作的な記事を信じ、「北の富士? あぁ遊び人ね」と思ってる相撲ファンも少なくない。
    北の富士さんは生来 体が柔らかい為、深刻な怪我は非常に少ない方だったという。
    2021年三月場所十三日目にNHK大相撲中継の公式Twitterで
    『今日は急いできたから腰がちょっと痛い』とツイートすると
    「現役時代に腰のケガ?」と無知なファンからリツイートされ、これに対して北の富士さんは
    『それはない! 俺は昔からケガが少ない! そこまで真面目に相撲取ってなかったから』と自虐的なユーモアを交えて返答しました。
    現役時代、場所前などに各相撲部屋で取材をしてまわってる相撲番記者たちが「北の富士が稽古を何十番とった」と記事を書こうとしても、編集デスクから “それでは面白くない!” と不掲載にされてしまったり、掲載されてもごく小さな扱いになってしまい、逆に「北の富士が稽古を休んだ」「北の富士が出演したフジテレビから銀座に繰り出して飲んでいた……」との記事だと大きくら扱って貰えていたそうで、“印象操作”の恣意的な誘導記事が多くなっていたそうです。

    とある女性記者などは自分が書いた「北の富士が体調不良で稽古を休んだ」という原稿を 上司(デスク)に「そうじゃなくて 『北の富士が “また休んだ ”とか “今日もサボり”』と書くんだよ!」
    と赤(訂正・加筆)を入れられてしまい、その記事は紙面では自分が書いたことになってしまってて、泣きながら北の富士さんに謝罪に来たそうです。

    つづく

  • 投稿者:KON

    大相撲初場所(12日初日、両国国技館)を5日後に控え、時津風一門連合稽古が7日、両国国技館の相撲教習
    所で行なわれました。

     西小結の若隆景(30=荒汐部屋)は元大関で西前頭筆頭の霧島(28=音羽山部屋)らと15番の申し合いで下からのおっつけながら前に出る相撲が光り10勝5敗。稽古後に報道陣に囲まれた若隆景は「テーマはないが、しっかり当たって下から行こうと思った」と手応えを感じていた。ケガを乗り越えて10場所ぶりの三役に復帰し「しっかり気持ちをつくって場所に臨んでいきたいと思う」と気合十分。新年は3日から稽古を開始し、「気を引き締めて新年最初の場所なのでやっていきたい」とおごりはない。

     幕内復帰し3場所連続で2桁勝利。三役に復帰し2桁勝利ならば大関への足がかりとなる。一生懸命、自分らしい相撲を取って結果がついてくればいいと思います」と無欲を強調していたという。

    相撲教習所は両国国技館の敷地内(国技館の建物の真裏)にあり、土俵が二つあります。

    一門の連合稽古となれば、力士の数も多く、たしかに、他の力士の稽古を見るのも大切な稽古ですが、本人の心構え次第。
    横に立つ力士とヘラヘラ笑いながら見ていた正代が春日野親方(元栃乃和歌)から大声で叱責を受けたこともありました。
    二所の関部屋には土俵が二つありますが、なにぶんにも茨城県稲敷市というのは 一門の力士たちがかようには ちょっと遠い。

  • 投稿者:KON

    つづき

    それでも11月場所後の九州地方巡業で、ほとんどの力士が悪天候と寒波に見舞われて稽古ができなかった中、北の富士はただ一人 稽古を皆勤した。
    その巡業に帯同した大鵬が「あれが本当に北の富士だろうか? と目を疑うような時があった。ワシも大関から横綱の頃にかけては 人後に落ちない稽古をした自負はあるが、今の北の富士も稽古にはすごく熱が入っていた。今度の巡業で北の富士の稽古は本物だと感じさせられた」と評するほどの熱心な稽古をしていた北の富士さんでした。
    実際、稽古の成果は本場所で実を結び、翌場所(1970年初場所)でも優勝し文句無しの連続優勝で見事に綱を締めました。12月14日に逝去した村上氏に朗報は間に合わなかったものの 翌場所後の横綱審議委員会で横綱への推挙が決まり、村上氏の四十九日法要には間に合い、『遅くなってすみません……』と涙ながらに報告した北の富士さんでした。

    #47 へ つづく

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    を もう一度 #46

    ◇猛稽古

    実際、“大の稽古嫌い”と毎回毎回スポーツ紙に報道されてた北の富士さんでしたが、1969昭和44年夏巡業の頃から、まるで人が変わったように稽古に打ち込んだ。
    その背景には、
    上京してから入門するまで1ヶ月間も自宅に引き取って面倒を見てくれた人物である恩師の村上精一郎氏が脳軟化症で余命幾許もない(同年12月14日に死去)という状況があり、村上氏からは「お前が綱を張ることを信じている」と激励された。
    同年9月場所は玉乃島関と最後まで優勝を争い12勝3敗、11月場所は13勝で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。
    場所後に協会は北の富士さんの横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、前年 玉乃島関の横綱昇進が否決された時と比べて成績で劣ること、この場所十四日目の麒麟児戦での黒星の印象で悪かったこと等から、もうひと場所様子を見るべきと審議委員全員の反対で否。
    ひとり横綱だった大鵬の衰えが明らかであった事情から “ふた場所連続優勝かそれに準ずる成績”という内規を満たした北の富士さんを一応諮問した形だったが、事前の報道でも昇進見送りの公算が強く、案の定、否決が決まると北の富士さん自身も、「九分通り諦めていたのでがっかりはしないですよ」と答えた。

    つづく

  • 1 44 45 46 47 48 214

    コメントを残す

    日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)