TheNews(ザ・ニュース) > コメント部屋 > 大相撲のコメント部屋大相撲のコメント部屋 ※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。 ※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。 ※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。 ※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。
毎年暮れに、日刊スポーツ紙が、大相撲大賞として色々な角度からの年間最多記録を特集していますが、今回「年間最優秀投手賞」として、一番多く「投げ技」で勝利したのは? と、白鵬や隠岐の海の12勝を抑えて、松鳳山が14勝ということで記事になっています。 年間14勝で最多とは・・・ いかに、寄り切り、押し出し、はたき込みが多いかですねえ。つまり淡白な勝負が多く、栃若の頃まで遡るのはちょっと無理としても、柏鵬時代・輪湖時代・千代の富士時代・若貴vs曙・武蔵丸時代のような“銭の取れる相撲”が少なくなったかの証明のひとつですね。 「投げ」といえば北の富士 年間に投げで14勝?少ない少ない!と解説席から北の富士さんの独り言が聞こえてきそうです。 大関時代の北の富士さんは、(今の阿炎のように?) 回転のいい突っ張りと“黄金の引き足”冴えるはたきこみで勝ち越しを続けてはいましたが、上位力士とあたる終盤に負けが込んで、「万年大関」と呼ばれていました。 ところが、一転、横綱昇進への足掛かりとなった昭和44年に63勝中「投げ技」で20勝を挙げた。 腰高のまま攻めていく相撲が災いして、土俵際で打っちゃられたり、重心の低いライバル玉乃島に吊り上げられたりしていたのを、むやみに攻めていかないで、寄り身をみせてから体を開いて投げ捨てる相撲に活路を見つけたのでした。 45年初場所後に横綱に昇進してからは 45年に75勝中「投げ技」で27勝、 46年に73勝中「投げ技」で17勝、 休場がちだった47年でも44勝中「投げ技」で17勝、 48年には65勝中「投げ技」で26勝も挙げています。 圧巻だったのは、昭和48年3月春場所で、二日目から三重ノ海・増位山・魁傑を上手投げ3連発で投げ捨て、五日目も長谷川を首投げで切って落とし、七日目に羽黒岩を上手出し投げ・中日八日目には巨漢高見山を上手投げ、十一日目には伸び盛りの北の湖を上手投げ、十三日目には、くせ者陸奥嵐を上手投げ。 これで初日から13連勝、うち「投げ」での勝利が8番。この場所は14勝で10度目の優勝(北の富士さんの最後の優勝)を遂げた。 さらにこの年(昭和48年)の名古屋場所では、初日二日目と栃東・魁傑を上手投げで転がし、五日目以降、一日おきに、金剛・三重ノ海・黒姫山に上手投げで勝利、十一日目には小兵旭國をも上手投げで仕留め、十四日に琴櫻を下手投げで下して、14勝。うち「投げ」で7勝した。 “黄金の左下手”を武器に学生相撲出身者初の横綱となった輪島も「投げ」の印象が強いが、昭和52年の年間75勝中「投げ」で20勝が最多。北の富士には遠く及ばない。 「投げ」での勝ち星が北の富士さんと並ぶのが、愛弟子の千代の富士。 相手の首根っこを押さえながらの上手投げ=通称ウルフスペシャル を武器にしていた“小さな大横綱”千代の富士が昭和62年に71勝中「投げ」で19勝。53連勝した昭和63年には71勝(5敗・15休)のうち「投げ」で26勝を挙げていました。 昭和57年には16勝、58年には25勝を挙げています。 特に、昭和58年名古屋場所では“ウルフスペシャル祭り” 初日の巨砲から二日目の斉須、三日目嗣子鵬、四日目出羽の花、五日目佐田の海と5連続上手投げ。六日目の高見山戦では下手投げで勝利、九日目に舛田山に引き落とされて初黒星となった後は、十日目から蔵間・朝潮・琴風・北天佑と四日連続でウルフスペシャルを決めた。この場所、13勝中「投げ技」で10勝、うち、上手投げで9勝でした。 千代の富士も、大関昇進の頃は、出足鋭い立ち合いから前褌を取って一気に寄り切る相撲を身上としていたが、軽量ゆえに残されての逆転負けを喰らうこともあり、その前に投げて土俵に這わせてしまえという師匠九重(元北の富士)の教えによるものでした。
温故知新・大相撲カレンダー12月18日 1996平成8年12月18日 8日に58歳で急逝した鏡山理事=元横綱柏戸剛の日本相撲協会・協会葬が両国国技館で執り行なわれました。 前日の12月17日には 元柏戸の鏡山役員に、「従五位勲四等旭日小授賞」が追贈されています。 日本相撲協会・協会葬は、1922大正11年に初の協会葬となった出羽ノ海谷右衛門=横綱・常陸山、 玉錦三右衛門=横綱・玉錦、 木村庄之助=(松翁)木村庄之助、 木村良雄≒十枚目格行司で戦死、 橋詰正次≒三段目力士ながら戦死、 出羽海梶之助=小結・両國、 立浪弥右衛門=小結・緑嶌、 春日野剛史=横綱・栃木山守也、 出羽海秀光=横綱・常ノ花、 時津風定次=横綱・双葉山、 立浪政司=横綱・羽黒山、 秀ノ山勝一=関脇・笠置山、 高砂浦五郎=横綱・前田山、 玉の海正洋=横綱・玉の海、 二所ノ関勝巳=大関・佐賀ノ花、 伊勢ヶ濵万蔵=横綱・照國、 宮城野潤之輔=横綱・吉葉山、 伊勢ノ海裕丈=幕内・柏戸、 市川國一=幕内・出羽ノ花、 高砂浦五郎=横綱・朝潮、 1990平成2年の春日野清隆=横綱・栃錦に続き74年間で18人目 横綱・柏戸の協会葬のあとは、もう30年近く経ちますが、協会葬は二子山満=大関・貴ノ花、北の湖敏満=横綱・北の湖の二人だけ、20年でたった二人しか行なわれていません。 誰に言わせても、戦後の大相撲に特別大きな貢献をした十傑の上位に入る、優勝32回の大鵬や同じく31回の千代の富士の死に、協会葬を行なっていません。 「すでに退職して現役協会員でない」 とか 「その時の理事長と理事選を争った」とか 「反体制派を後押しした」とか・・・・、時の協会執行部の好き嫌いをはっきり出したもの。 当時の現役力士たちが 大鵬や千代の富士の葬儀に出てお線香をあげることも出来ないとは。 “ 在職中、または現役中に相撲界の発展に多大に寄与した者に対し協会葬を行なう ”・・・という大原則をまったく無視しているので、これは、私、個人的にとても不満であります。 柏戸剛の師匠だった元柏戸秀剛は、現役時代は三役にもなっていないし協会理事長を務めてもいない、市川國一は武蔵川理事長として活躍はしたが協会を退職したあとでの死去だった というように 例外などいくつもあったのに。 大鵬と千代の富士については、十三回忌の折りにでも、次の理事長のもと、協会主催で十三回忌法要を行なって欲しいものです。
人気沸騰中の炎鵬関。 初場所でも観客から大声援が送られるでしょうね。 日本人好みの〝小よく大を制す〟を実践し続ける炎鵬関への幕内土俵入りでの拍手・歓声の多さは、今や遠藤と遜色ありません。北の富士さんも贔屓にしてる そんな炎鵬関が昨日の朝日新聞にて「十代の君へ」というコラムで、ロングインタビューに答えていましたので引用というかご紹介します。 相撲を始めたのは五歳頃でした。兄が先に始め、周りから「お前もやれよ」と言われていたんですけど、お尻に蒙古斑が残っていて恥ずかしくて、まわしも格好悪いと思っていたし。 ある日、友達が相撲をやりたいと言って二人で相撲を取り僕が勝ったんです。僕は小さくて、大きい相手に勝つとまわりは「おおっ」となる。それにはまっちゃったんですね。 中学で強豪の相撲部に入りました。上下関係も稽古も厳しいし、先輩にも怒られる。洗濯や雑用もしないといけない。特に食事がきつかった。「ちゃんこ三杯、ご飯三杯」とノルマがあって、1年生は3年生に食べさせられるんです。食べ終わるまで先輩が見張っていて。でも、やめようとは思わなかった。大学生になっても相撲が一番で、卒業後にやりたいことが見つかりませんでした。まわりは会社説明会に行って「内定もらった」。面接に行ったこともあったんですが、結局は何もやりたいことがなくて、自分はどうしよう?と焦りもありました。そんな時、横綱白鵬関から声をかけられ、覚悟が決まりました。 『人生は一度きりだぞ』『後悔しない選択をしろ』親にもはじめは反対されましたけど、最後は快く送り出してくれました。 「もっと体が大きかったら良かったと思うか?」ですか? 思わないですね。「たられば」の話だし。現実を受け止め、自分を見つめて理解することが強くなるために一番必要だと思います。子供のころもそうでしたが、大きい相手に勝つのはたまらないし、やめられない。「元気をもらった」「勇気をもらった」と言って貰えるのが一番うれしい。人の心に届く相撲を取れたらいいな、と思います。自分の人生は自分で決めるべきだと思います。誰かが言ったからこれをする、ではなくて。僕も空気を読んでまわりに気を遣うことはあります。でも、人生の選択においては、まわりに流されず、最終的に自分が信じた道を進んで欲しいです。 〝おススメの場所〟 温泉です。 地元の石川県は温泉が多いので、よく温泉に行きました。一人で何も考えずに癒される時間、大切だと思います。 炎鵬関の相撲に向ける真摯な態度がよくわかるコラムでした。
匿名さん、ありがとう。 来年になったらチケットショップ行ってもらいます。 カレンダー別のパートのおばちゃんが毎年忘年会の時にプレゼントしてくれます。 今年も楽しみ!KONさんはじめ皆さんから情報頂けるとありがたいよねー。 寒いから、来年見に行く前提で、ばぁちゃん風邪ひかさない様に気を付けていますよ。 ありがとう。
初場所のチケットは来年になって チケットを持ってる人が観戦に行けなくなって、チケットショップに買い取って貰う人が出てくると思いますよ 来年になってからの方がチケットショップに相撲のチケットが出てくる可能性は高いと思います
相撲協会が出している相撲カレンダーは ネットでも買えるし 多分、セブンイレブンでも買えると思います 私は今年のカレンダーはセブンイレブンで買いましたから。 セブンイレブンもネットからの予約と セブンイレブンの店頭からでも予約できます セブンイレブンで予約したら 特典で相撲のファイルが付いてました これは来年のカレンダー販売では特典があるかは解らないですが 他にも卓上のミニカレンダーで相撲協会の ヒヨノ山のカレンダーもあります 私は両方を買ってます
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,669件 』
毎年暮れに、日刊スポーツ紙が、大相撲大賞として色々な角度からの年間最多記録を特集していますが、今回「年間最優秀投手賞」として、一番多く「投げ技」で勝利したのは?
と、白鵬や隠岐の海の12勝を抑えて、松鳳山が14勝ということで記事になっています。
年間14勝で最多とは・・・ いかに、寄り切り、押し出し、はたき込みが多いかですねえ。つまり淡白な勝負が多く、栃若の頃まで遡るのはちょっと無理としても、柏鵬時代・輪湖時代・千代の富士時代・若貴vs曙・武蔵丸時代のような“銭の取れる相撲”が少なくなったかの証明のひとつですね。
「投げ」といえば北の富士
年間に投げで14勝?少ない少ない!と解説席から北の富士さんの独り言が聞こえてきそうです。
大関時代の北の富士さんは、(今の阿炎のように?) 回転のいい突っ張りと“黄金の引き足”冴えるはたきこみで勝ち越しを続けてはいましたが、上位力士とあたる終盤に負けが込んで、「万年大関」と呼ばれていました。
ところが、一転、横綱昇進への足掛かりとなった昭和44年に63勝中「投げ技」で20勝を挙げた。
腰高のまま攻めていく相撲が災いして、土俵際で打っちゃられたり、重心の低いライバル玉乃島に吊り上げられたりしていたのを、むやみに攻めていかないで、寄り身をみせてから体を開いて投げ捨てる相撲に活路を見つけたのでした。
45年初場所後に横綱に昇進してからは 45年に75勝中「投げ技」で27勝、
46年に73勝中「投げ技」で17勝、
休場がちだった47年でも44勝中「投げ技」で17勝、
48年には65勝中「投げ技」で26勝も挙げています。
圧巻だったのは、昭和48年3月春場所で、二日目から三重ノ海・増位山・魁傑を上手投げ3連発で投げ捨て、五日目も長谷川を首投げで切って落とし、七日目に羽黒岩を上手出し投げ・中日八日目には巨漢高見山を上手投げ、十一日目には伸び盛りの北の湖を上手投げ、十三日目には、くせ者陸奥嵐を上手投げ。 これで初日から13連勝、うち「投げ」での勝利が8番。この場所は14勝で10度目の優勝(北の富士さんの最後の優勝)を遂げた。
さらにこの年(昭和48年)の名古屋場所では、初日二日目と栃東・魁傑を上手投げで転がし、五日目以降、一日おきに、金剛・三重ノ海・黒姫山に上手投げで勝利、十一日目には小兵旭國をも上手投げで仕留め、十四日に琴櫻を下手投げで下して、14勝。うち「投げ」で7勝した。
“黄金の左下手”を武器に学生相撲出身者初の横綱となった輪島も「投げ」の印象が強いが、昭和52年の年間75勝中「投げ」で20勝が最多。北の富士には遠く及ばない。
「投げ」での勝ち星が北の富士さんと並ぶのが、愛弟子の千代の富士。
相手の首根っこを押さえながらの上手投げ=通称ウルフスペシャル を武器にしていた“小さな大横綱”千代の富士が昭和62年に71勝中「投げ」で19勝。53連勝した昭和63年には71勝(5敗・15休)のうち「投げ」で26勝を挙げていました。
昭和57年には16勝、58年には25勝を挙げています。
特に、昭和58年名古屋場所では“ウルフスペシャル祭り” 初日の巨砲から二日目の斉須、三日目嗣子鵬、四日目出羽の花、五日目佐田の海と5連続上手投げ。六日目の高見山戦では下手投げで勝利、九日目に舛田山に引き落とされて初黒星となった後は、十日目から蔵間・朝潮・琴風・北天佑と四日連続でウルフスペシャルを決めた。この場所、13勝中「投げ技」で10勝、うち、上手投げで9勝でした。
千代の富士も、大関昇進の頃は、出足鋭い立ち合いから前褌を取って一気に寄り切る相撲を身上としていたが、軽量ゆえに残されての逆転負けを喰らうこともあり、その前に投げて土俵に這わせてしまえという師匠九重(元北の富士)の教えによるものでした。
理事長経験者でも初代若乃花と魁傑は協会葬になってませんね。
訂正します
協会葬
鏡山親方のあと、20年でたった二人
ではなく
30年でたった二人 の間違いでした。
温故知新・大相撲カレンダー12月18日
1996平成8年12月18日 8日に58歳で急逝した鏡山理事=元横綱柏戸剛の日本相撲協会・協会葬が両国国技館で執り行なわれました。
前日の12月17日には 元柏戸の鏡山役員に、「従五位勲四等旭日小授賞」が追贈されています。
日本相撲協会・協会葬は、1922大正11年に初の協会葬となった出羽ノ海谷右衛門=横綱・常陸山、 玉錦三右衛門=横綱・玉錦、 木村庄之助=(松翁)木村庄之助、 木村良雄≒十枚目格行司で戦死、 橋詰正次≒三段目力士ながら戦死、 出羽海梶之助=小結・両國、 立浪弥右衛門=小結・緑嶌、 春日野剛史=横綱・栃木山守也、 出羽海秀光=横綱・常ノ花、 時津風定次=横綱・双葉山、 立浪政司=横綱・羽黒山、 秀ノ山勝一=関脇・笠置山、 高砂浦五郎=横綱・前田山、 玉の海正洋=横綱・玉の海、 二所ノ関勝巳=大関・佐賀ノ花、 伊勢ヶ濵万蔵=横綱・照國、 宮城野潤之輔=横綱・吉葉山、 伊勢ノ海裕丈=幕内・柏戸、 市川國一=幕内・出羽ノ花、 高砂浦五郎=横綱・朝潮、 1990平成2年の春日野清隆=横綱・栃錦に続き74年間で18人目
横綱・柏戸の協会葬のあとは、もう30年近く経ちますが、協会葬は二子山満=大関・貴ノ花、北の湖敏満=横綱・北の湖の二人だけ、20年でたった二人しか行なわれていません。
誰に言わせても、戦後の大相撲に特別大きな貢献をした十傑の上位に入る、優勝32回の大鵬や同じく31回の千代の富士の死に、協会葬を行なっていません。 「すでに退職して現役協会員でない」 とか 「その時の理事長と理事選を争った」とか 「反体制派を後押しした」とか・・・・、時の協会執行部の好き嫌いをはっきり出したもの。 当時の現役力士たちが 大鵬や千代の富士の葬儀に出てお線香をあげることも出来ないとは。
“ 在職中、または現役中に相撲界の発展に多大に寄与した者に対し協会葬を行なう ”・・・という大原則をまったく無視しているので、これは、私、個人的にとても不満であります。
柏戸剛の師匠だった元柏戸秀剛は、現役時代は三役にもなっていないし協会理事長を務めてもいない、市川國一は武蔵川理事長として活躍はしたが協会を退職したあとでの死去だった というように 例外などいくつもあったのに。
大鵬と千代の富士については、十三回忌の折りにでも、次の理事長のもと、協会主催で十三回忌法要を行なって欲しいものです。
人気沸騰中の炎鵬関。
初場所でも観客から大声援が送られるでしょうね。
日本人好みの〝小よく大を制す〟を実践し続ける炎鵬関への幕内土俵入りでの拍手・歓声の多さは、今や遠藤と遜色ありません。北の富士さんも贔屓にしてる
そんな炎鵬関が昨日の朝日新聞にて「十代の君へ」というコラムで、ロングインタビューに答えていましたので引用というかご紹介します。
相撲を始めたのは五歳頃でした。兄が先に始め、周りから「お前もやれよ」と言われていたんですけど、お尻に蒙古斑が残っていて恥ずかしくて、まわしも格好悪いと思っていたし。 ある日、友達が相撲をやりたいと言って二人で相撲を取り僕が勝ったんです。僕は小さくて、大きい相手に勝つとまわりは「おおっ」となる。それにはまっちゃったんですね。
中学で強豪の相撲部に入りました。上下関係も稽古も厳しいし、先輩にも怒られる。洗濯や雑用もしないといけない。特に食事がきつかった。「ちゃんこ三杯、ご飯三杯」とノルマがあって、1年生は3年生に食べさせられるんです。食べ終わるまで先輩が見張っていて。でも、やめようとは思わなかった。大学生になっても相撲が一番で、卒業後にやりたいことが見つかりませんでした。まわりは会社説明会に行って「内定もらった」。面接に行ったこともあったんですが、結局は何もやりたいことがなくて、自分はどうしよう?と焦りもありました。そんな時、横綱白鵬関から声をかけられ、覚悟が決まりました。
『人生は一度きりだぞ』『後悔しない選択をしろ』親にもはじめは反対されましたけど、最後は快く送り出してくれました。
「もっと体が大きかったら良かったと思うか?」ですか? 思わないですね。「たられば」の話だし。現実を受け止め、自分を見つめて理解することが強くなるために一番必要だと思います。子供のころもそうでしたが、大きい相手に勝つのはたまらないし、やめられない。「元気をもらった」「勇気をもらった」と言って貰えるのが一番うれしい。人の心に届く相撲を取れたらいいな、と思います。自分の人生は自分で決めるべきだと思います。誰かが言ったからこれをする、ではなくて。僕も空気を読んでまわりに気を遣うことはあります。でも、人生の選択においては、まわりに流されず、最終的に自分が信じた道を進んで欲しいです。
〝おススメの場所〟
温泉です。
地元の石川県は温泉が多いので、よく温泉に行きました。一人で何も考えずに癒される時間、大切だと思います。
炎鵬関の相撲に向ける真摯な態度がよくわかるコラムでした。
コンビニはたまに行くが、買ったら帰るだけだから、カレンダー置いてあるのは知らなかった。
今度予約してくる。
有難う。
匿名さん、ありがとう。
来年になったらチケットショップ行ってもらいます。
カレンダー別のパートのおばちゃんが毎年忘年会の時にプレゼントしてくれます。
今年も楽しみ!KONさんはじめ皆さんから情報頂けるとありがたいよねー。
寒いから、来年見に行く前提で、ばぁちゃん風邪ひかさない様に気を付けていますよ。
ありがとう。
初場所のチケットは来年になって
チケットを持ってる人が観戦に行けなくなって、チケットショップに買い取って貰う人が出てくると思いますよ
来年になってからの方がチケットショップに相撲のチケットが出てくる可能性は高いと思います
相撲協会が出している相撲カレンダーは
ネットでも買えるし
多分、セブンイレブンでも買えると思います
私は今年のカレンダーはセブンイレブンで買いましたから。
セブンイレブンもネットからの予約と
セブンイレブンの店頭からでも予約できます
セブンイレブンで予約したら
特典で相撲のファイルが付いてました
これは来年のカレンダー販売では特典があるかは解らないですが
他にも卓上のミニカレンダーで相撲協会の
ヒヨノ山のカレンダーもあります
私は両方を買ってます
相撲カレンダーほしいが、両国まで行かないと買えないのかな?