「次は北海道新幹線で帰る」は……叶わなかった
「ある日、ポツリと…」
A
前の日に「明日発表するから」と実家に連絡がありましたね。1年くらい前からもういつ辞めてもいい、みたいな話だったから、ああとうとう来たなみたいな。傍から見ていると、横綱になって長く務まること自体が不思議だったんですよね。結果的に31回も優勝して、体力の限界というのも本当そうだと思いますね。よく頑張りましたよね。
――横綱・千代の富士が引退して、親方となり、その後どこか遠い存在だった弟さんが部屋を率いて地元で合宿をするようになり、近くにいる機会も増えたと聞きますが?
A
横綱千代の山・千代の富士記念館が1997平成9年にできてから毎年8月に1~2週間ほどの夏合宿はこっち来てやっていたんです。地域のイカ祭りとかに部屋の若い子たちを連れて行ったりしてね。力士を連れて素潜りしたりして、ウニだったら力士たちもわかるんだけど、あわびがあって「これだよ、とりなさい」っていってもわからないそうで、準備させてとらせるって話をしていましたね。
-―弟子たちの指導については何か話していましたか?
A
「今はムチ、ムチじゃだめなんだ。アメとムチじゃなくてアメ、アメ、ムチ……って感じで時代が違うね。俺たちの時みたいな稽古つけられたらお相撲さん誰もいなくなっちゃうよ」みたいなことはちらっと言ってましたよね。
――引退してからの変化は?
A
小さい頃はくるくるっとした目でしたけど、相撲の、勝負の世界に入ってからはやっぱりあのキリッとした勝負師の顔になりましたよね。でも引退して数年たったら本当に柔らかい表情になっていたんですよ。
――横綱の趣味は意外にもゲームだったとか?
A
ゲームボーイとかを車に積んでたりしてね。うちの子どもが「これなに?」って興味を持ったら、親方がスーパーファミコンか何かゲーム機を買ってきてくれたんですよ。また翌年、こっちに来た時に「おじさんにゲーム貸してくれない?」って「テトリス」だとかのゲームを借りていくんですよ。実家の母親いわく、それを一晩中やってたみたいで、負けず嫌いなんですよ。絶対。あとはゴルフなんかを近くの打ちっぱなしに行くこともありましたよ。
――引退後、実家で現役時代を振り返ることはあったりしましたか?
A
どうだったろう。あまりなかったけど、「俺やっぱり飛行機だったのかなー?」って、ポツリと言ったことありました。今は飛行機だと誰でも乗れる時代でしょ。でも私達が子供の頃は飛行機なんてもう とんでもない夢の乗り物だった時代でしたからね。
いまさら何言ってんのみたいに思ったけど、でも結局自分で弟子を指導する立場になって、自分の人生を振り返って出てきた言葉だったのかな。
新幹線で帰るのが夢だったんです
――九重親方は2015年まで夏合宿で地元に来ていましたが、
A
2016年の夏合宿の直前、7月31日に亡くなりました(享年61、死因は膵臓がん)。
その1年前に癌が見つかってもいましたし、心配はしていました。7月の名古屋場所で体調を崩し、そのまま病院に入院。入院している時に電話していると、声色から調子はなんとなく良くないのかなと思ったけど、それでも8月に(夏合宿で)行くからねという言葉があって、新幹線で来るんだと待ち望んでいました。
ちょうど亡くなった2016年の3月に北海道新幹線(新青森駅~新函館北斗駅間)が開業したんですよね。木古内という駅があって、(合宿地の)福島町からも近い。それまでの夏合宿でやってきたときや、還暦土俵のタイミングで電話したときも「次は新しくできた新幹線で帰るからね」って、新幹線で帰るのが夢だったんです。工事も長引いてましたから、本当に楽しみにしていたんです。
『飛行機に乗りたい』と東京へ向かった15歳の少年。45年後、還暦の親方が夢見た「新幹線」に乗ることは叶わず、“不帰の客”となってしまいました。
-―巡業で実家に戻ってきた時にそんな話もしていたんですね。実家滞在時はどのようなことをしていたんでしょうか?
A
青函トンネルができるまで(1988年に開通)は青函連絡船で帰ってきて1日泊まるくらいですよ。実家では特段、アスリートらしいことはなんにも。ただ、火の通ったものを食べていました。ウニも生では食べず煮たりして。そこは気を使っているんだなと思ってみてましたね。
-―現役時代、確認できるかぎりでも脱臼は10回以上と多かったですが、本人は実家でそのあたりの苦しさは話していましたか?
A
「肩の関節が外れるときは痛いけど入れる時はその倍以上痛い」とは話していました。最初に左肩を脱臼したときもショックだったみたいで、「これで両肩までいったら、自分はもう最後かな」みたいなことは言っていて、実際、右肩も脱臼となった時に「俺、もうだめかな」と思ったそうです。
――その肩の脱臼を防ぐため、筋肉をつける肉体改造をしますが、実家でもその一端が垣間見えたりしましたか?
A
あまりトレーニングをしていたという印象はなくて、後々いろんなメディアを通して肩の回りに筋肉をつけようとしていたとか「あぁ そうだったんだ」と知ることはありましたね。
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 2,166件 』
2001年平成13年ですね。
闘牙、一場所で幕に復帰して3年ほど幕に居ましたからもったいなかったですね。
大相撲ダイアリー3月4日
2001平成12年の3月4日
春場所の番付が発表され、前の場所において幕内下位で全休した闘牙が十両へ転落した為、1882明治15年5月場所から120年も続いていた 高砂部屋からの幕内力士輩出が途絶えました。
この時、幕内に上がってきていた朝青龍は、この時はまだ若松部屋所属でした。(翌年に高砂部屋となりました)
ウルフ・ザ・ストーリー12
千代の富士の不幸
千代の富士本人の死因
死因は、2015年6月に早期の手術を受けた「膵臓癌(すいぞうがん)」。
膵臓癌手術は、6月中旬から下旬にかけて行われ、約1カ月の入院治療の後、7月下旬には退院していたそうです。
その後、千代の富士は公の場に姿を現すも、変わり果てた激やせ姿に誰もが驚いたとか。
当時は病気のことを世間に内緒にしていたので、その場にいたマスコミなんかは、「重病ではないか」と大騒ぎになったといいます。
なお、千代の富士が患った「膵臓癌」は、見つかった時にはすでに進行しているケースが非常に多く、手術したとしても余命5年と言われる病気です。(5年生存率は極めて低く、3%とも5%ともされています。)
その後、鹿児島の病院で放射線治療に取り組んでいることが一部で報じられ、2016年7月31日、東京都内の病院で亡くなりました。
生前の千代の富士の病状について、一部のマスコミは「抗がん剤治療を行わず、放射線治療に取り組んでいる」と報じていました。
ちょうどそのころ、都内のイベントに出席していた次女でモデルの秋元梢は、「膵臓癌で闘病中」と報じられた父親の病状について問われるも、終始無言だったとか。
それだけ、千代の富士の病状は深刻だったのです。
(つづく)
織田信長や羽柴秀吉など大名が
好角家(相撲好き)なのは有名ですが
レスリングやボクシングなど
海外の格闘技と相違点を比較すると
更に面白いと思います?
結局は強い人はどこにでもいます!
これからも頑張って下さい♪
ウルフ・ザ・ストーリー 11
元横綱・千代の富士(九重親方)の不幸
千代の富士の愛娘の死因
千代の富士の子供といえば、ショップ店員兼モデルで長女の秋元優(ゆう)さんとショップ店員で長男の秋元剛さん。
モデルで次女の秋元梢ですが、実はもうひとり娘がいました。
その娘の名前は愛ちゃんといって、1989年に生後3カ月で突然亡くなっています。(没後、台東区の玉林寺に葬られています)
ただ、突然死と言っても事故とかではなく、死因は「乳幼児突然死症候群」という乳幼児が突然死をもたらす疾患でした。
この「乳幼児突然死症候群」ですが、日本での発症頻度はおよそ出生6,000~7,000人に1人と推定され、生後2ヵ月から6ヵ月に多いとされています。
また、はっきりとわかっていませんが、以下の様な原因で発症することが多いとか。
「男児」、「早産児」、
「低出生体重児」、「冬季」、
「早朝から午前中に多い」、
「うつぶせ寝」、「両親の喫煙」、「粉ミルクで育てた」など。
生後3ヶ月~6ヶ月までは母親からの免疫で様々な病気から守られてる赤ちゃんが多いそうで、半年を過ぎると突然死する事例が数多く報告されてます。
愛ちゃんは、母親からの免疫期間が平均よりも短かったのかもしれません。
大相撲ダイアリー
3月3日
1570永禄13年のこの日
近江の国=現在の滋賀県湖南市にある常楽寺にて、織田信長上覧相撲が執り行なわれました。
このことは、「信長公記」にも明確に記されています。
まだこの時代は、戦国時代。
相撲興行は京都本場所と大坂本場所のみで、江戸には相撲興行が行なわれておりませんでした。
もちろん、信長上覧相撲は、本場所とは別に、力士たちが常楽寺へ赴いて、信長の御前で相撲を披露。
取組が進み、最後に“結び三番”となって、まず東西の小結同士の対戦、次に関脇同士の対戦、最後の最後に東西の大関同士が対戦して、相撲好きの信長様に力相撲をご覧に入れました。
この頃まで、人垣でできた輪の中で行なわれていた相撲を『地面に円を描いて、その中で相撲を取るように』と指示して相撲を取らせたそうで、これが円形の土俵の始まりだそうです。
『ウルフ・ザ・ストーリー』10
「次は北海道新幹線で帰る」は……叶わなかった
「ある日、ポツリと…」
A
前の日に「明日発表するから」と実家に連絡がありましたね。1年くらい前からもういつ辞めてもいい、みたいな話だったから、ああとうとう来たなみたいな。傍から見ていると、横綱になって長く務まること自体が不思議だったんですよね。結果的に31回も優勝して、体力の限界というのも本当そうだと思いますね。よく頑張りましたよね。
――横綱・千代の富士が引退して、親方となり、その後どこか遠い存在だった弟さんが部屋を率いて地元で合宿をするようになり、近くにいる機会も増えたと聞きますが?
A
横綱千代の山・千代の富士記念館が1997平成9年にできてから毎年8月に1~2週間ほどの夏合宿はこっち来てやっていたんです。地域のイカ祭りとかに部屋の若い子たちを連れて行ったりしてね。力士を連れて素潜りしたりして、ウニだったら力士たちもわかるんだけど、あわびがあって「これだよ、とりなさい」っていってもわからないそうで、準備させてとらせるって話をしていましたね。
-―弟子たちの指導については何か話していましたか?
A
「今はムチ、ムチじゃだめなんだ。アメとムチじゃなくてアメ、アメ、ムチ……って感じで時代が違うね。俺たちの時みたいな稽古つけられたらお相撲さん誰もいなくなっちゃうよ」みたいなことはちらっと言ってましたよね。
――引退してからの変化は?
A
小さい頃はくるくるっとした目でしたけど、相撲の、勝負の世界に入ってからはやっぱりあのキリッとした勝負師の顔になりましたよね。でも引退して数年たったら本当に柔らかい表情になっていたんですよ。
――横綱の趣味は意外にもゲームだったとか?
A
ゲームボーイとかを車に積んでたりしてね。うちの子どもが「これなに?」って興味を持ったら、親方がスーパーファミコンか何かゲーム機を買ってきてくれたんですよ。また翌年、こっちに来た時に「おじさんにゲーム貸してくれない?」って「テトリス」だとかのゲームを借りていくんですよ。実家の母親いわく、それを一晩中やってたみたいで、負けず嫌いなんですよ。絶対。あとはゴルフなんかを近くの打ちっぱなしに行くこともありましたよ。
――引退後、実家で現役時代を振り返ることはあったりしましたか?
A
どうだったろう。あまりなかったけど、「俺やっぱり飛行機だったのかなー?」って、ポツリと言ったことありました。今は飛行機だと誰でも乗れる時代でしょ。でも私達が子供の頃は飛行機なんてもう とんでもない夢の乗り物だった時代でしたからね。
いまさら何言ってんのみたいに思ったけど、でも結局自分で弟子を指導する立場になって、自分の人生を振り返って出てきた言葉だったのかな。
新幹線で帰るのが夢だったんです
――九重親方は2015年まで夏合宿で地元に来ていましたが、
A
2016年の夏合宿の直前、7月31日に亡くなりました(享年61、死因は膵臓がん)。
その1年前に癌が見つかってもいましたし、心配はしていました。7月の名古屋場所で体調を崩し、そのまま病院に入院。入院している時に電話していると、声色から調子はなんとなく良くないのかなと思ったけど、それでも8月に(夏合宿で)行くからねという言葉があって、新幹線で来るんだと待ち望んでいました。
ちょうど亡くなった2016年の3月に北海道新幹線(新青森駅~新函館北斗駅間)が開業したんですよね。木古内という駅があって、(合宿地の)福島町からも近い。それまでの夏合宿でやってきたときや、還暦土俵のタイミングで電話したときも「次は新しくできた新幹線で帰るからね」って、新幹線で帰るのが夢だったんです。工事も長引いてましたから、本当に楽しみにしていたんです。
『飛行機に乗りたい』と東京へ向かった15歳の少年。45年後、還暦の親方が夢見た「新幹線」に乗ることは叶わず、“不帰の客”となってしまいました。
(つづく)
千代の富士のもうひとつの側面を一番知ってる実姉がロングインタビューに答えた
『ウルフ・ザ・ストーリー』9
-―巡業で実家に戻ってきた時にそんな話もしていたんですね。実家滞在時はどのようなことをしていたんでしょうか?
A
青函トンネルができるまで(1988年に開通)は青函連絡船で帰ってきて1日泊まるくらいですよ。実家では特段、アスリートらしいことはなんにも。ただ、火の通ったものを食べていました。ウニも生では食べず煮たりして。そこは気を使っているんだなと思ってみてましたね。
近くに小さい川があって、釣竿持ってそこによく釣りに行っていた覚えがあるんですよね。あとは家の中ではお酒を飲み、タバコも吸っていました。お酒は一升瓶とかはぺろっと空けちゃうんですよね。私もタバコを吸っていたので、よく親に隠れて一緒に吸いに行っていましたよ。でもある時に「まだタバコ吸ってんの? やめなさい」って弟に言われて、「あれっ? どうしたの?」と聞くと「俺やめたよ」と。その後もまだ吸ってるのか、って私がよく怒られたんです(笑)。本とかを読んだら、貴ノ花(初代)さんからタバコをやめたら太れると言われて禁煙したそうで、本人の意識も徐々に変わっていったんだと思います。
-―現役時代、確認できるかぎりでも脱臼は10回以上と多かったですが、本人は実家でそのあたりの苦しさは話していましたか?
A
「肩の関節が外れるときは痛いけど入れる時はその倍以上痛い」とは話していました。最初に左肩を脱臼したときもショックだったみたいで、「これで両肩までいったら、自分はもう最後かな」みたいなことは言っていて、実際、右肩も脱臼となった時に「俺、もうだめかな」と思ったそうです。
――その肩の脱臼を防ぐため、筋肉をつける肉体改造をしますが、実家でもその一端が垣間見えたりしましたか?
A
あまりトレーニングをしていたという印象はなくて、後々いろんなメディアを通して肩の回りに筋肉をつけようとしていたとか「あぁ そうだったんだ」と知ることはありましたね。
(つづく)
朝乃山、公平な編成により十両据え置きでした。八百長問題や暴力、賭博事件以前は審判部や一門、学閥の意向が伺える編成もあり自分的にはそのあたりにも大相撲らしさを感じ嫌いではありませんでしたが今は贔屓やごり押しを感じることはありません。
先場所の朝乃山、相撲内容は十両なりの印象でしたが、今場所は目標に向けてギアを上げてくるのかどうか注目してます。
それよりも幕の内上位群雄割拠の動向、大器金峰山、落合の真価など見所多く面白い場所になるだろうとわくわくしています。
スポーツ紙(スポーツニッポン)を買ってきました。
予想していた通り、貴景勝の持ち給金(力士報償金)は、1,032,000円になりました。
1位は 優勝7回の横綱照ノ富士で1,504,000円。
2位の貴景勝に次ぐのが
3位の玉鷲で優勝2回が効いて 1,016,000円、
4位が優勝3回の御嶽海で 922,000円。
十両に落ちた逸ノ城(優勝2回)も90万円台。
以下、優勝未経験の高安が 838,000円で続いてます。
元大関の正代は、595,000円で 60万円台の遠藤・北勝富士・大栄翔・妙義龍を下回り、トップ10には入ってません。
春場所で活躍が期待される関脇陣は、まだ幕内歴が浅いので3人とも50万円以下。
これからですねえ。