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力士・元力士のテレビ出演情報 力道山 来週の金曜日の夜 「甦る力道山」 6月23日(金曜日)22時~ NHK① アナザーストーリーズ選 「戦後最大のヒーロー 力道山 知られざる真実」 戦後日本の人々に勇気と力を与えたプロレスラー力道山。 テレビ時代の寵児、柔道日本一の男との決戦、胸に秘めたもう一つの祖国…。知られざる実像に国内外の新証言で迫る。 1954年2月19日、日本初の本格的なプロレスの国際試合が行われた。アメリカから来た2m近い大男に挑む力道山の姿が街頭テレビに映し出され人々は熱狂。テレビというニューメディアとタッグを組み一躍時代の寵(ちょう)児となった。力士からプロレスへの転向、柔道日本一の木村政彦との決戦と意外な結末、胸に秘めたもう一つの祖国…。時代と格闘した男・力道山を巡る新たな証言を日本の内外に求めその知られざる実像に迫る
温故知新・大相撲ダイアリー6月12日 1914大正3年の6月12日 第19代横綱の常陸山谷右工門が5月場所をもって現役引退、年寄・出羽ノ海を襲名し、引退直後の6月12日から四日間にわたって 旧・両国国技館で引退相撲を行ないました。 「引退相撲」自体、角界には前例がなく、この常陸山引退相撲が初めてでした。 あまりの人気の高さに引退相撲で最後の勇姿を見たいという観覧希望のファンの数が尋常ではなく、今よりもずっと大きかった “大鉄傘”旧両國國技館(収容人数13000人)でも 1度では入りきらなかった為に4日間の興行としたのだそうです。 現役時代の取り口は、相手の得意とするぶつかり・突き・押し・絞りあげ・おっつけなどの攻めをすべて受けてから組み止めて力勝ちする「横綱相撲」で、常陸山以降の横綱に対して “模範的な取り口”として今なお要求され続ける風潮が残り、相撲評論家の能見正比古は「その後、何人の横綱がこの(常陸山の)横綱相撲を要求されて犠牲となったことか」と嘆く文章をしばしば寄稿していた。 「歴代横綱では最後の幕内勝率9割超え」という安定感もさることながら、引退後の角界での活躍により大相撲を「国技」に押し上げ、その品格・力量から「角聖」とまで呼ばれました。 常陸山の人気の高さは今となっては想像できないほどで、後の双葉山・栃若・プリンス貴ノ花・千代の富士・若貴兄弟らも ある意味では足元に及ばなかったようで、引退相撲から八年後、関節炎からの敗血症により48歳の若さで急逝した際には、史上初の協会葬として行なわれ、その葬列が、東北線や東海道線など北から東から西からの電車に乗って駆けつけた相撲ファンが溢れ、上野駅から両国橋まで途切れることなく続いたという。 引退相撲における常陸山の土俵入りでは、盟友の二代梅ヶ谷藤太郎が露払いを務め、常陸山のあとの角界を背負っていくだろう強豪太刀山峰右衛門が太刀持ちを務めた。 愛弟子である栃木山・大錦・常ノ花の三横綱は、いずれも師匠の影響だとして土俵入りの際に太刀持ちを左に立たせていたが、常陸山の引退相撲における横綱土俵入りの写真によると太刀持ちを勤めた太刀山峯右エ門は(向かって)右に いました。 現在においても太刀持ちは横綱の向かって左にて蹲踞の姿勢をしていますね。
温故知新・大相撲ダイアリー6月11日 1791寛政3年、6月11日 江戸城吹上御庭に於いて、第11代将軍徳川家斉の上覧相撲が催され、結び三番の殿(しんがり)に 大関の谷風梶之助と小野川喜三郎が土俵に上がりました。 この一番に勝った谷風が将軍家から弓を賜り、この弓を手に 敬い捧げて四方に弓を振り回し舞って見せたのが、現代の弓取り式の始まりとされてます。 当時の相撲界は、谷風梶之助と小野川喜三郎が覇を競い合い、強豪力士の雷電為右衛門も登場し活況を呈していました。そうした折りに、幕府の最高権力者である将軍が相撲を観戦し、成功を収めたことは、相撲界にとって大きな出来事でした。将軍が観戦するに足る格式を相撲が持っていることが公に認められたからです。この上覧相撲の評判により、相撲の人気はいっそう高まりました。ましてや京都相撲や大坂相撲に比べて人気が劣っていた江戸の相撲が、この家斉上覧を機に一気に人気が増して連日満員御礼となり、その評判を聞きつけた京都相撲や大坂相撲の力士たちも一人また一人と江戸の相撲に参入するようになってきたそうです。 将軍の前で相撲を取る「上覧相撲」や天皇の御前で相撲を取る「天覧相撲」は、そもそも本場所とは別に、将軍や天皇の指定した場所へ力士一行が赴いて御前で相撲大会を披露するものでした。 実力者十数名を東西に分けて「幕内」として番付に記し、出番を待つ力士たちを横断幕で区切り、将軍を拝顔できるよう横断幕の内側で待機することを許された。これが「幕内」の語源のようです。 信長上覧相撲から、それまでの人垣ではなく円形の「土俵」なるものが登場してから二百年余りで少しずつ様々なルールが固まってきた大相撲。 初めて昭和天皇が蔵前国技館へ行幸されての天覧相撲となったのは大相撲観戦をされたのは1955年昭和30年5月場所十日目でした。 最初は、正面の座敷席に特別貴賓席を設けて御観戦戴いたそうですが、後に、警備上の関係で現在のような二階正面の最前列に貴賓席を用意しています。
石浦が引退して、間垣の年寄株の 取得の経緯は解らないですが ただ、思うのは 首のあたりを痛めて、ずっと休場していて。 本人は怪我が治ったら下位に番付が落ちても、照ノ富士や他の宇良や友風のように頑張って番付を上げて 十両、幕内に戻りたかったと思います それができなかった程の怪我だったんだと思います 首?頸椎?などを痛めたら復帰するのは無理だったのでしょうね 石浦は、もう一度 土俵に戻りたかったでしょう 無念だったと思います 私が石浦の引退した事で思うのは、 それだけです 親方になって、自分のような思いをさせないように弟弟子に指導して欲しいです
照ノ富士が目指すもの 復活優勝した表彰式で本人は「2ケタ(10回)優勝が目標だから」とニコリともせずにコメントしていたが、昨年11月に誕生した長男・照務甚(てむじん)くんとの記念撮影になると満面の笑みを見せていた。 ただ、すでに両膝は限界。特注のサポーターによる補助がなければ、相撲はおろか歩くこともままならない。また持病の糖尿病はいつ悪化してもおかしくない状況だ。ではなぜ、相撲をとり続けるのか。 そこには一人横綱に対する責任感に加え、もう一つ、同じモンゴル出身の宮城野親方(元横綱白鵬)との因縁がある。 忌まわしい暴行事件…… 2017年10月、貴乃花親方が相撲協会を退職するきっかけになった「日馬富士による貴ノ若暴行事件」だ。 当時、白鵬と日馬富士を頂点にした「モンゴル派」に、玉鷲や今場所前に突然引退した逸ノ城らは常に白鵬派とは距離を置いていた。そして、照ノ富士もその一人だった。 この時、鳥取巡業を控えた宴席で白鵬が説教中、日馬富士が貴ノ岩に暴行したことが明るみに出たが、 そこで「自分たちは思っていることがあっても言えないので。壁があるので」と言い放った照ノ富士が日馬富士に頬を叩かれた事実も発覚している。 この騒動のあと、照ノ富士と宮城野親方(元白鵬)が和解したとの話は一切聞こえてこない。 宮城野親方が自らスカウトした2年連続「高校横綱」に輝いた落合哲也は、史上最速の3場所で新入幕が決定的で、白鵬にちなんだ「伯桜鵬」(はくおうほう)に改名する。 憎き白鵬の一番弟子をなぎ倒したい照ノ富士の闘志は、燃え上がるばかりなのだ。 (アサ芸 小田龍司)
今日の11時から 両国国技館で元横綱鶴竜の引退断髪式披露大相撲が行なわれます。(午後4時まで) 明日(6月4日)は、同じく両国国技館で元関脇勢の春日山親方の引退・年寄春日山襲名披露大相撲が行なわれます。 各地に大きな被害をもたらせた台風2号も去って、来場される方々も足を運びやすい天気になりました。 私の友人(相撲観戦仲間のひとり)は、4日に行なわれる勢関の引退相撲を観覧に行くそうです。 私は8年ほど前の2014年10月に、元大関琴欧洲関の引退相撲に行ったことがありますが、普段の本場所とは全く趣の異なる和やかな雰囲気でした。
少しコメントが遅れましたが ウクライナ出身の獅司が新十両です! 軍事侵攻に苦しんでいる地元の皆さんの 新たなヒーロー参上です! 大鵬さんのお父さんの地元 (王鵬の曽祖父の地元でもある) ボクシングが強くて有名だが レスリングも強い格闘技の盛んな国 これからも頑張って下さい♪
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力士・元力士のテレビ出演情報
力道山
来週の金曜日の夜
「甦る力道山」
6月23日(金曜日)22時~
NHK①
アナザーストーリーズ選
「戦後最大のヒーロー 力道山 知られざる真実」
戦後日本の人々に勇気と力を与えたプロレスラー力道山。
テレビ時代の寵児、柔道日本一の男との決戦、胸に秘めたもう一つの祖国…。知られざる実像に国内外の新証言で迫る。
1954年2月19日、日本初の本格的なプロレスの国際試合が行われた。アメリカから来た2m近い大男に挑む力道山の姿が街頭テレビに映し出され人々は熱狂。テレビというニューメディアとタッグを組み一躍時代の寵(ちょう)児となった。力士からプロレスへの転向、柔道日本一の木村政彦との決戦と意外な結末、胸に秘めたもう一つの祖国…。時代と格闘した男・力道山を巡る新たな証言を日本の内外に求めその知られざる実像に迫る
やっぱり次の大関→横綱は豊昇龍かな。
土俵態度は好きではないが、闘志とかハングリー精神とかが伝わってくるしね。
調子に乗らない事だけを願うばかりだ。
やっぱり場所終わるとコメントも少なくなるね。
一時ここも読めなくて閉鎖と思ったよ。
楽しみがなくなったと思いビックリしたが今日は読める。ほっ!
北の富士さん情報もないからずーと心配してる!
温故知新・大相撲ダイアリー6月12日
1914大正3年の6月12日
第19代横綱の常陸山谷右工門が5月場所をもって現役引退、年寄・出羽ノ海を襲名し、引退直後の6月12日から四日間にわたって 旧・両国国技館で引退相撲を行ないました。
「引退相撲」自体、角界には前例がなく、この常陸山引退相撲が初めてでした。
あまりの人気の高さに引退相撲で最後の勇姿を見たいという観覧希望のファンの数が尋常ではなく、今よりもずっと大きかった “大鉄傘”旧両國國技館(収容人数13000人)でも 1度では入りきらなかった為に4日間の興行としたのだそうです。
現役時代の取り口は、相手の得意とするぶつかり・突き・押し・絞りあげ・おっつけなどの攻めをすべて受けてから組み止めて力勝ちする「横綱相撲」で、常陸山以降の横綱に対して “模範的な取り口”として今なお要求され続ける風潮が残り、相撲評論家の能見正比古は「その後、何人の横綱がこの(常陸山の)横綱相撲を要求されて犠牲となったことか」と嘆く文章をしばしば寄稿していた。
「歴代横綱では最後の幕内勝率9割超え」という安定感もさることながら、引退後の角界での活躍により大相撲を「国技」に押し上げ、その品格・力量から「角聖」とまで呼ばれました。
常陸山の人気の高さは今となっては想像できないほどで、後の双葉山・栃若・プリンス貴ノ花・千代の富士・若貴兄弟らも ある意味では足元に及ばなかったようで、引退相撲から八年後、関節炎からの敗血症により48歳の若さで急逝した際には、史上初の協会葬として行なわれ、その葬列が、東北線や東海道線など北から東から西からの電車に乗って駆けつけた相撲ファンが溢れ、上野駅から両国橋まで途切れることなく続いたという。
引退相撲における常陸山の土俵入りでは、盟友の二代梅ヶ谷藤太郎が露払いを務め、常陸山のあとの角界を背負っていくだろう強豪太刀山峰右衛門が太刀持ちを務めた。
愛弟子である栃木山・大錦・常ノ花の三横綱は、いずれも師匠の影響だとして土俵入りの際に太刀持ちを左に立たせていたが、常陸山の引退相撲における横綱土俵入りの写真によると太刀持ちを勤めた太刀山峯右エ門は(向かって)右に いました。
現在においても太刀持ちは横綱の向かって左にて蹲踞の姿勢をしていますね。
温故知新・大相撲ダイアリー6月11日
1791寛政3年、6月11日
江戸城吹上御庭に於いて、第11代将軍徳川家斉の上覧相撲が催され、結び三番の殿(しんがり)に 大関の谷風梶之助と小野川喜三郎が土俵に上がりました。
この一番に勝った谷風が将軍家から弓を賜り、この弓を手に 敬い捧げて四方に弓を振り回し舞って見せたのが、現代の弓取り式の始まりとされてます。
当時の相撲界は、谷風梶之助と小野川喜三郎が覇を競い合い、強豪力士の雷電為右衛門も登場し活況を呈していました。そうした折りに、幕府の最高権力者である将軍が相撲を観戦し、成功を収めたことは、相撲界にとって大きな出来事でした。将軍が観戦するに足る格式を相撲が持っていることが公に認められたからです。この上覧相撲の評判により、相撲の人気はいっそう高まりました。ましてや京都相撲や大坂相撲に比べて人気が劣っていた江戸の相撲が、この家斉上覧を機に一気に人気が増して連日満員御礼となり、その評判を聞きつけた京都相撲や大坂相撲の力士たちも一人また一人と江戸の相撲に参入するようになってきたそうです。
将軍の前で相撲を取る「上覧相撲」や天皇の御前で相撲を取る「天覧相撲」は、そもそも本場所とは別に、将軍や天皇の指定した場所へ力士一行が赴いて御前で相撲大会を披露するものでした。
実力者十数名を東西に分けて「幕内」として番付に記し、出番を待つ力士たちを横断幕で区切り、将軍を拝顔できるよう横断幕の内側で待機することを許された。これが「幕内」の語源のようです。
信長上覧相撲から、それまでの人垣ではなく円形の「土俵」なるものが登場してから二百年余りで少しずつ様々なルールが固まってきた大相撲。
初めて昭和天皇が蔵前国技館へ行幸されての天覧相撲となったのは大相撲観戦をされたのは1955年昭和30年5月場所十日目でした。
最初は、正面の座敷席に特別貴賓席を設けて御観戦戴いたそうですが、後に、警備上の関係で現在のような二階正面の最前列に貴賓席を用意しています。
石浦が引退して、間垣の年寄株の
取得の経緯は解らないですが
ただ、思うのは
首のあたりを痛めて、ずっと休場していて。
本人は怪我が治ったら下位に番付が落ちても、照ノ富士や他の宇良や友風のように頑張って番付を上げて
十両、幕内に戻りたかったと思います
それができなかった程の怪我だったんだと思います
首?頸椎?などを痛めたら復帰するのは無理だったのでしょうね
石浦は、もう一度
土俵に戻りたかったでしょう
無念だったと思います
私が石浦の引退した事で思うのは、
それだけです
親方になって、自分のような思いをさせないように弟弟子に指導して欲しいです
石浦関の話違うよな!
想像で書いてはダメだよ
照ノ富士が目指すもの
復活優勝した表彰式で本人は「2ケタ(10回)優勝が目標だから」とニコリともせずにコメントしていたが、昨年11月に誕生した長男・照務甚(てむじん)くんとの記念撮影になると満面の笑みを見せていた。
ただ、すでに両膝は限界。特注のサポーターによる補助がなければ、相撲はおろか歩くこともままならない。また持病の糖尿病はいつ悪化してもおかしくない状況だ。ではなぜ、相撲をとり続けるのか。
そこには一人横綱に対する責任感に加え、もう一つ、同じモンゴル出身の宮城野親方(元横綱白鵬)との因縁がある。
忌まわしい暴行事件……
2017年10月、貴乃花親方が相撲協会を退職するきっかけになった「日馬富士による貴ノ若暴行事件」だ。
当時、白鵬と日馬富士を頂点にした「モンゴル派」に、玉鷲や今場所前に突然引退した逸ノ城らは常に白鵬派とは距離を置いていた。そして、照ノ富士もその一人だった。
この時、鳥取巡業を控えた宴席で白鵬が説教中、日馬富士が貴ノ岩に暴行したことが明るみに出たが、
そこで「自分たちは思っていることがあっても言えないので。壁があるので」と言い放った照ノ富士が日馬富士に頬を叩かれた事実も発覚している。
この騒動のあと、照ノ富士と宮城野親方(元白鵬)が和解したとの話は一切聞こえてこない。
宮城野親方が自らスカウトした2年連続「高校横綱」に輝いた落合哲也は、史上最速の3場所で新入幕が決定的で、白鵬にちなんだ「伯桜鵬」(はくおうほう)に改名する。
憎き白鵬の一番弟子をなぎ倒したい照ノ富士の闘志は、燃え上がるばかりなのだ。
(アサ芸 小田龍司)
今日の11時から
両国国技館で元横綱鶴竜の引退断髪式披露大相撲が行なわれます。(午後4時まで)
明日(6月4日)は、同じく両国国技館で元関脇勢の春日山親方の引退・年寄春日山襲名披露大相撲が行なわれます。
各地に大きな被害をもたらせた台風2号も去って、来場される方々も足を運びやすい天気になりました。
私の友人(相撲観戦仲間のひとり)は、4日に行なわれる勢関の引退相撲を観覧に行くそうです。
私は8年ほど前の2014年10月に、元大関琴欧洲関の引退相撲に行ったことがありますが、普段の本場所とは全く趣の異なる和やかな雰囲気でした。
少しコメントが遅れましたが
ウクライナ出身の獅司が新十両です!
軍事侵攻に苦しんでいる地元の皆さんの
新たなヒーロー参上です!
大鵬さんのお父さんの地元
(王鵬の曽祖父の地元でもある)
ボクシングが強くて有名だが
レスリングも強い格闘技の盛んな国
これからも頑張って下さい♪