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追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 9 ◆転機 昭和35年九州後に出羽海親方(元横綱常ノ花)が死去、武蔵川親方(元前頭出羽ノ花)が部屋を継承。 新しい親方となった途端、牛乳飲み放題、ちゃんこも牛肉1人1キロ、フルーツも並ぶなど方針が変わる。 「肥れば強くなる」と声も掛けられて夕方も稽古、午後はちゃんこ鍋の支度(買い出しと古参のちゃんこ番が調理する手伝いでの下拵え)の合い間にぶつかり稽古と四股踏みの毎日。 入門して3年ほどは 下位の力士だと ちゃんこ鍋の中に ろくすっぽ残ってなかった肉・ゆで卵等のたんぱく質を以前より格段に多く摂取できるようになり、“ノッポで痩せっぽち、ひたすら前に出るだけの香車(将棋のきょうす)” と あだ名されていた ひょろっひょろの体も筋肉がしっかりつき始め 勝ち星も増えてきました。 当時は「初土俵から30場所で幕下昇進できなければ解雇」という厳しい規定がありましたが ギリギリの26場所目で幕下への昇進を果たしました。 つづく
今月12日に死去した解説者の北の富士勝昭(本名竹沢勝昭)さんのお別れ会を12月18日に東京都墨田区の八角部屋で開催すると発表しました。 午後1時から関係者による献花などが行なわれ、午後2時半からは一般の参列も受け付けるそうです。 ◆お別れ会 12月18日午後1時から東京都墨田区亀沢1の16の1、八角部屋で。 一般の方の参列は午後2時半から。
日本相撲協会は、来年10月にロンドンで大相撲の海外公演を行なうことを明らかにしました。 相撲協会が主催する海外公演が行なわれるのは、2005年10月のアメリカ・ラスベガス公演以来20年ぶりです。 大相撲の海外公演は海外からの招待を受けて日本相撲協会が主催して文化交流などを目的に行なうもので、これまでにアメリカやヨーロッパなどで実施されてきましたが、2005年10月のアメリカ・ラスベガス公演を最後に行なわれていませんでした。 また、現地の興行主が主催して行なう海外巡業も2013年のジャカルタ巡業以来、実施されていませんでした。 今回、相撲協会が主催する20年ぶりの海外公演として来年10月にロンドン公演を行なうことでまとまり、現地時間の12月4日に相撲協会の八角理事長らがロンドンで会見を行ない、具体的な日程などを発表するそうです。 それまでに新横綱が誕生していないと大変! 海外公演の華である「横綱土俵入り」を集まってくれた観客の皆様にお見せできなくなります。 是が非でも、3大関(琴櫻・豊昇龍・大の里)のいずれか、または二人? には横綱へ駆け上がって貰いたいと思います。
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 8 ◆改名 世話人の勧めで60年秋に「北の冨士」へ改名しました。 “冨士”・・「富士」ではなく「冨士」 北の富士さんは、細かな改名を数多くされてます。 昭和32年1月 初土俵で 竹沢 勝昭 → 昭和34年5月に新三段目として 竹見山 勝明 →昭和35年9月 三段目で成績が上がらず2勝5敗と負け越し 北の冨士 勝明 へ改名 大関3場所目に師匠九重(元横綱千代の山)とともに九重部屋へ移籍した場所で初優勝、翌場所が綱獲り場所だったのに、浮かれて飲みまくり2場所連続負け越しで角番となり…… 昭和42年9月 →北の富士 勝明 に改名 角番は脱出したが9~10勝どまりが3場所続き、準優勝を続けるライバル玉乃島に大きく遅れをとりまたもや改名 昭和43年3月 → 北の富士 洋行 (ひろゆき)へ改名 「どうも『ひろゆき』がしっくりこない」とひと場所で改名 → 昭和43年11月 北の富士 勝昭 → 昭和46年3月 ライバル横綱の玉の海が直近3場所ですべて14勝してるのに、自身は11勝止まりと再び低迷していた為 →北の富士 勝晃 昭和47年7月 前年秋に急死したライバル玉の海を思い、奮起して連覇したあとは、気が抜けてしまい7勝で途中休場・9勝・3勝で途中休場と不甲斐ない成績が続き、ひとり横綱の為に引退もできず、 再び心機一転して改名 → 北の富士 勝昭 改名直後の場所は全休しましたが、その翌場所では不死鳥のごとく復活し、自身3度目の15戦全勝優勝。 =15戦全勝優勝3度は当時、双葉山・大鵬に次ぐ史上3人目の素晴らしい記録でした。 その後、番付を駆け上がってきた学生横綱あがりの輪島にあとを託して現役引退、 年寄井筒を襲名。 井筒部屋を興しました。 九重部屋の親方となるのは、その3年後でした。 つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 7 ◆奮起 1959年夏になり、力士名を 本名の竹沢と出身地 美幌から「竹美山」という四股名に改名したのですが、力士としては見込みないと 行司の付け人という担当を命じられました。 また、細身で前に出る相撲っぷりから(将棋の)香車(きょうす)と部屋の先輩たちから あだ名されました。 1960年夏の釧路巡業では 親戚たちが開いてくれた宴でのご馳走に飲みすぎて宿舎へ朝帰り。 怒った兄弟子から 半日以上も“かわいがり”という名の猛稽古(実はシゴキ)を受け、翌日に急性虫垂炎と腹膜炎併発で50日間入院。 病院に駆けつけた母には叱咤激励された竹沢少年、先輩たちを見返そうと傷口をガーゼで押さえながら ひとり再上京しました。 そもそも入門するために上京した時の 「(道央の)留萌→450km→函館→青函連絡船→青森→700km→上野よりも さらに長距離となった再上京…… (道東の)釧路→580km→函館→青函連絡船→青森→700km→上野という総移動距離1200kmオーバーのなんとも長い旅でした。 つづく
仕事の終わりがたまたま新宿だったし相撲好きな仲間と一緒だったから帰りにちゃんこ北の富士に寄ってきた。 天気がよくなかったがやはり北の富士のファンが多くて隣のテーブルの方々と話があい盛り上がってしまった。 飲むほどに残念な気持が高じてしまったのか泣いていた。 びっくりしたが気持は分かる。 我々の方が先に出たが久し振りにいい酒だった。 北海道の店はやってるのかな? 北の富士の様な人はもうでてこない。 残念だよ!
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 6 ◆力道山との出合い 頼りになる横綱千代の山が最後の優勝を果たした1957昭和32年春場所、その千秋楽後に祝勝会が行なわれ、学生服姿の新弟子竹沢少年は下足番をしていた。 そこに現れたのが 大相撲の元関脇でプロレス界にて スーパースターになっていた力道山光浩さんでした。 力道山から「坊主、お前、いくつだ?」と話しかけられ、「14歳です」と元気よく返答するとニコニコと表情を崩した力道山は500円もの小遣いを旧五百円札(旧札なので刷り色はグレーで私達が覚えているブルーのものよりも豪華な札)をくれたという。 (東京での かけ蕎麦が30円・銭湯が16円の頃のことですから、現在の価値だと25~30倍前後… 当時の500円は 現在の価値だと13000~15000円でしょうか……) 時に大きなアメ車キャデラックで、また ある時は ハーレー・エクセルシャーと並ぶ3大有名メーカーのひとつ「インディアン」の大型バイクで国技館に乗り付けてきていた力道山。 キャデラックの時は 白いカシミヤの上着をビシッと着こなしており、後に「お洒落な身なりといい、金払いの気っぷのよさといい、正直プロレスラーを夢見たよ」「だってさ、一年中 ふんどし姿か 浴衣に雪駄の兄弟子たちとはまるで違い力道山さんは輝いて見えたんだよ」と告白したこともある北の富士さんでした。 つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 6 ◆力道山との出合い 千代の山が最後の優勝(15戦全勝)を果たした昭和32年初場所の千秋楽後に祝勝会が行なわれ、学生服姿の新弟子竹沢少年は下足番をしていた。 そこに現れたのが 大相撲の元関脇でプロレス界にて スーパースターになっていた力道山光浩さんでした。 力道山から「お前、いくつだ?」と話しかけられ、「14歳です」と返答すると500円の小遣いをくれた。 時に 大きなアメ車キャデラックで、また ある時は ハーレー・エクセルシャーと並ぶ3大有名メーカーのひとつ「インディアン」の大型バイクで国技館に乗り付けてきていた力道山。 キャデラックの時は ビシッと白いカシミヤの上着を着こなしており、後に「おしゃれな身なりといい、正直プロレスラーになることを夢見た」と告白したこともある北の富士さんでした。
追悼 北の富士さんヒストリーをもう一度 5 ◆食べて食べて寝て食べて、、、 とにかく食べまくる竹沢少年 はるばる北海道から青函連絡船と東北本線の汽車の旅で東京まで出てきたのに、あえなく不合格となった竹沢少年。 部屋へ戻り意気消沈する竹沢少年でしたが、部屋付きの親方衆から「稽古するよりも体重を増やすことが先」と、2ヶ月近く出羽ノ海部屋で毎日毎日 大先輩で指導係の出羽錦さんが檄を飛ばした。 「食え!残すな!食え!」、「便所で戻したか? なら 胃袋にすき間ができたな、よし食え!嫌なら北海道へ帰るか? 嫌だろ? なら食え!」と地獄のような食事責め。 『おめおめと帰れないし、めげずに食うしかない』と腹に決めた竹沢少年 たらふく食べ続けて、翌場所の新弟子検査では無事合格。 晴れて 初土俵は1957昭和32年初場所。 横綱・千代の山が現役最後の優勝(6回目)を15戦全勝で飾った場所でもありました
解説者席にいらしたら、さぞかし琴櫻関の初優勝を自分のことのように喜んでいたであろう北の富士さん 重ね重ねご冥福をお祈り致します。 そして 追悼 北の富士さんヒストリーをもう一度4 ◆不合格 出羽海部屋入門を果たした竹沢少年でしたが 1957昭和32年初場所での新弟子検査(173cm以上 かつ 75kg以上)は 体重が7キロも足りず、50人中1人だけ不合格。 しかし、当時の「自費養成制度」で初土俵を踏みました。 この制度の恩恵を受けたのは、竹沢少年と浅瀬川の二人だけ。 時は 栃若ブームから柏鵬ブームとなり、入門希望者=新弟子検査受験者が年間350人を超える年が三年も続くなど大相撲ブームとなっていた為、身長・体重がちょっとでも足りないと「お目こぼし」など一切なかった時代。 『長嶋茂雄さんの人気によるプロ野球ブームと巨人・大鵬・卵焼きと言われた大相撲ブームのお陰で、素質ある若者がオリンピックの各競技に集まらない』と雑誌の座談会において 識者たちが嘆いていました。 つづく
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追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 9
◆転機
昭和35年九州後に出羽海親方(元横綱常ノ花)が死去、武蔵川親方(元前頭出羽ノ花)が部屋を継承。
新しい親方となった途端、牛乳飲み放題、ちゃんこも牛肉1人1キロ、フルーツも並ぶなど方針が変わる。
「肥れば強くなる」と声も掛けられて夕方も稽古、午後はちゃんこ鍋の支度(買い出しと古参のちゃんこ番が調理する手伝いでの下拵え)の合い間にぶつかり稽古と四股踏みの毎日。
入門して3年ほどは 下位の力士だと ちゃんこ鍋の中に ろくすっぽ残ってなかった肉・ゆで卵等のたんぱく質を以前より格段に多く摂取できるようになり、“ノッポで痩せっぽち、ひたすら前に出るだけの香車(将棋のきょうす)” と あだ名されていた ひょろっひょろの体も筋肉がしっかりつき始め 勝ち星も増えてきました。
当時は「初土俵から30場所で幕下昇進できなければ解雇」という厳しい規定がありましたが ギリギリの26場所目で幕下への昇進を果たしました。
つづく
今月12日に死去した解説者の北の富士勝昭(本名竹沢勝昭)さんのお別れ会を12月18日に東京都墨田区の八角部屋で開催すると発表しました。
午後1時から関係者による献花などが行なわれ、午後2時半からは一般の参列も受け付けるそうです。
◆お別れ会
12月18日午後1時から東京都墨田区亀沢1の16の1、八角部屋で。
一般の方の参列は午後2時半から。
日本相撲協会は、来年10月にロンドンで大相撲の海外公演を行なうことを明らかにしました。
相撲協会が主催する海外公演が行なわれるのは、2005年10月のアメリカ・ラスベガス公演以来20年ぶりです。
大相撲の海外公演は海外からの招待を受けて日本相撲協会が主催して文化交流などを目的に行なうもので、これまでにアメリカやヨーロッパなどで実施されてきましたが、2005年10月のアメリカ・ラスベガス公演を最後に行なわれていませんでした。
また、現地の興行主が主催して行なう海外巡業も2013年のジャカルタ巡業以来、実施されていませんでした。
今回、相撲協会が主催する20年ぶりの海外公演として来年10月にロンドン公演を行なうことでまとまり、現地時間の12月4日に相撲協会の八角理事長らがロンドンで会見を行ない、具体的な日程などを発表するそうです。
それまでに新横綱が誕生していないと大変!
海外公演の華である「横綱土俵入り」を集まってくれた観客の皆様にお見せできなくなります。
是が非でも、3大関(琴櫻・豊昇龍・大の里)のいずれか、または二人? には横綱へ駆け上がって貰いたいと思います。
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 8
◆改名
世話人の勧めで60年秋に「北の冨士」へ改名しました。
“冨士”・・「富士」ではなく「冨士」
北の富士さんは、細かな改名を数多くされてます。
昭和32年1月 初土俵で
竹沢 勝昭
→ 昭和34年5月に新三段目として
竹見山 勝明
→昭和35年9月
三段目で成績が上がらず2勝5敗と負け越し
北の冨士 勝明 へ改名
大関3場所目に師匠九重(元横綱千代の山)とともに九重部屋へ移籍した場所で初優勝、翌場所が綱獲り場所だったのに、浮かれて飲みまくり2場所連続負け越しで角番となり……
昭和42年9月
→北の富士 勝明 に改名
角番は脱出したが9~10勝どまりが3場所続き、準優勝を続けるライバル玉乃島に大きく遅れをとりまたもや改名
昭和43年3月
→ 北の富士 洋行 (ひろゆき)へ改名
「どうも『ひろゆき』がしっくりこない」とひと場所で改名
→ 昭和43年11月
北の富士 勝昭
→ 昭和46年3月
ライバル横綱の玉の海が直近3場所ですべて14勝してるのに、自身は11勝止まりと再び低迷していた為
→北の富士 勝晃
昭和47年7月
前年秋に急死したライバル玉の海を思い、奮起して連覇したあとは、気が抜けてしまい7勝で途中休場・9勝・3勝で途中休場と不甲斐ない成績が続き、ひとり横綱の為に引退もできず、
再び心機一転して改名
→ 北の富士 勝昭
改名直後の場所は全休しましたが、その翌場所では不死鳥のごとく復活し、自身3度目の15戦全勝優勝。 =15戦全勝優勝3度は当時、双葉山・大鵬に次ぐ史上3人目の素晴らしい記録でした。
その後、番付を駆け上がってきた学生横綱あがりの輪島にあとを託して現役引退、
年寄井筒を襲名。
井筒部屋を興しました。
九重部屋の親方となるのは、その3年後でした。
つづく
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 7
◆奮起
1959年夏になり、力士名を 本名の竹沢と出身地 美幌から「竹美山」という四股名に改名したのですが、力士としては見込みないと 行司の付け人という担当を命じられました。
また、細身で前に出る相撲っぷりから(将棋の)香車(きょうす)と部屋の先輩たちから あだ名されました。
1960年夏の釧路巡業では 親戚たちが開いてくれた宴でのご馳走に飲みすぎて宿舎へ朝帰り。
怒った兄弟子から 半日以上も“かわいがり”という名の猛稽古(実はシゴキ)を受け、翌日に急性虫垂炎と腹膜炎併発で50日間入院。
病院に駆けつけた母には叱咤激励された竹沢少年、先輩たちを見返そうと傷口をガーゼで押さえながら ひとり再上京しました。
そもそも入門するために上京した時の
「(道央の)留萌→450km→函館→青函連絡船→青森→700km→上野よりも
さらに長距離となった再上京……
(道東の)釧路→580km→函館→青函連絡船→青森→700km→上野という総移動距離1200kmオーバーのなんとも長い旅でした。
つづく
仕事の終わりがたまたま新宿だったし相撲好きな仲間と一緒だったから帰りにちゃんこ北の富士に寄ってきた。
天気がよくなかったがやはり北の富士のファンが多くて隣のテーブルの方々と話があい盛り上がってしまった。
飲むほどに残念な気持が高じてしまったのか泣いていた。
びっくりしたが気持は分かる。
我々の方が先に出たが久し振りにいい酒だった。
北海道の店はやってるのかな?
北の富士の様な人はもうでてこない。
残念だよ!
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 6
◆力道山との出合い
頼りになる横綱千代の山が最後の優勝を果たした1957昭和32年春場所、その千秋楽後に祝勝会が行なわれ、学生服姿の新弟子竹沢少年は下足番をしていた。
そこに現れたのが
大相撲の元関脇でプロレス界にて スーパースターになっていた力道山光浩さんでした。
力道山から「坊主、お前、いくつだ?」と話しかけられ、「14歳です」と元気よく返答するとニコニコと表情を崩した力道山は500円もの小遣いを旧五百円札(旧札なので刷り色はグレーで私達が覚えているブルーのものよりも豪華な札)をくれたという。
(東京での かけ蕎麦が30円・銭湯が16円の頃のことですから、現在の価値だと25~30倍前後…
当時の500円は 現在の価値だと13000~15000円でしょうか……)
時に大きなアメ車キャデラックで、また ある時は ハーレー・エクセルシャーと並ぶ3大有名メーカーのひとつ「インディアン」の大型バイクで国技館に乗り付けてきていた力道山。
キャデラックの時は 白いカシミヤの上着をビシッと着こなしており、後に「お洒落な身なりといい、金払いの気っぷのよさといい、正直プロレスラーを夢見たよ」「だってさ、一年中 ふんどし姿か 浴衣に雪駄の兄弟子たちとはまるで違い力道山さんは輝いて見えたんだよ」と告白したこともある北の富士さんでした。
つづく
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 6
◆力道山との出合い
千代の山が最後の優勝(15戦全勝)を果たした昭和32年初場所の千秋楽後に祝勝会が行なわれ、学生服姿の新弟子竹沢少年は下足番をしていた。
そこに現れたのが
大相撲の元関脇でプロレス界にて スーパースターになっていた力道山光浩さんでした。
力道山から「お前、いくつだ?」と話しかけられ、「14歳です」と返答すると500円の小遣いをくれた。
時に 大きなアメ車キャデラックで、また ある時は ハーレー・エクセルシャーと並ぶ3大有名メーカーのひとつ「インディアン」の大型バイクで国技館に乗り付けてきていた力道山。
キャデラックの時は ビシッと白いカシミヤの上着を着こなしており、後に「おしゃれな身なりといい、正直プロレスラーになることを夢見た」と告白したこともある北の富士さんでした。
追悼
北の富士さんヒストリーをもう一度 5
◆食べて食べて寝て食べて、、、
とにかく食べまくる竹沢少年
はるばる北海道から青函連絡船と東北本線の汽車の旅で東京まで出てきたのに、あえなく不合格となった竹沢少年。
部屋へ戻り意気消沈する竹沢少年でしたが、部屋付きの親方衆から「稽古するよりも体重を増やすことが先」と、2ヶ月近く出羽ノ海部屋で毎日毎日 大先輩で指導係の出羽錦さんが檄を飛ばした。
「食え!残すな!食え!」、「便所で戻したか? なら 胃袋にすき間ができたな、よし食え!嫌なら北海道へ帰るか? 嫌だろ? なら食え!」と地獄のような食事責め。
『おめおめと帰れないし、めげずに食うしかない』と腹に決めた竹沢少年 たらふく食べ続けて、翌場所の新弟子検査では無事合格。
晴れて 初土俵は1957昭和32年初場所。
横綱・千代の山が現役最後の優勝(6回目)を15戦全勝で飾った場所でもありました
解説者席にいらしたら、さぞかし琴櫻関の初優勝を自分のことのように喜んでいたであろう北の富士さん
重ね重ねご冥福をお祈り致します。
そして
追悼
北の富士さんヒストリーをもう一度4
◆不合格
出羽海部屋入門を果たした竹沢少年でしたが 1957昭和32年初場所での新弟子検査(173cm以上 かつ 75kg以上)は 体重が7キロも足りず、50人中1人だけ不合格。
しかし、当時の「自費養成制度」で初土俵を踏みました。
この制度の恩恵を受けたのは、竹沢少年と浅瀬川の二人だけ。
時は 栃若ブームから柏鵬ブームとなり、入門希望者=新弟子検査受験者が年間350人を超える年が三年も続くなど大相撲ブームとなっていた為、身長・体重がちょっとでも足りないと「お目こぼし」など一切なかった時代。
『長嶋茂雄さんの人気によるプロ野球ブームと巨人・大鵬・卵焼きと言われた大相撲ブームのお陰で、素質ある若者がオリンピックの各競技に集まらない』と雑誌の座談会において 識者たちが嘆いていました。
つづく