TheNews(ザ・ニュース) > コメント部屋 > 大相撲のコメント部屋大相撲のコメント部屋 ※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。 ※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。 ※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。 ※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。
温故知新・大相撲カレンダー 5月17日 今から440年前の1580天正8年5月17日 織田信長が安土城御山にて相撲興行を催した。 と、「信長公記・織田軍記」に記されています。 現在まで残っている大相撲の記録上、1570元亀元年三月以来、信長による9度目の相撲興行「上覧相撲」となります。 それまで、(今のような)土俵のない “ 平たい場所 ” での 相撲節(すまひせち)や、見物人が囲む人垣のなかにできた円いスペースの中で行なわれていた土地相撲だとか、力自慢の武士同士の武家相撲などを、 地面に大きな円(線)を書いて、そこから出ずに円の中で勝負を決っするようにと、土俵の原型を考案したのが、織田信長だったそうです。 秀吉や家康は、信長ほどは相撲に積極的ではなかったようですが、相撲を廃止させた訳ではなかったので土地相撲は残り、商売的要素を濃くし、「神事」としての「勧進相撲」という形に業態変化して庶民の娯楽として存続し続け、家康死去から 175年経った1791寛政三年、11代将軍の徳川家斉が江戸の相撲を上覧したそうです。
訃報です。 錣山親方(元関脇寺尾)の実兄=寺尾三兄弟の長兄の、福薗好政氏が亡くなったそうです。60歳 相撲茶屋 寺尾 の経営者でもありました。 死因は、まだ発表されてませんが、 過日、次男の元逆鉾が亡くなった時に、かなりお痩せになったご様子で参列されていたので、癌のたぐいでの死亡と想像できます。 錣山親方にとっては、まだまだ若い二人の兄が亡くなってしまい、そのショックたるや、計り知れないですね。 両国にぎわい祭りで国技館通りに屋台を出されていた時もお見掛けしましたし、 “ ちゃんこ寺尾 ” にも、相撲観戦仲間と四度お邪魔して飲食させて頂きました。 綺麗な店内で、ちゃんこ鍋も薩摩揚げも とっても美味しかったです。 錣山親方には、二人のお兄様の分まで長生きして欲しいです。
温故知新・大相撲カレンダー 5月16日 1953昭和28年のこの日、 NHKにて大相撲のテレビ(生)中継が始まりました。 大相撲史上初めて、ついにテレビで大相撲が見られることになった夏場所初日、初の大相撲中継、初実況は、NHKの石田吾郎アナウンサー、解説は、元 柏戸秀剛の10代伊勢ノ海親方が務めました。 初日は、(翌場所に引退することになる)40歳の老雄 横綱羽黒山が黒星、横綱千代ノ山が全休だったが、東富士・鏡里の両横綱やニ大関(栃錦と吉葉山)は順当勝ちしました。 この夏場所の優勝は、関脇以上との対戦が一切なかった前頭六枚目の時津山が、あれよあれよという間に15戦全勝優勝を遂げてしまいました。 そして、4ヶ月後、 日本テレビが開局した翌月(1953昭和28年九月)から大相撲実況生中継を開始、やや遅れてTBSテレビが1955昭和30年の五月場所から生中継スタート。 1957昭和32年3月にはOTV大阪テレビ放送(今の朝日放送)が日本テレビとネットワークを結んで生中継を開始。翌年の7月まで、日本テレビ・中部日本放送(今のCBC)・北海道放送(今のHBC)・OTVのネットワークでの生中継放送が行なわれました。 さらに 1959昭和34年三月場所では、前月に開局したばかりの NET日本教育テレビ(今のテレビ朝日)と、 この3月に開局したばかりのフジテレビまで、大相撲中継の生中継を開始しました。 これで、東京では、テレビの3ch(NHK教育テレビ)以外のすべて、チャンネルの1ch. 4ch. 6ch. 8ch. 10ch.という、なんと5局もが本場所開催時の夕方に大相撲の生中継を放送する異様な事態となりました。 必然的に 世論から不満も出て、「夜は、力道山のプロレスや 長嶋茂雄のプロ野球巨人戦にテレビチャンネルを合わせて見るとしても、夕方は、他に放送するものはないのか?」との世論が放送局の関連会社 若しくは親会社の各新聞社に多数寄せられ始めました。 真っ先に.⑩NET日本教育テレビが生中継をやめて、深夜時間帯に「大相撲ダイジェスト」として放送。モーレツ社員時代の走りだった当時の社会で、夕方に相撲中継を見ることができないサラリーマンや、ちょいと一杯呑んでから帰宅する勤め人たち、夜の9時とか11時とかに終わるお仕事をされてる方々にとっても好評でした。 “名人横綱” 栃錦 を追う “ 土俵の鬼・異能力士”若乃花。小柄で強い二人が毎場所魅せる直接対決の白熱ぶりに相撲ファンは熱狂、YouTubeで栃若対決を今、見ても、蔵前国技館の舛席はお客さんの顔、顔、顔で一睡の余地もないほどの満員札止め。 テレビ放送の話が舞い込んだ当初、テレビで見ることができてしまったら、国技館まで客が来なくなるのでは?という親方衆の危惧はまったく外れました。 この空前の栃若人気をあてこんで、こぞって参入した民放テレビ各社でしたが、栃錦に続いて若乃花が引退すると徐々に民放は手を引き始め、1960昭和35年九月場所後に⑧フジテレビが撤退。1965昭和40年一月場所後に⑥TBSテレビが、1966昭和41年初場所後には④日本テレビが撤退しました。 各局はそれぞれゲスト解説を用意して工夫をこらし、日本テレビなどは、天龍さんや、元 東富士、元 輝昇らをゲスト解説に起用しました。 一方、NHKは、玉の海梅吉さんや神風正一さんが交代で解説をしていました。 さて、若くてスラットした長身の柏戸と大鵬が揃って横綱になり熱戦を展開する柏鵬時代に入り大相撲人気が続いたものの、柏戸が数々の怪我や糖尿病などに苦しみ始めると、大鵬一強時代となってしまい、本場所の、特に地方場所での舛席に空席が目立つようになりました。 大鵬が2度目の6連覇をしていた1966昭和41年までには、民放には重要な番組スポンサーがなかなかつかなくなった為、結局、すべての民放が大相撲中継から撤退したのでした。 ・・・ 子供ごころに、理論派の神風さんの解説がわかり易く、人情味溢れる玉の海さんの解説も大好きで、NHKの中継ばかり見ていた記憶があります。 友達の家へ行くと、テレビは大きくて見やすいのですが、途中でCMが頻繁に入る民放での大相撲中継を見させられ、相撲の勝ち負けの結果だけを知りたい友達に嫌気がさして、相撲が始まる頃には家へ戻り、鍵っ子・一人っ子の私のために、“月賦払の緑屋さん” で36回払いでオフクロが買ってくれた、週刊誌くらいの画面のとっても小さなテレビで見てました。 それにしても、民放全局で大相撲中継って豪華ですね。
名古屋場所を東京で開催するための模索・各種準備をしている相撲協会。 それも大切でしょうが、現役力士と親方衆、行司さん呼出さんら協会員の命を守ることが優先順位第1位でしょう。 協会が国技館に協会員全員を集めて講習しても、阿炎のように「眠かったから聴いてなかった。」と嘘ぶくやからもいたし、取材を受けてなくても実際に真剣には聞いてなかったという人も少なからずいたでしょう。 まずは、感染症関係の専門家先生に数人お招きして、出羽・二所・高砂・時津風・伊勢ヶ濱の一門五つの頭を三人ずつ集め、徹底的に講義し、質疑応答も行ない、答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して答えをもらい、その場で答え、先送りにはしないようにする。 翌日にでも ホテルなど広いスペースを確保できる会場でそれぞれの一門会を開かせて、各部屋の親方、おかみさん、部屋付き親方を集めて、聴いてきたことを集中講義して、質疑応答もする。その場で答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して答えをもらい、その場で答え、先送りにはしないようにする。 そして各部屋に戻った親方達は!部屋の力士・行司さん・呼出さん・床山さん・若物頭・世話人など関係者全員を集めて、学んできた事柄を、ただちに(忘れないうちに)、全員に伝えて質疑応答もする。答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して回答をもらい、その場で出席者全員に伝え、先送りにはしないようにする。 その上で、食材や飲み物などは全て配達してもらうようにして外出禁止を徹底することは可能でしょう。 糖尿病などの疾患がある多くの力士は個室にするよう、部屋の改装も必要でしょうから、費用は協会が半額くらいは援助してあげて欲しい。 そもそも、糖尿病や心臓病にならないよう、体重増を目指すここ20年の風潮を根底から見直し、四股やてっぽう・摺り足などの大相撲の伝統的な基礎運動にかける時間を今の(最低でも)3倍にし、足腰の筋力や俊敏性、見応えのある技の習得、に重点を置いて貰いたい。 比較的小柄な朝青龍の活躍や、舞の海さんや智ノ花、三代若乃花や寺尾、宇良や炎鵬の人気ぶりが何故なのかを再確認して欲しい。 そもそも、新弟子で140kg以上は入門お断り!とでもしないと、体重増崇拝主義は直らないでしょう。 新弟子で糖尿病や心疾患持ち など論外です。 そうすれば、学生相撲のあり方・相撲部監督の指導も変わってくるでしょう。 また、稽古場や力士たちの大部屋の換気が今ひとつ という相撲部屋は改装工事も必要でしょうね。これも協会から援助してあげて欲しい。 協会執行部から毎度聞こえる「部屋の親方に任せている」は、時と場合による。 任せてはおけない年代が親方に就いている時代です。名古屋場所を東京で開催するための模索・各種準備をしている相撲協会。 それも大切でしょうが、現役力士と親方衆、行司さん呼出さんら協会員の命を守ることが優先順位第1位でしょう。 協会が国技館に協会員全員を集めて講習しても、阿炎のように「眠かったから聴いてなかった。」と嘘ぶくやからもいたし、取材を受けてなくても実際に真剣には聞いてなかったという人も少なからずいたでしょう。 まずは、感染症関係の専門家先生に数人お招きして、出羽・二所・高砂・時津風・伊勢ヶ濱の一門五つの頭を三人ずつ集め、徹底的に講義し、質疑応答も行ない、答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して答えをもらい、その場で答え、先送りにはしないようにする。 翌日にでも ホテルなど広いスペースを確保できる会場でそれぞれの一門会を開かせて、各部屋の親方、おかみさん、部屋付き親方を集めて、聴いてきたことを集中講義して、質疑応答もする。その場で答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して答えをもらい、その場で答え、先送りにはしないようにする。 そして各部屋に戻った親方達は!部屋の力士・行司さん・呼出さん・床山さん・若物頭・世話人など関係者全員を集めて、学んできた事柄を、ただちに(忘れないうちに)、全員に伝えて質疑応答もする。答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して回答をもらい、その場で出席者全員に伝え、先送りにはしないようにする。 その上で、食材や飲み物などは全て配達してもらうようにして外出禁止を徹底することは可能でしょう。 糖尿病などの疾患がある多くの力士は個室にするよう、部屋の改装も必要でしょうから、費用は協会が半額くらいは援助してあげて欲しい。 そもそも、糖尿病や心臓病にならないよう、体重増を目指すここ20年の風潮を根底から見直し、四股・てっぽう・摺り足などの大相撲の伝統的な基礎運動にかける時間を今の(最低でも)3倍にし、足腰の筋力や俊敏性、見応えのある技の習得、に重点を置いて貰いたい。 当時、比較的小柄だった朝青龍の活躍や、舞の海さんや智ノ花、三代若乃花や寺尾、宇良や炎鵬の人気ぶりが何故なのかを再確認して欲しい。 そもそも、新弟子で140kg以上は入門お断り!とでもしないと、体重増崇拝主義は直らないでしょう。 新弟子で糖尿病や心疾患持ち など論外です。 そうすれば、学生相撲のあり方・相撲部監督の指導も変わってくるでしょう。 また、稽古場や力士たちの大部屋の換気が今ひとつ という相撲部屋は改装工事も必要でしょうね。これも協会から援助してあげて欲しい。 その前に、部屋数の削減も必要。あと10は減らせますね。出来たばかりでもないのに幕下以上の力士がいない部屋は、一門内の他の部屋と合併すべき。 部屋に、部屋付き親方が一人もいないという部屋も削減対象ですね。親方が協会の用事で出かけると指導者がいないという、学校の自習状態。サボろうが出掛けようが自由。つまり無法地帯です。こういう部屋は不祥事も起きやすいし、コロナ感染の確率も高くなる・・危険です。 協会には、ほかにも、力士たちを守る手がたくさんありますね。
温故知新・大相撲カレンダー 5月14日 昭和46年五月夏場所六日目 午前中に協会へ引退届けを提出した「戦後の大横綱」大鵬幸喜(30歳)出場予定だった結びの一番は、大鵬の不戦敗・福ノ花が不戦勝となりました。 横綱成績622勝103敗136休、 横綱勝率.858 103敗のうち、8敗は途中休場による不戦敗のため、実際の黒星は 95。(不戦勝は 2 ) 足掛け 11年も横綱を張っていて、この成績。 “負けない相撲”を確立した大鵬でした。 実は、この引退に際して、ひと悶着がありました。 前日(五日目)の小結 貴ノ花戦で、立ち合いから張り手や左ノド輪を繰り出したが、若干21歳の貴ノ花の低い攻めとしぶとさでこれを凌ぎ、右おっつけでノド輪を外して大鵬の左腰に食いつき攻め立てる。最後は向こう正面に寄り倒され尻餅をついて敗れた大鵬はこれで3勝2敗。 部屋に戻って師匠二所ノ関親方へ引退を申し出た。しかし、「明日(六日目)は出場して、最後の相撲としたい。」と師匠に頼んだので、師匠が協会へ相談したところ、協会の返事は 「No!」 曰く、『引退を表明、つまり死に体の力士が土俵に上がることは まかりならん』とのこと。 大鵬に引導を渡した形になった貴ノ花は、その10年後の初場所、満身創痍で大関在位50場所目。六日目の蔵王錦戦で敗れ、報道陣に引退を表明。 その夜、実兄でもある師匠二子山に『翌日の(四代)朝潮との一番を最後の相撲としたい』と直訴したが、師匠から 「いいか、一度引退を口にした者が相撲を取ることはできない。相手にも失礼なんだ。満よ、引き際というのは肝心なんだぞ!』と言明された。 とのことでした。
勝武士さんが最初に感染してたらしいと一部報道がありました。糖尿病も患っていたとか。 親方以下、他の感染者も心配です。 若さも体力も、殺人コロナウイルスの前では無力なのか? 部屋への出入りする方々も注意ですねえ。
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,656件 』
北の富士さんは若い頃「香車」と渾名される程の痩せっぽちだったし、白鵬も入門時はものすごく痩せていた。
今はそこら辺の肥満児をスカウトして入門させている。
温故知新・大相撲カレンダー
5月17日
今から440年前の1580天正8年5月17日
織田信長が安土城御山にて相撲興行を催した。 と、「信長公記・織田軍記」に記されています。
現在まで残っている大相撲の記録上、1570元亀元年三月以来、信長による9度目の相撲興行「上覧相撲」となります。
それまで、(今のような)土俵のない “ 平たい場所 ” での 相撲節(すまひせち)や、見物人が囲む人垣のなかにできた円いスペースの中で行なわれていた土地相撲だとか、力自慢の武士同士の武家相撲などを、
地面に大きな円(線)を書いて、そこから出ずに円の中で勝負を決っするようにと、土俵の原型を考案したのが、織田信長だったそうです。
秀吉や家康は、信長ほどは相撲に積極的ではなかったようですが、相撲を廃止させた訳ではなかったので土地相撲は残り、商売的要素を濃くし、「神事」としての「勧進相撲」という形に業態変化して庶民の娯楽として存続し続け、家康死去から 175年経った1791寛政三年、11代将軍の徳川家斉が江戸の相撲を上覧したそうです。
最初から若いうちから太り過ぎ、は北の富士さんも何度も言っているね。番付が少しずつ上がるに連れて体重が徐々に増えていく、そうあるべき。糖尿病、心臓病だけでなく、高血圧や痛風があるのもいけないね。
訃報です。
錣山親方(元関脇寺尾)の実兄=寺尾三兄弟の長兄の、福薗好政氏が亡くなったそうです。60歳
相撲茶屋 寺尾 の経営者でもありました。
死因は、まだ発表されてませんが、
過日、次男の元逆鉾が亡くなった時に、かなりお痩せになったご様子で参列されていたので、癌のたぐいでの死亡と想像できます。
錣山親方にとっては、まだまだ若い二人の兄が亡くなってしまい、そのショックたるや、計り知れないですね。
両国にぎわい祭りで国技館通りに屋台を出されていた時もお見掛けしましたし、 “ ちゃんこ寺尾 ” にも、相撲観戦仲間と四度お邪魔して飲食させて頂きました。
綺麗な店内で、ちゃんこ鍋も薩摩揚げも とっても美味しかったです。
錣山親方には、二人のお兄様の分まで長生きして欲しいです。
元十両鶴嶺山の福薗好政氏が亡くなりました。60歳でした。
昨年実弟の先代井筒親方(逆鉾)が亡くなっており、後を追う様な感じでした。
温故知新・大相撲カレンダー
5月16日
1953昭和28年のこの日、
NHKにて大相撲のテレビ(生)中継が始まりました。
大相撲史上初めて、ついにテレビで大相撲が見られることになった夏場所初日、初の大相撲中継、初実況は、NHKの石田吾郎アナウンサー、解説は、元 柏戸秀剛の10代伊勢ノ海親方が務めました。
初日は、(翌場所に引退することになる)40歳の老雄 横綱羽黒山が黒星、横綱千代ノ山が全休だったが、東富士・鏡里の両横綱やニ大関(栃錦と吉葉山)は順当勝ちしました。
この夏場所の優勝は、関脇以上との対戦が一切なかった前頭六枚目の時津山が、あれよあれよという間に15戦全勝優勝を遂げてしまいました。
そして、4ヶ月後、
日本テレビが開局した翌月(1953昭和28年九月)から大相撲実況生中継を開始、やや遅れてTBSテレビが1955昭和30年の五月場所から生中継スタート。
1957昭和32年3月にはOTV大阪テレビ放送(今の朝日放送)が日本テレビとネットワークを結んで生中継を開始。翌年の7月まで、日本テレビ・中部日本放送(今のCBC)・北海道放送(今のHBC)・OTVのネットワークでの生中継放送が行なわれました。
さらに 1959昭和34年三月場所では、前月に開局したばかりの NET日本教育テレビ(今のテレビ朝日)と、 この3月に開局したばかりのフジテレビまで、大相撲中継の生中継を開始しました。
これで、東京では、テレビの3ch(NHK教育テレビ)以外のすべて、チャンネルの1ch. 4ch. 6ch. 8ch. 10ch.という、なんと5局もが本場所開催時の夕方に大相撲の生中継を放送する異様な事態となりました。
必然的に 世論から不満も出て、「夜は、力道山のプロレスや 長嶋茂雄のプロ野球巨人戦にテレビチャンネルを合わせて見るとしても、夕方は、他に放送するものはないのか?」との世論が放送局の関連会社 若しくは親会社の各新聞社に多数寄せられ始めました。
真っ先に.⑩NET日本教育テレビが生中継をやめて、深夜時間帯に「大相撲ダイジェスト」として放送。モーレツ社員時代の走りだった当時の社会で、夕方に相撲中継を見ることができないサラリーマンや、ちょいと一杯呑んでから帰宅する勤め人たち、夜の9時とか11時とかに終わるお仕事をされてる方々にとっても好評でした。
“名人横綱” 栃錦 を追う “ 土俵の鬼・異能力士”若乃花。小柄で強い二人が毎場所魅せる直接対決の白熱ぶりに相撲ファンは熱狂、YouTubeで栃若対決を今、見ても、蔵前国技館の舛席はお客さんの顔、顔、顔で一睡の余地もないほどの満員札止め。
テレビ放送の話が舞い込んだ当初、テレビで見ることができてしまったら、国技館まで客が来なくなるのでは?という親方衆の危惧はまったく外れました。
この空前の栃若人気をあてこんで、こぞって参入した民放テレビ各社でしたが、栃錦に続いて若乃花が引退すると徐々に民放は手を引き始め、1960昭和35年九月場所後に⑧フジテレビが撤退。1965昭和40年一月場所後に⑥TBSテレビが、1966昭和41年初場所後には④日本テレビが撤退しました。
各局はそれぞれゲスト解説を用意して工夫をこらし、日本テレビなどは、天龍さんや、元 東富士、元 輝昇らをゲスト解説に起用しました。
一方、NHKは、玉の海梅吉さんや神風正一さんが交代で解説をしていました。
さて、若くてスラットした長身の柏戸と大鵬が揃って横綱になり熱戦を展開する柏鵬時代に入り大相撲人気が続いたものの、柏戸が数々の怪我や糖尿病などに苦しみ始めると、大鵬一強時代となってしまい、本場所の、特に地方場所での舛席に空席が目立つようになりました。
大鵬が2度目の6連覇をしていた1966昭和41年までには、民放には重要な番組スポンサーがなかなかつかなくなった為、結局、すべての民放が大相撲中継から撤退したのでした。
・・・ 子供ごころに、理論派の神風さんの解説がわかり易く、人情味溢れる玉の海さんの解説も大好きで、NHKの中継ばかり見ていた記憶があります。
友達の家へ行くと、テレビは大きくて見やすいのですが、途中でCMが頻繁に入る民放での大相撲中継を見させられ、相撲の勝ち負けの結果だけを知りたい友達に嫌気がさして、相撲が始まる頃には家へ戻り、鍵っ子・一人っ子の私のために、“月賦払の緑屋さん” で36回払いでオフクロが買ってくれた、週刊誌くらいの画面のとっても小さなテレビで見てました。
それにしても、民放全局で大相撲中継って豪華ですね。
名古屋場所を東京で開催するための模索・各種準備をしている相撲協会。
それも大切でしょうが、現役力士と親方衆、行司さん呼出さんら協会員の命を守ることが優先順位第1位でしょう。
協会が国技館に協会員全員を集めて講習しても、阿炎のように「眠かったから聴いてなかった。」と嘘ぶくやからもいたし、取材を受けてなくても実際に真剣には聞いてなかったという人も少なからずいたでしょう。
まずは、感染症関係の専門家先生に数人お招きして、出羽・二所・高砂・時津風・伊勢ヶ濱の一門五つの頭を三人ずつ集め、徹底的に講義し、質疑応答も行ない、答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して答えをもらい、その場で答え、先送りにはしないようにする。
翌日にでも ホテルなど広いスペースを確保できる会場でそれぞれの一門会を開かせて、各部屋の親方、おかみさん、部屋付き親方を集めて、聴いてきたことを集中講義して、質疑応答もする。その場で答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して答えをもらい、その場で答え、先送りにはしないようにする。
そして各部屋に戻った親方達は!部屋の力士・行司さん・呼出さん・床山さん・若物頭・世話人など関係者全員を集めて、学んできた事柄を、ただちに(忘れないうちに)、全員に伝えて質疑応答もする。答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して回答をもらい、その場で出席者全員に伝え、先送りにはしないようにする。
その上で、食材や飲み物などは全て配達してもらうようにして外出禁止を徹底することは可能でしょう。
糖尿病などの疾患がある多くの力士は個室にするよう、部屋の改装も必要でしょうから、費用は協会が半額くらいは援助してあげて欲しい。
そもそも、糖尿病や心臓病にならないよう、体重増を目指すここ20年の風潮を根底から見直し、四股やてっぽう・摺り足などの大相撲の伝統的な基礎運動にかける時間を今の(最低でも)3倍にし、足腰の筋力や俊敏性、見応えのある技の習得、に重点を置いて貰いたい。
比較的小柄な朝青龍の活躍や、舞の海さんや智ノ花、三代若乃花や寺尾、宇良や炎鵬の人気ぶりが何故なのかを再確認して欲しい。
そもそも、新弟子で140kg以上は入門お断り!とでもしないと、体重増崇拝主義は直らないでしょう。
新弟子で糖尿病や心疾患持ち など論外です。
そうすれば、学生相撲のあり方・相撲部監督の指導も変わってくるでしょう。
また、稽古場や力士たちの大部屋の換気が今ひとつ という相撲部屋は改装工事も必要でしょうね。これも協会から援助してあげて欲しい。
協会執行部から毎度聞こえる「部屋の親方に任せている」は、時と場合による。
任せてはおけない年代が親方に就いている時代です。名古屋場所を東京で開催するための模索・各種準備をしている相撲協会。
それも大切でしょうが、現役力士と親方衆、行司さん呼出さんら協会員の命を守ることが優先順位第1位でしょう。
協会が国技館に協会員全員を集めて講習しても、阿炎のように「眠かったから聴いてなかった。」と嘘ぶくやからもいたし、取材を受けてなくても実際に真剣には聞いてなかったという人も少なからずいたでしょう。
まずは、感染症関係の専門家先生に数人お招きして、出羽・二所・高砂・時津風・伊勢ヶ濱の一門五つの頭を三人ずつ集め、徹底的に講義し、質疑応答も行ない、答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して答えをもらい、その場で答え、先送りにはしないようにする。
翌日にでも ホテルなど広いスペースを確保できる会場でそれぞれの一門会を開かせて、各部屋の親方、おかみさん、部屋付き親方を集めて、聴いてきたことを集中講義して、質疑応答もする。その場で答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して答えをもらい、その場で答え、先送りにはしないようにする。
そして各部屋に戻った親方達は!部屋の力士・行司さん・呼出さん・床山さん・若物頭・世話人など関係者全員を集めて、学んできた事柄を、ただちに(忘れないうちに)、全員に伝えて質疑応答もする。答えられない事柄は、その場で協会(理事会など)へ電話して回答をもらい、その場で出席者全員に伝え、先送りにはしないようにする。
その上で、食材や飲み物などは全て配達してもらうようにして外出禁止を徹底することは可能でしょう。
糖尿病などの疾患がある多くの力士は個室にするよう、部屋の改装も必要でしょうから、費用は協会が半額くらいは援助してあげて欲しい。
そもそも、糖尿病や心臓病にならないよう、体重増を目指すここ20年の風潮を根底から見直し、四股・てっぽう・摺り足などの大相撲の伝統的な基礎運動にかける時間を今の(最低でも)3倍にし、足腰の筋力や俊敏性、見応えのある技の習得、に重点を置いて貰いたい。
当時、比較的小柄だった朝青龍の活躍や、舞の海さんや智ノ花、三代若乃花や寺尾、宇良や炎鵬の人気ぶりが何故なのかを再確認して欲しい。
そもそも、新弟子で140kg以上は入門お断り!とでもしないと、体重増崇拝主義は直らないでしょう。
新弟子で糖尿病や心疾患持ち など論外です。
そうすれば、学生相撲のあり方・相撲部監督の指導も変わってくるでしょう。
また、稽古場や力士たちの大部屋の換気が今ひとつ という相撲部屋は改装工事も必要でしょうね。これも協会から援助してあげて欲しい。
その前に、部屋数の削減も必要。あと10は減らせますね。出来たばかりでもないのに幕下以上の力士がいない部屋は、一門内の他の部屋と合併すべき。
部屋に、部屋付き親方が一人もいないという部屋も削減対象ですね。親方が協会の用事で出かけると指導者がいないという、学校の自習状態。サボろうが出掛けようが自由。つまり無法地帯です。こういう部屋は不祥事も起きやすいし、コロナ感染の確率も高くなる・・危険です。
協会には、ほかにも、力士たちを守る手がたくさんありますね。
温故知新・大相撲カレンダー
5月14日
昭和46年五月夏場所六日目
午前中に協会へ引退届けを提出した「戦後の大横綱」大鵬幸喜(30歳)出場予定だった結びの一番は、大鵬の不戦敗・福ノ花が不戦勝となりました。
横綱成績622勝103敗136休、
横綱勝率.858
103敗のうち、8敗は途中休場による不戦敗のため、実際の黒星は 95。(不戦勝は 2 )
足掛け 11年も横綱を張っていて、この成績。 “負けない相撲”を確立した大鵬でした。
実は、この引退に際して、ひと悶着がありました。
前日(五日目)の小結 貴ノ花戦で、立ち合いから張り手や左ノド輪を繰り出したが、若干21歳の貴ノ花の低い攻めとしぶとさでこれを凌ぎ、右おっつけでノド輪を外して大鵬の左腰に食いつき攻め立てる。最後は向こう正面に寄り倒され尻餅をついて敗れた大鵬はこれで3勝2敗。
部屋に戻って師匠二所ノ関親方へ引退を申し出た。しかし、「明日(六日目)は出場して、最後の相撲としたい。」と師匠に頼んだので、師匠が協会へ相談したところ、協会の返事は 「No!」
曰く、『引退を表明、つまり死に体の力士が土俵に上がることは まかりならん』とのこと。
大鵬に引導を渡した形になった貴ノ花は、その10年後の初場所、満身創痍で大関在位50場所目。六日目の蔵王錦戦で敗れ、報道陣に引退を表明。
その夜、実兄でもある師匠二子山に『翌日の(四代)朝潮との一番を最後の相撲としたい』と直訴したが、師匠から
「いいか、一度引退を口にした者が相撲を取ることはできない。相手にも失礼なんだ。満よ、引き際というのは肝心なんだぞ!』と言明された。
とのことでした。
勝武士はたしかに気の毒だが、そもそも、どこから、誰から、感染したのだろう?
部屋のちゃんこ鍋用の野菜などを買いに(清澄白河駅界隈など)近所へでかけたのだろうか?
勝武士さんが最初に感染してたらしいと一部報道がありました。糖尿病も患っていたとか。
親方以下、他の感染者も心配です。
若さも体力も、殺人コロナウイルスの前では無力なのか?
部屋への出入りする方々も注意ですねえ。