TheNews(ザ・ニュース) > コメント部屋 > 大相撲のコメント部屋大相撲のコメント部屋 ※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。 ※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。 ※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。 ※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。
初代梅ヶ谷 追記 それにしても、ひと場所に二敗したら辞める・・って、 ひと場所で二敗したことがない!という横綱なんていたのでしょうか? と、調べてみると いました、いました。 ひと場所に二敗せず 横綱免許を授かる前の平幕や三役の頃こそ二敗した場所があったものの、横綱としては一度も、ひと場所に二敗しなかったのは 谷風(横綱在位6年間)、 太刀山(横綱在位7年間)、 陣幕(横綱在位1年間)の3名、 そして もう一人、 横綱になる前、幕内成績すべてで、一度も ひと場所に二敗しなかったのが 無類力士・雷電為右衛門 関脇付出しでのデビュー以来 21年間の幕内在位で一度も二敗しませんでした。 時代がひと場所十日間の時代ですから、 昭和以降の十五日制に当てはめ、ひと場所三敗としても、 ひと場所二敗以内を貫いた昭和以降の横綱は? 見当たりません、 そんな横綱は誰一人いませんでした。
温故知新・大相撲カレンダー 5月23日 1885明治18年5月23日 五月夏場所八日目 第15代横綱の梅ヶ谷藤太郎が、ひと場所に2敗してしまった為、『横綱は不敗たるべし』の持論を貫き、引退を届け出た。 東京相撲協会の幹部が総出で慰留するのを振り切り、翌場所に初日から三日間出場し三連勝したが、やはり、自身の相撲道への思い全休して、今一度じっくり考えたが、やはり思いから、横綱たるものは,・・・ が強くを頭を支配し、思いを翻すことなく、場所後に引退してしまいました。この時、梅ヶ谷は、40歳2ヶ月。 幕内成績 が 116勝6敗18分2預78休み、勝率.951で、 雷電為右衛門(.962)に次ぐ大相撲史上歴代第2位。優勝相当9回。 大関としての成績は 在位11場所で、56勝1敗10分1預42休 58連勝は双葉山、谷風、白鵬に次ぐ歴代4位。 梅ヶ谷は、12年間の幕内生活で、わずか 6敗しかしていません。 梅ヶ谷に勝った力士は 勝ノ浦 与市右エ門が 2度、平幕時代の梅ヶ谷に連勝。 若嶋久三郎=梅ヶ谷の連勝を58で止めて名をはす。 大達羽左衛門=梅ヶ谷の連勝を35で止めた。 そして横綱免許を受けた後の梅ヶ谷に勝った 高見山宗五郎 、 雷電震右衛門 以上の5人だけでした。 初代梅ヶ谷は 「 負けない相撲 」の具現者で、谷風の相撲ぶりを踏襲した。のちに、大鵬がこれに続いていますね。 初代梅ヶ谷は、176cm.105kgと当時の力士としては並みの体格にして 4斗樽を片手で差し上げるほどの怪力ながら、右手で浅く上手を引きつけ、左筈で寄る、という堅実な取り口に徹した。 幕内在位16年間の土俵において、負け越しが一度もないどころか、2連敗が一度もなし。 引退後は、年寄「雷(いかずち)」として後進の指導にあたり、二代梅ヶ谷を横綱にまで育てながら、最初の屋根付き常設館である旧両國國技館の建設に際して、安田銀行の本所支店長・飯嶋保篤氏から、自身の信用だけで40万円(現在の価値で120億円)を無担保で借り受けることに成功した。 70歳の時に、雷部屋を弟子の二代梅ヶ谷に譲り引退したが、功績があまりに大きかったので東京相撲協会から強く慰留され、相談役待遇として協会に残り、「大雷(おおいかずち)」として協会に残って、力士の所作・礼儀・基本稽古の徹底に始まり、日頃の生活態度から食事に至るまで指導し、影響力を発揮した。 大雷本人が、ひと晩で一斗酒を嗜む酒豪だったこともあり、力士には、日本酒の効能を勧めたが、飲酒の翌朝には酒が全て汗で抜けきるほどの激しい稽古を強いたそうです。 昭和3年6月15日に大雷は亡くなったが、享年 83歳。 横綱経験者としての最長寿記録で、現在、これを追うのは、元栃の海。それに続くのが、我らが北の富士さんです。
温故知新・大相撲カレンダー 5月22日 1936昭和11年5月22日 五月夏場所九日目、前の場所に11戦全勝優勝を飾り、この場所もここまで8戦全勝、前年の五月夏場所から27連勝中と、乗りに乗っていた横綱玉錦に、過去6戦して一度も玉錦には勝てなかった関脇双葉山が浴びせ倒しで初めて勝利し、初日から九戦全勝としました。 翌場所以降の玉錦との対戦では一度も負けず、6連敗の後に4連勝と、(後から考えれば)明らかに世代交代となった一番でした。 九日目熱戦譜では 九日目結びの一番 双葉山(浴びせ倒し)玉錦 ここまで8戦全勝同士の玉錦と双葉山、前場所以上に興味を集める一番である。 仕切り 3回目で双葉山が突っかけるが玉錦は受けない。 7回目、玉錦が左拳を土俵に下ろすところで双葉山猛然立ち上がり突き立てた。応じた玉錦は突き返して右を差し左からはおっつける。 双葉山はこれに対して左上手を取り、引きつけた。玉錦は左を巻き替えようとした。 双葉山はこれを許さず右からおっつけて正面に寄り立てた。玉錦は左で首を巻いて打っ棄ろうとする。 双葉山は腰を落として左上手を離し、胸を押してドウと浴びせ倒した。常勝玉錦が潰え去り、館内は怒号渦巻き、座蒲団・蜜柑・木製で本当の灰が詰まった灰皿=煙草盆が土俵に投げ込まれる嵐のような騒ぎとなった。 後世から見ればこの相撲が覇者交代の一戦となったが、そんなことは当然ながら、神ならぬ身ゆえ当時の人々の与り知らぬことだった。 「世代交代の一番」として有名なのは、平成3年夏場所初日の結びの一番、小さな大横綱千代の富士35歳 対 18歳9か月の新鋭貴花田の初顔合わせの一番。 割りが発表となった二日前、スポーツ紙は色めき立ち、前年九州で31度目の優勝を遂げた後に年明けの二場所を怪我で休場し、復調してないにも関わらず、春場所で13勝を挙げての準優勝で一気に前頭筆頭へ駆け上がってきた貴花田との直接対戦を楽しみに出場してきた千代の富士。 土俵下から見守る審判部長は、千代の師匠でもある九重親方=第52代横綱北の富士。 低く立った貴花田が千代の胸に頭をつけて食い下がりながら猛然と攻め立て黒房下へ寄り切った。 ウルフフィーバーで長く一番人気だった千代の富士と、プリンス貴ノ花の息子で文字通り「鳴り物入りでのデビュー」以来、相撲に縁のない女性雑誌・ファッション誌までが追い回すという日本中が注目していた中で同期入門の曙や兄・若花田とともに番付を駆け上がってきた貴花田の初対決。 この負けの翌々日の夜に大横綱千代の富士が引退発表したので、世代交代といえば、やはり、この一番でしょう。 しかし、千代と貴は、たった一度きりの対戦でしたから、 東横綱が指定席だった玉錦に初勝利した後、3度の対戦ですべて双葉山が勝利し、東横綱を明け渡さなかった双葉山。角界の不動の大記録69戦69連勝の最中の出来事で、この昭和11年の勝利が分岐点となったのは間違いなく、後年「世紀の世代交代」と語られるようになりました。た。 ・・・千代の富士と貴花田の一番を、テレビ桟敷で とはいいながら、生放送で観ることができたのは、幸せでしたねえ。今でもyoutubeで映像を見ることできます。 支度部屋で記者団に囲まれた「敗軍の将」千代の富士が、『貴花田?うん、二重丸だよ。・・・・あぁ三重丸だって言っておいて』と言葉を付け足しました。 よって、平成における世代交代の一番は、千代の富士貢 vs 貴花田光司、 昭和での世代交代の一番が、玉錦三右エ門 vs 双葉山定次。 大正時代なら、大正5年五月に無敵太刀山峰右衛門の連勝を止める初勝利を挙げて、自身の時代の幕を開いた栃木山守也の殊勲の一番。 明治時代まで遡ると、横綱在位11年余で幕内勝率9割を超えた「角聖」常陸山谷右衛門に4戦して2勝2分と引導を渡した太刀山の勝利でしょう。 もう一丁、江戸時代の記録を紐解くと、江戸時代の相撲黄金時代の最初と言われる「寛政の大相撲人気」を支えた谷風梶之助とライバルだった小野川喜三郎に、師匠の仇討とばかり立ちはだかった雷電為右衛門が、江戸相撲では一度も小野川に負けなかったのが、世代交代にあたるのでしょう。 白鵬に引導を渡すのは、誰か? 大怪我で無念の引退をした稀勢の里が果たせなかったので、このあとの若手で、いったい誰が白鵬に引導を渡すのか? 朝乃山? 竜電? 誰でしょう?
温故知新・大相撲カレンダー 5月21日 1961昭和36年5月21日 大相撲夏場所千秋楽 表彰式でのパンアメリカン航空からのトロフィー授与に、極東地区支配人の職にあったデビット・ジョーンズ氏が初めて登場しました。 以降 毎場所の千秋楽に登壇したジョーンズ氏は、慣れてくるに従って、 『ヒョーシヨージヨー、○○関 あなたは・・』と読んでた第一声を 『 ヒョー、 ショー、 ジョ! ○○関 あーなたは!』へと、変化させていきました。 この第一声で 掴みはバッチリ! 特に地方場所では、そのご当地の訛りを織り交ぜるので人気を博し、当該場所の総括をアナウンサーが喋っていると、『パンナムのジョーンズさんの挨拶が聞こえない!黙れ!』と苦情の電話が多数、NHKにかかってくるようになりました。 三月大阪場所では、『優勝!○○関!あんたはんは、』と始めて、最後に 『アンタはエラい!』と言って挨拶を締めくくったこともあった。 九州場所でのジョーンズ氏を今でもYouTubeで見ることができます。 それは1988昭和63年九州場所千秋楽。 結びの一番で大乃国に敗れ大連勝を63で止められてしまった千代の富士が、それでも14勝で優勝。千代の富士連勝記録ストップに興奮冷めやらぬ観客。 そして、表彰式。 国歌斉唱、天皇賜盃授与、優勝旗授与、内閣総理大臣杯授与、NHK杯授与と進んで、お待ちかね!天皇賜盃よりも10kg以上も重いパンアメリカン航空トロフィーが土俵上のテーブルに置かれると、館内はざわつき始めた。 地方場所では毎回、ご当地の方言を織り交ぜるジョーンズ氏の挨拶に、観客は静寂をもって注目。帰路を急ぐ客はひとりもおらず、皆、固唾を飲んで見守る。 そして、土俵に上がった ジョーンズ氏が おもむろに、 『 ヒョー!ショー!ジョッ !(笑)優勝! 千代の富士 貢ゼキ! あんたは! (爆笑) 大相撲九州場所において、ものすごーよかったけん!(爆笑) 優勝ば しんしゃった。 (爆笑) そげなわけで (爆笑) その栄誉を称えて、パンナメリカン航空会社よりトロフィーば やるけんくさ! (爆笑) 受け取って やいんしやい。 (大爆笑) また、来場所も気張ってやいんしやい。昭和63年十一月・・』 とやったので、場内は割れんばかりの大喝采となったのは言うまでもありません。 ・・・(笑)(爆笑)は場内の様子をあらわしたものです。 YouTubeに残るこの映像では、涙を流して喜ぶ九州のお客さんがたくさん映ってました。 また、満身創痍だった北の湖が2年ぶりの復活優勝で、24回目の優勝となった昭和59年5月夏場所千秋楽。ジョーンズ氏の軽妙な挨拶に、久しぶりの優勝を遂げて、安心した北の湖がニコっと笑顔になったほのぼのとした映像も、今もYouTubeで見ることができます。 琴櫻が優勝した際に一度だけ、重心が高くバランスの悪いトロフィーを持ったまま転んでしまい、トロフィーを土俵に落としてしまったことがありましたが、以降は、一度も落としませんでした。
一昨日の寄稿で、大錦と三杉磯が繰り広げた仕切り直し30回以上、所要時間50分以上という、立ち合いの不具合について触れましたが、 昨日投稿の鏡山親方(元横綱柏戸)について弟子が語った文献=ベースボールマガジン「私の奇跡の一枚 連載69」の2週前の連載67にて 角界の識者たる方が、「立ち合い」について見解を述べていたので、ご紹介します。 【私の“奇跡の一枚” 連載67】 栃錦は決して立ち合いを乱してなんかいない! 最後の仕切りに入る際、腰を大きく割って両手を後方に跳ね上げるように構える形が何とも恰好よかった栃錦 19世紀のフランスの天才詩人ジャン・コクトーは、日本を訪れた際、双葉山時代の国技館を訪れ、すっかり大相撲の世界に魅せられた。特にその立ち合いに共感し、世界的芸術家の感性をもって“バランスの奇跡!”と絶賛したのだった。 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。 ※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 理想は双葉山時代のそれだが…… それほどさように、双葉山を象徴とする大相撲の正々堂々の立ち合いとその作法は、外国人が見ても、完成された神秘的なまでの芸術品だった。 格闘技原初のスタンディングポジション?!スタイルから、互いに腰を割っての仕切りを繰り返しながら、両者がともに最善のスタートを切るという、人知と誠意の限りを尽くした相撲の立ち合いを編み出した力士たち。だからこそ制限時間に向かって両者が仕切り直しを繰り返すなか、満身が朱に染まっていく様子も、勝負ばかりでなく、ファンは楽しむことができた。 双葉山時代に完成を見た、お互いがしっかり腰を割り、両手をついてスタートする立ち合いのスタイルは、まさしくこの競技の大基本であった。 後年、立ち合い問題を振り返るとき、両手をつかずに立つことで土俵作法を乱したのは栃錦が元祖、という言い方をする人がいる。しかしそれは、栃若ファンの生き残りとしても明確に否定しておきたい。 名人は名人を知る このことについて、新国技館が開館した昭和60(1985)年1月号に掲載された、元大関増位山(父)の三保ケ関親方(当時)の文章(『澤田国秋のメモリアル・ギャラリー』があるので、同時代の相撲人の意見として、紹介しておきたい。 『澤田国秋のメモリアル・ギャラリー』 さる(59年)9月場所から協会は不退転の決意をもって立ち合いの正常化へと立ち上がった。そしてその場所は予想以上に立派な立ち合いがなされた。それが2場所目の九州になると待ったが多発した。これはやはり、相手が突っ掛けてきたらいつでも立つ、という気持ちに欠けるものがあるからだ。時間いっぱいになったらどんなことをしてでも立つ、ということであってほしい。 また、横綱、大関ともなれば、下の相手が飛んでくるのを見て立ってやるのが貫禄というものだと思うのだが、そんなことはお構いなしに突っ込もうとする。同じ実力の大関同士ならいざ知らず、明らかに差のある相手に対してもそうなのが私には納得がいかない。相手を待ってやるだけの度量がほしい。 そういった意味で一言しておきたいのは春日野理事長(元横綱栃錦)の現役時代の仕切りについてである。つまり横綱栃錦を、手をつかずに立って立ち合いを乱した元祖だと批判する向きがあるが、私はそれは絶対に違うと思う。 栃錦の現役時代、私は勝負検査役(現在の審判委員)として土俵下から注意深くその勝負を見守っていたけれども、いつでも相手がつっかけて来たら立てる仕切りだったという意味で、それなりに納得できるものであった。ただ腰を割って仕切りに入る際、あまりに足を広げすぎるため、手をつきにくい重心になってしまってはいた。しかし同時に左右にパッと開いた両手によって、ほかの力士が土俵に両手をついているのと同じように、ピッと決めていたのである。 それが証拠に、栃錦には待ったがなかったではないか。要するに相手に合わせていたのである。さあ、いつでも、どこからでも来いと待ち構えていたのである。 語り部=間 雅仁(『相撲』誌専属ライター) ・・・大錦・三杉磯戦は極端な例でしたが、大正時代以前は、それに近いことはたびたびありました。明治時代にも、仕切り直しが50回を超え、力んで歯を食いしばっていた力士が奥歯を噛み砕き、口から血を流しながら仕切りを繰り返していたないでしょうが・・・という記録が残っています。 そんな時間無制限の仕切りを変更したのは、1928昭和3年に始まったNHKラジオ放送での大相撲中継開始がきっかけでした。 ラジオ放送の放送時間(開始と終了時刻)に合わせられるよう、呼出さんが東西の力士を呼び上げてから時間計測を開始しての仕切り時間を、幕内10分、十枚目7分、幕下5分と決められました。 さらにテレビ放送が始まり、見づらいと不評だった四本柱が撤去されて吊り屋根にし、仕切り時間も幕内4分、十枚目3分、幕下2分に改められました。幕内が塩を取りにいく仕切り回数3-4回程度、十枚目(十両)は2回程度。 時間は、向こう正面の赤房下寄りの審判が時計係審判として、懐中時計を持っていて、時間がくると合図をします。それを東西の呼出さんが注視していて、時間いっぱい だとわかると、すっと立ち上がり、塩を取りに来た力士にタオルを渡します。 時間いっぱい直前の呼出さんが時計係審判をずっと見つめている映像が画面に映りこむことがありますね。 さて時間いっぱい。 ここで、白鵬や(白鵬の所作を模している)勢、栃ノ心らは、小走りに塩を取りに行きます。 『あんなに急いで行かなくても・・・』と解説の北の富士勝昭さんが一度、呆れていましたが、、、、 また、最後の塩では、高見盛が小心者である自分に気合いをいれるべく「ロボコップのポーズ?」をしていてチビッ子ファンが楽しみにしてたし、自分の左右の頬を拳?掌底?で殴って気合を入れる稀勢の里や、豊真将のように左胸を右拳でたたく力士もいましたね。高安は塩をつかんだ後で、花道の奥で立ってる自分の付け人達に向かって、まるでマウンテンゴリラのような闘争姿勢をします。背中までびっちりの毛むくじゃらですから尚更マウンテンゴリラです。逆に、自身の緊張をほぐす為に体を反らせて天井を仰ぎ見るようなポーズをしていた大関時代の琴奨菊もいました。 時間いっぱいでは、タオルで汗を拭うのですが、白鵬は、拭うのが足りないのか?異常な汗っかきの為に拭った後でも汗が噴き出してくるのか?胸筋のあたりが汗で光っていて相手の突きや押しが滑るというのはよく言われていますね。また、遠藤ら一部の力士は、タオルで腋の下を拭った後で顔を拭くので、立ち合いで顔を顔が接する相手力士は嫌だろうなぁと相撲仲間が笑っています。たぶん汗臭くはないでしょうが・・・
昭和の相撲の人気ぶりは、過去にもこちらで、幾度もコメントを寄せさせて頂いたように、 玉錦から69連勝の双葉山へ、そして戦前・戦後両方で優勝を果たした唯一の力士・羽黒山を追って照國・東富士・千代の山・鏡里・吉葉山らが三年間に渡って繰り広げた四横綱時代、そしてご存じ名人横綱栃錦・異能力士若乃花による゛小よく大を制す”という好角家にとって痛快な栃若時代では毎場所栃若が手に汗握る熱戦を繰り広げて空前の人気となり、昭和天皇が蔵前・両國の国技館へ行幸されて天覧相撲を一般国民とともに相撲観戦される形になりました。栃若時代が終焉を迎えると、若くて大柄で二枚目の二人による柏鵬時代が見事に角界を引き継ぐ。さらに現代っ子横綱北の富士・玉の海が凌ぎを削り、プリンス貴ノ花を追って天才輪島と怪童北の湖が毎場所のように千秋楽で雌雄を競う。そして北の湖を、優勝決定戦において瞬間最高視聴率65.3%という・・テレビ中継で全国6000万人余が見守る中で、初優勝した千代の富士の人気ぶりは異常で、53連勝を挙げ、翌場所での69連勝到達も視野に入った昭和63年12月には千代の富士フィーバーは最高潮となっていた。 このように、おおまかに、ざっと述べても 400文字を優に超えてしまいます。 今日は、私の子供時代に土俵の中心にいた大鵬と柏戸について。大鵬のことは様々な報道記録が残っていますので、柏鵬時代の一方の雄、第47代横綱・柏戸剛にフォーカス。 その柏戸の一番弟子で同じ山形市出身の元・蔵王錦さんが、柏戸=鏡山親方を想って語っています。 曰く 私は平成29(2017)年9月、満65歳の停年という一つの区切りを迎えた。昭和45(1970)年の入門から足掛け47年に及ぶ長い相撲人生である。これまでを振り返って、何が幸せだったかというと、あの柏戸の弟子だったということに尽きると思う。 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。 ※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。 柏戸の弟子という誇り 私は山形市の出身で、横綱柏戸は故郷の大英雄だった。その憧れの柏戸が引退し鏡山部屋創設の準備をしていると聞いた昭和45年、誘いを受けた私は、一も二もなく入門を志願した。日大山形高校から卒業を待たず柏戸の内弟子として、当時の伊勢ノ海部屋に飛び込み初土俵を踏んだ。 稽古場での親方の教えは{前に出ろ」の一点張り。「とにかく前に出ろ!」。出なければ、それこそ竹刀で叩かれた。押し、前進は相撲の基本中の基本だが、いざ身に付けるとなると、相手も必死になって前に出てくるのだから、容易なことではない。それでも人間よくしたもので、「前へ」と言われ続けながら稽古を積んでいくと、それが少しずつできるようになってくる。 現役時代の親方はそれを強豪相手にいとも簡単にやってのけた。力強い速攻で常に相手を圧倒、豪快に土俵外に運んだ柏戸相撲は、人々を魅了してやまなかった。 また親方は、純情な人柄もあって、ファン以上に協会の大物と言われる人々からも愛されていた。柏戸の弟子ということで、私も出稽古先などで、普段ではめったに口もきけない方々によく言葉を掛けていただいた。そんなみなさんが共通して言う言葉に「天才」という言葉があった。 春日野理事長(元横綱栃錦)には、「お前のところの師匠は天才だからな、決してあの真似をしようなんて考えるんじゃないぞ」。 ともに切磋琢磨して華やかな柏鵬時代を作り上げた世紀のライバル・大鵬親方には、「天才の柏戸さんに対して、ワシは努力型。柏戸さんという目標があったからこそ、今のワシがあるんだよ」と。 名実ともに誰もが認める相撲の天才であった師匠から見れば、我々しょっぱい相撲取りの相撲は、まどろこっしくて見ていられなかったに違いない。だから、私は年中怒られっぱなしだった。 生涯で唯一褒められた! そんな中で、自分の相撲をほめられた思い出がただ1回だけある(あとにも先にも、本当にこの1回だけ)。 それは私の現役最後のハイライトとでもいうべき、昭和56年9月場所11日目、6回目の挑戦で初めて横綱北の湖関を叩き込みで破った(生涯唯一の金星!)晩のことだった。 「おい、今日はよくやった」と短く言うなり、部屋の洋酒棚に大事にとってあったソ連土産(昭和40年9月のソビエト公演時)のウオッカとブランデーを引っ張り出してきて、「これを飲め!」と私にくれた(10数年も経っているのでウオッカは少し蒸発していて、ビンの首にかなりのスキがあった)。 なにせ生まれて初めて師匠から褒められたのである。私は舞い上がるような気持ちだった。ただその晩は後援者との約束があったので、私が”ご褒美”に手を付けたのは翌日。師匠のお褒めの言葉を思い起こしながら個室でひとり、コップでぐいぐいやって(これがうまいの、なんの!)気が付けば、2本ともカラにしてしまっていた。あれ以上うまい酒は、後にも先にも飲んだことはない。 語り部=元前頭1・蔵玉錦・・・安達敏正氏
続き 実は、 七日目の結びの一番での騒動の二日前、五日目 結びの一番にて、立行司の17代木村庄之助が差し違い一発で引責辞任していたのです。 相撲は、横綱大錦対前頭五枚目の鞍ヶ嶽による結びの一番。 左四つに組みとめた大錦が一気に寄ろうと出たが鞍ヶ嶽がこれを堪えた。さらに大錦が猛然と寄り進み、西の土俵際へ詰めたところで鞍ヶ嶽が得意のうっちゃりをみせた。庄之助の軍配はサッと鞍ヶ嶽に上がった。しかし、検査役か『鞍ヶ嶽に踏み越しあり』として、行司差し違いの判定となった。 打出し後、『江戸の時代から続く“庄之助”の名を継ぐ者としては、切腹に値することであり、代々の庄之助に申し訳ない』 と、協会に退職を申し出た。頭取の出羽ノ海(元横綱の常陸山)も慰留に努めたが庄之助(59歳)の意思は頑な この上なく、1862文久2年に生まれ、七歳で明治2年に大阪相撲に入門して以来53年続けてきた行司生活に、この日限りで終止符を打ってしまった。 立行司の差し違い→即引退というセンセーショナルな事件があったばかりだったのでした。
温故知新・大相撲カレンダー 5月19日 1921大正10年5月19日 大相撲五月夏場所 行司 の不手際でとんでもないことが起きてしまいました。 それは五月夏場所七日目の結びの一番 ここまで6戦全勝の横綱大錦卯一郎に挑むは前頭筆頭の三杉磯。 仕切り直し30回目も立ち合いの息が合わず、すでに所要時間50分を超えていた。仕切り時間54分経過してやっと軍配がかえった。 立つやいなや三杉磯が双差しに成功し頭をつける。しばし攻防の末に大錦が右をねじ込み右四つ。いったん捻りをみせた大錦、これを残した三杉磯。ここで大錦が双差しになるが、三杉磯が左上手に右は前みつを掴んで寄り身をみせた。ここで大錦が窮屈な双差しから吊りに出た。 すると、三杉磯の一重まわしが伸びて胸まで上がってしまった。 ここで、行司の木村朝之助が勘違いして?『まわし、まわし!』と叫びながら、実際は緩んだだけで解けてはいないのに、いきなり飛び込んで相撲を中断させた。いよいよ佳境に入らんとするところであったのに、勝負は止められた。 勝ち残りで東の控えにいた大関常ノ花が『分けだ!』と叫んだ。 これを聞いた三杉磯はまわしを締め直すや土俵から降りてしまった。時を置かず、大錦も降りてしまったので、何故か「水入り」の形になってしまいました。 さて、両者土俵へ戻り組み直さんとしたものの、そもそもまわしを締め直した後なので元と同じ組み手になるはずもない。大錦の左が三杉磯の右脇に入って差し手の形になるよう朝之助に促されたが、大錦も三杉磯も異議を唱えた。あーでもない、こーでもないと組み手を解いて水をつけにいくくりかが十回を超え、行司朝之助は狼狽し、挙句には元の組み手さえ忘れてしまうという迂闊千万。そもそも仕切りで小一時間待たされている観客は総立ちとなり怒号が飛びかい大混乱となってしまった。 検査役頭を務める重鎮「雷(いかずち)親方」=元横綱の二代梅ヶ谷 が、『控え行司の勘太夫に指示を出しても駄目、四本柱を背に座している四人の検査役全員を動員しても収まりがつかず。雷が勘太夫に相手に見本を示すが、これに二十山検査役=元横綱二代小錦が異論を挟み、三杉磯の師匠でもある峰崎親方=行司の木村銀治郎も意見を述べるが、三杉磯が承知せず。これだけでも 50分もかかってしまい、両者は気合も抜けて疲れ果て、三杉磯は『もう相撲は取らぬ』と泣きながら親方に直訴。後援会員に諭され花道を引き揚げようとする三杉磯、こんどは、相生警察署長が飛び出してきて三杉磯を説諭するが三杉磯ら承知せず。 現在の理事長にあたる “ 取締 ” の友綱=元前頭筆頭の海山=太刀山の師匠 が、登場し、『 相撲を取らぬと言うなら、負けとした上 破門する 』と厳命した。 ここまで言われては三杉磯も相撲を取らぬわけにもいかず、渋々土俵に戻り、大錦の双差しの形でようやく再開となった。 ここで、攻防の末、時間ばかり経過して、検査役が水入りを行司へ指示した。 すると、行司朝之助がまたまた慌ててしまい、「まわし待った」と勘違いして三杉磯の後ろまわしを引っ張った。 「引き分け」と思った三杉磯はスタスタと土俵を降りてしまった。大錦は訳がわからず土俵中央に仁王立ちとなり、朝之助を睨め付ける。 検査役が慌てて、再度「引き分け」を伝えるという有様。 ともかく、相撲は終わった。 打出しは、なんと夜の8時25分となっていた。 水入りなしの引き分けも異例なら、計2時間5分もかかった 阿呆らしいばかりの時間の掛かり方も異例。しかも行司の失態による遅延とあって、控えの常ノ花は怒った。曰く、『 水を入れずに引き分けるとは何事か?横綱を土俵に立たせておいて検査役が傍観しているとは何事だ?』と怒り心頭。 検査役は横綱大錦に謝罪した。駄々をこねた三杉磯は謝って以後の奮闘を誓ったものの、翌日には腕の腫れものが悪化し、診断書つきで休場した。 騒動の主役となってしまった朝之助は、木村瀬平に連れられ、元常陸山の出羽ノ海・友綱の両取締へ進退伺いを提出した。 幹部役員は『相撲始まって以来の大失態である。特に大錦は個人優勝となる“優勝掲額” が懸かっているから尚更問題だ。』と、非難轟々。 『朝之助の軍配を取り上げて次の場所から 勝負裁定はさせずに、本人が唯一得意な “ 顔触れ ” 専門の係にせよ!』という意見まで出るほどだったが、結局、翌日八日目の出場停止 という軽い処分で済んだ。 何故か というと実は・・ 続く
最近は中卒よりもインターハイや国体(高校相撲) インカレや国体成年、全日本選手権(大学相撲) といった学生相撲出身が増えたと思います! 外国出身もレスリングやサンボ、モンゴル相撲 他の格闘技の猛者達がプロスポーツとして 相撲を選んだようにも思います! 言いかえれば技が増えたのは面白いと思います♪
NHKは 中止になった大相撲夏場所に替わって「大相撲特別場所~テレビ桟敷へようこそ~」を3週にわたって放送すると発表した。 第1回は、次の日曜日、24日 午後3時5分から午後5時15分。1987年の「大相撲この一年 燃える九重名コンビ」と2004年の「大相撲この一年 激闘 新たな夢へ」を放送し、横綱鶴竜、大関朝乃山がリモート出演で近況を語るという。 また、ABEMAは15日に「大相撲LIVEチャンネル」で「大相撲ABEMA場所~記憶に残る名勝負100連発~」を3回にわたって生放送すると発表。1回目は23日午後4時から。大相撲の歴史に残る名勝負100選を、「土俵際の大逆転劇集」「豪快な取組」「イケメン力士集」というテーマ別で振り返る。三役以上の力士もリモートで生出演予定。
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,656件 』
初代梅ヶ谷 追記
それにしても、ひと場所に二敗したら辞める・・って、
ひと場所で二敗したことがない!という横綱なんていたのでしょうか? と、調べてみると
いました、いました。
ひと場所に二敗せず
横綱免許を授かる前の平幕や三役の頃こそ二敗した場所があったものの、横綱としては一度も、ひと場所に二敗しなかったのは
谷風(横綱在位6年間)、
太刀山(横綱在位7年間)、
陣幕(横綱在位1年間)の3名、
そして もう一人、
横綱になる前、幕内成績すべてで、一度も ひと場所に二敗しなかったのが
無類力士・雷電為右衛門
関脇付出しでのデビュー以来
21年間の幕内在位で一度も二敗しませんでした。
時代がひと場所十日間の時代ですから、
昭和以降の十五日制に当てはめ、ひと場所三敗としても、
ひと場所二敗以内を貫いた昭和以降の横綱は?
見当たりません、
そんな横綱は誰一人いませんでした。
温故知新・大相撲カレンダー
5月23日
1885明治18年5月23日
五月夏場所八日目
第15代横綱の梅ヶ谷藤太郎が、ひと場所に2敗してしまった為、『横綱は不敗たるべし』の持論を貫き、引退を届け出た。
東京相撲協会の幹部が総出で慰留するのを振り切り、翌場所に初日から三日間出場し三連勝したが、やはり、自身の相撲道への思い全休して、今一度じっくり考えたが、やはり思いから、横綱たるものは,・・・
が強くを頭を支配し、思いを翻すことなく、場所後に引退してしまいました。この時、梅ヶ谷は、40歳2ヶ月。
幕内成績 が 116勝6敗18分2預78休み、勝率.951で、
雷電為右衛門(.962)に次ぐ大相撲史上歴代第2位。優勝相当9回。
大関としての成績は
在位11場所で、56勝1敗10分1預42休
58連勝は双葉山、谷風、白鵬に次ぐ歴代4位。
梅ヶ谷は、12年間の幕内生活で、わずか 6敗しかしていません。
梅ヶ谷に勝った力士は
勝ノ浦 与市右エ門が 2度、平幕時代の梅ヶ谷に連勝。
若嶋久三郎=梅ヶ谷の連勝を58で止めて名をはす。
大達羽左衛門=梅ヶ谷の連勝を35で止めた。
そして横綱免許を受けた後の梅ヶ谷に勝った 高見山宗五郎 、 雷電震右衛門
以上の5人だけでした。
初代梅ヶ谷は 「 負けない相撲 」の具現者で、谷風の相撲ぶりを踏襲した。のちに、大鵬がこれに続いていますね。
初代梅ヶ谷は、176cm.105kgと当時の力士としては並みの体格にして 4斗樽を片手で差し上げるほどの怪力ながら、右手で浅く上手を引きつけ、左筈で寄る、という堅実な取り口に徹した。
幕内在位16年間の土俵において、負け越しが一度もないどころか、2連敗が一度もなし。
引退後は、年寄「雷(いかずち)」として後進の指導にあたり、二代梅ヶ谷を横綱にまで育てながら、最初の屋根付き常設館である旧両國國技館の建設に際して、安田銀行の本所支店長・飯嶋保篤氏から、自身の信用だけで40万円(現在の価値で120億円)を無担保で借り受けることに成功した。
70歳の時に、雷部屋を弟子の二代梅ヶ谷に譲り引退したが、功績があまりに大きかったので東京相撲協会から強く慰留され、相談役待遇として協会に残り、「大雷(おおいかずち)」として協会に残って、力士の所作・礼儀・基本稽古の徹底に始まり、日頃の生活態度から食事に至るまで指導し、影響力を発揮した。
大雷本人が、ひと晩で一斗酒を嗜む酒豪だったこともあり、力士には、日本酒の効能を勧めたが、飲酒の翌朝には酒が全て汗で抜けきるほどの激しい稽古を強いたそうです。
昭和3年6月15日に大雷は亡くなったが、享年 83歳。
横綱経験者としての最長寿記録で、現在、これを追うのは、元栃の海。それに続くのが、我らが北の富士さんです。
温故知新・大相撲カレンダー
5月22日
1936昭和11年5月22日
五月夏場所九日目、前の場所に11戦全勝優勝を飾り、この場所もここまで8戦全勝、前年の五月夏場所から27連勝中と、乗りに乗っていた横綱玉錦に、過去6戦して一度も玉錦には勝てなかった関脇双葉山が浴びせ倒しで初めて勝利し、初日から九戦全勝としました。
翌場所以降の玉錦との対戦では一度も負けず、6連敗の後に4連勝と、(後から考えれば)明らかに世代交代となった一番でした。
九日目熱戦譜では
九日目結びの一番 双葉山(浴びせ倒し)玉錦
ここまで8戦全勝同士の玉錦と双葉山、前場所以上に興味を集める一番である。
仕切り 3回目で双葉山が突っかけるが玉錦は受けない。 7回目、玉錦が左拳を土俵に下ろすところで双葉山猛然立ち上がり突き立てた。応じた玉錦は突き返して右を差し左からはおっつける。 双葉山はこれに対して左上手を取り、引きつけた。玉錦は左を巻き替えようとした。 双葉山はこれを許さず右からおっつけて正面に寄り立てた。玉錦は左で首を巻いて打っ棄ろうとする。 双葉山は腰を落として左上手を離し、胸を押してドウと浴びせ倒した。常勝玉錦が潰え去り、館内は怒号渦巻き、座蒲団・蜜柑・木製で本当の灰が詰まった灰皿=煙草盆が土俵に投げ込まれる嵐のような騒ぎとなった。
後世から見ればこの相撲が覇者交代の一戦となったが、そんなことは当然ながら、神ならぬ身ゆえ当時の人々の与り知らぬことだった。
「世代交代の一番」として有名なのは、平成3年夏場所初日の結びの一番、小さな大横綱千代の富士35歳 対 18歳9か月の新鋭貴花田の初顔合わせの一番。
割りが発表となった二日前、スポーツ紙は色めき立ち、前年九州で31度目の優勝を遂げた後に年明けの二場所を怪我で休場し、復調してないにも関わらず、春場所で13勝を挙げての準優勝で一気に前頭筆頭へ駆け上がってきた貴花田との直接対戦を楽しみに出場してきた千代の富士。
土俵下から見守る審判部長は、千代の師匠でもある九重親方=第52代横綱北の富士。
低く立った貴花田が千代の胸に頭をつけて食い下がりながら猛然と攻め立て黒房下へ寄り切った。
ウルフフィーバーで長く一番人気だった千代の富士と、プリンス貴ノ花の息子で文字通り「鳴り物入りでのデビュー」以来、相撲に縁のない女性雑誌・ファッション誌までが追い回すという日本中が注目していた中で同期入門の曙や兄・若花田とともに番付を駆け上がってきた貴花田の初対決。
この負けの翌々日の夜に大横綱千代の富士が引退発表したので、世代交代といえば、やはり、この一番でしょう。
しかし、千代と貴は、たった一度きりの対戦でしたから、
東横綱が指定席だった玉錦に初勝利した後、3度の対戦ですべて双葉山が勝利し、東横綱を明け渡さなかった双葉山。角界の不動の大記録69戦69連勝の最中の出来事で、この昭和11年の勝利が分岐点となったのは間違いなく、後年「世紀の世代交代」と語られるようになりました。た。
・・・千代の富士と貴花田の一番を、テレビ桟敷で とはいいながら、生放送で観ることができたのは、幸せでしたねえ。今でもyoutubeで映像を見ることできます。 支度部屋で記者団に囲まれた「敗軍の将」千代の富士が、『貴花田?うん、二重丸だよ。・・・・あぁ三重丸だって言っておいて』と言葉を付け足しました。
よって、平成における世代交代の一番は、千代の富士貢 vs 貴花田光司、
昭和での世代交代の一番が、玉錦三右エ門 vs 双葉山定次。
大正時代なら、大正5年五月に無敵太刀山峰右衛門の連勝を止める初勝利を挙げて、自身の時代の幕を開いた栃木山守也の殊勲の一番。
明治時代まで遡ると、横綱在位11年余で幕内勝率9割を超えた「角聖」常陸山谷右衛門に4戦して2勝2分と引導を渡した太刀山の勝利でしょう。
もう一丁、江戸時代の記録を紐解くと、江戸時代の相撲黄金時代の最初と言われる「寛政の大相撲人気」を支えた谷風梶之助とライバルだった小野川喜三郎に、師匠の仇討とばかり立ちはだかった雷電為右衛門が、江戸相撲では一度も小野川に負けなかったのが、世代交代にあたるのでしょう。
白鵬に引導を渡すのは、誰か? 大怪我で無念の引退をした稀勢の里が果たせなかったので、このあとの若手で、いったい誰が白鵬に引導を渡すのか? 朝乃山? 竜電? 誰でしょう?
温故知新・大相撲カレンダー
5月21日
1961昭和36年5月21日
大相撲夏場所千秋楽
表彰式でのパンアメリカン航空からのトロフィー授与に、極東地区支配人の職にあったデビット・ジョーンズ氏が初めて登場しました。
以降
毎場所の千秋楽に登壇したジョーンズ氏は、慣れてくるに従って、
『ヒョーシヨージヨー、○○関 あなたは・・』と読んでた第一声を
『 ヒョー、 ショー、 ジョ! ○○関 あーなたは!』へと、変化させていきました。
この第一声で 掴みはバッチリ!
特に地方場所では、そのご当地の訛りを織り交ぜるので人気を博し、当該場所の総括をアナウンサーが喋っていると、『パンナムのジョーンズさんの挨拶が聞こえない!黙れ!』と苦情の電話が多数、NHKにかかってくるようになりました。
三月大阪場所では、『優勝!○○関!あんたはんは、』と始めて、最後に 『アンタはエラい!』と言って挨拶を締めくくったこともあった。
九州場所でのジョーンズ氏を今でもYouTubeで見ることができます。
それは1988昭和63年九州場所千秋楽。
結びの一番で大乃国に敗れ大連勝を63で止められてしまった千代の富士が、それでも14勝で優勝。千代の富士連勝記録ストップに興奮冷めやらぬ観客。
そして、表彰式。
国歌斉唱、天皇賜盃授与、優勝旗授与、内閣総理大臣杯授与、NHK杯授与と進んで、お待ちかね!天皇賜盃よりも10kg以上も重いパンアメリカン航空トロフィーが土俵上のテーブルに置かれると、館内はざわつき始めた。
地方場所では毎回、ご当地の方言を織り交ぜるジョーンズ氏の挨拶に、観客は静寂をもって注目。帰路を急ぐ客はひとりもおらず、皆、固唾を飲んで見守る。
そして、土俵に上がった ジョーンズ氏が おもむろに、
『 ヒョー!ショー!ジョッ !(笑)優勝! 千代の富士 貢ゼキ!
あんたは! (爆笑) 大相撲九州場所において、ものすごーよかったけん!(爆笑) 優勝ば しんしゃった。 (爆笑) そげなわけで (爆笑) その栄誉を称えて、パンナメリカン航空会社よりトロフィーば やるけんくさ! (爆笑) 受け取って やいんしやい。 (大爆笑)
また、来場所も気張ってやいんしやい。昭和63年十一月・・』
とやったので、場内は割れんばかりの大喝采となったのは言うまでもありません。
・・・(笑)(爆笑)は場内の様子をあらわしたものです。
YouTubeに残るこの映像では、涙を流して喜ぶ九州のお客さんがたくさん映ってました。
また、満身創痍だった北の湖が2年ぶりの復活優勝で、24回目の優勝となった昭和59年5月夏場所千秋楽。ジョーンズ氏の軽妙な挨拶に、久しぶりの優勝を遂げて、安心した北の湖がニコっと笑顔になったほのぼのとした映像も、今もYouTubeで見ることができます。
琴櫻が優勝した際に一度だけ、重心が高くバランスの悪いトロフィーを持ったまま転んでしまい、トロフィーを土俵に落としてしまったことがありましたが、以降は、一度も落としませんでした。
一昨日の寄稿で、大錦と三杉磯が繰り広げた仕切り直し30回以上、所要時間50分以上という、立ち合いの不具合について触れましたが、
昨日投稿の鏡山親方(元横綱柏戸)について弟子が語った文献=ベースボールマガジン「私の奇跡の一枚 連載69」の2週前の連載67にて
角界の識者たる方が、「立ち合い」について見解を述べていたので、ご紹介します。
【私の“奇跡の一枚” 連載67】 栃錦は決して立ち合いを乱してなんかいない!
最後の仕切りに入る際、腰を大きく割って両手を後方に跳ね上げるように構える形が何とも恰好よかった栃錦
19世紀のフランスの天才詩人ジャン・コクトーは、日本を訪れた際、双葉山時代の国技館を訪れ、すっかり大相撲の世界に魅せられた。特にその立ち合いに共感し、世界的芸術家の感性をもって“バランスの奇跡!”と絶賛したのだった。
長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
理想は双葉山時代のそれだが……
それほどさように、双葉山を象徴とする大相撲の正々堂々の立ち合いとその作法は、外国人が見ても、完成された神秘的なまでの芸術品だった。 格闘技原初のスタンディングポジション?!スタイルから、互いに腰を割っての仕切りを繰り返しながら、両者がともに最善のスタートを切るという、人知と誠意の限りを尽くした相撲の立ち合いを編み出した力士たち。だからこそ制限時間に向かって両者が仕切り直しを繰り返すなか、満身が朱に染まっていく様子も、勝負ばかりでなく、ファンは楽しむことができた。
双葉山時代に完成を見た、お互いがしっかり腰を割り、両手をついてスタートする立ち合いのスタイルは、まさしくこの競技の大基本であった。
後年、立ち合い問題を振り返るとき、両手をつかずに立つことで土俵作法を乱したのは栃錦が元祖、という言い方をする人がいる。しかしそれは、栃若ファンの生き残りとしても明確に否定しておきたい。
名人は名人を知る
このことについて、新国技館が開館した昭和60(1985)年1月号に掲載された、元大関増位山(父)の三保ケ関親方(当時)の文章(『澤田国秋のメモリアル・ギャラリー』があるので、同時代の相撲人の意見として、紹介しておきたい。
『澤田国秋のメモリアル・ギャラリー』
さる(59年)9月場所から協会は不退転の決意をもって立ち合いの正常化へと立ち上がった。そしてその場所は予想以上に立派な立ち合いがなされた。それが2場所目の九州になると待ったが多発した。これはやはり、相手が突っ掛けてきたらいつでも立つ、という気持ちに欠けるものがあるからだ。時間いっぱいになったらどんなことをしてでも立つ、ということであってほしい。
また、横綱、大関ともなれば、下の相手が飛んでくるのを見て立ってやるのが貫禄というものだと思うのだが、そんなことはお構いなしに突っ込もうとする。同じ実力の大関同士ならいざ知らず、明らかに差のある相手に対してもそうなのが私には納得がいかない。相手を待ってやるだけの度量がほしい。
そういった意味で一言しておきたいのは春日野理事長(元横綱栃錦)の現役時代の仕切りについてである。つまり横綱栃錦を、手をつかずに立って立ち合いを乱した元祖だと批判する向きがあるが、私はそれは絶対に違うと思う。
栃錦の現役時代、私は勝負検査役(現在の審判委員)として土俵下から注意深くその勝負を見守っていたけれども、いつでも相手がつっかけて来たら立てる仕切りだったという意味で、それなりに納得できるものであった。ただ腰を割って仕切りに入る際、あまりに足を広げすぎるため、手をつきにくい重心になってしまってはいた。しかし同時に左右にパッと開いた両手によって、ほかの力士が土俵に両手をついているのと同じように、ピッと決めていたのである。
それが証拠に、栃錦には待ったがなかったではないか。要するに相手に合わせていたのである。さあ、いつでも、どこからでも来いと待ち構えていたのである。
語り部=間 雅仁(『相撲』誌専属ライター)
・・・大錦・三杉磯戦は極端な例でしたが、大正時代以前は、それに近いことはたびたびありました。明治時代にも、仕切り直しが50回を超え、力んで歯を食いしばっていた力士が奥歯を噛み砕き、口から血を流しながら仕切りを繰り返していたないでしょうが・・・という記録が残っています。
そんな時間無制限の仕切りを変更したのは、1928昭和3年に始まったNHKラジオ放送での大相撲中継開始がきっかけでした。
ラジオ放送の放送時間(開始と終了時刻)に合わせられるよう、呼出さんが東西の力士を呼び上げてから時間計測を開始しての仕切り時間を、幕内10分、十枚目7分、幕下5分と決められました。
さらにテレビ放送が始まり、見づらいと不評だった四本柱が撤去されて吊り屋根にし、仕切り時間も幕内4分、十枚目3分、幕下2分に改められました。幕内が塩を取りにいく仕切り回数3-4回程度、十枚目(十両)は2回程度。
時間は、向こう正面の赤房下寄りの審判が時計係審判として、懐中時計を持っていて、時間がくると合図をします。それを東西の呼出さんが注視していて、時間いっぱい だとわかると、すっと立ち上がり、塩を取りに来た力士にタオルを渡します。
時間いっぱい直前の呼出さんが時計係審判をずっと見つめている映像が画面に映りこむことがありますね。
さて時間いっぱい。
ここで、白鵬や(白鵬の所作を模している)勢、栃ノ心らは、小走りに塩を取りに行きます。
『あんなに急いで行かなくても・・・』と解説の北の富士勝昭さんが一度、呆れていましたが、、、、
また、最後の塩では、高見盛が小心者である自分に気合いをいれるべく「ロボコップのポーズ?」をしていてチビッ子ファンが楽しみにしてたし、自分の左右の頬を拳?掌底?で殴って気合を入れる稀勢の里や、豊真将のように左胸を右拳でたたく力士もいましたね。高安は塩をつかんだ後で、花道の奥で立ってる自分の付け人達に向かって、まるでマウンテンゴリラのような闘争姿勢をします。背中までびっちりの毛むくじゃらですから尚更マウンテンゴリラです。逆に、自身の緊張をほぐす為に体を反らせて天井を仰ぎ見るようなポーズをしていた大関時代の琴奨菊もいました。
時間いっぱいでは、タオルで汗を拭うのですが、白鵬は、拭うのが足りないのか?異常な汗っかきの為に拭った後でも汗が噴き出してくるのか?胸筋のあたりが汗で光っていて相手の突きや押しが滑るというのはよく言われていますね。また、遠藤ら一部の力士は、タオルで腋の下を拭った後で顔を拭くので、立ち合いで顔を顔が接する相手力士は嫌だろうなぁと相撲仲間が笑っています。たぶん汗臭くはないでしょうが・・・
昭和の相撲の人気ぶりは、過去にもこちらで、幾度もコメントを寄せさせて頂いたように、
玉錦から69連勝の双葉山へ、そして戦前・戦後両方で優勝を果たした唯一の力士・羽黒山を追って照國・東富士・千代の山・鏡里・吉葉山らが三年間に渡って繰り広げた四横綱時代、そしてご存じ名人横綱栃錦・異能力士若乃花による゛小よく大を制す”という好角家にとって痛快な栃若時代では毎場所栃若が手に汗握る熱戦を繰り広げて空前の人気となり、昭和天皇が蔵前・両國の国技館へ行幸されて天覧相撲を一般国民とともに相撲観戦される形になりました。栃若時代が終焉を迎えると、若くて大柄で二枚目の二人による柏鵬時代が見事に角界を引き継ぐ。さらに現代っ子横綱北の富士・玉の海が凌ぎを削り、プリンス貴ノ花を追って天才輪島と怪童北の湖が毎場所のように千秋楽で雌雄を競う。そして北の湖を、優勝決定戦において瞬間最高視聴率65.3%という・・テレビ中継で全国6000万人余が見守る中で、初優勝した千代の富士の人気ぶりは異常で、53連勝を挙げ、翌場所での69連勝到達も視野に入った昭和63年12月には千代の富士フィーバーは最高潮となっていた。
このように、おおまかに、ざっと述べても 400文字を優に超えてしまいます。
今日は、私の子供時代に土俵の中心にいた大鵬と柏戸について。大鵬のことは様々な報道記録が残っていますので、柏鵬時代の一方の雄、第47代横綱・柏戸剛にフォーカス。
その柏戸の一番弟子で同じ山形市出身の元・蔵王錦さんが、柏戸=鏡山親方を想って語っています。
曰く
私は平成29(2017)年9月、満65歳の停年という一つの区切りを迎えた。昭和45(1970)年の入門から足掛け47年に及ぶ長い相撲人生である。これまでを振り返って、何が幸せだったかというと、あの柏戸の弟子だったということに尽きると思う。
長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。
柏戸の弟子という誇り
私は山形市の出身で、横綱柏戸は故郷の大英雄だった。その憧れの柏戸が引退し鏡山部屋創設の準備をしていると聞いた昭和45年、誘いを受けた私は、一も二もなく入門を志願した。日大山形高校から卒業を待たず柏戸の内弟子として、当時の伊勢ノ海部屋に飛び込み初土俵を踏んだ。
稽古場での親方の教えは{前に出ろ」の一点張り。「とにかく前に出ろ!」。出なければ、それこそ竹刀で叩かれた。押し、前進は相撲の基本中の基本だが、いざ身に付けるとなると、相手も必死になって前に出てくるのだから、容易なことではない。それでも人間よくしたもので、「前へ」と言われ続けながら稽古を積んでいくと、それが少しずつできるようになってくる。
現役時代の親方はそれを強豪相手にいとも簡単にやってのけた。力強い速攻で常に相手を圧倒、豪快に土俵外に運んだ柏戸相撲は、人々を魅了してやまなかった。
また親方は、純情な人柄もあって、ファン以上に協会の大物と言われる人々からも愛されていた。柏戸の弟子ということで、私も出稽古先などで、普段ではめったに口もきけない方々によく言葉を掛けていただいた。そんなみなさんが共通して言う言葉に「天才」という言葉があった。
春日野理事長(元横綱栃錦)には、「お前のところの師匠は天才だからな、決してあの真似をしようなんて考えるんじゃないぞ」。
ともに切磋琢磨して華やかな柏鵬時代を作り上げた世紀のライバル・大鵬親方には、「天才の柏戸さんに対して、ワシは努力型。柏戸さんという目標があったからこそ、今のワシがあるんだよ」と。
名実ともに誰もが認める相撲の天才であった師匠から見れば、我々しょっぱい相撲取りの相撲は、まどろこっしくて見ていられなかったに違いない。だから、私は年中怒られっぱなしだった。
生涯で唯一褒められた!
そんな中で、自分の相撲をほめられた思い出がただ1回だけある(あとにも先にも、本当にこの1回だけ)。
それは私の現役最後のハイライトとでもいうべき、昭和56年9月場所11日目、6回目の挑戦で初めて横綱北の湖関を叩き込みで破った(生涯唯一の金星!)晩のことだった。
「おい、今日はよくやった」と短く言うなり、部屋の洋酒棚に大事にとってあったソ連土産(昭和40年9月のソビエト公演時)のウオッカとブランデーを引っ張り出してきて、「これを飲め!」と私にくれた(10数年も経っているのでウオッカは少し蒸発していて、ビンの首にかなりのスキがあった)。
なにせ生まれて初めて師匠から褒められたのである。私は舞い上がるような気持ちだった。ただその晩は後援者との約束があったので、私が”ご褒美”に手を付けたのは翌日。師匠のお褒めの言葉を思い起こしながら個室でひとり、コップでぐいぐいやって(これがうまいの、なんの!)気が付けば、2本ともカラにしてしまっていた。あれ以上うまい酒は、後にも先にも飲んだことはない。
語り部=元前頭1・蔵玉錦・・・安達敏正氏
続き
実は、
七日目の結びの一番での騒動の二日前、五日目 結びの一番にて、立行司の17代木村庄之助が差し違い一発で引責辞任していたのです。
相撲は、横綱大錦対前頭五枚目の鞍ヶ嶽による結びの一番。
左四つに組みとめた大錦が一気に寄ろうと出たが鞍ヶ嶽がこれを堪えた。さらに大錦が猛然と寄り進み、西の土俵際へ詰めたところで鞍ヶ嶽が得意のうっちゃりをみせた。庄之助の軍配はサッと鞍ヶ嶽に上がった。しかし、検査役か『鞍ヶ嶽に踏み越しあり』として、行司差し違いの判定となった。
打出し後、『江戸の時代から続く“庄之助”の名を継ぐ者としては、切腹に値することであり、代々の庄之助に申し訳ない』
と、協会に退職を申し出た。頭取の出羽ノ海(元横綱の常陸山)も慰留に努めたが庄之助(59歳)の意思は頑な この上なく、1862文久2年に生まれ、七歳で明治2年に大阪相撲に入門して以来53年続けてきた行司生活に、この日限りで終止符を打ってしまった。
立行司の差し違い→即引退というセンセーショナルな事件があったばかりだったのでした。
温故知新・大相撲カレンダー
5月19日
1921大正10年5月19日
大相撲五月夏場所
行司 の不手際でとんでもないことが起きてしまいました。
それは五月夏場所七日目の結びの一番
ここまで6戦全勝の横綱大錦卯一郎に挑むは前頭筆頭の三杉磯。
仕切り直し30回目も立ち合いの息が合わず、すでに所要時間50分を超えていた。仕切り時間54分経過してやっと軍配がかえった。
立つやいなや三杉磯が双差しに成功し頭をつける。しばし攻防の末に大錦が右をねじ込み右四つ。いったん捻りをみせた大錦、これを残した三杉磯。ここで大錦が双差しになるが、三杉磯が左上手に右は前みつを掴んで寄り身をみせた。ここで大錦が窮屈な双差しから吊りに出た。
すると、三杉磯の一重まわしが伸びて胸まで上がってしまった。
ここで、行司の木村朝之助が勘違いして?『まわし、まわし!』と叫びながら、実際は緩んだだけで解けてはいないのに、いきなり飛び込んで相撲を中断させた。いよいよ佳境に入らんとするところであったのに、勝負は止められた。
勝ち残りで東の控えにいた大関常ノ花が『分けだ!』と叫んだ。
これを聞いた三杉磯はまわしを締め直すや土俵から降りてしまった。時を置かず、大錦も降りてしまったので、何故か「水入り」の形になってしまいました。
さて、両者土俵へ戻り組み直さんとしたものの、そもそもまわしを締め直した後なので元と同じ組み手になるはずもない。大錦の左が三杉磯の右脇に入って差し手の形になるよう朝之助に促されたが、大錦も三杉磯も異議を唱えた。あーでもない、こーでもないと組み手を解いて水をつけにいくくりかが十回を超え、行司朝之助は狼狽し、挙句には元の組み手さえ忘れてしまうという迂闊千万。そもそも仕切りで小一時間待たされている観客は総立ちとなり怒号が飛びかい大混乱となってしまった。
検査役頭を務める重鎮「雷(いかずち)親方」=元横綱の二代梅ヶ谷 が、『控え行司の勘太夫に指示を出しても駄目、四本柱を背に座している四人の検査役全員を動員しても収まりがつかず。雷が勘太夫に相手に見本を示すが、これに二十山検査役=元横綱二代小錦が異論を挟み、三杉磯の師匠でもある峰崎親方=行司の木村銀治郎も意見を述べるが、三杉磯が承知せず。これだけでも 50分もかかってしまい、両者は気合も抜けて疲れ果て、三杉磯は『もう相撲は取らぬ』と泣きながら親方に直訴。後援会員に諭され花道を引き揚げようとする三杉磯、こんどは、相生警察署長が飛び出してきて三杉磯を説諭するが三杉磯ら承知せず。
現在の理事長にあたる “ 取締 ” の友綱=元前頭筆頭の海山=太刀山の師匠 が、登場し、『 相撲を取らぬと言うなら、負けとした上 破門する 』と厳命した。
ここまで言われては三杉磯も相撲を取らぬわけにもいかず、渋々土俵に戻り、大錦の双差しの形でようやく再開となった。
ここで、攻防の末、時間ばかり経過して、検査役が水入りを行司へ指示した。
すると、行司朝之助がまたまた慌ててしまい、「まわし待った」と勘違いして三杉磯の後ろまわしを引っ張った。
「引き分け」と思った三杉磯はスタスタと土俵を降りてしまった。大錦は訳がわからず土俵中央に仁王立ちとなり、朝之助を睨め付ける。
検査役が慌てて、再度「引き分け」を伝えるという有様。
ともかく、相撲は終わった。
打出しは、なんと夜の8時25分となっていた。
水入りなしの引き分けも異例なら、計2時間5分もかかった 阿呆らしいばかりの時間の掛かり方も異例。しかも行司の失態による遅延とあって、控えの常ノ花は怒った。曰く、『 水を入れずに引き分けるとは何事か?横綱を土俵に立たせておいて検査役が傍観しているとは何事だ?』と怒り心頭。 検査役は横綱大錦に謝罪した。駄々をこねた三杉磯は謝って以後の奮闘を誓ったものの、翌日には腕の腫れものが悪化し、診断書つきで休場した。
騒動の主役となってしまった朝之助は、木村瀬平に連れられ、元常陸山の出羽ノ海・友綱の両取締へ進退伺いを提出した。
幹部役員は『相撲始まって以来の大失態である。特に大錦は個人優勝となる“優勝掲額” が懸かっているから尚更問題だ。』と、非難轟々。
『朝之助の軍配を取り上げて次の場所から 勝負裁定はさせずに、本人が唯一得意な “ 顔触れ ” 専門の係にせよ!』という意見まで出るほどだったが、結局、翌日八日目の出場停止 という軽い処分で済んだ。
何故か というと実は・・
続く
最近は中卒よりもインターハイや国体(高校相撲)
インカレや国体成年、全日本選手権(大学相撲)
といった学生相撲出身が増えたと思います!
外国出身もレスリングやサンボ、モンゴル相撲
他の格闘技の猛者達がプロスポーツとして
相撲を選んだようにも思います!
言いかえれば技が増えたのは面白いと思います♪
NHKは
中止になった大相撲夏場所に替わって「大相撲特別場所~テレビ桟敷へようこそ~」を3週にわたって放送すると発表した。
第1回は、次の日曜日、24日 午後3時5分から午後5時15分。1987年の「大相撲この一年 燃える九重名コンビ」と2004年の「大相撲この一年 激闘 新たな夢へ」を放送し、横綱鶴竜、大関朝乃山がリモート出演で近況を語るという。
また、ABEMAは15日に「大相撲LIVEチャンネル」で「大相撲ABEMA場所~記憶に残る名勝負100連発~」を3回にわたって生放送すると発表。1回目は23日午後4時から。大相撲の歴史に残る名勝負100選を、「土俵際の大逆転劇集」「豪快な取組」「イケメン力士集」というテーマ別で振り返る。三役以上の力士もリモートで生出演予定。