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北の富士さん 会心の一番 (拾八 後のライバル玉乃島に関取になってから初勝利 二歳年下の玉乃島とは同じく中卒で角界入り。つまり北の富士が2年先輩ながら十両時代には、十両全勝優勝の時も含めて玉乃島と2戦して2度とも勝ちましたが、 幕内に入ってからは、二戦して二敗。何故か勝てない北の富士。二戦目などは、入幕五場所目にして、大関一歩手前の東関脇に番付を上げていた昭和39年秋場所の北の富士でしたが、4勝2敗で迎えた七日目に玉乃島と対戦、土俵際で寄り倒されて完敗。ここから7連敗して負け越してしまいました。 そして迎えた昭和39年九州場所四日目 左四つに組み止めることに成功した北の富士が、寄りながらの右上手投げで玉乃島に初勝利したのでした。 これで北の富士対玉乃島の対戦成績は北の富士の1勝2敗。 以降、ほとんど休場なく活躍し続けて柏鵬時代の後を担った北の富士と玉乃島(後の玉の海)は、毎場所のように熱戦を繰り広げ、北の富士の22勝21敗とまったくの互角でした。 二人の相撲っぷりは 身長で勝り、突っ張りからの左四つ、出ながらの上手投げや、出ながらの右外掛けが冴える北の富士。 無類の肩幅の広さと生来の足腰の強さで吊りを得意とし、正攻法の右四つ左上手の型を完成させ、双葉山の再来と噂され始めていた玉乃島改め玉の海。 北・玉 二人とも、大鵬と柏戸以外には、追いかけてくる大関陣にもほとんど勝ち越し、苦手を作らなかった。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い?日 非朝日系夕刊紙の相撲担当記者とデスクの会話 記者 「10日の午前5時半ごろ、東京都足立区舎人の毛長川に架かる橋から飛び降りた30代の女性を、境川部屋の力士約20人が救出しました。女性は自殺を図ったそうですが、病院に搬送されて命に別条はなし。警視庁竹の塚署は、境川部屋や救助を求めた70代の男性に、感謝状を贈るそうです」 デスク「朝5時半から起きてるとは、さすが相撲部屋だな」 記者「通りがかった70代男性が助けようとしたが力及ばず。大声で助けを呼んだところ、境川親方(57)=元小結両国=が気づき、力士たちが川から約2メートル上の道路まで引き上げたそうです」 デスク「お手柄だな。テレビ朝日が第一報だったようだけど」 記者「一昨年10月に元貴乃花親方を無許可で出演させて相撲協会の怒りを買い、出入り禁止を食らいました。いまだに解除されていないようで、テレ朝では相撲の結果は流れません」 デスク「こんないい話を真っ先に報じたんだから、出禁も解いてあげたらいいのにな」 坊主(貴)憎けりゃ 袈裟(局)まで憎い?
境川部屋の力士約20人が10日朝に、川に転落した30代の女性を救助していたというニュースが11日に出ていましたね。 足立区の部屋近くの毛長川に架かる橋から女性が飛び降り、通行人の男性が助けを求める大声に師匠の境川親方(元小結両国)が気付き、力士らが駆け付け、女性を川から引っ張り上げた。 関係者によると時間は同日の午前5時半ごろ、稽古前の出来事だった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、最近の稽古は午前7時開始となっていたという境川部屋。幕下以下の力士を指す「若い衆」も、大部屋で寝ている時間だった。 場所は部屋から徒歩30秒とかからない、毛長川にかかる「ふれあい橋」。女性が橋から飛び降りた。自殺を図ったとみられる。通りかかった男性が助けを求める大声で、師匠の境川親方が事態に気づいた。大部屋につながる内線をかけて、若い衆を起こし、救助に向かわせた。稽古前だったため、まわしを締めていなかったという。力士らは橋の下の一段低くなっている川岸から、女性を引き上げた。女性は搬送時、意識があり命に別条はない。 劇的な人命救助だが、師匠は救助したときの状況について一切語らずに泰然としていた。「(救助された女性を)そっとしておいてあげてほしい。ぺらぺら語るのはかわいそう」と女性の心境を推し量った上で「いいことをしたとかはサラサラない。男として当たり前のことをしただけ」。謙虚な姿勢を崩さず、事もなげに話した。 ・・・人命救助、直面したなら当たり前と思うのか、実際に自身が救う行動を取れるのか? それにしても、ワイドショーは、どうでもいい漫才師の複数不倫だとかトイレ不倫のことに時間を割き過ぎ。 境川部屋のことをもっと報道してほしい気もするが、反面、取材記者というのは、得てして、被害者を白日の下に晒して無遠慮にいじくりまわしてしまいがち。 だから報道しないほうがいい・・・とも思います。 相撲投稿サイトでは、境川部屋絶賛のコメントが続々。 その一部をご紹介します。 さすがは浪速の大関豪栄道を育てた親方! 助けたことは男として当たり前、命拾いした女の人のこともあれこれ詮索するなと、男らしい優しさに感動です。七月場所での境川部屋の奮闘楽しみにしています! こんな事があっても無くても境川親方の真っ直ぐな男気は存じておりました。 でも、お弟子さん達にもその立派な精神が受け継がれているのを知り、改めて素敵な部屋なんだなと感じました。 男が惚れる男ですね~。 豪栄道関が引退会見で「師匠の男っぷりの良さを見習いたい」と おっしゃっていたのを思い出しました。 七月場所、無観客でもいいので開催できますように。 「気が優しくて、力持ち」・・・こんな言葉がピッタリ。 やっぱり“お相撲さん”は素敵です。 女性の気持ちを考えてべらべらと話さない。 他人を思いやる気持ちのお手本みたい。 マスコミが想像で嘘の報道をしないことを願います。 流石 境川親方、日本を代表する漢の中の漢 高倉健の様に余計な事は語らず相手を気遣う 当たり前の事をしたと言うが、当たり前の様に出来る若い衆を持った親方 親方の心意気を受け継ぐ弟子達 こんな素晴らしい心根を持つ漢達に益々心を奪われる。 お見事です カッコいい。そりゃ嫁さん例外なく美人だわ 思い詰めているであろう女性のために、マスコミにさりげなく釘までさしてくださって、素敵です。 女性にとっていい転機になりますように。すぐに人を呼んだ男性も英断ですね。 たとえ相手が子供でもパニックに陥った人を一人で助けようとすれば溺れることは多いです。 ・・・無観客ながら, なんとか七月場所開催、そして成功を願っています。
北の富士さん 会心の一番 (拾七 八度目の幕内優勝、でも、優勝パレードをキャンセルして飛び出した! 優勝を決めたのは13日目 1971昭和46年九州場所十三日目 優勝決定が懸かっている一番だというのに、まあなんとも盛り上がらない割が組まれた。 ここまで11勝1敗の横綱北の富士に対するは前頭筆頭の錦洋、ここまで6勝6敗。初の三役へ向けて気合い十分の錦洋ではありましたが、 結果は予想通り、いとも簡単に北の富士が錦洋を下し、8度目の幕内優勝! 頭から、パチーンと当たった錦洋でしたが、北の富士へこれを受けとめてから逆に押し返し、左を差してから間髪入れずに肩透かし。 これが見事に決まって、12勝1敗。 わずか2秒で勝負あり! ほとんど汗もかかずに仕留めた北の富士。 これで8度目の優勝を決めたのでした。 しかし、千秋楽は、気もそぞろ。 気のない相撲で大麒麟に敗れて2敗。 優勝パレードをすっぽかして、故・玉の海の四十九日法要へ飛んで行った。 この場所は、玉の海急逝につき北の富士がひとり横綱。大関陣が四人もいたが、琴櫻は六日目から休場、残りの三人(大麒麟・清國・前の山)も揃って星が伸びずに勝ち越せるかどうかわからない状態という体堕落(ていたらく)。 十四日目も勝って13勝とした北の富士の千秋楽は大関大麒麟戦。 負けた北の富士は表彰式を終えると、優勝パレードを固辞して帰り支度。 盟友玉の海の四十九日法要に臨席する為に、この日の昼に予約しておいた飛行機に飛び乗ったのでした。 優勝パレードを楽しみに会場前に集まっていた福岡のファンでしたが、広報からの 『 優勝した北の富士は、ですね、先日亡くなった玉の海関の四十九日法要が今夜ありまして、横綱はそちらに向かいますので、今夜の優勝パレードはございません。申し訳ありません』とのアナウンスに、みなさん納得し、拍手が巻き起こり、 『そうか、それならしょうがない。俺たちはいいから、早く法要に行ってやれ。』と声援が飛びました。 北・玉 両横綱こそ、真のライバルだったと、敢えて申し上げたい。 ライバル横綱と称される時代はいくつもありました。 しかし、栃・若は二人のピークが少しずれていた。 輪島と北の湖の“輪湖時代”も、朝青龍と白鵬の“青白時代?”も然り。 一番強い時期が2年〜4年は ずれてましたね。 北玉と同じく“横綱同時昇進”した柏鵬時代は、度重なる怪我や病気に悩まされた「剛の柏戸」に対し、怪我をしにくい相撲を取る「柔の大鵬」。柏鵬直接対決では拮抗していたものの優勝回数で大差がついた。 ライバル二人が同時期に同力量だったのは、明治時代に “梅・常陸時代 ” がありましたが、昭和では“北玉時代”だけでしょう。 平成の“曙・貴時代”が、それに近いか? 玉の海が右四つ、北の富士が左四つ。土俵入りも玉の海が不知火型で、北の富士が雲龍型。取り口も性格も正反対。ほとんど酒を口にせずに夕食後も四股を踏み続ける玉の海に対し、“夜の帝王”北の富士は、銀座の夜に出稽古する社交家。 陽の栃錦と寡黙な若乃花 剛の柏戸と柔の大鵬 そしてムラっ気ながら調子に乗ると手がつけられない北の富士と安定感抜群の玉の海 まったく異なる二人のコントラストが、頻繁に雑誌の記事になっていました。
5月13日に新型コロナウイルスによる肺炎で、大相撲の勝武士(享年28)が死去してもうすぐ1カ月になります。早いもので、東京アラー発令して解除してバタバタしてるうちに、7月場所を無観客で東京で行なうという準備が進んでいます。 しかし、勝武士がなくなった問題で、日刊ゲンダイが疑問を強く持って記事にしています。 力士死亡、、、国内初の20代のコロナ死は大きく報道された。保健所につながらず、診療機関をたらい回しされるなど発症者の受け入れ問題も浮き彫りになった。勝武士の訃報に接し、若者でも死に至ることや医療体制の脆弱さを考えさせられた。 ところが、厚労省は鈍感だ。最新発表の「新型コロナウイルス感染症の国内発生動向」(6月3日18時時点)では、20代の死亡がゼロになっている。まさか、勝武士の死を知らないのか。5日、厚労省に聞いた。 「厚労省では自治体からの情報を集計しているが、20代の死亡は自治体から上がってきていません」(対策本部広報班) 同日夜、東京都の感染症対策課は「20代の死者は、厚労省に報告している」として、「新型コロナウイルスに関連した患者の死亡について(第344報)」を示した。確かに「20代男性、居住地都内、診断日4月10日、死亡日5月13日」との記載がある。明らかに勝武士の事例だ。 真っ向から食い違う両者の説明 そこで8日に改めて厚労省に聞くと「都が20代の死者を発表していることは承知していますが、正式なルートで入退院の状況など詳細を記した個別具体的な報告が上がってこない。20代の死者がゼロなのか1なのかは重要だとの認識は持っています。正式な報告をするように担当者から東京都に督促します」(前出の広報班)と答えた。 6月9日、改めて都にぶつけると、「第344報のように日々の報告をしているだけです。それとは別に、厚労省に詳細な報告は従来からしていません。厚労省から詳細な報告の督促もありません」(前出の感染症対策課)といぶかしげな様子だった。 さらに厚労省に聞いてみると――。 「担当者によると、都の報告は感染症法に基づく正式な届け出ではなく、勝武士はカウントされていないようです。ただ、(正式ではない)都の報告に基づいてカウントすることもある」(前出の広報班)と答えた。もう、チンプンカンプンだ。 結局、厚労省の発表は、9日の時点でも20代の死者がゼロのまま。厚労省は、勝武士の死をカウントせず、1カ月近くも、世界に“誤報”を発信し続けているのである。 そもそも、夕刊紙が指摘するまで 省内で「おかしい」という声は上がらなかったのか。他にも誤報がありそうだ。 というか、感染者数、死亡者数、退院した人数、重症患者数、などいろんな数字がすべて信用できなくなってきた。中国や韓国の虚偽報告を真似ているのか?
北の富士さん 会心の一番 ( 拾六 北の富士幕内500勝 昭和47年九月秋場所初日の小結富士櫻戦。押し相撲で小柄な富士錦を上手投げ。赤子の手をひねるようにいとも簡単に勝って、幕内500勝を達成しました。 これはひと場所十日間興行で年間ふた場所時代では到底達成できない記録で、 初めて到達したのが栃錦、 続いて、初代若乃花、大鵬、柏戸、出羽錦、鶴ヶ嶺ら数名しか到達してなかった幕内500勝力士の仲間入りとなったのです。 富士錦とは節目節目で対戦して勝利しています。 昭和40年七月名古屋場所十四日目、 前頭二枚目でここまで7勝6敗だった北の富士が富士錦と対戦、今の貴景勝のような体つきの富士錦を長い手足で左四つに組み止めるやいなや、上手投げて仕留めた。これで勝ち越し決定。 佐田の山・大鵬・柏戸の三横綱が好調で揃って12勝以上挙げた為、三役陣(関脇の琴櫻と玉乃島、小結の明武谷が皆負け越していたので、北の富士は三役に復帰しました。 これで翌場所に小結へ再昇進した北の富士は、そこで10勝、すぐに関脇に上がって5場所連続勝ち越して、大関昇進となりました。 つめりこの富士錦戦が北の富士の平幕最後の勝ち星だったのです。 実は北の富士さんは、既述のように新入幕の場所で13勝の大勝ちして小結まで大躍進。そこでは “ 位負け ” してしまい負け越して平幕(前頭五枚目)に一度落ちましたが、 その場所(昭和39年夏場所)では、 三横綱(大鵬10勝・柏戸11勝・栃ノ海13勝=優勝)のみならず、四大関(北葉山12勝=準優勝・豊山9勝・佐田の山11勝・栃光11勝)が揃って好調を維持した為、 関脇の大豪と開隆山・小結の廣川と若見山・前頭上位(筆頭〜前頭三枚目までの小城の花と明武谷・清國・前田川・鶴ヶ嶺・青ノ里)の十人かすべて負け越し。よって、四枚目で勝ち越した沢光や六枚目で10勝した羽黒川、そして五枚目て9勝した北の富士が新関脇に昇進したのでした。 その後、三度、平幕に落ちましたが昭和40年名古屋場所で十四日目に富士錦を“北の富士スペシャル”の上手投げで下して勝ち越し。 以降は、一度も平幕には落ちてません。 結局、北の富士さんは平幕をわずか5場所しか経験していないのです。 北の富士さんより平幕経験が少なく大関、横綱に上がっていった強豪力士は 安藝ノ海、千代の山、佐田の山が平幕を四場所、 東富士、大鵬、双羽黒、武蔵丸、朝青龍らが三場所 照國、前田山、羽黒山がたったの ふた場所でした。 江戸から昭和の終戦までの「古今十傑」に名が挙げられる横綱たちでは 稲妻雷五郎が平幕をひと場所。 小野川喜三郎が四場所 谷風梶之助が六場所 陣幕久五郎が九場所 初代梅ヶ谷藤太郎が五場所 常陸山谷右衞門が三場所 太刀山峰右衛門が五場所 栃木山守也が三場所 双葉山定次が十場所、平幕を経験しています。 幕内の番付枚数が六枚目までとか八枚目までしかなかった といった江戸時代後期ではありますが、その頃は今と違って、横綱という番付の位はなくて最高位は大関、そして張出大関などいませんから、東西の三役( 大関・関脇・小結 )が定員6名、そこで負け越した力士がいなければ、いつまでも平幕止まりでした。 これらより凄い記録は? 大相撲の歴史では、 関脇付出しでデビューした雷電為右衛門が、一度も三役から落ちることなくデビューから8場所目で大関に昇進。 その間の成績は 54勝 2敗 1分 1無勝負 4預り(優勝4回)。 以後15年間大関を張り続け、ラストは九場所連続優勝してそのまま44歳で引退しましたから、平幕経験なし。です。 やはり、雷電は凄い!
著名人の大相撲回顧記 キラーカーンさんがインタビューに答えた記事がありました。 「春日野部屋を脱走」 キラーカーンさんは、高校を1年で中退し、恵まれた体格を活かすべく、春日野部屋に入門。1963昭和38年3月場所にて「小澤正志」という名で初土俵を踏むことに。 「背がでかくて相撲やプロレスが好きだったんですけど、からだが細くて骨と皮だったんですよ。たまたま自分の知り合いが、春日野親方、先々代の栃若時代の栃錦(春日野)親方の知り合いで、俺のことを『ちょっとデカい、いいのがいる』って言ったみたいでね。 自分も勉強があまり好きな方じゃなかったし、大きいからだももらったんだから、やってみようかなって思って、春日野部屋に入門したんです」 -お母様もお相撲がお好きだったそうですね- 「そう。おふくろが偶然、栃錦親方のファンでね。栃錦親方の春日野部屋だったらいいということでね。上野までおふくろと一緒に汽車に乗って来たら、春日野部屋のお相撲さんが待っていてくれてね。 部屋に行って親方にあいさつしたのを覚えていますよ。本当にいい親方でね。栃錦親方みたいないい親方はいないんじゃないですかね。 夜、俺たちみんなが布団を蹴飛ばして寝ているでしょう?そうしたら、夜中の12時半くらいに親方が懐中電灯をつけて回ってきて、全部布団をかけてやるんですよね。 それで、あの頃下っ端は4時頃には起きて4時半くらいから稽古場におりないといけないんですよ。俺が4時半におりていったら、親方がもう土俵の火鉢のところにあぐらをかいて座っているんですよ。 『親方は何時間寝ているんだろう?』って思いましたね。栃錦親方は本当にすばらしい方でした」 -お相撲を始めたときにはどうだったのですか?- 「とにかく細かったんですよ。身長が186cmぐらいで体重は90kgあるかないか。 骨と皮ですよ。だからまわしを締めると、肉がないから腰骨にまわしが直接当たって痛かったんです。『気をつけ』ってやったら、腹を引っ込めなくても、まわしと腹の間に指が4本入るくらい痩せていましたからね。紙を畳んで腰骨にあてていました。 でも、やっぱりガンガン食べて運動したら、だんだん大きくなっていきましたけどね。 それで、たまたま俺がケガをして、整形外科に行ったとき、現在俺が一番尊敬している北沢(幹之)さんという、元レスラーの方が来ていて『背も高いんだし、プロレスラーになってみたらいいんじゃない?私が紹介してあげるから』って言われたんです。 それで、親方に『辞めさせて下さい』って言ったんだけど、辞めさせて貰えなかったから、夜逃げしたんですよ。 でも、夜逃げしたはいいけど、まだ腰が悪かったし、食べるものもないから、友だちのところに行って病院通いをして。完全によくなってから北沢さんに電話をいれて、代官山の駅で待ち合わせして『日本プロレス』の事務所に連れて行ってもらいました。 そこに幹部の人がみんないて、『上半身裸になれ』って言われたから上半身裸になったら、『大きくなりそうだな』って。それで、『病院に行って、どこも悪いところがないという診断書をもらって来い』って言われて、見習生、テスト生ですよね」 -いくつのときだったのですか- 「22でした。それでテスト生を4、5か月やって、23でデビューしたわけです」 -春日野部屋のほうは、夜逃げしたままですか?- 「しばらくはそのままだったんですけど、キラー・カーンになってアメリカである程度活躍して日本に帰って来たとき、春日野部屋の親方の奥さんが、何日か前に亡くなったということを聞いて、それですぐに親方のところに挨拶に行きました。 そのときに俺は幕下以下の力士が入る入口から入ったんですけど、栃錦親方が、『小澤、お前は今度から正面から入って来い』って言ってくれてね。 それで線香をあげさせてもらったら、親方が喜んでくれて、体重を聞かれたから『140kg近くあります』って言ったら、『相撲のときに何で太らなかったんだ? お前は太っておけば、幕内とか三役に上がれるものを持っていたよ』って。 まあ、お世辞だと思いますけどね(笑)。 それで、『でも今はキラー・カーンという名前になって、海外でも活躍してよく頑張っているなあ。怪我しないで頑張れよ』って言ってくれてね。うれしくて涙が出ました」 ・・・ 気は優しくて力持ち、、、が多いお相撲さんの中でも、ひときわ 人情味に溢れた春日野親方らしいエピソードですねえ。
角界関係者との出会いで、書き漏らしがありまして。 三保ヶ関親方(元大関・ニ代増位山)、北の湖理事長です。 三保ヶ関親方とは、現役を引退されてしばらくの間 国技館正面玄関の木戸で、本場所の切符もぎ係をされていた時に、朝の8時から入場しようとしたら、三人いらした木戸係の親方の中に増位山さんがいらしたので、そこから入場し、お客さんも少なかったので、話しかけさせて頂き、『増位山さんの歌は、最初の“いろは恋唄”からすべて唄えるんです。大ヒットした“そんな・・シリーズ”も素敵な歌ですけど、いろは恋唄が渋くていいですね』と言ったら、嬉しそうな顔をされ、「ありがとうございます。いつか一緒に歌いましょうね」とおっしゃってました。 まだ実現してませんが、楽しみにしてます。 北の湖理事長とは、2015平成27年の正月五日でしたか両国国技館から北斎通りを東へ1km近く歩いていった「野見宿禰神社での「新年奉納土俵入り」を観に行った時にいらっしゃって、石の階段を三段降りるのに難儀してて、近くにいたサンケイスポーツの記者さんの肩を借りてゆっくりゆっくり降りて来られ、黒塗りの高級車に乗り込むまでの15mぐらいを歩く道すがら、『理事長、膝や足首はよくないですか?』と尋ねたら、「痩せなきゃならないってわかっているんですけど、なかなか痩せないんですよ」と、自重気味に笑ってました。 それから一年足らず、その年の晩秋に鬼籍に入られました。 あの“憎たらしいほど強かった”無敵の北の湖さんが、弱々しかったことにとっても驚いたものです。
番外編で北の富士さんが語っていた 「相撲界に身を投じてから63年。紆余曲折ありましたが、何とかやってこられたのも3人の師匠、多くの兄弟弟子、数少ないファンのおかげであります。 この世界に入って「よかったなあ」と感じるのは、田舎にいては絶対に会うことのない人を見られたこと。それに外国に行けたことです。」 とあり、人間臭いコメントだなあ・・・と思いました。 私も、高卒で今の会社に入社して満45年経ち、今月いっぱいで退職しますが、この会社に入ってよかったなあ と実感できることに、当時住んでいた下北沢のはずれでは、接客とはいえお話しすることなどまず叶わなかったような有名人の方々を間近で見て、お話しすることができたこと、それと、100%仕事の海外出張でイタリア・ドイツ・イギリス・アメリカに計20回以上も行かせて戴いたことですねえ。 いい思い出だし、言葉がうまく伝わらずに間違えて方向違いの船に乗ってしまったり、一人なのにスイートルームに泊まる羽目になってやたら高額な宿泊料を払って、2-3日の食費に事欠いたことも、今となっては笑い話ですが、楽しい思い出でもあります。辛かったことや大変だったことが多々ありましたが、楽しかった思い出が勝っていますね。 大相撲関係では、色々な横綱や大関、有名力士や親方とちょっとした会話ができたことですねえ。 その時の光景とやり取りをいまだに覚えているのは、 明武谷関、魁傑関、大関玉乃島関、春日野親方(元栃ノ海)、陣幕親方(元北の富士)、藤島親方(元貴ノ花)、若花田関、貴花田関、横綱二代若乃花関、横綱武蔵丸関=武蔵川親方になった後も、 北陣親方(元麒麟児)、中村親方(元琴錦)、大関琴欧洲関、栃ノ心関、勢関、魁聖関、大山親方(元大飛)、浅香山親方(元魁皇)、中村親方(元嘉風)、立田川親方(元豊真将)、安美錦関、大関琴奨菊関、大関日馬富士関、豊ノ島関、竹縄親方(元栃乃洋)、御嶽海関、正代関、明生関、妙義龍関、荒磯親方(元横綱稀勢の里)、、、、、 北の富士さんとは、陣幕審判長として物言いの説明(場内アナウンス)をわかりやすくされていた頃で、国技館の正面出入口で人垣をかきわけて颯爽と退館されようとしていた時に、人垣の中で目立とうと『竹澤さんっ』と呼んで、狙い通り、振り返ってもらいすかさず色紙にサインをいただけました。振り返ったら知り合いでもない私の顔にキョトンとしてましたが、サインを・・と色紙を出したら、゛参ったな”という表情で苦笑いしながらサインしてくれて、そのほかのファンの方々10名以上が一斉に色紙を出してサインを求めたので振り切れずひとりひとりにサインされていました。 群がるファンの中でも私が一番背が高かったのですが、北の富士さんはさらに5㎝は大きかったですねえ。姿勢がよく文字通り颯爽と歩いていらっしゃいました。 格好よく年を取る見本のような方ですね、本当に。
北の富士さん 会心の一番 (拾伍 実はこれは、北の富士さんが負けた一番です しかしこの一番、勝負を終えた北の富士さんの表情は、とっても晴れ晴れしていました。 昭和46年七月名古屋場所千秋楽 東から北の富士、西から玉の海。 玉の海はこの場所も初日から安定感抜群、危なげなく勝ち進んで 14連勝。 一方の北の富士は、、、これがいけません。初日の高見山戦で腰高のまま不用意に寄って出て、さらに腰高の高見山に土俵際でうっちゃられる敗北。五日目は小結の貴ノ花に吊り出されてしまった。さらに十一日目にも長谷川に吊り出され、十二日目にやっとこさ勝ち越したものの十三日目に大麒麟、十四日目に清国の大関陣に連敗して6敗目。 そうして迎えた千秋楽。 しかし相手がライバル玉の海となれば 話は別。控えに座った時からやる気が漲り、「これより三役」土俵入りで大関の清国と前の山を従え揃って四股を踏む表情は、しっかり正面観客席を見据えた、前日までとは別人の北の富士だった。 立行司 第25代木村庄之助の軍配返って、立ち合い。まず左差しを狙う北の富士、これを左ノド輪で起こそうとする玉の海。ノド輪してくる玉の海の左肘を押し上げてノド輪を外す北の富士。結局、左四つに組み止められた玉の海。北の富士は上手も十分に引きつける。 一方の玉の海の右上手は一枚まわし。北の富士が先に攻めるが玉の海は反り身になって凌ぐ。上手一枚まわしのまま反って北の富士を吊ろうとする。これを堪えた北の富士でしたが、ここで北の富士のまわしが緩んだ為、立行司庄之助が『まわし待った』 館内の声援は最高潮となる。 『大相撲です、大相撲となりました!』と、杉山邦博アナウンサーの声が裏返る。文字通りの「白熱戦!大相撲」 勝負再開後、玉の海が腰を振って北の富士の右上手を切った。と同時に一枚だった右上手を二枚・三枚と掴んで引きつける。北の富士が長い腕を伸ばして右上手を掴もうとした瞬間に玉が吊り寄りで出る。北の富士が残しながら右を巻き返えに出る。西土俵際に詰まる北の富士だが、徳俵で両足立ちになりながらこれを残す。 2秒、3秒、、、 顔を紅潮させて残す北の富士、渾身の力で寄り立てる玉の海。 177cmで腰が低い玉の海が寄り上げるが、6cmも身長が高く、しかも脚の長い北の富士がつま先立ちで徳俵で乗ったので、二人の腰の位置にさらに差が出て、なかなか寄り切れない玉の海。ここで、右上手から投げを打って北の富士の態勢を崩しながら、ついに白房下へ寄り切った。 白房下の勝負俵の外(角俵)の内側=塩を取りに行った時に力士が立つ位置 に立つ 負けた北の富士、勝負俵の内側で北の富士のほうを向く 勝った玉の海。 「水入り」寸前の大相撲。 両者とも精根尽き果て汗びっしょり、肩で息をしながら見つめ合う。お互いの健闘を讃え合う二人。つめかけた観客の全員が感動し、テレビ画面には勝負を終えたばかりの二人の表情がアップになり、微笑ましい二人の微笑み、頷き合った顔にほのぼのとしたものでした。 大鵬と柏戸の熱戦でも、土俵を割った大鵬と寄り切った柏戸が目を合わせ、互いの健闘を讃え合う微笑がありました。 すでに全勝優勝を一度経験している北の富士が、『 嶋ちゃん、お前もやったな!』と、喜んでるような清々しい表情でした。 まさかこの三ヶ月後に、ショッキングな不幸が起きるとは、玉の海本人も含めて、誰も考えもしなかったですね。
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,656件 』
北の富士さん 会心の一番 (拾八
後のライバル玉乃島に関取になってから初勝利
二歳年下の玉乃島とは同じく中卒で角界入り。つまり北の富士が2年先輩ながら十両時代には、十両全勝優勝の時も含めて玉乃島と2戦して2度とも勝ちましたが、
幕内に入ってからは、二戦して二敗。何故か勝てない北の富士。二戦目などは、入幕五場所目にして、大関一歩手前の東関脇に番付を上げていた昭和39年秋場所の北の富士でしたが、4勝2敗で迎えた七日目に玉乃島と対戦、土俵際で寄り倒されて完敗。ここから7連敗して負け越してしまいました。
そして迎えた昭和39年九州場所四日目
左四つに組み止めることに成功した北の富士が、寄りながらの右上手投げで玉乃島に初勝利したのでした。
これで北の富士対玉乃島の対戦成績は北の富士の1勝2敗。
以降、ほとんど休場なく活躍し続けて柏鵬時代の後を担った北の富士と玉乃島(後の玉の海)は、毎場所のように熱戦を繰り広げ、北の富士の22勝21敗とまったくの互角でした。
二人の相撲っぷりは
身長で勝り、突っ張りからの左四つ、出ながらの上手投げや、出ながらの右外掛けが冴える北の富士。
無類の肩幅の広さと生来の足腰の強さで吊りを得意とし、正攻法の右四つ左上手の型を完成させ、双葉山の再来と噂され始めていた玉乃島改め玉の海。
北・玉 二人とも、大鵬と柏戸以外には、追いかけてくる大関陣にもほとんど勝ち越し、苦手を作らなかった。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い?日
非朝日系夕刊紙の相撲担当記者とデスクの会話
記者
「10日の午前5時半ごろ、東京都足立区舎人の毛長川に架かる橋から飛び降りた30代の女性を、境川部屋の力士約20人が救出しました。女性は自殺を図ったそうですが、病院に搬送されて命に別条はなし。警視庁竹の塚署は、境川部屋や救助を求めた70代の男性に、感謝状を贈るそうです」
デスク「朝5時半から起きてるとは、さすが相撲部屋だな」
記者「通りがかった70代男性が助けようとしたが力及ばず。大声で助けを呼んだところ、境川親方(57)=元小結両国=が気づき、力士たちが川から約2メートル上の道路まで引き上げたそうです」
デスク「お手柄だな。テレビ朝日が第一報だったようだけど」
記者「一昨年10月に元貴乃花親方を無許可で出演させて相撲協会の怒りを買い、出入り禁止を食らいました。いまだに解除されていないようで、テレ朝では相撲の結果は流れません」
デスク「こんないい話を真っ先に報じたんだから、出禁も解いてあげたらいいのにな」
坊主(貴)憎けりゃ 袈裟(局)まで憎い?
境川部屋の力士約20人が10日朝に、川に転落した30代の女性を救助していたというニュースが11日に出ていましたね。
足立区の部屋近くの毛長川に架かる橋から女性が飛び降り、通行人の男性が助けを求める大声に師匠の境川親方(元小結両国)が気付き、力士らが駆け付け、女性を川から引っ張り上げた。
関係者によると時間は同日の午前5時半ごろ、稽古前の出来事だった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、最近の稽古は午前7時開始となっていたという境川部屋。幕下以下の力士を指す「若い衆」も、大部屋で寝ている時間だった。 場所は部屋から徒歩30秒とかからない、毛長川にかかる「ふれあい橋」。女性が橋から飛び降りた。自殺を図ったとみられる。通りかかった男性が助けを求める大声で、師匠の境川親方が事態に気づいた。大部屋につながる内線をかけて、若い衆を起こし、救助に向かわせた。稽古前だったため、まわしを締めていなかったという。力士らは橋の下の一段低くなっている川岸から、女性を引き上げた。女性は搬送時、意識があり命に別条はない。 劇的な人命救助だが、師匠は救助したときの状況について一切語らずに泰然としていた。「(救助された女性を)そっとしておいてあげてほしい。ぺらぺら語るのはかわいそう」と女性の心境を推し量った上で「いいことをしたとかはサラサラない。男として当たり前のことをしただけ」。謙虚な姿勢を崩さず、事もなげに話した。
・・・人命救助、直面したなら当たり前と思うのか、実際に自身が救う行動を取れるのか?
それにしても、ワイドショーは、どうでもいい漫才師の複数不倫だとかトイレ不倫のことに時間を割き過ぎ。
境川部屋のことをもっと報道してほしい気もするが、反面、取材記者というのは、得てして、被害者を白日の下に晒して無遠慮にいじくりまわしてしまいがち。
だから報道しないほうがいい・・・とも思います。
相撲投稿サイトでは、境川部屋絶賛のコメントが続々。
その一部をご紹介します。
さすがは浪速の大関豪栄道を育てた親方!
助けたことは男として当たり前、命拾いした女の人のこともあれこれ詮索するなと、男らしい優しさに感動です。七月場所での境川部屋の奮闘楽しみにしています!
こんな事があっても無くても境川親方の真っ直ぐな男気は存じておりました。
でも、お弟子さん達にもその立派な精神が受け継がれているのを知り、改めて素敵な部屋なんだなと感じました。
男が惚れる男ですね~。
豪栄道関が引退会見で「師匠の男っぷりの良さを見習いたい」と
おっしゃっていたのを思い出しました。
七月場所、無観客でもいいので開催できますように。
「気が優しくて、力持ち」・・・こんな言葉がピッタリ。
やっぱり“お相撲さん”は素敵です。
女性の気持ちを考えてべらべらと話さない。
他人を思いやる気持ちのお手本みたい。
マスコミが想像で嘘の報道をしないことを願います。
流石 境川親方、日本を代表する漢の中の漢
高倉健の様に余計な事は語らず相手を気遣う
当たり前の事をしたと言うが、当たり前の様に出来る若い衆を持った親方
親方の心意気を受け継ぐ弟子達
こんな素晴らしい心根を持つ漢達に益々心を奪われる。 お見事です
カッコいい。そりゃ嫁さん例外なく美人だわ
思い詰めているであろう女性のために、マスコミにさりげなく釘までさしてくださって、素敵です。
女性にとっていい転機になりますように。すぐに人を呼んだ男性も英断ですね。
たとえ相手が子供でもパニックに陥った人を一人で助けようとすれば溺れることは多いです。
・・・無観客ながら, なんとか七月場所開催、そして成功を願っています。
北の富士さん 会心の一番 (拾七
八度目の幕内優勝、でも、優勝パレードをキャンセルして飛び出した!
優勝を決めたのは13日目
1971昭和46年九州場所十三日目
優勝決定が懸かっている一番だというのに、まあなんとも盛り上がらない割が組まれた。
ここまで11勝1敗の横綱北の富士に対するは前頭筆頭の錦洋、ここまで6勝6敗。初の三役へ向けて気合い十分の錦洋ではありましたが、
結果は予想通り、いとも簡単に北の富士が錦洋を下し、8度目の幕内優勝!
頭から、パチーンと当たった錦洋でしたが、北の富士へこれを受けとめてから逆に押し返し、左を差してから間髪入れずに肩透かし。
これが見事に決まって、12勝1敗。
わずか2秒で勝負あり!
ほとんど汗もかかずに仕留めた北の富士。
これで8度目の優勝を決めたのでした。
しかし、千秋楽は、気もそぞろ。 気のない相撲で大麒麟に敗れて2敗。
優勝パレードをすっぽかして、故・玉の海の四十九日法要へ飛んで行った。
この場所は、玉の海急逝につき北の富士がひとり横綱。大関陣が四人もいたが、琴櫻は六日目から休場、残りの三人(大麒麟・清國・前の山)も揃って星が伸びずに勝ち越せるかどうかわからない状態という体堕落(ていたらく)。
十四日目も勝って13勝とした北の富士の千秋楽は大関大麒麟戦。
負けた北の富士は表彰式を終えると、優勝パレードを固辞して帰り支度。
盟友玉の海の四十九日法要に臨席する為に、この日の昼に予約しておいた飛行機に飛び乗ったのでした。
優勝パレードを楽しみに会場前に集まっていた福岡のファンでしたが、広報からの
『 優勝した北の富士は、ですね、先日亡くなった玉の海関の四十九日法要が今夜ありまして、横綱はそちらに向かいますので、今夜の優勝パレードはございません。申し訳ありません』とのアナウンスに、みなさん納得し、拍手が巻き起こり、
『そうか、それならしょうがない。俺たちはいいから、早く法要に行ってやれ。』と声援が飛びました。
北・玉 両横綱こそ、真のライバルだったと、敢えて申し上げたい。
ライバル横綱と称される時代はいくつもありました。
しかし、栃・若は二人のピークが少しずれていた。
輪島と北の湖の“輪湖時代”も、朝青龍と白鵬の“青白時代?”も然り。
一番強い時期が2年〜4年は ずれてましたね。
北玉と同じく“横綱同時昇進”した柏鵬時代は、度重なる怪我や病気に悩まされた「剛の柏戸」に対し、怪我をしにくい相撲を取る「柔の大鵬」。柏鵬直接対決では拮抗していたものの優勝回数で大差がついた。
ライバル二人が同時期に同力量だったのは、明治時代に “梅・常陸時代 ” がありましたが、昭和では“北玉時代”だけでしょう。
平成の“曙・貴時代”が、それに近いか?
玉の海が右四つ、北の富士が左四つ。土俵入りも玉の海が不知火型で、北の富士が雲龍型。取り口も性格も正反対。ほとんど酒を口にせずに夕食後も四股を踏み続ける玉の海に対し、“夜の帝王”北の富士は、銀座の夜に出稽古する社交家。
陽の栃錦と寡黙な若乃花
剛の柏戸と柔の大鵬
そしてムラっ気ながら調子に乗ると手がつけられない北の富士と安定感抜群の玉の海
まったく異なる二人のコントラストが、頻繁に雑誌の記事になっていました。
5月13日に新型コロナウイルスによる肺炎で、大相撲の勝武士(享年28)が死去してもうすぐ1カ月になります。早いもので、東京アラー発令して解除してバタバタしてるうちに、7月場所を無観客で東京で行なうという準備が進んでいます。
しかし、勝武士がなくなった問題で、日刊ゲンダイが疑問を強く持って記事にしています。
力士死亡、、、国内初の20代のコロナ死は大きく報道された。保健所につながらず、診療機関をたらい回しされるなど発症者の受け入れ問題も浮き彫りになった。勝武士の訃報に接し、若者でも死に至ることや医療体制の脆弱さを考えさせられた。
ところが、厚労省は鈍感だ。最新発表の「新型コロナウイルス感染症の国内発生動向」(6月3日18時時点)では、20代の死亡がゼロになっている。まさか、勝武士の死を知らないのか。5日、厚労省に聞いた。
「厚労省では自治体からの情報を集計しているが、20代の死亡は自治体から上がってきていません」(対策本部広報班)
同日夜、東京都の感染症対策課は「20代の死者は、厚労省に報告している」として、「新型コロナウイルスに関連した患者の死亡について(第344報)」を示した。確かに「20代男性、居住地都内、診断日4月10日、死亡日5月13日」との記載がある。明らかに勝武士の事例だ。
真っ向から食い違う両者の説明
そこで8日に改めて厚労省に聞くと「都が20代の死者を発表していることは承知していますが、正式なルートで入退院の状況など詳細を記した個別具体的な報告が上がってこない。20代の死者がゼロなのか1なのかは重要だとの認識は持っています。正式な報告をするように担当者から東京都に督促します」(前出の広報班)と答えた。
6月9日、改めて都にぶつけると、「第344報のように日々の報告をしているだけです。それとは別に、厚労省に詳細な報告は従来からしていません。厚労省から詳細な報告の督促もありません」(前出の感染症対策課)といぶかしげな様子だった。
さらに厚労省に聞いてみると――。
「担当者によると、都の報告は感染症法に基づく正式な届け出ではなく、勝武士はカウントされていないようです。ただ、(正式ではない)都の報告に基づいてカウントすることもある」(前出の広報班)と答えた。もう、チンプンカンプンだ。
結局、厚労省の発表は、9日の時点でも20代の死者がゼロのまま。厚労省は、勝武士の死をカウントせず、1カ月近くも、世界に“誤報”を発信し続けているのである。
そもそも、夕刊紙が指摘するまで 省内で「おかしい」という声は上がらなかったのか。他にも誤報がありそうだ。
というか、感染者数、死亡者数、退院した人数、重症患者数、などいろんな数字がすべて信用できなくなってきた。中国や韓国の虚偽報告を真似ているのか?
北の富士さん 会心の一番 ( 拾六
北の富士幕内500勝
昭和47年九月秋場所初日の小結富士櫻戦。押し相撲で小柄な富士錦を上手投げ。赤子の手をひねるようにいとも簡単に勝って、幕内500勝を達成しました。
これはひと場所十日間興行で年間ふた場所時代では到底達成できない記録で、
初めて到達したのが栃錦、
続いて、初代若乃花、大鵬、柏戸、出羽錦、鶴ヶ嶺ら数名しか到達してなかった幕内500勝力士の仲間入りとなったのです。
富士錦とは節目節目で対戦して勝利しています。
昭和40年七月名古屋場所十四日目、
前頭二枚目でここまで7勝6敗だった北の富士が富士錦と対戦、今の貴景勝のような体つきの富士錦を長い手足で左四つに組み止めるやいなや、上手投げて仕留めた。これで勝ち越し決定。
佐田の山・大鵬・柏戸の三横綱が好調で揃って12勝以上挙げた為、三役陣(関脇の琴櫻と玉乃島、小結の明武谷が皆負け越していたので、北の富士は三役に復帰しました。
これで翌場所に小結へ再昇進した北の富士は、そこで10勝、すぐに関脇に上がって5場所連続勝ち越して、大関昇進となりました。
つめりこの富士錦戦が北の富士の平幕最後の勝ち星だったのです。
実は北の富士さんは、既述のように新入幕の場所で13勝の大勝ちして小結まで大躍進。そこでは “ 位負け ” してしまい負け越して平幕(前頭五枚目)に一度落ちましたが、
その場所(昭和39年夏場所)では、
三横綱(大鵬10勝・柏戸11勝・栃ノ海13勝=優勝)のみならず、四大関(北葉山12勝=準優勝・豊山9勝・佐田の山11勝・栃光11勝)が揃って好調を維持した為、
関脇の大豪と開隆山・小結の廣川と若見山・前頭上位(筆頭〜前頭三枚目までの小城の花と明武谷・清國・前田川・鶴ヶ嶺・青ノ里)の十人かすべて負け越し。よって、四枚目で勝ち越した沢光や六枚目で10勝した羽黒川、そして五枚目て9勝した北の富士が新関脇に昇進したのでした。
その後、三度、平幕に落ちましたが昭和40年名古屋場所で十四日目に富士錦を“北の富士スペシャル”の上手投げで下して勝ち越し。
以降は、一度も平幕には落ちてません。
結局、北の富士さんは平幕をわずか5場所しか経験していないのです。
北の富士さんより平幕経験が少なく大関、横綱に上がっていった強豪力士は
安藝ノ海、千代の山、佐田の山が平幕を四場所、
東富士、大鵬、双羽黒、武蔵丸、朝青龍らが三場所
照國、前田山、羽黒山がたったの ふた場所でした。
江戸から昭和の終戦までの「古今十傑」に名が挙げられる横綱たちでは
稲妻雷五郎が平幕をひと場所。
小野川喜三郎が四場所
谷風梶之助が六場所
陣幕久五郎が九場所
初代梅ヶ谷藤太郎が五場所
常陸山谷右衞門が三場所
太刀山峰右衛門が五場所
栃木山守也が三場所
双葉山定次が十場所、平幕を経験しています。
幕内の番付枚数が六枚目までとか八枚目までしかなかった といった江戸時代後期ではありますが、その頃は今と違って、横綱という番付の位はなくて最高位は大関、そして張出大関などいませんから、東西の三役( 大関・関脇・小結 )が定員6名、そこで負け越した力士がいなければ、いつまでも平幕止まりでした。
これらより凄い記録は?
大相撲の歴史では、
関脇付出しでデビューした雷電為右衛門が、一度も三役から落ちることなくデビューから8場所目で大関に昇進。
その間の成績は 54勝 2敗 1分 1無勝負 4預り(優勝4回)。
以後15年間大関を張り続け、ラストは九場所連続優勝してそのまま44歳で引退しましたから、平幕経験なし。です。
やはり、雷電は凄い!
著名人の大相撲回顧記
キラーカーンさんがインタビューに答えた記事がありました。
「春日野部屋を脱走」
キラーカーンさんは、高校を1年で中退し、恵まれた体格を活かすべく、春日野部屋に入門。1963昭和38年3月場所にて「小澤正志」という名で初土俵を踏むことに。
「背がでかくて相撲やプロレスが好きだったんですけど、からだが細くて骨と皮だったんですよ。たまたま自分の知り合いが、春日野親方、先々代の栃若時代の栃錦(春日野)親方の知り合いで、俺のことを『ちょっとデカい、いいのがいる』って言ったみたいでね。
自分も勉強があまり好きな方じゃなかったし、大きいからだももらったんだから、やってみようかなって思って、春日野部屋に入門したんです」
-お母様もお相撲がお好きだったそうですね-
「そう。おふくろが偶然、栃錦親方のファンでね。栃錦親方の春日野部屋だったらいいということでね。上野までおふくろと一緒に汽車に乗って来たら、春日野部屋のお相撲さんが待っていてくれてね。
部屋に行って親方にあいさつしたのを覚えていますよ。本当にいい親方でね。栃錦親方みたいないい親方はいないんじゃないですかね。
夜、俺たちみんなが布団を蹴飛ばして寝ているでしょう?そうしたら、夜中の12時半くらいに親方が懐中電灯をつけて回ってきて、全部布団をかけてやるんですよね。
それで、あの頃下っ端は4時頃には起きて4時半くらいから稽古場におりないといけないんですよ。俺が4時半におりていったら、親方がもう土俵の火鉢のところにあぐらをかいて座っているんですよ。
『親方は何時間寝ているんだろう?』って思いましたね。栃錦親方は本当にすばらしい方でした」
-お相撲を始めたときにはどうだったのですか?-
「とにかく細かったんですよ。身長が186cmぐらいで体重は90kgあるかないか。
骨と皮ですよ。だからまわしを締めると、肉がないから腰骨にまわしが直接当たって痛かったんです。『気をつけ』ってやったら、腹を引っ込めなくても、まわしと腹の間に指が4本入るくらい痩せていましたからね。紙を畳んで腰骨にあてていました。
でも、やっぱりガンガン食べて運動したら、だんだん大きくなっていきましたけどね。
それで、たまたま俺がケガをして、整形外科に行ったとき、現在俺が一番尊敬している北沢(幹之)さんという、元レスラーの方が来ていて『背も高いんだし、プロレスラーになってみたらいいんじゃない?私が紹介してあげるから』って言われたんです。
それで、親方に『辞めさせて下さい』って言ったんだけど、辞めさせて貰えなかったから、夜逃げしたんですよ。
でも、夜逃げしたはいいけど、まだ腰が悪かったし、食べるものもないから、友だちのところに行って病院通いをして。完全によくなってから北沢さんに電話をいれて、代官山の駅で待ち合わせして『日本プロレス』の事務所に連れて行ってもらいました。
そこに幹部の人がみんないて、『上半身裸になれ』って言われたから上半身裸になったら、『大きくなりそうだな』って。それで、『病院に行って、どこも悪いところがないという診断書をもらって来い』って言われて、見習生、テスト生ですよね」
-いくつのときだったのですか-
「22でした。それでテスト生を4、5か月やって、23でデビューしたわけです」
-春日野部屋のほうは、夜逃げしたままですか?-
「しばらくはそのままだったんですけど、キラー・カーンになってアメリカである程度活躍して日本に帰って来たとき、春日野部屋の親方の奥さんが、何日か前に亡くなったということを聞いて、それですぐに親方のところに挨拶に行きました。
そのときに俺は幕下以下の力士が入る入口から入ったんですけど、栃錦親方が、『小澤、お前は今度から正面から入って来い』って言ってくれてね。
それで線香をあげさせてもらったら、親方が喜んでくれて、体重を聞かれたから『140kg近くあります』って言ったら、『相撲のときに何で太らなかったんだ? お前は太っておけば、幕内とか三役に上がれるものを持っていたよ』って。
まあ、お世辞だと思いますけどね(笑)。
それで、『でも今はキラー・カーンという名前になって、海外でも活躍してよく頑張っているなあ。怪我しないで頑張れよ』って言ってくれてね。うれしくて涙が出ました」
・・・ 気は優しくて力持ち、、、が多いお相撲さんの中でも、ひときわ 人情味に溢れた春日野親方らしいエピソードですねえ。
角界関係者との出会いで、書き漏らしがありまして。
三保ヶ関親方(元大関・ニ代増位山)、北の湖理事長です。
三保ヶ関親方とは、現役を引退されてしばらくの間
国技館正面玄関の木戸で、本場所の切符もぎ係をされていた時に、朝の8時から入場しようとしたら、三人いらした木戸係の親方の中に増位山さんがいらしたので、そこから入場し、お客さんも少なかったので、話しかけさせて頂き、『増位山さんの歌は、最初の“いろは恋唄”からすべて唄えるんです。大ヒットした“そんな・・シリーズ”も素敵な歌ですけど、いろは恋唄が渋くていいですね』と言ったら、嬉しそうな顔をされ、「ありがとうございます。いつか一緒に歌いましょうね」とおっしゃってました。
まだ実現してませんが、楽しみにしてます。
北の湖理事長とは、2015平成27年の正月五日でしたか両国国技館から北斎通りを東へ1km近く歩いていった「野見宿禰神社での「新年奉納土俵入り」を観に行った時にいらっしゃって、石の階段を三段降りるのに難儀してて、近くにいたサンケイスポーツの記者さんの肩を借りてゆっくりゆっくり降りて来られ、黒塗りの高級車に乗り込むまでの15mぐらいを歩く道すがら、『理事長、膝や足首はよくないですか?』と尋ねたら、「痩せなきゃならないってわかっているんですけど、なかなか痩せないんですよ」と、自重気味に笑ってました。
それから一年足らず、その年の晩秋に鬼籍に入られました。
あの“憎たらしいほど強かった”無敵の北の湖さんが、弱々しかったことにとっても驚いたものです。
番外編で北の富士さんが語っていた
「相撲界に身を投じてから63年。紆余曲折ありましたが、何とかやってこられたのも3人の師匠、多くの兄弟弟子、数少ないファンのおかげであります。
この世界に入って「よかったなあ」と感じるのは、田舎にいては絶対に会うことのない人を見られたこと。それに外国に行けたことです。」
とあり、人間臭いコメントだなあ・・・と思いました。
私も、高卒で今の会社に入社して満45年経ち、今月いっぱいで退職しますが、この会社に入ってよかったなあ と実感できることに、当時住んでいた下北沢のはずれでは、接客とはいえお話しすることなどまず叶わなかったような有名人の方々を間近で見て、お話しすることができたこと、それと、100%仕事の海外出張でイタリア・ドイツ・イギリス・アメリカに計20回以上も行かせて戴いたことですねえ。 いい思い出だし、言葉がうまく伝わらずに間違えて方向違いの船に乗ってしまったり、一人なのにスイートルームに泊まる羽目になってやたら高額な宿泊料を払って、2-3日の食費に事欠いたことも、今となっては笑い話ですが、楽しい思い出でもあります。辛かったことや大変だったことが多々ありましたが、楽しかった思い出が勝っていますね。
大相撲関係では、色々な横綱や大関、有名力士や親方とちょっとした会話ができたことですねえ。
その時の光景とやり取りをいまだに覚えているのは、
明武谷関、魁傑関、大関玉乃島関、春日野親方(元栃ノ海)、陣幕親方(元北の富士)、藤島親方(元貴ノ花)、若花田関、貴花田関、横綱二代若乃花関、横綱武蔵丸関=武蔵川親方になった後も、 北陣親方(元麒麟児)、中村親方(元琴錦)、大関琴欧洲関、栃ノ心関、勢関、魁聖関、大山親方(元大飛)、浅香山親方(元魁皇)、中村親方(元嘉風)、立田川親方(元豊真将)、安美錦関、大関琴奨菊関、大関日馬富士関、豊ノ島関、竹縄親方(元栃乃洋)、御嶽海関、正代関、明生関、妙義龍関、荒磯親方(元横綱稀勢の里)、、、、、
北の富士さんとは、陣幕審判長として物言いの説明(場内アナウンス)をわかりやすくされていた頃で、国技館の正面出入口で人垣をかきわけて颯爽と退館されようとしていた時に、人垣の中で目立とうと『竹澤さんっ』と呼んで、狙い通り、振り返ってもらいすかさず色紙にサインをいただけました。振り返ったら知り合いでもない私の顔にキョトンとしてましたが、サインを・・と色紙を出したら、゛参ったな”という表情で苦笑いしながらサインしてくれて、そのほかのファンの方々10名以上が一斉に色紙を出してサインを求めたので振り切れずひとりひとりにサインされていました。
群がるファンの中でも私が一番背が高かったのですが、北の富士さんはさらに5㎝は大きかったですねえ。姿勢がよく文字通り颯爽と歩いていらっしゃいました。
格好よく年を取る見本のような方ですね、本当に。
北の富士さん 会心の一番 (拾伍
実はこれは、北の富士さんが負けた一番です
しかしこの一番、勝負を終えた北の富士さんの表情は、とっても晴れ晴れしていました。
昭和46年七月名古屋場所千秋楽
東から北の富士、西から玉の海。
玉の海はこの場所も初日から安定感抜群、危なげなく勝ち進んで 14連勝。
一方の北の富士は、、、これがいけません。初日の高見山戦で腰高のまま不用意に寄って出て、さらに腰高の高見山に土俵際でうっちゃられる敗北。五日目は小結の貴ノ花に吊り出されてしまった。さらに十一日目にも長谷川に吊り出され、十二日目にやっとこさ勝ち越したものの十三日目に大麒麟、十四日目に清国の大関陣に連敗して6敗目。
そうして迎えた千秋楽。
しかし相手がライバル玉の海となれば 話は別。控えに座った時からやる気が漲り、「これより三役」土俵入りで大関の清国と前の山を従え揃って四股を踏む表情は、しっかり正面観客席を見据えた、前日までとは別人の北の富士だった。
立行司 第25代木村庄之助の軍配返って、立ち合い。まず左差しを狙う北の富士、これを左ノド輪で起こそうとする玉の海。ノド輪してくる玉の海の左肘を押し上げてノド輪を外す北の富士。結局、左四つに組み止められた玉の海。北の富士は上手も十分に引きつける。
一方の玉の海の右上手は一枚まわし。北の富士が先に攻めるが玉の海は反り身になって凌ぐ。上手一枚まわしのまま反って北の富士を吊ろうとする。これを堪えた北の富士でしたが、ここで北の富士のまわしが緩んだ為、立行司庄之助が『まわし待った』
館内の声援は最高潮となる。
『大相撲です、大相撲となりました!』と、杉山邦博アナウンサーの声が裏返る。文字通りの「白熱戦!大相撲」
勝負再開後、玉の海が腰を振って北の富士の右上手を切った。と同時に一枚だった右上手を二枚・三枚と掴んで引きつける。北の富士が長い腕を伸ばして右上手を掴もうとした瞬間に玉が吊り寄りで出る。北の富士が残しながら右を巻き返えに出る。西土俵際に詰まる北の富士だが、徳俵で両足立ちになりながらこれを残す。
2秒、3秒、、、
顔を紅潮させて残す北の富士、渾身の力で寄り立てる玉の海。
177cmで腰が低い玉の海が寄り上げるが、6cmも身長が高く、しかも脚の長い北の富士がつま先立ちで徳俵で乗ったので、二人の腰の位置にさらに差が出て、なかなか寄り切れない玉の海。ここで、右上手から投げを打って北の富士の態勢を崩しながら、ついに白房下へ寄り切った。
白房下の勝負俵の外(角俵)の内側=塩を取りに行った時に力士が立つ位置 に立つ 負けた北の富士、勝負俵の内側で北の富士のほうを向く 勝った玉の海。
「水入り」寸前の大相撲。
両者とも精根尽き果て汗びっしょり、肩で息をしながら見つめ合う。お互いの健闘を讃え合う二人。つめかけた観客の全員が感動し、テレビ画面には勝負を終えたばかりの二人の表情がアップになり、微笑ましい二人の微笑み、頷き合った顔にほのぼのとしたものでした。
大鵬と柏戸の熱戦でも、土俵を割った大鵬と寄り切った柏戸が目を合わせ、互いの健闘を讃え合う微笑がありました。
すでに全勝優勝を一度経験している北の富士が、『 嶋ちゃん、お前もやったな!』と、喜んでるような清々しい表情でした。
まさかこの三ヶ月後に、ショッキングな不幸が起きるとは、玉の海本人も含めて、誰も考えもしなかったですね。