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増位山太志郎さん 増位山さんは学生時代に水泳でインターハイに出たことがあるアスリート系力士だった。 だが同じような経歴の貴ノ花満さんが、メキシコ五輪の星と言われた才能の持ち主だっただけに、水泳の話をしようと水を向けても「俺は彼とは比較になんないから」と乗ってこなかった。 大関になっても同部屋に大横綱の北の湖さんがいて、その陰に隠れる存在だった。 ただマイクを握ると一変。 増位山さんが現役を引退し記者クラブの担当親方だった頃、私が幹事役で相撲協会と記者クラブの懇親会を温泉街のホテルで開いた。 協会からは春日野理事長(元横綱・栃錦)ら重鎮が参加。 宴会が予想以上に盛り上がり、芸者さんの拘束時間が予定をオーバー。 ホテルの女将さんに「花代が予算を超えてます」と泣きつかれた。 理事長にそのことを相談すると「じゃあ、歌わせろ!!」と増位山さんにカラオケ指令が飛んだ。 それで増位山さんが大ヒット曲の「そんな女のひとりごと」を熱唱し始めると芸者さんたちは大喜び。 ホテル中から一般のお客さんも集まってきて、結局 花代はチャラになった。 増位山さんの現役時代にテイチクレコードに取材に行った時には「うちで一番印税が高い(石原)裕次郎さんと同じレコード1枚あたり5円」と教えてもらった。 理由を尋ねると「増位山さんを知らない人はいないから」と説明され、昭和の大スターと肩を並べるその存在感に驚いたことを覚えている。 (スポニチOB、東京相撲記者クラブ会友・龍川 裕)
元大関2代目増位山太志郎さんが亡くなりました。76歳でした。右四つからの内掛けが十八番でしたが画家として歌手としても活躍された異色の力士でしたね。場内アナウンスでは兵庫県姫路市でしたが実際は東京都の出身で実父で先代の大関増位山太志郎の出身がアナウンスされたんですね。持ち歌は『そんな夕子にほれました』『そんな女のひとりごと』『そんなナイトパブ』『男の背中』等でしたね。定年退職後に『夢の花を咲かそう』で本格的歌手活動を始めたのですが……………最近テレビで見なくて心配してたのですが残念です。天国では現役時代の対戦相手の皆さまがお待ちしてますので彼らの前でその歌声を披露してあげてください。
幕内優勝力士が千秋楽のパレードで乗車するトヨタのセンチュリーSUVのオープンカーの継続使用に“待った”がかかった? 12日の愛知・豊田市内でのトヨタの株主総会で豊田章男会長が株主からの質疑応答に対応。その中で日本相撲協会を退職した白鵬翔さんをバックアップすることについて聞かれ、回答の流れの中でセンチュリーの提供について1度、引き取ることを示唆した。 なんと了見の狭い、というか、目の前しか見てないというか、会長の個人的な好き嫌いで会社のイメージの悪化など 構っちゃいないのか? ならば相撲協会は、日産自動車のGT-Rでもインフィニティでも好きなのを選んで大々的にアピールすればいい。また、国産車に限らず、オータニさんと繋がってるPORSCHEでもいいし、間もなくイギリスでの海外公演があるので、ロールスロイスにしてはどうでしょうか? フランスのブガッティがあれば、それでもいいのですが…… やはりロールスロイスがいいかな
そして、この初優勝の直後から、本来ならマスコミの取材攻めに遭って稽古どころではなくなるはずだった “時の人” 千代の富士をマスコミから守ったのは、誰あろう……二代九重親方(=北の富士さん)でした。 まだ口が重く、気のきいた返答ができなかった千代の富士に代わり、歴代の大相撲の親方では、春日野親方(=元栃錦)に匹敵する弁舌の軽やかさと話題の豊富さでスポーツ新聞の大相撲担当記者たちは こぞって九重部屋に通い詰め、毎日のように楽しい記事を書くことができたそうです。 あとで聞いた話では、親方自身が大関のころに 稽古よりも 銀座で酒飲んで楽しい時間を過ごす毎日で、歌もヒットしたのでテレビ番組出演が忙しくて、またそれが楽しくて大関の地位に長居してしまい横綱へはずいぶん遠回りした…… と言ってたそうです。 七月名古屋場所(7月13日初日)に向けて 約4週間あまり 「北の富士流」(村松視 著)から 北の富士さんの裏話をいくつかご紹介しますね
北の富士流 元千代の冨士(後の第三代目の九重親方)にインタビューしていた時のこと “関脇千代ノ富士、初優勝” 北の湖vs貴ノ花 満の番組視聴率記録 50.6%を上回る大相撲史上最高の52.1%(瞬間視聴率は65.3%)を記録した瞬間でした。 千代の富士が引退し三代目の九重親方となり、もう何年も経ってから当時の話を聞いたことがあります。 「初めての優勝パレード、国技館を出発する時もものすごい数の人で、へー、これが優勝なんだと思ったね。それよりもすごかったのが(九重)部屋に着く時だよ。 当時、江戸川区に部屋があってね、部屋の100mぐらい手前でオープンカーを降りて歩くんだけど、もう前に進めない。後で聞いたら1万人も部屋の周りに集まっていたっていうからね。100mを30分以上かけて人をかき分けながら歩いた。 親方(元横綱北の富士)が待っている部屋の前に到着した時には、羽織の紐がないんだよね、もぎ取られたみたいで……。 草履は踏まれるし、大銀杏も崩れるし……。 やっとのことで(九重)部屋に戻りましたが その夜、親方(二代目九重親方=北の富士) から『お前の人生、これから変わるぞ』と言われたのを覚えている」 優勝の報告をひと通りし終えて 部屋の座敷で一杯呑みながらでしたが、そんな話をしてくれました。 その答えはすぐに、わかりました。 翌日からマスコミの記者さんたちの部屋への取材が一気に10倍になったのです。 幸い、親方(元横綱北の富士)が記者さんたちの対応に長けていたので、自分たち力士に影響は少なかったのですが、カメラを回されての稽古に浮き足立つ力士もいましたね。 それとテレビや新聞雑誌の取材も増えてきましたが、そこも親方が稽古の時間を割いての取材は一切断ってくれてましたので本場所の成績に影響が出ることはなく、初優勝で大関昇進し3場所で横綱昇進 同じ年に、関脇、大関、横綱と3つの番付位置すべてで優勝したのは、大相撲史上初でした。 初優勝した時に(九重)親方が厳しく律してくれなかったら、タニマチさんの誘いを全部受けて 有頂天になって稽古そっちのけで飲み歩いて駄目になっていたでしょう。 つづく
訃報 元大関で歌手の増位山太志郎さん=本名・沢田昇(さわだ・のぼる)が6月15日午後2時38分に肝不全で亡くなったことが17日、関係者への取材で分かった。東京都出身。76歳 2度の幕内優勝など名大関として活躍した初代増位山大志郎の長男として生まれ、日大一高では水泳選手として活躍。卒業直前に力士を志願し、父の反対を押し切って父が師匠を務める三保ケ関部屋に入門した。67年初場所で初土俵、同部屋同期には北の湖がいた。70年春場所で新入幕。80年春場所で大関に昇進。初の「親子大関」で騒がれた。大関在位は7場所と短かったが、手を伸ばして相手の出足を止める独特の立ち合いや、柔軟な足腰を生かした右上手投げ、内掛けや外掛けなど多才な技を駆使して活躍した。 81年春場所で引退し年寄「小野川」を襲名、84年に三保ケ関部屋を継承した。また日本相撲協会の審判部副部長などを務めた。 土俵以外でも多芸多才ぶりを発揮し1972年に「いろは恋唄」で歌手デビュー。 1974年「そんな夕子にほれました」、77年「そんな女のひとりごと」などをヒットさせた。 1978年の第11回日本有線大賞では同曲で有線音楽賞とベストヒット賞を受賞。 また、画家としても父親(初代増位山)の血を引き継いで才能を発揮、二科展入選の常連でした。 2013年11年に日本相撲協会を定年退職。本格的に歌手活動を開始してました。
元大関貴景勝の湊川親方(28)が、元横綱白鵬翔さんの後任業務を担うことが決まった。日本相撲協会は16日、公式ホームページを更新して発表した。「職務分掌」のページで、この日昼過ぎまでは、白鵬さんの名前が、退職前まで名乗った名跡「宮城野」として残ったままで「広報部(記者クラブ)」の職務が表記されていた。それがこの日午後になって、白鵬さんの名前は職務分掌から消え、替わって湊川親方の職務として「広報部(記者クラブ)」と追記された。 記者クラブ担当の親方は、5月の夏場所までは白鵬さん1人だけだった。それ以前は白鵬さんと音羽山親方(元横綱鶴竜)の2人体制だったが、音羽山親方が審判部に職務変更となっていた。記者クラブ担当は、記者室で星取りなどを書き込む業務を担い、歴代の横綱や大関が務めることが多い。
石浦の親父さんが営んでる飲食店で、例の日馬富士・白鵬による貴ノ岩への暴行事件ならびに照ノ富士への長時間正座強要事件が起きた。協会の内部調査委員会による調査にも、詳しい証言をしなかった石浦氏に対して協会執行部はかなりの嫌悪感を持っていた。あの事件が原因で貴乃花を追い出す騒動となり世間から非難轟々だった。その執行部のメンバーが今も変わらず残ってるので、石浦への扱いは冷たいものになるよね。
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増位山太志郎さん
増位山さんは学生時代に水泳でインターハイに出たことがあるアスリート系力士だった。
だが同じような経歴の貴ノ花満さんが、メキシコ五輪の星と言われた才能の持ち主だっただけに、水泳の話をしようと水を向けても「俺は彼とは比較になんないから」と乗ってこなかった。
大関になっても同部屋に大横綱の北の湖さんがいて、その陰に隠れる存在だった。
ただマイクを握ると一変。
増位山さんが現役を引退し記者クラブの担当親方だった頃、私が幹事役で相撲協会と記者クラブの懇親会を温泉街のホテルで開いた。
協会からは春日野理事長(元横綱・栃錦)ら重鎮が参加。
宴会が予想以上に盛り上がり、芸者さんの拘束時間が予定をオーバー。
ホテルの女将さんに「花代が予算を超えてます」と泣きつかれた。
理事長にそのことを相談すると「じゃあ、歌わせろ!!」と増位山さんにカラオケ指令が飛んだ。
それで増位山さんが大ヒット曲の「そんな女のひとりごと」を熱唱し始めると芸者さんたちは大喜び。
ホテル中から一般のお客さんも集まってきて、結局 花代はチャラになった。
増位山さんの現役時代にテイチクレコードに取材に行った時には「うちで一番印税が高い(石原)裕次郎さんと同じレコード1枚あたり5円」と教えてもらった。
理由を尋ねると「増位山さんを知らない人はいないから」と説明され、昭和の大スターと肩を並べるその存在感に驚いたことを覚えている。
(スポニチOB、東京相撲記者クラブ会友・龍川 裕)
元大関2代目増位山太志郎さんが亡くなりました。76歳でした。右四つからの内掛けが十八番でしたが画家として歌手としても活躍された異色の力士でしたね。場内アナウンスでは兵庫県姫路市でしたが実際は東京都の出身で実父で先代の大関増位山太志郎の出身がアナウンスされたんですね。持ち歌は『そんな夕子にほれました』『そんな女のひとりごと』『そんなナイトパブ』『男の背中』等でしたね。定年退職後に『夢の花を咲かそう』で本格的歌手活動を始めたのですが……………最近テレビで見なくて心配してたのですが残念です。天国では現役時代の対戦相手の皆さまがお待ちしてますので彼らの前でその歌声を披露してあげてください。
幕内優勝力士が千秋楽のパレードで乗車するトヨタのセンチュリーSUVのオープンカーの継続使用に“待った”がかかった?
12日の愛知・豊田市内でのトヨタの株主総会で豊田章男会長が株主からの質疑応答に対応。その中で日本相撲協会を退職した白鵬翔さんをバックアップすることについて聞かれ、回答の流れの中でセンチュリーの提供について1度、引き取ることを示唆した。
なんと了見の狭い、というか、目の前しか見てないというか、会長の個人的な好き嫌いで会社のイメージの悪化など 構っちゃいないのか?
ならば相撲協会は、日産自動車のGT-Rでもインフィニティでも好きなのを選んで大々的にアピールすればいい。また、国産車に限らず、オータニさんと繋がってるPORSCHEでもいいし、間もなくイギリスでの海外公演があるので、ロールスロイスにしてはどうでしょうか?
フランスのブガッティがあれば、それでもいいのですが……
やはりロールスロイスがいいかな
そして、この初優勝の直後から、本来ならマスコミの取材攻めに遭って稽古どころではなくなるはずだった “時の人” 千代の富士をマスコミから守ったのは、誰あろう……二代九重親方(=北の富士さん)でした。
まだ口が重く、気のきいた返答ができなかった千代の富士に代わり、歴代の大相撲の親方では、春日野親方(=元栃錦)に匹敵する弁舌の軽やかさと話題の豊富さでスポーツ新聞の大相撲担当記者たちは こぞって九重部屋に通い詰め、毎日のように楽しい記事を書くことができたそうです。
あとで聞いた話では、親方自身が大関のころに 稽古よりも 銀座で酒飲んで楽しい時間を過ごす毎日で、歌もヒットしたのでテレビ番組出演が忙しくて、またそれが楽しくて大関の地位に長居してしまい横綱へはずいぶん遠回りした……
と言ってたそうです。
七月名古屋場所(7月13日初日)に向けて 約4週間あまり
「北の富士流」(村松視 著)から
北の富士さんの裏話をいくつかご紹介しますね
北の富士流
元千代の冨士(後の第三代目の九重親方)にインタビューしていた時のこと
“関脇千代ノ富士、初優勝”
北の湖vs貴ノ花 満の番組視聴率記録 50.6%を上回る大相撲史上最高の52.1%(瞬間視聴率は65.3%)を記録した瞬間でした。
千代の富士が引退し三代目の九重親方となり、もう何年も経ってから当時の話を聞いたことがあります。 「初めての優勝パレード、国技館を出発する時もものすごい数の人で、へー、これが優勝なんだと思ったね。それよりもすごかったのが(九重)部屋に着く時だよ。
当時、江戸川区に部屋があってね、部屋の100mぐらい手前でオープンカーを降りて歩くんだけど、もう前に進めない。後で聞いたら1万人も部屋の周りに集まっていたっていうからね。100mを30分以上かけて人をかき分けながら歩いた。
親方(元横綱北の富士)が待っている部屋の前に到着した時には、羽織の紐がないんだよね、もぎ取られたみたいで……。
草履は踏まれるし、大銀杏も崩れるし……。
やっとのことで(九重)部屋に戻りましたが その夜、親方(二代目九重親方=北の富士) から『お前の人生、これから変わるぞ』と言われたのを覚えている」
優勝の報告をひと通りし終えて 部屋の座敷で一杯呑みながらでしたが、そんな話をしてくれました。
その答えはすぐに、わかりました。
翌日からマスコミの記者さんたちの部屋への取材が一気に10倍になったのです。
幸い、親方(元横綱北の富士)が記者さんたちの対応に長けていたので、自分たち力士に影響は少なかったのですが、カメラを回されての稽古に浮き足立つ力士もいましたね。
それとテレビや新聞雑誌の取材も増えてきましたが、そこも親方が稽古の時間を割いての取材は一切断ってくれてましたので本場所の成績に影響が出ることはなく、初優勝で大関昇進し3場所で横綱昇進
同じ年に、関脇、大関、横綱と3つの番付位置すべてで優勝したのは、大相撲史上初でした。
初優勝した時に(九重)親方が厳しく律してくれなかったら、タニマチさんの誘いを全部受けて 有頂天になって稽古そっちのけで飲み歩いて駄目になっていたでしょう。
つづく
訃報
元大関で歌手の増位山太志郎さん=本名・沢田昇(さわだ・のぼる)が6月15日午後2時38分に肝不全で亡くなったことが17日、関係者への取材で分かった。東京都出身。76歳
2度の幕内優勝など名大関として活躍した初代増位山大志郎の長男として生まれ、日大一高では水泳選手として活躍。卒業直前に力士を志願し、父の反対を押し切って父が師匠を務める三保ケ関部屋に入門した。67年初場所で初土俵、同部屋同期には北の湖がいた。70年春場所で新入幕。80年春場所で大関に昇進。初の「親子大関」で騒がれた。大関在位は7場所と短かったが、手を伸ばして相手の出足を止める独特の立ち合いや、柔軟な足腰を生かした右上手投げ、内掛けや外掛けなど多才な技を駆使して活躍した。
81年春場所で引退し年寄「小野川」を襲名、84年に三保ケ関部屋を継承した。また日本相撲協会の審判部副部長などを務めた。
土俵以外でも多芸多才ぶりを発揮し1972年に「いろは恋唄」で歌手デビュー。
1974年「そんな夕子にほれました」、77年「そんな女のひとりごと」などをヒットさせた。
1978年の第11回日本有線大賞では同曲で有線音楽賞とベストヒット賞を受賞。
また、画家としても父親(初代増位山)の血を引き継いで才能を発揮、二科展入選の常連でした。
2013年11年に日本相撲協会を定年退職。本格的に歌手活動を開始してました。
元大関増位山で元三保ヶ関親方の沢田昇氏が亡くなりました。
76歳でした。
史上初の親子大関で歌手としても活躍し、数々のヒット曲を生み出しました。
元大関貴景勝の湊川親方(28)が、元横綱白鵬翔さんの後任業務を担うことが決まった。日本相撲協会は16日、公式ホームページを更新して発表した。「職務分掌」のページで、この日昼過ぎまでは、白鵬さんの名前が、退職前まで名乗った名跡「宮城野」として残ったままで「広報部(記者クラブ)」の職務が表記されていた。それがこの日午後になって、白鵬さんの名前は職務分掌から消え、替わって湊川親方の職務として「広報部(記者クラブ)」と追記された。
記者クラブ担当の親方は、5月の夏場所までは白鵬さん1人だけだった。それ以前は白鵬さんと音羽山親方(元横綱鶴竜)の2人体制だったが、音羽山親方が審判部に職務変更となっていた。記者クラブ担当は、記者室で星取りなどを書き込む業務を担い、歴代の横綱や大関が務めることが多い。
トヨタ自動車の豊田章男会長が
日本相撲連盟の会長に就任しました!
今年の7月から七月場所の会場も
新しくなるので相乗効果になります?
これからも頑張って下さい♪
石浦の親父さんが営んでる飲食店で、例の日馬富士・白鵬による貴ノ岩への暴行事件ならびに照ノ富士への長時間正座強要事件が起きた。協会の内部調査委員会による調査にも、詳しい証言をしなかった石浦氏に対して協会執行部はかなりの嫌悪感を持っていた。あの事件が原因で貴乃花を追い出す騒動となり世間から非難轟々だった。その執行部のメンバーが今も変わらず残ってるので、石浦への扱いは冷たいものになるよね。