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つづき 実際のところ、北の富士さんは、稽古に励む度合いに 他の力士よりも抑揚が大きくあるだけで、やる時はやる! メリハリのある稽古をしていた北の富士さん。 本場所での結果も スイッチが入り波にのると圧倒的な強さを見せたのは周知のとおり。 そうでなければ、素質だけで幕内優勝10回、15 戦全勝優勝3回(ともに当時の大相撲史上3位で “昭和の2大横綱” 双葉山・大鵬に並ぶ大記録)なんて立派な記録を残せるはずもありません! #48 へ つづく
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #47 ◇うるさ型の古参解説者のみならず、スポーツ紙などのマスコミからも…… 旧い伝統を良しと信じる年長の編集長がいるスポーツ紙からも 言動を色眼鏡で見られていた北の富士さん。 長年にわたる印象操作的な記事を信じ、「北の富士? あぁ遊び人ね」と思ってる相撲ファンも少なくない。 北の富士さんは生来 体が柔らかい為、深刻な怪我は非常に少ない方だったという。 2021年三月場所十三日目にNHK大相撲中継の公式Twitterで 『今日は急いできたから腰がちょっと痛い』とツイートすると 「現役時代に腰のケガ?」と無知なファンからリツイートされ、これに対して北の富士さんは 『それはない! 俺は昔からケガが少ない! そこまで真面目に相撲取ってなかったから』と自虐的なユーモアを交えて返答しました。 現役時代、場所前などに各相撲部屋で取材をしてまわってる相撲番記者たちが「北の富士が稽古を何十番とった」と記事を書こうとしても、編集デスクから “それでは面白くない!” と不掲載にされてしまったり、掲載されてもごく小さな扱いになってしまい、逆に「北の富士が稽古を休んだ」「北の富士が出演したフジテレビから銀座に繰り出して飲んでいた……」との記事だと大きくら扱って貰えていたそうで、“印象操作”の恣意的な誘導記事が多くなっていたそうです。 とある女性記者などは自分が書いた「北の富士が体調不良で稽古を休んだ」という原稿を 上司(デスク)に「そうじゃなくて 『北の富士が “また休んだ ”とか “今日もサボり”』と書くんだよ!」 と赤(訂正・加筆)を入れられてしまい、その記事は紙面では自分が書いたことになってしまってて、泣きながら北の富士さんに謝罪に来たそうです。 つづく
大相撲初場所(12日初日、両国国技館)を5日後に控え、時津風一門連合稽古が7日、両国国技館の相撲教習 所で行なわれました。 西小結の若隆景(30=荒汐部屋)は元大関で西前頭筆頭の霧島(28=音羽山部屋)らと15番の申し合いで下からのおっつけながら前に出る相撲が光り10勝5敗。稽古後に報道陣に囲まれた若隆景は「テーマはないが、しっかり当たって下から行こうと思った」と手応えを感じていた。ケガを乗り越えて10場所ぶりの三役に復帰し「しっかり気持ちをつくって場所に臨んでいきたいと思う」と気合十分。新年は3日から稽古を開始し、「気を引き締めて新年最初の場所なのでやっていきたい」とおごりはない。 幕内復帰し3場所連続で2桁勝利。三役に復帰し2桁勝利ならば大関への足がかりとなる。一生懸命、自分らしい相撲を取って結果がついてくればいいと思います」と無欲を強調していたという。 相撲教習所は両国国技館の敷地内(国技館の建物の真裏)にあり、土俵が二つあります。 一門の連合稽古となれば、力士の数も多く、たしかに、他の力士の稽古を見るのも大切な稽古ですが、本人の心構え次第。 横に立つ力士とヘラヘラ笑いながら見ていた正代が春日野親方(元栃乃和歌)から大声で叱責を受けたこともありました。 二所の関部屋には土俵が二つありますが、なにぶんにも茨城県稲敷市というのは 一門の力士たちがかようには ちょっと遠い。
つづき それでも11月場所後の九州地方巡業で、ほとんどの力士が悪天候と寒波に見舞われて稽古ができなかった中、北の富士はただ一人 稽古を皆勤した。 その巡業に帯同した大鵬が「あれが本当に北の富士だろうか? と目を疑うような時があった。ワシも大関から横綱の頃にかけては 人後に落ちない稽古をした自負はあるが、今の北の富士も稽古にはすごく熱が入っていた。今度の巡業で北の富士の稽古は本物だと感じさせられた」と評するほどの熱心な稽古をしていた北の富士さんでした。 実際、稽古の成果は本場所で実を結び、翌場所(1970年初場所)でも優勝し文句無しの連続優勝で見事に綱を締めました。12月14日に逝去した村上氏に朗報は間に合わなかったものの 翌場所後の横綱審議委員会で横綱への推挙が決まり、村上氏の四十九日法要には間に合い、『遅くなってすみません……』と涙ながらに報告した北の富士さんでした。 #47 へ つづく
追悼 北の富士さんヒストリー を もう一度 #46 ◇猛稽古 実際、“大の稽古嫌い”と毎回毎回スポーツ紙に報道されてた北の富士さんでしたが、1969昭和44年夏巡業の頃から、まるで人が変わったように稽古に打ち込んだ。 その背景には、 上京してから入門するまで1ヶ月間も自宅に引き取って面倒を見てくれた人物である恩師の村上精一郎氏が脳軟化症で余命幾許もない(同年12月14日に死去)という状況があり、村上氏からは「お前が綱を張ることを信じている」と激励された。 同年9月場所は玉乃島関と最後まで優勝を争い12勝3敗、11月場所は13勝で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。 場所後に協会は北の富士さんの横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、前年 玉乃島関の横綱昇進が否決された時と比べて成績で劣ること、この場所十四日目の麒麟児戦での黒星の印象で悪かったこと等から、もうひと場所様子を見るべきと審議委員全員の反対で否。 ひとり横綱だった大鵬の衰えが明らかであった事情から “ふた場所連続優勝かそれに準ずる成績”という内規を満たした北の富士さんを一応諮問した形だったが、事前の報道でも昇進見送りの公算が強く、案の定、否決が決まると北の富士さん自身も、「九分通り諦めていたのでがっかりはしないですよ」と答えた。 つづく
追悼 北の富士さんヒストリーを もう一度 #45 ◇大先輩であるNHK解説者たちから とことん嫌われていた北の富士さん 「ネオン無情」のスマッシュヒットのあと、北の富士さん。 その歌手活動が大関で成績が停滞していた時期と重なったために、NHK相撲中継の解説者天竜氏から「北の富士?本業が歌手で相撲は内職だろ!」と毒づかれ、同じく解説者をしていた玉の海梅吉さんからも「歌手が本業で、テレビ出演の合い間に相撲をとってるよ」だとか 「底の浅い現代相撲」と 突いて はたいて、外掛けで浴びせ倒すという その取り口を酷評され、本格的な右四つの型を完成させた相撲であったライバルの玉の海が好まれたのとは好対照を為した。 北の富士さんは後年「稽古を見ていない割には『稽古が足りない』とか言うんだよ」と 当時、部屋に稽古を見に来たこともない親方衆や先輩方の批判に対して反論してました。 出羽海部屋から破門された形で独立した九重部屋に移籍したことからか、相撲解説者の天竜三郎はさらに酷く、実際のNHK放送で「あいつは生意気ですよ」と直線的な言い方で非難したことがありました。 コアな大相撲ファンであるつもりの私達からすれば、 昭和初期に 相撲協会の運営に不満があるからと十両以上の関取30人以上を煽動して協会を脱退、勝手に髷を落として新団体を作り興行を張るなどして 大相撲存続の最大のピンチを招いた “春秋園事件=別名天竜事件”の首謀者・張本人である天竜が今さら何を言うか⁉️ と思っています。 #46 へ つづく
つづき 満60歳を迎えた2002年には 都内のホテル(イースト21)において、露払いに北勝海、太刀持ちに千代の富士を従えて、重さ約5kgはある赤い“横綱”を締めて 大正時代の無敵横綱太刀山以来7人目となる “還暦横綱土俵入り”を披露しました。 還暦土俵入り 現役時代の最高位が横綱の元力士が還暦を迎える際に赤い綱をつけて行なわれる 特別な土俵入りで、1937昭和12年2月6日に太刀山峯右エ門が上野精養軒で開催したのが始まり。 現在まで12人が還暦土俵入りを行なうことができました。 無事に還暦を迎えても病気などで土俵入りができないから……などの理由で せっかくの還暦土俵入りを辞退する元横綱(鏡里・栃ノ海・初代琴櫻・二代若乃花・大乃国)もいました。 還暦土俵入りは 協会に在籍中であれば国技館を(使用料無料で)使えての御披露目興行ができるので、入場者の数だけチケットが売れれば 例えば 5000人x5000円でも 2500万円という臨時収入になりますが、退職されてる場合は 近隣のホテルなどで行なわれます。 #45へつづく
追悼 北の富士さんヒストリー をもう一度 #44 ◆区切り 「師匠は50歳まで」という持論を有言実行し、1992平成4年には現役を引退していた千代の富士に九重部屋をあっさり譲り、部屋付きの陣幕親方となりましたが、93年に北勝海が八角部屋で独立するとそちら(八角部屋)へ移籍。 引退後には現役時の最高体重(136kg)から40kgも減量して周囲を驚かせ、他の太った親方衆とは全く異なるシルエットの北の富士さん。 相撲では弱点とされた腰高の原因だった脚の長さも スーツ姿や革ジャン姿では なおさら映える格好良さ。 颯爽と歩く 185cmのスリムな九重親方の回りにはいつも取材陣のカメラと女性ファンが群がっていました。特に相撲番として報道各社から派遣されてくる女性記者たちは現役力士そっちのけで北の富士さんを追い掛けて取材しまくってました。 1986年からは協会の理事に就任して審判部長、94年は新設広報部長など6期12年務め、そろそろ理事長候補とも言われた北の富士さんでしたが、1998平成10年に高砂一門の会合で理事候補から外されると あっさりと相撲協会を退職した。 春場所から 元大関経験者以上では初のNHK解説者となった北の富士さん。 つづく
あれーラジオききのがしたよ! 残念だよ。 昨日は仲間と新年会。 毎年人数が減ってくるわ。 一番相撲に詳しい人が身内に迷惑かけたくないと施設に自発的に入る。 足以外はしゃんとしてるんだけどね。 寂しいよ。 今回は名前忘れないで書くよ。一つ気になるのは Yさんはどうしたんだろう。 気にかけてるんだけどね。
つづき 千代の富士がまだ 本名の苗字に「大」をつけた “大秋元”という四股名だった新弟子時代に「目付きがオオカミに似ている」と “ウルフ”のニックネームをつけた名付け親でもある北の富士さん。 千代の富士の立ち合いからの一気の攻めを磨く為に押し相撲の保志を噛ませ犬のように向かわせ、三年間以上も三番稽古を連日50番以上を取らせたことで保志の実力も引き上げられたことは勿論、千代の富士も当初苦手だった押し相撲力士を苦にしなくなる相乗効果となりました。 北勝海との2横綱で弟子の優勝として39回の当時大相撲史上最多記録。 1985昭和60年秋場所の千代の富士の優勝から1987年春場所の北勝海の優勝まで、九重部屋による同一部屋10連覇(大正時代に黄金時代を築いた出羽ノ海部屋と並ぶ 史上1位タイ)も達成。 当時の春日野理事長(元横綱栃錦)がインタビューで 幕内最高優勝者に贈られる「全農賞」の副賞である お米30俵について、「オレが農協さん(JA全国農業協同組合)に頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には米俵の山が一度も来ない。いつも九重部屋に持っていかれるんだから情けない。九重部屋では米を買ったことがないっていうじゃないか!?」と不満を言い出したほど、当時の九重部屋の台所は潤ってました。 #44 へ つづく
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つづき
実際のところ、北の富士さんは、稽古に励む度合いに 他の力士よりも抑揚が大きくあるだけで、やる時はやる!
メリハリのある稽古をしていた北の富士さん。
本場所での結果も スイッチが入り波にのると圧倒的な強さを見せたのは周知のとおり。
そうでなければ、素質だけで幕内優勝10回、15
戦全勝優勝3回(ともに当時の大相撲史上3位で “昭和の2大横綱” 双葉山・大鵬に並ぶ大記録)なんて立派な記録を残せるはずもありません!
#48 へ つづく
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 #47
◇うるさ型の古参解説者のみならず、スポーツ紙などのマスコミからも……
旧い伝統を良しと信じる年長の編集長がいるスポーツ紙からも 言動を色眼鏡で見られていた北の富士さん。
長年にわたる印象操作的な記事を信じ、「北の富士? あぁ遊び人ね」と思ってる相撲ファンも少なくない。
北の富士さんは生来 体が柔らかい為、深刻な怪我は非常に少ない方だったという。
2021年三月場所十三日目にNHK大相撲中継の公式Twitterで
『今日は急いできたから腰がちょっと痛い』とツイートすると
「現役時代に腰のケガ?」と無知なファンからリツイートされ、これに対して北の富士さんは
『それはない! 俺は昔からケガが少ない! そこまで真面目に相撲取ってなかったから』と自虐的なユーモアを交えて返答しました。
現役時代、場所前などに各相撲部屋で取材をしてまわってる相撲番記者たちが「北の富士が稽古を何十番とった」と記事を書こうとしても、編集デスクから “それでは面白くない!” と不掲載にされてしまったり、掲載されてもごく小さな扱いになってしまい、逆に「北の富士が稽古を休んだ」「北の富士が出演したフジテレビから銀座に繰り出して飲んでいた……」との記事だと大きくら扱って貰えていたそうで、“印象操作”の恣意的な誘導記事が多くなっていたそうです。
とある女性記者などは自分が書いた「北の富士が体調不良で稽古を休んだ」という原稿を 上司(デスク)に「そうじゃなくて 『北の富士が “また休んだ ”とか “今日もサボり”』と書くんだよ!」
と赤(訂正・加筆)を入れられてしまい、その記事は紙面では自分が書いたことになってしまってて、泣きながら北の富士さんに謝罪に来たそうです。
つづく
大相撲初場所(12日初日、両国国技館)を5日後に控え、時津風一門連合稽古が7日、両国国技館の相撲教習
所で行なわれました。
西小結の若隆景(30=荒汐部屋)は元大関で西前頭筆頭の霧島(28=音羽山部屋)らと15番の申し合いで下からのおっつけながら前に出る相撲が光り10勝5敗。稽古後に報道陣に囲まれた若隆景は「テーマはないが、しっかり当たって下から行こうと思った」と手応えを感じていた。ケガを乗り越えて10場所ぶりの三役に復帰し「しっかり気持ちをつくって場所に臨んでいきたいと思う」と気合十分。新年は3日から稽古を開始し、「気を引き締めて新年最初の場所なのでやっていきたい」とおごりはない。
幕内復帰し3場所連続で2桁勝利。三役に復帰し2桁勝利ならば大関への足がかりとなる。一生懸命、自分らしい相撲を取って結果がついてくればいいと思います」と無欲を強調していたという。
相撲教習所は両国国技館の敷地内(国技館の建物の真裏)にあり、土俵が二つあります。
一門の連合稽古となれば、力士の数も多く、たしかに、他の力士の稽古を見るのも大切な稽古ですが、本人の心構え次第。
横に立つ力士とヘラヘラ笑いながら見ていた正代が春日野親方(元栃乃和歌)から大声で叱責を受けたこともありました。
二所の関部屋には土俵が二つありますが、なにぶんにも茨城県稲敷市というのは 一門の力士たちがかようには ちょっと遠い。
つづき
それでも11月場所後の九州地方巡業で、ほとんどの力士が悪天候と寒波に見舞われて稽古ができなかった中、北の富士はただ一人 稽古を皆勤した。
その巡業に帯同した大鵬が「あれが本当に北の富士だろうか? と目を疑うような時があった。ワシも大関から横綱の頃にかけては 人後に落ちない稽古をした自負はあるが、今の北の富士も稽古にはすごく熱が入っていた。今度の巡業で北の富士の稽古は本物だと感じさせられた」と評するほどの熱心な稽古をしていた北の富士さんでした。
実際、稽古の成果は本場所で実を結び、翌場所(1970年初場所)でも優勝し文句無しの連続優勝で見事に綱を締めました。12月14日に逝去した村上氏に朗報は間に合わなかったものの 翌場所後の横綱審議委員会で横綱への推挙が決まり、村上氏の四十九日法要には間に合い、『遅くなってすみません……』と涙ながらに報告した北の富士さんでした。
#47 へ つづく
追悼
北の富士さんヒストリー
を もう一度 #46
◇猛稽古
実際、“大の稽古嫌い”と毎回毎回スポーツ紙に報道されてた北の富士さんでしたが、1969昭和44年夏巡業の頃から、まるで人が変わったように稽古に打ち込んだ。
その背景には、
上京してから入門するまで1ヶ月間も自宅に引き取って面倒を見てくれた人物である恩師の村上精一郎氏が脳軟化症で余命幾許もない(同年12月14日に死去)という状況があり、村上氏からは「お前が綱を張ることを信じている」と激励された。
同年9月場所は玉乃島関と最後まで優勝を争い12勝3敗、11月場所は13勝で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。
場所後に協会は北の富士さんの横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、前年 玉乃島関の横綱昇進が否決された時と比べて成績で劣ること、この場所十四日目の麒麟児戦での黒星の印象で悪かったこと等から、もうひと場所様子を見るべきと審議委員全員の反対で否。
ひとり横綱だった大鵬の衰えが明らかであった事情から “ふた場所連続優勝かそれに準ずる成績”という内規を満たした北の富士さんを一応諮問した形だったが、事前の報道でも昇進見送りの公算が強く、案の定、否決が決まると北の富士さん自身も、「九分通り諦めていたのでがっかりはしないですよ」と答えた。
つづく
追悼
北の富士さんヒストリーを
もう一度 #45
◇大先輩であるNHK解説者たちから とことん嫌われていた北の富士さん
「ネオン無情」のスマッシュヒットのあと、北の富士さん。
その歌手活動が大関で成績が停滞していた時期と重なったために、NHK相撲中継の解説者天竜氏から「北の富士?本業が歌手で相撲は内職だろ!」と毒づかれ、同じく解説者をしていた玉の海梅吉さんからも「歌手が本業で、テレビ出演の合い間に相撲をとってるよ」だとか
「底の浅い現代相撲」と 突いて はたいて、外掛けで浴びせ倒すという その取り口を酷評され、本格的な右四つの型を完成させた相撲であったライバルの玉の海が好まれたのとは好対照を為した。
北の富士さんは後年「稽古を見ていない割には『稽古が足りない』とか言うんだよ」と 当時、部屋に稽古を見に来たこともない親方衆や先輩方の批判に対して反論してました。
出羽海部屋から破門された形で独立した九重部屋に移籍したことからか、相撲解説者の天竜三郎はさらに酷く、実際のNHK放送で「あいつは生意気ですよ」と直線的な言い方で非難したことがありました。
コアな大相撲ファンであるつもりの私達からすれば、
昭和初期に 相撲協会の運営に不満があるからと十両以上の関取30人以上を煽動して協会を脱退、勝手に髷を落として新団体を作り興行を張るなどして 大相撲存続の最大のピンチを招いた “春秋園事件=別名天竜事件”の首謀者・張本人である天竜が今さら何を言うか⁉️
と思っています。
#46 へ つづく
つづき
満60歳を迎えた2002年には 都内のホテル(イースト21)において、露払いに北勝海、太刀持ちに千代の富士を従えて、重さ約5kgはある赤い“横綱”を締めて 大正時代の無敵横綱太刀山以来7人目となる “還暦横綱土俵入り”を披露しました。
還暦土俵入り
現役時代の最高位が横綱の元力士が還暦を迎える際に赤い綱をつけて行なわれる 特別な土俵入りで、1937昭和12年2月6日に太刀山峯右エ門が上野精養軒で開催したのが始まり。
現在まで12人が還暦土俵入りを行なうことができました。
無事に還暦を迎えても病気などで土俵入りができないから……などの理由で
せっかくの還暦土俵入りを辞退する元横綱(鏡里・栃ノ海・初代琴櫻・二代若乃花・大乃国)もいました。
還暦土俵入りは
協会に在籍中であれば国技館を(使用料無料で)使えての御披露目興行ができるので、入場者の数だけチケットが売れれば 例えば 5000人x5000円でも 2500万円という臨時収入になりますが、退職されてる場合は 近隣のホテルなどで行なわれます。
#45へつづく
追悼
北の富士さんヒストリー
をもう一度 #44
◆区切り
「師匠は50歳まで」という持論を有言実行し、1992平成4年には現役を引退していた千代の富士に九重部屋をあっさり譲り、部屋付きの陣幕親方となりましたが、93年に北勝海が八角部屋で独立するとそちら(八角部屋)へ移籍。
引退後には現役時の最高体重(136kg)から40kgも減量して周囲を驚かせ、他の太った親方衆とは全く異なるシルエットの北の富士さん。
相撲では弱点とされた腰高の原因だった脚の長さも スーツ姿や革ジャン姿では なおさら映える格好良さ。
颯爽と歩く 185cmのスリムな九重親方の回りにはいつも取材陣のカメラと女性ファンが群がっていました。特に相撲番として報道各社から派遣されてくる女性記者たちは現役力士そっちのけで北の富士さんを追い掛けて取材しまくってました。
1986年からは協会の理事に就任して審判部長、94年は新設広報部長など6期12年務め、そろそろ理事長候補とも言われた北の富士さんでしたが、1998平成10年に高砂一門の会合で理事候補から外されると あっさりと相撲協会を退職した。
春場所から 元大関経験者以上では初のNHK解説者となった北の富士さん。
つづく
あれーラジオききのがしたよ!
残念だよ。
昨日は仲間と新年会。
毎年人数が減ってくるわ。
一番相撲に詳しい人が身内に迷惑かけたくないと施設に自発的に入る。
足以外はしゃんとしてるんだけどね。
寂しいよ。
今回は名前忘れないで書くよ。一つ気になるのは
Yさんはどうしたんだろう。
気にかけてるんだけどね。
つづき
千代の富士がまだ 本名の苗字に「大」をつけた “大秋元”という四股名だった新弟子時代に「目付きがオオカミに似ている」と “ウルフ”のニックネームをつけた名付け親でもある北の富士さん。
千代の富士の立ち合いからの一気の攻めを磨く為に押し相撲の保志を噛ませ犬のように向かわせ、三年間以上も三番稽古を連日50番以上を取らせたことで保志の実力も引き上げられたことは勿論、千代の富士も当初苦手だった押し相撲力士を苦にしなくなる相乗効果となりました。
北勝海との2横綱で弟子の優勝として39回の当時大相撲史上最多記録。
1985昭和60年秋場所の千代の富士の優勝から1987年春場所の北勝海の優勝まで、九重部屋による同一部屋10連覇(大正時代に黄金時代を築いた出羽ノ海部屋と並ぶ 史上1位タイ)も達成。
当時の春日野理事長(元横綱栃錦)がインタビューで
幕内最高優勝者に贈られる「全農賞」の副賞である お米30俵について、「オレが農協さん(JA全国農業協同組合)に頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には米俵の山が一度も来ない。いつも九重部屋に持っていかれるんだから情けない。九重部屋では米を買ったことがないっていうじゃないか!?」と不満を言い出したほど、当時の九重部屋の台所は潤ってました。
#44 へ つづく