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あ大相撲どすこい研 第17回 ただいま急増中!技術の結晶 肩透かし BS1 3/11(土) 17:00~17:50 テーマは「肩透かし」。相手の肩を抱えるようにして引き倒す技で、決まれば「お見事!」と拍手をわき起こします。 実は肩透かし、近年、決まり手として急増していることで注目を集めています。 なぜ決まり手として増えているのか、技をかけるための秘訣はあるのかなどの疑問から、 想像を超えた肩透かしの真実まで。 現役力士・翠富士へのインタビューやかつての名手たちへの徹底調査から、肩透かしの魅力に迫ります。 再放送 (前回の)大相撲どすこい研 第16回・巡業編 巡業 大相撲の未来を巡る! BS1 3/11(土) 8:50~9:40
大相撲ダイアリー3月10日 1945昭和20年のこの日、東京は下町を中心に米軍のB29機によるナパーム弾・焼夷弾による首都爆撃を受け下町一帯は火の海に。 両国国技館は、幕下力士の郷里らが防護団を結成し命を張ってバケツリレーを夜通し行なって、天皇賜盃が納められている大金庫及び金庫室を水浸しにして、焼失を防いだそうです。
アナザー・ウルフストーリー”5 連勝の始まった夏場所で23回目の優勝を果たした時点では、記録などまったく意識していなかったという千代の富士。 むしろこの時は、北の湖と優勝回数が並んで歴代2位タイ(当時)となったため、次の場所で一気に単独2位になってやるという気でいた。 その後、名古屋場所、秋場所を全勝で終え、39連勝となると、マスコミが大鵬の45連勝の記録を抜けるのではないかと騒ぎ始める。NHKからは九州場所を前に特別番組制作の依頼を受け、「いまさら上がるトシでもあるまい」とこれにOKする。 本人いわく《初日に勝たないことには番組がスタートできないと思うと、プレッシャーがかかったが、力の出るプレッシャーだった》(著書『負けてたまるか』)。 初日を無事白星で飾り、連勝も40に乗ると、会場は異様な盛り上がりとなった。こうしてファンやマスコミにあおられる形で闘志を燃やし、六日目に45連勝に並ぶと、これで十分と思って気持ちが楽になったらしい。翌日の花ノ国戦でついに大鵬の記録を抜くと感慨もひとしおであったという。大きな目標だったので達成感があり、こうなると土俵に上がるのが楽しくなった。十一日目には小錦に勝って50連勝の大台に乗る。 この場所は連勝フィーバーに明け暮れ、優勝争いのほうはさほど意識していなかったという。それが十四日目、2敗で追っていた旭富士を破って千秋楽を前に優勝を決めると何だかホッとした。あとから振り返ると、場所前からの張りつめていたものがそこで切れてしまったようだ。 11月27日の千秋楽、横綱・大乃国に敗れ、連勝は53でストップする。 世間で期待された双葉山の69連勝へのチャレンジはならず、周囲からは惜しまれたが、《そんな大それたことできるわけないと初めから思っていたせいか「あれで、よかった」と悔いはなかった》と書いているのが(著書『負けてたまるか』)、「遠いところには目標を置かない」千代の富士らしいというべきか。 それでも彼は、一場所15日制になって初めてとなるはずだった「3場所連続全勝優勝」を逃し、そのうえ、翌年の年明け早々には昭和天皇が崩御し、平成と改元されたため、結果的に昭和最後となったあの一番が黒星になってしまったことを、のちのちまで悔やんだ。著書『綱の力』では次のように省みている。 《やり直していたら、絶対に勝っている。でもそれができないのが相撲。あの一番の反省材料は、他の負けた相撲の10倍以上はあった。 悔しさはそれ以上だった。 だから、「もっともっとしっかりやらなければいけない」と心の底から反省させられた。 いま思えば、あの負けがあったから、平成に入ってからも頑張れたし、優勝回数をさらに5回も伸ばせたのだと思う。 あの黒星の悔しさが、晩年の千代の富士の原動力になっていたのは間違いない》 こうして千代の富士は後悔と反省のもと奮起しながら平成元年を迎えたが、それは彼にとって波瀾の1年となる。 (つづく)
“アナザー・ウルフストーリー”4 千代の富士は 苦手とした相手も結構おり、自伝のひとつ『ウルフと呼ばれた男』では、横綱になってから1989年の秋場所までに千代の富士自身が負けの多い力士11人を挙げている。そこには横綱となった隆の里、双羽黒、大乃国、旭富士のほか、北天佑、朝潮、小錦、太寿山、逆鉾、若島津、巨砲の名が並ぶ。 このうち隆の里には、横綱昇進以降、6勝11敗と負け越している。横綱になってからの初黒星も隆の里からだった。 1981年の秋場所二日目のこの取組で、痛めていた左足首をさらに悪化させてしまい、翌日から休場を余儀なくされる。 休場明けの九州場所では横綱となって初優勝を果たすも、このときも隆の里に敗れ、翌1982昭和57年秋場所までじつに8連敗を喫した。 著書『綱の力』では当時を振り返り、《原因は自分の相撲に課題があったわけで、負けて研究し、また負けてまた研究し直した。しかし、それ以上に相手は私を研究していたという。 それではなかなか勝てなかったわけだ》と書いている。 隆の里は、自分が上位にあがるには千代の富士を破らねばならないと思って以来、研究に研究を重ねた。本場所のビデオをテープがすり切れるほど見て、巡業中にもなるべく千代の富士のそばにいて観察し、さらにその物の考え方も知りたくなって趣味嗜好や読む本まで調べあげたという。 そうやって集めたデータにもとに作戦を練ったのだった(『私はかく闘った』)。その努力のかいあって隆の里は1983昭和58年に念願の横綱となる。 糖尿病を克服し、当時ヒットしていた朝ドラにちなんで「おしん横綱」と称された隆の里だが、忍耐の人であるとともにじつは頭脳派でもあったのだ。 53連勝で止まった日 千代の富士の全盛期は、力士の大型化が進んだ時代でもあった。先に名前の挙がった小錦、大乃国、双羽黒らの台頭で幕内平均体重は150キロ台に突入、そのなかにあって千代の富士は体重120キロ台(身長は183cm)の小兵として立ち回らなければならなかった。 ノンフィクションライターの武田葉月氏が歴代の横綱たちから聞き書きした『横綱』(講談社、2013年/講談社文庫、2017年)で、千代の富士はこんなことを語っていた。 《私みたいに小さな体の力士は、遠いところに夢や目標を置いていてもダメなんです。あまり大きな目標を置いて、できなかったら、ガクッときますからね。 目標をまず身近なところに置いて、それを一つずつクリアしていく。一つクリアしたら、もうちょっと先に目標を置いてみる。 すると「じゃあ、がんばらなきゃ」という気持ちになる。それができたら、「また先に」。 だから、階段を一歩しっかり上がったら、今度は力をつけて、また上がるんだっていう、そういうやり方です》 1988昭和63年当時、双葉山の69連勝に次ぐ歴代2位となる53連勝を達成したときも、そんな気持ちで取組の一番一番にのぞんでいたようだ。 (つづく)
今朝の読売新聞本紙のスポーツ欄の大相撲特集「相撲論」にて 「師匠と弟子」がテーマで “ガチンコ横綱” 大乃国(現芝田山親方)がロングインタビューに答え、紙面の6段を割いて、“クリーン魁傑”と呼ばれた師匠(花籠親方=元大関魁傑)の教えについて回想しています。 師匠の番付を抜いても弟子は弟子。 双羽黒や朝青龍のように、番付で師匠の最高位を抜いた途端に、師匠を師匠と思わない不貞な輩は言語道断! 全人教育についても論じています。
“アナザー・ウルフストーリー”3 九重親方から将来を期待された千代の富士だが、大きな爆弾も抱えていた。それは肩だ。幕下時代の1973年春場所に左肩を脱臼して以来、ひどいときは寝返りを打っただけでも肩が抜けるほど癖になってしまった。 医師によれば、普通より肩の骨のかみ合う部分が浅いのに、それを腕力にまかせて大きい相手を振り回すので、肩の臼が耐え切れずに抜けてしまうのだという。 それでも抜けるのは左肩だけだったのが、1979昭和54年の春場所の取組で、それまで何もなかった右肩を脱臼してしまう。 その瞬間、もう力士生命は終わりだ とさすがに観念したという。医師からは、手術すれば完治はするが、それではどうしても腕の動きが悪くなると言われた。 そこで始めたのが、筋力トレーニングだった。 もともと筋肉質の体だったので、肩のまわりに丈夫な筋肉の鎧をつけるのが一番いいだろうとの判断である。鉄アレイやバーベルなど器具を使うトレーニングを採り入れるとともに、腕立て伏せも1日500回のノルマを課して継続し、これが一番効果があったらしい。力士らしからぬ筋肉隆々の肉体は、もともと肩の脱臼を克服すべく始めた鍛錬からつくりあげられたものだったのだ。 右腕の大ケガ…横綱時代も11回休場 肩以外のケガにもたびたび泣かされた。 1975年の秋場所で新入幕を果たすも、すぐに十両に陥落、またやり直せばいいや という気持ちで迎えた九州場所で右腕の筋肉を断裂する大ケガを負う。 おかげで一時やる気を失い、自暴自棄になり、このあと1978年初場所で幕内に復帰するまで2年もかかった(その間、九重親方=元千代の山が1977年に死去、元横綱・北の富士が九重部屋を引き継いだ)。先述の右肩の脱臼で再び十両に陥落する。 ケガの頻発は、小さい体なのに大きな相撲を取ろうとすることに根本的な原因があった。 そこで右肩の脱臼を機に、自分に合った取り口に変えようと努力を重ねた。とことん頑固に稽古をした末、最終的には、相手が攻めてくる前に素早く立ち回って前まわしを取り、一気に攻め込んでいく理にかなった相撲を完成させる。これで将来性がグッと高まった。 先述の右肩の脱臼は公傷扱いにならなかったので、次の1979年夏場所には大きなサポーターをつけながら三日目から出場し、千秋楽まで9勝をあげ、見事3度目の入幕を果たす。 自分の相撲を完成させてからは、1980年の九州場所を関脇として迎え、翌年の初場所では横綱・北の湖との優勝決定戦を制し初優勝を決めて大関に昇進、同年7月の名古屋場所での2度目の優勝により、ついに横綱にまで昇り詰めた。 それでも脱臼の恐怖はつきまとい、横綱になってからもケガで11回休場している(うち全休は6回)。そのたびにしっかりと静養して、体を治すことに専念した。完治しない状態で相撲を取っていたら、さらにケガが悪化し、致命傷になりかねないし、横綱という立場からして惨めな相撲を取ることは許されない。ゆえに完全に治すまでは相撲は取らない、というのが千代の富士の信念であった(『綱の力』)。 休場明けの優勝はじつに6回を数える。 「休場明けの千代の富士は強い」と呼ばれた由縁である。1988昭和63年の53連勝も、左肩脱臼で全休後の夏場所七日目の花乃湖戦から始まった。 「6勝11敗」の天敵 全盛期の千代の富士を、子供のときにリアルタイムで見ていた筆者は、当時の角界は彼の独擅場、まさに「一強」だったとばかり思い込んでいたのだが、今回、改めて調べてみると、必ずしもそうではなかったことに気づかされた。 (つづく)
アナザー・ウルフストーリー2” 千代の富士本人は最初は「相撲は好きじゃない」と断っていたが、親方の「飛行機に乗せてやる」の一言で心が動く。飛行機などのプラモデルづくりに夢中になっていただけに、その本物に乗せてもらえると聞いて胸が躍った。 漁師だった父も反対していたものの、親方から「中学を卒業するまで東京で私に預けてくれませんか。それで見込みがなければあきらめます。見込みがあればいっぺん帰して、改めてお願いに来ます」と説得され、ついに折れた。 こうして憧れの飛行機で上京し、新弟子検査に合格してその年の秋場所で本名の「秋元」で初土俵を踏む。四股名はこのあと「大秋元」を経て、翌1971年の初場所に際し、九重親方が「千代の富士」とつけてくれた。親方の現役時代の四股名である千代の山と、前出の横綱・北の富士からそれぞれ名前を取ったのである(ただ、自伝ではどれも触れられていないが、「富」の字は当初は頭に点のない「冨」を用い、1975年の初場所より改めた)。 最高の四股名をつけてもらったものの、本人にはまだ力士になるつもりはなく、中学を卒業したら帰郷して地元の高校で陸上をやりたいとひそかに思っていた。卒業が翌月に迫ると、意を決して親方に、約束どおり北海道に帰してほしいと伝える。すると親方はあわてて止め、おかみさんとともに説得にかかった。 それでも千代の富士は「約束が違う」と頑なになり、抵抗のためしばらくだんまりを決め込む。これに手を焼いた親方はついに両親に連絡をとり、地元の関係者たちとも話し合ってもらい、そのうえで後日、彼を呼んで実家の父親と電話で話してもらう。 父から高校に行きたいのだろうと図星を突かれると、千代の富士は大きくうなずいていた。父を通じて彼の思いを理解した親方は、それなら東京の高校に行けばいいと言ってくれた。 著書『負けてたまるか』で彼は、このときの親方を振り返り、《一度、北海道へ帰してしまったら再び相撲界に戻ってこない、と必死だったのだろう。今、思えば「引き留めてもらって」本当にいくら感謝しても、亡き先代九重親方(元横綱千代の山)には頭が上がらない》と書いている。 こうして千代の富士は、明治大学付属中野高校に入れてもらうのだが、相撲との両立がままならず、けっきょく中退する。相撲1本で行かせてほしいと申し出たところ、親方は涙を流して「やっと相撲取りになったな。これからだぞ」と喜んでくれたという(『綱の力』)。 現代の感覚からすれば、九重親方は一見本人の意思を尊重したようでいて、何としてでも力士にしようと、あの手この手で囲い込んだようにも思える。 1972年に日本相撲協会は、前年の文部省(現・文部科学省)の通達を受け、「中学生は力士として採用しない」と決めたとはいえ、たとえもう少し年上の少年が相手でも、いま同じようなやり方で慰留したら、問題になりそうである。もちろん、親方が引き留めたのは、それだけ千代の富士が将来を嘱望されていたということであるが。 (つづく)
“アナザー・ウルフストーリー” 自伝の1冊が『ウルフと呼ばれた男』と題されたとおり、ウルフは千代の富士の代名詞であった。 名づけ親は、九重部屋の先輩で、のちには師匠となる第52代横綱・北の富士である。時期的には、入門2年目の1971年(当時16歳)、11月の九州場所を足のけがで全休し、そのけがが治り、だんだん相撲が面白くなっていたころだという (著書『綱の力』より)。 北の富士は当時まだ現役の横綱で、千代の富士は稽古をつけてもらっても、いとも簡単に転がされてばかりだった。それでもなお意地になって、目をむき、まだ髷の結えない伸びかけの髪を振り乱して向かってくる彼を、北の富士は「まるで飢えた狼のようだ」となぞらえたのである。そのころの写真を見ると、ざんばら髪に鋭い目つきをしており、たしかに狼のようだ。 ただ、『私は かく闘った』収録のインタビューでは、また違った命名の経緯が語られている。時期はちょんまげを結う前と変わりはないが、稽古中ではなく、博多(ということは九州場所中か)でアラのチャンコをつくったときのことだとある。アラは大きな魚なので普通の包丁ではなかなか切れない。そこでナタみたいなものを使っていたら、北の富士が「おっ、狼みたいだな」と言ったらしい。 狼と呼ばれ出したときの当人の気持ちも、本によって記述が違う。『ウルフと呼ばれた男』では、《そんなに嫌ではなかった。耳をピンと立て、きりっとしまった胴、精悍な感じがあった。その狼がいつの間にかウルフという呼び名になったが、ウルフのほうがさらに気に入った》とある。 だが、『不撓不屈』では、《初めはどうもこの仇名が気に入らなかった。正直に言うと嫌で嫌でたまらなかった。 ときには当時まだ現役横綱だった北の富士に、『おい千代の富士、ちょっと窓開けて吠えみろ』などとからかわれる。 “狼”なんて、なにか悪者みたいなイメージだ。そんなに悪漢みたいな顔になったのかなと鏡を見て悩んだりもした》と、まったく正反対の心情が吐露されている。細かい書きぶりからも、むしろこちらが本心だったのではないかと思わせる。 『不撓不屈』によれば「ウルフ」の命名も北の富士で、番付が上がるにしたがい そう変わったという。《こっちのほうはなんとなく気に入った。少なくとも“狼”よりはいい》とあるから、よっぽど狼と呼ばれるのは嫌だったのだろう。 「おい千代の富士、ちょっと吠えてみろ」 “伝説の横綱”千代の富士の告白 「正直、嫌で嫌でたまらなかった…」なぜ16歳で “狼”と呼ばれた? (つづく)
ウルフ・ザ・ストーリー14 千代の富士本人の死因3 千代の富士が膵臓の手術を行なった病院は、日本の医療の最高峰といっていい病院でしたが、「手術ですべての病巣を取り除くのは難しい」と判断されたとか。 そこで、医師は抗がん剤治療をすすめたそうですが、千代の富士はそれを保留し、セカンドオピニオンを求めたということです。 抗がん剤治療は、「癌」の転移などによって、手術による病巣の除去が難しい場合や、手術の前に少しでも病巣を小さくしておく目的で行なわれるのが一般的。 ただし、抗がん剤は「癌」以外の正常な細胞にも作用してしまうため、激しい副作用を伴うことが多いといいます。 千代の富士が頼ったセカンドオピニオンなのですが、名前は「UMSオンコロジークリニック」です。 UMSがあるのは、鹿児島市で鹿児島空港から車で40分ほど。 県内一の繁華街にほど近い場所にある6階建てのこぢんまりした建物にあるそうです。 そこで、千代の富士はまず、UMSで治療が可能かどうか、病気の画像データなどを持参して相談。 すると、病院側は「抗がん剤を多量に使用しなくても治療する方法がある」と提案したということです。 そして、全国でここしか行なわれていない「四次元ピンポイント照射療法」という放射線治療を2015年に入ってから受けることになります。 結局、千代の富士は年明け頃から通い始めて、数か月に1度、1週間程度泊まりがけで鹿児島の病院に通院。 食道が焼けるような 度数75度というロンリコを飲むほどの大酒豪で知られた千代の富士でしたが、「膵臓癌」が発覚して以降、激やせ。 アルコールは一滴も口にしておらず、まさに現役時代さながらの不屈の闘志で癌と闘っていたのです。 しかし、「余命5年」と言われる病に勝てず、最後は東京都内の病院で亡くなってしまったようです。 (つづく)
ウルフ・ザ・ストーリー 13 元横綱・千代の富士(九重親方)の不幸 千代の富士本人の死因 2 死因となった膵臓癌は、すべての癌の中でも「最も恐ろしい癌」とされています。 また、膵臓癌は発見も難しく、見つかった時にはすでに進行しているケースが非常に多い病気。 早い段階でリンパ節に転移してしまう可能性が高く、切除手術が成功しても約7割が再発するとも言われるのが、この「膵臓癌」の特徴です。 結局のところ、根治には外科手術で病巣を完全に切除するしかありません。 ですが、手術したとしても5年生存率は極めて低く、3%とも5%とも言われ、「余命5年説」とされる重病。 手術後の千代の富士は驚くほどの激やせぶりでしたが、それでも元気な姿を見せていた時もあったのです。 しかし、最後はやはり病気に勝てなかったというわけです。 死因となった千代の富士の「膵臓癌」は、年に1度受けていた健康診断で発見されたそうです。 生前、千代の富士は都内の大学病院で毎年、誕生月の6月に健康診断を受けており、そこで膵臓癌が見つかったとか。 すぐに入院して、摘出手術を受けた後、さらに検査を進めると、他の部位にも転移していることがわかったそうです。 (つづく)
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あ大相撲どすこい研
第17回 ただいま急増中!技術の結晶 肩透かし
BS1
3/11(土) 17:00~17:50
テーマは「肩透かし」。相手の肩を抱えるようにして引き倒す技で、決まれば「お見事!」と拍手をわき起こします。
実は肩透かし、近年、決まり手として急増していることで注目を集めています。
なぜ決まり手として増えているのか、技をかけるための秘訣はあるのかなどの疑問から、
想像を超えた肩透かしの真実まで。
現役力士・翠富士へのインタビューやかつての名手たちへの徹底調査から、肩透かしの魅力に迫ります。
再放送
(前回の)大相撲どすこい研
第16回・巡業編
巡業 大相撲の未来を巡る!
BS1
3/11(土) 8:50~9:40
大相撲ダイアリー3月10日
1945昭和20年のこの日、東京は下町を中心に米軍のB29機によるナパーム弾・焼夷弾による首都爆撃を受け下町一帯は火の海に。
両国国技館は、幕下力士の郷里らが防護団を結成し命を張ってバケツリレーを夜通し行なって、天皇賜盃が納められている大金庫及び金庫室を水浸しにして、焼失を防いだそうです。
アナザー・ウルフストーリー”5
連勝の始まった夏場所で23回目の優勝を果たした時点では、記録などまったく意識していなかったという千代の富士。
むしろこの時は、北の湖と優勝回数が並んで歴代2位タイ(当時)となったため、次の場所で一気に単独2位になってやるという気でいた。
その後、名古屋場所、秋場所を全勝で終え、39連勝となると、マスコミが大鵬の45連勝の記録を抜けるのではないかと騒ぎ始める。NHKからは九州場所を前に特別番組制作の依頼を受け、「いまさら上がるトシでもあるまい」とこれにOKする。
本人いわく《初日に勝たないことには番組がスタートできないと思うと、プレッシャーがかかったが、力の出るプレッシャーだった》(著書『負けてたまるか』)。
初日を無事白星で飾り、連勝も40に乗ると、会場は異様な盛り上がりとなった。こうしてファンやマスコミにあおられる形で闘志を燃やし、六日目に45連勝に並ぶと、これで十分と思って気持ちが楽になったらしい。翌日の花ノ国戦でついに大鵬の記録を抜くと感慨もひとしおであったという。大きな目標だったので達成感があり、こうなると土俵に上がるのが楽しくなった。十一日目には小錦に勝って50連勝の大台に乗る。 この場所は連勝フィーバーに明け暮れ、優勝争いのほうはさほど意識していなかったという。それが十四日目、2敗で追っていた旭富士を破って千秋楽を前に優勝を決めると何だかホッとした。あとから振り返ると、場所前からの張りつめていたものがそこで切れてしまったようだ。
11月27日の千秋楽、横綱・大乃国に敗れ、連勝は53でストップする。
世間で期待された双葉山の69連勝へのチャレンジはならず、周囲からは惜しまれたが、《そんな大それたことできるわけないと初めから思っていたせいか「あれで、よかった」と悔いはなかった》と書いているのが(著書『負けてたまるか』)、「遠いところには目標を置かない」千代の富士らしいというべきか。
それでも彼は、一場所15日制になって初めてとなるはずだった「3場所連続全勝優勝」を逃し、そのうえ、翌年の年明け早々には昭和天皇が崩御し、平成と改元されたため、結果的に昭和最後となったあの一番が黒星になってしまったことを、のちのちまで悔やんだ。著書『綱の力』では次のように省みている。 《やり直していたら、絶対に勝っている。でもそれができないのが相撲。あの一番の反省材料は、他の負けた相撲の10倍以上はあった。
悔しさはそれ以上だった。 だから、「もっともっとしっかりやらなければいけない」と心の底から反省させられた。 いま思えば、あの負けがあったから、平成に入ってからも頑張れたし、優勝回数をさらに5回も伸ばせたのだと思う。 あの黒星の悔しさが、晩年の千代の富士の原動力になっていたのは間違いない》 こうして千代の富士は後悔と反省のもと奮起しながら平成元年を迎えたが、それは彼にとって波瀾の1年となる。
(つづく)
“アナザー・ウルフストーリー”4
千代の富士は 苦手とした相手も結構おり、自伝のひとつ『ウルフと呼ばれた男』では、横綱になってから1989年の秋場所までに千代の富士自身が負けの多い力士11人を挙げている。そこには横綱となった隆の里、双羽黒、大乃国、旭富士のほか、北天佑、朝潮、小錦、太寿山、逆鉾、若島津、巨砲の名が並ぶ。
このうち隆の里には、横綱昇進以降、6勝11敗と負け越している。横綱になってからの初黒星も隆の里からだった。
1981年の秋場所二日目のこの取組で、痛めていた左足首をさらに悪化させてしまい、翌日から休場を余儀なくされる。
休場明けの九州場所では横綱となって初優勝を果たすも、このときも隆の里に敗れ、翌1982昭和57年秋場所までじつに8連敗を喫した。
著書『綱の力』では当時を振り返り、《原因は自分の相撲に課題があったわけで、負けて研究し、また負けてまた研究し直した。しかし、それ以上に相手は私を研究していたという。
それではなかなか勝てなかったわけだ》と書いている。 隆の里は、自分が上位にあがるには千代の富士を破らねばならないと思って以来、研究に研究を重ねた。本場所のビデオをテープがすり切れるほど見て、巡業中にもなるべく千代の富士のそばにいて観察し、さらにその物の考え方も知りたくなって趣味嗜好や読む本まで調べあげたという。
そうやって集めたデータにもとに作戦を練ったのだった(『私はかく闘った』)。その努力のかいあって隆の里は1983昭和58年に念願の横綱となる。
糖尿病を克服し、当時ヒットしていた朝ドラにちなんで「おしん横綱」と称された隆の里だが、忍耐の人であるとともにじつは頭脳派でもあったのだ。 53連勝で止まった日 千代の富士の全盛期は、力士の大型化が進んだ時代でもあった。先に名前の挙がった小錦、大乃国、双羽黒らの台頭で幕内平均体重は150キロ台に突入、そのなかにあって千代の富士は体重120キロ台(身長は183cm)の小兵として立ち回らなければならなかった。
ノンフィクションライターの武田葉月氏が歴代の横綱たちから聞き書きした『横綱』(講談社、2013年/講談社文庫、2017年)で、千代の富士はこんなことを語っていた。
《私みたいに小さな体の力士は、遠いところに夢や目標を置いていてもダメなんです。あまり大きな目標を置いて、できなかったら、ガクッときますからね。 目標をまず身近なところに置いて、それを一つずつクリアしていく。一つクリアしたら、もうちょっと先に目標を置いてみる。
すると「じゃあ、がんばらなきゃ」という気持ちになる。それができたら、「また先に」。
だから、階段を一歩しっかり上がったら、今度は力をつけて、また上がるんだっていう、そういうやり方です》
1988昭和63年当時、双葉山の69連勝に次ぐ歴代2位となる53連勝を達成したときも、そんな気持ちで取組の一番一番にのぞんでいたようだ。
(つづく)
今朝の読売新聞本紙のスポーツ欄の大相撲特集「相撲論」にて
「師匠と弟子」がテーマで
“ガチンコ横綱” 大乃国(現芝田山親方)がロングインタビューに答え、紙面の6段を割いて、“クリーン魁傑”と呼ばれた師匠(花籠親方=元大関魁傑)の教えについて回想しています。
師匠の番付を抜いても弟子は弟子。
双羽黒や朝青龍のように、番付で師匠の最高位を抜いた途端に、師匠を師匠と思わない不貞な輩は言語道断! 全人教育についても論じています。
“アナザー・ウルフストーリー”3
九重親方から将来を期待された千代の富士だが、大きな爆弾も抱えていた。それは肩だ。幕下時代の1973年春場所に左肩を脱臼して以来、ひどいときは寝返りを打っただけでも肩が抜けるほど癖になってしまった。
医師によれば、普通より肩の骨のかみ合う部分が浅いのに、それを腕力にまかせて大きい相手を振り回すので、肩の臼が耐え切れずに抜けてしまうのだという。 それでも抜けるのは左肩だけだったのが、1979昭和54年の春場所の取組で、それまで何もなかった右肩を脱臼してしまう。
その瞬間、もう力士生命は終わりだ とさすがに観念したという。医師からは、手術すれば完治はするが、それではどうしても腕の動きが悪くなると言われた。 そこで始めたのが、筋力トレーニングだった。
もともと筋肉質の体だったので、肩のまわりに丈夫な筋肉の鎧をつけるのが一番いいだろうとの判断である。鉄アレイやバーベルなど器具を使うトレーニングを採り入れるとともに、腕立て伏せも1日500回のノルマを課して継続し、これが一番効果があったらしい。力士らしからぬ筋肉隆々の肉体は、もともと肩の脱臼を克服すべく始めた鍛錬からつくりあげられたものだったのだ。 右腕の大ケガ…横綱時代も11回休場 肩以外のケガにもたびたび泣かされた。
1975年の秋場所で新入幕を果たすも、すぐに十両に陥落、またやり直せばいいや という気持ちで迎えた九州場所で右腕の筋肉を断裂する大ケガを負う。
おかげで一時やる気を失い、自暴自棄になり、このあと1978年初場所で幕内に復帰するまで2年もかかった(その間、九重親方=元千代の山が1977年に死去、元横綱・北の富士が九重部屋を引き継いだ)。先述の右肩の脱臼で再び十両に陥落する。
ケガの頻発は、小さい体なのに大きな相撲を取ろうとすることに根本的な原因があった。
そこで右肩の脱臼を機に、自分に合った取り口に変えようと努力を重ねた。とことん頑固に稽古をした末、最終的には、相手が攻めてくる前に素早く立ち回って前まわしを取り、一気に攻め込んでいく理にかなった相撲を完成させる。これで将来性がグッと高まった。
先述の右肩の脱臼は公傷扱いにならなかったので、次の1979年夏場所には大きなサポーターをつけながら三日目から出場し、千秋楽まで9勝をあげ、見事3度目の入幕を果たす。
自分の相撲を完成させてからは、1980年の九州場所を関脇として迎え、翌年の初場所では横綱・北の湖との優勝決定戦を制し初優勝を決めて大関に昇進、同年7月の名古屋場所での2度目の優勝により、ついに横綱にまで昇り詰めた。 それでも脱臼の恐怖はつきまとい、横綱になってからもケガで11回休場している(うち全休は6回)。そのたびにしっかりと静養して、体を治すことに専念した。完治しない状態で相撲を取っていたら、さらにケガが悪化し、致命傷になりかねないし、横綱という立場からして惨めな相撲を取ることは許されない。ゆえに完全に治すまでは相撲は取らない、というのが千代の富士の信念であった(『綱の力』)。 休場明けの優勝はじつに6回を数える。
「休場明けの千代の富士は強い」と呼ばれた由縁である。1988昭和63年の53連勝も、左肩脱臼で全休後の夏場所七日目の花乃湖戦から始まった。 「6勝11敗」の天敵 全盛期の千代の富士を、子供のときにリアルタイムで見ていた筆者は、当時の角界は彼の独擅場、まさに「一強」だったとばかり思い込んでいたのだが、今回、改めて調べてみると、必ずしもそうではなかったことに気づかされた。
(つづく)
アナザー・ウルフストーリー2”
千代の富士本人は最初は「相撲は好きじゃない」と断っていたが、親方の「飛行機に乗せてやる」の一言で心が動く。飛行機などのプラモデルづくりに夢中になっていただけに、その本物に乗せてもらえると聞いて胸が躍った。
漁師だった父も反対していたものの、親方から「中学を卒業するまで東京で私に預けてくれませんか。それで見込みがなければあきらめます。見込みがあればいっぺん帰して、改めてお願いに来ます」と説得され、ついに折れた。
こうして憧れの飛行機で上京し、新弟子検査に合格してその年の秋場所で本名の「秋元」で初土俵を踏む。四股名はこのあと「大秋元」を経て、翌1971年の初場所に際し、九重親方が「千代の富士」とつけてくれた。親方の現役時代の四股名である千代の山と、前出の横綱・北の富士からそれぞれ名前を取ったのである(ただ、自伝ではどれも触れられていないが、「富」の字は当初は頭に点のない「冨」を用い、1975年の初場所より改めた)。
最高の四股名をつけてもらったものの、本人にはまだ力士になるつもりはなく、中学を卒業したら帰郷して地元の高校で陸上をやりたいとひそかに思っていた。卒業が翌月に迫ると、意を決して親方に、約束どおり北海道に帰してほしいと伝える。すると親方はあわてて止め、おかみさんとともに説得にかかった。
それでも千代の富士は「約束が違う」と頑なになり、抵抗のためしばらくだんまりを決め込む。これに手を焼いた親方はついに両親に連絡をとり、地元の関係者たちとも話し合ってもらい、そのうえで後日、彼を呼んで実家の父親と電話で話してもらう。
父から高校に行きたいのだろうと図星を突かれると、千代の富士は大きくうなずいていた。父を通じて彼の思いを理解した親方は、それなら東京の高校に行けばいいと言ってくれた。
著書『負けてたまるか』で彼は、このときの親方を振り返り、《一度、北海道へ帰してしまったら再び相撲界に戻ってこない、と必死だったのだろう。今、思えば「引き留めてもらって」本当にいくら感謝しても、亡き先代九重親方(元横綱千代の山)には頭が上がらない》と書いている。
こうして千代の富士は、明治大学付属中野高校に入れてもらうのだが、相撲との両立がままならず、けっきょく中退する。相撲1本で行かせてほしいと申し出たところ、親方は涙を流して「やっと相撲取りになったな。これからだぞ」と喜んでくれたという(『綱の力』)。
現代の感覚からすれば、九重親方は一見本人の意思を尊重したようでいて、何としてでも力士にしようと、あの手この手で囲い込んだようにも思える。
1972年に日本相撲協会は、前年の文部省(現・文部科学省)の通達を受け、「中学生は力士として採用しない」と決めたとはいえ、たとえもう少し年上の少年が相手でも、いま同じようなやり方で慰留したら、問題になりそうである。もちろん、親方が引き留めたのは、それだけ千代の富士が将来を嘱望されていたということであるが。
(つづく)
“アナザー・ウルフストーリー”
自伝の1冊が『ウルフと呼ばれた男』と題されたとおり、ウルフは千代の富士の代名詞であった。
名づけ親は、九重部屋の先輩で、のちには師匠となる第52代横綱・北の富士である。時期的には、入門2年目の1971年(当時16歳)、11月の九州場所を足のけがで全休し、そのけがが治り、だんだん相撲が面白くなっていたころだという
(著書『綱の力』より)。
北の富士は当時まだ現役の横綱で、千代の富士は稽古をつけてもらっても、いとも簡単に転がされてばかりだった。それでもなお意地になって、目をむき、まだ髷の結えない伸びかけの髪を振り乱して向かってくる彼を、北の富士は「まるで飢えた狼のようだ」となぞらえたのである。そのころの写真を見ると、ざんばら髪に鋭い目つきをしており、たしかに狼のようだ。 ただ、『私は かく闘った』収録のインタビューでは、また違った命名の経緯が語られている。時期はちょんまげを結う前と変わりはないが、稽古中ではなく、博多(ということは九州場所中か)でアラのチャンコをつくったときのことだとある。アラは大きな魚なので普通の包丁ではなかなか切れない。そこでナタみたいなものを使っていたら、北の富士が「おっ、狼みたいだな」と言ったらしい。
狼と呼ばれ出したときの当人の気持ちも、本によって記述が違う。『ウルフと呼ばれた男』では、《そんなに嫌ではなかった。耳をピンと立て、きりっとしまった胴、精悍な感じがあった。その狼がいつの間にかウルフという呼び名になったが、ウルフのほうがさらに気に入った》とある。
だが、『不撓不屈』では、《初めはどうもこの仇名が気に入らなかった。正直に言うと嫌で嫌でたまらなかった。
ときには当時まだ現役横綱だった北の富士に、『おい千代の富士、ちょっと窓開けて吠えみろ』などとからかわれる。
“狼”なんて、なにか悪者みたいなイメージだ。そんなに悪漢みたいな顔になったのかなと鏡を見て悩んだりもした》と、まったく正反対の心情が吐露されている。細かい書きぶりからも、むしろこちらが本心だったのではないかと思わせる。 『不撓不屈』によれば「ウルフ」の命名も北の富士で、番付が上がるにしたがい そう変わったという。《こっちのほうはなんとなく気に入った。少なくとも“狼”よりはいい》とあるから、よっぽど狼と呼ばれるのは嫌だったのだろう。
「おい千代の富士、ちょっと吠えてみろ」
“伝説の横綱”千代の富士の告白
「正直、嫌で嫌でたまらなかった…」なぜ16歳で “狼”と呼ばれた?
(つづく)
ウルフ・ザ・ストーリー14
千代の富士本人の死因3
千代の富士が膵臓の手術を行なった病院は、日本の医療の最高峰といっていい病院でしたが、「手術ですべての病巣を取り除くのは難しい」と判断されたとか。
そこで、医師は抗がん剤治療をすすめたそうですが、千代の富士はそれを保留し、セカンドオピニオンを求めたということです。
抗がん剤治療は、「癌」の転移などによって、手術による病巣の除去が難しい場合や、手術の前に少しでも病巣を小さくしておく目的で行なわれるのが一般的。
ただし、抗がん剤は「癌」以外の正常な細胞にも作用してしまうため、激しい副作用を伴うことが多いといいます。
千代の富士が頼ったセカンドオピニオンなのですが、名前は「UMSオンコロジークリニック」です。
UMSがあるのは、鹿児島市で鹿児島空港から車で40分ほど。
県内一の繁華街にほど近い場所にある6階建てのこぢんまりした建物にあるそうです。
そこで、千代の富士はまず、UMSで治療が可能かどうか、病気の画像データなどを持参して相談。
すると、病院側は「抗がん剤を多量に使用しなくても治療する方法がある」と提案したということです。
そして、全国でここしか行なわれていない「四次元ピンポイント照射療法」という放射線治療を2015年に入ってから受けることになります。
結局、千代の富士は年明け頃から通い始めて、数か月に1度、1週間程度泊まりがけで鹿児島の病院に通院。
食道が焼けるような 度数75度というロンリコを飲むほどの大酒豪で知られた千代の富士でしたが、「膵臓癌」が発覚して以降、激やせ。
アルコールは一滴も口にしておらず、まさに現役時代さながらの不屈の闘志で癌と闘っていたのです。
しかし、「余命5年」と言われる病に勝てず、最後は東京都内の病院で亡くなってしまったようです。
(つづく)
ウルフ・ザ・ストーリー 13
元横綱・千代の富士(九重親方)の不幸
千代の富士本人の死因 2
死因となった膵臓癌は、すべての癌の中でも「最も恐ろしい癌」とされています。
また、膵臓癌は発見も難しく、見つかった時にはすでに進行しているケースが非常に多い病気。
早い段階でリンパ節に転移してしまう可能性が高く、切除手術が成功しても約7割が再発するとも言われるのが、この「膵臓癌」の特徴です。
結局のところ、根治には外科手術で病巣を完全に切除するしかありません。
ですが、手術したとしても5年生存率は極めて低く、3%とも5%とも言われ、「余命5年説」とされる重病。
手術後の千代の富士は驚くほどの激やせぶりでしたが、それでも元気な姿を見せていた時もあったのです。
しかし、最後はやはり病気に勝てなかったというわけです。
死因となった千代の富士の「膵臓癌」は、年に1度受けていた健康診断で発見されたそうです。
生前、千代の富士は都内の大学病院で毎年、誕生月の6月に健康診断を受けており、そこで膵臓癌が見つかったとか。
すぐに入院して、摘出手術を受けた後、さらに検査を進めると、他の部位にも転移していることがわかったそうです。
(つづく)