大相撲のコメント部屋

※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。
※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。

※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。
※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。

externallinkコメント一覧

大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,657件 』

  • 投稿者:KON

    温故知新 大相撲カレンダー 7月7日

    7月7日は、野見宿禰が当麻蹴速に勝った日、そして相撲節会の日。

    神話としては、建御雷神(タケミカヅチ)と建御名方神(タケミナカタ)という2柱の神が、互いの腕をつかんで投げあうという形の相撲をおこなったとされています。

    人と人の相撲の最古のものは、
    野見宿禰と当麻蹴速の試合と言われる。この中では宿禰が蹴速を蹴り技で倒したとされ、少なくとも現代の大相撲とはかなり異なるものであったことは明確であり宿禰は相撲の始祖として祭られています。
    なお、「蹴速」には「蹶速」という表記も見られます。
    垂仁天皇7年(紀元前23年=皇紀638年) 大和国 当麻邑(たいまむら)に当麻蹶速(たぎまのくえはや)と いう者が天下に自分より強い者はいないと申しました。                               
    そこで天皇が群臣に他に力自慢の者はいないかと訊ねられたところ、出雲に 野見宿禰(のみのすくね)がおりますという答えが有り早速両者が呼び出されて試合をすることになりました。
    出雲から呼ばれた野見宿禰が垂仁天皇の御前で当麻蹴速と相対した戦い、これが一般に 「相撲」の起源とされています。

    これは一方が死ぬまでやった訳 で、結果は野見宿禰の勝ち。倒れた当麻蹶速は宿禰に胸を踏み潰され、アバラ骨を 折られて死亡しました。
    残酷な話です。
    そして当麻蹶速の土地は召し上げられて野見宿禰に 与えられます。そして野見宿禰はそのまま天皇のもとにお仕えすることにな りました。
    なお、野見宿禰の子孫は埴輪を焼く作業に関わったため「土師(はじ)」 の姓を賜ります。土師氏も古代有力氏族のひとつです。そして菅原道真らを輩出した学問の家・菅原家もこの土師の一系統です。
    このため天神社に野見宿禰がいっしょにお祀りされている例も見かけます。

    相撲の神様と称される野見宿禰
    野見宿禰神社も有ります(兵庫県たつの市)、東京では両国国技館から東へ北斎通りを 1㎞ほどいった墨田区亀沢に野見宿禰神社があります。
    奈良県桜井市・出雲の十二柱神社(神代(かみよ七神とその後の地神五神を祭神とする神社)には
    野見宿彌の顕彰碑や五輪塔(鎌倉初期の石塔)が建てられています。

    史実として、さらに詳しく記録が残るのは
    皇極天皇元年(642年)百済(くだら)の王族の使者をもてなすため、健児(こんでい)に相撲を取らせたことが 『日本書紀』 に書かれています。これが史実における相撲記事の始めとされています。
    神亀3年(726年)聖武天皇が伊勢大廟をはじめとして21社に勅使を遣わし
    この年の豊作の感謝の意味をこめて諸社神前にて相撲を奉納しました。

    天平6年(734年)7月7日聖武天皇が野見宿禰と当麻蹴速の試合の故事に因み七夕の日、全国の相撲人を集め宮中紫宸殿の庭で相撲を取らせた『続日本紀』・これが天覧相撲の 最初の記録となり この頃が 相撲節会(すまひせちえ)の儀式の始まりとされています。

  • 投稿者:KON

    7月19日からようやく始まろうとしている七月場所にむけて、
    (記録が残る最古の江戸相撲大関から数えてちょうど250人目の大関となった朝乃山が、角界初のリモート記者会見に臨んだ。

    新大関に昇進後はずっと自粛生活。基礎運動でみっちり全身を鍛え抜くとともに、取り組んだのが“イメトレ”。過去の名横綱、名大関の映像を繰り返し見ては自身に重ねた。
     三重ノ海、北の湖、千代の富士、北天佑、霧島、師匠の高砂親方(元大関朝潮)にくぎ付け。「昔の映像をあまり見たことないので。(すごい横綱は)千代の富士さんです」とうなずいた。
     得意の右四つをさらに磨くことが、「もう一つ上(の地位)を目指す」上で必須条件。「どうやったら右四つになるか、なれなかったからどう対処しているか動画で見た」と、名力士の取り口が大いに勉強となった。
    とのことでした。

    朝乃山の師匠、四代朝潮は、時の大横綱北の湖が大の苦手として力士でしたね。二人の対戦成績は、朝潮の13勝7敗と、ほぼダブルスコア。
    一方、北の湖の後に天下を取った千代の富士とは(優勝決定戦での2敗を含めて)15勝31敗、千代の富士が大関に昇進して以降は、11勝28敗。 昭和59年に4連勝した以外は相手にならなかった。

    しかし、千代の富士が天敵として嫌った隆の里には 朝潮の14勝12敗と合い口が良く、「三すくみ状態」でしたね。

    四つ相撲の上手い北の湖や怪力隆の里を攻略して勝ち越してた師匠に、白鵬・鶴竜をどう攻略していくかをよく教えてもらってください。

  • 投稿者:SAI

    7月6日は第63代横綱・旭富士の
    伊勢ヶ濱親方の誕生日です♪
    相撲の本場・青森県出身で現役時代の強さ
    親方になってからの名伯楽ぶりと大活躍です♪
    これからも頑張って下さい♪

  • 投稿者:KON

    七月場所が開催となっても、横綱白鵬は休場するようです。
    出稽古禁止という状況が一番の原因らしく、部屋の関取は超小兵の石浦や炎鵬だけで、本場所へ向けての実践稽古相手にならない。
    しかし、休場して秋場所へ準備しようにも、東京の感染拡大が収まらないどころか感染者確認数が連日増え続けている状況。
    一部民放テレビの情報バラエティ番組が春に期待していた「梅雨から夏に高温多湿になればインフルエンザ同様に下火になるのでは・・}という甘い期待は外れました。当時、赤道に近いインドネシアやタイでも感染者が出ていたので日本の夏がウイルスを弱めるとは到底思えませんでしたよね。
    秋場所を無観客で行なうとしても、出稽古禁止は、関取の少ない部屋の力士には、本格的稽古ができずに本場所突入となり怪我の原因にもなりかねない。
    窮地に追い込まれてきました。自粛に飽きた若者がキャバクラやホストクラブ・ニューハーフパブで大騒ぎしたり、おじさんたちが会社や家族の手前、感染経路を言えないような「風俗店での濃厚粘膜接触」して感染・ウイルスまき散らしをしてるかぎり、コロナは終わりませんねえ。

    期待するのは、ワクチン。  これだけでしょう。

  • 投稿者:匿名

    東京では感染者が急激に増えてきて怖いですね。
    このまま増えていったら、野球やサッカーなどは観客を入れての開催も延期になるかもしれないですね。
    7月の相撲は大丈夫かな?
    また自粛となったら開催が中止になってしまうのかなと思ったり。
    相撲も観客を入れての開催は来年の話になるのか?
    全く、先が見えない現状は不安感いっぱいです

  • 投稿者:KON

    五月夏場所が開催中止となって、ようやく七月場所か と 楽しみにしていたところ、怪しい雲行き?の記事がスポーツ紙に出ていました。

    たかが出稽古、というわけにはいかない。  相撲協会の芝田山広報部長(元横綱大乃国)が先月29日、いまだ禁止されている出稽古について「今のままでは厳しい」と話した。  協会は同日、執行部の会議が行われている。芝田山親方の意見が彼らの総意だとすれば、7月場所(19日初日)は出稽古なしのぶっつけ本番になりそうだ。しかし、それではケガ人が続出しかねない。関取を複数抱えている部屋は出稽古ができなくても十分、実戦稽古は積める。問題は関取が1人しかおらず、次点の力士が幕下以下で、実力に開きのある部屋だ。  こうした部屋の力士にとって、出稽古は必要不可欠。自分に近い実力の力士と稽古ができなければ、調整にならない。いくら弱い兄弟弟子と相撲を取っても、本気を出さないうちに勝負が決まってしまう。調整もロクにできないまま本場所で全力を出そうものなら、それこそ国技館の相撲診療所に連日、長蛇の列……となってもおかしくないのだ。
    このままでは休場濃厚といわれているのが横綱白鵬(35)。年齢に加え、近年は故障にも悩まされている。  所属する宮城野部屋には炎鵬、石浦という幕内力士がいるものの、いずれも100キロ前後の軽量級。151キロの横綱の稽古相手にはならない。  横綱だから休場しても番付はそのままだから無理をする必要はないが、休んだら番付が落ちる大半の力士は調整不足と故障の不安を抱えながら、土俵に上がるしかない。
    「警戒しすぎ」の声もあるが…  多くの力士が出稽古に赴くのは近隣の部屋だ。電車やバスではなく、部屋の車か自転車などで移動することになるから「警戒しすぎじゃないか」という声もある。  それでも今年5月に勝武士(享年28)が新型コロナウイルスに感染して帰らぬ人となっているとあれば、慎重にならざるを得ない。  東京都では連日、50人以上の新型コロナ感染が報告され、30日は54人。このまま感染者が減らないようなら出稽古解禁どころではない。  ケガ人続出か感染危機か。7月場所中止の可能性も大いにありそうだ。

    6月12日からぶつかり稽古を再開した横綱の白鵬ですが、一部報道に、直近の写真が公開されると、愕然としたファンも多いのではないか。
     二の腕の太さこそ変わりないものの、明らかに張りがなく、前腕部も浮き出た骨が目立つ。張りがないのは突き出た腹の回りも同様だ。
    新型コロナの影響でぶつかり稽古や相撲を取る稽古は長く制限されていた。四股やテッポウといった基礎だけでは、体を維持するのも限界があるということだろう。
     とはいえ、そこは体幹の強さや運動神経が自慢の横綱。目に見えない部分の力は、他の力士の追随を許さない。7月場所まで残り1カ月(19日初日)。
    希代の横綱がどこまで仕上げてくるか、見ものだ。

    ・・・七月場所も中止?なんてことにならず、無事開催されることを心より希望します。
    東京エリアの感染者が減らないどころか微増傾向がつづいているので心配です。

  • 投稿者:KON

    七月になりました。オリンピックで盛り上がるはずの2020年が半分終わりました。

    未曽有のコロナ騒動で、今年の前半は、何の思い出もなく終わりました。

    強いて言えば、正月初場所で、国技館のチケットが手に入らず、寒い中、前夜から国技館で、一睡もせずに並び、観戦したことが唯一の思い出ですね。
    そして春場所は無観客で開催。
    そして、コロナで緊急事態宣言発令、各方面に甚大な被害が出て、オリンピックは延期。聖火ランナーで200mは知る予定だったのにキャンセルされ、いいことなし。
    この6月で勤続丸45年となり、会社を退職しました。

    しばらく体力的かつ精神的な疲れを癒し、ゆったりと生きてみます。

    大相撲関連のテレビ情報では

    今夜、NHK①
    サンドのお風呂いただきます「秩父編」

    [総合]7月1日(水) 午後8:15~午後8:42
    【司会】伊達みきお,富澤たけし,【ゲスト】舞の海秀平
    大人気観光地・埼玉県秩父市で元力士の舞の海さんと爆笑湯けむり 旅!まずは、秩父名物みそポテトとジビエ料理のいのししの串焼き
    を堪能。続いて、元力士が 夫婦で営む農家屋敷を改装した温泉旅館 へ。力士時代の化粧まわしや横綱・白鵬から送られた反物など貴重
    な品を拝見し、武蔵川部屋直伝の絶品ちゃんこ鍋を頂 く。幕内に上がるまでの長い下積みを支えた妻の愛情に感動し、稀勢の里や武蔵
    丸も入浴したという大釜風呂に癒やされる。

    ・・・「舞の海さんの解説が嫌いだから」と舞の海さん個人を批判する人がいるようですが、
    あの小さな体で曙・貴乃花や武蔵丸に果敢に立ち向かい、金星を挙げていった小兵力士:舞の海さんの工夫と奮闘ぶり まで否定するものではないですよね。
    私は、舞の海さんを応援しています。今夜の番組も楽しみです。

  • 投稿者:KON

    温故知新・大相撲カレンダー 6月24日

    1580天正8年6月24日
     安土御山で織田信長による上覧相撲が行なわれた。
    織田信長は深く相撲を愛好し、元亀・天正年間(1570~92年)に近江の安土城などで各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えたのでした。
    信長の家臣となれるのであれば・・・と、力自慢たちは、目の色を変えて参加したそうです。
    戦国時代に入り、各大名は相撲を武術として推奨するようになりましたが、 刀を持って1対1で戦う際、相撲の技を身に付けているか否かで勝敗が決まる事もあったそうです。
    そうした中でも織田信長は、大変な相撲好きとして知られ、信長の事を記した「信長公記」という史料には、何度も相撲大会の記述が出てくるほどです。

    織田信長が開催した相撲大会には近江国中の力士が集められたと言われています。
    1570年に近江国の常楽寺で開催された大会で勝ち残った、鯰江又一郎と青地与右衛門という人物は優秀な力士として有名で、褒美に太刀を賜ったほか、信長の家臣として召し抱えられたという話が残っています。
    また、1578年に開催された相撲大会では、力士だけではなく力自慢の武将自身が力士として参加した事でも知られています。その中には蒲生氏郷や堀秀政など、後に大大名になった武将の名前も見られます。また、この大会では1500人もの力士が集ったという記録も残っています。
    信長の相撲大会で優秀であった力士を家臣に召し抱えられ、太刀や土地を与えていたことから、立身出世のチャンスの場でもあったのかもしれません。彼らの中には侍ではない者や素性の定かではない者も少なからず居たとされており、もし本能寺の変が起こらなければ、第二、第三の秀吉のように大出世する者も現れたかもしれませんね。
    こうして召し抱えられた力士の中には、最期まで信長に従い殉じた者もいたという話もあるので、信長と家臣とを繋ぐ大切なコミュニケーションの一つになっていたのではないでしょうか。
    土俵を考案したのは信長だった!?
    江戸時代中期に当時の行司が記した書物に、織田信長が土俵を考案したという話があります。しかし、実際に土俵の歴史を見ていくと、織田信長が土俵を考案したという説は信憑性が低い説です。
    戦国時代以前の相撲でも、土俵の元となるような「人方屋」と言われる輪の中で相撲が取られた記録が残っています。
    また、現在の土俵の元になった四本の柱と俵を使った土俵は大相撲興行が盛んに行なわれるようになった寛文年間(1661~1673年)に成立したと考えられており、これは織田信長が生きた時代より後の時代にあたります。
    しかし、織田信長が相撲の勝敗を明確にするために努力していたようで、織田信長が相撲史に尽力したということが土俵考案の説を根付かせた理由の一つかもしれません。
    現在ではスポーツとして扱われることが多い相撲ですが、戦国時代では武術として推奨されていたのでした。
    中でも、織田信長は相撲を家臣との間で上手く使い士気を高めていた事で知られています。信長と相撲のエピソードは、日本人としてこの相撲の歴史の奥深さを垣間見られる瞬間だと思います。
    また、「信長は土俵を考案した」という説からは、それ程までに信長が相撲好きだったのか!という事が分かるなと思えてきます。
    信長は相撲見物を好みました。しかし、信長の出身地である尾張は相撲があまり盛んではなかったので、相撲に接したのは上洛以降のことと考えられていますが、上洛以後は相撲見物を大変好むようになりました。なかでも天正6年(1578)8月に安土城で行われた相撲大会は盛大なものでした。
    「相撲の事 戊寅三月廿九日、江州国中の相撲取三百人召し寄せられ、安土御山にて相撲をとらせて、御覧侯。此の中、廿三人撰相撲これあり。」【太田牛一『信長公記』】
    相撲人の取る相撲は人気の興行でした。
    近江を中心に各地から相撲の巧者を集めて しばしば安土城で鑑賞し、優秀なものに褒美を与えたり家臣に召し抱えたりもしています。さらには京都の御所でも天皇や公家を招いて「上覧相撲」を度々催しました。
    天下人 信長の庇護によって、再び相撲の権威は大きく高まることになりました。
    またこれに倣って秀吉も信長と同様に「上覧相撲」を催しています。徳川家康も相撲見物したことが記録に残っています。秀吉と家康も相撲との接点がありましたが信長ほどの熱意は感じられません。
    相撲を一番愛した武将は、 織田信長です。

  • 投稿者:KON

    大相撲存続の危機の歴史 最大の危機
    明治の世が始まって間もなく、新政府から出された二つの法令が、大相撲を窮地に追い込んだ。
    明治維新直後、大相撲は存亡の危機に直面した。鎖国から解かれた日本の社会が急速に欧化し、“まげは文明開化に逆行する前時代のもの”とされた。さらに、法で裸が禁じられ、「相撲絶対禁止論」まで叫ばれた。
     「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」。 いまに伝わる明治初期の囃し歌。
    その対極で、“おっぺけぺえ節”では、こう歌われた。「半髪(ちょんまげ)頭をたたいてみれば、因循姑息の音がする」・・・いんじゅうこそく=古い習慣に頼って、その場をしのごうとするさま。
    まだまだ、着物姿の庶民が圧倒的に多かった明治初期だが、まさに欧州化推進の考えが主流を占めてしまっていた。
     まず、1871明治4年に太政官布告として世に告知された「散髪脱刀令」。
    髪形は自由で、華族や士族は刀を差さなくてもいい、という法令だが、「まげを切る義務」と受けとられた。
    続いて「裸体禁止令」が出ると、ふんどし一丁で戦う相撲は「野蛮である」とされた。
    1942昭和17年に刊行された加藤隆世著「明治時代の大相撲」によると、
    政官界に「相撲絶対禁止論」が吹き荒れた。西郷隆盛や伊藤博文、板垣退助らが相撲擁護に回るが、相撲禁止論は強まるばかり。
    そこで、薩摩出身の警察官僚・安藤則命が、社会奉仕のための力士消防組合の設立を提案した。
     大男が火事場で何の役に立つのか――と反対派から一笑に付されるが、力士側は粘った。運動会を開いて機敏さを披露し、眼鏡にかなえば設立を許してもらう約束を引き出したのだ。
     千葉・館山周辺の屈強な漁師5人を招き、5人対力士1人で綱引き。これに圧勝すると、力士と俊足の人力車夫がそれぞれ8人ずつ出てきて、駆けっこ(リレー)で競った。
     最初は車夫がリードしていたが、周回を重ねるうちに次々と車夫はダウン。根性に勝る力士が勝利した。やっと認められた消防組合では力士1人で「十人力」以上の働きをしたと伝わる。
     こうして、力士のまげは残り、大相撲そのものも存続できた。
    広報部長時代、自腹で渡米し、大リーグを視察した八角理事長は「大相撲が同じことをやってもダメだと痛感した。逆に大相撲にしかない魅力に気がついた」。 時に「守旧」の色を強く感じさせる角界。だが、国技館に一歩入れば、そこに江戸があることこそが、人を引きつけ続けるという。
     理事長は言う。「七三分けや角刈りの力士が相撲を取っていたら、平成の世まで大相撲は残らなかったよ」

    この文明開化の時のピンチに較べれば、高砂改正組事件や三河島事件、力士分裂となった春秋園事件、双葉山逮捕の騒動、理事長割腹事件、時津風部屋暴行死事件、大麻騒動~野球賭博~八百長騒動、朝青龍騒動や横綱日馬富士暴行事件、貴の乱 などは、陳腐なマスコミ記事の見出しに安易に使われる「大相撲存続の危機」でもなんでもない。

  • 投稿者:KON

    温故知新・大相撲カレンダー 6月23日
    西暦938承平8年 摂政藤原忠平が 相撲節会(すまひせちえ)を中止すべき事を命じる。
    大相撲の危機の最初がこの事件といえる。

    相撲節会は、B.C.23垂仁天皇7年7月7日に垂仁天皇の御前で行なわれた「野見宿禰と當麻蹶速の壮絶な闘い」に因んで、奈良時代から平安時代にかけて宮中行事の一つとして、元号が延暦だった時代(782年~806年)に始まり、毎年7月に行なわれるようになった天皇御前での相撲大会で、天皇が宮中で相撲を観覧され、参列の諸臣と饗宴を催された。
    延暦以降一二世紀までは七月に行なわれた。相撲使(すまいのつかい)を地方につかわして相撲人(すまいびと)を召し出させる。七月二六日頃に相撲の下げいこである内取(うちどり)が仁寿殿で行なわれる。二七日頃に紫宸殿で召合(めしあわせ)があり、はじめは二十番、後には十七番の相撲が行なわれ、翌日には、天皇に指名された者が相撲を行なった。これを抜出(ぬきで)という。
     毎年40人ほどの強者が近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。成績の良いものは、宮中警護の役にありつくことができた。
    残っている中での最古の記録は 西暦734天平6年のものであるが、節会を統括する相撲司(今でいう 行司)の初見は 西暦719養老3年であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕の宮中行事の余興としての位置づけであったが、開催するにつれ相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともにさらに華やかさを増した。
    しかし同時に、健児(こんでい=地方軍事力として整備された軍団)を選出=宮中警護人の選抜 という本来の趣旨は次第に忘れられていった。
    12世紀に入ると律令制の衰退、都(みやこ)の政情不安定とともに、貴族が悠長に遊んでいる場合ではなくなってきて、相撲節会は滞るようになり、宮中警護隊の弱体化を案じた摂政藤原忠平が、西暦938承平8年 相撲節会(すまひせちえ)を中止すべき事を命じる。
    藤原氏の発言力は強く、1174承安4年を最後に節会は廃絶となりました。

    しかし、鎌倉時代になって、頼朝が相撲を推奨したこともあり、形を変えて復活していきます。

    他方、神社における祭事として相撲をとる風習(神事相撲)が生まれ、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼として相撲が位置づけられていく。これは一貫して21世紀になっても続いている。
    兎に角、いったんは根絶されてしまった相撲節会だが、時代が下って、武家社会となり、相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、武芸のひとつ「組み打ち」の鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士の棟梁となった源頼朝は特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行なわれた。室町に入って以降、相撲に興味を示さなかった足利氏が滅ぶと、信長・秀吉をはじめ、多くの戦国大名が熱心に「相撲人(すまひびと)の養成」に注力した。民間における土地相撲も京都を起点に、東へ西へと流行っていきました。
    江戸時代になると、土地相撲が興行化されていき、神事として五穀豊穣を祈念する相撲という色合いが強くなり、勧進相撲として寺社仏閣の建築費や既存の寺社の修復費の捻出を主な目的として、民衆から木戸賃を取って観覧させるようになった。18世紀末の徳川家斉が初の上覧相撲を開催してからは、江戸の相撲が力を増し、京都相撲・大坂相撲を凌ぐ勢いとなり、現在に至っています。
    つづく

  • 1 296 297 298 299 300 466

    コメントを残す

    日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)