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そして 1943昭和18年2月20日生まれのアントニオ猪木さん(享年79歳)も、力道山が起こした日本プロレスを力道山亡きあと、ジャイアント馬場と盛り上げたが、日本プロレスそのものが後任社長達の運営のまずさで団体崩壊。 王道を行く馬場さんの全日本プロレス・アグレッシブに格闘技路線にまで踏み込んだ猪木さんの新日本プロレスと袂を分かち合いながらそれぞれが大人気となり、モハメド・アリさんとの対戦で世界中を驚かせ、ドリーファンク・カールゴッチ・ビルロビンソン・タイガージェットシン・ハルクホーガン・ハンセン・ブルーザーブロディ・アンドレ・ブッチャーらとの熱き闘いには、仕事や学校から帰宅したサラリーマンや学生たちにとって最高の娯楽番組としてテレビの前に釘付けとなりました。 大相撲・プロ野球・プロレス……この三大娯楽番組の窮地を救って揺るぎない人気興行に仕上げた栃錦関・長嶋さん・猪木さんが奇しくも同じ2月20日が誕生日でした。
今週の木曜日(2月20日)は 戦後の大相撲を大いに盛り上げ、女性ファンを多く取り込んだ初代若乃花とともに日本中に元気をくれた “栃若ブーム” の立役者 栃錦清隆さんの誕生日。 大柄な横綱陣(羽黒山・照國・東富士・鏡里・吉葉山 及び 同門の千代の山)らと渡りあい、大関昇進時でさえ 98kgしかなかった栃錦でしたが、「出し投げ」「二枚蹴り」を得意とし「襷反り」まで繰り出し、大相撲の技という技を全て駆使して “異能力士”として「柔よく剛を制す」を体現して大相撲の人気を揺るぎないものにしました。 1925大正25年2月20日生まれでしたから 万が一ご存命だったら満100歳になるところでした。(享年65歳) また、2月20日は 長嶋茂雄さん、アントニオ猪木さんも2月20日生まれ。 1936昭和11年2月20日生まれの長嶋茂雄さんも、当時人気絶頂だった大学野球に比べ人気面で全く及ばなかったプロ野球に長嶋茂雄選手が入ったことで、そして新人なのにトリプルスリー目前・最多安打に最多二塁打、最多本塁打と最多打点に輝き首位打者もあと一歩の大活躍。盗塁も37と走りまくり、三塁の守備でも三遊間のゴロを捕るやいなや矢のような快速球での送球を 王選手のファーストミットへ投げ、「打って! 走って! 守って!」で魅せました。 そして華がありましたねえ。 新人から6年連続でセ・リーグ最多安打し、レギュラーシーズン・オールスター・日本シリーズの全てで打率3割を上回った史上唯一の打者長嶋茂雄。 “打って欲しい時に必ず打ってくれた長嶋”と巨人ファンから愛され、阪神ファンからも愛される華々しい活躍を続け プロ野球を繁栄させたのはご存知の通り。 昭和のモーレツサラリーマンたちの仕事あとのビールをよけい美味しくしてくれた「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さん。 つづく
つづき 大関として迎えた2場所目の2015年秋場所。初日からの連勝が12日目に止まり、迎えた13日目の対戦相手は大関・稀勢の里だった。 取り口を自分で解説している。 <立ち合い、当たって前に出ながら右を狙ったが、相手の得意な左四つになった。 私は、左を抱えながら投げにいくが、こらえられて土俵中央に戻る。そして稀勢の里関が体を寄せて、私の腕を抱えながら強く押し込んできた。鍛えることを怠っていた下半身が 自分自身の重い上半身と稀勢の里関の寄る圧力に耐えられなかった。 そのとき――。〝ポキン〟。 私の右ひざがありえない音を出した。とっさに「やばい…!」と思い、自らその場に座るようにして、土俵に腰を落とした> 病院での診断は「前十字靱帯断裂」。手術で靱帯をつなげば治るけがではあるが、3場所は休まなければならない。 照ノ富士はこう考えた。「せっかく大関に上がった直後。もし休んだら、番付か幕尻まで下がってしまう」。「幕尻」までの降格を避ける為、手術を回避した照ノ富士。 だが、痛みをこらえて出場を続けたツケが後に回ってくる。そのツケは「幕尻」どころではなかった……。 強行出場した11月の九州場所。体力に自信がある照ノ富士は「上半身だけでも相撲はとれる」と痛み止めを打って土俵に上がり、今度は左ひざの半月板を損傷してしまった………… ・・・ 苦労して回り道した照ノ富士でした。 親方として大成して貰いたいものです
「奈落の底から見上げた明日」 著者 照ノ富士 春雄 日本写真企画 ¥1,650 (税込) 〈途中略〉 2015平成27年春場所、新関脇で13勝2敗の好成績を残し、続く夏場所は6連覇中の白鵬が終盤崩れたこともあり、12勝3敗で初優勝を飾った。 平成生まれの関取として初の優勝であり、同時に平成生まれ初の大関昇進を決めた。 <当時、私はまだ23歳。(略)横綱・大関というと、雲の上のような存在だ。でも、自分がなってしまったら、だからといって何かが変わるわけでもなく、「なーんだ。結局一緒じゃん」「今までと何が違うんだろう」と思ってしまった>(12~13頁) 傲る気持ちでいたことが大怪我につながった原因だった 両ひざを負傷 もともと酒が大好き。親方の目を盗んで夜の街にも繰り出した。 朝まで飲んで、まだ酔っぱらったまま 形だけ朝稽古をしても勝てた。 四股踏み・鉄砲・摺り足などと基礎運動もせず、稽古終わりのぶつかり稽古も面倒臭く、転がる稽古を完全に怠っていた。そんな慢心の日々が続いた。 そんな照ノ富士を待ち受けていたのが「けが」だった。 つづく
つづき 戸谷さんといえば、古舘伊知郎アナウンサーがお手本にしたことで知られる。 テレビ朝日は2003年秋場所まで大相撲ダイジェストを放送していたが、駆け出しだった古館アナはいつも文化放送の放送席に来て、戸谷アナの実況を勉強し、その後のプロレス実況に生かしたそうだ。 北の富士さんの訃報を報じるサンケイスポーツ一面の写真は私が撮影したもの=写真。数ある中から、自分が撮影した写真が一面で使われ光栄だった。 2019年夏場所の横綱審議委員会稽古総見。「ご覧になった感想は?」と聞かれた北の富士氏は、「ご覧になるほどのものではなかった。俺だってそんなにヒマじゃないんだ。こっちは無理して来てるのに。いい稽古を見たいよな。期待して来ただけに、お通夜だよ。(1月に引退した)稀勢の里が今場所出たら、優勝候補の一番手に挙げる」とバッサリと斬って落とした。 北の富士さんの話の あまりの面白さに、 「これは北の富士さんの写真が必要だ」と相撲教習所の階段を駆け下り、その場(国技館の裏手)で「親方!失礼します!」とカメラを向けると「俺!?」と言いながら応じてくれた。 来年のトーナメントは50回目の記念大会。北の富士さんと戸谷アナウンサーのコンビに負けない中継を期待したい。 (サンケイスポーツ 塚沢健太郎)
解説者北の富士が 人気コーナーになった理由 サンケイスポーツ 先日の大相撲トーナメント ラジオの文化放送にとっては年に1度の大相撲放送だが、今年は諸事情によって中継中止に。かつて同局は「大相撲熱戦十番」を1973年夏場所から87年春場所まで中継し、昨年11月に亡くなった元横綱北の富士勝昭さんが 1974昭和49年名古屋場所で現役引退後にこの文化放送での大相撲ラジオ解説を務めていた。 晩年の北の富士さんはNHKの解説者として、向正面の舞の海秀平さんとの掛け合いが人気を集めたが、そのスタイルの原点になったものは文化放送時代に作られていたという。 当時から軽妙なトークで、今以上にお堅いイメージだったNHKとは一線を画す斬新な中継が話題になってましたよねえ。 相方は北の富士さんより2歳上の元小結で、タレント兼映画俳優へと転身していた龍虎さん。 昨年に営まれた龍虎さんお別れの会の弔問に訪れた当時を知る関係者は「亡くなった時の新聞には、どこにも文化放送で解説していたというのが載ってなかったんだよね」と首をかしげ 「あの二人は親友だったから、丁々発止のやりとりで番組を盛り上げてくれていた」と振り返る。 北の富士さんは1998年に日本相撲協会を退職しNHKの解説者として人気を集めたが、99年九州場所で引退した舞の海さんに相方を替え、文化放送でのスタイルをそのまま持ち込んだわけだ。 1987昭和62年春場所限りで文化放送は番組を終了したが「その1年後に若貴兄弟が角界に入門してきた。 もしも、あそこで番組をやめていなければ、若貴ブームが終わるまでは番組が続いていたかもしれない」と前出の関係者は悔しがる。 熱戦十番の実況だった同局の戸谷真人アナウンサーも、北の富士さんに呼ばれたかのように昨年末に亡くなった。 つづく
平成6年秋場所後、貴ノ花(元横綱貴乃花)の昇進論議だ。直近3場所を14勝(優勝)、11勝、15戦全勝で6度目の幕内優勝。直近3場所で40勝とした貴ノ花の昇進は確実とみられたが、横審は2時間にもおよぶ論議の末に否決する。 「内規に該当していない」で意見が割れ、異例の無記名投票に。 賛成6、反対5。既定の3分の2を満たせず、見送られた。〈→貴ノ花は四股名を貴乃花と改めて臨んだ翌場所でも15戦全勝優勝し、史上初めてとなる“ふた場所連続15戦全勝” “直近3場所で41勝”という実績を見せつけて横綱審議会にも協会審判部にも文句を言わせぬ全会一致での昇進を果たした。〉 医学の研究やマーケティング戦略には 視点の三原則が存在する。「虫の目」「鳥の目」「魚の目」。 複眼の虫は「よくよく近づいて多角的に物事を思考する」。 鳥は「高い位置から俯瞰して全体を見回す」。 魚は「潮の流れ干満の潮位に注意を払い、ときの流れを見定める」。3つの目が〝節穴〟なら、成功はおぼつかない。 最高位に就いてもなお無双の横綱、大横綱、名横綱へと目指す道は続く。番付降下がない横綱誕生を担う横審にも虫、鳥、魚の目が必要だろう。その判断が単なる「目的」になってしまえば、推挙された本人もまた気の毒に思えてくる。 ・・・ なんにしても、横綱へ昇進したのだから、豊昇龍は「心・技・体の充実」を土俵で示すしかない。 番付を下げてやり直すことができる大関と違って 駄目なら引退するしかない……それが横綱。 周囲の雑音を払拭できるでしょうか?
サンスポコラム2 昭和29年5月場所後、栃錦(のちの横綱)は「ここ数場所の不振」と、今の4横綱から5横綱にする…ほど強くはないと判断された。 〈直近3場所では9勝→9勝→14勝(優勝)で、優勝した場所でも4横綱のうち鏡里には勝利したものの 東富士と吉葉山の2横綱は休場、千代の山とは同部屋の為に対戦なし、ということで、栃錦のせいではないが印象が薄かった。→→翌場所で優勝して連覇、それでも「横綱5人とすることに懸念を示す新聞記事を気にした “江戸っ子横綱”の東富士が身を引いた形で引退した為、横綱昇進となった。〉 昭和43年夏場所後の玉乃島(元横綱玉の海)には「高く評価しているが、時期尚早」と意見が出て多数決に。4-2で反対されて見送られた。 〈直近3場所は12勝(準優勝)→12勝(準優勝)→13勝(優勝)で計37勝ながら第1人者の大鵬が連続休場中だったことから割を食った形。→→その2年後=11場所後に13勝(優勝)→10勝→13勝(決定戦で敗れての準優勝)で北の富士と横綱同時昇進を果たした〉 昭和44年九州場所後に諮問を受けた北の富士も否決された。 玉乃島との比較が持ち出されて「すべての点で劣る」。将来性を評価されても、多数決では8-0で否決。もう1場所様子をみるとされた。 〈直近3場所は9勝→12勝(準優勝)→13勝(優勝)で計34勝、第一人者大鵬にも準優勝した場所で勝利したが、優勝した場所では大鵬に屈している。が、この翌場所も優勝して連覇となり文句無しの横綱昇進を果たした。〉 そして、平成となってから横審の〝気骨〟のようなものが垣間みられた会合がある。 つづく
サンスポコラム 初場所で豊昇龍(25)が2度目の優勝を果たし、場所後に横綱へ昇進したが、この昇進には、いまもって晴れない思いがある。 はたして、日本相撲協会の諮問機関、横綱審議委員会は機能したのだろうか。 協会から昇進の諮問を受け、1月末に開かれた定例会合は9人の委員が全員出席。 開始8分で終了し、全会一致で昇進を決めた。元横綱白鵬は10分、元横綱稀勢の里のときの13分よりもはやく、談論風発でなかったことは想像に難くない。 昇進の是非ではない。徹底して吟味されたのか。それが腑に落ちない。 横審の横綱昇進の内規は「大関で2場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績」「推薦する場合は、出席委員の3分の2以上の決議を必要とする」とある。 豊昇龍は昨年九州場所で優勝次点の13勝、今場所は12勝。昇進前直近3場所合計は33勝。1場所15日制が定着した昭和24年以降に昇進した照ノ富士までの横綱33人のうち最も少ない33勝はわずか2人。豊昇龍の2場所前は8勝止まりで影も薄かった。 しかも九日目までに連敗を含めて3敗を喫した。昇進直前場所で連敗した例は皆無。いずれも平幕相手の黒星だったことから、期待感は消沈した。 昇進問題を預かる審判部は千秋楽の取組前に豊昇龍の昇進についての会議を開いたが、関係者によると「昇進見送り」が多数を占めたという。 最終的に高田川審判部長(元関脇安芸乃島)、副部長との間で判断が一任されたが、審判部の親方には「12勝の優勝はあきらかに低水準」「早急に昇進させる根拠が乏しい」「2場所だけの判断は早急過ぎる」。 ところが、横審からはこうした異論は聞こえてこない。昭和25年に発足した横審が協会に疑義を突きつけ、昇進が見送られた例は4例ある。 つづく
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そして
1943昭和18年2月20日生まれのアントニオ猪木さん(享年79歳)も、力道山が起こした日本プロレスを力道山亡きあと、ジャイアント馬場と盛り上げたが、日本プロレスそのものが後任社長達の運営のまずさで団体崩壊。
王道を行く馬場さんの全日本プロレス・アグレッシブに格闘技路線にまで踏み込んだ猪木さんの新日本プロレスと袂を分かち合いながらそれぞれが大人気となり、モハメド・アリさんとの対戦で世界中を驚かせ、ドリーファンク・カールゴッチ・ビルロビンソン・タイガージェットシン・ハルクホーガン・ハンセン・ブルーザーブロディ・アンドレ・ブッチャーらとの熱き闘いには、仕事や学校から帰宅したサラリーマンや学生たちにとって最高の娯楽番組としてテレビの前に釘付けとなりました。
大相撲・プロ野球・プロレス……この三大娯楽番組の窮地を救って揺るぎない人気興行に仕上げた栃錦関・長嶋さん・猪木さんが奇しくも同じ2月20日が誕生日でした。
今週の木曜日(2月20日)は
戦後の大相撲を大いに盛り上げ、女性ファンを多く取り込んだ初代若乃花とともに日本中に元気をくれた “栃若ブーム” の立役者 栃錦清隆さんの誕生日。
大柄な横綱陣(羽黒山・照國・東富士・鏡里・吉葉山 及び 同門の千代の山)らと渡りあい、大関昇進時でさえ 98kgしかなかった栃錦でしたが、「出し投げ」「二枚蹴り」を得意とし「襷反り」まで繰り出し、大相撲の技という技を全て駆使して “異能力士”として「柔よく剛を制す」を体現して大相撲の人気を揺るぎないものにしました。
1925大正25年2月20日生まれでしたから
万が一ご存命だったら満100歳になるところでした。(享年65歳)
また、2月20日は
長嶋茂雄さん、アントニオ猪木さんも2月20日生まれ。
1936昭和11年2月20日生まれの長嶋茂雄さんも、当時人気絶頂だった大学野球に比べ人気面で全く及ばなかったプロ野球に長嶋茂雄選手が入ったことで、そして新人なのにトリプルスリー目前・最多安打に最多二塁打、最多本塁打と最多打点に輝き首位打者もあと一歩の大活躍。盗塁も37と走りまくり、三塁の守備でも三遊間のゴロを捕るやいなや矢のような快速球での送球を 王選手のファーストミットへ投げ、「打って! 走って! 守って!」で魅せました。
そして華がありましたねえ。
新人から6年連続でセ・リーグ最多安打し、レギュラーシーズン・オールスター・日本シリーズの全てで打率3割を上回った史上唯一の打者長嶋茂雄。
“打って欲しい時に必ず打ってくれた長嶋”と巨人ファンから愛され、阪神ファンからも愛される華々しい活躍を続け プロ野球を繁栄させたのはご存知の通り。
昭和のモーレツサラリーマンたちの仕事あとのビールをよけい美味しくしてくれた「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さん。
つづく
つづき
大関として迎えた2場所目の2015年秋場所。初日からの連勝が12日目に止まり、迎えた13日目の対戦相手は大関・稀勢の里だった。
取り口を自分で解説している。
<立ち合い、当たって前に出ながら右を狙ったが、相手の得意な左四つになった。
私は、左を抱えながら投げにいくが、こらえられて土俵中央に戻る。そして稀勢の里関が体を寄せて、私の腕を抱えながら強く押し込んできた。鍛えることを怠っていた下半身が 自分自身の重い上半身と稀勢の里関の寄る圧力に耐えられなかった。
そのとき――。〝ポキン〟。
私の右ひざがありえない音を出した。とっさに「やばい…!」と思い、自らその場に座るようにして、土俵に腰を落とした>
病院での診断は「前十字靱帯断裂」。手術で靱帯をつなげば治るけがではあるが、3場所は休まなければならない。
照ノ富士はこう考えた。「せっかく大関に上がった直後。もし休んだら、番付か幕尻まで下がってしまう」。「幕尻」までの降格を避ける為、手術を回避した照ノ富士。
だが、痛みをこらえて出場を続けたツケが後に回ってくる。そのツケは「幕尻」どころではなかった……。
強行出場した11月の九州場所。体力に自信がある照ノ富士は「上半身だけでも相撲はとれる」と痛み止めを打って土俵に上がり、今度は左ひざの半月板を損傷してしまった…………
・・・
苦労して回り道した照ノ富士でした。
親方として大成して貰いたいものです
「奈落の底から見上げた明日」
著者 照ノ富士 春雄
日本写真企画
¥1,650 (税込)
〈途中略〉
2015平成27年春場所、新関脇で13勝2敗の好成績を残し、続く夏場所は6連覇中の白鵬が終盤崩れたこともあり、12勝3敗で初優勝を飾った。
平成生まれの関取として初の優勝であり、同時に平成生まれ初の大関昇進を決めた。
<当時、私はまだ23歳。(略)横綱・大関というと、雲の上のような存在だ。でも、自分がなってしまったら、だからといって何かが変わるわけでもなく、「なーんだ。結局一緒じゃん」「今までと何が違うんだろう」と思ってしまった>(12~13頁)
傲る気持ちでいたことが大怪我につながった原因だった
両ひざを負傷
もともと酒が大好き。親方の目を盗んで夜の街にも繰り出した。
朝まで飲んで、まだ酔っぱらったまま 形だけ朝稽古をしても勝てた。
四股踏み・鉄砲・摺り足などと基礎運動もせず、稽古終わりのぶつかり稽古も面倒臭く、転がる稽古を完全に怠っていた。そんな慢心の日々が続いた。
そんな照ノ富士を待ち受けていたのが「けが」だった。
つづく
つづき
戸谷さんといえば、古舘伊知郎アナウンサーがお手本にしたことで知られる。
テレビ朝日は2003年秋場所まで大相撲ダイジェストを放送していたが、駆け出しだった古館アナはいつも文化放送の放送席に来て、戸谷アナの実況を勉強し、その後のプロレス実況に生かしたそうだ。
北の富士さんの訃報を報じるサンケイスポーツ一面の写真は私が撮影したもの=写真。数ある中から、自分が撮影した写真が一面で使われ光栄だった。
2019年夏場所の横綱審議委員会稽古総見。「ご覧になった感想は?」と聞かれた北の富士氏は、「ご覧になるほどのものではなかった。俺だってそんなにヒマじゃないんだ。こっちは無理して来てるのに。いい稽古を見たいよな。期待して来ただけに、お通夜だよ。(1月に引退した)稀勢の里が今場所出たら、優勝候補の一番手に挙げる」とバッサリと斬って落とした。
北の富士さんの話の あまりの面白さに、
「これは北の富士さんの写真が必要だ」と相撲教習所の階段を駆け下り、その場(国技館の裏手)で「親方!失礼します!」とカメラを向けると「俺!?」と言いながら応じてくれた。
来年のトーナメントは50回目の記念大会。北の富士さんと戸谷アナウンサーのコンビに負けない中継を期待したい。
(サンケイスポーツ 塚沢健太郎)
解説者北の富士が 人気コーナーになった理由
サンケイスポーツ
先日の大相撲トーナメント
ラジオの文化放送にとっては年に1度の大相撲放送だが、今年は諸事情によって中継中止に。かつて同局は「大相撲熱戦十番」を1973年夏場所から87年春場所まで中継し、昨年11月に亡くなった元横綱北の富士勝昭さんが 1974昭和49年名古屋場所で現役引退後にこの文化放送での大相撲ラジオ解説を務めていた。
晩年の北の富士さんはNHKの解説者として、向正面の舞の海秀平さんとの掛け合いが人気を集めたが、そのスタイルの原点になったものは文化放送時代に作られていたという。
当時から軽妙なトークで、今以上にお堅いイメージだったNHKとは一線を画す斬新な中継が話題になってましたよねえ。
相方は北の富士さんより2歳上の元小結で、タレント兼映画俳優へと転身していた龍虎さん。
昨年に営まれた龍虎さんお別れの会の弔問に訪れた当時を知る関係者は「亡くなった時の新聞には、どこにも文化放送で解説していたというのが載ってなかったんだよね」と首をかしげ
「あの二人は親友だったから、丁々発止のやりとりで番組を盛り上げてくれていた」と振り返る。
北の富士さんは1998年に日本相撲協会を退職しNHKの解説者として人気を集めたが、99年九州場所で引退した舞の海さんに相方を替え、文化放送でのスタイルをそのまま持ち込んだわけだ。
1987昭和62年春場所限りで文化放送は番組を終了したが「その1年後に若貴兄弟が角界に入門してきた。
もしも、あそこで番組をやめていなければ、若貴ブームが終わるまでは番組が続いていたかもしれない」と前出の関係者は悔しがる。
熱戦十番の実況だった同局の戸谷真人アナウンサーも、北の富士さんに呼ばれたかのように昨年末に亡くなった。
つづく
平成6年秋場所後、貴ノ花(元横綱貴乃花)の昇進論議だ。直近3場所を14勝(優勝)、11勝、15戦全勝で6度目の幕内優勝。直近3場所で40勝とした貴ノ花の昇進は確実とみられたが、横審は2時間にもおよぶ論議の末に否決する。
「内規に該当していない」で意見が割れ、異例の無記名投票に。
賛成6、反対5。既定の3分の2を満たせず、見送られた。〈→貴ノ花は四股名を貴乃花と改めて臨んだ翌場所でも15戦全勝優勝し、史上初めてとなる“ふた場所連続15戦全勝” “直近3場所で41勝”という実績を見せつけて横綱審議会にも協会審判部にも文句を言わせぬ全会一致での昇進を果たした。〉
医学の研究やマーケティング戦略には 視点の三原則が存在する。「虫の目」「鳥の目」「魚の目」。
複眼の虫は「よくよく近づいて多角的に物事を思考する」。
鳥は「高い位置から俯瞰して全体を見回す」。
魚は「潮の流れ干満の潮位に注意を払い、ときの流れを見定める」。3つの目が〝節穴〟なら、成功はおぼつかない。
最高位に就いてもなお無双の横綱、大横綱、名横綱へと目指す道は続く。番付降下がない横綱誕生を担う横審にも虫、鳥、魚の目が必要だろう。その判断が単なる「目的」になってしまえば、推挙された本人もまた気の毒に思えてくる。
・・・
なんにしても、横綱へ昇進したのだから、豊昇龍は「心・技・体の充実」を土俵で示すしかない。
番付を下げてやり直すことができる大関と違って 駄目なら引退するしかない……それが横綱。
周囲の雑音を払拭できるでしょうか?
サンスポコラム2
昭和29年5月場所後、栃錦(のちの横綱)は「ここ数場所の不振」と、今の4横綱から5横綱にする…ほど強くはないと判断された。
〈直近3場所では9勝→9勝→14勝(優勝)で、優勝した場所でも4横綱のうち鏡里には勝利したものの 東富士と吉葉山の2横綱は休場、千代の山とは同部屋の為に対戦なし、ということで、栃錦のせいではないが印象が薄かった。→→翌場所で優勝して連覇、それでも「横綱5人とすることに懸念を示す新聞記事を気にした “江戸っ子横綱”の東富士が身を引いた形で引退した為、横綱昇進となった。〉
昭和43年夏場所後の玉乃島(元横綱玉の海)には「高く評価しているが、時期尚早」と意見が出て多数決に。4-2で反対されて見送られた。
〈直近3場所は12勝(準優勝)→12勝(準優勝)→13勝(優勝)で計37勝ながら第1人者の大鵬が連続休場中だったことから割を食った形。→→その2年後=11場所後に13勝(優勝)→10勝→13勝(決定戦で敗れての準優勝)で北の富士と横綱同時昇進を果たした〉
昭和44年九州場所後に諮問を受けた北の富士も否決された。
玉乃島との比較が持ち出されて「すべての点で劣る」。将来性を評価されても、多数決では8-0で否決。もう1場所様子をみるとされた。
〈直近3場所は9勝→12勝(準優勝)→13勝(優勝)で計34勝、第一人者大鵬にも準優勝した場所で勝利したが、優勝した場所では大鵬に屈している。が、この翌場所も優勝して連覇となり文句無しの横綱昇進を果たした。〉
そして、平成となってから横審の〝気骨〟のようなものが垣間みられた会合がある。
つづく
サンスポコラム
初場所で豊昇龍(25)が2度目の優勝を果たし、場所後に横綱へ昇進したが、この昇進には、いまもって晴れない思いがある。
はたして、日本相撲協会の諮問機関、横綱審議委員会は機能したのだろうか。
協会から昇進の諮問を受け、1月末に開かれた定例会合は9人の委員が全員出席。
開始8分で終了し、全会一致で昇進を決めた。元横綱白鵬は10分、元横綱稀勢の里のときの13分よりもはやく、談論風発でなかったことは想像に難くない。
昇進の是非ではない。徹底して吟味されたのか。それが腑に落ちない。
横審の横綱昇進の内規は「大関で2場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績」「推薦する場合は、出席委員の3分の2以上の決議を必要とする」とある。
豊昇龍は昨年九州場所で優勝次点の13勝、今場所は12勝。昇進前直近3場所合計は33勝。1場所15日制が定着した昭和24年以降に昇進した照ノ富士までの横綱33人のうち最も少ない33勝はわずか2人。豊昇龍の2場所前は8勝止まりで影も薄かった。
しかも九日目までに連敗を含めて3敗を喫した。昇進直前場所で連敗した例は皆無。いずれも平幕相手の黒星だったことから、期待感は消沈した。
昇進問題を預かる審判部は千秋楽の取組前に豊昇龍の昇進についての会議を開いたが、関係者によると「昇進見送り」が多数を占めたという。
最終的に高田川審判部長(元関脇安芸乃島)、副部長との間で判断が一任されたが、審判部の親方には「12勝の優勝はあきらかに低水準」「早急に昇進させる根拠が乏しい」「2場所だけの判断は早急過ぎる」。
ところが、横審からはこうした異論は聞こえてこない。昭和25年に発足した横審が協会に疑義を突きつけ、昇進が見送られた例は4例ある。
つづく
相撲協会も日産も組織内不安だらけだな。