大相撲のコメント部屋

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大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,656件 』

  • 投稿者:SAI

    6月8日は朝日山親方の誕生日です♪
    現役時代は最強関脇・琴錦さんです!
    平幕優勝2回・F1相撲・何よりも
    右の投げが強く他の格闘技の選手達も
    驚いていた上でほめていました!
    大相撲がっぷり総見という番組も面白いです♪
    これからも頑張って下さい♪

  • 投稿者:KON

    北の富士さん 会心の一番 (拾伍

    実はこれは、北の富士さんが負けた一番です

    しかしこの一番、勝負を終えた北の富士さんの表情は、とっても晴れ晴れしていました。

    昭和46年七月名古屋場所千秋楽

    東から北の富士、西から玉の海。
    玉の海はこの場所も初日から安定感抜群、危なげなく勝ち進んで 14連勝。
    一方の北の富士は、、、これがいけません。初日の高見山戦で腰高のまま不用意に寄って出て、さらに腰高の高見山に土俵際でうっちゃられる敗北。五日目は小結の貴ノ花に吊り出されてしまった。さらに十一日目にも長谷川に吊り出され、十二日目にやっとこさ勝ち越したものの十三日目に大麒麟、十四日目に清国の大関陣に連敗して6敗目。
    そうして迎えた千秋楽。
    しかし相手がライバル玉の海となれば 話は別。控えに座った時からやる気が漲り、「これより三役」土俵入りで大関の清国と前の山を従え揃って四股を踏む表情は、しっかり正面観客席を見据えた、前日までとは別人の北の富士だった。
    立行司 第25代木村庄之助の軍配返って、立ち合い。まず左差しを狙う北の富士、これを左ノド輪で起こそうとする玉の海。ノド輪してくる玉の海の左肘を押し上げてノド輪を外す北の富士。結局、左四つに組み止められた玉の海。北の富士は上手も十分に引きつける。
    一方の玉の海の右上手は一枚まわし。北の富士が先に攻めるが玉の海は反り身になって凌ぐ。上手一枚まわしのまま反って北の富士を吊ろうとする。これを堪えた北の富士でしたが、ここで北の富士のまわしが緩んだ為、立行司庄之助が『まわし待った』
    館内の声援は最高潮となる。
    『大相撲です、大相撲となりました!』と、杉山邦博アナウンサーの声が裏返る。文字通りの「白熱戦!大相撲」
    勝負再開後、玉の海が腰を振って北の富士の右上手を切った。と同時に一枚だった右上手を二枚・三枚と掴んで引きつける。北の富士が長い腕を伸ばして右上手を掴もうとした瞬間に玉が吊り寄りで出る。北の富士が残しながら右を巻き返えに出る。西土俵際に詰まる北の富士だが、徳俵で両足立ちになりながらこれを残す。
    2秒、3秒、、、
    顔を紅潮させて残す北の富士、渾身の力で寄り立てる玉の海。
    177cmで腰が低い玉の海が寄り上げるが、6cmも身長が高く、しかも脚の長い北の富士がつま先立ちで徳俵で乗ったので、二人の腰の位置にさらに差が出て、なかなか寄り切れない玉の海。ここで、右上手から投げを打って北の富士の態勢を崩しながら、ついに白房下へ寄り切った。
    白房下の勝負俵の外(角俵)の内側=塩を取りに行った時に力士が立つ位置 に立つ 負けた北の富士、勝負俵の内側で北の富士のほうを向く 勝った玉の海。
    「水入り」寸前の大相撲。
    両者とも精根尽き果て汗びっしょり、肩で息をしながら見つめ合う。二人同時に頷き合ってお互いの健闘を讃え合う二人。つめかけた観客の全員が感動し、テレビ画面には勝負を終えたばかりの二人の表情がアップになり、微笑ましい二人の微笑み、頷き合った顔にほのぼのとしたものでした。
    すでに全勝優勝を一度経験している北の富士が、『 嶋ちゃん、お前もやったな!』と、喜んでるような清々しい表情でした。

    まさかこの三ヶ月後に、その玉の海が天に召されるという、ショッキングな不幸が起きるとは、玉の海本人も含めて、誰も考えもしなかったですね。

  • 投稿者:KON

    特別企画 北の富士場所 番外編
    美空ひばりさん、星野仙一さん、スタローン…相撲界に身を投じて63年 忘れがたい人たち
     相撲界に身を投じてから63年。紆余曲折ありましたが、何とかやってこられたのも3人の師匠、多くの兄弟弟子、数少ないファンのおかげであります。
     私がこの世界に入って「よかったなあ」と感じるのは、田舎にいては絶対に会うことのない人を見られたこと。それに外国に行けたことです。
     63年前の北海道は北海道自体が外国でした。東京の人が来たと聞けばみんなで見に行ったものです。「内地の人」と呼んでいました。東京に来るときは決死の覚悟でした。
     当時の出羽海部屋は横綱千代の山関、同門に横綱栃錦関もいたので、稽古場はいつも千客万来、いろんな人が稽古を見に来ます。政財界の偉い人が多かったらしいのですが14、15歳の少年には分かりません。
     映画スターや野球選手が来た時はドキドキしました。中でも、女優さんが来ると大騒ぎです。子ども心にも「きれいだなあ」と思いました。すぐ田舎と比べてしまうのは仕方がありません。高倉健さんが来た時、玄関で対応したのは私です。まだ売れる前でしたが「週刊平凡」などで見て知っていました。背が高く、かっこよかったです。明大相撲部ということで親近感もありました。
     今の松本白鸚、中村吉右衛門兄弟も学生服をきちんと着て、品のいい顔でした。こんな子どもも田舎にはいません。梅宮辰夫さんは千秋楽の打ち上げに来ていました。歌も歌っていましたが、あまりうまくはなかったのを覚えています。まだ大学生だったようでした。お金持ちらしいおばさんと一緒でした。何十年もして梅宮さんにその話をしたら、恥ずかしそうでした。
     一番印象に残っているのは森繁久彌さんです。後援会の人が連れて来られて、ちゃんこをつつきながら酒を飲んでいました。お話が面白く、接待していても楽しかったです。中でも面白かったのは、森繁さんが飼っていた小さい猿の話。森繁さんがウトウトしていると、その小猿がパンツの中に手を入れてナニを触ったり引っ張ったりして、森繁さんのナニが大きくなりました。小猿が驚いてガブリとかみついた。「あまりにも俺のが大きいから驚いたのだろう」。話が抜群にうまいので腹を抱えて大笑いしました。
     どうも品のない話になりました。それでは話を九重部屋の方に移しましょう。千代の富士の人気はすごく、海外にも多くのファンがいました。中でもシルベスター・スタローンが部屋に来た時は大変な騒ぎとなりました。内緒にはしていたのですが、近くの学生たちが勉強を放り出して見に来たり、一般の人も大勢来て警察が出動する始末でした。ハリウッドの女優さん、プロスポーツ選手も多く、枚挙にいとまがありません。
     みなさんは稽古見学でしたが、美空ひばりさんは違いました。三十数年前、5万円のディナーショーを催して評判になったことがあります。今でも5万円のショーをできる歌手はそうはいないでしょう。そのショーを友人に誘われて見に行きました。
     小さい時からひばりさんの大ファンで、映画が出ると、当時は入れ替えもなかったので一日中何回も見たものです。「鞍馬天狗 角兵衛獅子」の杉作少年、「リンゴ園の少女」、「あの丘越えて」、ほとんど見ています。
     素晴らしいショーでした。それが縁で、ひばりさんは東京場所の千秋楽の打ち上げに毎回来るようになりました。大勢のお客にもニコニコ笑って楽しそうでした。
     2回目からは自分の好きな酒を持参するようになり、腰の調子があまり良くないので座椅子も持って来ていました。持参の焼酎を飲む時には歌も歌ってくれました。一度こんな事がありました。若い力士の断髪式がありました。その時、ひばりさんが突然、「私がはなむけに歌を贈ります」と言い、アカペラで歌ってくれたのです。私も初めて聴く歌でしたが、感動的な歌でした。まげを切る力士もお客さんも全員泣きました。そして餞別(せんべつ)をそっと渡していました。
     その後も千秋楽には必ず来ていましたが、だんだんと歩くのも辛そうになってきました。酒も以前ほど飲まなくなります。そして済生会福岡総合病院に入院しました。今考えると、部屋に来るのも実は大変だったと思われます。でも奇跡的に回復し、東京ドームで不死鳥のようにカムバックを果たしたのです。私も最前席で見せてもらいましたが、圧倒的な舞台でした。激しい動きもありましたが、ひばりさんは見事に歌い切りました。最後に100メートルの花道をしっかり歩いて無事終えました。
     あの時の感動は忘れることはないでしょう。あとで聞いた話では、1曲歌うと舞台のそでのベッドに横たわり、酸素を吸入していたそうです。すごい根性です。まさに命を懸けての舞台だったのです。私は千代の富士と北勝海にひばりさんの根性を見習えと言いました。
     今年は没後31年。ひばりさんの訃報を知らされたのはちょうど名古屋場所前の七夕近くの日でした。今でも七夕飾りを見ると、ひばりさんが出てきます。ひばりさんに酒を注いでもらっている写真は私の宝物です。今年も命日が近くなりました。
    最後になりましたが、星野仙一さんも忘れがたい人でした。名古屋の錦のバーで初めて会い、翌朝、大きなマグロ1匹を持って部屋見舞いに来てくれました。やることが男らしい。仙ちゃんは酒が飲めなかったので遊んだことはありませんが、仙ちゃんが引退し、NHKのサンデースポーツのキャスターをしている時、何度か出演させてもらいました。 熱血漢でいつも元気いっぱいだったのに、あまりにも早い死でした。最後に会ったのは大相撲放送のゲストに出てもらった時です。仙ちゃんは早くに奥さんを亡くしています。告別式の時の仙ちゃんの悲しい顔を忘れられません。
     この世界に入って六十余年、なぜか私は生き残っています。亡くなった友人の分も俺は生きます。コロナごときには負けません。みなさんもくれぐれも御身大切にお過ごしください。

    ・・・・やはり、実際の経験から来る人脈と言うか飲食をともにしたという方々の名前の大きさ、単なるスポーツ選手とは大きく異なり、超一流の名がぞろぞろ。単に番組で共演したなどのレベルではない。
    北の富士勝昭 恐るべし。
    健康に留意して、これからも、楽しいお話を教えて下さい。
    今後、名古屋場所以降も、本場所のない偶数月(8月、10月、12月、2月、4月、6月)に、つまり 年間六度の北の富士場所を10日間ほどでもいいので お願いできたらと思います。
    話題は、・・・・
    ・名古屋で経営したキャバレーの話、
    ・50万枚のヒットとなった「ネオン無情」のレコーディング秘話、
    ・十数回も出演した夜のヒットスタジオの話、
    ・「北の富士が口説き落として食べちゃった女優の数がたくさん!片っ端から手を出してやがる」と山城新吾さんがラジオで激怒し、隣の梅宮辰夫さんに『まあまあ、女優が全て新吾のものじゃないんだから、そう怒りなさんな』と、諌められてましたが、そのあたりの話の真偽、 どんな女優さんと仲良しだったのか など 少し艶っぽい話。
    ・「ネオン無情」に次ぐ第二弾はヒットしなかったのか?どんな曲だったのか?
    ・現役当時に北の富士さんの悪口ばかり言ってたテレビ解説担当者玉の海梅吉さんと直接会話したことは?
    ・新横綱として、初めて横綱会に出席した際に、元鏡里や元千代ノ山、元栃錦、元若乃花の前で 同時昇進した玉乃島さんと 前に出て、かくし芸を披露するように指示されて壇上にあがり 玉乃島さんのギター伴奏で歌った曲のタイトルと、その練習は、いつどこでどのくらい練習したのか?
    ・横綱北の富士引退相撲、断髪式、年寄井筒襲名披露のパーティで、髷を落とした直後に白のタキシードで現われ御自分の持ち歌を披露するサプライズ演出で大喝采、 その引退相撲&断髪式の様子を是非。
      (ただし、来場していた春日野理事長が大激怒。力士のテレビ番組出演や副業まで禁じられたとか。)
    ・ご自身が審判長として正面審判席に座っていた頃の記憶に残る一番や当時の力士たちの話。
    ・同期で仲良しだった龍虎さんの話。
    これら。。。。話題はつきないと思いますので、よろしくお願いします。 
    とにかく、北の富士場所15日間+1  ありがとうございました。北の富士さん。  
    七月場所での元気なお姿をテレビで拝見したいと思います。  涼しそうで粋な浴衣姿でしょうね きっと。

  • 投稿者:KON

    夏場所ロスを埋めてくれた「北の富士場所」
    いよいよ千秋楽。

    世間を大騒ぎさせた大鵬さん、柏戸さんのピストル不法所持 師匠の聴取にドキッ… 実は私も持っていたのです

     今でこそ偉そうにテレビで力士たちに注文ばかり言っているが、私ほど現役時代に協会に迷惑をかけたヤツはいないでしょう。
     私と同年配の方ならよく分かっていると思います。休場してハワイに行っていたとか、反社会的勢力の人たちとの付き合いで新聞に大きく書かれ問題になったこともあります。レコード歌手の第一号も私でした。
     中でも一番の大事件は1965(昭和40)年ごろでしたか、ハワイなど海外巡業に行った時にピストルを持って帰ってきていた事件は、世間を大騒ぎさせたのです。ただし、これには私は関わっていないのですが。
     初めは若羽黒(元大関)さんが捕まって、彼の口から大鵬さんも柏戸さんも持ってきたことが判明したのです。当代きっての人気力士のピストル不法所持は大問題となりました。
     ハワイに行くとピストルはワイキキの店で簡単に買うことができるらしいです。隣に射撃場もついていて試射もさせてくれます。まるでゴルフみたいです。(大鵬さんは)横綱といってもまだ若造です。つい好奇心で買ってしまったのでしょう。
     ハワイなどの税関もまさか力士が持ち帰るとは思いませんから、ほとんど荷物の取り調べはしませんでした。大鵬さんは手先が器用でしたから解体して額に収めていたらしいです。柏戸さんは始末に困って隅田川に捨てたと自白しています。警察が大勢で柏戸さんと川ざらいをしていました。とうとうピストルは出てきませんでした。
     出羽海親方(元幕内出羽ノ花)に私は「おまえは大丈夫か」と聞かれました。飛び上がるくらいびっくりしました。実は私も持っていたのです。ウソはつけませんので、正直に白状しました。実は部屋に出入りしていたタニマチの女性にもらった物です。ある日、その女性が稽古と食事を終えて休んでいる自分に「私、フランスに旅行するけど、お土産は何がいい」と聞くので、ふざけてピストルと伝えましたが、本当に冗談のつもりでした。
     10日ほどして、その女性が部屋にきて「ハイ、お土産」と言って、包みをくれました。昼寝して起きてから開けてみるとピストルだったのです。驚きました。本物を見るのは初めてです。2、3日は自分のたんすにしまっていましたが、不安になり九重親方(元横綱千代の山)に預けておりましたと、正直に出羽海親方に申し上げました。
     出羽海親方はすぐに手を打ったようです。どのような手を打ったのかは知りません。根がバカで世間知らずでしたから、自分でピストルを買ったわけでもないのだから、これで一件落着と思い込んでいました。
     のんきなもので私はかねて母が奈良の薬師寺に行きたい、父が  京都の舞妓さんが見たい  と言っていたので、関西方面に行きました。奈良では薬師寺の高田好胤(こういん)管主にも会うことができて、管主のお点前でお茶までいただき、色紙に「心」の一字とサインもいただきました。母はこれで死んでもいいと大喜びでした。私もやっと親孝行ができてうれしかったです。
    それから京都に行き「吉田山荘」という立派な旅館に泊まります。テーブルの上に夕刊が置いていたので何げなく目を通していると、割合に大きく「北の富士に出頭命令」の見出し。私は慌てて新聞を隠しました。その夜はおいしい京料理を食べ、父と2人で舞妓さんを見に街に出ましたが、なかなか出会うことができずに帰ってきました。今なら何とかなるのですが、父は残念そうでした。
     母は寝ずに待ってました。そして私に「おまえも大変だね。でも新聞は一部だけではないよ」と言ったのです。母は偉いとつくづく思いました。
     翌日、帰京し出頭したのは言うまでもありません。しっかり脅されました。1、2時間で済むと甘い考えで行ったのですが、朝9時に出頭して夕方6時まで絞られました。取り調べの刑事さんは2人。一人は優しそうなおじさんで、もう一人は屈強な怖い顔をした刑事。ドラマと同じだなーとのんきにかまえていたら、その怖い方の刑事がいきなり大声で「オイ、北の富士、ここは 下は こそドロから上は大臣まで泣くところだ!」。
    気が弱いのでいっぺんに縮み上がりました。
     そしておまけに「おまえは横綱になったら太刀持ちじゃなくピストルでも持たせるのか」。これにはムッとしました。隠さずに話したら早く帰してやると言われたので素直に話しました。取り調べが終わり部屋のマネジャーが迎えに来てくれた時はうれしかったです。二度と悪いことはしないと心に誓いました。
     厳重注意でその後は何もありません。この件はすっかり忘れていましたが、5年ほど前の新聞を見ると瀬戸内寂聴さんのコラムが載っていたので読んでみました。読んでいると私が何十年も前に経験したようなことが書かれているのです。
     書かれている内容を少し紹介します。話は化粧の素人離れした中年の美女についてであった…。
     “その女性から(瀬戸内寂聴に)松本清張先生と女性のことを伝記にしてくれとの依頼があった。当然断ったのは言うまでもない。その後、その女性は清張先生を助け、大作家になった清張さんに礼を言われた”
     この話だけでも十分面白いのに、私にピストルをくれた女性こそが、寂聴さんが書いた女性と同一人物だったのであります。その女性は寂聴さんも書いていますが、都内のホテルの女性社長で、私も何度か食事に行ってます。そういえば、ある時、清張さんが怖い顔で私をにらんでいたのを思い出します。
     言っときますが、私とその女性は何もないのですから。私が21歳で、その女性は40を少し過ぎていたのではないかと思います。おばさんとしか見ていません。私に選ぶ権利があります。
     私はこの新聞を大切に持っていたのは、いつか寂聴さんにお会いして、この話をしてみたいと思っていたからです。この女性はいったい何者だったのでしょう。すでに彼女は生きていないでしょう。清張さんも故人です。今では私と寂聴さんだけが知り得る怪しい話。どうして全く知らない人間が点と線で結び付くのでしょう。5年も前の新聞の切り抜きに執着する私は変でしょうか。ピストルが取り持った不思議な話でした。(元横綱)
       ◇   ◇
     どうでしたか? 読者のみなさま、楽しんでいただけましたか。初日から、休場なしで千秋楽まで、北の富士さんには存分に暴れてもらいました。でも、まだ読みたいというあなたの気持ちに、北の富士さんが応えてくれました。
    「北の富士場所番外編」あす掲載です。

    ・・・北の富士さんの口から出た ピストル密輸騒動 の裏側。 実に興味深いものでしたねえ。
    御自分で呑気な私が、、、、とありましたが、気分転換が早いのでしょうね、きっと。
    明日の番外編も期待します。

  • 投稿者:KON

    ライバル玉の海が急死…人目も構わず泣きました 夕食もせず泣き続けました。

     横綱への意欲のないままダラダラと大関の座に甘んじているうちに、玉乃島(横綱昇進後に玉の海に改名)、清国 が次々と大関に昇進してくる。その後にも実力派の長谷川、若手の輪島や貴ノ花、大受、末は横綱と呼び声の高い北の湖が続く。仲の良かった柏戸さんが引退。一度も稽古しろとは言われなかった柏戸さんに初めて「北の富士、横綱になれよ」と言っていただいた。この一言と若手の突き上げに、どうやら私は燃えたようだ。

     一門の高砂部屋にも前の山、高見山、富士桜の好力士がいたことも幸いし、自然と稽古に身が入るようになっていく。1969(昭和44)年秋場所に12勝3敗、久しぶりの好成績にがぜんやる気がメラメラと燃えてくる。そして九州場所で13勝2敗、70(昭和45)年初場所で13勝2敗と連続優勝し、玉乃島と同時昇進となったのであります。

     鳴かず飛ばずの長かった大関時代を考えるとあっという間の出来事です。70年春場所、新横綱の私と玉の海そろって13勝2敗。大鵬さんの軍門に下ったのは残念でしたが、横綱の責任は果たせたと思います。続く夏場所で私は初日から快調に飛ばし、14連勝。千秋楽を待たずして優勝を決めています。
     千秋楽は、 ゛憎っくき” 大鵬戦。 ここで負けては男がすたる。決死の覚悟でぶつかり、先に上手を引き、万全の体勢で一気に土俵際まで攻め込みます。「これで勝った」と思いました。しかし、勝利を確信しながら「投げて勝ちたい」と思ったのが大失敗。その上手投げを大鵬さんに下手投げで打ち返され、逆転されたのです。今でもあの一番は悔いが残っています。
    「魔が差す」とはあのことだったのでしょう。
     翌日の新聞に「北の富士、全勝はまだ早い」と大鵬さんがにっこり笑っているではありませんか。あの時の悔しさは一生忘れないでしょう。その大鵬さんも間もなく引退されました。
    その後、(玉の海と)2人で優勝を交互に繰り返し「北玉時代」と呼ばれ始めました。特に玉の海の充実は素晴らしく右四つの型は双葉山の再来とも言われたくらいです。
     一方、私の方は相変わらず成績にむらがあり、乗ると強いが、負け出すと弱いと言われたものです。いずれにしても「北玉時代」の到来でした。しかし「好事魔多し」とでもいいますか、玉の海が急死したのです。71(昭和46)年秋場所後、かねて悪かった虫垂炎で亡くなったのです。
     私は秋巡業で岐阜県羽島市に車で到着したばかり。旅館の前に大勢の人だかり、顔見知りの記者もたくさん来ていました。私はのんびり「俺の悪事がバレたのかな」。にしては…。みんな血相を変えていることに気がつきました。車から降りると「玉の海が亡くなりました。何か感想は」。私はこの野郎、悪い冗談を言いやがると思いましたが、やがて事実を知りました。しばらくの間はとても信じられませんでしたが、事の重大さにも気付かされました。
     人目も構わず泣きました。夕食もせず泣き続けました。私と玉の海は「島ちゃん」「北さん」と呼び合っていましたが、それほど親密な付き合いはありません。一門も違うし、2人だけで飯を食べたこともありません。ゆっくり話ができるのは年に一度の横綱会の時くらいなものです。彼は非常に明るい性格でハキハキ物を言い、よく笑う好青年でした。親孝行で、よくお母さんの話をしていました。酒も飲みませんでした。大酒飲みの私と全て対照的でした。
     もし彼が生きていたら、おそらく大横綱になっていたでしょう。そして私ももう少し頑張れたかもしれません。悲しみの内に迎えた九州場所は心身ともに参ってましたが、優勝することができました。しかし、72(昭和47)年になってからは、故障続きで休場が続きました。その後、2度の優勝はしたものの、すでに現役を続ける意欲はありません。74(昭和49)年名古屋場所初日から2連敗したところで引退を発表したのです。

     横綱の引退は桜の花のように散る。春日野親方(元横綱栃錦)の言葉です。私もそうありたかったのですが、理想通りにはいきませんでした。それだけが残念です。

     奇しくも今年は玉の海横綱昇進50周年追善相撲が故郷、蒲郡で行なわれる予定でした。私も記念講演をする予定でしたが、コロナのため中止となりました。10年くらい前にお参りに行ったのが最後だったので残念です。確か銅像もありましたね。お母さんに建てた家は今もあるのでしょうか。家の壁に「お母さん、ありがとう」と自分で作った焼き物が飾ってあったのを覚えています。玉の海は人間としても素晴らしい人でした。それにひきかえ、俺は相変わらず駄目なままです。

    ・・・・・・玉乃島の訃報が冗談ではないと知った時の北の富士さんのショックは、それは計り知れないものだったと推察します。
    ー・-・-・「島ちゃん」「北さん」と呼び合っていましたが、それほど親密な付き合いはありません。一門も違うし、2人だけで飯を食べたこともありません。ゆっくり話ができるのは年に一度の横綱会の時くらいなものです。-・-・-・と述べていらっしゃいますが、
    当時の月刊大相撲や朝日グラフなどで二人仲良く映っていますし、相撲協会に残る映像でも巡業でのリラックスした二人が談笑したりお互いの浴衣を引っ張りあってじゃれていたり、新横綱として「横綱会」に揃って初出席した際に、元鏡里や元栃錦、元若乃花といったお歴々の前で、新横綱がなにか隠し芸的なものを披露する余興となった際に、玉乃島がギターを弾いて北の富士が歌うという息ぴったりの生演奏を披露。
    春日野親方(元栃錦)が、『 相撲甚句や故郷の民謡ならともかく、ギターで歌 とは・・時代が変わったんだなあ と思ったよ。』
    と自叙伝で語ってましたが、お二人でそうとう練習を重ねたのでしょう。
    そして、当時、ふた班に分かれて巡業していたので、北の富士班の巡業が予定を終えて帰京するばかりだったこともあり、まだ日程の残っていた玉の海班の巡業先に駆け付け、「巡業の華である横綱土俵入り」を、それも玉の海の不知火の綱を締めて不知火型の土俵入りを巡業につめかけて観客に披露したのでしたねえ。

    柏戸関から「横綱になれよ」と言って戴いて、燃えた、奮起したという部分が いいですねえ。
    足袋を借りたからだけでなく部屋も近かった柏戸を「仲の良かった柏戸さん」、一方、同郷なのに なかなか勝てないからか「憎っくき大鵬」とは、これに如何に?

  • 投稿者:KON

    北の富士さん 会心の一番 (拾四

    1960昭和45年九月場所千秋楽

    玉の海、悲願の全勝優勝を阻んだ北の富士さんの会心の一番。

    この場所、横綱玉の海は、初日から出足鋭く、立ち合いで得意の右四つに相手を組み止めて連戦連勝。終盤に入っても、大関の琴櫻・清国を撃破、十四日目には第一人者の大鵬とあたった。意表をついて立ち合いから激しく突っ張り、そしていなした玉の海。左差しを狙ってきた大鵬の左かいなをハズ推し気味に絞って左ノド輪で攻め上げ寄って出て右四つに。先に左上手を取った玉の海が大鵬を吊り上げんとした。これを残して巻き返ようとした大鵬を構わず寄り立て、右外掛けでバランスを崩した大鵬を寄り切って14戦全勝として優勝を決めた玉の海が、いよいよ千秋楽の北の富士戦で初の全勝優勝に臨む。

    一方の北の富士は、序盤に藤ノ川の蹴手繰りに這って土がつき、九日目には出羽海時代の旧友 福の花に敗れ、続く十日目には大麒麟にも敗れで、さらに十四日目に大関琴櫻に出足負けし。ここまで 10勝4敗。
    しかし、千秋楽の玉の海戦では、得意の左四つになって、右上手を引きつけながら休まず攻めた北の富士が、優勢を保つ。左肘を張って北の富士の右上手を切ろうとする玉の海でしたが、北の富士は上手投げや外掛けを繰り出し、玉の海の態勢を崩して、攻め上げ、寄り切り。
    玉の海の全勝優勝を阻んだのでした。玉の海は、翌場所もその翌場所も、初日から14連勝しましたが、ふた場所続けて千秋楽の大鵬戦で敗れ、全勝優勝ならず。
    3場所続けて初日から14連勝で千秋楽に土という珍しい記録となり、泪を飲んだ玉の海でした。

    過去帳を調べてみると
    「14連勝して千秋楽に負け」 が ふた場所以上続いたというのは、やはり 玉の海ただ一人でした。

    白 鵬   2度 把瑠都に負けた。2度目は鶴竜に負けたが決定戦で勝利。
    朝青龍   2度 二度とも白鵬に負けたが、その二度とも決定戦で勝利。
    三代若乃花 1度 武蔵丸に負けた。
    貴乃花   1度 曙に負けた。
    千代の富士 5度 北の湖に負けたが決定戦で勝利(最高視聴率)。 
    隆の里との全勝対決で負けた。
      北尾に負けたが決定戦で勝利、
    大乃国に負けて54連勝ならず。
    前日の14連勝目で肩を脱臼し千秋楽は不戦敗。
    二代若乃花 1度 北の湖に負けた。
    輪 島   1度 三重ノ海に負けたが、決定戦では勝利
    玉の海   3度(これが3場所連続) 
    北の富士、大鵬、大鵬に三場所続けて負けた。
    北の富士  1度 大鵬に負けた。
    大 鵬   2度 二度とも柏戸に負けた。
    初代若乃花 1度 朝汐に負けた。
    栃 錦   2度 二度とも初代若乃花に負けた。

    双葉山、羽黒山、照國、吉葉山、千代ノ山、朝潮、柏戸、佐田の山、栃ノ海、琴櫻、北の湖、隆の里、旭富士、大乃国、曙、武蔵丸、日馬富士、稀勢の里は 
    「千秋楽に負けて全勝を逃した」という経験はありません。

  • 投稿者:KON

    温故知新・大相撲カレンダー
    6月3日
    1967昭和42年6月3日

    蔵前国技館において、第49代横綱の栃ノ海晃嘉(てるよし)が、年寄中立襲名・引退相撲を行ない、露払いを横綱柏戸が、太刀持ちは横綱大鵬が務めた。

    現役横綱が露払いと太刀持ちを務めたのは、この栃ノ海までは慣例となっていましたが、翌年の佐田の山引退相撲では、露払いに福の花、太刀持ちを海乃山という出羽海部屋の後輩力士に努めさせた。

    栃木山→栃錦と続く、春日野部屋の伝統ともいえる、「小兵力士が、技と前捌きで頂点を極めた」技巧派横綱で、第一人者大鵬が苦手意識を持つ唯一の相手でした。
    また、兄弟子だった栃錦のライバルだった横綱・初代若乃花と対戦した昭和37年初場所十日目(栃ノ海は関脇)に、
    左差し手からの巻き落としと右からの突き落とし、そして左蹴返しをほぼ同時に繰り出して土俵中央で横綱を倒した一番が凄かった。
    倒れそうになったら足を出して負けた方がまし  と考えるほど土俵で倒れることを極端に嫌っていた若乃花が、栃ノ海の見事な連続技に屈したのでした。
    「何しろ、それまで土俵の真ん中でこけたことは無かったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんと思った」と若乃花は語り、自身の引退に際しても  『栃関(栃錦関)に外掛けでひっくり返されたことはあったがあれは土俵際。 土俵の真ん中で負けるとは。  押されて土俵を割るならともかく、倒されて土俵で転がってしまうのは一番の恥だ。栃ノ海にひっくり返されたのは参った。俺も焼きが回った!と思ったよ。』と言って、引退を強く意識させた一番だったのでした。
    110㎏という軽量での横綱昇進後、椎間板ヘルニアから坐骨神経痛を患い、苦しい土俵が続いた栃ノ海。8勝7敗が3場所続き、苦労の連続。10勝を挙げた翌場所には、右上腕筋断裂の大怪我をしてしまい、左四つ・右前みつという攻めの型の威力が半減。断裂部を押すと肌が骨に直接あたるという重傷でした。8勝7敗が続いた時にも横綱大鵬を技で翻弄し破っていたが、右が使えないのは技と相撲にキレがなくなり金星配給が多くなって、引退を早めてしまった。

    現在82歳3か月。 横綱経験者最長老として歴代1位の初代梅ヶ谷藤太郎の83歳3か月まであと1年。
     来年の今頃は、横綱経験者長寿記録を更新しそうです。  これを追うのが北の富士さんです。

  • 投稿者:KON

    遊びに遊び…・・・あわや大関から陥落 横綱が見えた途端、悪い虫が目を覚ます 稽古もせずキタや銀座、ハワイに韓国まで

    北の富士場所12日目

     千秋楽の打ち上げパーティーは(当時、難波にあった)料亭「花月」の大広間で盛大に行なわれました。親方にとっては大阪は地元のようなもの。大勢の後援者、ファン、どさくさに紛れて知らない人まで騒いでいます。予想もしていなかった私の優勝をみなさん本当に喜んでくれました。

     翌日の新聞には早くも「北の富士、連続優勝で横綱に昇進か」「準優勝でも内容次第では昇進」の大見出しが躍っています。私も「ヨシッ」と思ったのですが、そうはいきませんでした。この運命の分かれ目のような大切な時に、私の悪い虫が目を覚ましたのです。

     優勝したなら当然、ご祝儀が入ります。相撲に限らず人気商売とはそんなものです。遠慮しても無理やり置いていきます。大阪の人は「どけち」と言う人がいますが、とんでもない嘘です。大阪人は気分がいいと、惜しげもなく金を出す気質を持っているのです。だから大阪場所は大好きです。これは冗談。とにかく驚くほどいただきました。

     後援会の会計の人が翌日持ってきましたが、中型のかばんがパンパンに膨れ上がってました。お金の事を言うといやらしいので余り言いたくありませんが、1967(昭和42)年のころです。

     人間慣れないお金を持つと、とんでもないことになると言いますが、まさにそれです。すでに私は大関で結構な給料をいただいてはいましたが、これほどの現金を見たのは初めてです。これで完全に狂いました。連日連夜、数人のお供を連れ、遊びまくります。飲みにいくと、ホステスがキャーキャー寄ってきます。  もてた! と勘違いし、連日の豪遊が続きます。稽古の事なんぞは全く頭にありません。

     ただれた生活が続き、稽古もろくにしないまま夏場所を迎えます。先場所優勝している変な自信だけはあるのだが、勝てるわけがありません。結果は5勝10敗。見事な惨敗です。普通の人なら、ここで大いに反省するところですが、私には反省の色がありません。また遊びが続きます。北の新地から遊びは銀座に移ります。日本一の歓楽街は男の遊び場の頂点。男と生まれたからには、花の銀座で自分の金で遊びたいと若いころから思っていたので、ようやく夢がかなったと思いました。日本だけでは飽き足らず、ハワイや韓国まで出かけました。

     もう手がつけられません。師匠や友だち、後援会長にまで「稽古をしろ」と説教されましたが、聞く耳を持ちません。遊び疲れて稽古なんかできるはずがない。名古屋場所も7勝8敗と負け越しです。今は連続2場所で負け越すと、関脇に落ちますが、当時は3場所でした。まだわずかに運が残っていたのでしょうか。気がついたらあれだけあった金も底をつきそうです。「土地でも買っとけばよかったかな」。虫のいいことを考えても後の祭り。けつに火がついた私はようやく稽古を再開します。

     相当、体の方はなまってましたが、若いからどんどん持ち直しました。次のかど番のかかった秋場所は10勝5敗ときっちり2桁の星を挙げました。かど番脱出。ちょっと稽古をやれば簡単なものだと、反省の色を見せないのが私の素直じゃないところです。

     今度は遊ぶ金がなくなり、稽古に身が入らないまま大関に3年近く居続けます。記録を見ると、その間、8勝7敗が2度だけで、あとは9勝、10勝、時には12勝の成績を残しているのです。平均すると決して大関として恥ずかしい星ではないのです。最近の大関はかど番が珍しくありません。1場所に1人は必ずかど番大関がいます。それに比べると、私の成績は立派なものです。

     それでも当時の私はすっかり大関の座に満足し、横綱昇進なんかは考えた事もありませんでした。
    まだ26歳(昭和43年ごろ)と若いのに、あのころの私はいったい何を考えていたのでしょう。
    「後悔先に立たず」と言いますが、私は決して後悔はしていません。あの狂ったように遊んだ時代が何らかの足しになったのかもしれません。友だちはみな、そう言ってくれます。それだけで私は救われます。それでは、いよいよ明日は引退日を迎えます。

    ・・・遊びまくった大関時代の心理状態を吐露してくれました。 ろくすっぽ稽古もしないのに、大鵬・柏戸の双璧がいて、出羽海での先輩だった横綱佐田の山がいて、さらにライバルの玉乃島とは勝ったり負けたりの繰り返し。北の富士さんの大関時代にこの3横綱+玉乃島との対戦成績はトータルで 23勝35敗。それなのに、格下力士に負けることが少なかったので、結果、平均してほぼ10勝は挙げていましたね。
    そして、玉乃島ともども、三年半の大関時代に一度も休場がなかったということが、カド番が少なかった要因でもありますね。

    とにかく、北の富士さんが解説でしょっちゅう触れている、今どきの力士の怪我の多さ、休場の多さ、その原因でもある肥り過ぎ、稽古量の少なさ、、、、、 これが、柏鵬時代に上を目指してしのぎを削っていた七人衆と、今の三役陣との大きな違いですねえ。

  • 投稿者:KON

    夏場所ロスを埋めるべく、執筆に精を出す北の富士さん
    過去のご自分を振り返り、自慢話ではなく、波瀾万丈の大関時代。 
    やらかしてしまった逸話なども隠さずにコメントしているところが北の富士さんの人気の秘訣なんでしょうね。

    北の富士勝昭土俵人生を振り返る北の富士場所11日目

    初優勝に九重親方は男泣き…佐田の山関の「おめでとう」で初めてうれしさが込み上げた

     北の富士場所11日目
     さあ、いよいよ春場所初日です。相手は明武谷(みょうぶだに)関。決して楽な相手ではありません。今までの対戦成績もほとんど五分。それでも今までのように嫌な相手とは思いませんでした。初日に難敵を破って、気がつけば12連勝。中には九死に一生のような際どい相撲もありましたが、まるで神がかっているかのように残せたのは、まさに奇跡でした。

     そろそろ周りは優勝と言いだしましたが、私は全く優勝は考えていませんでした。残り3日間、大鵬、佐田の山、柏戸戦が残っているのです。私は3連敗だけはしたくない、その一心。13日目は大鵬関との対戦。場所前の7連勝の感触が残っています。「今場所は勝てる」。少しは自信もありました。しかし、立ち上がって気がつけばすくい投げを食らっていました。あの相撲は何も覚えていません。完敗でした。改めて大鵬関の偉大さと自分の未熟さを思い知らされたものです。

     14日目は佐田の山戦です。できることなら取りたくない相手です。仕切り中はまるで夢を見ているようでした。しかし、軍配が返った瞬間、体が自然に反応したのです。稽古場では10番中1番勝てるかどうか。右と左のけんか四つ。左を差せたら私にも勝機はある。狙い通り私が左を差し勝ち、一気に寄るところを、佐田の山関がしぶとい腰でうっちゃります。

     軍配は私に上がりましたが、物言いとなり、取り直し。「どうして2回も取らせるの」と審判をうらめしく思ったりもしましたが、軍配が返ると本能的に体が動きます。肩透かしの奇襲で佐田の山関の体勢を崩し、左を差して一散に寄り切りました。佐田の山関も懸命に突き落としてきましたが、勝利することができました。

     千秋楽の柏戸戦は強引に出てくるところを肩透かしで勝つことができました。星1つ差で大鵬関が追走していましたが、何とか逃げ切ったのです。思いもかけなかった初優勝に、親方は男泣きしていましたが、私は実感がなく、嬉しさはさほどなかったのです。
     心のどこかに出羽海部屋への後ろめたさがあったのかもしれません。

    それでも花道の入り口ですれ違った時、佐田の山関から小さい声で「おめでとう」と言っていただいた時、初めてうれしさが込み上げてきました。

     今回も湿っぽい話になりました。次回からは明るくいきましょう。

  • 投稿者:KON

    北の富士さん 会心の一番 (拾参

    ついに、10度目の幕内優勝!

    昭和48年三月春場所
    東正横綱は新横綱の琴櫻、場所後に31歳となる北の富士は西の正横綱。

    初日から好調をキープする北の富士、十日目を終えて10戦全勝で、そのうちの三重ノ海・二代増位山・魁傑・羽黒岩・高見山に勝った五番は「上手投げ」。
    十一日目の 怪童北の湖戦も上手投げ、十三日目の陸奥嵐も上手投げで斬って落とし、初日から13連勝。
    いよいよ十四日目、2敗で追う大関輪島と対峙した全勝の北の富士。
    立ち合いで激しく突っ張った北の富士、これに応じて突き返す輪島。少しいなして輪島を泳がせた北の富士が右上手を先に掴んで左四つ。上手を引きつけてすぐに寄り立て、右外掛けから右上手投げを繰り出すが輪島も左差しは得意中の得意で、難なくこれを凌ぐ。
    しかし、北の富士がさらに外掛けと上手投げと矢継ぎ早に攻める。
    左相四つでもあり、ここで持久戦となったが、北の富士が今一度、輪島を左下手から起こしておいて上手投げ、そして出ながらの外掛け。もう一度上手を引きつけてからの上手投げにさしもの天才輪島も態勢を崩す。そこを寄り立てて堪える輪島を青房下へ寄り切って、「大相撲」となった長い相撲を制し、新時代の幕開けを担おうとする輪島の壁となった横綱北の富士。
    一方の輪島は 2敗となりはしたが、これで新大関から3場所連続の準優勝。

    北の富士は、この時点で、個人優勝制度確立された明治42年以降、歴代三位。
    大鵬の32回. 双葉山の12回に次ぐもので、大師匠 常ノ花、栃錦、初代若乃花に並ぶ記録でした。

    千秋楽は、4度目の全勝優勝が期待されたが、新横綱の琴櫻が北の富士を吊り出して意地をみせたのでした。

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