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公傷制度は復活して欲しいし、 復活するべきです。 幕内力士が怪我で、あっという間に幕下、その下にも落ちてしまうのは酷いですよね 幕下に落ちたら給料も支給されないし 今の時代に幕下以下ら無給というのも… 衣食住は困らないとは言えども、これも おかしいと思ってます
温故知新カレンダー 12月25日 12月25日は、奄美大島・奄美諸島が日本に変換された日。 1953昭和28年12月25日、沖縄返還よりも19年も前のこの日、奄美大島を含む奄美諸島はアメリカから日本へ正式に返還されました。 栃若時代から柏鵬時代にかけて活躍した 横綱:三代朝潮太郎 が奄美諸島の徳之島出身。 角界に入門した頃は、奄美諸島は日本の敗戦により米軍に占領されていた為、神戸の親戚を頼って、密航により奄美を脱出。奄美が変換されるまでは「兵庫県出身」となっていました。 すぐに幕内に番付を上げ、兵庫に近い大阪場所では特に元気いっぱい。大阪場所が本場所となってから4年目の昭和31年から3年連続大阪春場所を制し、横綱昇進後にも1度優勝で、計4度も優勝、“大阪太郎”と異名がつくほど活躍した。 1962年(昭和37年)1月場所前に現役引退。本来は振分親方となるはずだったが、親友である松登の引退の際に 年寄名跡を貸していた為(当時の)一代年寄制度=横綱の特権で5年間は四股名のまま親方となれた を利用して 朝潮のまま親方になる。現役力士から名跡を借りている親方は、本来は名跡の持主が引退すれば返さなければいけないが、松登は年寄名跡がなくこのままでは廃業かと心配していた。この時、振分(元:松登)のもとを訪ね、自身は横綱の特権が使えることからそのまま貸し続けることを快諾したという。同年、大山親方(元:髙登)が亡くなり振分親方が大山部屋を継承すると自身は振分を襲名。一時期独立して振分部屋を経営したが、後に部屋を閉じて高砂部屋に戻った。 また、1975昭和50年大阪春場所、優勝決定戦で不沈艦:北の湖を下した大関・貴ノ花の初優勝に際し、審判部長高砂として表彰式に臨むわけだが、直前になって 「腹痛がひどいので優勝旗授与の役目を副部長の二子山さんに代わって貰いたい」 と春日野理事長(元:栃錦)に申し出た。 二子山副部長は、もちろん理事長春日野の盟友。 高砂審判部長の唐突な提言に驚くも、二つ返事で承諾した春日野理事長。 こうして、貴ノ花の兄二子山審判部副部長(元:初代若乃花)に優勝旗を手渡しさせる粋な計らいを見せたのでした。 まさしく“大阪太郎”の本領発揮。 また、その表彰式の際、天皇賜盃授与のあと、場内アナウンスがあり 『つづきまして、優勝旗の授与でございます。 高砂審判部長が本日体調不良のため、代わって、審判部の二子山副部長から優勝力士貴ノ花へ優勝旗が授与されます』 と館内に放送された。 「えっ?高砂さん、土俵上にいるのに・・・。 ということは兄から弟への優勝旗授与?」と理解した観客が一斉に大歓声があがりました。 ついさっき、ものの20分ほど前に大関貴ノ花が大横綱北の湖を破って初優勝を決めた際に、 (北の湖曰く)蔵前国技館の屋根が見えなくなった ほど座布団が投げ込まれ、舛席は狂喜乱舞したので、すでに相当疲れ果てていたはずの満員の観客が、立ち上がって大歓声。 優勝旗授与の瞬間、「土俵の鬼」と言われた二子山の目にうっすらと涙が浮かんでいたのが印象的で、翌日のスポーツ紙・一般紙とも、春日野理事長から天皇賜盃授与の写真ではなく、優勝旗を渡す二子山の表情をアップでとらえた写真を載せ、 『鬼の目に涙』 と題し、ほほえましい優勝旗授与を報じました。 ( 後の、貴花田初優勝の際に賜盃を甥っ子に手渡す際の二子山理事長は、表彰状を読み上げる段階で涙が溢れ、賜盃を渡す瞬間は、涙がぼろぼろと溢れ 嗚咽していました。) 一方、腹痛が酷かったはずの審判部長高砂は、具合の悪そうな顔ひとつせず、理事長春日野とともに土俵に立って、“兄二子山から弟貴ノ花への優勝旗授与”を笑顔で見守っていました。 「審判部長はどこが体調不良?」の若干の疑問も、大相撲史上初の 兄から弟への優勝旗授与に立ち会えた相撲ファンは大喜び。 『ええぞ、高砂!』 『ほんまもんの男前や!』 と 高砂審判部長を褒め称える浪速の相撲ファンの声援が多く飛びました。 濃い眉毛と胸毛、そしてこういった心温まる行動の数々に、高砂親方は多くの角力ファンから愛されました。 ・・・一緒にテレビ桟敷で中継にかじりついてた私の母は、『国技館に今日観に行きたかったわぁ。 朝潮さんは偉いわねえ、たいしたものだわ。』 と、涙でぐしょぐしょになりながらさらに鼻をかんでいたのを 覚えています。
温故知新カレンダー・12月24日 1960昭和35年12月24日 この日、「“財団法人”日本相撲協会設立35周年式典」 が、蔵前国技館で執り行われました。 この式典にて、協会幹部が土俵上に上がり御挨拶となり、理事長の元双葉山の時津風の挨拶状がスタンドマイクの前に立ったが、不手際で用意されておらず。 大慌てで血相をかえ花道を小走りで理事室へ取りに戻った 年寄:秀の山(元関脇笠置山)を待つ間、ざわめく館内、「どうした!? まだか?」「秀ノ山はどこへ行った?厠(かわや)か?」などと野次が飛ぶも、悠然と土俵中央に立ち続ける時津風。そのうち野次も止み、蔵前国技館はようやく静まり返るが、およそ7分間、まだ秀の山は戻らない。それでも、微動だにしない時津風理事長に対し、万来の拍手が沸き起こったという。 思い起こせば、あの安藝ノ海に敗れて70連勝ならなかった昭和14年のあの無念の一番でも、負け残りで控えに座って、結びの一番を見上げる双葉山。館内は、結びの一番そっちのけの大騒ぎ、座布団で土俵は埋めつくされ、灰皿(当時のは木箱で本当の灰が入っていたもの)も飛んできて、さらには、火鉢まで投げ込まれた。そんな桟敷席の喧騒をよそに泰然自若としていた、打ち出しで支度部屋に戻る際も、世紀の大連勝が途切れたことなど嘘だったように、そう、自然体で何事もなかったようにいつもどおり引き揚げた。 双葉山がいくつも残した名言の中に、『勝負師は寡黙であれ』というのがあります。 現役時代の力士の多くはその教えを守り寡黙な為、エピソードを拾い集めたいインタビュアーが苦労するほど無口。 特に、現役時代の初代若乃花、弟子の横綱隆の里や実弟の大関貴ノ花、甥の横綱貴乃花、は、文字通り 記者泣かせ でしたね。
白鵬のかちあげについて 荒磯親方はかちあげはおっつけで対抗出来ると言っているし(白鵬は稀勢の里にかちあげを見舞った事は無い)、自分にはかちあげをやって欲しかったと言っている。 他の力士は田子ノ浦部屋へ出稽古へ行き、高安相手にかちあげ対策すればいいんじゃないの? とにかく今の大関以下の力士には打倒白鵬の気迫が感じられない。 稀勢の里相手なら極端に燃えてたくせに。
今朝の新聞各紙に初場所の番付が載っています。 記事はスポニチが白鵬メイン。かち上げはルールの範囲内だから続けるそうです。サンスポや日刊スポーツは新関脇の朝乃山メイン。 私は中日スポーツを買いました。唯一、序ノ口まで番付が載っているので。記事は朝乃山メイン。師匠の高砂親方が来年末に65歳定年なので、それまでに自分が横綱になる!と目標を明言しました。 初場所が楽しみです。 初日に仲間5人たと自由席で観戦します。
今の報道だと春日野親方は、取り組みが終わった後に聞いたとか!取れと言ったのはその場にいた違う親方とか、どれが本当だか分からないが、常識外れた話、その場で取れと言ったのはどの親方? 本当に根本的に変えないと更に酷くなる! 当たり前の対処が出来ない組織は解体した方がいいよ!
貴源治がインフルエンザになっても 相撲を取らせる事を決めたのは 春日野親方だそうです ちゃんと医師の診断書を提出している のに。 春日野親方って巡業先で土俵上で 男性が急に倒れた時も、ボーッと遠くで 見ていただけでしたよね。 とっさの判断や処置ができない人が 巡業部長だなんて情けないですね 他の理事の親方も似たり寄ったりな感じだし 呆れるばかりです
朝乃山が新関脇になりましたね 御嶽海は三役から平幕に落ちてしまって 初場所に活躍してまた三役に戻れるように 頑張って欲しいです 高安が関脇に落ちて初場所に10勝できるようにと思ってます 豪栄道も初場所に負け越したら来場所は 関脇に落ちるとなると大丈夫かなと思ってます 陸奥部屋の霧馬山が幕内に上がりました 移籍して来た同じモンゴルの鶴竜の露払いに霧馬山がなるか楽しみです 照ノ富士、千代鳳などが十両に戻ってきたので十両の取り組みも楽しみです 霧馬山、照ノ富士など初場所は勝ち越しして欲しいです
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公傷制度は復活して欲しいし、
復活するべきです。
幕内力士が怪我で、あっという間に幕下、その下にも落ちてしまうのは酷いですよね
幕下に落ちたら給料も支給されないし
今の時代に幕下以下ら無給というのも…
衣食住は困らないとは言えども、これも
おかしいと思ってます
力士会から「公傷制度の復活」を検討して欲しいという要望が相撲協会に出されました。力士会会長の鶴竜がみんなの意見をまとめて提出したそうです。
どうなるでしょうか?
温故知新カレンダー 12月25日
12月25日は、奄美大島・奄美諸島が日本に変換された日。
1953昭和28年12月25日、沖縄返還よりも19年も前のこの日、奄美大島を含む奄美諸島はアメリカから日本へ正式に返還されました。
栃若時代から柏鵬時代にかけて活躍した 横綱:三代朝潮太郎 が奄美諸島の徳之島出身。
角界に入門した頃は、奄美諸島は日本の敗戦により米軍に占領されていた為、神戸の親戚を頼って、密航により奄美を脱出。奄美が変換されるまでは「兵庫県出身」となっていました。
すぐに幕内に番付を上げ、兵庫に近い大阪場所では特に元気いっぱい。大阪場所が本場所となってから4年目の昭和31年から3年連続大阪春場所を制し、横綱昇進後にも1度優勝で、計4度も優勝、“大阪太郎”と異名がつくほど活躍した。
1962年(昭和37年)1月場所前に現役引退。本来は振分親方となるはずだったが、親友である松登の引退の際に 年寄名跡を貸していた為(当時の)一代年寄制度=横綱の特権で5年間は四股名のまま親方となれた を利用して 朝潮のまま親方になる。現役力士から名跡を借りている親方は、本来は名跡の持主が引退すれば返さなければいけないが、松登は年寄名跡がなくこのままでは廃業かと心配していた。この時、振分(元:松登)のもとを訪ね、自身は横綱の特権が使えることからそのまま貸し続けることを快諾したという。同年、大山親方(元:髙登)が亡くなり振分親方が大山部屋を継承すると自身は振分を襲名。一時期独立して振分部屋を経営したが、後に部屋を閉じて高砂部屋に戻った。
また、1975昭和50年大阪春場所、優勝決定戦で不沈艦:北の湖を下した大関・貴ノ花の初優勝に際し、審判部長高砂として表彰式に臨むわけだが、直前になって 「腹痛がひどいので優勝旗授与の役目を副部長の二子山さんに代わって貰いたい」 と春日野理事長(元:栃錦)に申し出た。
二子山副部長は、もちろん理事長春日野の盟友。 高砂審判部長の唐突な提言に驚くも、二つ返事で承諾した春日野理事長。 こうして、貴ノ花の兄二子山審判部副部長(元:初代若乃花)に優勝旗を手渡しさせる粋な計らいを見せたのでした。
まさしく“大阪太郎”の本領発揮。
また、その表彰式の際、天皇賜盃授与のあと、場内アナウンスがあり 『つづきまして、優勝旗の授与でございます。 高砂審判部長が本日体調不良のため、代わって、審判部の二子山副部長から優勝力士貴ノ花へ優勝旗が授与されます』 と館内に放送された。 「えっ?高砂さん、土俵上にいるのに・・・。 ということは兄から弟への優勝旗授与?」と理解した観客が一斉に大歓声があがりました。 ついさっき、ものの20分ほど前に大関貴ノ花が大横綱北の湖を破って初優勝を決めた際に、 (北の湖曰く)蔵前国技館の屋根が見えなくなった ほど座布団が投げ込まれ、舛席は狂喜乱舞したので、すでに相当疲れ果てていたはずの満員の観客が、立ち上がって大歓声。
優勝旗授与の瞬間、「土俵の鬼」と言われた二子山の目にうっすらと涙が浮かんでいたのが印象的で、翌日のスポーツ紙・一般紙とも、春日野理事長から天皇賜盃授与の写真ではなく、優勝旗を渡す二子山の表情をアップでとらえた写真を載せ、 『鬼の目に涙』 と題し、ほほえましい優勝旗授与を報じました。 ( 後の、貴花田初優勝の際に賜盃を甥っ子に手渡す際の二子山理事長は、表彰状を読み上げる段階で涙が溢れ、賜盃を渡す瞬間は、涙がぼろぼろと溢れ 嗚咽していました。)
一方、腹痛が酷かったはずの審判部長高砂は、具合の悪そうな顔ひとつせず、理事長春日野とともに土俵に立って、“兄二子山から弟貴ノ花への優勝旗授与”を笑顔で見守っていました。
「審判部長はどこが体調不良?」の若干の疑問も、大相撲史上初の 兄から弟への優勝旗授与に立ち会えた相撲ファンは大喜び。 『ええぞ、高砂!』 『ほんまもんの男前や!』 と 高砂審判部長を褒め称える浪速の相撲ファンの声援が多く飛びました。
濃い眉毛と胸毛、そしてこういった心温まる行動の数々に、高砂親方は多くの角力ファンから愛されました。
・・・一緒にテレビ桟敷で中継にかじりついてた私の母は、『国技館に今日観に行きたかったわぁ。 朝潮さんは偉いわねえ、たいしたものだわ。』 と、涙でぐしょぐしょになりながらさらに鼻をかんでいたのを 覚えています。
温故知新カレンダー・12月24日
1960昭和35年12月24日
この日、「“財団法人”日本相撲協会設立35周年式典」 が、蔵前国技館で執り行われました。
この式典にて、協会幹部が土俵上に上がり御挨拶となり、理事長の元双葉山の時津風の挨拶状がスタンドマイクの前に立ったが、不手際で用意されておらず。 大慌てで血相をかえ花道を小走りで理事室へ取りに戻った 年寄:秀の山(元関脇笠置山)を待つ間、ざわめく館内、「どうした!? まだか?」「秀ノ山はどこへ行った?厠(かわや)か?」などと野次が飛ぶも、悠然と土俵中央に立ち続ける時津風。そのうち野次も止み、蔵前国技館はようやく静まり返るが、およそ7分間、まだ秀の山は戻らない。それでも、微動だにしない時津風理事長に対し、万来の拍手が沸き起こったという。
思い起こせば、あの安藝ノ海に敗れて70連勝ならなかった昭和14年のあの無念の一番でも、負け残りで控えに座って、結びの一番を見上げる双葉山。館内は、結びの一番そっちのけの大騒ぎ、座布団で土俵は埋めつくされ、灰皿(当時のは木箱で本当の灰が入っていたもの)も飛んできて、さらには、火鉢まで投げ込まれた。そんな桟敷席の喧騒をよそに泰然自若としていた、打ち出しで支度部屋に戻る際も、世紀の大連勝が途切れたことなど嘘だったように、そう、自然体で何事もなかったようにいつもどおり引き揚げた。
双葉山がいくつも残した名言の中に、『勝負師は寡黙であれ』というのがあります。
現役時代の力士の多くはその教えを守り寡黙な為、エピソードを拾い集めたいインタビュアーが苦労するほど無口。 特に、現役時代の初代若乃花、弟子の横綱隆の里や実弟の大関貴ノ花、甥の横綱貴乃花、は、文字通り 記者泣かせ でしたね。
春日野の言い訳はひどい。毎回すぐばれる嘘をつく。栃ノ心をゴルフクラブで殴ったときもそうだった。横綱審議委員会は、親方・特に理事のことも審議してもらいたい。
白鵬のかちあげについて
荒磯親方はかちあげはおっつけで対抗出来ると言っているし(白鵬は稀勢の里にかちあげを見舞った事は無い)、自分にはかちあげをやって欲しかったと言っている。
他の力士は田子ノ浦部屋へ出稽古へ行き、高安相手にかちあげ対策すればいいんじゃないの?
とにかく今の大関以下の力士には打倒白鵬の気迫が感じられない。
稀勢の里相手なら極端に燃えてたくせに。
今朝の新聞各紙に初場所の番付が載っています。
記事はスポニチが白鵬メイン。かち上げはルールの範囲内だから続けるそうです。サンスポや日刊スポーツは新関脇の朝乃山メイン。
私は中日スポーツを買いました。唯一、序ノ口まで番付が載っているので。記事は朝乃山メイン。師匠の高砂親方が来年末に65歳定年なので、それまでに自分が横綱になる!と目標を明言しました。
初場所が楽しみです。
初日に仲間5人たと自由席で観戦します。
今の報道だと春日野親方は、取り組みが終わった後に聞いたとか!取れと言ったのはその場にいた違う親方とか、どれが本当だか分からないが、常識外れた話、その場で取れと言ったのはどの親方?
本当に根本的に変えないと更に酷くなる!
当たり前の対処が出来ない組織は解体した方がいいよ!
貴源治がインフルエンザになっても
相撲を取らせる事を決めたのは
春日野親方だそうです
ちゃんと医師の診断書を提出している
のに。
春日野親方って巡業先で土俵上で
男性が急に倒れた時も、ボーッと遠くで
見ていただけでしたよね。
とっさの判断や処置ができない人が
巡業部長だなんて情けないですね
他の理事の親方も似たり寄ったりな感じだし
呆れるばかりです
朝乃山が新関脇になりましたね
御嶽海は三役から平幕に落ちてしまって
初場所に活躍してまた三役に戻れるように
頑張って欲しいです
高安が関脇に落ちて初場所に10勝できるようにと思ってます
豪栄道も初場所に負け越したら来場所は
関脇に落ちるとなると大丈夫かなと思ってます
陸奥部屋の霧馬山が幕内に上がりました
移籍して来た同じモンゴルの鶴竜の露払いに霧馬山がなるか楽しみです
照ノ富士、千代鳳などが十両に戻ってきたので十両の取り組みも楽しみです
霧馬山、照ノ富士など初場所は勝ち越しして欲しいです