大相撲のコメント部屋

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externallinkコメント一覧

大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,660件 』

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリーを
    もう一度 18

    ◆師匠九重(元横綱千代の山)の教え

    千代の山は 無口が多い角界では異例の “しゃべり好き” で知られていて、出羽海時代でも北の富士は 給仕をしながら毎日2時間ほど千代の山の話を聞くことがあったが
    北の富士は「いやね、親方は話が面白いから、2時間ぐらいあっという間」と振り返っていました。

    北の富士さんは 郷土の英雄である千代の山関から「酒の飲み方、女性との付き合い方、贔屓筋との付き合い方など」を色々と教わったが、相撲番記者から “どんな話だったんですか?” と訊かれた北の富士さん曰く
    「あのね、記事だとか本だとか……文字にして世の中に出せないような艶話が多かったよ」と笑いながら語っていました。
    つまり、北の富士さんの「酒・女性」にまつわる豪快な遊びっぷりは千代の山直伝だったことがわかりました。

    ただし、サッポロビール園で大ジョッキ30杯も飲んで酔っぱらわなかった(当時の角界では指折りの)酒豪 千代の山とは異なり、北の富士さんは一般人が驚くような暴飲深酒はせず、その分、女性たちを楽しませる会話に満ちた宴 のほうに気持ちが向いていたそうでした。

    #19へ つづく

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    をもう一度 17

    ◆破門
    話を戻すと
    北の富士さんが十両での全勝優勝から幕内へ昇進→新入幕で13勝して “天狗”になっていた頃、出羽海部屋では騒動が起き始めていました。
     1963昭和38年に横綱佐田の山が師匠8代出羽海(元前頭筆頭の出羽ノ花)の婿養子となったことで、自分が出羽ノ海後継の可能性が消滅したと確信した部屋付き親方の年寄九重(元千代の山)は 1967昭和42年1月に出羽海部屋からの独立を宣言。
    出羽海親方(8代出羽海・元出羽ノ花)の制止を振り切り、同郷の北の富士を部屋頭に10人の力士を連れて独立しました。
    しかし、出羽海一門からは破門となってしまいました。

    大相撲では当時、どこの一門にも所属してないとなんの活動もできない。

    困った九重(元千代の山)が四代高砂親方(元横綱前田山)に頭を下げて高砂一門に編入。
    晴れて高砂一門の九重部屋となった春場所では 部屋頭となった北の富士が、突っ張りから得意の左四つに組み止めて寄り切る磐石な相撲で初日から白星を重ね、七日目の相手 “くせ者” 麒麟児には土俵際でうっちゃられそうになりながらも“必殺技”外掛けで倒し、終盤後半戦も勝ち進み12戦全勝、1差で追ってきた横綱大鵬には すくい投げで敗れたものの、十四日目には出羽海部屋時代の兄弟子だった佐田の山に取り直しの末に勝利し、千秋楽には横綱柏戸の電車道に劣勢となりましたが、得意の“黄金の引き足”をみせ「肩透かし」で下して 14勝1敗、初の幕内優勝となりました。
    ともに移籍した弟弟子の松前山が十両優勝し、新生 九重部屋は、「我が世の春」と男泣きに暮れる九重親方の横で 対照的に 笑顔満面の北の富士を中心としてタニマチさんたちとともに歓喜に沸きました。

    つづく

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリーを
    もう一度 16

    玉の海の死因
    虫垂炎手術後に併発した急性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症(現在の言い方では 術後の肺血栓)だったことが判明、特に右肺の主管肺動脈には約5cmの血の塊が詰まっていたという。
    春場所後の頃から日に日に激痛となっていく盲腸の痛みを我慢してしまった玉の海。
    二所一門の恩師大鵬関の引退相撲で太刀持ちをすることを優先し、無理して本場所に出場し続けていた玉の海。
    横綱昇進してからの10場所、1度も休場のないまま現役死してしまったのでした。

    巡業先の岐阜羽島で突然の訃報を記者から聞いた北の富士さん。
    最大のライバルかつ親友だった北の富士さんは、「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、最初は「解説の玉ノ海さん(玉ノ海梅吉さん)が亡くなったのか?」と思い、付け人に確認を取らせた。
    関係者が「現役横綱の玉の海関です」と伝えても北の富士さんは全く信じようとせず、「ふざけるのもいい加減にしろ!」と激怒したという。
    しかしその後、亡くなった人物が間違いなく親友の横綱・玉の海関本人であるという事実が判った時、北の富士さんは「むごい……。島ちゃんがあまりにも可哀想だ……。」と、その場で人目も はばからず しばし号泣しました。

    つづく

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー15 補足

    お互いを『北さん』「玉ちゃん」と呼び合う二人の対戦はいつも熱戦、
    すでに右四つ左上手の型を完成させ強靭な足腰で吊り上げることも多かった(重心の低い)玉の海関に対して 185cmと玉の海より7cmも高い上背を活かしての うわ突っ張りから左を差し勝っての左四つとなるのことが多く 右上手を取るなり休まず前に出ながらの上手投げや外掛けでの速攻が得意な北の富士が左四つに持ち込む相撲が多く、土俵際のうっちゃりを警戒し左四つから慎重に両回しを引き付けて寄る北の富士、しかし脚の長い北の富士の腰高を利用し吊り上げて自身の左へ振って うっちゃろうとする玉の海。
    手に汗握る熱戦を毎場所のように繰り広げ、勝負がつくと 土俵の外の “蛇の目” のあたりでお互い顔を見合せ『いい相撲だったな』と言わんばかりの目配せと力を出し切った満足感からの二人の笑顔が印象的でした。→(今でもYouTubeで視聴可)

    結果、関取(十両以上)になって以降の二人の対戦成績は23勝 対 23勝。
    そして、玉の海関が27歳で急逝、文字通り“好敵手との対戦”は突如終焉となってしまいました。

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリーを
    もう一度 15

    ◆盟友玉乃島との切磋琢磨
    後に同時横綱昇進した玉乃島(横綱昇進後は改名して玉の海)とは本当に良きライバルでした。

    舞の海さんが回想するところによると
    「相撲界に入って玉乃島という強い力士がいると噂を聞いてたらしいんですよ。三段目ぐらいのときに初めて見た時に『なんだ、大したことないや』って思ったらしいんです。
    そうしたら玉乃島関も『北の富士さんが強い、有望だ』と聞き、同じことを玉の海関も思ったらしいです。そして実際に相撲を見て『大したことないじゃないか』ってお互いに思ってたみたいです」と明かしました。
    “北・玉”二人の対戦は
    十両時代は玉乃島関が2勝0敗。入幕してから大関へ上がるまでの期間も玉乃島関の7勝5敗と玉乃島関が優勢でしたが、
    北の富士さんが大関へ昇進してから(翌場所に玉乃島関も大関昇進)は北の富士関の12勝10敗。
    そして二人同時に横綱昇進して以降、北の富士関が6勝、玉乃島改め玉の海関が4勝でした。

    つづく

  • 投稿者:匿名

    TVer見てましたが出川哲朗さんが電動バイクで道南を旅してたら千代の富士の実姉との出会いのシーンがありました。さすが身体つき頑丈そうに見えましたね。さらに千代の山千代の富士記念館もオンエア。千代の富士のマゲに止めバサミを入れる北の富士さんの写真が飾られてましたね。今ごろ3人の横綱で酒と松前漬で賑わってるんじゃないかな。

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリー
    を もう一度14

    3場所合計28勝で大関に昇進したことは後々にエピソードを多く残すことになりました。
    日本相撲協会を退職した後にNHK大相撲中継の解説者として20年以上も長きにわたり相撲ファンを楽しませてくれましたが、特にここ10年余りは “相棒”の舞の海さんに いじられてました。
    実況アナ(特に吉田アナと三瓶アナ)との軽妙な語り口のやり取りが高い人気を集め、相撲界のあり方について協会への遠慮も忖度も忌憚(きたん)ないコメントをする 視聴者目線(大相撲ファン目線)をズカズカ言ってしまう ご意見番としても高い存在感を示したことが評価され、
    放送事業の発展や放送文化の向上に功績のあった人たちに贈られる「NHK放送文化賞」を受賞した北の富士さん。

    昨年初場所までは初日と千秋楽のテレビ解説は正面が北の富士さん、向正面は舞の海秀平さん(元小結)が担当することが恒例で、2人の掛け合いがファンの人気を呼んだ。
    〝鉄板ネタ〟は大関昇進の目安とされる三役で直近3場所合計33勝についての話題で、
    令和2年春場所千秋楽、関脇朝乃山の大関獲りについて問われた舞の海さんが、「北の富士さんのように3場所28勝で駆け上がっていく人もいた。そういう出世の仕方を朝乃山には期待したい」と “意味深の”エールを送り、実況の大坂アナが「『もうそれは言わなくてもいい』という表情を北の富士さんがされています」と指摘すると、当の北の富士さんは「舞の海くん、そういうことを言ったら絶交だよ。君とは!!」と憤慨していました。

    北の富士さん
    あの 相撲愛に満ちあふれた軽妙な解説は もう聴けません。

    つづく

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリーを
    もう一度 13

    ◆奮起し、冴えわたる突っ張りと外掛け
    そして ついに大関へ

    1966年名古屋場所は10勝で5場所連続関脇を維持してはいたが直前3場所は28勝。
    この異例の抜擢昇進には “協会の都合”が大いに影響していました。
    この時の番付は、
    大鵬・柏戸・栃の海・佐田の山という4横綱がいましたが、大関は豊山ひとり。
    横綱柏戸に「横綱大関」として大関も兼務させるという 史上10例目の緊急措置をとってました。
    実は大相撲では、大関を必ず東西にひとりずつ置かなければなりません。(日本相撲協会寄附行為にも明記されてます。)
    「横綱」はあくまでも名誉職。
    協会執行部は ふた場所続けて「横綱大関」を置くことを避ける為、無理矢理に北の富士さんを大関に引き上げたのでした。
    予想外の大関昇進となった北の富士さん。
    朝、協会から連絡を受けた出羽海部屋は大騒ぎ。
    付け人にたたき起こされ、兄弟子の佐田の山関から紋付き袴を借りることができましたが、今度は足袋がない。
    佐田の山関の足袋では小さ過ぎて北の富士さんには履けない。そこで一門も異なる時津風一門の横綱柏戸関のいる伊勢ノ海部屋へ借りに行って支度を整え、大汗をかき、バタバタながら無事に協会からの(伝達の)使者を迎えたのでした。
    映画「フーテンの寅次郎」で、暫く旅に出ていた寅さんが急に帰ってきて帝釈天の参道にいるらしいと聞いた とら屋さんのみんなの慌てよう……
    あんな感じだったことでしょう。

    つづく

  • 投稿者:KON

    北の富士さんのお別れ会

    八角部屋で……というのがちょっと寂しいですね。日本相撲協会にとっては、特にここ10年~15年間の「最大の功労者」と言っても言い過ぎではありません。
    NHKさんにもかなり貢献したのですから
    渋谷のNHKホールあたりで「北の富士さんお別れ会パート2」をやって欲しい。来春の北の富士さんの83歳になるはずだったお誕生日までに行なって欲しいなと思います。
    協会を退職してるから……という理由で大鵬さんも死後の扱いは「冷遇」でした。
    全く執行部は融通が利かないというかアンポンタンだらけというか、、、
    千代の富士さんの時は、協会葬にはしなかったものの、世論の後押しもあって、お別れ会は国技館で行なわれ、Yさんも行かれたそうですが、私も献花してきました。
    当時の記事には『大相撲の元横綱千代の富士で、7月31日に61歳で死去した先代九重親方=本名秋元貢、北海道福島町出身=の「お別れの会」が1日、東京都墨田区の両国国技館で開かれ、関係者や一般の献花者を合わせて約5千人が「ウルフ」と呼ばれた大横綱との別れを惜しんだ。』とありました。

  • 投稿者:KON

    追悼
    北の富士さんヒストリーを
    もう一度 12

    金星獲得わずか1個だった北の富士さん
    平幕力士が横綱に勝った時にだけ与えられる「金星」。
    これは元横綱としては
    戦後に誕生した横綱では、金星獲得ゼロだった 羽黒山・東富士・柏戸・輪島・武蔵丸・鶴竜・照ノ富士の7人に次ぐ 8位タイの金星1個。
    千代の富士に勝った貴花田(当時18歳9ヶ月)もあの「昭和最後の一番」が唯一の金星でした。
    金星獲得が少ないのは、本人の出世が速すぎて平幕上位で活躍した期間が短く三役(関脇や小結)に上がってしまった為という力士がほとんどで、北の富士さんの場合も金星獲得のチャンスがある 前頭上位(前頭筆頭~5枚目まで)にいたのはわずか5場所のみ。
    小結を2場所、関脇9場所務めて 大関昇進しました。
    昨今、三役に上がっては負け越して平幕へ陥落を繰り返す力士が目立ちますが、北の富士さんは三役11場所で負け越しは3場所だけ。
    そして北の富士さんが幕内上位にいる時は、横綱には大鵬と柏戸、そして佐田の山と栃ノ海が君臨していましたのでなかなか金星は奪えず。
    唯一の金星は昭和40年夏場所二日目、既に優勝16回の大横綱大鵬さんから挙げたもの。
    初日の横綱柏戸戦でも左を差し勝ってすぐさま寄って出て、土俵際で粘る柏戸の胸を右手で押しながら寄り切ろうとしましたが、わずかに横へ振られ右足が先に土俵俵を越えてしまい「勇み足」で北の富士さんの負け。惜しくも大魚を逃した北の富士さんでしたが、ほぼ勝利していた相撲内容に自信を持ち、翌二日目の横綱大鵬戦でも外掛けを仕掛け見事に大鵬さんをひっくり返しました。
    北の富士さんは平幕での横綱たちとの通算対戦成績は
    柏戸関と0勝2敗、
    大鵬関とは1勝2敗、
    栃ノ海関と0勝2敗、
    佐田の山関とは平幕としては 対戦なしでした。

    なお、金星獲得最多記録は それまで高見山大五郎さんが持っていた最多記録(12個)を抜いた安芸乃島(=現高田川審判部長)の16個。
    どちらも大関昇進は叶わず三役と平幕上位を行ったりきたりしてました。

    つづく

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