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大人気となった映画の撮影地を巡る“聖地巡礼”が近年では流行していますが 徐々に暖かくなっていくであろう2月~4月 相撲の地を巡礼するというのは如何ですか? 東京だと 江戸時代に大相撲興行が行なわれていた 両国の回向院。 明暦の大火の後、四代将軍家綱の命で建てられた回向院で勧進相撲(寺社建築や修繕の為に寄付を募る目的=今で言うクラウドファンディング)が行なわれるようになり、1833年から76年間にわたり江戸大相撲の定場所となりました。 蔵前國技館跡地は現在、都の下水道局北部下水道事務所と見学施設「蔵前水の館」。 栃木県なら 昭和26年に- 宇都宮城跡より移設された「日下開山 初代横綱 明石志賀之助碑」がある蒲生神社(宇都宮駅の西側=バス又は徒歩) そして “聖地”といえ 相撲のルーツ「相撲発祥の地」という奈良県桜井市にあるのが相撲神社。 『日本書紀』に當麻(たいま/現・奈良県葛城市)の当麻蹴速(たいまのけはや)が出雲国(現・島根県)の野見宿禰(のみのすくね)と 垂仁天皇(すいにんてんのう)の前で力比べを行なったとされるのが、相撲神社あたりで、境内には勝った野見宿禰を祀る祠もあります。 『日本書紀』によれば、「日本最初の天覧相撲」の結果は、野見宿禰が当麻蹴速の腋骨と腰を折って殺害するという壮絶なもの。 その結果、野見宿禰は、当麻蹴速の所領(現在の葛城市当麻一帯)を得たと記されています。 しかも相手の腰を折ったことから、賜った地も腰折田(こしおれだ)というオチが。 葛城市には腰折田公園があり、こちらを「相撲伝承発祥地」としています。 野見宿禰は、大王の殉死の風習に代わる埴輪の制を提案し(殉死の代わりに埴輪を墳丘に置く)、埴輪などを制作する土師氏(はじし)の祖ともいわれています。 垂仁天皇は、(実在したとすれば)、3世紀後半〜4世紀前半のヤマト王権の大王(律令制以前、天皇という呼称がまだない時代です)。 つづく
大相撲ニュース 高砂部屋移転 文明開化の波に呑まれ相撲廃絶の動きもあった明治初期に、角界の改革を求めて活躍した初代高砂浦五郎が 一代で角界を代表する大部屋に育て上げた高砂部屋は 高砂浦五郎自身が「高見山大五郎」の四股名で幕内に上がった1878明治11年から 2016年に朝赤龍が十両から転落するまで、なんと 139年も続けて関取を輩出し続け、明治28年六月場所では、東西対抗形式だった幕内力士の東方18人中12人が高砂部屋力士が占めるなど、明治以降、角界屈指の名門部屋として知られ、横綱7人、大関8人を輩出した大相撲屈指の名門、高砂部屋が2月2日、東京・墨田区石原に移転した新たな部屋で部屋開きを行ないました。 高砂一門の八角理事長(元横綱北勝海)、OBの元横綱朝青龍らも出席。 墨田区本所から、1月の初場所後に引っ越し、この日の部屋開きで初稽古も行なった。 部屋は地上3階建てで、コロナ禍で隔離に困った教訓から大部屋は設けず、5~6人用の中部屋を5つ、関取用の個室を3つの構成。 師匠の8代目高砂親方(元関脇朝赤龍)は「感慨深い。横綱を育てるのが夢。伝統を守りながら新しい風を入れたい」と語り、八角理事長も「5代目となる“朝潮太郎”をつくってほしい」と、横綱、大関が名乗った部屋伝統の四股名に見合う力士育成を願ったそうです。 高砂部屋が輩出した横綱は 西ノ海嘉治郎(16代横綱・鹿児島) 初代小錦八十吉(17代横綱・千葉) 男女ノ川登三(34代横綱・茨城) 前田山英五郎(39代横綱・愛媛) 東富士欽壹(40代横綱・東京) 3代目朝潮太郎(46代横綱・鹿児島) 朝青龍明徳(68代横綱・モンゴル)
元前頭徳勝龍(千田川親方)の断髪式が行われ3時のヒロイン·かなでがハサミを入れました。実は顔がソックリというわけで新米親方も『妹』と認めるぐらいだって。相撲界のしきたりに従って土俵下でのハサミ入れとなりましたがかなでちゃん断髪式参加はもちろん両国国技館への来場も初めてだったそうで。 千田川親方には木瀬部屋の若手の成長を助けてあげてほしいですね。かなでちゃん、福田とゆめっちによろしく。
日本相撲協会は30日、東京・両国国技館で理事会と年寄総会を開いて親方衆の新たな職務を決め、音羽山親方(元横綱鶴竜)が2月1日付で審判部に配属されました。 審判部は土俵下で勝負審判を務めるほか、毎場所の番付や取組の編成など重要な任務を担います。 これにより、NHK①の実況中継の際の解説者席にて、非常にわかりやすい解説をしてくれていた音羽山親方の解説は、当分の間、聴くことができなくなります。少なくとも次回(2年後)の職務分掌(担当替え)までは、審判部の職務に専念されますね。 外国出身親方のなかでは圧倒的に日本語が上手で、取組の解説でも両力士のそれぞれの立場に立った分析をされていて、いつも感銘を受けてました。 その名解説を聴けなくなるのは残念ですが、審判長になる日が来たら、物言いの協議の説明の際に、ここ20年ぐらいの どの日本人審判長たちよりも上手な場内説明が期待できますね。
豊昇龍の雲龍型土俵入り 太刀持ちに幕内の平戸海(境川)、露払いに幕内の明生(立浪)を従え、1分35秒をかけて雲竜型を披露した。 偉大な叔父の採点は…。 大相撲の第74代横綱 豊昇龍(25=立浪)が31日、東京・明治神宮で推挙式と土俵入りを行った。約3500人の見物客の前で、力強い雲竜型を披露。叔父の元横綱朝青龍もモンゴルから駆けつけ、おいの勇姿を見守った。 元朝青龍は「何より、うれしい」と感激する一方で、新横綱の土俵入りについては「(自ら右腕を動かしながら)腕のあたりの返しが、なんか変だったなと。(豊昇龍は)子供のころに、馬から落ちて骨折していると思うんですよ。それが見ていて気になった。鍛えるべきなんですよね」とズバリ指摘。 豊昇龍を幼少期から知る大横綱は、わずかな〝異変〟を見逃さなかった。 SNSでも 『四股を踏んで競り上がった後の二度目、三度目の四股の後の掌は返してはいけない。それはただの反動動作だから返すのは間違い。雲竜型の基本の双葉山や三重の海の土俵入りを見直すがよい。 土俵入り指導はハワイ横綱の武蔵丸や元理事長の三重の海から直接伝授されるべきだった。朝青龍もその点を気付いていたのかも知れない。 折角、三重の海によって正された土俵入りが不正確になり極めて残念だ。』
もう現在の横審は「横綱審議会」の看板を降ろして、「相撲好き経済人の無料相撲観覧同好会」とすべきだ 豊昇龍の横綱昇進まで 2場所合計で25勝、3場所合計でも33勝は、どちらも平成以降の横綱では最低の数字。今場所3敗を喫した時点で、審判部の空気は昇進見送り論が大半。副部長の粂川親方(元・琴稲妻)も「かなり厳しいというか無理すじ」と述べていた。 しかし、そこに必死で“空気”を入れ続けていたのが、八角理事長(元北勝海)や高田川審判部長(元安芸乃島)だ。 12日目の取組後で、豊昇龍がトップまで星1差まで迫ると、理事長は「ムードが出てきたでしょ」と発言。 翌日には九重審判部副部長(元千代大海)が「千秋楽次第ではいろんな話が出る」と述べた。 事態が一気に動いたのは、千秋楽の午後に行なわれた「審判部会」だった。 この時も審判部員の中では「昇進は見送るべき」という意見が多くを占めていた。 が、それを突き返したのが高田川審判部長。 「負けた相撲も前に出ている」と偏った評価をして「優勝したら横綱昇進が動き出す」ことを、「審判部長の責任で」判断したという。 こうした審判部の意向は当然、千秋楽の土俵に上がる前の豊昇龍にも伝わっていたであろう。 本割、巴戦での奮起に繋がったのは想像に難くない。 巴戦で完勝した豊昇龍に高田川審判部長は「負けた相撲も出合い頭でたまたま負けた。(巴戦の)相撲を見ると文句のつけるところはない」と絶賛。 横綱昇進を諮る臨時理事会の招集を要請した
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大人気となった映画の撮影地を巡る“聖地巡礼”が近年では流行していますが
徐々に暖かくなっていくであろう2月~4月
相撲の地を巡礼するというのは如何ですか?
東京だと
江戸時代に大相撲興行が行なわれていた 両国の回向院。
明暦の大火の後、四代将軍家綱の命で建てられた回向院で勧進相撲(寺社建築や修繕の為に寄付を募る目的=今で言うクラウドファンディング)が行なわれるようになり、1833年から76年間にわたり江戸大相撲の定場所となりました。
蔵前國技館跡地は現在、都の下水道局北部下水道事務所と見学施設「蔵前水の館」。
栃木県なら
昭和26年に- 宇都宮城跡より移設された「日下開山 初代横綱 明石志賀之助碑」がある蒲生神社(宇都宮駅の西側=バス又は徒歩)
そして “聖地”といえ
相撲のルーツ「相撲発祥の地」という奈良県桜井市にあるのが相撲神社。
『日本書紀』に當麻(たいま/現・奈良県葛城市)の当麻蹴速(たいまのけはや)が出雲国(現・島根県)の野見宿禰(のみのすくね)と 垂仁天皇(すいにんてんのう)の前で力比べを行なったとされるのが、相撲神社あたりで、境内には勝った野見宿禰を祀る祠もあります。
『日本書紀』によれば、「日本最初の天覧相撲」の結果は、野見宿禰が当麻蹴速の腋骨と腰を折って殺害するという壮絶なもの。
その結果、野見宿禰は、当麻蹴速の所領(現在の葛城市当麻一帯)を得たと記されています。
しかも相手の腰を折ったことから、賜った地も腰折田(こしおれだ)というオチが。
葛城市には腰折田公園があり、こちらを「相撲伝承発祥地」としています。
野見宿禰は、大王の殉死の風習に代わる埴輪の制を提案し(殉死の代わりに埴輪を墳丘に置く)、埴輪などを制作する土師氏(はじし)の祖ともいわれています。
垂仁天皇は、(実在したとすれば)、3世紀後半〜4世紀前半のヤマト王権の大王(律令制以前、天皇という呼称がまだない時代です)。
つづく
大相撲ニュース
高砂部屋移転
文明開化の波に呑まれ相撲廃絶の動きもあった明治初期に、角界の改革を求めて活躍した初代高砂浦五郎が 一代で角界を代表する大部屋に育て上げた高砂部屋は 高砂浦五郎自身が「高見山大五郎」の四股名で幕内に上がった1878明治11年から 2016年に朝赤龍が十両から転落するまで、なんと 139年も続けて関取を輩出し続け、明治28年六月場所では、東西対抗形式だった幕内力士の東方18人中12人が高砂部屋力士が占めるなど、明治以降、角界屈指の名門部屋として知られ、横綱7人、大関8人を輩出した大相撲屈指の名門、高砂部屋が2月2日、東京・墨田区石原に移転した新たな部屋で部屋開きを行ないました。
高砂一門の八角理事長(元横綱北勝海)、OBの元横綱朝青龍らも出席。
墨田区本所から、1月の初場所後に引っ越し、この日の部屋開きで初稽古も行なった。
部屋は地上3階建てで、コロナ禍で隔離に困った教訓から大部屋は設けず、5~6人用の中部屋を5つ、関取用の個室を3つの構成。
師匠の8代目高砂親方(元関脇朝赤龍)は「感慨深い。横綱を育てるのが夢。伝統を守りながら新しい風を入れたい」と語り、八角理事長も「5代目となる“朝潮太郎”をつくってほしい」と、横綱、大関が名乗った部屋伝統の四股名に見合う力士育成を願ったそうです。
高砂部屋が輩出した横綱は
西ノ海嘉治郎(16代横綱・鹿児島)
初代小錦八十吉(17代横綱・千葉)
男女ノ川登三(34代横綱・茨城)
前田山英五郎(39代横綱・愛媛)
東富士欽壹(40代横綱・東京)
3代目朝潮太郎(46代横綱・鹿児島)
朝青龍明徳(68代横綱・モンゴル)
元前頭徳勝龍(千田川親方)の断髪式が行われ3時のヒロイン·かなでがハサミを入れました。実は顔がソックリというわけで新米親方も『妹』と認めるぐらいだって。相撲界のしきたりに従って土俵下でのハサミ入れとなりましたがかなでちゃん断髪式参加はもちろん両国国技館への来場も初めてだったそうで。
千田川親方には木瀬部屋の若手の成長を助けてあげてほしいですね。かなでちゃん、福田とゆめっちによろしく。
豊昇龍の横綱昇進は凄いです!
叔父さんと同じ雲竜型です!
これからも頑張って下さい♪
日本相撲協会は30日、東京・両国国技館で理事会と年寄総会を開いて親方衆の新たな職務を決め、音羽山親方(元横綱鶴竜)が2月1日付で審判部に配属されました。
審判部は土俵下で勝負審判を務めるほか、毎場所の番付や取組の編成など重要な任務を担います。
これにより、NHK①の実況中継の際の解説者席にて、非常にわかりやすい解説をしてくれていた音羽山親方の解説は、当分の間、聴くことができなくなります。少なくとも次回(2年後)の職務分掌(担当替え)までは、審判部の職務に専念されますね。
外国出身親方のなかでは圧倒的に日本語が上手で、取組の解説でも両力士のそれぞれの立場に立った分析をされていて、いつも感銘を受けてました。
その名解説を聴けなくなるのは残念ですが、審判長になる日が来たら、物言いの協議の説明の際に、ここ20年ぐらいの どの日本人審判長たちよりも上手な場内説明が期待できますね。
豐昇龍関横綱昇進おめでとう。良かった、良かった。これから10回でも20回でも優勝して欲しい。そして誰にも文句の言わせない名横綱になつて欲しい。地位が人を育てると云う、大きな気持ちで見守ってやりたい。
豊昇龍の雲龍型土俵入り
太刀持ちに幕内の平戸海(境川)、露払いに幕内の明生(立浪)を従え、1分35秒をかけて雲竜型を披露した。
偉大な叔父の採点は…。
大相撲の第74代横綱 豊昇龍(25=立浪)が31日、東京・明治神宮で推挙式と土俵入りを行った。約3500人の見物客の前で、力強い雲竜型を披露。叔父の元横綱朝青龍もモンゴルから駆けつけ、おいの勇姿を見守った。
元朝青龍は「何より、うれしい」と感激する一方で、新横綱の土俵入りについては「(自ら右腕を動かしながら)腕のあたりの返しが、なんか変だったなと。(豊昇龍は)子供のころに、馬から落ちて骨折していると思うんですよ。それが見ていて気になった。鍛えるべきなんですよね」とズバリ指摘。
豊昇龍を幼少期から知る大横綱は、わずかな〝異変〟を見逃さなかった。
SNSでも
『四股を踏んで競り上がった後の二度目、三度目の四股の後の掌は返してはいけない。それはただの反動動作だから返すのは間違い。雲竜型の基本の双葉山や三重の海の土俵入りを見直すがよい。
土俵入り指導はハワイ横綱の武蔵丸や元理事長の三重の海から直接伝授されるべきだった。朝青龍もその点を気付いていたのかも知れない。
折角、三重の海によって正された土俵入りが不正確になり極めて残念だ。』
豊昇龍が気魄一閃で正代と遠山の金さんは至誠一貫で貴乃花が不撓不屈で琴奨菊が万里一空……………やれやれいろんな四字熟語があるもんだ。
もう現在の横審は「横綱審議会」の看板を降ろして、「相撲好き経済人の無料相撲観覧同好会」とすべきだ
豊昇龍の横綱昇進まで
2場所合計で25勝、3場所合計でも33勝は、どちらも平成以降の横綱では最低の数字。今場所3敗を喫した時点で、審判部の空気は昇進見送り論が大半。副部長の粂川親方(元・琴稲妻)も「かなり厳しいというか無理すじ」と述べていた。
しかし、そこに必死で“空気”を入れ続けていたのが、八角理事長(元北勝海)や高田川審判部長(元安芸乃島)だ。
12日目の取組後で、豊昇龍がトップまで星1差まで迫ると、理事長は「ムードが出てきたでしょ」と発言。
翌日には九重審判部副部長(元千代大海)が「千秋楽次第ではいろんな話が出る」と述べた。
事態が一気に動いたのは、千秋楽の午後に行なわれた「審判部会」だった。
この時も審判部員の中では「昇進は見送るべき」という意見が多くを占めていた。
が、それを突き返したのが高田川審判部長。
「負けた相撲も前に出ている」と偏った評価をして「優勝したら横綱昇進が動き出す」ことを、「審判部長の責任で」判断したという。
こうした審判部の意向は当然、千秋楽の土俵に上がる前の豊昇龍にも伝わっていたであろう。
本割、巴戦での奮起に繋がったのは想像に難くない。
巴戦で完勝した豊昇龍に高田川審判部長は「負けた相撲も出合い頭でたまたま負けた。(巴戦の)相撲を見ると文句のつけるところはない」と絶賛。
横綱昇進を諮る臨時理事会の招集を要請した
まずは春場所ですね。
成績を残せば良かったね、となるし、
そうでなければやっぱりね、となる。
そういう事ですよね。