大相撲のコメント部屋

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大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,656件 』

  • 投稿者:KON

    5月29日は 今から七年前になくなった 昭和の大横綱 大鵬の誕生日。 ご存命なら80歳 でした。
    その大鵬との思い出は、北の富士さんもたくさん引き出しがあり、今朝も 出羽海部屋との別れから 大鵬さんとの思い出まで筆をすすめたようです。

    全盛期の大鵬関に7連勝「参った、北の富士。元気だな。今日は負けた」私に言ってくれた

     つらく悲しい結果となってしまいましたが、出羽海親方(元幕内出羽ノ花)と私には楽しかった思い出はたくさんあります。幸い、あと5日間残っているので、ぜひ書き残したいものです。
     それでは昨日の続きです念願の独立がかなった新生・九重部屋は春場所に向け、大阪に乗り込みました。大阪は親方のおかみさんの里で、父君が宗右衛門町に大きな割烹料亭を経営しておりました。大変顔の広い方で大阪ではちょっとは名前の知れた人でした。ご自身も若いころは草相撲で大いに鳴らしたものらしいです。また大阪溜会(東西会)副会長もやるほど相撲好きな人でした。
     千代の山関(九重親方)も若い時からお世話になっていました。要するにタニマチです。そして千代の山関に長女のおかみさんを嫁がせたのです。おかみさんはまだ大学生で、力士との結婚は望んでいなかったそうです。千代の山関に押し切られたとも言ってましたが、本当はどうなんでしょうか。

     少し寄り道をしたようです。大好きな相撲ができるだけでもうれしいのに、今回は自分の部屋を持って大阪入りしたのだから、もうたまりません。宿舎は上本町のお寺さん。このあたりは寺町で多くの相撲部屋がありました。九重部屋の右隣に高砂部屋があります(現在でも高砂部屋がお世話になっています)。九重部屋の左隣はなぜかラブホテル。変な感じでしたが、ぜいたくは言えません。小さいお寺で親方だけが個室で、あとは関取も若い衆も雑魚寝を余儀なくされました。
     部屋の稽古場はありましたが、私は連日出稽古。高砂部屋が多かったのは言うまでもありませんが、ある日、思い切って大鵬さんの胸を借りるべく二所ノ関部屋に行きました。今では出稽古は当たり前のように行えますが、あのころは一門以外に出稽古は行なわれていなかったと思います。
     大鵬関は6連覇中。まさに破竹の勢いである。おそらく大鵬関にとっても全盛期と言っていいでしょう。その日は体調もよく、いつもより体が動く。大鵬関が土俵に入る。夢中で胸を目がけて突っ張り、動き回って大鵬関を少しでも追い詰める。それだけを考えて挑みました。

     その気力が通じたのか大鵬関にあろうことか7連勝。そして大鵬関が「参った、北の富士。元気だな。今日は負けた」と言ってくれたのです。
     私は自信というより大きな手応えを感じたものでした。
    続きはまた明日

    ・・・稽古場とはいえ、同じ相手に7連敗するとは、大鵬も自身の衰えを自覚したでしょうし、相手を褒めるしかなかったのでしょうねえ。
    強い横綱に勝つには、とにかく横綱が態勢を整える前に、先に先に攻める。
    これ一点なんでしょうね。

  • 投稿者:匿名

    元十両の徳真鵬が引退しました。
    夏場所を最後の場所と決めていたそうです。

  • 投稿者:KON

    北の富士さんの回想コラム のつづき

    新生出羽海の快進撃が続きます。
    佐田の山関が入幕3場所目で12勝3敗で初優勝を果たしたのです。次は横綱昇進と部屋の士気はいやがうえにも盛り上がってきます。
     出羽錦関と大晃関は佐田の山関が昇進するまでは引退はしないと老体?にむち打って頑張ります。その甲斐あってか佐田の山関は1965(昭和40)年初場所後、宿願の横綱昇進となったのです。
     大鵬、柏戸全盛時代に小兵にも近い佐田の山関の昇進はわれわれ若手にも大きな刺激になったのです。一方、私も1963(昭和38)年九州場所で十両で全勝優勝を果たし、翌64(昭和39)年初場所に入幕し13勝2敗で敢闘賞。続く春場所は一気に小結にまで昇進しました。平幕知らずの記録として少しは話題になったものです。
     部屋の勢いはとどまるところを知りません。今度は゛北の富士を大関に上げる番”となり、稽古は激しさを増します。佐田の山関の稽古熱心は誰もが認めるところ。1人でも大変なのに一門の栃ノ海関、栃光関にもよく稽古をつけていただいたものです。
     しかし、66(昭和41)年の名古屋場所で思いがけないことが起こりました。この場所は10勝5敗に終わりましたが、私としては2桁の星に満足して大酒を飲んで翌朝遅くまで前後不覚で寝ていました。床山の清さん(床清)に激しく起こされました。「北関、大関昇進です。もうすぐ使者が来ます」。まるでキツネにつままれたようです。
     現在は(三役)3場所で33勝が目安と言われていますが、私は28勝しかしていないので昇進するわけがないのです。したがって名古屋で勝っても昇進は無理と思い、紋付きの用意もしていなかったのです。さあ大変。佐田の山関に紋付きは貸していただいたので間に合いましたが、白足袋が合いません。私はバカの大足で佐田の山関のでは入りません。そうだ、近くに柏戸関の部屋がある。お願いすると快く貸してもらえました。
     大慌てで床清さんにまげを結ってもらい、ようやく伝達式を迎えることができました。本来は師匠とおかみさんが同席するのですが、佐田の山関に代役を務めていただきました。現役の横綱の立会人はおそらく初めてで、今後もないと思われます。
     まさか28勝で大関昇進とは、さすがに恥ずかしさはありました。いろいろと嫌なことも言われましたが、初代若乃花関も28勝で上がったと聞きホッとしたものです。将来性を買ったとも言われましたが、もしそうだとしたらありがたいことです。
     あの当時は玉の海、琴桜、清国、麒麟児、明武谷、開隆山、そして私が「七人の侍」と言われ大関先陣争いを展開していましたが、10勝を3場所続けるのは至難の業だったのです。考えてもみてください。上には大鵬、柏戸、栃ノ海、北葉山、豊山。佐田の山関は同部屋だから対戦はしなくて得をしたが、このそうそうたるメンバーを相手に勝ち越すだけでも大変なことでした。それに私自身が次男坊的なところがあり、さほど大関に上がりたいとも思っていなかったところがありました。
     まるで棚からぼた餅のような大関昇進でしたがこれで横綱、大関がそろい、福の花や松前山、巨漢の義ノ花の若手たちも幕内に上がってきていました。出羽錦関と大晃関はさすがに引退されましたが、小城ノ花、金乃花、常錦関らベテランが若手の指導を熱心にして出羽海部屋は押しも押されもせぬ存在となったのです。そして次は「北の富士を横綱に」が合言葉になってきたのです。ところが……。
    どうやら紙面が尽きたようです。続く

    北の富士場所も9日目です。
    それにしても゛北の富士場所”とはどなたのアイデアですか?
     2日目の1面の見出しを見た八角部屋の若い力士たちは、北の富士が花札賭博で捕まったと、大騒ぎになったようです。  それでは昨日に続きます。幸運とも思える大関昇進でしたが、次の場所から2場所、10勝5敗が続きました。立派な成績とは言えませんが、2桁の勝ち星は大関としても何とか及第点はつけられたと思っています。  
    1966(昭和41)年九州場所と、巡業を終え帰京したころから、千代の山の九重親方から、食事の誘いが続きました。2人きりの時もあり、お客さんも同席することもあります。次第に、いつもは快活な親方に元気がなくなってきました。会う回数も多くなったり、なぜか報道陣らしき車に尾行され始めたのです。  
    場所はどこだったか忘れましたが、親方に呼び出され、2人だけで会いました。そしてこう切り出されたのです。「おれは部屋を出て独立したいのだが、北の富士次第。もしそれが駄目なら、おれはこの世界から身を引く」。驚きより目の前が真っ暗になり、思考が止まりました。
     「考えさせてください」と言うのが精いっぱいで、即答できるはずもありません。確かに私は千代の山関を頼って入門しました。しかし弱い私を大関にまで育ててくれたのは、紛れもなく出羽海部屋です。特に出羽海親方(元幕内出羽ノ花)、おかみさんにはひとかたならぬ愛情を注いでいただき、私にとっては大恩人。部屋を出ることは裏切ること。しかし、千代の山関が存在しなければ、相撲界に入ることがなかったのも事実です。
     悩み抜いて出した結果は「九重親方についていく」でした。私の他にも千代の山関を頼って入門した力士は10人ほどいました。全員が北海道出身で郷土の英雄、千代の山関に憧れてやってきた若者です。幕内の松前山と禊鳳(みそぎどり)。合わせて10人以上が千代の山関と行動を共にするという話はいつの間にか、ついていたようです。松前山だけは私と同意見で散々迷いましたが、松前山も北の富士が行くならと、千代の山派にくみしたのです。しかし、こういう話は必ず漏れるもの。次第に部屋の者も感づき、報道もそれらしいことを書き始めました。
     われわれの決行は67(昭和42)年初場所後と決まりました。そのころは面と向かって裏切り者呼ばわりする関取や親方たちも出てきました。いたたまれない気持ちで何とか初場所が終わりました。最悪の体調でしたが10勝5敗。今考えるとよく勝てたものです。そしてついにその日が来たのです。 出羽海部屋の大広間に一門の親方と全関取が集まりました。そこに九重親方が呼び出されました。私と松前山は近くの小部屋で待機しましたが、声は聞こえます。
    出羽海親方が「今、九重から独立の申し入れがあったが、一門には常陸山(元横綱)の独立許さじの不文律があり、そもそも自分が連れてきたからといっても、弟子が強くなったから行くとは人道的に許されるものではない。若い力士の将来があるので、本来は首でもおかしくはないが、破門ということで独立を許す」。だいたいはこのような話だったと聞いてます。
     「千代の山この野郎!」「裏切り者!」。この罵声に九重親方は正座をして「寛大な処分、ありがとうございます」と深々と頭を下げていました。私と松前山は2人で出羽海親方にお別れのあいさつに行きましたが、会えませんでした。おかみさんから「親方はおまえたちのことは怒ってはいないから、どこに行っても頑張りなさい」と優しく励ましていただきました。私と松前山は大声で泣きました。
     外に出て10年間お世話になった出羽海の看板に別れを告げ、二度と来ることもない部屋を後にしたのです。それでもいつかは破門が解け、戻れることを願ってもいました。こうして私の一番長い日が終わったのです。今思い出しても目頭が熱くなります。
    お世話になった親方夫妻と佐田の山関は今はいません。さびしいです。

    ・・・北の富士さんが ちょっとおセンチになっちゃうのが、やっぱり出羽海部屋から九重部屋への独立の時の話ですね。

  • 投稿者:KON

    6月1日
    今日は、“ 小さな大横綱 ” 元千代の富士の誕生日でもあり、不肖私めの64回目の誕生日でもあります。

    今朝(6/1)の読売新聞スポーツ欄に「日本相撲協会動画投稿サイトのYouTubeに開設してる“親方ちゃんねる”で 誰でも閲覧できる〝 普段は聞けない親方衆の秘話 〟が満載!と紹介しています。
    NHKでの解説とは違った、肩の力が抜けた会話が楽しく、元稀勢の里(荒磯親方)が新弟子時代当時、同じ年の入門で高校時代けら活躍していた豊ノ島(井筒親方)や琴奨菊に稽古で惨敗し続けた逸話を披露し、『二人の凄さを知らず、悔しがったのが、後々良かった』と懐かしみ、さらに、現役当時に度々指摘された 仕切りで腰を振る癖についても言及し、『 若い頃から無駄な動きがありましたねぇ。自分は、結構、腰を振るタイプなんで 、はい 』 と答え、進行役の若手親方の爆笑を誘った。

    また、元豪栄道(武隈親方)は、捨て身の首投げについて進行役親方から訊かれ、『 悪い癖 と散々批判されました。』と振り返りながら、『 内容で負けている相撲でも、白星を取ると乗っていける。角番で優勝した時も首投げで2番勝った。もう少し評価してくれないかな』といたずらっぽく笑った。

    元嘉風(中村親方)は、2017平成29年九州場所での白鵬戦での秘話を披露し、
    “ 待った ” と自己判断して 力を抜いてしまった横綱を一気に寄り切った取組で、白鵬が立ち合い不成立を主張し土俵下で抗議して物議を醸した一番。『実は、その前の対戦であたっていかない立ち合いを実践したら俵までしか押されなかった』と、踏み込まない立ち合いで横綱を惑わせた。 翌日、「強いお相撲さんや)と白鵬に言われた後日談も明かした。

    是非一度、このサイトをご覧になってみてくださいね。

  • 投稿者:KON

    北の富士さん 会心の一番 (拾弐

    1972昭和47年九月秋場所千秋楽

    盟友玉の海の急死で、相撲を取る気をなくしていた北の富士。稽古にまったく身も入らず。当然、この年の初場所は星が伸びず、終盤に休場して 7勝6敗1不戦敗1休み。三月春場所は9勝6敗。五月夏場所は序盤中盤と負けが込んで3勝5敗。どこも悪くないのに勝てない北の富士はかかりつけの医者に相談し「不眠症」という診断書をゲットし九日目から休場。七月名古屋場所は休場届けを出して全休。
    気分転換にハワイでバカンスを楽しんでいたが、サーフィンに興じているところを観光客が写真に撮影、これがハワイの地元紙に「相撲レスラーのグランドチャンピオンは運動神経抜群」と載ってしまった。
    日本の週刊誌がこれを面白おかしく載せた為に、早速、協会の知るところとなり、呼び戻されて幹部たちからきつくお叱りを受けた。
    名古屋場所を全休し、巡業では一転 奮起、ついに、双葉山・大鵬に次ぐ 大相撲史上歴代で三人目となる、“ 3度目の15戦全勝優勝 ” 達成した一番。

    ひとり横綱として臨んだ北の富士はこの場所の八日目に、初土俵から三年目で昇り竜の如く番付を駆け上がり、大関獲りの場所を迎えて初日から勝ちっ放しと絶好調の天才輪島と対戦。しかもこの日は天覧相撲。天覧用に、ここまで7戦全勝同士の対戦が組まれたのです。
    時間いっぱいで、立ち合い、
    頭を低く下げて出る輪島に対し、激しい突っ張りから左四つにつかまえた北の富士。
    いったん がっぷりになったが、輪島の右上手を切って十分な構えとなった北の富士は、輪島の得意な左下手投げを警戒しつつ、右足に重心をかけながら正面土俵際へ寄り立てた。堪える輪島、これを右から切り返して崩す北の富士。ややもつれて俵をつたって西の土俵際へ逃げる輪島。最後は双差しとなった北の富士が右からのすくい投げで勝利した。
    左下手投げで “ 黄金の左 ” と後に言われた輪島、この輪島が相手力士に右すくい投げで敗れた というのは、この北の富士戦以外にはほとんど記憶にありませんね。

    北の富士は後半戦も、前に出ながらの上手投げ( 別称:北の富士スペシャル)が冴え渡り、大関戦をすべて勝って、ついに、双葉山・大鵬に次ぐ史上三人目 となる 3度目の15戦全勝優勝を遂げたのでした。

  • 投稿者:SAI

    昔の相撲はモンゴル相撲のように
    ガップリ四つに組んで投げや足技で
    勝負していたように思います♪
    白黒の時は街頭テレビで見ていたそうですね♪
    ソップ型の体系でカッコイイです♪

  • 投稿者:KON

    NHKの特番 「大相撲特別場所」
    ご覧になりましたか?

    北の富士さん、若かったですねえ。
    北の富士スペシャルとも言える 前に出ながらの右外掛け。凄まじい威力ですねえ。

    栃若の千秋楽全勝対決に、時津風理事長(元双葉山)が行司だまりの横にどっかり座って勝負を見極めていたという 昭和以降の大相撲では最初で最後ともいえる珍事でした。
    特等席もいいところですね。

    栃と若、大鵬と柏戸、北の富士と玉の海、 やはり強いライバルが土俵を引っ張るのが、大相撲の人気上昇につながりますね。
    その昔の、谷風と小野川、常陸山と二代梅ケ谷、栃木山と盟友大錦(卯) もそうだったようです。
    雷電や初代梅ケ谷、太刀山、双葉山、千代の富士などのように一人だけ突出して強いと、盛り上がりが今ひとつ となるようです。

    NHK特番は来週に 第三部、日曜の夕方に放送されます。
    仕事で見られそうにありません。
    残念無念。  
    お腹痛くなっちゃったら休めるかな?

  • 投稿者:KON

    前回の項で、大相撲史上 北の富士さんだけが達成した輝かしい記録をご紹介しましたが、
    以前、平成13年秋場所千秋楽でしたか、中継での解説の際に、同一対戦最多の記録を、武蔵丸対貴ノ浪に抜かれたことで、『私の残した記録なんかほとんど抜かれて、唯一の記録が、清国との対戦回数だったのに、今日抜かれちゃったよ』と寂しそうにおっしゃってましたが、
    この記録があったじゃないですか。
    他にも、北の富士さんが歴代1位の記録ってまだまだあると思いますので、時間がある時に探して資料を覗いてみます。

    北の富士さん 会心の一番 (拾壱

    2度目の全勝優勝

    1971昭和46年九月秋場所千秋楽。結びの一番。

    立ち合いから 北の富士が激しく突っ張ると玉の海もこれに応じ突っ張り合いとなった。
    しかし、突っ張り合いには 一日の長 がある北の富士が得意の左四つに組み止めた。
    しかも、玉の海に上手を取らせない。右四つの型を完成させていた玉の海だが、左四つでもなんとか相撲を取れる。しかし、自分だけ上手をとれないとなると話は別。態勢をよくしようと上手をさぐる玉の海。
    ここで、北の富士は、軽く右上手投げをみせておいて右上手をグッと引きつけた。さらに休まずに玉の海の左足に右外掛け、足腰のよさこの上ない玉の海が堪えんとすると、左差し手を返したまま一気に寄り立てた。
    それでも堪える玉の海を右上手投げで仕留めたのでした。
    こうして盟友玉の海 を右上手投げで下して、2度目の全勝優勝達成。
    力の限りを尽くした玉の海でしたが、実は、この時、玉の海は体調不十分この上なかった。
    六月に盲腸炎を起こし、医者から言われた本場所休場につながる 盲腸炎の手術を避け、薬で散らし続けて名古屋場所にも出場していたのでした。
    同じ二所一門で若い頃から可愛がって育ててくれた恩人・大鵬の引退に伴う「横綱大鵬引退・一代年寄 大鵬 襲名披露相撲」にて、太刀持ちを務めるには、直前の場所で休場すると、引退相撲に参加できないという、角界ならではの不文律がある為、なんとしても休むわけにはいかなかったのです。
    場所後の10月2日に行なわれた 大鵬の引退相撲土俵入りに、露払いの北の富士とともに太刀持ちを務めあげた玉の海でした。
    しかし、
    晴れ舞台に太刀持ちを務めた九日後の10月11日に、虫垂炎から腹膜炎をこじらせ、急逝してしまいました。

  • 投稿者:KON

    北の富士さんの回想録が記事になっていますね。
    二日分をまとめてご紹介します。
    師匠、出羽海秀光(元横綱常ノ花)の協会葬が1960(昭和35)年12月26日、盛大に執り行われた。協会の全力士が足のついている花を2人で1台ずつ持ち、両国の出羽海部屋からおよそ2キロの蔵前国技館まで整然と歩いて行く。先頭が式場の国技館に着いても、最後尾はまだ部屋の前で足踏みをしていたというのだからすごい。
     その日のために若者全員に新調の着物とはかまが用意されていた。協会葬を1回やれば、その葬儀屋さんは1年間食べられたと言われたものだ。いかに出羽海秀光が偉大な存在であったか、お分かりいただけたと思います。
     年が明けると、すぐ初場所が始まります。正月の2日間だけ休んで、初稽古が始まります。いつも協会で見る親方は三つぞろいのスーツにちょうネクタイが多かったのですが、その日は羽織はかまの正装で、緊張された表情ながら毅然(きぜん)として稽古を見ていたのは今でも忘れません。
     新親方は名門出羽海の再興には並々ならぬ覚悟と綿密な計画があったと思われます。まず一番先に手をつけたのが古参の幕下力士の存在です。稽古もしないで新弟子をこき使う、いじめる。こういうやからがいると部屋のためにならないと判断し、全員を集めて「うちの部屋は下宿屋ではない。稽古をしない者は即刻やめろ」と言い渡したのです。
     昔の古株の幕下は本当に悪いのが多かったのです。私も入門してすぐ幕下の兄弟子から呼び出されました。優しい声で「遠い北海道からよく来たね、頑張りなさい」。ここまではいいのですが「ところで餞別(せんべつ)とか、お金持ってるね」。つい「はい」と言ってしまうと、「そのお金すぐに返すから貸してくれ」。まるで魔法にかかったように腹巻きの中の金を全部持っていかれました。
     当然、返してもらえません。出羽海部屋の幕下といっただけで他の部屋の幕下はビビリあがったといいます。ほとんど十両の関取と同等のようでした。この人たちがいなくなったらどんなに楽だろうと、常々みんなで話し合っていたくらいです。
     それを親方が一番先にやってくれたのです。10名近くいた古株の兄弟子が一挙にいなくなった時は、みんなで万歳三唱して喜びました。親方のことだからただ追い出すのではなく、当座の暮らしに困らない程度のお金は渡していたと、事情をよく知る人は言ってました。
     次に手を打ったのは食事。力士は基本的には昼と夜の2食である。朝は激しい稽古の前に腹に物を入れてはいけないと言われ、昔から2食と決まっています。それを朝はバナナ、牛乳、セロリを食べるようにしてくれた。前にも述べたように昔はみんなやせてました。古い兄弟子にこき使われ気を使って太れない。まず体を大きくすること。若いわれわれは大喜びであった。バナナなんて当時は高級品である。今まで丸々1本食ったことがない。牛乳は子供のころよく飲んでいたので、それほどうれしくもなかったが、体が大きくなると我慢して飲んだらうまかった。やっぱり東京の牛乳はうまいなと思いました。でもセロリは駄目でした。変な臭いと妙な味は苦手で、うまいとお世辞にも言えなかったし、今でも嫌いであります。
     改革はまだあります。稽古が一日2度になったのは驚きました。稽古は1度と江戸時代から決まっているのに、今度の親方は何を考えているのだろう。稽古嫌いの連中はブツブツ文句を言っていたものです。改革はさらに続きます。今日はここまでにしましょう。連日つまらない話で申し訳ありません。

    ちゃんこの中身が変わった!稽古も1日2回に変わった!体が大きくなり番付は上がった!3年で部屋が活気づいた新出羽海親方の大改革

     今日もいい天気です。というより暑いくらいですね。東京はまた新しい感染者が20人以上も出ました。心配です。私のような老人にとっては生きた心地がしません。というのはうそです。私は元気いっぱい。部屋中トレーニング器具だらけです。コロナなんかに負けてたまるかです。ご心配無用。  
    それでは昨日の続きをします。稽古は早朝5時ごろから始まります。12時前に終わり、風呂に入り、ちゃんこ、つまり昼食を済ませると大概の関取衆は午後4時まで昼寝をします。飯を食って寝る。これで体を大きくするのです。一般の人なら「食っちゃ寝」をしたら怒られるところですが、力士にとっては大切なんです。むしろ義務付けられていると言っていいでしょう。  
    ところがわれわれ若い者はそうはいきません。部屋全体で100人もの人間が食事をするのですから大変です。それに自分らの順番が来ても鍋は空っぽで汁ばかり。その汁をご飯にぶっかけて食べるのですが、それでは太るわけがありません。そこに目を付けたのが新出羽海親方(元幕内出羽ノ花)でした。
    (新体制となった出羽海部屋では)まず、ちゃんこの内容が一気に変わりました。
    それまでは魚ちゃんこが多かったのですが、ふんだんに肉が食えるようになったのです。  鳥でも豚でも牛でも不自由することがありません。若い力士たちの稽古に力が入るようになってきたのは言うまでもありません。そこで、ころはよしとばかりに夕方からの稽古が始まりました。
    千代の山関が引退し、ベテラン関取も次々と引退し、名門・出羽海部屋も名ばかりの状態でした。有望な若手といえば十両の佐田の山関ぐらいなもので、後に続く者は皆無といってよかったと思います。  私はまだ三段目あたりでウロウロして、将来性は全くなし。兄弟子から「早くやめて田舎へ帰った方がいいぞ」と言われ続けていたくらいです。その私と同じようなのが10人近くいたでしょうか。みんな私と同じでとても強くなれるヤツはいませんでした。ところがそんなヤツに目を付けたのが新親方でした。  全員小さくてまだ弱いが十代と若く、体が大きくなれば何とかなると考えたのだと思います。それから一日二度の稽古が始まったのです。
    最初は渋々だったのですが、稽古を終えると、上等なすき焼きや刺し身に冷えたビールが飲み食い放題(今ならいけません、未成年に飲ませては)。時々、小遣いもくれるのです。  これで頑張らないやつはバカです。少しずつ体も大きくなり、番付も上がってきて、私は1963(昭和38)年春場所に十両昇進したのです。続いて関脇まで上がった福の花、幕内の松前山、伊達錦、代官山と10名近くが次々に十両に昇進したのです。わずか3年で部屋は一気に活気づいて、いつしか、斜陽・出羽海の汚名も消え去ったのです。それでは7日目はこれにて終了。
    まだまだ話は続きます。
    ・・・北の富士さんがセロリが苦手という部分に、大笑いしてしまいました。私と同じ!
    生でも煮ても駄目なんです。
     ちゃんこ鍋に残った汁を飯にかけて食べる というのは、元大ノ海が独立して興した花籠部屋(大ノ海道場→芝田山部屋→花籠部屋へと改称)で育った初代若乃花の回想記にも出ていて、「土俵の鬼 若ノ花物語」と題した日活映画にもなり、ビデオで何度も見ました。 
    強くならなきゃ美味い飯は食えない → だから稽古する という ・・・これは、当時の角界の常識で、親方たちがそうやって大きくなって強くなっていたから若い者にも踏襲させる。昭和30年前後にはそれで通じたのでしょうが、やはり肥満になり過ぎない程度に食べて、稽古で汗を流し筋力をつけて足腰を強くしていくのが先 というのを、元出羽ノ花の出羽海親方が初めて、角界内に広まり徐々に浸透していったそうです。
    北の富士さんが、もし、入門が5年早かったら、(五年前に生まれていたら) 幕下に上がる前に荷物をまとめて北海道へ帰っていたのでしょうねえ。
    今日の夕方のNHK、大鵬柏戸、ライバル玉乃島と熱戦を繰り広げる北の富士さんの颯爽とした現役時代が放送されると思います。
    必見です・・

  • 投稿者:KON

    念押しですが 明日の 夕方、NHK。

    力士・親方のテレビ出演情報

    中止になった夏場所に替わって「大相撲特別場所」を3週にわたって放送!
    第2週は   しのぎを削ったライバルたちの物語。
    現役力士もリモート出演。北の富士も電話出演します!.

    中止になった夏場所に替わって「大相撲特別場所」を3週にわたって放送!
    明日の夕方
    第2週は昭和63年放送「名勝負 栃錦・若乃花」と
    平成4年放送「柔と剛~柏鵬の時代(大鵬・柏戸)~」
    「綱とり三つ巴の戦い~北の富士・玉の海・琴櫻~」を再編集して放送されます。

    しのぎを削ったライバルたちの物語とは。

    現役力士も貴景勝・照ノ富士がリモート出演!
    今週も北の富士さんは 電話出演します!
    ゲスト:  貴景勝光信,照ノ富士春雄,北の富士勝昭

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