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翌日、巡業を切り上げ、大急ぎで東京に帰ってきました。幸い一命は取り留めたが、優勝から一転、師匠の自殺未遂は15歳の私にとってあまりにも大きい体験でした。 お茶屋(今の国技館サービス)問題が国会に取り上げられ、その責任をとり、割腹に及んだと兄弟子に聞かされましたが、腹を切るのは昔の武士みたいで格好いいなとも感じました。やはり考えることは子供です。 やがて傷も治り、元気になりましたが、その3年後の 1960昭和35年九州場所後に急死。千秋楽の夜、大好物のふぐ鍋を食べ、豪快に酒を飲んで大いにご機嫌だったのですが、朝起きたら亡くなっていたのです。 なかなか体が大きくならない私に「俺も小さかったが稽古をたくさんして強くなったのだから、おまえも頑張れ」と励ましていただきました。それに花札まで教えていただきました。「花札と相撲は国技だ」。そんな冗談も言っていました。 晩年、栃木山の初代春日野親方と一杯やりながら2人で座布団を挟んで仲良く “コイコイ”をしていたのを思い出します。 私は18年間の現役中、3人の師匠に指導を受けました。3年間と短い期間でしたが、出羽海秀光親方を一番目の師匠にいただけたのは望外の喜びであり、名誉でありました。中でも安芸ノ海関が双葉山関の70連勝を阻止した折に発した「勝って騒がれるのではなく、負けて騒がれる力士になれ」の一言は現在の力士の中にも脈々と受け継がれています。どうしても出羽海時代の話になるととりとめがありません。私の運命はさらに激動の時代へと向かっていきます。 つづく
つづき、 うれしかったなー。私は「俺が入門したから優勝したのかな」と本気で思ったものです。それと副賞についた森永製菓の三色アイスクリームを丼に山盛りで2杯も食べたのは今でも鮮やかに覚えている。あの時ばかりは力士になって本当に良かったなーと思ったものです。 しかし、いいことばかりではありません。場所後すぐに地方巡業に出されました。現在は入門して半年間、相撲教習所に通うので楽なものです。15歳になったばかりの私にとって過酷な体験でした。関東巡業といって東京に近い村々をまわります。 戦後10年、まだ物資の不自由な時代でトラックの荷台に分乗し、各地を転々とします。忘れられません。 静岡県の千頭村に向かっている途中、ラジオを聞いていたら兄弟子が「親方が腹を切ったぞ」と叫んだ。 つづく
とにかく大所帯で若者の1人、2人脱走しても誰も気がつかないほどでした。師匠は出羽海秀光、元横綱常ノ花。優勝10回を誇る大横綱。相撲協会の理事長であり、名門中の名門出羽海一門の総帥でもあります。しかし部屋の実情は大変で、千代の山関は休場が続き、引退もささやかれていた。 出羽錦、羽島山、その他の関取衆もベテランばかり。新聞、雑誌に斜陽出羽海部屋と書かれ始めていた。子供の私には何の事やらさっぱり理解できなかったが、太宰治の小説から引用したようだ。そんな時に発奮したかどうかは分からないが、千代の山関が破竹の勢いで連戦連勝、15戦全勝を果たしたではありませんか。千代の山関、6度目、最後の優勝でした。 つづく
復刻配信・北の富士コラム特別寄稿4】「親方が腹を切ったぞ」兄弟子が叫んだ…地方巡業で起きた衝撃の出来事 師匠の自殺未遂は15歳の私にとってあまりにも大きい体験でした 特別寄稿~4~、2020年5月27日付 27日で4日目。相撲抜きで記事を書くのはけっこう難しいものですね。何しろ基礎ができていないのだからお許しを願いたい。 それでは3日目の続きです。当時の出羽海部屋は横綱千代の山を筆頭に出羽錦、大晃、巨漢の大起、やぐら投げの羽島山、けたぐりの名人出羽湊。まだいたと思うが、忘れてしまった。十両も5、6人いました。この他行司、呼び出し、床山、幕下以下の力士も合わせると優に100人は超えていたと思われます。 つづく
優勝の報告をひと通りし終えて 部屋の座敷で一杯呑みながらでしたが、そんな話をしてくれました。 その答えはすぐに、わかりました。 翌日からマスコミの記者さんたちの部屋への取材が一気に10倍になったのです。 幸い、親方(元横綱北の富士)が記者さんたちの対応に長けていたので、自分たち力士に影響は少なかったのですが、カメラを回されての稽古に浮き足立つ力士もいましたね。 それとテレビや新聞雑誌の取材も増えてきましたが、そこも親方が稽古の時間を割いての取材は一切断ってくれてましたので本場所の成績に影響が出ることはなく、初優勝で大関昇進し、3場所で横綱昇進 同じ年に、関脇、大関、横綱と3つの番付位置すべてで優勝したのは、大相撲史上初でした。 初優勝した時に(九重)親方が厳しく律してくれなかったら、タニマチさんの誘いを全部受けて 有頂天になって稽古そっちのけで飲み歩いて駄目になっていたでしょう。 あとで聞いた話では、親方自身が大関のころに 稽古よりも 銀座で酒飲んで楽しい時間を過ごす毎日で、歌もヒットしたのでテレビ番組出演が忙しくて、またそれが楽しくて大関の地位に長居してしまい横綱へはずいぶん遠回りした…… と言ってたそうです。
NHKを定年退職された藤井アナウンサーが振り返る北の冨士さん 元千代の冨士(後の第三代目の九重親方)にインタビューしていた時のこと “関脇千代ノ富士、初優勝” 北の湖vs貴ノ花 満の番組視聴率記録 50.6%を上回る大相撲史上最高の52.1%(瞬間視聴率は65.3%)を記録した瞬間でした。 千代の富士が引退して 三代目の九重親方となり、もう何年も経ってから当時の話を聞いたことがあります。 「初めての優勝パレード、国技館を出発する時もものすごい数の人で、へー、これが優勝なんだと思ったね。それよりもすごかったのが(九重)部屋に着く時だよ。当時、江戸川区に部屋があってね、部屋の100mぐらい手前でオープンカーを降りて歩くんだけど、もう前に進めない。後で聞いたら1万人も部屋の周りに集まっていたっていうからね。100mを30分以上かけて人をかき分けながら歩いた。 親方(元横綱北の富士)が待っている部屋の前に到着した時には、羽織の紐がないんだよね、もぎ取られたみたいで……。草履は踏まれるし、大銀杏も崩れるし……。 やっとのことで(九重)部屋に戻りましたが その夜、親方(二代目九重親方=北の富士) から『お前の人生、これから変わるぞ』と言われたのを覚えている
やっとタクシーに乗って、両国の出羽海部屋に着きました。あのころのタクシーはルノーだったと思います。生まれて初めてタクシーに乗れたのも、うれしいことでした。 「東京へ来てよかったなあ」と思いながら出羽海部屋の玄関に入った途端、楽しい夢が一気に吹っ飛んでしまいます。 「ごめん下さい」「ハーイ」と出てきたお相撲さんのでかいこと。当時、私は180センチ以上あって、田舎では自分より大きい人をあまり見たことはありません。ところがその若い力士は2メートル近くもあり、とにかくでかい。声もでかい。顔も大きくて怖い。それだけで「早く帰りたい。殺される」と思いました。 親方と千代の山関に会って、おじさんが国に帰る時、一緒に帰ろうと本当に思ったのです。さて、これから先どうなりますやら。4日目に続きます。今回は連載物になりそうです。お付き合い願います。 つづく
道中、母が持たせてくれたにぎり飯もどこかに転がっていってしまいました。翌朝、上野駅に到着。とにかく朝だったと思います。連れて来ていただいたおじさんは、もう何度も来ているようでしたが、どうやら出口を間違え、動物園口の方から出ました。 今乗ってきた汽車のホームにお相撲さんが1人いました。この人が迎えに来たお相撲さんだと考えていました。まるで夢を見ているような変な感じ。「ここが東京か」と思ったら急に北海道に帰りたくなりました。 ボーッとしながら坂道を歩き始めると、足を滑らし、ひっくり返りました。靴ではなく私は下駄を履いていたのです。 東京へ行ったら着物を着て、どうせ下駄を履くのだからと家を出る時からけでした。ご丁寧に滑り止めの金具を打ってくれていたのが悪く、アスファルトの道路で滑ってしまったのです。田舎の人は東京もまだ道は土と思っていたんですね。 転んだはずみでお土産に持ってきた小豆の一袋が破れ、赤い小豆がバラバラと一気に坂を転がっていく。私は呆然と見ているばかりでしたが、このあたりの土産屋のおじさんや通行人が一生懸命拾ってくれました。 あの当時、小豆は赤いダイヤと言われ、東京でも珍重されていたらしく、私をスカウトしてくれた千代の山関と出羽海親方、そして、おじさんがいつも泊まる旅館へのお土産として持たせてくれました。東京に行ったら気をつけろと言われていたから、親切は本当にうれしかったものです。 つづく
NHKアナウンサーで大相撲中継のエースとして活躍した藤井康生氏が、自身のYouTubeチャンネル「藤井康生のうっちゃり大相撲」で大関大の里(二所ノ関)の綱取りについて言及。大の里は3月の春場所で12勝3敗の成績で、3場所ぶり3度目の優勝を達成。5月の夏場所では自身初の綱取りに挑む。藤井氏は「(春場所では)彼が力を示したなという気はいたしました。綱取りの可能性も、巡業から次の5月場所に向かっての1か月少々の過ごし方が、大の里が満足がいくような稽古ができて体の調整が順調にできれば、私はもう7割方、横綱になれるのではないかなと。周りとの比較も含めて、優勝の可能性があるのではないかという気がします」と、ズバリ予想した。 その後に視聴者から寄せられた「11勝で優勝したらどうするか」とのコメントにも反応。藤井氏は「2場所連続優勝で横綱に昇進できなかったというのは、近年ではありませんので。だから優勝すれば上がると思います。11勝でも上がるんじゃないかなと思います、大袈裟に言えばね」と指摘。 その上で「11勝で優勝ということは(確率的に)ほぼ考えられないと思います。歴史上、まだ3回しかないはずですから。大丈夫だと思うんですけどね。まあ、圧倒的な強さで勝ったら、それでいいんじゃないですか」と好成績での綱取りに期待した。
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,736件 』
NHKサンデースポーツで
大相撲秘蔵映像特集を
放送するそうです!
このコメントが載る時には
既に手遅れだと思います?
これからも頑張って下さい♪
翌日、巡業を切り上げ、大急ぎで東京に帰ってきました。幸い一命は取り留めたが、優勝から一転、師匠の自殺未遂は15歳の私にとってあまりにも大きい体験でした。
お茶屋(今の国技館サービス)問題が国会に取り上げられ、その責任をとり、割腹に及んだと兄弟子に聞かされましたが、腹を切るのは昔の武士みたいで格好いいなとも感じました。やはり考えることは子供です。
やがて傷も治り、元気になりましたが、その3年後の 1960昭和35年九州場所後に急死。千秋楽の夜、大好物のふぐ鍋を食べ、豪快に酒を飲んで大いにご機嫌だったのですが、朝起きたら亡くなっていたのです。
なかなか体が大きくならない私に「俺も小さかったが稽古をたくさんして強くなったのだから、おまえも頑張れ」と励ましていただきました。それに花札まで教えていただきました。「花札と相撲は国技だ」。そんな冗談も言っていました。
晩年、栃木山の初代春日野親方と一杯やりながら2人で座布団を挟んで仲良く “コイコイ”をしていたのを思い出します。
私は18年間の現役中、3人の師匠に指導を受けました。3年間と短い期間でしたが、出羽海秀光親方を一番目の師匠にいただけたのは望外の喜びであり、名誉でありました。中でも安芸ノ海関が双葉山関の70連勝を阻止した折に発した「勝って騒がれるのではなく、負けて騒がれる力士になれ」の一言は現在の力士の中にも脈々と受け継がれています。どうしても出羽海時代の話になるととりとめがありません。私の運命はさらに激動の時代へと向かっていきます。
つづく
つづき、
うれしかったなー。私は「俺が入門したから優勝したのかな」と本気で思ったものです。それと副賞についた森永製菓の三色アイスクリームを丼に山盛りで2杯も食べたのは今でも鮮やかに覚えている。あの時ばかりは力士になって本当に良かったなーと思ったものです。
しかし、いいことばかりではありません。場所後すぐに地方巡業に出されました。現在は入門して半年間、相撲教習所に通うので楽なものです。15歳になったばかりの私にとって過酷な体験でした。関東巡業といって東京に近い村々をまわります。
戦後10年、まだ物資の不自由な時代でトラックの荷台に分乗し、各地を転々とします。忘れられません。
静岡県の千頭村に向かっている途中、ラジオを聞いていたら兄弟子が「親方が腹を切ったぞ」と叫んだ。
つづく
とにかく大所帯で若者の1人、2人脱走しても誰も気がつかないほどでした。師匠は出羽海秀光、元横綱常ノ花。優勝10回を誇る大横綱。相撲協会の理事長であり、名門中の名門出羽海一門の総帥でもあります。しかし部屋の実情は大変で、千代の山関は休場が続き、引退もささやかれていた。
出羽錦、羽島山、その他の関取衆もベテランばかり。新聞、雑誌に斜陽出羽海部屋と書かれ始めていた。子供の私には何の事やらさっぱり理解できなかったが、太宰治の小説から引用したようだ。そんな時に発奮したかどうかは分からないが、千代の山関が破竹の勢いで連戦連勝、15戦全勝を果たしたではありませんか。千代の山関、6度目、最後の優勝でした。
つづく
復刻配信・北の富士コラム特別寄稿4】「親方が腹を切ったぞ」兄弟子が叫んだ…地方巡業で起きた衝撃の出来事 師匠の自殺未遂は15歳の私にとってあまりにも大きい体験でした
特別寄稿~4~、2020年5月27日付
27日で4日目。相撲抜きで記事を書くのはけっこう難しいものですね。何しろ基礎ができていないのだからお許しを願いたい。
それでは3日目の続きです。当時の出羽海部屋は横綱千代の山を筆頭に出羽錦、大晃、巨漢の大起、やぐら投げの羽島山、けたぐりの名人出羽湊。まだいたと思うが、忘れてしまった。十両も5、6人いました。この他行司、呼び出し、床山、幕下以下の力士も合わせると優に100人は超えていたと思われます。
つづく
優勝の報告をひと通りし終えて 部屋の座敷で一杯呑みながらでしたが、そんな話をしてくれました。
その答えはすぐに、わかりました。
翌日からマスコミの記者さんたちの部屋への取材が一気に10倍になったのです。
幸い、親方(元横綱北の富士)が記者さんたちの対応に長けていたので、自分たち力士に影響は少なかったのですが、カメラを回されての稽古に浮き足立つ力士もいましたね。
それとテレビや新聞雑誌の取材も増えてきましたが、そこも親方が稽古の時間を割いての取材は一切断ってくれてましたので本場所の成績に影響が出ることはなく、初優勝で大関昇進し、3場所で横綱昇進
同じ年に、関脇、大関、横綱と3つの番付位置すべてで優勝したのは、大相撲史上初でした。
初優勝した時に(九重)親方が厳しく律してくれなかったら、タニマチさんの誘いを全部受けて 有頂天になって稽古そっちのけで飲み歩いて駄目になっていたでしょう。
あとで聞いた話では、親方自身が大関のころに 稽古よりも 銀座で酒飲んで楽しい時間を過ごす毎日で、歌もヒットしたのでテレビ番組出演が忙しくて、またそれが楽しくて大関の地位に長居してしまい横綱へはずいぶん遠回りした……
と言ってたそうです。
NHKを定年退職された藤井アナウンサーが振り返る北の冨士さん
元千代の冨士(後の第三代目の九重親方)にインタビューしていた時のこと
“関脇千代ノ富士、初優勝”
北の湖vs貴ノ花 満の番組視聴率記録 50.6%を上回る大相撲史上最高の52.1%(瞬間視聴率は65.3%)を記録した瞬間でした。
千代の富士が引退して 三代目の九重親方となり、もう何年も経ってから当時の話を聞いたことがあります。
「初めての優勝パレード、国技館を出発する時もものすごい数の人で、へー、これが優勝なんだと思ったね。それよりもすごかったのが(九重)部屋に着く時だよ。当時、江戸川区に部屋があってね、部屋の100mぐらい手前でオープンカーを降りて歩くんだけど、もう前に進めない。後で聞いたら1万人も部屋の周りに集まっていたっていうからね。100mを30分以上かけて人をかき分けながら歩いた。
親方(元横綱北の富士)が待っている部屋の前に到着した時には、羽織の紐がないんだよね、もぎ取られたみたいで……。草履は踏まれるし、大銀杏も崩れるし……。
やっとのことで(九重)部屋に戻りましたが その夜、親方(二代目九重親方=北の富士) から『お前の人生、これから変わるぞ』と言われたのを覚えている
やっとタクシーに乗って、両国の出羽海部屋に着きました。あのころのタクシーはルノーだったと思います。生まれて初めてタクシーに乗れたのも、うれしいことでした。
「東京へ来てよかったなあ」と思いながら出羽海部屋の玄関に入った途端、楽しい夢が一気に吹っ飛んでしまいます。
「ごめん下さい」「ハーイ」と出てきたお相撲さんのでかいこと。当時、私は180センチ以上あって、田舎では自分より大きい人をあまり見たことはありません。ところがその若い力士は2メートル近くもあり、とにかくでかい。声もでかい。顔も大きくて怖い。それだけで「早く帰りたい。殺される」と思いました。
親方と千代の山関に会って、おじさんが国に帰る時、一緒に帰ろうと本当に思ったのです。さて、これから先どうなりますやら。4日目に続きます。今回は連載物になりそうです。お付き合い願います。
つづく
道中、母が持たせてくれたにぎり飯もどこかに転がっていってしまいました。翌朝、上野駅に到着。とにかく朝だったと思います。連れて来ていただいたおじさんは、もう何度も来ているようでしたが、どうやら出口を間違え、動物園口の方から出ました。
今乗ってきた汽車のホームにお相撲さんが1人いました。この人が迎えに来たお相撲さんだと考えていました。まるで夢を見ているような変な感じ。「ここが東京か」と思ったら急に北海道に帰りたくなりました。
ボーッとしながら坂道を歩き始めると、足を滑らし、ひっくり返りました。靴ではなく私は下駄を履いていたのです。
東京へ行ったら着物を着て、どうせ下駄を履くのだからと家を出る時からけでした。ご丁寧に滑り止めの金具を打ってくれていたのが悪く、アスファルトの道路で滑ってしまったのです。田舎の人は東京もまだ道は土と思っていたんですね。
転んだはずみでお土産に持ってきた小豆の一袋が破れ、赤い小豆がバラバラと一気に坂を転がっていく。私は呆然と見ているばかりでしたが、このあたりの土産屋のおじさんや通行人が一生懸命拾ってくれました。
あの当時、小豆は赤いダイヤと言われ、東京でも珍重されていたらしく、私をスカウトしてくれた千代の山関と出羽海親方、そして、おじさんがいつも泊まる旅館へのお土産として持たせてくれました。東京に行ったら気をつけろと言われていたから、親切は本当にうれしかったものです。
つづく
NHKアナウンサーで大相撲中継のエースとして活躍した藤井康生氏が、自身のYouTubeチャンネル「藤井康生のうっちゃり大相撲」で大関大の里(二所ノ関)の綱取りについて言及。大の里は3月の春場所で12勝3敗の成績で、3場所ぶり3度目の優勝を達成。5月の夏場所では自身初の綱取りに挑む。藤井氏は「(春場所では)彼が力を示したなという気はいたしました。綱取りの可能性も、巡業から次の5月場所に向かっての1か月少々の過ごし方が、大の里が満足がいくような稽古ができて体の調整が順調にできれば、私はもう7割方、横綱になれるのではないかなと。周りとの比較も含めて、優勝の可能性があるのではないかという気がします」と、ズバリ予想した。 その後に視聴者から寄せられた「11勝で優勝したらどうするか」とのコメントにも反応。藤井氏は「2場所連続優勝で横綱に昇進できなかったというのは、近年ではありませんので。だから優勝すれば上がると思います。11勝でも上がるんじゃないかなと思います、大袈裟に言えばね」と指摘。 その上で「11勝で優勝ということは(確率的に)ほぼ考えられないと思います。歴史上、まだ3回しかないはずですから。大丈夫だと思うんですけどね。まあ、圧倒的な強さで勝ったら、それでいいんじゃないですか」と好成績での綱取りに期待した。