大相撲のコメント部屋

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externallinkコメント一覧

大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,657件 』

  • 投稿者:KON

    TBS系列は、全国だと
    HBC北海道放送、ATV青森テレビ、IBC岩手放送、TBC東北放送、テレビュー山形、TUFテレビュー福島、BSN新潟放送、SBC信越放送、UTYテレビ山梨、TUTチューリップテレビ、MRO北陸放送、SBS静岡放送、CBC中部日本放送、毎日放送、RSK山陽放送、RCC中国放送、BSS山陰放送、あいテレビ、テレビ高知、テレビ山口、RKB毎日放送、NBC長崎放送、RKK熊本放送、OBS大分放送、MRT宮崎放送、MBC南日本放送、RBC琉球放送、

    そしてBS放送だとBS161ch(BS-TBS)

    このいずれかのテレビ局情報で再放送的な番組を探してみてください。

    ヤフー で検索し、 → テレビ → テレビ番組表 と検索していくと むこう一週間のテレビ番組放送予定が載っています。

    是非、当該番組をみつけて視聴してみてください。

  • 投稿者:匿名

    中川部屋が親方のパワハラ行為で閉鎖される事になりました。
    中川親方は退職届を提出し、現在保留中で、13日の理事会で退職勧告以上の厳しい処分が下される見込みです。
    中川部屋は2017年1月に追手風部屋に吸収されていた旧春日山部屋を引き継ぐ形で設立されました。
    現在、部屋には北の湖、貴花田(のち貴乃花)、萩原(のち稀勢の里)に次ぐ史上4人目の17歳関取が期待される吉井が在籍しており、他の部屋へ移籍する事で何らかの影響が出るものと思われます。

  • 投稿者:匿名

    KONさん
    テレビ局は解りました。
    でも、私の住んでいる地域では放送されないようです。
    だから、テレビ番に載ってなかった…
    残念です。
    東関親方の奮闘ぶりを見たかったです。
    別な日に放送される事を願うしかないですね。
    ご覧になった方は、どんなだったか教えてください

  • 投稿者:匿名

    KONさんへ
    今日の17時から放送のバースデーは
    どこのテレビ局での放送ですか?
    テレビ番を見たこど。
    どのテレビ局の放送か解らなかったので
    教えてください

  • 投稿者:KON

    力士・親方のテレビ出演情報

    明日の土曜日です

    バース・デイ 愛娘が涙…人気力士が最後の大一番!家族で闘った知られざるドラマ
    2020年7月11日(土) 17時00分~17時30分

    人気力士たちの“今”SP
    ▼元関脇・豊ノ島…引退かけた最後の戦い!愛娘と妻と戦う家族の物語
    人気力士の知られざる家族の物語> “世界一かっこいいおとうさん”きほちゃん
    自慢のお父さんは人気力士の元関脇・豊ノ島。
    そんな豊ノ島の進退かけた戦いに密着!応援してくれる娘の為に…そして美人妻の為に… そして、きほちゃんがお父さん37歳の誕生日に書いた手紙…そこにあった“家族の愛”とは?
    ▼“弟子たちを守りたい…”コロナ過で親方として戦う元・高見盛
    < 今年「東関親方」として新たなスタートを切った人気力士の元・高見盛。 コロナが蔓延する中、弟子たちを守りながら戦う親方の心情とは…。

    出演: 元小結 高見盛   元関脇 豊ノ島
    ナレーション: 東山紀之

  • 投稿者:KON

    大相撲の歴史で紹介した富岡八幡宮。

    説明にあったように、富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。江戸時代の相撲興業は京・大阪から始まりますが、喧嘩騒動など トラブルが多く、しばしば相撲禁令が出ていました。その後、禁令が緩み、1684貞享元年、幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許されます。その地こそが当宮の境内だったのです。以降約100年間にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。そののち本場所は、本所回向院に移っていきますが、その基礎は当宮において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになります。
    明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立されました。伝説上の横綱である初代明石志賀之助から、現役の68代朝青龍明徳(1980~)にまで至る歴代の横綱の名と、   横綱にはなれなかったものの、幕内勝率9割6分2厘で史上最強力士と称される大関・雷電為右衛門(1767~1825)も「無類力士」として別枠で顕彰されている。なお、横綱の代数には諸説あるが、全日本相撲協会では、この「横綱力士碑」に刻まれた代数を基本としているそうである。

     新横綱誕生時には相撲協会理事長及び幹部理事立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されます。また碑の両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っています。

    また、境内には、表参道大鳥居をくぐってすぐ右手には、 歴代大関を顕彰するために建立された 「大関力士碑」があります。横綱に次ぐ地位である「大関力士碑」は大鳥居のすぐ脇にあり、こちらは1983昭和58年10月5日に建立されている。1898明治31年に9代目市川団十郎(1838~1903)と5代目尾上菊五郎(1844~1903)が寄付した2個の仙台石に刻まれている。
    大関というのは、1909年に横綱が地位として制度化されるまで、番付上の最高位で、横綱はあくまで名誉称号であった。この碑には、現存する最古の番付である1757(宝暦7)年10月のものに、大関として記されている雪見山堅太郎を初代とし、横綱に昇進した者や、名前だけの看板大関は刻まれていません。

    横綱力士碑の左の前には「超五十連勝力士碑」もある。11面体の石の柱で、江戸時代の谷風(63連勝)、梅ヶ谷(58連勝)、明治~大正の太刀山(56連勝)、昭和の双葉山(69連勝)そして昭和の終わりの千代の富士(53連勝)の5人の名前が刻まれている。
    ちなみに大鵬は45連勝で止まったため、名前は記されていない。
    63連勝を記録した白鵬の名も、まだ、記されていません。 白鵬の引退後に記されることでしょう。

    大関力士碑のすぐ左隣には「巨人力士長身碑」があり、江戸時代からの長身力士12名の名前と身長が刻まれている。最高は江戸時代の生月鯨太左衛門(1827~50)で7尺6寸(約230センチ)。現役の大関・琴欧州(1983~)の204センチよりもはるかに高いことになる。今より平均身長が低かった江戸時代の日本人にとっては、さぞかし大きく見えたことだろう。
     黒い釈迦嶽等身碑は、7尺5寸(223センチ)だった釈迦嶽雲右衛門(1749~75)の等身大の碑なのだそうだ。釈迦嶽は最高位は大関として活躍したが、26歳で急逝。13回忌に弟の稲妻咲右衛門(1754~1804)によって建てられたのです。
     またその傍らには、巨人力士手形足形碑、 強豪関脇碑が建立されていて、メインの横綱力士碑とあわせて、相撲名所として相撲ファンに親しまれています。

    東京でのコロナ感染者数が再び増加してきていますが、落ち着いたら、是非一度、東京深川の富岡八幡宮へ足をお運びください。 地下鉄東西線の門前仲町駅から徒歩で6-7分のところにあります。帰りに、絶品の「深川丼」で舌鼓み。これが一番です。 富岡八幡宮から徒歩圏内に錣山部屋も大嶽部屋もあります。「東京下町相撲散歩」 オツなものですよ。 
    追記:深川丼はほんとうに美味い です。

  • 投稿者:KON

    勧進相撲が再開された貞享元年から深川地域で 最後に行なわれた1801享和元年までの興行の中から深川・本所地域の当時の相撲興行を抜き出すと
     
        1684貞享元年7月 深川永代寺(=現在の富岡八幡)にて勧進相撲開催  <時の将軍は綱吉>

        1688元禄元年~1704元禄17年 深川永代寺、本所業平天神、本所多田業師、本所一つ目、本所亀井戸、本所三つ目、深川万年町、深川八幡社(これも現在の富岡八幡)などにて16度、ほぼ毎年行なわれていました。

        1704宝永年間では、既述の相撲場に加えて  深川三十三間堂でも行なわれ、やはり毎年の七度行なわれていました。
            
        1711正徳元年からの5年間では 本所一つ目稲荷で三度開催。

        1716享保元年から21年間で9度、     <時の将軍は吉宗>
        〇●<この時代に、初代谷風梶之助が登場し、9年間無敗という とてつもない記録が文言として残っていますが、なにぶんにも、「何年の何月の場所で、他になんという力士が番付上位にいて、初代谷風が誰と誰に勝った?分けた?などの詳細の記録が焼失してしまっているのが勿体ない。二代谷風と同様に宮崎県出身ながら讃岐藩主のお抱えとして相撲をとっていたので、区別の為「讃岐谷風」と呼ばれた。>

        1751宝暦元年からの14年間では 12度 ほとんど深川八幡社での開催だったようです。
        〇●<この頃の番付が、現存する最古の江戸番付で 大関に雪見山がいる>
       
        1764明和元年からの8年間では、やはり深川八幡社での興行がほとんどですが、一度だけ、のちに両國國技館が建てられる本所回向院で開催されています。

        1772安永元年からの9年間では、深川八幡宮での開催が大半を占めますが、本所一つ目八幡や深川霊運院、深川御船蔵八幡でも開催されました。
         〇●<安永の終わりに 谷風が大関となり無敵ぶりを発揮、江戸で63連勝、(現在の地方場所にあたる)京都相撲・大坂相撲での本場所での連勝も合算すると 98連勝の偉業を達成>
        
        1781天明元年からの9年間では 本所回向院での開催が深川八幡でのそれより多くなってきています。
        1789寛政元年からの12年間では 本所回向院での開催が圧倒的八割を占めました。
        〇●<元号が寛政となったこの頃に雷電為右衛門が登場して、老いて益々強い兄弟子の谷風とそのライバル小野川の3力士により、相撲人気爆発、11 代将軍家斉による上覧相撲もあって寛政黄金時代となりました。

      まず、この間の興行形態をみてみると、勧進相撲 が再開された貞享~宝永期(1684 ~ 1711)は、興 行は恒常化しておらず不定期に行なわれていまし た。途中、幕府が新規の勧進全般を不許可としてい たため勧進相撲も低迷しますが、1744延享元年には、四季に 1 度ずつ興行されるようになりました。 また、この頃になると本来の名目である勧進は形式化し、相撲渡世のための興行という性格が強くなっ ていきます。そして、江戸において興行体制が整えられつつあった同時期は、京都・大坂でも勧進相撲が 徐々に定期的に開催されるようになり、延享~寛延期 (1744 ~ 1751)には三都で大規模な興行が開催さ れる四季勧進相撲の体制が整いました。  興行場所は、当初は不定期で、深川や本所をはじ め、浅草蔵前八幡や芝神明社などで行なわれていまし た。  
      貞享~元禄期の具体的な興行地を見てみると、 全体で 58 回興行されたなか、深川永代寺では11 回、 本所一ツ目(深川八幡御旅所)で 4 回、深川・本所 地域で開催されました。他寺社では固定化されてい なかった興行地が、深川・本所地域では永代寺や本所一ツ目に限られていたのは、新しい造成地としての 深川・本所地域の性格が関係していたのです。  その後も富岡八幡宮では定期的に興行が行なわれ、 のちの代表的興行場所となる回向院よりも多く行なわれました。
    回向院では、明和 5 年(1768)に初めて大 規模な相撲興行が開催されます。これは、本所の開発が終わり、土地も整ってきた頃です。そして両国が 江戸の盛り場として成長を遂げた明和~天明期(1764 ~ 1789)には安定した興行が開催され、以降、回向院での興行が徐々に増え、天保 4 年からは江戸の 定場所となります。  富岡八幡宮のある深川地域は、当時江戸の庶民 にも大変人気のあった勧進相撲をはじめ、成田山新 勝寺など名刹の出開帳や操り芝居を行なうことで、新 たな市街地としての賑わいを獲得していきました。当 初、勧進相撲は深川地域を拠点として行なわれていま したが、江戸時代の終わりころには江戸を代表する 盛り場となった本所地域の成立や、興行の安定化により回向院へと移っていきました。

  • 投稿者:KON

    大相撲と感染症の関係を江戸時代に遡って調べていた際に
    江戸の相撲の発展のプロセスに関する資料が出てきましたのでご紹介します。

    平安の相撲節会から神事相撲、鎌倉時代に入っての武家相撲へ、さらに土地相撲に変態していき、京阪から江戸に伝わった相撲が、寺社を新・改築していく資金集めの為に興行していった勧進相撲が確立され、客集めに走り過ぎた一時期は見世物的要素が多い色モノに堕落したが、相撲会所がこれを立て直し、京阪の相撲に負けぬ相撲興行にすべく、将軍家斉の御前で相撲をお見せした上覧相撲により一大人気が巻き起こり、勧進相撲が確立され今日の大相撲になっていくのです。

    江東区深川江戸資料館 の資料を紐解くと

    大相撲の歴史と深川
    深川地域と勧進相撲  
    現在、大相撲というと墨田区にある両国国技館を 思い浮かべる人が多いと思います。しかし、江戸時 代まで遡ってみると、大相撲の定場所が両国になる 1833天保 4 年までは深川地域で多く開催されて いました。また江戸勧進相撲の再興の地でもありま す。
    1. 貞享期以前の深川地域  深川地域の歴史は、1590天正 18 年徳川家 康 が江戸へ入府し、江戸への流通を目的とした小名木 川を開削したことに始まります。寛永 6 年(1629) には隅田川沿岸に深川猟りょうしまち 師町が造られ、深川地域は 開拓されていきます。1641寛永18 年には江戸で大火があり、日本橋方面の材木置き場が猟師町周辺に 移転されます。

    2. 「深川総画図」(1658万治元年~1682天和 2 年頃 / 館蔵)によると、小名木川以南、 隅田川沿岸が半島状の土地となっており、材木置き 場と海に囲まれていた土地で、富岡八幡宮より東部 はまだ開発されておらず、ほとんど海で陸地化されて いない様子が描かれています。

    3. 2. 深川地域と勧進相撲  江戸勧進相撲の初めは、1624寛永元年 四谷 塩町長善寺(通称、笹寺)境内での明あかししがのすけ 石志賀之助の 晴天六日の興行と伝えられます。勧進相撲とは、寺 社などの建立・修築資金を集めるために催す相撲興 行のことです。そこでは勝敗等をめぐってしばしば 喧 けんか 嘩口論が起こり、幕府は1648慶安元年より繰 り返し禁止令を出しました。
     ところが、1684貞享元年 富岡八幡宮(深川八 幡、別当の永代寺)において再び勧進相撲が許可さ れました。それまで禁止されていた勧進相撲がこのと き許可された理由は、当時の社会状況から次の 3 つ の要因が考えられます。  1 つは、深川地域の振興策との関わりです。明暦 の大火(1657明暦 3 年)によって江戸市中の大半 が焼失し、幕府は新しい町作りとして、隅田川以東 の深川・本所地域の開発に着手します。それは、武 家屋敷の移転や火除け地や広小路と呼ばれるあき地 の造成、道路や河川の整備、架橋などを進めるもの でした。勧進相撲が再興された貞享~元禄期(1684 ~ 1704)は、深川・本所地域がこのように江戸市中 に組み込まれていく時期にあたります。勧進相撲が新 市街地となった当該地域の振興策の一環であったか らこそ、相撲興行が許可されたと考えられます。  2 つ目は、江戸の治安対策です。勧進相撲が禁止 された期間、相撲を生業とする職業集団は生活に困 窮し、喧嘩騒動を起こす者がしばしばありました。そ こで、彼らに興行の場を与えて相撲渡世を成り立た せたと考えられます。
    3 つ目は、富岡八幡宮の社殿復興です。勧進相撲 が再興される前の1682天和 2 年に社殿を火災で 焼失しており、「勧進」の名目の通り、社殿の復興を 目的としていたと考えられます。  

    4. 深川地域での興行      江戸における勧進相撲は貞享元年に再興され、深 川地域を中心に本所回向院や蔵前八幡、芝神明社などで行なわれました。 歌川豊春画「浮絵和国景跡 江戸深川八幡之図」 1770 年代(東京芸術大学大学美術館蔵)。富岡八幡宮で勧進相撲を行なっていた当時の様子がうかがえます。  

  • 投稿者:KON

    温故知新・大相撲カレンダー
    7月9日

    1969昭和44年7月9日  名古屋場所四日目 

    第47代横綱 柏戸剛が引退を発表しました。

    22歳9ヶ月での昇進で、照國萬藏の持つ「横綱昇進最年少記録」を大鵬幸喜と共に更新。
    横綱在位47場所は、同時昇進した大鵬と並んで(当時の)横綱在位歴代最長記録でした。
    大鵬と比べられ「弱い横綱」という印象を持たれていた柏戸だったが、
    金星配給35個は千代の山の34個を更新する当時の最多記録ながら、横綱在位場所数が千代の山の32場所に対して47場所と長かったためでもあり、逆に、彼より長い横綱在位で彼より金星の少なかったのは、大鵬・千代の富士・白鵬の三人だけです。

    この名古屋場所、初日に高見山を順当に下した柏戸でしたが、二日目は苦手の麒麟児に屈し、臨んだ三日目。
    相手は初顔の押し相撲の朝登。朝登は入幕3場所目、新入幕から8勝7敗を続けただけでしたが、番付運が良く、前頭10枚目→8枚目→3枚目と一気に番付を上げてきたラッキーボーイ朝登。
    この朝登との一番で
     朝登は腰高ながら頭で柏戸にぶちかました。立ち遅れた柏戸はこれを受けられず腰砕けとなった。 朝登は左喉輪で一気に西に押し出した。入幕して間もない力士に惨敗、柏戸はこの完敗に不甲斐ない自分自身を許せず、その夜、師匠伊勢ノ海(元10代柏戸秀剛)に引退を申し出、大鵬との直接対戦では互角の勝負を繰り広げながら怪我と病気に悩まされ続けた「ガラスの横綱」の苦悩に親方も涙して引退を了承。
    翌朝、協会に伊勢ノ海が協会へ引退を届け出た。協会へ赴いて届け出する際にも親方は鼻を真っ赤にして泣いていたそうです。
    柏鵬時代を担って、栃若時代に続く大相撲ブームを牽引した柏戸は土俵を去った。
    「ガラスの横綱」・・・元双葉山の時津風理事長は、「柏戸の身体は瀬戸物で出来ているみたいだ」と嘆き、骨折やヒビが入る大怪我の多い柏戸を憂いた。

    生涯成績 84場所  715勝295敗140休 1003回の出場
    横綱成績 47場所  407勝147敗140休 勝率 .735
    大関成績  7場所  81勝24敗   勝率 .771
    幕内成績 66場所   599勝240敗140休
    幕内優勝 5回、  幕内準優勝 15回    技能賞4回、殊勲賞2回、敢闘賞2回、
    十枚目(十両)優勝1回、 幕下優勝1回。

    引退を覚悟した というか 一番つらかった思いを引退時に番記者に訊ねられ
    この年の春場所での前の山戦を挙げた。
    この時の一番の熱戦譜では
    柏戸が狙った左前褌を取って寄り進んだ。前の山は土俵際必死に右に廻り込み、左四つに持ち込む。 引きつけ合いの力相撲、互いの廻しがやや緩む。そして前の山が向正面に寄ると柏戸は掬い投げで残し、体が離れたところ、柏戸は下がりながら引き落としてやっと決めた。 さて柏戸は 7勝目を挙げたが、関節がガクガクで力が入らない  とこぼし、箸も持てず飯にもありつけずという有様、
    柏戸は引退時の会見で、最も辛かったことを訊ねられ、この相撲のことを挙げた。

    平成最後の人気横綱・稀勢の里と同様、不器用で実直そのもの、曲がった相撲や小細工。立ち合いでの駆け引きが大嫌いだった柏戸は、立ち合いの変化は一度もしなかった。
    引退後、年寄鏡山として副部長在任時の若三杉幹士 – 荒勢永英戦では、双方が待ったを連発した際には再三土俵下から大声で怒鳴りつけ、終いには審判団全員が土俵に上がり両者に注意するなど、待ったや立合いの焦らし、時間前の睨み合いなどには厳しい姿勢を見せた。
    北の富士さんが今でも、『柏戸さんは怖かった!』と幾度も解説席で回想していますね。

    副部長在任時の若三杉幹士 – 荒勢戦では、双方が待ったを連発した際には再三土俵下から大声で怒鳴りつけ、終いには審判団全員が土俵に上がり両者に注意するなど、待ったや立合いの焦らし、時間前の睨み合いなどには厳しい姿勢を見せた。
    昭和30年代後半、経済企画庁長官だった堺屋太一氏が会見の述べたことで流行した「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉に対し
    スポーツ紙の多くは、「女・子供は“巨人大鵬卵焼き”だろうけど、大人は・・特に男性相撲ファンは ”西鉄・柏戸・水割り” だ」と記事に書いていた。(それ以前には、゛女子供は若乃花ファンが多いが、相撲通は栃錦だね”と記事に載っていました。)

    ・・・私がこの言葉を知ったのは小学校に入る前でしたが、保育園の先生や友達に“長嶋・柏戸・ハンバーグ”と言っていました。自分でもそのことを覚えていますし、実際、保育園の卒園25年記念で開かれ参加した同窓会でも、先生から「よく長嶋・柏戸・・・って言ってたわね」と言われました。

  • 投稿者:KON

    感染症と大相撲

    江戸時代の最強大関(最初の横綱免許)だった谷風が 風邪により現役死した一件は、感染症らしきものだったようですが、詳細の文献があまり残っていないので、
    ちょうど100年前に 通称100年前に起きたスペイン風邪について

    1918大正7年
    スペイン風邪の猛威は、4月に当時日本の統治下にあった台湾巡業した大相撲一行を襲い、前頭上位の真砂石(まさごいわ)ら 3名が現地で感染、入院、死亡、ほとんど原因不明の急死とみられていた。

    日本に戻ったあとも巡業に参加した力士や親方たちに体調不良者が多かったが、とにかく五月場所開催を強行。
    すると、高熱のため、初日から休んだ6名に加え途中休場も7名、計13名もの幕内力士が休場して、(19名が休んだ1月場所に続いて) ふた場所つづけて悲惨な本場所となった。
    もとよりの台湾から来日していた人たちとその家族、日中を船舶で往復し下町各所や池袋界隈などにリトルチャイナやリトルタイペイの街づくりをして密集していた中国同胞人の居住区での感染により東京下町に感染が拡がったものだそうだが、
    一般新聞で「相撲風邪」「力士風邪」などという有り難くない呼び名までつけられてしまった。

    この風邪は、世界的には「スペイン風邪」と名付けられて現在に至っているが、
    第一次世界大戦におけるドイツーフランス間の激戦下で、中国人96,000人あまりが前線に導入され、兵士の間で感染死が多数出たが、随所で隠ぺいされたため、戦地にて兵士→民間人→敵軍兵士→終戦後に各母国に帰還したことにより、知識も薬もなく、そもそもそんな病気の存在すら知らず 感染症について無認識・無防備だった兵士たちの家族・友人・近隣住民からみるみる市中感染・・・と、ウイルスが世界中に爆発的に蔓延し、全世界で5000万人以上、日本でも45万人が死亡した。

    1918大正7年五月場所の結果は
    西ノ海は全休して引退し、大錦も全休、鳳は初日負けて休場、大関伊勢ノ濱も初日から休みと、 上位陣は今一つ頼りなかったが、栃木山・千葉ヶ崎・朝潮が場所を支えた。 そして新横綱の栃木山が頭抜けていて、朝潮に敗れたが堂々の 3連覇を遂げたようです。

    それから100年、 春場所無観客、夏場所中止、名古屋場所の開催を東京へ移しての七月場所東京開催で無観客 という 初めて尽くしのような角界ですが、100年前は年間二場所だったので、翌場所(大正8年1月)まで、8か月も休みがありました。それでも、感染した力士たちの体力は回復しきれず、その大正8年1月場所では
    全休4名、途中休場7名で11名の幕内力士が休場、 翌8年5月場所でも全休5名途中休場9名と敬14名の幕内力士が休場したのでした。

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