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五月場所が中止になっても 相撲の雑誌は発売中です♪ 月刊・相撲は関取の入門した時の写真と 豊山(3代目)が御嶽海に決めた左の掛け投げの写真! 大相撲ジャーナルは輪島さんが北の富士さんに決めた 掛け投げ気味に左足が入った左の下手投げの写真が それぞれに面白いです♪
温故知新・大相撲カレンダー 6月19日 2010平成22年6月19日 日本中の寺社の本堂入り口などに置かれている 狛犬 その 狛犬型 の仕切りで人気だった元前頭の鳴門海が死去しました。享年84歳 “古今十傑”に数えられる大横綱栃木山に「前捌きだけなら栃錦よりうまい」と 言わしめた巧者だった。 喜怒哀楽をあまり表さない師匠春日野(元栃木山)を唯一茶化して笑わせることができたムードメーカーで、1957昭和32年のある場所の日、鳴門海を含めた春日野部屋の幕内力士全員が黒星で戻ってきた時、春日野親方から 開口一番 「おまえ達、みんな弱いな」 と大きな声で言われた。 皆がしゅんとする中、“ これから夕飯だというのに・・・” と思った鳴門海が、その場の雰囲気をなんとかしようと一考、 『 そりゃ、親方は、弱いってことを知らないからなぁ 、負けて帰ってくる気分がわかりゃしないだろうさ 』 と言い放った。 春日野が栃木山として相撲を取っていた現役時代は、五年間負け為しの巨躯・太刀山をハズ押しで一気に下してその連勝を56で止め、当時では驚異的な速さで横綱に昇進し、横綱昇進後はさらに無敵に近く、無敗で通過した大関時代とあわせて、横綱大関での成績は 9年間 16場所で優勝9回、準優勝6回、 横綱勝率は最後の.935 勝率9割以上の最後の横綱 。 そして 三場所連続優勝したまま引退、引退後も衰えることがなく親方になって5年経過した時に出場した大相撲トーナメントで大関玉錦らを皆なぎ倒して優勝してしまった、それほど強かった為に言えたことだが、 それを聞いた弟子達全員が大爆笑し、つられて春日野も笑わざるを得なかったそうである。 鳴門海同様に、 同じ春日野部屋で、栃木山の弟子にして栃錦の弟弟子だった栃ノ海の前捌き(まえさばき)が、これもまた絶品で、最後の「二枚鑑札」として親方・春日野 兼 横綱栃錦 となっていた栃錦自らが『前裁きに関して言えば、栃ノ海のは、俺より数段も上だ』 と 名言。 当時の時津風理事長(元双葉山)も、春日野の意見におおいに賛同していて、横綱昇進直前3場所の成績が38勝(11勝→14勝=優勝→13勝)ながら、直前の場所が準優勝でもない栃ノ海の横綱昇進問題に当時の審判部が二の足を踏んでいると、時津風が 『花田には 小兵でも立派に横綱としてやっていける技術がある。大鵬や柏戸と渡り合っているじゃないか』 と 推してくれたことが効いて、栃ノ海は横綱に昇進できた。 この “小兵で技巧派” の伝統は、8代春日野(栃木山)が現役の時(1916大正5年)から、9代春日野(栃錦)、10代春日野(栃ノ海)と受け継がれ、10代春日野が育てた栃乃洋が引退した2012平成24年まで続いたが、11代春日野を 190cmもある学生横綱出身の栃乃和歌が襲名してしまったことで、技巧派の伝統は途切れ、挙げ句に、長身・怪力の栃ノ心が部屋頭になり、伝統の前捌きを、部屋頭の栃ノ心が教えられないし親方も教えられるわけもない。 唯一、栃煌山が多少くせ者ぶりを発揮したが、前述の力士達との違いは明らかで、春日野の伝統を継ぐレベルには到底ない。
温故知新・大相撲カレンダー 6月19日 1922大正11年6月19日 大相撲史上はじめての協会葬 旧両國國技館(=現在の国技館とは少し離れた回向院の境内に建てられていた)にて、大相撲史上初めての協会葬が執り行なわれました。 敗血症の為、48歳で亡くなった東京大角力協会の取締:出羽ノ海親方=「角聖」元横綱・常陸山の協会葬です。 新聞で訃報を知り、常磐線や東北線、東海道線などで全国から慌てて駆けつけた参列者の数は夥しく、焼香の列は、両国から上野まで3.8kmも続き、夏至の頃で日が長い日ではあったが、日の暮れる夜の7時半過ぎまで行列は1度たりとも途切れなかったという。 初の協会葬となった経緯は、明治時代唯一の相撲黄金期である「梅・常陸時代」の立役者で横綱免許を同時に授与した二代梅ヶ谷としのぎを削りあった現役時代の活躍(幕内勝率 .909)はもとより、引退後の功績が大きかった。 旧水戸藩士の市毛家の長男として生まれた常陸山は、明治前半の不景気の中、地方巡業というと、男芸者のように地方の庄屋宅や町や村の実力者宅に腹を減らして大挙おしかけ、稽古や土俵入りを見せては食べ物にありつくという情けない旅を続けていたのを見かねた常陸山が、『“乞食まがいのことをする相撲取り”ではなく“角力の武士”であるのだから“力士”と呼ばれるべく、ひと場所ふた場所を休んでも全国を行脚し、巡業を興行として成り立たせる為の下地を作る交渉を成功させ続けました。 さらに、親方として、大人数の弟子たちを安定して食べさせるべく、「ちゃんこ料理、ちゃんこ番」という制度を確立した。この「ちゃんこ」は、一門はもとより、他の部屋にも瞬く間に普及していった。 武家の出らしく気品と教養に溢れ、怪力ながら温厚で頭も非常に良かった常陸山は、日蓮宗や曹洞宗関係の書物もよく読み、伊藤博文や板垣退助とも1対1で話が出来る教養を持っていて、その会話の中で学んだ言葉に感銘し、次なる言葉を角界に持ち込んだ。 「日常の五心」 一、「はい」という素直な心 一、「すみません」という反省の心 一、「私がします」という奉仕の心 一、「おかげさま」という謙虚な心 一、「ありがとう」という感謝の心 「はい」という言葉は、返事だ。名前を呼ばれたり、話しの中で、「はい」という言葉をはっきり、相手に伝わるように発しなければいけない。この「はい」という返事だけで、自分の存在を相手に伝えることができる。 「すみません」という言葉は、謝罪だ。「すいません」という言葉を、先に相手が発すると、受ける方は、冷静になるスイッチがはいる。「すいません」と日頃から発する人は、どうしても憎めない。 「私がします」という言葉は、勇気を必要とする言葉だ。利害にとらわれず、相手や社会のために尽くすことだ。そして、そのような人をいつしか応援したくなる。実践している人は、心が綺麗になっていく。 「おかげさま」という言葉は、自分の力だけでは生きていないということを理解し、相手を立てる言葉である。日常のあいさつの中でも、頻繁に使われる言葉でもあるが、何より、すべてのことに感謝しようとする心を育てることができる。 「ありがとう」は、魔法の言葉である。自分のまわりに起こるあらゆるすべてのことに対して、「ありがとう」という気持ちをもつことである。言葉として発することや心の中で発っしてもいい。必ず、優しい人になっていき、笑顔が絶えない人になる。 この「日常の五心」を毎日、発話することだ。 それも、一人で心を込めて実践することが、自分の一日の生活を支えてくれる。しあわせな人生を導いてくれるのだ。 まわりの人に、自分の心に、素直になろう、反省をしよう、奉仕しよう、謙虚になろう、感謝しよう。 この“五心”は、きちんと楷書で清書され、出羽海部屋の稽古場はもちろん、独立した春日野部屋、玉ノ井部屋、武蔵川部屋などの稽古場の壁に、今でも掲げられています。 また、常陸山は、年寄5代出羽ノ海として、現役引退から死去までの8年間で、大錦(卯)・栃木山・常ノ花という3横綱を育てあげ、大関も九州山・對馬洋・大ノ里・常陸岩の4人輩出、その他20余名の幕内力士を輩出した。そのおかげもあって、1931昭和6年1月場所および3月場所では番付の右半分=西方の20人全てを、常陸山が育てた出羽海部屋の幕内力士で占めるほどだった。出羽ノ海の繁栄は続き、1999平成11年5月夏場所まで、部屋所属力士の幕内連続が101年も続いたのでした。
温故知新・大相撲カレンダー 6月18日 1992平成4年6月16日 日本テレビ系の花相撲「大相撲最強決定戦」の第1回大会が催され、小結の武蔵丸光洋が優勝を飾りました。 2008平成20年まで、17回開催されました。白鵬が3連覇したところで、平成21年から中止となっています。 歴代優勝者は、この大会の最多優勝は 貴乃花の5回。次いで、曙と貴ノ浪、白鵬の3回。 花相撲には、次のような種類があります。 ☆日本大相撲トーナメント(通称:大相撲トーナメント)2月開催。主催はフジテレビ。 第1回は1977昭和52年、優勝は北の湖。今年の第44回大会の優勝は、前年に引き続き高安。 かつては土曜・日曜の2日間開催で1日目の優勝者と2日目の優勝者が優勝決定戦を行ない、総合優勝を決定していた。2011年は、八百長問題の影響を受けて中止された。 ☆明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会(通称:明治神宮相撲大会)10月開催。主催は日本相撲協会。身体障害者、知的障害者、高齢者などを招待して開催される。大会は選抜戦で行なわれ力士が参加して行なわれるため、選士権と名付けられている。花相撲では、この大会が最も歴史が古く、戦中戦後に休止したが、昨年の大会まで78回を数える。1925大正14年の第1回大会の優勝は横綱・栃木山守也。 最多優勝は 日馬富士の5回。 があります。 現在はもう、行なわれていない花相撲として ★大日本相撲選士権 1931昭和6年の 第1回大日本相撲選士権で、プロアマ問わず日本中から参加者を募った為、引退からすでに6年を経過していた元横綱栃木山が年寄春日野として参加。 39歳という年齢もあった周囲の予想も高くはなかったが、春日野は自慢の怪力と鋭い取り口は健在で、大関・玉錦三右衛門、関脇・天竜三郎ら現役強豪陣を相次いで破って優勝してしまった。 第二回大会も選手権保持者として参加、連覇に意欲を示していたが、協会から、『現役がいかに弱いか』を見せ付けてどうするんだ?ときつく叱られてしまい、トーナメントで勝ち残った玉錦と三番勝負でストレート負けを喫したが、その本気を出せなかった事情がそこにあった。以降、第3回大会からは現役力士のみが出場するきまりになったそうです。 まあ、引退して5年も経った親方が並み居る現役三役陣のいるトーナメントを勝ち抜いて優勝するというのは、今では、あり得ませんねえ。強いて言えば、十分な余力を残して引退した双葉山が、その可能性があった?かもしれません。 ★大相撲王座決定戦10月開催。主催はCBCで、TBS系列で放映された。3つのブロックに分けてトーナメント戦を行い巴戦で優勝者を決定していた。2005年から休止。 がありました。 そして、前述の ★大相撲最強決定戦(第14回までの呼称は「大相撲勝抜優勝戦」)4月または6月に開催。3月場所または5月場所の番付にもとづく幕内全力士が出場し、トーナメント方式で優勝力士を決定。 花相撲とは、相撲、特に大相撲における勝敗が番付や給金に反映されない興行のことであり、巡業、トーナメント相撲、海外巡業などでの親善相撲、伊勢神宮や明治神宮、靖国神社などで執り行なわれる奉納相撲、関取の引退相撲などのことを言います。 花相撲では、十両トーナメントや幕内トーナメントなどの取組のほか、 出しものとして、 ・若手力士による“相撲の禁じ手”を面白おかしく紹介する「初っ切り」、 ・『はぁードスコイ、ドスコイ』の 合いの手 とともに 歌声自慢の力士たちが披露する「相撲甚句」、 ・「横綱の綱締め」実演、 ・強者に五人の関取(主に十両上位~幕内下位)が次々にぶつかっていき 倒しにかかる“五人掛け” ・呼出さんによる『太鼓の打ち分け』・・・ 本場所の早朝に打つ太鼓“寄せ太鼓”、 初日の取組を触れ歩きながら打つ太鼓“触れ太鼓”、 大相撲の興行で、朝8時の開場を知らせて打つ“一番太鼓”、 本場所の全取組の終了後に翌日の来場を願って打つ“跳ね太鼓”などを見事に打ち分けて聴かせてくれます。 ・最近では、琴欧洲や高見盛など 現役を退いたばかりの親方が、髷もない褌姿で登場し、熱戦を繰り広げて人気を博しています。 などの余興があって、本場所とは違う楽しみがあります。 花相撲の語源 唐の〈纏頭(てんとう)〉からきている。 中国では祝儀に綿布を与えると,これを頭に巻いて拝受する風習がありました。 これが日本の平安朝貴族に伝えられ、奈良・平安時代にかけて行なわれた宮中行事の一つである相撲節会(すまひのせちえ)では、東方力士が勝つと朝日を受けて咲く葵(あおい)の花、西方力士が勝つと夕日を受けて咲く夕顔(ひょうたん)の花を自分の髪に差して退場した。 力士は、その花を食料品や衣類に交換して褒美として受け取った。 江戸時代に入ると相撲興行が組織化され、勧進相撲へと形態を変え、客は贔屓力士や郷土力士が勝つと、土俵に自分の羽織や煙草盆を投げ入れた。 力士は、これらを支度部屋に持ち帰り、客は帰りに支度部屋の力士を訪ねて引き換えに祝儀を与えた。 いわゆる“纏頭”(はな)で、祝儀=花 だけで興行していたため 花相撲と 呼ばれたそうです。
高見山、好きでしたね~。外国人でしたけど応援してました。特に晩年はコロッと投げられて負けるケースが多かったですが、土俵を叩いて悔しがる姿は印象的でしたね。外国人では旭天鵬、琴欧洲、武蔵丸等が好きでしたが、後にも先にも高見山を越える力士は居ないです。今の姿もサンタさんみたいで、それもまたいいですね。
北の富士さん会心の一番 (弐拾選 プラスワン 十両から幕内へ、圧巻の23連勝! スタートは昭和38年秋場所の十三日目、 九日目に勝ち越して安心したのか十日目から3連敗してしまった北の富士。 十三日目に、今後ライバルとなっていく清國との対戦。これを突っ張りでの先制攻撃からの肩透かしが見事に決まって勝利。 翌年の昭和39年初場所から昭和46年九州場所までお互い同じように番付を上げていったので、8年間48場所で、なんと47度も対戦(北の富士が34勝)しました。 そして、昭和38年九州場所で、十両五枚目で15戦全勝優勝。 まだ「北の富士スペシャル」が出来上がっていく過程段階で、右上手投げはまだ出て来ず。 突っ張って左差し、出ながら右外掛けが効果抜群で大きな武器となってました。十両全勝優勝したこの場所でも、外掛けで4勝していました。 後に最大のライバルとなる玉乃島ともこの場所九日目に対戦して吊り出しで勝ちました。 そして晴れて「新入幕」となった1964昭和39年初場所では、初日に宇多川と対戦し、ここでも外掛け。これで名古屋場所からの足掛け三場所で 19連勝目。 翌二日目は吊りの若浪戦、北の富士より小柄とはいえ、まわしを掴まれると厄介な若浪。考えた北の富士は、うわ突っ張りからいったん腰を落とし、はず押し気味に軽量の若浪を一気に押し出した。 三日目は、入幕が9年も先輩のベテランの若羽黒を左差し右上手で寄って出て、残す若羽黒を右からの上手投げで転がした。 これで自身21連勝。 四日目は、やや小兵ながらまわしをつかむと捻り技が冴える技巧派の扇山を四つに捕まえて休まず寄って出て寄り倒し。 五日目は、突っ張りもあり四つも得意で土俵際でのうっちゃりもあるという器用な天津風との対戦、これも、難なく左差し右上手の得意な形になって、やはり長期戦にはせずに、先に先に攻めて、土俵際で堪える腰の構えができる前に一気に寄り倒しました。 これで、23連勝。 そして六日目、左差しだけでなく脇の甘い巨漢・若見山に双差しに成功したが、これが罠だった。喜んで差した両かいなをがっちり極められ、そのままじわじわ寄られ、万力のような力で極められ身動き取れなくなった北の富士はそのまま極め出されて土俵を割ってしまい、ついに連勝は23で ストップ。 九日目に清國に押し倒されて2敗目を喫したが、十日目以後の六日間は、右上手投げが冴え渡り、上手投げで3勝を挙げて6連勝。 ついに新入幕で13勝2敗の好成績。 新入幕での13勝は、今も破られていない大相撲史上1位の記録です。 後に、“東北の暴れん坊” 陸奥嵐や、琴光喜、照ノ富士が、北の富士さんの「新入幕最多勝記録」に並ぶ13勝を挙げています。 となると、北の富士は、もしかして新入幕優勝だったのか? と思いきや、この場所は 入幕ふた場所目の清國が初日からなんと14連勝!千秋楽に関脇の大豪に惜しくも敗れ、準優勝。 優勝は、15戦全勝の東正横綱大鵬。 西の正横綱柏戸も12勝3敗。 前の場所に14勝で優勝していた東大関栃ノ海が13勝2敗。 とてもハイレベルな場所で、新入幕の北の富士が13番も勝ったのにあまり大きな話題にはなりませんでした。 そして13勝だった栃ノ海が三場所通算38勝という好成績で横綱昇進となりました。 ただし、この栃ノ海の横綱昇進は、「横綱昇進直前の場所が優勝でも準優勝でもなく横綱に上がった 」という稀有な例となりました。
温故知新 大相撲カレンダー 6月16日 1944昭和19年 6月 16日 ハワイ・マウイ島にて、後の高見山=本名ジェシー・クアウルアが誕生しました。 幕内連続出場1231回の記録は大相撲史上1位。 対戦した横綱11人 というのも大相撲1位記録です。 金星12個(当時は、歴代最多だった) 特に輪島に強く、輪島からの金星は7個。 三賞受賞13回、 さらに、外国出身者で初の親方となり横綱曙を輩出しました。 高見山が現役引退を表明した昭和59年、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)が、昭和天皇より「髙見山がなぜ辞めたのかね」「髙見山は残念だったろうな」との下問を受けた。そのことを後に森が髙見山に伝えると「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。 本当に、日本人よりも日本人らしい外国人力士でした。 そういう意味での後継者は、弟子の曙ではなく武蔵丸光洋が、高見山に負けず劣らず “日本人よりも日本人らしい”言動をしていますね。 また、高見山は、親方になったばかりの頃、新両国国技館での本場所で、わざと目立つようなピンクや黄色の浴衣を着て、館内や正面玄関あたりを歩き、子供たちに 「あぁ! 高見山だぁ」 と見つかると、子供らに追いつかれてしまうぐらいのスピードでゆったりと逃げる“鬼ごっこ”状態に持ち込んで 笑顔で逃げ回っていました。で、捕まると、みんなで記念写真大会になっていました。とっても微笑ましい光景でした。 協会を定年退職された2009平成21年には、定年退職を祝う会で、バララ・オバマ大統領から祝電が届き、 菊池寛賞も受賞した。これは、スポーツ関係者としては2001年のイチロー以来二人目、大相撲関係者では初の受賞でした。
北の富士さん 会心の一番 (弐拾 天才輪島や怪童北の湖ら後輩たちには常に優勢だった北の富士。 北の湖とは6戦して4勝2敗、 琴櫻には30勝20敗 同じく輪島に7勝5敗、 三重ノ海に14勝2敗、 一方、 先輩の栃の海には 2勝4敗 + 1 不戦勝 同じく佐田の山にも 2勝4敗 柏戸に対しては 10勝14敗、 大鵬に対しては 5勝26敗。 北の湖の対朝潮戦や千代の富士の対隆の里戦のような、後輩に対戦成績で負け越すという所謂 “ 苦手 ” を作らなかった北の富士。 逆に先輩横綱には勝ち越せなかった という、記録が残っています。 そんな中で、先輩ではありながら番付では上回った「吊りの明武谷」が数少ない苦手でした、 「大の苦手」明武谷をついに克服! 昭和42年七月名古屋場所八日目 ここまで 対戦成績 6勝 14敗 と、顔を見るのも嫌な相手が明武谷でした。 背の高い北の富士よりさらに 5センチ以上も長身で、腕も北の富士より長いので懐が深い。得意の突っ張りの威力が伝わらない。 毎場所のように 突き切れずにつかまり、吊り上げられたり うっちゃりられたり。 そんな金剛力士像の如く筋肉隆々な怪力の明武谷との21回目の対戦。 明武谷との戦譜 『北の富士場所』でも述懐されてましたが、初優勝していい気になって稽古そっちのけで遊び呆けて飲み歩き、翌場所で10敗して負け越したのでした。 続くこの名古屋場所も三日目からの三連敗でピンチ。中日八日目に苦手な明武谷とあたった北の富士。 長い相撲になると不利、とみて、左四つ右上手を引くと、出ながらの右外掛けを飛ばす。土俵際で堪える明武谷でしたが、北の富士、ここで休まずに寄って寄って寄り倒しました。 しかし、この翌日から五連敗して負け越し。二場所連続負け越しとなったが、大関陥落は三場所連続負け越しという規則の時代だったので命拾い。 この場所以降、明武谷に 5連勝して12勝14敗、対戦成績を五分に戻すことはできませんでしたが、この一番を境に苦手意識も消え、勝ち続けたのでした。
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月刊・相撲は関取の入門した時の写真と
豊山(3代目)が御嶽海に決めた左の掛け投げの写真!
大相撲ジャーナルは輪島さんが北の富士さんに決めた
掛け投げ気味に左足が入った左の下手投げの写真が
それぞれに面白いです♪
温故知新・大相撲カレンダー 6月19日
2010平成22年6月19日
日本中の寺社の本堂入り口などに置かれている 狛犬 その 狛犬型 の仕切りで人気だった元前頭の鳴門海が死去しました。享年84歳
“古今十傑”に数えられる大横綱栃木山に「前捌きだけなら栃錦よりうまい」と 言わしめた巧者だった。
喜怒哀楽をあまり表さない師匠春日野(元栃木山)を唯一茶化して笑わせることができたムードメーカーで、1957昭和32年のある場所の日、鳴門海を含めた春日野部屋の幕内力士全員が黒星で戻ってきた時、春日野親方から 開口一番 「おまえ達、みんな弱いな」 と大きな声で言われた。
皆がしゅんとする中、“ これから夕飯だというのに・・・” と思った鳴門海が、その場の雰囲気をなんとかしようと一考、
『 そりゃ、親方は、弱いってことを知らないからなぁ 、負けて帰ってくる気分がわかりゃしないだろうさ 』 と言い放った。
春日野が栃木山として相撲を取っていた現役時代は、五年間負け為しの巨躯・太刀山をハズ押しで一気に下してその連勝を56で止め、当時では驚異的な速さで横綱に昇進し、横綱昇進後はさらに無敵に近く、無敗で通過した大関時代とあわせて、横綱大関での成績は 9年間 16場所で優勝9回、準優勝6回、 横綱勝率は最後の.935 勝率9割以上の最後の横綱 。 そして 三場所連続優勝したまま引退、引退後も衰えることがなく親方になって5年経過した時に出場した大相撲トーナメントで大関玉錦らを皆なぎ倒して優勝してしまった、それほど強かった為に言えたことだが、
それを聞いた弟子達全員が大爆笑し、つられて春日野も笑わざるを得なかったそうである。
鳴門海同様に、
同じ春日野部屋で、栃木山の弟子にして栃錦の弟弟子だった栃ノ海の前捌き(まえさばき)が、これもまた絶品で、最後の「二枚鑑札」として親方・春日野 兼 横綱栃錦 となっていた栃錦自らが『前裁きに関して言えば、栃ノ海のは、俺より数段も上だ』 と 名言。
当時の時津風理事長(元双葉山)も、春日野の意見におおいに賛同していて、横綱昇進直前3場所の成績が38勝(11勝→14勝=優勝→13勝)ながら、直前の場所が準優勝でもない栃ノ海の横綱昇進問題に当時の審判部が二の足を踏んでいると、時津風が 『花田には 小兵でも立派に横綱としてやっていける技術がある。大鵬や柏戸と渡り合っているじゃないか』 と 推してくれたことが効いて、栃ノ海は横綱に昇進できた。
この “小兵で技巧派” の伝統は、8代春日野(栃木山)が現役の時(1916大正5年)から、9代春日野(栃錦)、10代春日野(栃ノ海)と受け継がれ、10代春日野が育てた栃乃洋が引退した2012平成24年まで続いたが、11代春日野を 190cmもある学生横綱出身の栃乃和歌が襲名してしまったことで、技巧派の伝統は途切れ、挙げ句に、長身・怪力の栃ノ心が部屋頭になり、伝統の前捌きを、部屋頭の栃ノ心が教えられないし親方も教えられるわけもない。 唯一、栃煌山が多少くせ者ぶりを発揮したが、前述の力士達との違いは明らかで、春日野の伝統を継ぐレベルには到底ない。
温故知新・大相撲カレンダー
6月19日
1922大正11年6月19日 大相撲史上はじめての協会葬
旧両國國技館(=現在の国技館とは少し離れた回向院の境内に建てられていた)にて、大相撲史上初めての協会葬が執り行なわれました。
敗血症の為、48歳で亡くなった東京大角力協会の取締:出羽ノ海親方=「角聖」元横綱・常陸山の協会葬です。
新聞で訃報を知り、常磐線や東北線、東海道線などで全国から慌てて駆けつけた参列者の数は夥しく、焼香の列は、両国から上野まで3.8kmも続き、夏至の頃で日が長い日ではあったが、日の暮れる夜の7時半過ぎまで行列は1度たりとも途切れなかったという。
初の協会葬となった経緯は、明治時代唯一の相撲黄金期である「梅・常陸時代」の立役者で横綱免許を同時に授与した二代梅ヶ谷としのぎを削りあった現役時代の活躍(幕内勝率 .909)はもとより、引退後の功績が大きかった。
旧水戸藩士の市毛家の長男として生まれた常陸山は、明治前半の不景気の中、地方巡業というと、男芸者のように地方の庄屋宅や町や村の実力者宅に腹を減らして大挙おしかけ、稽古や土俵入りを見せては食べ物にありつくという情けない旅を続けていたのを見かねた常陸山が、『“乞食まがいのことをする相撲取り”ではなく“角力の武士”であるのだから“力士”と呼ばれるべく、ひと場所ふた場所を休んでも全国を行脚し、巡業を興行として成り立たせる為の下地を作る交渉を成功させ続けました。
さらに、親方として、大人数の弟子たちを安定して食べさせるべく、「ちゃんこ料理、ちゃんこ番」という制度を確立した。この「ちゃんこ」は、一門はもとより、他の部屋にも瞬く間に普及していった。
武家の出らしく気品と教養に溢れ、怪力ながら温厚で頭も非常に良かった常陸山は、日蓮宗や曹洞宗関係の書物もよく読み、伊藤博文や板垣退助とも1対1で話が出来る教養を持っていて、その会話の中で学んだ言葉に感銘し、次なる言葉を角界に持ち込んだ。
「日常の五心」
一、「はい」という素直な心
一、「すみません」という反省の心
一、「私がします」という奉仕の心
一、「おかげさま」という謙虚な心
一、「ありがとう」という感謝の心
「はい」という言葉は、返事だ。名前を呼ばれたり、話しの中で、「はい」という言葉をはっきり、相手に伝わるように発しなければいけない。この「はい」という返事だけで、自分の存在を相手に伝えることができる。
「すみません」という言葉は、謝罪だ。「すいません」という言葉を、先に相手が発すると、受ける方は、冷静になるスイッチがはいる。「すいません」と日頃から発する人は、どうしても憎めない。
「私がします」という言葉は、勇気を必要とする言葉だ。利害にとらわれず、相手や社会のために尽くすことだ。そして、そのような人をいつしか応援したくなる。実践している人は、心が綺麗になっていく。
「おかげさま」という言葉は、自分の力だけでは生きていないということを理解し、相手を立てる言葉である。日常のあいさつの中でも、頻繁に使われる言葉でもあるが、何より、すべてのことに感謝しようとする心を育てることができる。
「ありがとう」は、魔法の言葉である。自分のまわりに起こるあらゆるすべてのことに対して、「ありがとう」という気持ちをもつことである。言葉として発することや心の中で発っしてもいい。必ず、優しい人になっていき、笑顔が絶えない人になる。
この「日常の五心」を毎日、発話することだ。
それも、一人で心を込めて実践することが、自分の一日の生活を支えてくれる。しあわせな人生を導いてくれるのだ。
まわりの人に、自分の心に、素直になろう、反省をしよう、奉仕しよう、謙虚になろう、感謝しよう。
この“五心”は、きちんと楷書で清書され、出羽海部屋の稽古場はもちろん、独立した春日野部屋、玉ノ井部屋、武蔵川部屋などの稽古場の壁に、今でも掲げられています。
また、常陸山は、年寄5代出羽ノ海として、現役引退から死去までの8年間で、大錦(卯)・栃木山・常ノ花という3横綱を育てあげ、大関も九州山・對馬洋・大ノ里・常陸岩の4人輩出、その他20余名の幕内力士を輩出した。そのおかげもあって、1931昭和6年1月場所および3月場所では番付の右半分=西方の20人全てを、常陸山が育てた出羽海部屋の幕内力士で占めるほどだった。出羽ノ海の繁栄は続き、1999平成11年5月夏場所まで、部屋所属力士の幕内連続が101年も続いたのでした。
すみません、またやっちゃいました。
1:07の投稿の冒頭 は 6月18日です。
すみません。
温故知新・大相撲カレンダー
6月18日
1992平成4年6月16日
日本テレビ系の花相撲「大相撲最強決定戦」の第1回大会が催され、小結の武蔵丸光洋が優勝を飾りました。
2008平成20年まで、17回開催されました。白鵬が3連覇したところで、平成21年から中止となっています。
歴代優勝者は、この大会の最多優勝は 貴乃花の5回。次いで、曙と貴ノ浪、白鵬の3回。
花相撲には、次のような種類があります。
☆日本大相撲トーナメント(通称:大相撲トーナメント)2月開催。主催はフジテレビ。
第1回は1977昭和52年、優勝は北の湖。今年の第44回大会の優勝は、前年に引き続き高安。
かつては土曜・日曜の2日間開催で1日目の優勝者と2日目の優勝者が優勝決定戦を行ない、総合優勝を決定していた。2011年は、八百長問題の影響を受けて中止された。
☆明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会(通称:明治神宮相撲大会)10月開催。主催は日本相撲協会。身体障害者、知的障害者、高齢者などを招待して開催される。大会は選抜戦で行なわれ力士が参加して行なわれるため、選士権と名付けられている。花相撲では、この大会が最も歴史が古く、戦中戦後に休止したが、昨年の大会まで78回を数える。1925大正14年の第1回大会の優勝は横綱・栃木山守也。 最多優勝は 日馬富士の5回。
があります。
現在はもう、行なわれていない花相撲として
★大日本相撲選士権 1931昭和6年の 第1回大日本相撲選士権で、プロアマ問わず日本中から参加者を募った為、引退からすでに6年を経過していた元横綱栃木山が年寄春日野として参加。 39歳という年齢もあった周囲の予想も高くはなかったが、春日野は自慢の怪力と鋭い取り口は健在で、大関・玉錦三右衛門、関脇・天竜三郎ら現役強豪陣を相次いで破って優勝してしまった。
第二回大会も選手権保持者として参加、連覇に意欲を示していたが、協会から、『現役がいかに弱いか』を見せ付けてどうするんだ?ときつく叱られてしまい、トーナメントで勝ち残った玉錦と三番勝負でストレート負けを喫したが、その本気を出せなかった事情がそこにあった。以降、第3回大会からは現役力士のみが出場するきまりになったそうです。 まあ、引退して5年も経った親方が並み居る現役三役陣のいるトーナメントを勝ち抜いて優勝するというのは、今では、あり得ませんねえ。強いて言えば、十分な余力を残して引退した双葉山が、その可能性があった?かもしれません。
★大相撲王座決定戦10月開催。主催はCBCで、TBS系列で放映された。3つのブロックに分けてトーナメント戦を行い巴戦で優勝者を決定していた。2005年から休止。
がありました。
そして、前述の
★大相撲最強決定戦(第14回までの呼称は「大相撲勝抜優勝戦」)4月または6月に開催。3月場所または5月場所の番付にもとづく幕内全力士が出場し、トーナメント方式で優勝力士を決定。
花相撲とは、相撲、特に大相撲における勝敗が番付や給金に反映されない興行のことであり、巡業、トーナメント相撲、海外巡業などでの親善相撲、伊勢神宮や明治神宮、靖国神社などで執り行なわれる奉納相撲、関取の引退相撲などのことを言います。
花相撲では、十両トーナメントや幕内トーナメントなどの取組のほか、
出しものとして、
・若手力士による“相撲の禁じ手”を面白おかしく紹介する「初っ切り」、
・『はぁードスコイ、ドスコイ』の 合いの手 とともに 歌声自慢の力士たちが披露する「相撲甚句」、
・「横綱の綱締め」実演、
・強者に五人の関取(主に十両上位~幕内下位)が次々にぶつかっていき 倒しにかかる“五人掛け”
・呼出さんによる『太鼓の打ち分け』・・・ 本場所の早朝に打つ太鼓“寄せ太鼓”、 初日の取組を触れ歩きながら打つ太鼓“触れ太鼓”、 大相撲の興行で、朝8時の開場を知らせて打つ“一番太鼓”、 本場所の全取組の終了後に翌日の来場を願って打つ“跳ね太鼓”などを見事に打ち分けて聴かせてくれます。
・最近では、琴欧洲や高見盛など 現役を退いたばかりの親方が、髷もない褌姿で登場し、熱戦を繰り広げて人気を博しています。
などの余興があって、本場所とは違う楽しみがあります。
花相撲の語源
唐の〈纏頭(てんとう)〉からきている。
中国では祝儀に綿布を与えると,これを頭に巻いて拝受する風習がありました。
これが日本の平安朝貴族に伝えられ、奈良・平安時代にかけて行なわれた宮中行事の一つである相撲節会(すまひのせちえ)では、東方力士が勝つと朝日を受けて咲く葵(あおい)の花、西方力士が勝つと夕日を受けて咲く夕顔(ひょうたん)の花を自分の髪に差して退場した。
力士は、その花を食料品や衣類に交換して褒美として受け取った。
江戸時代に入ると相撲興行が組織化され、勧進相撲へと形態を変え、客は贔屓力士や郷土力士が勝つと、土俵に自分の羽織や煙草盆を投げ入れた。
力士は、これらを支度部屋に持ち帰り、客は帰りに支度部屋の力士を訪ねて引き換えに祝儀を与えた。
いわゆる“纏頭”(はな)で、祝儀=花 だけで興行していたため 花相撲と 呼ばれたそうです。
高見山、好きでしたね~。外国人でしたけど応援してました。特に晩年はコロッと投げられて負けるケースが多かったですが、土俵を叩いて悔しがる姿は印象的でしたね。外国人では旭天鵬、琴欧洲、武蔵丸等が好きでしたが、後にも先にも高見山を越える力士は居ないです。今の姿もサンタさんみたいで、それもまたいいですね。
北の富士さん会心の一番 (弐拾選 プラスワン
十両から幕内へ、圧巻の23連勝!
スタートは昭和38年秋場所の十三日目、
九日目に勝ち越して安心したのか十日目から3連敗してしまった北の富士。
十三日目に、今後ライバルとなっていく清國との対戦。これを突っ張りでの先制攻撃からの肩透かしが見事に決まって勝利。
翌年の昭和39年初場所から昭和46年九州場所までお互い同じように番付を上げていったので、8年間48場所で、なんと47度も対戦(北の富士が34勝)しました。
そして、昭和38年九州場所で、十両五枚目で15戦全勝優勝。
まだ「北の富士スペシャル」が出来上がっていく過程段階で、右上手投げはまだ出て来ず。
突っ張って左差し、出ながら右外掛けが効果抜群で大きな武器となってました。十両全勝優勝したこの場所でも、外掛けで4勝していました。
後に最大のライバルとなる玉乃島ともこの場所九日目に対戦して吊り出しで勝ちました。
そして晴れて「新入幕」となった1964昭和39年初場所では、初日に宇多川と対戦し、ここでも外掛け。これで名古屋場所からの足掛け三場所で 19連勝目。
翌二日目は吊りの若浪戦、北の富士より小柄とはいえ、まわしを掴まれると厄介な若浪。考えた北の富士は、うわ突っ張りからいったん腰を落とし、はず押し気味に軽量の若浪を一気に押し出した。
三日目は、入幕が9年も先輩のベテランの若羽黒を左差し右上手で寄って出て、残す若羽黒を右からの上手投げで転がした。
これで自身21連勝。
四日目は、やや小兵ながらまわしをつかむと捻り技が冴える技巧派の扇山を四つに捕まえて休まず寄って出て寄り倒し。
五日目は、突っ張りもあり四つも得意で土俵際でのうっちゃりもあるという器用な天津風との対戦、これも、難なく左差し右上手の得意な形になって、やはり長期戦にはせずに、先に先に攻めて、土俵際で堪える腰の構えができる前に一気に寄り倒しました。
これで、23連勝。
そして六日目、左差しだけでなく脇の甘い巨漢・若見山に双差しに成功したが、これが罠だった。喜んで差した両かいなをがっちり極められ、そのままじわじわ寄られ、万力のような力で極められ身動き取れなくなった北の富士はそのまま極め出されて土俵を割ってしまい、ついに連勝は23で ストップ。
九日目に清國に押し倒されて2敗目を喫したが、十日目以後の六日間は、右上手投げが冴え渡り、上手投げで3勝を挙げて6連勝。
ついに新入幕で13勝2敗の好成績。
新入幕での13勝は、今も破られていない大相撲史上1位の記録です。
後に、“東北の暴れん坊” 陸奥嵐や、琴光喜、照ノ富士が、北の富士さんの「新入幕最多勝記録」に並ぶ13勝を挙げています。
となると、北の富士は、もしかして新入幕優勝だったのか?
と思いきや、この場所は
入幕ふた場所目の清國が初日からなんと14連勝!千秋楽に関脇の大豪に惜しくも敗れ、準優勝。
優勝は、15戦全勝の東正横綱大鵬。
西の正横綱柏戸も12勝3敗。
前の場所に14勝で優勝していた東大関栃ノ海が13勝2敗。
とてもハイレベルな場所で、新入幕の北の富士が13番も勝ったのにあまり大きな話題にはなりませんでした。
そして13勝だった栃ノ海が三場所通算38勝という好成績で横綱昇進となりました。
ただし、この栃ノ海の横綱昇進は、「横綱昇進直前の場所が優勝でも準優勝でもなく横綱に上がった 」という稀有な例となりました。
境川親方こそが大和魂の持ち主ですね。
温故知新 大相撲カレンダー 6月16日
1944昭和19年 6月 16日
ハワイ・マウイ島にて、後の高見山=本名ジェシー・クアウルアが誕生しました。
幕内連続出場1231回の記録は大相撲史上1位。
対戦した横綱11人 というのも大相撲1位記録です。
金星12個(当時は、歴代最多だった) 特に輪島に強く、輪島からの金星は7個。
三賞受賞13回、
さらに、外国出身者で初の親方となり横綱曙を輩出しました。
高見山が現役引退を表明した昭和59年、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)が、昭和天皇より「髙見山がなぜ辞めたのかね」「髙見山は残念だったろうな」との下問を受けた。そのことを後に森が髙見山に伝えると「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。
本当に、日本人よりも日本人らしい外国人力士でした。 そういう意味での後継者は、弟子の曙ではなく武蔵丸光洋が、高見山に負けず劣らず “日本人よりも日本人らしい”言動をしていますね。
また、高見山は、親方になったばかりの頃、新両国国技館での本場所で、わざと目立つようなピンクや黄色の浴衣を着て、館内や正面玄関あたりを歩き、子供たちに 「あぁ! 高見山だぁ」 と見つかると、子供らに追いつかれてしまうぐらいのスピードでゆったりと逃げる“鬼ごっこ”状態に持ち込んで 笑顔で逃げ回っていました。で、捕まると、みんなで記念写真大会になっていました。とっても微笑ましい光景でした。
協会を定年退職された2009平成21年には、定年退職を祝う会で、バララ・オバマ大統領から祝電が届き、 菊池寛賞も受賞した。これは、スポーツ関係者としては2001年のイチロー以来二人目、大相撲関係者では初の受賞でした。
北の富士さん 会心の一番 (弐拾
天才輪島や怪童北の湖ら後輩たちには常に優勢だった北の富士。
北の湖とは6戦して4勝2敗、
琴櫻には30勝20敗
同じく輪島に7勝5敗、
三重ノ海に14勝2敗、
一方、
先輩の栃の海には 2勝4敗 + 1 不戦勝
同じく佐田の山にも 2勝4敗
柏戸に対しては 10勝14敗、
大鵬に対しては 5勝26敗。
北の湖の対朝潮戦や千代の富士の対隆の里戦のような、後輩に対戦成績で負け越すという所謂 “ 苦手 ” を作らなかった北の富士。
逆に先輩横綱には勝ち越せなかった
という、記録が残っています。
そんな中で、先輩ではありながら番付では上回った「吊りの明武谷」が数少ない苦手でした、
「大の苦手」明武谷をついに克服!
昭和42年七月名古屋場所八日目
ここまで 対戦成績 6勝 14敗 と、顔を見るのも嫌な相手が明武谷でした。
背の高い北の富士よりさらに 5センチ以上も長身で、腕も北の富士より長いので懐が深い。得意の突っ張りの威力が伝わらない。
毎場所のように 突き切れずにつかまり、吊り上げられたり うっちゃりられたり。
そんな金剛力士像の如く筋肉隆々な怪力の明武谷との21回目の対戦。
明武谷との戦譜
『北の富士場所』でも述懐されてましたが、初優勝していい気になって稽古そっちのけで遊び呆けて飲み歩き、翌場所で10敗して負け越したのでした。
続くこの名古屋場所も三日目からの三連敗でピンチ。中日八日目に苦手な明武谷とあたった北の富士。
長い相撲になると不利、とみて、左四つ右上手を引くと、出ながらの右外掛けを飛ばす。土俵際で堪える明武谷でしたが、北の富士、ここで休まずに寄って寄って寄り倒しました。
しかし、この翌日から五連敗して負け越し。二場所連続負け越しとなったが、大関陥落は三場所連続負け越しという規則の時代だったので命拾い。
この場所以降、明武谷に 5連勝して12勝14敗、対戦成績を五分に戻すことはできませんでしたが、この一番を境に苦手意識も消え、勝ち続けたのでした。