――中学3年の1970昭和45年11月場所で序ノ口、翌年1月の初場所では、四股名が「大秋元」から「千代の富士」と変わり、中学卒業までの3場所で勝ち越しを続けました。
それでも本人は実家に帰ろうとしたそうですね?
A
本人が高校に行きたいって ゴネたみたいで。
本人は勝っても相撲に興味ないから、もう帰る……という感じでね、電話で話してて、もう本人も帰りたくて必死なのが伝わってきましたよ。でも、「親は口出さないでくれ」って言われて。本人は部屋のほうで説得されて、東京の高校(明治大学付属中野高校)に行ったんですよね。
――その後、負け越しも経験し苦労しました。当時高校生だった千代の富士関の相談相手になったのがお姉さんだったとか。どうして東京にいたんですか?
A
私が高校を卒業後、松坂屋デパートで働き始めたんです。
当時札幌に松坂屋ができるということで、北海道の人間を多く取ったんですよ。入社後は東京に勤務し、経験を積むことになりました。
「上野か銀座どちらがいいですか」と言われて、当時、浅草寺の裏にあった九重部屋が近い上野を私は選びました。親戚の家も鳥越神社の近くにあったので、そこに住みながら通勤することになりました。
――興味がなかったのに、東京へ?
A
本(自叙伝)とかで本人が書いていますけど、親方に「飛行機に乗らないか」と言われて、「飛行機に乗れる」というのが大きかったみたいです。漁師でそんな裕福な家庭でもなかったし、函館に「明日行くよ」なんて言うと、前の日に寝られないぐらい嬉しいというような感じで、飛行機なんてもうとんでもない夢の乗り物だった時代でしたからね。だから一種の東京見物ですよね。中学3年の後半 半年くらいを過ごして、4月に帰ってくるつもりでいた。本人も私達もそう思っていたんです。
A
周りを見ると身体が大きいしね。自分だってやる気もないのに、なんでこんなとこに来たんだろう……みたいな。とにかくまあ学校卒業するまであっちの中学の手続きしてもらったし、義務教育だし。学校にとりあえず行って卒業したら地元に戻ってくる……そう思い描いていたと思いますよ。
周りを見るとみんな身体が大きいしね。自分だって特に相撲をやる気もないのに、なんでこんなとこに来たんだろう……みたいな。とにかくまあ学校卒業するまであっちの中学の手続きしてもらったし、義務教育だし。学校にとりあえず行って卒業したら地元に戻ってくる……そう思い描いていたと思いますよ。
――電話か手紙で実家とのやりとりはあったんですか?
A
手紙のほうが多かったですね。父親が筆まめ でしたから。でも後々になってからですけど、頻繁に手紙を送るもんだから、「あんまり手紙も書かないでくれ。里心がつくから」って九重部屋の方から言われてしまって。
―-喧嘩とかは していたんですか?
A
したした。結構しましたよ。でも翌日にはけろっとして済むもんね。喧嘩もしたけど仲良かったね。大きい割にはあんまり人をいじめるとかそういうこともしなかったし、逆に消極的だったのかな。
――逆に佐登子さんのほうが勝ち気な感じだった?
A
自分がそういう性格だから、大きい子が今でいういじめをしたと伝わってくると、「仕返しに行くぞ」みたいな感じで許せなかったですよ。私が仲間とかと一緒に「ちょっと待って、ほんとになんでうちの弟に」みたいな感じで抗議に行っていました。
――このときは弟さんは相撲に興味がなかった?
A
最初はなかったんです。中学3年の夏休みに、とりあえず体験みたいな形で、(九重部屋に)行くことになったんです。中学1年のときに盲腸の手術で担当した先生が「うちで手術した子、アイツすごいよ」とかそういう感じから紹介されたみたいで、同じ福島町出身の千代の山(当時九重親方)が知って、今で言うスカウトを受けたんですよね。
「あんまり手紙も書かないでくれ。里心がつくから」
――興味がなかったのに、東京へ?
A
本(自叙伝)とかで本人が書いていますけど、親方に「飛行機に乗らないか」と言われて、「飛行機に乗れる」というのが大きかったみたいです。漁師でそんな裕福な家庭でもなかったし、函館に「明日行くよ」なんて言うと、前の日に寝られないぐらい嬉しいというような感じで、飛行機なんてもうとんでもない夢の乗り物だった時代でしたからね。だから一種の東京見物ですよね。中学3年の後半、半年くらいを過ごして、4月に帰ってくるつもりでいた。本人も私達もそう思っていたんです。
--後悔ですか?
A
周りを見ると みな身体が大きいしね。自分だってやる気もないのに、なんでこんなとこに来たんだろう…みたいな。とにかくまあ学校卒業するまであっちの中学の手続きしてもらったし、義務教育だし。学校にとりあえず行って卒業したら地元北海道の福島町に戻ってくる……そう思い描いていたと思いますよ。
A
大きな船から小さい船にイカをおろす作業とかを手伝っていたんですよ。大きな網の袋に入れて、それを小さな船に落としていく。休みの時にやっていて、船の上で作業する時のバランス感覚もよかったみたいで、中学に入ったらそういう助手的なことを立派にしていました。
――そこで鍛えられた?
A
いや、考えてみたら持って生まれた運動神経があったんじゃないですかね。こう言ったらちょっとあれだけどもね、親のいいところ100%あの人が持っていった。あっちは走れる。こっちは走れない。あっちは飛べる、こっちは飛べない。本当に何だろう。何やらしても、もう手先も器用だしねえ。引退後やケガをしている時になりますけど、七宝焼きや組紐とか手芸的なこともなんでもやれるんです。
――中学時代、走り高跳びや三段跳びで記録が残っているそう(過去記事によるとそれぞれ走り高跳び1m62、三段跳びは12m58)ですが、バスケ部だったんですよね?
A
バスケ部だったんですけど、100m何秒とかって記録は覚えてないけど、すごく速いタイムだったから、地域の陸上の大会とかには声をかけられていたんですよね。泳げば泳いだで速かったし。
――水泳も速かったんですか?
A
たしか当時は背泳ぎで校内の最速記録を残したりしていて。もう何やってもできるから、年上ながら羨ましかったですね。
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 2,166件 』
千代の富士のもうひとつの側面を一番知ってる実姉がロングインタビューに答えた
『ウルフ・ザ・ストーリー』4
――中学3年の1970昭和45年11月場所で序ノ口、翌年1月の初場所では、四股名が「大秋元」から「千代の富士」と変わり、中学卒業までの3場所で勝ち越しを続けました。
それでも本人は実家に帰ろうとしたそうですね?
A
本人が高校に行きたいって ゴネたみたいで。
本人は勝っても相撲に興味ないから、もう帰る……という感じでね、電話で話してて、もう本人も帰りたくて必死なのが伝わってきましたよ。でも、「親は口出さないでくれ」って言われて。本人は部屋のほうで説得されて、東京の高校(明治大学付属中野高校)に行ったんですよね。
――その後、負け越しも経験し苦労しました。当時高校生だった千代の富士関の相談相手になったのがお姉さんだったとか。どうして東京にいたんですか?
A
私が高校を卒業後、松坂屋デパートで働き始めたんです。
当時札幌に松坂屋ができるということで、北海道の人間を多く取ったんですよ。入社後は東京に勤務し、経験を積むことになりました。
「上野か銀座どちらがいいですか」と言われて、当時、浅草寺の裏にあった九重部屋が近い上野を私は選びました。親戚の家も鳥越神社の近くにあったので、そこに住みながら通勤することになりました。
(つづく)
高安うまかったね。
余り新しい歌はわからんけど、バスストップは分かった。
もう少しあの様な番組してくれたらと思うわ。
福祉大相撲放送中
高安関の一曲目、
島津亜矢との『ロンリーチャップリン』
出だしの低音パートは、加山雄三さんのようでした。
翔猿関はダンスが軽快ですねえ。
千代の富士のもうひとつの側面を一番知ってる実姉がロングインタビューに答えた
『ウルフ・ザ・ストーリー』3
――興味がなかったのに、東京へ?
A
本(自叙伝)とかで本人が書いていますけど、親方に「飛行機に乗らないか」と言われて、「飛行機に乗れる」というのが大きかったみたいです。漁師でそんな裕福な家庭でもなかったし、函館に「明日行くよ」なんて言うと、前の日に寝られないぐらい嬉しいというような感じで、飛行機なんてもうとんでもない夢の乗り物だった時代でしたからね。だから一種の東京見物ですよね。中学3年の後半 半年くらいを過ごして、4月に帰ってくるつもりでいた。本人も私達もそう思っていたんです。
行く時までは、本人曰く「お客様だったよ」と。次の朝起きたらとんでもないとこに来たと後悔した、と本人は言ってましたけど。
――後悔?
“鋼の肉体”千代の富士の姉が明かす“若きウルフの苦悩”
「再会してお互い無言で泣き合って…」
「毛布から出てこれなかった初の大ケガ」
A
周りを見ると身体が大きいしね。自分だってやる気もないのに、なんでこんなとこに来たんだろう……みたいな。とにかくまあ学校卒業するまであっちの中学の手続きしてもらったし、義務教育だし。学校にとりあえず行って卒業したら地元に戻ってくる……そう思い描いていたと思いますよ。
周りを見るとみんな身体が大きいしね。自分だって特に相撲をやる気もないのに、なんでこんなとこに来たんだろう……みたいな。とにかくまあ学校卒業するまであっちの中学の手続きしてもらったし、義務教育だし。学校にとりあえず行って卒業したら地元に戻ってくる……そう思い描いていたと思いますよ。
――電話か手紙で実家とのやりとりはあったんですか?
A
手紙のほうが多かったですね。父親が筆まめ でしたから。でも後々になってからですけど、頻繁に手紙を送るもんだから、「あんまり手紙も書かないでくれ。里心がつくから」って九重部屋の方から言われてしまって。
(つづく)
2月4日に行なわれたNHK福祉大相撲の模様が
ようやく 今日の夕方16時30分~18時にNHK①で放送されます。
高安関の美声や、歌って踊っての翔猿関の演技も見られるようです。
女性プロ歌手も多数出演しますが、私個人的には、山形弁で人気の朝倉さやさん(2度の民謡日本一受賞)の出演も楽しみです。
千代の富士のもうひとつの側面を一番知ってる実姉、弟想いでありながら運動神経で親のDNA をすべて継承した弟を羨ましく思う姉、そして姉弟仲良しの関係性を大人になってからも続けたお姉さんがロングインタビューに答えてます。
『ウルフ・ザ・ストーリー』2
―-喧嘩とかは していたんですか?
A
したした。結構しましたよ。でも翌日にはけろっとして済むもんね。喧嘩もしたけど仲良かったね。大きい割にはあんまり人をいじめるとかそういうこともしなかったし、逆に消極的だったのかな。
――逆に佐登子さんのほうが勝ち気な感じだった?
A
自分がそういう性格だから、大きい子が今でいういじめをしたと伝わってくると、「仕返しに行くぞ」みたいな感じで許せなかったですよ。私が仲間とかと一緒に「ちょっと待って、ほんとになんでうちの弟に」みたいな感じで抗議に行っていました。
――このときは弟さんは相撲に興味がなかった?
A
最初はなかったんです。中学3年の夏休みに、とりあえず体験みたいな形で、(九重部屋に)行くことになったんです。中学1年のときに盲腸の手術で担当した先生が「うちで手術した子、アイツすごいよ」とかそういう感じから紹介されたみたいで、同じ福島町出身の千代の山(当時九重親方)が知って、今で言うスカウトを受けたんですよね。
「あんまり手紙も書かないでくれ。里心がつくから」
――興味がなかったのに、東京へ?
A
本(自叙伝)とかで本人が書いていますけど、親方に「飛行機に乗らないか」と言われて、「飛行機に乗れる」というのが大きかったみたいです。漁師でそんな裕福な家庭でもなかったし、函館に「明日行くよ」なんて言うと、前の日に寝られないぐらい嬉しいというような感じで、飛行機なんてもうとんでもない夢の乗り物だった時代でしたからね。だから一種の東京見物ですよね。中学3年の後半、半年くらいを過ごして、4月に帰ってくるつもりでいた。本人も私達もそう思っていたんです。
行く時までは、本人曰く「お客様だったよ」と。次の朝起きたらとんでもないとこに来たと後悔した、と本人は言ってましたけど。
“鋼の肉体”千代の富士の姉が明かす“若きウルフの苦悩”「再会してお互い無言で泣き合って…」「毛布から出てこれなかった初の大ケガ」
--後悔ですか?
A
周りを見ると みな身体が大きいしね。自分だってやる気もないのに、なんでこんなとこに来たんだろう…みたいな。とにかくまあ学校卒業するまであっちの中学の手続きしてもらったし、義務教育だし。学校にとりあえず行って卒業したら地元北海道の福島町に戻ってくる……そう思い描いていたと思いますよ。
(つづく)
ほんとに少なくなってしまったね。
常連さんそんなにいたんだ。
何で辞めてしまったのかねー?
突然初めての名前でコメントして、新しい人増えたと思うとそれっきりで、、、、変だね。
活気ずいてほしいよね
6年半前に 61歳の若さで早逝した千代の富士
その千代の富士の実姉がNumberに答えたロングインタビュー
千代の富士のもうひとつの側面を一番よく知ってる実姉がロングインタビューに答えたものを何回かに分けてご紹介します。
『ウルフ・ザ・ストーリー』1
「小さい頃は くるくるっとした目でしたけど、相撲の、勝負の世界に入ってからはやっぱりあのキリッとした勝負師の顔になりましたよね。でも引退して数年たったら本当に柔らかい表情になっていたんですよ」
優勝31回、通算1045勝を挙げ、2016年7月に亡くなった千代の富士。姉の小笠原佐登子さんはフィーバー前夜と引退後の様子を今でも懐かしそうに思い出す。
国民栄誉賞を受賞し、“ウルフ”の愛称でも親しまれた先代九重親方が「なんでも話すことが出来た存在」と慕っていたのが 2歳年上の佐登子さんだった。
生まれ故郷・北海道松前郡福島町に暮らす姉が土俵外で見せた弟の意外な一面を教えてくれた。
「まさか相撲界に行くとは思っていなかったんです」
遠くを見つめながらそう振り返るのは、優勝31回、通算1045勝を挙げ、2016年7月に亡くなった千代の富士の実姉、小笠原佐登子さん。
昨年春には現役時代の「鋼の肉体」の写真が投稿され、「カッコイイと思って思わず保存したけど、なんて言う名前の力士なんですかね?」「大胸筋と腹筋、そして上腕二頭筋とかヤバい。本当に相撲取りか?合成写真か?」とSNS上で話題になった “ウルフ”。
令和の世となっても新たにファンを獲得する“小さな大横綱”
―-漁師のお父さんの家庭に生まれて、そこで足腰を鍛えたと自伝などの書籍では書かれていますが、実際は?
A
大きな船から小さい船にイカをおろす作業とかを手伝っていたんですよ。大きな網の袋に入れて、それを小さな船に落としていく。休みの時にやっていて、船の上で作業する時のバランス感覚もよかったみたいで、中学に入ったらそういう助手的なことを立派にしていました。
――そこで鍛えられた?
A
いや、考えてみたら持って生まれた運動神経があったんじゃないですかね。こう言ったらちょっとあれだけどもね、親のいいところ100%あの人が持っていった。あっちは走れる。こっちは走れない。あっちは飛べる、こっちは飛べない。本当に何だろう。何やらしても、もう手先も器用だしねえ。引退後やケガをしている時になりますけど、七宝焼きや組紐とか手芸的なこともなんでもやれるんです。
――中学時代、走り高跳びや三段跳びで記録が残っているそう(過去記事によるとそれぞれ走り高跳び1m62、三段跳びは12m58)ですが、バスケ部だったんですよね?
A
バスケ部だったんですけど、100m何秒とかって記録は覚えてないけど、すごく速いタイムだったから、地域の陸上の大会とかには声をかけられていたんですよね。泳げば泳いだで速かったし。
――水泳も速かったんですか?
A
たしか当時は背泳ぎで校内の最速記録を残したりしていて。もう何やってもできるから、年上ながら羨ましかったですね。
(つづく)
すっかり投稿者メンバーが減ったり 様変わりしてしまいましたね。
福岡のMJさん・北の大地さん・シノブさん・九州のKさん・KSさん・イホさん・DWさん・by558さん・筋金のオヤジさん・ヒロさん・Gさん・Zさん・Hさんさん・Kさん・MMSさんB10さん・MKQさん…………
皆さんお元気で過ごしていらっしゃるでしょうか?
コロナとか交通事故とかに遭ってなければいいのですが。
大相撲ダイアリー 2月20日
1925大正14年のこの日、江戸川区小岩で蛇の目傘製造業を営む大塚家で男児が誕生しました。
名前は「清」。
後に“名人横綱”と讃えられる栃錦清隆です。
13歳で春日野部屋に入門。師匠春日野(元横綱栃木山)から『寝る時はエビのように小さくなって寝ろ。飯を食う時には大きな体で食え』という指導を受け忠実に教えを守って着実に番付を上げていった。
入幕した時の体重はわずか75kgでしたが、元々運動神経抜群だった大塚少年は、ありとあらゆる技を覚えそれを実戦で磨くことに長けていた。
十両昇進とともに、四股名を「大塚」から「栃錦」に改めました。
師匠春日野から『栃木山の “栃” と、(同じ出羽海部屋の兄弟子で栃木山より先に横綱となっていた)大錦卯一郎の “錦” をつけておいた。』と軽く言い渡されたが、師匠からの期待の大きさを裏付ける四股名でした。
この四股名に感銘を受けた栃錦は現役引退後、親方となって春日野部屋を継いでからも、弟子が関取になるとほぼ全員に “栃”のついた四股名を与えました。
大師匠栃木山から厳しく教わった「脇を固めハズ押しで攻めるために両脇に藁(わら)を挟んでの押しの稽古」を実践し、技能賞においては5場所連続を含む9回も受賞しました。
出し投げの切れ味は抜群で、羽黒山や鏡里・千代の山や東富士に吉葉山という大柄な横綱が犇めく昭和25~29年の横綱乱立時代を勝ち上がった。
優勝10回、準優勝9回、大相撲史上初の幕内500勝達成。
後から番付を駆け上がってきた初代若乃花とは毎場所のように熱戦を繰り広げ、“栃・若の一番”は、戦後の荒廃した日本に元気をもたらし、一般家庭へのテレビの普及には大きく貢献しました。(今でもYouTubeで栃・若対決を視ることができます)
以前に、当時を知る先輩方50人以上に『栃若の相撲をテレビで見ていましたか?』と訊くと
「必ず見てたよ」「自分は見てなかったけど父親や祖父母が見てたからテレビでは相撲中継が必ずかかっていた。」という返答ばかり。例外は3人だけでしたから、推計視聴率は低く見積もっても90%でしょう。
残念ながら、長きにわたって協会の理事長職
を務め多忙を極めたせいか?、栃錦の直接の弟子たちで横綱になった力士は誰もいません。
幕内優勝も初代栃東ただひとり。
(二代栃東は初代栃東が独立して玉ノ井部屋を興してから、栃ノ心は後任の春日野親方=栃乃和歌の時代になってから。)
この2月20日は、やはり日本のテレビ普及に大きく貢献した“ミスター”長嶋茂雄さんやアントニオ猪木さんの誕生日でもあります。