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KONさんありがとね。 18日のお別れ会行く気満々で汚らしいばぁさんが何人もで行ったらお洒落だった北の富士さん嫌だろうと、カットに行ったり黒い服の手入れしたりしていたが、ここの所の寒さ、そして皆持病ありだし早めについても八角部屋の状態は分からんし外で待つかもしれないし、時間読めないし何かあったら困るから皆の家族からも反対との話で孫も協力してくれると言っていたが、辞めるのが賢明かなと考えてる。 残念だけどね。 喪失感は日増しに増えてくる。 行く方は後日でも知らせてほしい。
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #24 ◇北の富士さんが嫌いな相撲は 頭・額からぶつかる「ぶちかまし」 北の富士さんは 何が嫌って、痛いのが大嫌い!! そして、“自慢の顔に傷がつくのを こよなく嫌う”北の富士さん 怖い柏戸さんとぶちかましの琴櫻 番付最上位に君臨する大鵬・柏戸の両横綱。 北の富士さんと比べ、柏戸が3歳上、大鵬にいたっては僅か1歳上という若き横綱が長く君臨していた時代。 “負けない相撲”で左四つの相四つだった大鵬、柔らかい上体で相手の当たる衝撃を吸収し左四つからのいつの間にか土俵際まて追い詰められ堪えるところを“必殺技”の すくい投げで相手を転がす大鵬に対し、 柏戸は立ち合いでガツンと当たってきて右四つ・左前みつを掴むや 一気に電車道の怒涛の寄り、右を差せず双差しとなられても構わずに攻めてきて土俵の外まで猛然と寄り立てる速攻相撲。 北の富士さんが当たっていっても その胸板の硬さと前へ出てくる圧力に 首を痛めてしまう。 北の富士さんが何度も後述してましたが 『柏戸さんねえ、痛いんだよ、立ち合いが! ましてや 柏戸さんの土俵上での顔が怖い!もう、嫌で嫌で。 不戦敗でもいいから土俵に上がりたくないと思ったことは1度や2度じゃなかったよ』と述べてました。 そして もうひとり、機関車の“デコイチ”の異名だった琴櫻。 低い構えからオデコでぶちかましてくる琴櫻の機関車D51のような立ち合いも脅威だった北の富士さん。 横幅の広い顔と身体で 北の富士さん自慢の色白で甘いマスクの顔面に向かって やや斜め下からオデコでぶつかってくる琴櫻の立ち合いを 北の富士さんは本当に嫌いで 『顔にキズなんか作って銀座へ飲みに行ったら大変なんだよ 1度顔を腫らして傷に絆創膏を貼って飲みに行った時なんか 銀座のホステスさんたちが怒り出して “その相手の相撲取りの部屋は何処なの? 明日みんなで押し掛けるから!”と騒ぎ出したもんだよ』とも語ってました。 #25 へ つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 #23 ◇北の富士さんが嫌いな言葉 「根性」 「死ぬ気で頑張る」 「無理へんにゲンコツ」 玉の海と二人、“現代っ子横綱”と言われたほど、革新的で現代の感覚に近い意見をいつも述べていた北の富士さん。 中学生まで野球をしていた時のチーム監督も東京での師匠たちも論理的でない根性論を振りかざす時代で、北の富士さんは全く理解を示しませんでした。 「死ぬ気で頑張れ」と若い衆に言っていた親方衆の指導ぶりにも 小声で『本当に死ぬ気でやったら死んじゃうよ!他に言い方がないのかね』と呟き 呆れていました。 「無理へんにゲンコツ」も昔から角界の常識で、先輩力士・親方らが言うことは絶対! 例え間違ってても親方が「右だ」と言ったら絶対に右! という時代でした。 幸いなことに (既述のとおり)出羽海部屋の親方が、明治生まれの7代目出羽海(元横綱常ノ花)から 大正生まれの8代目(元出羽ノ花)へ代替わりしたことにより、部屋の食事から稽古のやり方まで改革していってくれたことで、北の富士さんも早くから 角界のしきたりを“本当にこのままでいいのだろうか?”と常に疑問を持ちながら過ごしていたといいいます。 #24 へ つづく
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #22 ◆遊び(賭け事) 北の富士自身は麻雀をやらない。 その理由は父親が麻雀好きで家庭内での喧嘩が絶えなかったことを目の当たりにしたことや、出羽海部屋入門後に兄弟子の関取衆が麻雀をよくやり、若手だった北の富士は使い走りをさせられていたこともあって 麻雀が嫌いになったとのこと。師匠の8代出羽海(元幕内 出羽ノ花、後に日本相撲協会第4代武蔵川理事長)から「お前は麻雀をやらんのが偉いね」と感心されたという。 その一方で入門時の師匠だった7代出羽海(元横綱常ノ花)からは「麻雀は脇が甘くなる。だから相撲に生きないが、花札は打つ時に脇が締まるからいいのだ」と言われ、若手時代に兄弟弟子と良く花札をやって遊んでいたことを語っていました。 兄弟子の出羽錦からは「プロ野球は商売敵だから野球中継は見るな」と言われて育った。 そのため、野球出身者の北の富士さんですが日本の野球はあまり観ていないそうです。 それでも野球は嫌いではなく、大谷翔平投手がMLBに二刀流として挑戦して以降は 時間の許す限りテレビ観戦して応援している。また、大相撲にも大谷選手のようなスターが現れてほしいと願っていました。 つづく
九州場所を14勝1敗で初優勝した琴櫻が次の横綱の最有力候補になるが、千秋楽の相星決戦で負けて13勝2敗となった豊昇龍も来年の初場所が“綱取り場所になる”と理事長が明言した。横綱昇進は相撲協会の最大のテーマと言っているようなもの。できれば東西に正横綱を据えた番付でロンドン公演を開催したいのが本音でしょう。現在のひとり横綱が照ノ富士から同じモンゴル出身の豊昇龍に入れ替わるだけでなく、和製横綱の誕生が協会執行部の切実な願いのはずだ」 別の若手親方は「間違いなく和製横綱が誕生するだろう」と見る。 「そもそも、横綱昇進のハードルが下がるでしょう。ガチンコ時代は大関での2場所連続優勝という条件での横綱誕生はなかなか厳しい。どの力士も力をつけているから。ただ、力士たちにも横綱不在になることへの危機感が芽生えている。そういう状況下では琴櫻と同じ埼玉栄出身力士や、豊昇龍と同郷のモンゴル出身力士には全力でぶつかりにいきにくくなる事情がある。 逆に、9月場所の史上最速優勝で“横綱昇進間違いなし”といわれた大の里が苦戦するのではないか。師匠の二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)が先代(元横綱・隆の里)の教えを守って出稽古にいかない。 師匠と同様に不器用な力士になってしまえば、他の力士が形成する包囲網を突破できない。徹底的に研究されて、簡単には勝てなくなる。 執行部は大の里に期待していると思うが、3大関のなかでは最も綱から遠いのではないかだろうか」 果たして来年10月、どのような番付となっているのだろうか? 週刊P誌から
大相撲ロンドン公演2025 相撲番記者 曰く 「海外公演は国際親善を図ることから“裸の大使”とも呼ばれる。横綱の土俵入りは不可欠。1995年のヨーロッパ公演と1997年のオーストラリア公演では曙と貴乃花、1998年のカナダ公演では曙、貴乃花、若乃花が横綱として土俵入りを披露した。2004年の韓国公演と中国公演、2005年のラスベガス公演では朝青龍がいた。 海外巡業も1960~70年代にかけてハワイ巡業が8回も開催された。 ハワイ出身の人気力士の高見山(元東関親方)が活躍していたこともあるが、玉の海、北の富士、琴櫻、輪島、北の湖、二代目若乃花などの人気横綱がいた。 1990年代にかけてもスペインや香港、アメリカで海外巡業が行なわれたが、曙、貴乃花、若乃花が綱を張っていた。 2008年のモンゴル巡業は朝青龍と白鵬(現・宮城野親方)のモンゴル横綱が土俵入りを行なっている」 そうしたなかで来年10月開催が決まったロンドン公演。「横綱不在では話にならないし、やはり琴櫻、大の里といった和製横綱が誕生していてほしいという思いはある」(前出・若手親方)といった声が出るなかで、誰が大役を務めることになるのか。相撲ジャーナリストはこう言う。 「モンゴル出身で膝の悪い照ノ富士は師匠の伊勢ヶ濱親方が来年7月に65歳定年となるのに合わせて引退をすると見られている。そもそも、海外公演で両膝に大きなサポーターをつけての土俵入りでは絵にならない。 週刊P誌
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 21 ◆盟友とともに勘違いした “貫禄大関” 大関に昇進した1966年11月場所からの1年間(6場所)で4度も9勝6敗の成績だったため「クンロク大関」と呼ばれていた(当時)玉乃島。 ある日、玉の海は北の富士に対して「北さん、ぼく、最近、”カンロク大関”って言われています」と「クンロク大関」と呼ばれていることに気付いていない様子だった。 そしてひと場所早く大関となっていた北の富士さんも大関昇進して3場所は二桁勝利し、4場所目には14勝して初優勝を遂げたが、後援会の祝賀会へのお呼ばれに皆勤して飲みまくり遊び呆けていた。 優勝の翌場所なので綱獲り場所のはずで、周囲も期待していたのに、まさかの5勝10敗と二桁の黒星、翌場所も7勝8敗と連続負け越し。 今なら大関陥落となるところですが、この当時は「3場所連続負け越した場合は大関陥落」という ゆるーい制度だった為、関脇への陥落は免れた北の富士さん。 なので、ひと場所負け越しても気にせず、遊び呆けて稽古もせずに酔って帰宅しては布団にバタンキューの日々。 足腰の筋肉も一気に落ち、連合稽古でもすぐに息があがるほどスタミナ不足、本場所でそうそう勝てるわけもなかった。 2度目の優勝など遠い夢となり1969昭和44年3月場所から3場所連続の9勝6敗で、スポーツ紙などでは北の富士さんにも“クンロク大関”のあだ名がついた。 この頃のことを北の富士さんが50年後に回想し、 2022年3月場所初日のNHK大相撲中継で「貫禄と間違えてね、『とうとう俺たちも貫禄だな』」と同様の勘違いをしていたことを明かしました。 つづく
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 20 ◆改名裏話 ところで、春場所で初優勝した北の富士さんですが、口うるさい兄弟子たちがいない新生九重部屋という自由な環境のため、大阪での春場所を終え東京へ戻ると、有頂天で連日連夜の銀座通い。 稽古不足丸出しで、続く夏場所・名古屋場所を連続負け越し。 秋に北の富士と改名してなんとか カド番を脱出しました。 “どうせ 大関どまり”と観念していた北の富士さん。 翌年の1968年春には「引退する前に せめて外国に行ってみたい」という 力士としては やや不謹慎な理由で四股名を「勝明」から「洋行」に改名した北の富士さん。 そんな軽薄な思いつきでの改名も、夏には翻意して本名の勝昭に改名し直しました。 実は、名大関貴ノ花関も 師匠で実兄の初代若乃花の験担ぎにより、北の富士さんに負けず劣らず……というか 「花田満」→「貴ノ花満」→「貴ノ花利章」→「貴ノ花利彰」→「貴ノ花満郎」→「貴ノ花健士」→「貴乃花健士」→「貴ノ花利彰」 北の富士さんと同じで 細かく 7度も改名してました。 (北の富士さんヒストリー #8 参照) この大関貴ノ花と北の富士さんは、後述しますが、数々の名勝負を繰り広げ、特に本場所の中日(なかび)八日目を中心に日曜日の大相撲ファンが楽しみにする“ゴールデン・カード”となりました。 #21へ つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 19 ◆酒席での楽しい遊び方 話は前後しますが 北の富士さんが亡くなった後、同じ北海道生まれで歌手の松山千春さんが北海道内のラジオで語ってましたが 「九州場所は本当によく一緒になったな。 俺は ちょうどコンサートやってる時だから博多で一緒になると中洲で飲んでたなぁ、親方と千代の富士と俺と三人で。 ここだけの話だからな、これは俺たちしか知らないと思うんだけど」と前置きした上で、「ホステスさんのいる中洲のナイトクラブで酔っぱらってくると親方(北の富士さん)がね、ホステスさんのハイヒールにビールを入れるんだよ、いきなり、うん。 そしてな『じゃあ、戴くから』って、そのハイヒールに入ったビールをゴクゴクと一気に飲み干して『はぁ、うまかった。ありがとう』って言って新しい靴をまた買ってあげるんだけどさ、それが おっかしくて たまらないんだよ」と懐しんでいた千春さんでした。 つづく
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KONさんありがとね。
18日のお別れ会行く気満々で汚らしいばぁさんが何人もで行ったらお洒落だった北の富士さん嫌だろうと、カットに行ったり黒い服の手入れしたりしていたが、ここの所の寒さ、そして皆持病ありだし早めについても八角部屋の状態は分からんし外で待つかもしれないし、時間読めないし何かあったら困るから皆の家族からも反対との話で孫も協力してくれると言っていたが、辞めるのが賢明かなと考えてる。
残念だけどね。
喪失感は日増しに増えてくる。
行く方は後日でも知らせてほしい。
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 #24
◇北の富士さんが嫌いな相撲は
頭・額からぶつかる「ぶちかまし」
北の富士さんは
何が嫌って、痛いのが大嫌い!!
そして、“自慢の顔に傷がつくのを こよなく嫌う”北の富士さん
怖い柏戸さんとぶちかましの琴櫻
番付最上位に君臨する大鵬・柏戸の両横綱。
北の富士さんと比べ、柏戸が3歳上、大鵬にいたっては僅か1歳上という若き横綱が長く君臨していた時代。
“負けない相撲”で左四つの相四つだった大鵬、柔らかい上体で相手の当たる衝撃を吸収し左四つからのいつの間にか土俵際まて追い詰められ堪えるところを“必殺技”の すくい投げで相手を転がす大鵬に対し、
柏戸は立ち合いでガツンと当たってきて右四つ・左前みつを掴むや 一気に電車道の怒涛の寄り、右を差せず双差しとなられても構わずに攻めてきて土俵の外まで猛然と寄り立てる速攻相撲。
北の富士さんが当たっていっても その胸板の硬さと前へ出てくる圧力に 首を痛めてしまう。
北の富士さんが何度も後述してましたが
『柏戸さんねえ、痛いんだよ、立ち合いが!
ましてや 柏戸さんの土俵上での顔が怖い!もう、嫌で嫌で。
不戦敗でもいいから土俵に上がりたくないと思ったことは1度や2度じゃなかったよ』と述べてました。
そして もうひとり、機関車の“デコイチ”の異名だった琴櫻。
低い構えからオデコでぶちかましてくる琴櫻の機関車D51のような立ち合いも脅威だった北の富士さん。
横幅の広い顔と身体で 北の富士さん自慢の色白で甘いマスクの顔面に向かって やや斜め下からオデコでぶつかってくる琴櫻の立ち合いを 北の富士さんは本当に嫌いで
『顔にキズなんか作って銀座へ飲みに行ったら大変なんだよ 1度顔を腫らして傷に絆創膏を貼って飲みに行った時なんか 銀座のホステスさんたちが怒り出して “その相手の相撲取りの部屋は何処なの? 明日みんなで押し掛けるから!”と騒ぎ出したもんだよ』とも語ってました。
#25 へ つづく
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 #23
◇北の富士さんが嫌いな言葉
「根性」
「死ぬ気で頑張る」
「無理へんにゲンコツ」
玉の海と二人、“現代っ子横綱”と言われたほど、革新的で現代の感覚に近い意見をいつも述べていた北の富士さん。
中学生まで野球をしていた時のチーム監督も東京での師匠たちも論理的でない根性論を振りかざす時代で、北の富士さんは全く理解を示しませんでした。
「死ぬ気で頑張れ」と若い衆に言っていた親方衆の指導ぶりにも 小声で『本当に死ぬ気でやったら死んじゃうよ!他に言い方がないのかね』と呟き 呆れていました。
「無理へんにゲンコツ」も昔から角界の常識で、先輩力士・親方らが言うことは絶対!
例え間違ってても親方が「右だ」と言ったら絶対に右!
という時代でした。
幸いなことに
(既述のとおり)出羽海部屋の親方が、明治生まれの7代目出羽海(元横綱常ノ花)から 大正生まれの8代目(元出羽ノ花)へ代替わりしたことにより、部屋の食事から稽古のやり方まで改革していってくれたことで、北の富士さんも早くから
角界のしきたりを“本当にこのままでいいのだろうか?”と常に疑問を持ちながら過ごしていたといいいます。
#24 へ つづく
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 #22
◆遊び(賭け事)
北の富士自身は麻雀をやらない。
その理由は父親が麻雀好きで家庭内での喧嘩が絶えなかったことを目の当たりにしたことや、出羽海部屋入門後に兄弟子の関取衆が麻雀をよくやり、若手だった北の富士は使い走りをさせられていたこともあって 麻雀が嫌いになったとのこと。師匠の8代出羽海(元幕内 出羽ノ花、後に日本相撲協会第4代武蔵川理事長)から「お前は麻雀をやらんのが偉いね」と感心されたという。
その一方で入門時の師匠だった7代出羽海(元横綱常ノ花)からは「麻雀は脇が甘くなる。だから相撲に生きないが、花札は打つ時に脇が締まるからいいのだ」と言われ、若手時代に兄弟弟子と良く花札をやって遊んでいたことを語っていました。
兄弟子の出羽錦からは「プロ野球は商売敵だから野球中継は見るな」と言われて育った。
そのため、野球出身者の北の富士さんですが日本の野球はあまり観ていないそうです。
それでも野球は嫌いではなく、大谷翔平投手がMLBに二刀流として挑戦して以降は 時間の許す限りテレビ観戦して応援している。また、大相撲にも大谷選手のようなスターが現れてほしいと願っていました。
つづく
九州場所を14勝1敗で初優勝した琴櫻が次の横綱の最有力候補になるが、千秋楽の相星決戦で負けて13勝2敗となった豊昇龍も来年の初場所が“綱取り場所になる”と理事長が明言した。横綱昇進は相撲協会の最大のテーマと言っているようなもの。できれば東西に正横綱を据えた番付でロンドン公演を開催したいのが本音でしょう。現在のひとり横綱が照ノ富士から同じモンゴル出身の豊昇龍に入れ替わるだけでなく、和製横綱の誕生が協会執行部の切実な願いのはずだ」 別の若手親方は「間違いなく和製横綱が誕生するだろう」と見る。
「そもそも、横綱昇進のハードルが下がるでしょう。ガチンコ時代は大関での2場所連続優勝という条件での横綱誕生はなかなか厳しい。どの力士も力をつけているから。ただ、力士たちにも横綱不在になることへの危機感が芽生えている。そういう状況下では琴櫻と同じ埼玉栄出身力士や、豊昇龍と同郷のモンゴル出身力士には全力でぶつかりにいきにくくなる事情がある。
逆に、9月場所の史上最速優勝で“横綱昇進間違いなし”といわれた大の里が苦戦するのではないか。師匠の二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)が先代(元横綱・隆の里)の教えを守って出稽古にいかない。
師匠と同様に不器用な力士になってしまえば、他の力士が形成する包囲網を突破できない。徹底的に研究されて、簡単には勝てなくなる。
執行部は大の里に期待していると思うが、3大関のなかでは最も綱から遠いのではないかだろうか」 果たして来年10月、どのような番付となっているのだろうか?
週刊P誌から
大相撲ロンドン公演2025
相撲番記者 曰く
「海外公演は国際親善を図ることから“裸の大使”とも呼ばれる。横綱の土俵入りは不可欠。1995年のヨーロッパ公演と1997年のオーストラリア公演では曙と貴乃花、1998年のカナダ公演では曙、貴乃花、若乃花が横綱として土俵入りを披露した。2004年の韓国公演と中国公演、2005年のラスベガス公演では朝青龍がいた。
海外巡業も1960~70年代にかけてハワイ巡業が8回も開催された。
ハワイ出身の人気力士の高見山(元東関親方)が活躍していたこともあるが、玉の海、北の富士、琴櫻、輪島、北の湖、二代目若乃花などの人気横綱がいた。
1990年代にかけてもスペインや香港、アメリカで海外巡業が行なわれたが、曙、貴乃花、若乃花が綱を張っていた。
2008年のモンゴル巡業は朝青龍と白鵬(現・宮城野親方)のモンゴル横綱が土俵入りを行なっている」
そうしたなかで来年10月開催が決まったロンドン公演。「横綱不在では話にならないし、やはり琴櫻、大の里といった和製横綱が誕生していてほしいという思いはある」(前出・若手親方)といった声が出るなかで、誰が大役を務めることになるのか。相撲ジャーナリストはこう言う。 「モンゴル出身で膝の悪い照ノ富士は師匠の伊勢ヶ濱親方が来年7月に65歳定年となるのに合わせて引退をすると見られている。そもそも、海外公演で両膝に大きなサポーターをつけての土俵入りでは絵にならない。
週刊P誌
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 21
◆盟友とともに勘違いした “貫禄大関”
大関に昇進した1966年11月場所からの1年間(6場所)で4度も9勝6敗の成績だったため「クンロク大関」と呼ばれていた(当時)玉乃島。
ある日、玉の海は北の富士に対して「北さん、ぼく、最近、”カンロク大関”って言われています」と「クンロク大関」と呼ばれていることに気付いていない様子だった。
そしてひと場所早く大関となっていた北の富士さんも大関昇進して3場所は二桁勝利し、4場所目には14勝して初優勝を遂げたが、後援会の祝賀会へのお呼ばれに皆勤して飲みまくり遊び呆けていた。
優勝の翌場所なので綱獲り場所のはずで、周囲も期待していたのに、まさかの5勝10敗と二桁の黒星、翌場所も7勝8敗と連続負け越し。
今なら大関陥落となるところですが、この当時は「3場所連続負け越した場合は大関陥落」という ゆるーい制度だった為、関脇への陥落は免れた北の富士さん。
なので、ひと場所負け越しても気にせず、遊び呆けて稽古もせずに酔って帰宅しては布団にバタンキューの日々。
足腰の筋肉も一気に落ち、連合稽古でもすぐに息があがるほどスタミナ不足、本場所でそうそう勝てるわけもなかった。
2度目の優勝など遠い夢となり1969昭和44年3月場所から3場所連続の9勝6敗で、スポーツ紙などでは北の富士さんにも“クンロク大関”のあだ名がついた。
この頃のことを北の富士さんが50年後に回想し、
2022年3月場所初日のNHK大相撲中継で「貫禄と間違えてね、『とうとう俺たちも貫禄だな』」と同様の勘違いをしていたことを明かしました。
つづく
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 20
◆改名裏話
ところで、春場所で初優勝した北の富士さんですが、口うるさい兄弟子たちがいない新生九重部屋という自由な環境のため、大阪での春場所を終え東京へ戻ると、有頂天で連日連夜の銀座通い。
稽古不足丸出しで、続く夏場所・名古屋場所を連続負け越し。
秋に北の富士と改名してなんとか カド番を脱出しました。
“どうせ 大関どまり”と観念していた北の富士さん。
翌年の1968年春には「引退する前に せめて外国に行ってみたい」という 力士としては やや不謹慎な理由で四股名を「勝明」から「洋行」に改名した北の富士さん。
そんな軽薄な思いつきでの改名も、夏には翻意して本名の勝昭に改名し直しました。
実は、名大関貴ノ花関も 師匠で実兄の初代若乃花の験担ぎにより、北の富士さんに負けず劣らず……というか
「花田満」→「貴ノ花満」→「貴ノ花利章」→「貴ノ花利彰」→「貴ノ花満郎」→「貴ノ花健士」→「貴乃花健士」→「貴ノ花利彰」
北の富士さんと同じで 細かく 7度も改名してました。
(北の富士さんヒストリー #8 参照)
この大関貴ノ花と北の富士さんは、後述しますが、数々の名勝負を繰り広げ、特に本場所の中日(なかび)八日目を中心に日曜日の大相撲ファンが楽しみにする“ゴールデン・カード”となりました。
#21へ つづく
そんな千代の富士さんマゲに別れを告げたあとに出たバラエティ番組での曲当てコーナーでイントロ相手に苦戦も松山千春の曲だとわかった途端に「あ、千春だ」ってさ。道産子同士はメチャクチャ義理堅いんですね。
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 19
◆酒席での楽しい遊び方
話は前後しますが
北の富士さんが亡くなった後、同じ北海道生まれで歌手の松山千春さんが北海道内のラジオで語ってましたが
「九州場所は本当によく一緒になったな。
俺は ちょうどコンサートやってる時だから博多で一緒になると中洲で飲んでたなぁ、親方と千代の富士と俺と三人で。
ここだけの話だからな、これは俺たちしか知らないと思うんだけど」と前置きした上で、「ホステスさんのいる中洲のナイトクラブで酔っぱらってくると親方(北の富士さん)がね、ホステスさんのハイヒールにビールを入れるんだよ、いきなり、うん。
そしてな『じゃあ、戴くから』って、そのハイヒールに入ったビールをゴクゴクと一気に飲み干して『はぁ、うまかった。ありがとう』って言って新しい靴をまた買ってあげるんだけどさ、それが おっかしくて たまらないんだよ」と懐しんでいた千春さんでした。
つづく