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夏場所ロス・・の中、外出もままならず、北の富士さんがどされているか心配してましたが、どうやら、お元気そうで、貴重な思い出話を寄稿されていたのでご紹介します。題して「北の富士場所」 力士にとって『マージャンは脇が空くから駄目』入門時の師匠・出羽海理事長から授かった金言…辞任した黒川検事長は文字通り脇が甘かった。 北の富士場所2日目は、今話題の賭けマージャンであります。北の富士さんに言わせると、マージャンは力士にとっても「即アウト」。遊んでいいのは、花札だとか。さて、その理由は―。 ◇ ◇ ◇ こんにちは、お元気ですか。24日のNHK総合テレビ、見ていただきましたか。私も若かったし、故千代の富士(元九重親方)も絶頂期を迎えんとしていた時期だけに、自信にあふれて、いい顔をしていたね。北勝海(現八角親方)は、まだ初々しくかわいかったが、今では理事長である。私なんぞは側にも寄れない存在であります。この2人で10連覇、9連覇と怒濤(どとう)の進撃が始まるのであります。まさにこの世の春を体験させてもらいました。 さて、きょうは何を書きましょうか。何しろ肝心の相撲がないので、どのように話を進めていいのか苦労する。入門時から始めようと考えてはいましたが、気になることがニュースになったので、ちょっとだけ触れてみたいと思います。長いこと、この仕事をさせてもらってますが、固い話はなかったと思う。まして私風情が政治を語るとは恐ろしい世の中になったものです。 気になった話とは黒川検事長が、賭けマージャンで辞任したことであります。 ちなみに私はマージャンはしません、できません。多分、父親が大変なマージャン好きで、母と年中けんかをしているのを見て育ち、自然にマージャンは悪い遊びと思ったのでしょう。 ところが相撲部屋に入門して驚きました。関取衆は稽古が終わり飯を食うとすぐにマージャン。暇さえあればマージャン。夜も遅くまでマージャンが続く。腹がすくとラーメンを頼め、水を持ってこい。われわれ若い力士は寝る暇さえないほどで、ますますマージャン嫌いになったのです。後年、武蔵川理事長(元幕内出羽ノ花)に「おまえはマージャンをしないのだけが偉い」とほめられました。 話は戻ります。入門当時の師匠だった出羽海理事長(元横綱常ノ花)が大のマージャン嫌いだったのです。親方いわく「パイをまぜる時、打つ時に脇が空くマージャンをやると脇が甘くなる」が持論でした。 時々マージャンをやっているところを見つけると、いつも持ち歩いている象牙のステッキで思い切り頭を殴ってました。 話は続きます。これからが面白いのです。師匠はこうも言いました。 「マージャンは脇が空くので相撲の為にはならないが、その点花札は、札を打つ時に脇が締まるので稽古になる」。言い得て妙な話である。それ以来私は花札が好きになりました。何の娯楽もない時代であります。ちゃんこ場の片隅で座布団を挟んで兄弟弟子と一文10円、1、2時間取ったり取られたりしてせいぜい何百円。ささやかな楽しみです。 師匠はこんなことも言っています。「マージャンは中国から来たもの。花札は日本古来の文化。大いにやるべし」。いい時代でした。というわけで今回の黒川さんの件はアウト。やはり出羽海親方はすごい。「マージャンは脇が空くから駄目」。黒川さんは文字通り脇が甘かったようだ。おしまい。 お後がよろしいようで。 ・・・夏場所ロスの穴を埋めてくれる北の富士さん。 元気そうで何よりです。
北の富士さんが中学卒業後、故郷の英雄 千代の山に誘われたのをきっかけに角界入りを決意し、上京してきた時の思い出をコラムにして語っているので、ご紹介します。 東京には気をつけろと言われていた。転んだはずみで袋が破れ、赤いダイヤと言われた小豆がバラバラと一気に坂を転がった。通行人らが懸命に拾ってくれて本当にうれしかった それでは、出羽海部屋入門当時にタイムスリップしましょうか。 時は1957(昭和32)年1月。厳寒の旭川駅を後にする少年、竹沢勝昭。駅の構内には三橋美智也の「リンゴ村から」の歌が流れていたのを覚えています。函館からは青函連絡船。冬の荒れ狂う津軽海峡の揺れはものすごく、ニシン漁の船とは比べようもないほどの激しいものでした。 道中、母が持たせてくれたにぎり飯もどこかに転がっていってしまいました。翌朝、上野駅に到着。とにかく朝だったと思います。連れて来ていただいたおじさんは、もう何度も来ているようでしたが、どうやら出口を間違え、動物園口の方から出ました。 今乗ってきた汽車のホームにお相撲さんが1人いました。この人が迎えに来たお相撲さんだと考えていました。まるで夢を見ているような変な感じ。「ここが東京か」と思ったら急に北海道に帰りたくなりました。 ボーッとしながら坂道を歩き始めると、足を滑らし、ひっくり返りました。靴ではなく私は下駄を履いていたのです。東京へ行ったら着物を着て、どうせ下駄を履くのだからと家を出る時から下駄でした。ご丁寧に滑り止めの金具を打ってくれていたのが悪く、アスファルトの道路で滑ってしまったのです。田舎の人は東京もまだ道は土と思っていたんですね。 転んだはずみでお土産に持ってきた小豆の一袋が破れ、赤い小豆がバラバラと一気に坂を転がっていく。私はぼうぜんと見ているばかりでしたが、このあたりの土産屋のおじさんや通行人が一生懸命拾ってくれました。 あの当時、小豆は赤いダイヤと言われ、東京でも珍重されていたらしく、私をスカウトしてくれた千代の山関と出羽海親方、そして、おじさんがいつも泊まる旅館へのお土産として持たせてくれました。東京に行ったら気をつけろと言われていたから、親切は本当にうれしかったものです。 やっとタクシーに乗って、両国の出羽海部屋に着きました。あのころのタクシーはルノーだったと思います。生まれて初めてタクシーに乗れたのも、うれしいことでした。 「東京へ来てよかったなあ」と思いながら出羽海部屋の玄関に入った途端、楽しい夢が一気に吹っ飛んでしまいます。 「ごめん下さい」「ハーイ」と出てきたお相撲さんのでかいこと。当時、私は180センチあって、田舎では自分より大きい人をあまり見たことはありません。ところがその若い力士は2メートル近くもあり、とにかくでかい。声もでかい。顔も大きくて怖い。それだけで「早く帰りたい。殺される」と思いました。 親方と千代の山関に会って、おじさんが国に帰る時、一緒に帰ろうと本当に思ったのです。さて、これから先どうなることやら。 ・・・途中のことは多少うろ覚えになっても、15歳で上京してきた時のことは、鮮明に覚えているのでしょうねえ。
温故知新・大相撲カレンダー 5月24日 2010平成22年5月24日、大相撲出身のプロレスラー、ラッシャー木村さんが亡くなりました。 享年68歳。腎不全からの誤嚥性肺炎でした。 北海道中川郡出身の木村さんは、1968昭和33年に宮城野部屋から「木ノ村」(きのむら)の四股名で初土俵を踏み、 その後、龍栄山(たつえいやま)→ 天塩錦(てしおにしき)→ 荒馬(あらうま)→ 木ノ村と四股名を変え、昭和39年に幕下で引退・廃業。 通算成績、40場所で、138勝148敗。 そもそもプロレスラーになりたくて、基礎体力をつける為に角界に飛び込んだようで、十両に上がったら、好き勝手には辞められなくなるとの思いで、師匠宮城野(元横綱の吉葉山)に引退を申し出た。驚いた宮城野が強く慰留したが聞く耳持たず、部屋を脱走してさっさと廃業してしまい、すぐ翌月に日本プロレスに入りました。 プロレスラーとしては、ご存知の通り、豊登を慕って国際プロレス旗揚げから移籍し、後にラッシャー木村と改名し、「雷電ドロップ」のサンダー杉山や グレート草津とともに活躍。さらには金網デスマッチという、かなりコアな手法で人気を得ました。
北の富士さん 会心の一番 (伍 元・兄弟子の佐田の山に初対戦で完勝 昭和42年三月春場所14日目。 自分を角界に導き育ててくれた同郷の英雄 元 千代ノ山(年寄九重)が初場所後に出羽海部屋から独立し九重部屋を興した際に、大部屋の出羽海部屋に残るかどうか悩んだ末に、『時が来れば、いつかまた、出羽海部屋に戻れるんじゃないか?という一縷の望みを持って・・』九重について行った為、九重部屋の北の富士として、出羽海部屋の時の先輩佐田の山と対戦することになった北の富士。 仕切りの最中から、気合いが感じられない北の富士。『なんで兄弟子とやらなきゃいけないんだよ?』と考えながらの 嫌々の相撲。 時間いっぱいとなり軍配がかえり、立ち合い、まずは双差しに成功した北の富士。佐田の山は左上手を引き、右からは北の富士の左かいなを強烈におっつける。 北の富士はこれを嫌って左を一度抜いてまた差し込み深く差そうとするが、この機を逃さず佐田の山が青房下へ寄り立てる。これを北の富士が右下手投げで佐田を振って体を入れ替え赤房下に寄り倒そうと一気に出る。 足腰のよい佐田の山、これを踏ん張って堪え、右へ大きくうっちゃった。 綺麗にうっちゃりが決まったかに見えたが、軍配は北の富士へ。当然のように物言いがついたが、協議の結果は、『 北の富士の脚は大きく飛んでいたが胸は合っていた』。これをどう見るかで審判の意見が割れて、取り直し。 『負けでもいいから早く終わってくれ。』とうつむき気味に物言い協議を待つ北の富士。しかし、取り直しとなってしまい驚いた表情の北の富士。 『何故、こんな嫌な相撲を二番も取らなきゃいけないんだ?』と後述していた北の富士。再戦の立ち合いでは右手を出して佐田を突きながら左へ体をずらして佐田の出足を止めた。さらに突っ張ってから左をのぞかせ肩透かしを連発、佐田の山がしぶとく残すと、北の富士は休まず前に出ながら右上手を引きつけ、西土俵際へ寄り立てた。佐田の山が逆転の突き落としをみせたが、腰を落として足の送りを遅らせるようにして体を預け、北の富士が寄り倒した。 突いても速攻、組んでも速攻の北の富士の面目躍如という一番でした。 思えば、新入幕で大勝ちした後に幕内上位の壁に跳ね返され、幕内下位に番付を下げてくさっていた時に部屋での稽古で鍛えてくれた兄弟子佐田の山に恩返しできた会心の一番でした。
北の富士さん 会心の一番 (四 大鵬から2勝目 昭和41年三月春場所 4横綱が初日から揃って出場したが、佐田の山が途中でダウン。栃の海や大関陣には期待がかからず。場所は柏鵬が主役を演じていた。九日目を終えて柏戸と大鵬が8勝1敗で並んでトップ。 十日目に北の富士は大鵬に挑んだ。 立ち合いすぐに左差しを狙って北の富士の差し手を大鵬が右からおっつけ北の富士の動きを止めた。さらに北の富士の左かいなを引っ張り込んで先に右上手を取った。 ここで、少し遅れて左上手を取った北の富士がまわしを掴むやいなや、左足を少し引きながら右上手投げを大きく打った。 予期してなかった いきなりの投げに、右足の送りが遅れた大鵬は体が完全に伸びてしまい、それでも必死に左からすくい投げを打ち返して抵抗したのですが、右肘から先に土俵に落ちた。見る角度が悪かった式守伊之助の軍配は大鵬に上がったが、物言いがつき、協議の結果、「行司差し違い」で北の富士の勝ちとなり大鵬は2敗に後退、柏戸に一歩リードを許しました。 “左四つには組める。組んだら 大鵬が形を整える前に すぐ攻める” という “ 大鵬攻略法 ” を会得した!と確信した北の富士でした。 一方の大鵬もさらなる工夫を重ね「負けない相撲」を確立していったので、この後、北の富士は大鵬戦で負け続けることになります。 ・・・昨日のNHK特番での北の富士さん、若々しい相撲っぷりで、腰高ながら攻めか早かったですねえ。
北の富士さん 会心の一番 (参 大横綱大鵬から金星獲得。 昭和40年五月夏場所での、北の富士さん生涯唯一の金星でした。 この夏場所二日目、結び前の一番。 4横綱揃った場所でしたが、この日は、栃の海と柏戸が相次いで敗れ、次いで登場した大鵬に挑んだ東前頭三枚目・北の富士。 場所前に、若羽黒に唆されてハワイ巡業で買って不法に持ち帰ってきた拳銃を本所警察から咎められ意気消沈・稽古に身が入らなかった大鵬と柏戸。 実は、それは北の富士も一緒で、若羽黒が暴力団に頼まれて持ち帰り渡した為に発覚、逮捕と報道され、一緒に買って帰ってきた北の富士が怖くなって親方九重に申告。九重(元横綱 千代の山)が慌てて協会へ届けたので問題となり、共犯の柏鵬は両国橋から隅田川に投げ捨てた。拳銃は自重で川底のヘドロの底へ沈んだようで発見出来ず。大鵬・柏戸・北の富士は書類送検。協会からの処分はなし。 という騒動があったばかり。 現在なら協会の看板横綱二人のスキャンダルで大々問題となるはずだが、協会が本所警察に先に先に手を打ち、新聞の社会面の端っこに小さく10行ほどのニュースで済んだ。まあ、緩い時代でした。 さて、北の富士唯一の金星ですが、 そんなこんなで稽古不足の大鵬に挑む北の富士。北の富士も本所警察から説諭されたが、あまり物事を深刻に考えないタイプな為、稽古は十分。 立ち合いでいきなりお互い得意な左四つとなったが、北の富士がすぐに動いた。がっぷり引きつけ合う状態になる前に北の富士が突進。前に出ながら右上手投げを打ち、左すくい投げで堪えようとする大鵬へ、右足を飛ばして外掛け。「前へ出ながらの外掛け」は北の富士の十八番。大鵬は尻餅をついてしまいました。初金星にして最後の金星。 早くに三役に駆け上がり大関昇進を果たす=出世の早い力士は金星が少ないものですが、北の富士さんもそのひとりでした。 ちなみに、 昭和以降、スピード出世の横綱の金星は 玉錦1個(宮城山から) 双葉山1個(武蔵山から) 羽黒山 0、 照國1個(男女ノ川から) 栃錦1個(東富士から) 柏戸 0、 大鵬1個(朝汐から) 輪島 0、 北の湖1個(北の富士から) 貴乃花1個(千代の富士から) 朝青龍1個(武蔵丸から) 日馬富士1個(朝青龍から) 白鵬1個(朝青龍から)
昭和以降1位タイのスピード昇進でした。 温故知新・大相撲カレンダー 5月24日 2000平成12年 5月24日 夏場所で11勝を挙げ、三場所合計34勝の好成績にて、幕下60枚目格付けだしでの初土崩からわずか12場所で雅山が大関に昇進しました。 北の富士さんの時代に活躍して横綱寸前までいった豊山(引退後は時津風として協会理事長も務めた)と並ぶ、昭和以降1位タイのスピード昇進でした。 この三場所で、貴乃花には3連敗したものの、他の横綱(曙や三代若乃花)にも1度ずつ土をつけ、すぐにも横綱かと期待されたが、 新大関の名古屋場所で、栃東戦で右肩を負傷して苦しみ、6勝9敗での負け越し、秋場所以降、8勝7敗、9勝6敗、8勝7敗、7勝8敗、9勝6敗、7勝8敗と低迷し、平成13年秋場所で3勝6敗となった段階でカド番脱出を諦めて途中休場、翌場所での10勝→大関復帰に懸けたが、全休してしまい、大関に返り咲くことはできませんでした。期待に反して大関で二桁勝利が一度もなく、大関在位わずか8場所は歴代ワースト3位の短さでした。 実は、大関昇進を諮る理事会において、満場一致ではなく3名の反対票があり、同じ部屋の横綱武蔵丸や大関出島・大関武双山らとの対戦がないことから昇進は時期尚早と不安視する声が3票もあったが、多数決でぎりぎり大関にあがったのでした。 貴花田や若花田にも、大関昇進や横綱昇進のハードルは高かったですが、若貴に辛すぎるという苦情の多さから、出島、雅山に多少甘かったというのが、短命大関につながってしまったという見方が強い。 大関から陥落後、10年以上も幕内を続け、関脇にも何度もなっていました。 あっという間に上に上がって、あっという間に落っこちて、それからも関取として頑張っていたんですね。
力士・親方のテレビ出演情報 NHK ① 大相撲特別場所~テレビ桟敷へようこそ~「歴史彩る横綱全盛期」 2020年5月24日(日) 15時05分~17時15分 今日から3週連続で日曜の午後、懐かしのフィルムを放送してくれます。 中止になった大相撲夏場所に替わって「特別場所」を開催!懐かしい名力士たちの映像を振り返ります。 現役力士もリモート出演!横綱・鶴竜、新大関・朝乃山が近況を語る! 第1週は昭和62年放送「大相撲この一年 燃える九重名コンビ」と平成16年放送「大相撲この一年 激闘 新たな夢へ」をお送りします。千代の富士、北勝海、朝青龍…若き白鵬、稀勢の里の姿も。さらに現役力士もリモート出演!横綱・鶴竜、新大関・朝乃山が近況を語る!北の富士&舞の海も電話で出演します! ゲスト 朝乃山英樹,北の富士勝昭,舞の海秀平,鶴竜力三郎,芝田山康
北の富士さん 会心の一番 (弐 新入幕で大活躍の新鋭北の富士 1964昭和39年1月初場所、前場所で十両5枚目での15戦全勝優勝を遂げ、初土俵以来まる7年かかって念願の新入幕を果たした北の富士。 初日から五連勝のスタートダッシュ、中盤戦で巨漢の若見山と入幕2場所目の新進気鋭・清国に屈したが、終盤に入ると、十日目にベテラン鶴ヶ嶺・さらに開隆山・豊国・明武谷・羽黒山といった実力者たちを持ち前の速攻で下し、千秋楽を迎えて12勝2敗。 千秋楽の一番では、関脇経験者の若秩父に挑んだ。 若秩父はここまで7勝7敗、給金相撲で、三役復帰を目指していた。 しかし、西から上がった北の富士は、立ち合いで突っ張って、長いリーチを使って左四つに組みとめると、ひと息入れる間も無く寄り立てる北の富士、土俵際でこれを堪えようとした若秩父。 しかし、(後に北の富士の得意技となる)寄り立てながらの右上手投げをみせると、若秩父はたまらず横転してしまい、北の富士の勝ち。 この場所は、千秋楽まで横綱大鵬と並び初日から破竹の14連勝して清国の活躍の陰に隠れた形になった北の富士でしたが、前場所の十両での15戦全勝に続いての新入幕での13勝 という、それはそれは素晴らしい成績を挙げた北の富士でした。
北の富士さんの現役時代の映像って、 貴ノ花との「庇い手・つき手」問題となった一番をはじめ、若浪に吊り出された一番とか、ばかりで、 北の富士さんが圧勝した映像をなかなかNHKさんは流してくれません。 夏場所中止で、外出自粛で、在宅時間も長い毎日。 ここで、北の富士さんが快勝した相撲十番を厳選し、プレイバックしてご紹介します。 北の富士さん 会心の一番 壱 まずは、 1963昭和38年九州場所において、 大相撲史上3人目の十両15戦全勝優勝を遂げた北の富士、その千秋楽の一番。 十両になって5場所目、初日から左四つに組みとめて、速攻で前に出ながらの左下手投げや、同じく出ながらの外掛けで勝ち進みストレート給金、九日目に後にライバルにして盟友となる玉乃島を吊り出して9連勝。終盤も外掛けが冴え渡り、とうとう 14連勝。 そして、千秋楽。なんと幕内力士の廣川が当てられ、幕内の土俵入りのあと、最初の一番に登場となりました。 仕切りの最中に緊張感を見せなかった北の富士でしたが、最後の塩で大きく深呼吸。さすがに緊張していたのかもしれない。 立ち合いでは互角に当たったが、10cm近く背の低いアンコ形の廣川はそもそも重心が低く、さらには前傾姿勢で当たってきたので北の富士の突っ張りがやや空振り。上体が起きかけた北の富士でしたが、ここで片足をひいて腰を落とし、おっつけながら出ようとする廣川の両腕(りょうかいな)を下からあてがうようにして攻め立て、堪える廣川を押し出した。 これにて、栃光・豊山以来の、史上三人目の十両15戦全勝優勝を達成したのでした。
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夏場所ロス・・の中、外出もままならず、北の富士さんがどされているか心配してましたが、どうやら、お元気そうで、貴重な思い出話を寄稿されていたのでご紹介します。題して「北の富士場所」
力士にとって『マージャンは脇が空くから駄目』入門時の師匠・出羽海理事長から授かった金言…辞任した黒川検事長は文字通り脇が甘かった。
北の富士場所2日目は、今話題の賭けマージャンであります。北の富士さんに言わせると、マージャンは力士にとっても「即アウト」。遊んでいいのは、花札だとか。さて、その理由は―。
◇ ◇ ◇
こんにちは、お元気ですか。24日のNHK総合テレビ、見ていただきましたか。私も若かったし、故千代の富士(元九重親方)も絶頂期を迎えんとしていた時期だけに、自信にあふれて、いい顔をしていたね。北勝海(現八角親方)は、まだ初々しくかわいかったが、今では理事長である。私なんぞは側にも寄れない存在であります。この2人で10連覇、9連覇と怒濤(どとう)の進撃が始まるのであります。まさにこの世の春を体験させてもらいました。
さて、きょうは何を書きましょうか。何しろ肝心の相撲がないので、どのように話を進めていいのか苦労する。入門時から始めようと考えてはいましたが、気になることがニュースになったので、ちょっとだけ触れてみたいと思います。長いこと、この仕事をさせてもらってますが、固い話はなかったと思う。まして私風情が政治を語るとは恐ろしい世の中になったものです。
気になった話とは黒川検事長が、賭けマージャンで辞任したことであります。
ちなみに私はマージャンはしません、できません。多分、父親が大変なマージャン好きで、母と年中けんかをしているのを見て育ち、自然にマージャンは悪い遊びと思ったのでしょう。
ところが相撲部屋に入門して驚きました。関取衆は稽古が終わり飯を食うとすぐにマージャン。暇さえあればマージャン。夜も遅くまでマージャンが続く。腹がすくとラーメンを頼め、水を持ってこい。われわれ若い力士は寝る暇さえないほどで、ますますマージャン嫌いになったのです。後年、武蔵川理事長(元幕内出羽ノ花)に「おまえはマージャンをしないのだけが偉い」とほめられました。
話は戻ります。入門当時の師匠だった出羽海理事長(元横綱常ノ花)が大のマージャン嫌いだったのです。親方いわく「パイをまぜる時、打つ時に脇が空くマージャンをやると脇が甘くなる」が持論でした。
時々マージャンをやっているところを見つけると、いつも持ち歩いている象牙のステッキで思い切り頭を殴ってました。
話は続きます。これからが面白いのです。師匠はこうも言いました。
「マージャンは脇が空くので相撲の為にはならないが、その点花札は、札を打つ時に脇が締まるので稽古になる」。言い得て妙な話である。それ以来私は花札が好きになりました。何の娯楽もない時代であります。ちゃんこ場の片隅で座布団を挟んで兄弟弟子と一文10円、1、2時間取ったり取られたりしてせいぜい何百円。ささやかな楽しみです。
師匠はこんなことも言っています。「マージャンは中国から来たもの。花札は日本古来の文化。大いにやるべし」。いい時代でした。というわけで今回の黒川さんの件はアウト。やはり出羽海親方はすごい。「マージャンは脇が空くから駄目」。黒川さんは文字通り脇が甘かったようだ。おしまい。
お後がよろしいようで。
・・・夏場所ロスの穴を埋めてくれる北の富士さん。
元気そうで何よりです。
北の富士さんが中学卒業後、故郷の英雄 千代の山に誘われたのをきっかけに角界入りを決意し、上京してきた時の思い出をコラムにして語っているので、ご紹介します。
東京には気をつけろと言われていた。転んだはずみで袋が破れ、赤いダイヤと言われた小豆がバラバラと一気に坂を転がった。通行人らが懸命に拾ってくれて本当にうれしかった
それでは、出羽海部屋入門当時にタイムスリップしましょうか。
時は1957(昭和32)年1月。厳寒の旭川駅を後にする少年、竹沢勝昭。駅の構内には三橋美智也の「リンゴ村から」の歌が流れていたのを覚えています。函館からは青函連絡船。冬の荒れ狂う津軽海峡の揺れはものすごく、ニシン漁の船とは比べようもないほどの激しいものでした。
道中、母が持たせてくれたにぎり飯もどこかに転がっていってしまいました。翌朝、上野駅に到着。とにかく朝だったと思います。連れて来ていただいたおじさんは、もう何度も来ているようでしたが、どうやら出口を間違え、動物園口の方から出ました。
今乗ってきた汽車のホームにお相撲さんが1人いました。この人が迎えに来たお相撲さんだと考えていました。まるで夢を見ているような変な感じ。「ここが東京か」と思ったら急に北海道に帰りたくなりました。
ボーッとしながら坂道を歩き始めると、足を滑らし、ひっくり返りました。靴ではなく私は下駄を履いていたのです。東京へ行ったら着物を着て、どうせ下駄を履くのだからと家を出る時から下駄でした。ご丁寧に滑り止めの金具を打ってくれていたのが悪く、アスファルトの道路で滑ってしまったのです。田舎の人は東京もまだ道は土と思っていたんですね。
転んだはずみでお土産に持ってきた小豆の一袋が破れ、赤い小豆がバラバラと一気に坂を転がっていく。私はぼうぜんと見ているばかりでしたが、このあたりの土産屋のおじさんや通行人が一生懸命拾ってくれました。
あの当時、小豆は赤いダイヤと言われ、東京でも珍重されていたらしく、私をスカウトしてくれた千代の山関と出羽海親方、そして、おじさんがいつも泊まる旅館へのお土産として持たせてくれました。東京に行ったら気をつけろと言われていたから、親切は本当にうれしかったものです。
やっとタクシーに乗って、両国の出羽海部屋に着きました。あのころのタクシーはルノーだったと思います。生まれて初めてタクシーに乗れたのも、うれしいことでした。
「東京へ来てよかったなあ」と思いながら出羽海部屋の玄関に入った途端、楽しい夢が一気に吹っ飛んでしまいます。
「ごめん下さい」「ハーイ」と出てきたお相撲さんのでかいこと。当時、私は180センチあって、田舎では自分より大きい人をあまり見たことはありません。ところがその若い力士は2メートル近くもあり、とにかくでかい。声もでかい。顔も大きくて怖い。それだけで「早く帰りたい。殺される」と思いました。
親方と千代の山関に会って、おじさんが国に帰る時、一緒に帰ろうと本当に思ったのです。さて、これから先どうなることやら。
・・・途中のことは多少うろ覚えになっても、15歳で上京してきた時のことは、鮮明に覚えているのでしょうねえ。
温故知新・大相撲カレンダー
5月24日
2010平成22年5月24日、大相撲出身のプロレスラー、ラッシャー木村さんが亡くなりました。
享年68歳。腎不全からの誤嚥性肺炎でした。
北海道中川郡出身の木村さんは、1968昭和33年に宮城野部屋から「木ノ村」(きのむら)の四股名で初土俵を踏み、
その後、龍栄山(たつえいやま)→ 天塩錦(てしおにしき)→ 荒馬(あらうま)→ 木ノ村と四股名を変え、昭和39年に幕下で引退・廃業。
通算成績、40場所で、138勝148敗。
そもそもプロレスラーになりたくて、基礎体力をつける為に角界に飛び込んだようで、十両に上がったら、好き勝手には辞められなくなるとの思いで、師匠宮城野(元横綱の吉葉山)に引退を申し出た。驚いた宮城野が強く慰留したが聞く耳持たず、部屋を脱走してさっさと廃業してしまい、すぐ翌月に日本プロレスに入りました。
プロレスラーとしては、ご存知の通り、豊登を慕って国際プロレス旗揚げから移籍し、後にラッシャー木村と改名し、「雷電ドロップ」のサンダー杉山や グレート草津とともに活躍。さらには金網デスマッチという、かなりコアな手法で人気を得ました。
北の富士さん 会心の一番 (伍
元・兄弟子の佐田の山に初対戦で完勝
昭和42年三月春場所14日目。
自分を角界に導き育ててくれた同郷の英雄 元 千代ノ山(年寄九重)が初場所後に出羽海部屋から独立し九重部屋を興した際に、大部屋の出羽海部屋に残るかどうか悩んだ末に、『時が来れば、いつかまた、出羽海部屋に戻れるんじゃないか?という一縷の望みを持って・・』九重について行った為、九重部屋の北の富士として、出羽海部屋の時の先輩佐田の山と対戦することになった北の富士。
仕切りの最中から、気合いが感じられない北の富士。『なんで兄弟子とやらなきゃいけないんだよ?』と考えながらの 嫌々の相撲。
時間いっぱいとなり軍配がかえり、立ち合い、まずは双差しに成功した北の富士。佐田の山は左上手を引き、右からは北の富士の左かいなを強烈におっつける。
北の富士はこれを嫌って左を一度抜いてまた差し込み深く差そうとするが、この機を逃さず佐田の山が青房下へ寄り立てる。これを北の富士が右下手投げで佐田を振って体を入れ替え赤房下に寄り倒そうと一気に出る。
足腰のよい佐田の山、これを踏ん張って堪え、右へ大きくうっちゃった。
綺麗にうっちゃりが決まったかに見えたが、軍配は北の富士へ。当然のように物言いがついたが、協議の結果は、『 北の富士の脚は大きく飛んでいたが胸は合っていた』。これをどう見るかで審判の意見が割れて、取り直し。
『負けでもいいから早く終わってくれ。』とうつむき気味に物言い協議を待つ北の富士。しかし、取り直しとなってしまい驚いた表情の北の富士。
『何故、こんな嫌な相撲を二番も取らなきゃいけないんだ?』と後述していた北の富士。再戦の立ち合いでは右手を出して佐田を突きながら左へ体をずらして佐田の出足を止めた。さらに突っ張ってから左をのぞかせ肩透かしを連発、佐田の山がしぶとく残すと、北の富士は休まず前に出ながら右上手を引きつけ、西土俵際へ寄り立てた。佐田の山が逆転の突き落としをみせたが、腰を落として足の送りを遅らせるようにして体を預け、北の富士が寄り倒した。
突いても速攻、組んでも速攻の北の富士の面目躍如という一番でした。
思えば、新入幕で大勝ちした後に幕内上位の壁に跳ね返され、幕内下位に番付を下げてくさっていた時に部屋での稽古で鍛えてくれた兄弟子佐田の山に恩返しできた会心の一番でした。
北の富士さん 会心の一番 (四
大鵬から2勝目
昭和41年三月春場所
4横綱が初日から揃って出場したが、佐田の山が途中でダウン。栃の海や大関陣には期待がかからず。場所は柏鵬が主役を演じていた。九日目を終えて柏戸と大鵬が8勝1敗で並んでトップ。
十日目に北の富士は大鵬に挑んだ。
立ち合いすぐに左差しを狙って北の富士の差し手を大鵬が右からおっつけ北の富士の動きを止めた。さらに北の富士の左かいなを引っ張り込んで先に右上手を取った。
ここで、少し遅れて左上手を取った北の富士がまわしを掴むやいなや、左足を少し引きながら右上手投げを大きく打った。
予期してなかった いきなりの投げに、右足の送りが遅れた大鵬は体が完全に伸びてしまい、それでも必死に左からすくい投げを打ち返して抵抗したのですが、右肘から先に土俵に落ちた。見る角度が悪かった式守伊之助の軍配は大鵬に上がったが、物言いがつき、協議の結果、「行司差し違い」で北の富士の勝ちとなり大鵬は2敗に後退、柏戸に一歩リードを許しました。
“左四つには組める。組んだら 大鵬が形を整える前に すぐ攻める”
という “ 大鵬攻略法 ” を会得した!と確信した北の富士でした。
一方の大鵬もさらなる工夫を重ね「負けない相撲」を確立していったので、この後、北の富士は大鵬戦で負け続けることになります。
・・・昨日のNHK特番での北の富士さん、若々しい相撲っぷりで、腰高ながら攻めか早かったですねえ。
北の富士さん 会心の一番 (参
大横綱大鵬から金星獲得。
昭和40年五月夏場所での、北の富士さん生涯唯一の金星でした。
この夏場所二日目、結び前の一番。
4横綱揃った場所でしたが、この日は、栃の海と柏戸が相次いで敗れ、次いで登場した大鵬に挑んだ東前頭三枚目・北の富士。
場所前に、若羽黒に唆されてハワイ巡業で買って不法に持ち帰ってきた拳銃を本所警察から咎められ意気消沈・稽古に身が入らなかった大鵬と柏戸。
実は、それは北の富士も一緒で、若羽黒が暴力団に頼まれて持ち帰り渡した為に発覚、逮捕と報道され、一緒に買って帰ってきた北の富士が怖くなって親方九重に申告。九重(元横綱 千代の山)が慌てて協会へ届けたので問題となり、共犯の柏鵬は両国橋から隅田川に投げ捨てた。拳銃は自重で川底のヘドロの底へ沈んだようで発見出来ず。大鵬・柏戸・北の富士は書類送検。協会からの処分はなし。
という騒動があったばかり。
現在なら協会の看板横綱二人のスキャンダルで大々問題となるはずだが、協会が本所警察に先に先に手を打ち、新聞の社会面の端っこに小さく10行ほどのニュースで済んだ。まあ、緩い時代でした。
さて、北の富士唯一の金星ですが、
そんなこんなで稽古不足の大鵬に挑む北の富士。北の富士も本所警察から説諭されたが、あまり物事を深刻に考えないタイプな為、稽古は十分。
立ち合いでいきなりお互い得意な左四つとなったが、北の富士がすぐに動いた。がっぷり引きつけ合う状態になる前に北の富士が突進。前に出ながら右上手投げを打ち、左すくい投げで堪えようとする大鵬へ、右足を飛ばして外掛け。「前へ出ながらの外掛け」は北の富士の十八番。大鵬は尻餅をついてしまいました。初金星にして最後の金星。
早くに三役に駆け上がり大関昇進を果たす=出世の早い力士は金星が少ないものですが、北の富士さんもそのひとりでした。
ちなみに、
昭和以降、スピード出世の横綱の金星は
玉錦1個(宮城山から)
双葉山1個(武蔵山から)
羽黒山 0、
照國1個(男女ノ川から)
栃錦1個(東富士から)
柏戸 0、
大鵬1個(朝汐から)
輪島 0、
北の湖1個(北の富士から)
貴乃花1個(千代の富士から)
朝青龍1個(武蔵丸から)
日馬富士1個(朝青龍から)
白鵬1個(朝青龍から)
昭和以降1位タイのスピード昇進でした。
温故知新・大相撲カレンダー
5月24日
2000平成12年 5月24日
夏場所で11勝を挙げ、三場所合計34勝の好成績にて、幕下60枚目格付けだしでの初土崩からわずか12場所で雅山が大関に昇進しました。
北の富士さんの時代に活躍して横綱寸前までいった豊山(引退後は時津風として協会理事長も務めた)と並ぶ、昭和以降1位タイのスピード昇進でした。
この三場所で、貴乃花には3連敗したものの、他の横綱(曙や三代若乃花)にも1度ずつ土をつけ、すぐにも横綱かと期待されたが、
新大関の名古屋場所で、栃東戦で右肩を負傷して苦しみ、6勝9敗での負け越し、秋場所以降、8勝7敗、9勝6敗、8勝7敗、7勝8敗、9勝6敗、7勝8敗と低迷し、平成13年秋場所で3勝6敗となった段階でカド番脱出を諦めて途中休場、翌場所での10勝→大関復帰に懸けたが、全休してしまい、大関に返り咲くことはできませんでした。期待に反して大関で二桁勝利が一度もなく、大関在位わずか8場所は歴代ワースト3位の短さでした。
実は、大関昇進を諮る理事会において、満場一致ではなく3名の反対票があり、同じ部屋の横綱武蔵丸や大関出島・大関武双山らとの対戦がないことから昇進は時期尚早と不安視する声が3票もあったが、多数決でぎりぎり大関にあがったのでした。
貴花田や若花田にも、大関昇進や横綱昇進のハードルは高かったですが、若貴に辛すぎるという苦情の多さから、出島、雅山に多少甘かったというのが、短命大関につながってしまったという見方が強い。
大関から陥落後、10年以上も幕内を続け、関脇にも何度もなっていました。
あっという間に上に上がって、あっという間に落っこちて、それからも関取として頑張っていたんですね。
力士・親方のテレビ出演情報
NHK ①
大相撲特別場所~テレビ桟敷へようこそ~「歴史彩る横綱全盛期」
2020年5月24日(日) 15時05分~17時15分
今日から3週連続で日曜の午後、懐かしのフィルムを放送してくれます。
中止になった大相撲夏場所に替わって「特別場所」を開催!懐かしい名力士たちの映像を振り返ります。
現役力士もリモート出演!横綱・鶴竜、新大関・朝乃山が近況を語る!
第1週は昭和62年放送「大相撲この一年 燃える九重名コンビ」と平成16年放送「大相撲この一年 激闘 新たな夢へ」をお送りします。千代の富士、北勝海、朝青龍…若き白鵬、稀勢の里の姿も。さらに現役力士もリモート出演!横綱・鶴竜、新大関・朝乃山が近況を語る!北の富士&舞の海も電話で出演します!
ゲスト
朝乃山英樹,北の富士勝昭,舞の海秀平,鶴竜力三郎,芝田山康
北の富士さん 会心の一番 (弐
新入幕で大活躍の新鋭北の富士
1964昭和39年1月初場所、前場所で十両5枚目での15戦全勝優勝を遂げ、初土俵以来まる7年かかって念願の新入幕を果たした北の富士。
初日から五連勝のスタートダッシュ、中盤戦で巨漢の若見山と入幕2場所目の新進気鋭・清国に屈したが、終盤に入ると、十日目にベテラン鶴ヶ嶺・さらに開隆山・豊国・明武谷・羽黒山といった実力者たちを持ち前の速攻で下し、千秋楽を迎えて12勝2敗。
千秋楽の一番では、関脇経験者の若秩父に挑んだ。
若秩父はここまで7勝7敗、給金相撲で、三役復帰を目指していた。
しかし、西から上がった北の富士は、立ち合いで突っ張って、長いリーチを使って左四つに組みとめると、ひと息入れる間も無く寄り立てる北の富士、土俵際でこれを堪えようとした若秩父。
しかし、(後に北の富士の得意技となる)寄り立てながらの右上手投げをみせると、若秩父はたまらず横転してしまい、北の富士の勝ち。
この場所は、千秋楽まで横綱大鵬と並び初日から破竹の14連勝して清国の活躍の陰に隠れた形になった北の富士でしたが、前場所の十両での15戦全勝に続いての新入幕での13勝 という、それはそれは素晴らしい成績を挙げた北の富士でした。
北の富士さんの現役時代の映像って、
貴ノ花との「庇い手・つき手」問題となった一番をはじめ、若浪に吊り出された一番とか、ばかりで、
北の富士さんが圧勝した映像をなかなかNHKさんは流してくれません。
夏場所中止で、外出自粛で、在宅時間も長い毎日。
ここで、北の富士さんが快勝した相撲十番を厳選し、プレイバックしてご紹介します。
北の富士さん 会心の一番 壱
まずは、
1963昭和38年九州場所において、
大相撲史上3人目の十両15戦全勝優勝を遂げた北の富士、その千秋楽の一番。
十両になって5場所目、初日から左四つに組みとめて、速攻で前に出ながらの左下手投げや、同じく出ながらの外掛けで勝ち進みストレート給金、九日目に後にライバルにして盟友となる玉乃島を吊り出して9連勝。終盤も外掛けが冴え渡り、とうとう 14連勝。
そして、千秋楽。なんと幕内力士の廣川が当てられ、幕内の土俵入りのあと、最初の一番に登場となりました。
仕切りの最中に緊張感を見せなかった北の富士でしたが、最後の塩で大きく深呼吸。さすがに緊張していたのかもしれない。
立ち合いでは互角に当たったが、10cm近く背の低いアンコ形の廣川はそもそも重心が低く、さらには前傾姿勢で当たってきたので北の富士の突っ張りがやや空振り。上体が起きかけた北の富士でしたが、ここで片足をひいて腰を落とし、おっつけながら出ようとする廣川の両腕(りょうかいな)を下からあてがうようにして攻め立て、堪える廣川を押し出した。
これにて、栃光・豊山以来の、史上三人目の十両15戦全勝優勝を達成したのでした。