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診療所の先生を巡業に同行してもらってないのだろうか?インフルエンザですと申告があったらその先生に相談するとか考えないのかね?よしんば、同行してもらってなかったとしても、電話で相談できたはずだよね。暴行事件・破廉恥事件・・・全くやる事なす事、お粗末!相撲しかやってこなかった面々が組織を運営するのがそもそも無理なのか。よく、有識者会議に諮って、というケースがあるけと、今の協会の幹部たちは、まさしく無識者の集まり!インフルエンザってったって大したことないから出場しなさい!と命じた某親方。おそらく巡業部の親方だろう。名前を公表するべきだね、巡業部長の春日野か副部長の花籠か?まあ、貴乃花の弟子だった貴源治だからそんな酷いことを言うんだろう。だとしたら真犯人は春日野だろうね。テコンドーの会長のようなコワモテの顔で、インフルエンザぐらいで休むな!と言われたら、若い力士じゃ逆らえないよねえ
巡業先で貴源治が体調が悪く医師に診察してもらったら、インフルエンザだったので 巡業の担当者にインフルエンザだからと申告したら、インフルエンザで休んでいる力士が何人もいるから そのまま取り組みに出ろと言われたそうです。 そんな事をさせていたら余計にインフルエンザにかかってしまう力士や他の人達にうつってしまうのに。 いったい何を考えているのか呆れます 元力士だった親方たちだけで相撲協会を運営しているから、いい加減な、勝手な身内の判断でやっているとしか思えません 相撲協会に外部から、人を入れて怪我など にも専門的な人を入れるとかしないと また、何か問題になる事が起こると思います 一生懸命に相撲を取ってる力士が可哀想ですよね
温故知新・大相撲カレンダー12月23日 1971昭和46年12月23日 現役のまま死亡した横綱玉の海正洋の協会葬が行なわれました。協会葬は史上14人目。 北の富士さんのライバルで、横綱へ同時昇進を果たした玉乃島改め玉の海は、柏鵬時代の終焉を受けて「北玉時代」として、離れていきそうになった相撲ファンを食い止めました。 横綱成績は 130勝20敗 休み0. 0.867 横綱在位10場所以上で、休場0は ただ一人。 横綱在位10場所の成績は、 13勝(準優勝)→12勝(準優勝)→9勝6敗→14勝(優勝)→14勝(優勝)→14勝(準優勝=優勝同点)→14勝(優勝)→→13勝(準優勝)→15勝→12勝(準優勝)・・・・盲腸炎から腹膜炎で急死。 という、昇進後10場所で準優勝以上が9度。 9度という記録は、 大正の太刀山や栃木山・戦前の双葉山という大横綱たちの昇進後10場所8度を上回り、大鵬に並ぶ歴代最多。素晴らしい安定感でした。 (北の湖・千代の富士は7度、なんと貴乃花が10度=10場所すべて、朝青龍が8度、白鵬が9度でした) 与えた金星は横綱在位10場所で わずか3個。ひと場所あたりの金星配給数 0.3個は、 師匠の師匠だった玉錦(0.333個)よりも少なく 昭和の横綱では、金星配給率が最も少ないという安定した横綱でした。 また、1938昭和13年12月22日 現役のまま亡くなった 横綱玉錦の協会葬が 両國國技館にて行なわれた。(常陸山に次ぐ史上2人目の協会葬) 玉錦は、関脇に上がった頃から大関時代までの五年間では、全勝こそないものの、常に優勝に絡む安定ぶりをみせた。 昭和3年1月場所にて、新関脇で9勝2敗(準優勝)、以降→6勝5敗→10勝1敗(優勝)→9勝2敗(準優勝)→9勝2敗(準優勝)→7勝4敗→9勝2敗(準優勝)→8勝3敗・・・・大関昇進・・・・→9勝2敗(準優勝)→9勝2敗(優勝)→9勝2敗(優勝)→10勝1敗(優勝) →8勝3敗→9勝2敗(準優勝)・・・・春秋園事件・・・・→7勝1敗(準優勝)→8勝2敗(準優勝)→10勝1敗(準優勝)→7勝4敗→横綱昇進と この間18場所で休みはゼロ、皆勤して153勝41敗。昭和初めの大不況、その不況による本場所の閑古鳥、それに伴なう力士の待遇悪化、待遇改善を求める強硬派天竜一派による春秋園事件での力士大量離脱などの未曾有の危機を、場所を一度も休まずに乗り越え、角界を背負った玉錦でした。 三場所連続を含む優勝五度、準優勝は八度という成績を挙げ、 「 玉錦 負けない たまにしき まけない たまにしか負けない 」 と謳われたほどの“負けず屋”でした。 優勝9回、横綱成績104勝18敗1分15休 勝率 .852 史上初の幕内300勝達成者でもありました。
力士・親方のテレビ出演情報 『 令和元年 大相撲この一年 』 NHK ① 2019年12月29日(日) 18時05分~18時48分 「大相撲この一年」は、毎年暮れに、藤井康生アナ、北の富士勝昭さん、 舞の海秀平さんが座談会形式で、大相撲の一年間を振り返る番組です。 昨年=2018年は、ゲストに「好角家」で有名な女優の紺野美沙子さんが登場、成長著しい貴景勝も途中から参加して紺野さんから質問攻めに遭いました。 また、力士の浴衣ファッションショーを特集したあとは、 解説北の富士さんのファッションショーへ 北の富士さんと言えば、解説に来る時に放送席で着ている服が毎回格好いいですもんねvvそこで、北の富士さんの2018年の ベストセレクションを振り返ったのですね。 そして、出演者全員が 来年の相撲界に向けた希望として 漢字一字を色紙に書くことになり、披露されたのが 藤井アナ「魅」、 土俵外の騒動は収束して、相撲自体の素晴らしい魅力が伝わる一年になってほしい。という思いから。 舞の海さん「決」、 大関昇進、横綱昇進、横綱は引き際を決めてほしい。という思いから。 北の富士さん「昇」、 期待されている若い力士には大関、横綱に昇進してほしい。という思いから。 紺野美紗子さん「充」、 土俵外のごたごたはもう終わりにして、充実した土俵が見たい。という思いから。 貴景勝関「考」、 自分は身長が低いので、考えて相撲を取らないと勝てないから。という思いから。 さあ、今年はどんな内容でしょうか? 力士としての ゲストは当然 朝乃山かな? それとも 阿炎や北勝富士まで一緒に登場しちゃうでしょうか?
温故知新・大相撲カレンダー12月21日 1885年12月21日 明治初期の東京相撲を背負った大横綱 第15代横綱 初代梅ケ谷が現役を引退、 年寄 雷(いかずち)を襲名しました。 大関時代、横綱免許を受けるまでは 56勝1 敗という圧倒的成績。 相手に褌(ミツ)を取られたことがないと豪語していた。 今の福岡県朝倉市に生まれ、小さい頃から石臼を引き摺り、菓子よりも酒を欲しがり飲んでも平気だったという 俄かには信じ難い伝説もあり、7歳で大坂相撲の不取川清助に引き取られ「梅ヶ枝」を名乗って相撲を取り、16歳になったころには“筑前無敵”と呼ばれた。 17歳で正式に大坂相撲の湊部屋に入門、「梅ヶ谷」という四股名を与えられ、順調に出世して、大坂で大関となる。 その後、1871明治4年に東京相撲へ加入し玉垣部屋へ所属。 しかし、大坂で無敵の大関だったにも関わらず、東京相撲会所(江戸相撲会所の後称で 後の「明治22年・東京大角力協会」→「大正14年・大日本相撲協会」→「昭和33年・日本相撲協会」が、(寛政時代の谷風・雷電の頃より)大坂相撲を格下に見る習慣が続いていた為であり、大坂から来た力士は誰でも関係なく嫌がられるという風潮があったようで、番付は、なんと「本中」=今で言う序ノ口=“前相撲”に据えられてしまった。 そんな梅ヶ谷に、いくら既に格上の東京相撲と言えど、“取り的”たちあたりが 大坂相撲の無敵大関に敵うはずもなく、梅ヶ谷は連戦連勝。 すると、江戸の相撲が上方に負ける現実を信じたくない検査役(審判部)の親方たちから、割を組んで貰えずに、七番相撲なのに4勝0敗で場所が終わってしまったり・・・というあからさまな意地悪もされた。そんなこともあり、「本中」から幕内へ番付が上がっていくのに三年(6場所)の時間を要し、が、梅ヶ谷藤太郎はこの逆境の数々に耐えて稽古を重ね、十両はもちろん、入幕後も圧倒的な強さをみせた。 1874明治7年12月場所で新入幕の場所ながら梅ヶ谷は8勝無敗1分で見事に幕内優勝(相当)。 1876明治9年から明治14年1月場所まで、江戸時代の最強横綱谷風の63連勝に次ぐ、58連勝を遂げた。 59連勝目の若嶋久三郎に不覚を取った翌日から再び勝ち始め、明治17年5月場所、大関大達に敗れるまで35連勝を挙げた。 1884明治17年に、時の内宮卿・伊藤博文参議から東京相撲会所に“天覧相撲”の申し入れがありましたが、第14代横綱境川浪右衛門はすでに引退していたため、横綱土俵入りを見せられる力士がいませんでした。そこで東京相撲会所が慌てて吉田司家と相談して梅ヶ谷に横綱免許を与えた。 身長176cmと小柄ながら、4斗樽を片手で差し上げるほどの怪力で右上手を浅く引き、左は筈かのぞかせて寄るという堅実な取り口で、無理の無い合理的な相撲はまさに「負けない相撲」だったと思います。左はず、右から絞りあげて押し切る安定した相撲は、後の「小さな大横綱」栃木山も同様の相撲内容でした。 梅ヶ谷の幕内通算成績 116勝6敗18分2預78休 勝率9割5分1厘 22場所で優勝相当9回 幕内勝率~9割5分1厘~史上2位 これは、雷電為右エ門(9割6分2厘)に次ぐ史上2位で、横綱では幕内最高勝率で谷風梶之助(9割4分9厘)を上回ります。 谷風と雷電ら超強豪力士達と同様、初土俵以来、入幕前も入幕後も、引退するまで一度も、本場所で負け越しをしなかった。 というか、谷風・小野川・雷電・三代玉垣・陣幕(及び、後の愛弟子二代梅ヶ谷と常陸山)同様、初土俵以来引退まで 毎場所全勝かせいぜい1敗、ごく稀に2敗することはあっても、14年間の東京相撲の土俵で ひと場所に 3敗することが一度もありませんでした。 常日頃から『横綱たるもの、ひと場所に2度も負けるようものなら、辞するべき』と広言していた為、実際に自らが横綱となった新横綱の場所で、(連勝を35まで伸ばしたあと)、前述の大達羽左衛門に屈した翌日に 高見山宗五郎に不覚を取って連敗。自己発言のとおり、さっさと引退を発表。協会の説得で不承不承、翌場所に顔を出したが、三日目までで三勝、中盤以降に引分け相撲を三番取って、場所後、引退してしまった。 現役引退後は、東京大角力協会の最高職だった取締を長く務め、1915年6月場所で弟子の二代谷が引退すると部屋と年寄名跡を譲って廃業したが、協会は「大雷」の尊称を贈り、相談役待遇。協会の発展に尽くした。 特に、大雷は 人望が厚く、1904明治37年に計画された念願の屋根付き常設相撲場建設へ多大な尽力をし、人望が非常に厚く、1904年に大相撲常設館建設が計画された際、安田銀行本所支店長だった飯島保篤氏から、 「大雷」個人の信用だけで 現金40万円(現在なら100~120億円に相当するという)を無担保で借りることができた。 そしてついに、 <> を抜本的に大改革、 悲願の“屋根付きの常設館「國技館」が完成”したのでした。
投げ」といえば、北の富士と千代の富士…と述べましたが、「出し投げ」といえば… 出し投げ 「出し投げ」で相手が土俵の外から桟敷席の三列目いたりまで飛び出して行ったほど強烈な上手出し投げを見舞っていた名横綱栃錦の上をいくのが、栃錦の弟弟子…栃ノ海でした。 敗戦、焦土と化した東京、双葉山の引退もあり、下火になっていった大相撲を再び人気復活させ、戦後の大相撲ブームを興した「栃若時代の一方の雄」初代若乃花が引退し栃若時代が完全に終焉となった昭和37年夏場所、名人横綱栃錦の弟弟子の関脇栃ノ海が14勝で初優勝。 この場所で、栃ノ海の「出し投げ」が炸裂しまくった。 三日目房錦四日目前田川に上手出し投げ、五日目に横綱柏戸に一気の寄りに土俵を割り一敗。しかし、六日目に富士錦を上手出し投げ、十一日目に青ノ里を下手出し投げで、十二日目には大関北葉山を上手出し投げで切って落とし、十三日目には大横綱大鵬を先手先手で攻め立て土俵際で渡し込んで勝利。初優勝に技能賞敢闘賞も受賞、ひと場所五回もの「出し投げ」を魅せて角力ファンを魅了させた。 立ち合いにやや横に変化して上手を掴み投げる出し投げとは違い、四つ相撲やおっつけ、相手の差し手を絞り上げの攻防の最中に、相手が出ようとする“呼吸”~肩の動きや呼吸を読んでの、文字通り絶妙なタイミングで放つ栃ノ海の出し投げは、名人横綱栃錦の引退を哀しんでいた大相撲ファンを唸らせました。 新三役から六場所連続勝ち越し、この14勝で、9勝→9勝→14勝(優)の32勝ながら一気に大関昇進となりました。 大関昇進後は、師匠栃木山を彷彿させる、前まわしを取っての一気の寄りで、大きな大鵬・柏戸を寄り切っていました。 後の「小さな大横綱」千代の富士が、同じようにして一気に寄り切って勝ち星を重ねたのも、師匠北の富士さんが、自分の兄弟子だった栃ノ海の勝ち方を参考に教えたそうです。 大関昇進後の栃ノ海は、意外にも大関在位期間10場所、優勝を含む三場所38勝で第49代横綱に昇進しました。
貴ノ岩がテレビに出てました 40キロ痩せて表情も穏やかになって 力士だった頃より、若く年相応に見えました。 勝負の世界を離れると皆さん、顔付きが穏やかになるんだなと思いました 相撲の世界で得た収入で牧場を経営したりで豊かな暮らしのようでした モンゴルの国では充分に暮らせる収入になっているんでしょうね。 だからモンゴルから力士を目指す人が 後をたたないんでしょう。 引退して 日馬富士とも和解してモンゴルで暮らして 第二は人生を送っている貴ノ岩 きちんと断髪式もやれずに部屋に砂をかけるように引退した貴ノ富士は これから、どうして行くのかと思いました
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,669件 』
診療所の先生を巡業に同行してもらってないのだろうか?インフルエンザですと申告があったらその先生に相談するとか考えないのかね?よしんば、同行してもらってなかったとしても、電話で相談できたはずだよね。暴行事件・破廉恥事件・・・全くやる事なす事、お粗末!相撲しかやってこなかった面々が組織を運営するのがそもそも無理なのか。よく、有識者会議に諮って、というケースがあるけと、今の協会の幹部たちは、まさしく無識者の集まり!インフルエンザってったって大したことないから出場しなさい!と命じた某親方。おそらく巡業部の親方だろう。名前を公表するべきだね、巡業部長の春日野か副部長の花籠か?まあ、貴乃花の弟子だった貴源治だからそんな酷いことを言うんだろう。だとしたら真犯人は春日野だろうね。テコンドーの会長のようなコワモテの顔で、インフルエンザぐらいで休むな!と言われたら、若い力士じゃ逆らえないよねえ
巡業先で貴源治が体調が悪く医師に診察してもらったら、インフルエンザだったので
巡業の担当者にインフルエンザだからと申告したら、インフルエンザで休んでいる力士が何人もいるから
そのまま取り組みに出ろと言われたそうです。
そんな事をさせていたら余計にインフルエンザにかかってしまう力士や他の人達にうつってしまうのに。
いったい何を考えているのか呆れます
元力士だった親方たちだけで相撲協会を運営しているから、いい加減な、勝手な身内の判断でやっているとしか思えません
相撲協会に外部から、人を入れて怪我など
にも専門的な人を入れるとかしないと
また、何か問題になる事が起こると思います
一生懸命に相撲を取ってる力士が可哀想ですよね
今日は寒かったね!
朝来る時は立派な!雪降っていたからね。
長靴で正解だったよ。
29日が楽しみ。今年も北の富士さんのファッションショーやってほしいね。
温故知新・大相撲カレンダー12月23日
1971昭和46年12月23日 現役のまま死亡した横綱玉の海正洋の協会葬が行なわれました。協会葬は史上14人目。
北の富士さんのライバルで、横綱へ同時昇進を果たした玉乃島改め玉の海は、柏鵬時代の終焉を受けて「北玉時代」として、離れていきそうになった相撲ファンを食い止めました。
横綱成績は 130勝20敗 休み0. 0.867
横綱在位10場所以上で、休場0は ただ一人。
横綱在位10場所の成績は、
13勝(準優勝)→12勝(準優勝)→9勝6敗→14勝(優勝)→14勝(優勝)→14勝(準優勝=優勝同点)→14勝(優勝)→→13勝(準優勝)→15勝→12勝(準優勝)・・・・盲腸炎から腹膜炎で急死。
という、昇進後10場所で準優勝以上が9度。
9度という記録は、 大正の太刀山や栃木山・戦前の双葉山という大横綱たちの昇進後10場所8度を上回り、大鵬に並ぶ歴代最多。素晴らしい安定感でした。
(北の湖・千代の富士は7度、なんと貴乃花が10度=10場所すべて、朝青龍が8度、白鵬が9度でした)
与えた金星は横綱在位10場所で わずか3個。ひと場所あたりの金星配給数 0.3個は、
師匠の師匠だった玉錦(0.333個)よりも少なく 昭和の横綱では、金星配給率が最も少ないという安定した横綱でした。
また、1938昭和13年12月22日 現役のまま亡くなった 横綱玉錦の協会葬が
両國國技館にて行なわれた。(常陸山に次ぐ史上2人目の協会葬)
玉錦は、関脇に上がった頃から大関時代までの五年間では、全勝こそないものの、常に優勝に絡む安定ぶりをみせた。
昭和3年1月場所にて、新関脇で9勝2敗(準優勝)、以降→6勝5敗→10勝1敗(優勝)→9勝2敗(準優勝)→9勝2敗(準優勝)→7勝4敗→9勝2敗(準優勝)→8勝3敗・・・・大関昇進・・・・→9勝2敗(準優勝)→9勝2敗(優勝)→9勝2敗(優勝)→10勝1敗(優勝) →8勝3敗→9勝2敗(準優勝)・・・・春秋園事件・・・・→7勝1敗(準優勝)→8勝2敗(準優勝)→10勝1敗(準優勝)→7勝4敗→横綱昇進と
この間18場所で休みはゼロ、皆勤して153勝41敗。昭和初めの大不況、その不況による本場所の閑古鳥、それに伴なう力士の待遇悪化、待遇改善を求める強硬派天竜一派による春秋園事件での力士大量離脱などの未曾有の危機を、場所を一度も休まずに乗り越え、角界を背負った玉錦でした。
三場所連続を含む優勝五度、準優勝は八度という成績を挙げ、
「 玉錦 負けない たまにしき まけない たまにしか負けない 」 と謳われたほどの“負けず屋”でした。
優勝9回、横綱成績104勝18敗1分15休 勝率 .852
史上初の幕内300勝達成者でもありました。
力士・親方のテレビ出演情報
『 令和元年 大相撲この一年 』
NHK ① 2019年12月29日(日) 18時05分~18時48分
「大相撲この一年」は、毎年暮れに、藤井康生アナ、北の富士勝昭さん、 舞の海秀平さんが座談会形式で、大相撲の一年間を振り返る番組です。
昨年=2018年は、ゲストに「好角家」で有名な女優の紺野美沙子さんが登場、成長著しい貴景勝も途中から参加して紺野さんから質問攻めに遭いました。
また、力士の浴衣ファッションショーを特集したあとは、 解説北の富士さんのファッションショーへ
北の富士さんと言えば、解説に来る時に放送席で着ている服が毎回格好いいですもんねvvそこで、北の富士さんの2018年の ベストセレクションを振り返ったのですね。
そして、出演者全員が 来年の相撲界に向けた希望として 漢字一字を色紙に書くことになり、披露されたのが
藤井アナ「魅」、
土俵外の騒動は収束して、相撲自体の素晴らしい魅力が伝わる一年になってほしい。という思いから。
舞の海さん「決」、
大関昇進、横綱昇進、横綱は引き際を決めてほしい。という思いから。
北の富士さん「昇」、
期待されている若い力士には大関、横綱に昇進してほしい。という思いから。
紺野美紗子さん「充」、
土俵外のごたごたはもう終わりにして、充実した土俵が見たい。という思いから。
貴景勝関「考」、
自分は身長が低いので、考えて相撲を取らないと勝てないから。という思いから。
さあ、今年はどんな内容でしょうか?
力士としての ゲストは当然 朝乃山かな?
それとも 阿炎や北勝富士まで一緒に登場しちゃうでしょうか?
温故知新・大相撲カレンダー12月21日
1885年12月21日 明治初期の東京相撲を背負った大横綱 第15代横綱 初代梅ケ谷が現役を引退、
年寄 雷(いかずち)を襲名しました。
大関時代、横綱免許を受けるまでは 56勝1 敗という圧倒的成績。 相手に褌(ミツ)を取られたことがないと豪語していた。
今の福岡県朝倉市に生まれ、小さい頃から石臼を引き摺り、菓子よりも酒を欲しがり飲んでも平気だったという 俄かには信じ難い伝説もあり、7歳で大坂相撲の不取川清助に引き取られ「梅ヶ枝」を名乗って相撲を取り、16歳になったころには“筑前無敵”と呼ばれた。
17歳で正式に大坂相撲の湊部屋に入門、「梅ヶ谷」という四股名を与えられ、順調に出世して、大坂で大関となる。
その後、1871明治4年に東京相撲へ加入し玉垣部屋へ所属。
しかし、大坂で無敵の大関だったにも関わらず、東京相撲会所(江戸相撲会所の後称で 後の「明治22年・東京大角力協会」→「大正14年・大日本相撲協会」→「昭和33年・日本相撲協会」が、(寛政時代の谷風・雷電の頃より)大坂相撲を格下に見る習慣が続いていた為であり、大坂から来た力士は誰でも関係なく嫌がられるという風潮があったようで、番付は、なんと「本中」=今で言う序ノ口=“前相撲”に据えられてしまった。
そんな梅ヶ谷に、いくら既に格上の東京相撲と言えど、“取り的”たちあたりが 大坂相撲の無敵大関に敵うはずもなく、梅ヶ谷は連戦連勝。
すると、江戸の相撲が上方に負ける現実を信じたくない検査役(審判部)の親方たちから、割を組んで貰えずに、七番相撲なのに4勝0敗で場所が終わってしまったり・・・というあからさまな意地悪もされた。そんなこともあり、「本中」から幕内へ番付が上がっていくのに三年(6場所)の時間を要し、が、梅ヶ谷藤太郎はこの逆境の数々に耐えて稽古を重ね、十両はもちろん、入幕後も圧倒的な強さをみせた。
1874明治7年12月場所で新入幕の場所ながら梅ヶ谷は8勝無敗1分で見事に幕内優勝(相当)。
1876明治9年から明治14年1月場所まで、江戸時代の最強横綱谷風の63連勝に次ぐ、58連勝を遂げた。 59連勝目の若嶋久三郎に不覚を取った翌日から再び勝ち始め、明治17年5月場所、大関大達に敗れるまで35連勝を挙げた。
1884明治17年に、時の内宮卿・伊藤博文参議から東京相撲会所に“天覧相撲”の申し入れがありましたが、第14代横綱境川浪右衛門はすでに引退していたため、横綱土俵入りを見せられる力士がいませんでした。そこで東京相撲会所が慌てて吉田司家と相談して梅ヶ谷に横綱免許を与えた。
身長176cmと小柄ながら、4斗樽を片手で差し上げるほどの怪力で右上手を浅く引き、左は筈かのぞかせて寄るという堅実な取り口で、無理の無い合理的な相撲はまさに「負けない相撲」だったと思います。左はず、右から絞りあげて押し切る安定した相撲は、後の「小さな大横綱」栃木山も同様の相撲内容でした。
梅ヶ谷の幕内通算成績 116勝6敗18分2預78休 勝率9割5分1厘 22場所で優勝相当9回
幕内勝率~9割5分1厘~史上2位 これは、雷電為右エ門(9割6分2厘)に次ぐ史上2位で、横綱では幕内最高勝率で谷風梶之助(9割4分9厘)を上回ります。
谷風と雷電ら超強豪力士達と同様、初土俵以来、入幕前も入幕後も、引退するまで一度も、本場所で負け越しをしなかった。
というか、谷風・小野川・雷電・三代玉垣・陣幕(及び、後の愛弟子二代梅ヶ谷と常陸山)同様、初土俵以来引退まで 毎場所全勝かせいぜい1敗、ごく稀に2敗することはあっても、14年間の東京相撲の土俵で ひと場所に 3敗することが一度もありませんでした。
常日頃から『横綱たるもの、ひと場所に2度も負けるようものなら、辞するべき』と広言していた為、実際に自らが横綱となった新横綱の場所で、(連勝を35まで伸ばしたあと)、前述の大達羽左衛門に屈した翌日に 高見山宗五郎に不覚を取って連敗。自己発言のとおり、さっさと引退を発表。協会の説得で不承不承、翌場所に顔を出したが、三日目までで三勝、中盤以降に引分け相撲を三番取って、場所後、引退してしまった。
現役引退後は、東京大角力協会の最高職だった取締を長く務め、1915年6月場所で弟子の二代谷が引退すると部屋と年寄名跡を譲って廃業したが、協会は「大雷」の尊称を贈り、相談役待遇。協会の発展に尽くした。
特に、大雷は 人望が厚く、1904明治37年に計画された念願の屋根付き常設相撲場建設へ多大な尽力をし、人望が非常に厚く、1904年に大相撲常設館建設が計画された際、安田銀行本所支店長だった飯島保篤氏から、 「大雷」個人の信用だけで 現金40万円(現在なら100~120億円に相当するという)を無担保で借りることができた。
そしてついに、 <> を抜本的に大改革、
悲願の“屋根付きの常設館「國技館」が完成”したのでした。
投げ」といえば、北の富士と千代の富士…と述べましたが、「出し投げ」といえば…
出し投げ
「出し投げ」で相手が土俵の外から桟敷席の三列目いたりまで飛び出して行ったほど強烈な上手出し投げを見舞っていた名横綱栃錦の上をいくのが、栃錦の弟弟子…栃ノ海でした。
敗戦、焦土と化した東京、双葉山の引退もあり、下火になっていった大相撲を再び人気復活させ、戦後の大相撲ブームを興した「栃若時代の一方の雄」初代若乃花が引退し栃若時代が完全に終焉となった昭和37年夏場所、名人横綱栃錦の弟弟子の関脇栃ノ海が14勝で初優勝。
この場所で、栃ノ海の「出し投げ」が炸裂しまくった。
三日目房錦四日目前田川に上手出し投げ、五日目に横綱柏戸に一気の寄りに土俵を割り一敗。しかし、六日目に富士錦を上手出し投げ、十一日目に青ノ里を下手出し投げで、十二日目には大関北葉山を上手出し投げで切って落とし、十三日目には大横綱大鵬を先手先手で攻め立て土俵際で渡し込んで勝利。初優勝に技能賞敢闘賞も受賞、ひと場所五回もの「出し投げ」を魅せて角力ファンを魅了させた。
立ち合いにやや横に変化して上手を掴み投げる出し投げとは違い、四つ相撲やおっつけ、相手の差し手を絞り上げの攻防の最中に、相手が出ようとする“呼吸”~肩の動きや呼吸を読んでの、文字通り絶妙なタイミングで放つ栃ノ海の出し投げは、名人横綱栃錦の引退を哀しんでいた大相撲ファンを唸らせました。
新三役から六場所連続勝ち越し、この14勝で、9勝→9勝→14勝(優)の32勝ながら一気に大関昇進となりました。
大関昇進後は、師匠栃木山を彷彿させる、前まわしを取っての一気の寄りで、大きな大鵬・柏戸を寄り切っていました。
後の「小さな大横綱」千代の富士が、同じようにして一気に寄り切って勝ち星を重ねたのも、師匠北の富士さんが、自分の兄弟子だった栃ノ海の勝ち方を参考に教えたそうです。
大関昇進後の栃ノ海は、意外にも大関在位期間10場所、優勝を含む三場所38勝で第49代横綱に昇進しました。
貴ノ岩がテレビに出てました
40キロ痩せて表情も穏やかになって
力士だった頃より、若く年相応に見えました。
勝負の世界を離れると皆さん、顔付きが穏やかになるんだなと思いました
相撲の世界で得た収入で牧場を経営したりで豊かな暮らしのようでした
モンゴルの国では充分に暮らせる収入になっているんでしょうね。
だからモンゴルから力士を目指す人が
後をたたないんでしょう。
引退して
日馬富士とも和解してモンゴルで暮らして
第二は人生を送っている貴ノ岩
きちんと断髪式もやれずに部屋に砂をかけるように引退した貴ノ富士は
これから、どうして行くのかと思いました
投げ技って本当にカッコイイですね♪
やっぱり投げ技は、相撲の醍醐味だよね。
立ち会いではたいたりされると腹しかたたないもの!
はたきが多くなっているのは嘆かわしい