TheNews(ザ・ニュース) > コメント部屋 > 大相撲のコメント部屋大相撲のコメント部屋 ※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。 ※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。 ※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。 ※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。
そして今場所 新横綱の豊昇龍ですが、初日に くせ者阿炎と、二日目には相撲巧者の若隆影との割が組まれました。 二人の大関は 大の里が初日に若隆影・二日目に霧島と 琴櫻は初日に若元春・二日目に豪ノ山と対戦します。 翔猿は初日に霧島と、二日目に阿炎と対戦。 高安は初日に隆ノ勝と、二日目に宇良戦が組まれました。 正代は幕内後半戦のスタート(5時前後)あたりで初日に尊富士・二日目に平戸海という小兵相手の序盤戦となるようです。
新横綱の初日 新横綱が初日に黒星を喰らった事例は 戦後では 8例 昭和30年1月 栃錦 相手 西5大昇(小手投げ) 栃錦の最終成績10勝5敗 昭和33年3月 若乃花(初代) 相手 東4信夫山(寄りきり) 若乃花の 最終成績12勝3敗 昭和36年11月 柏戸 相手 東1開隆山(上手投げ) 柏戸の 最終成績12勝3敗(準優勝) ※開隆山は殊勲賞 昭和39年3月 栃ノ海 相手 西5羽黒川(小手投げ) 栃ノ海の 最終成績10勝5敗 昭和40年3月 佐田の山 相手 東小結清國(下手投げ) 佐田の山の 最終成績12勝3敗(準優勝) ※清國は技能賞 昭和49年9月 北の湖 相手 東1金剛(寄り切り) 北の湖の 最終成績11勝4敗 ※金剛は殊勲賞 昭和53年7月 二代若乃花 相手 西2富士桜(押し出し) 若乃花の最終成績11勝4敗 ※富士桜は殊勲賞 平成7年1月 貴乃花 相手 西小結武双山(上手投げ) 貴乃花の最終成績13勝2敗(優勝) 果たして、豊昇龍は初日を無難に乗り切れるでしょうか?
今とは本場所興行もだいぶ違っていて、主な相違点を挙げると 個人優勝制度がなかったので東西対抗の団体戦形式で勝ったほうに優勝旗授与。 一番活躍した力士が優勝旗を受けとる役目を仰せつかる。 10日間興行ですが千秋楽は幕内力士は出場せず、十両力士が取り的(幕下や三段目の力士)相手に5人掛相撲(連続で5人と相撲を取る)など余興相撲で観客を楽しませていた。 検査役(今の勝負審判)は四本柱を背にして土俵の上の四隅に座り勝負判定をしていた。 が、テレビがないのだからビデオもない、、際どい相撲だと審議が長引いて「引き分け」「勝負預り」などとされていた。 仕切りに制限時間という考えがなかった時代で、両者の気が合うまで何度でも仕切り直ししていた。時には ひとつの取組で数時間もかかったこともありました。 懸賞幕や懸賞金というのがなく、熱烈応援するファンは贔屓力士が勝つと着ていた着物を土俵へ投げ、若手呼出さんらが回収し、後に着物を投げたファンが家に戻り現金を持ってきて投げた衣類と交換して帰ったという。 行司さんたちは、現在とは違って 行司部屋というのに属していて「木村庄之助を筆頭行司兼親方とする木村家」と「式守伊之助を筆頭行司兼親方とする式守家」に分かれていた。そもそも行司の祖とされる志賀家から脈々と伝統か受け継がれ江戸時代の頃は吉田司家と京都の五条家が非常に有力で横綱免許を与える権限まで持っていた。明治中頃までは木村家と式守家のほかにも行司の姓が存在していました。
今から100年前の1925年3月22日、NHKが日本で初めてのラジオ放送がスタートしました。 そして1926年12月25日から“昭和”が始まりました。 今年がちょうど「昭和100年」ということでテレビでもNHK・民放ともに「昭和100年」の特集やら民放の池上彰さんの番組でも昭和を振り返ってますし、民放のクイズ番組でも「昭和100年」をテーマにして貴重な映像とともに出題しています。 翻って、角界でも 日本相撲協会が財団法人の認可を受けて今年で100年。 今朝の読売新聞朝刊でも特集記事「国技館をはじめとする1世紀の本場所興行地の変遷を考察」を載せていますので、詳しくはそちらをお読みください。 ちょうど100年前の大相撲は、両国の寺院「回向院(えこういん)」の横にあった旧両國國技館で本場所興行が行なわれてました。 1909明治42年に開館した旧國技館により、それまでの回向院境内での、「屋根なし興行」=晴天10日間興行 から 天候の影響を受けない10日間興行となったのです。 それまでは、大雨ならまだしも、降ったりやんだりのハッキリしない天候では “今日の相撲は延期か?やるのか?”が回向院の相撲場まで行かないとわからないという状態でした。 そこで威力を発揮したのが櫓(やぐら)の上で叩いて今日の相撲を行なうことを街に知らせる「触れ太鼓」でした。 江戸時代から明治の終わり(明治42年)までそういう状態でした。 何故太鼓で知らせるか? テレビもラジオもなかったからですね。 遠方から両国へ足を運んできたファンはどうしていたか?……というと、はるばる両國へ来たのに中止?となると両國界隈に宿をとり1泊、2泊して雨が上がり本場所が開催されるのを待っていたそうです。 つづく
稀勢の里情けない! 問題おこした親方達には会見させて説明させるのが相撲ファンに対しての礼儀だろうが! 一般常識だよ。 それをしないのは協会も親方達もおかしいし、ファンをバカにしてる。 肝心な事はなにもせずにのうのうと巡業なんてやってる場合か。 まったくファンをバカにしてるわ!
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,643件 』
白鵬と稀勢の里の処分に差がありすぎる。飛猿も何故処分なし!!!
相撲協会は相撲ファンを馬鹿にしている。
たまり席の件も説明なし??
協会はダメだな。
暴走してるわ
三段目朝乃山が復帰初戦を白星で飾りました。7戦全勝目指そう。なお同じ高砂部屋の朝阪神は黒星スタート。
そして今場所
新横綱の豊昇龍ですが、初日に くせ者阿炎と、二日目には相撲巧者の若隆影との割が組まれました。
二人の大関は
大の里が初日に若隆影・二日目に霧島と
琴櫻は初日に若元春・二日目に豪ノ山と対戦します。
翔猿は初日に霧島と、二日目に阿炎と対戦。
高安は初日に隆ノ勝と、二日目に宇良戦が組まれました。
正代は幕内後半戦のスタート(5時前後)あたりで初日に尊富士・二日目に平戸海という小兵相手の序盤戦となるようです。
新横綱の初日
新横綱が初日に黒星を喰らった事例は
戦後では 8例
昭和30年1月 栃錦
相手 西5大昇(小手投げ)
栃錦の最終成績10勝5敗
昭和33年3月 若乃花(初代)
相手 東4信夫山(寄りきり)
若乃花の 最終成績12勝3敗
昭和36年11月 柏戸
相手 東1開隆山(上手投げ)
柏戸の 最終成績12勝3敗(準優勝)
※開隆山は殊勲賞
昭和39年3月 栃ノ海
相手 西5羽黒川(小手投げ)
栃ノ海の 最終成績10勝5敗
昭和40年3月 佐田の山
相手 東小結清國(下手投げ)
佐田の山の 最終成績12勝3敗(準優勝)
※清國は技能賞
昭和49年9月 北の湖
相手 東1金剛(寄り切り)
北の湖の 最終成績11勝4敗
※金剛は殊勲賞
昭和53年7月 二代若乃花
相手 西2富士桜(押し出し)
若乃花の最終成績11勝4敗
※富士桜は殊勲賞
平成7年1月 貴乃花
相手 西小結武双山(上手投げ)
貴乃花の最終成績13勝2敗(優勝)
果たして、豊昇龍は初日を無難に乗り切れるでしょうか?
今とは本場所興行もだいぶ違っていて、主な相違点を挙げると
個人優勝制度がなかったので東西対抗の団体戦形式で勝ったほうに優勝旗授与。
一番活躍した力士が優勝旗を受けとる役目を仰せつかる。
10日間興行ですが千秋楽は幕内力士は出場せず、十両力士が取り的(幕下や三段目の力士)相手に5人掛相撲(連続で5人と相撲を取る)など余興相撲で観客を楽しませていた。
検査役(今の勝負審判)は四本柱を背にして土俵の上の四隅に座り勝負判定をしていた。
が、テレビがないのだからビデオもない、、際どい相撲だと審議が長引いて「引き分け」「勝負預り」などとされていた。
仕切りに制限時間という考えがなかった時代で、両者の気が合うまで何度でも仕切り直ししていた。時には ひとつの取組で数時間もかかったこともありました。
懸賞幕や懸賞金というのがなく、熱烈応援するファンは贔屓力士が勝つと着ていた着物を土俵へ投げ、若手呼出さんらが回収し、後に着物を投げたファンが家に戻り現金を持ってきて投げた衣類と交換して帰ったという。
行司さんたちは、現在とは違って 行司部屋というのに属していて「木村庄之助を筆頭行司兼親方とする木村家」と「式守伊之助を筆頭行司兼親方とする式守家」に分かれていた。そもそも行司の祖とされる志賀家から脈々と伝統か受け継がれ江戸時代の頃は吉田司家と京都の五条家が非常に有力で横綱免許を与える権限まで持っていた。明治中頃までは木村家と式守家のほかにも行司の姓が存在していました。
今から100年前の1925年3月22日、NHKが日本で初めてのラジオ放送がスタートしました。
そして1926年12月25日から“昭和”が始まりました。
今年がちょうど「昭和100年」ということでテレビでもNHK・民放ともに「昭和100年」の特集やら民放の池上彰さんの番組でも昭和を振り返ってますし、民放のクイズ番組でも「昭和100年」をテーマにして貴重な映像とともに出題しています。
翻って、角界でも
日本相撲協会が財団法人の認可を受けて今年で100年。
今朝の読売新聞朝刊でも特集記事「国技館をはじめとする1世紀の本場所興行地の変遷を考察」を載せていますので、詳しくはそちらをお読みください。
ちょうど100年前の大相撲は、両国の寺院「回向院(えこういん)」の横にあった旧両國國技館で本場所興行が行なわれてました。
1909明治42年に開館した旧國技館により、それまでの回向院境内での、「屋根なし興行」=晴天10日間興行 から 天候の影響を受けない10日間興行となったのです。
それまでは、大雨ならまだしも、降ったりやんだりのハッキリしない天候では “今日の相撲は延期か?やるのか?”が回向院の相撲場まで行かないとわからないという状態でした。
そこで威力を発揮したのが櫓(やぐら)の上で叩いて今日の相撲を行なうことを街に知らせる「触れ太鼓」でした。
江戸時代から明治の終わり(明治42年)までそういう状態でした。
何故太鼓で知らせるか?
テレビもラジオもなかったからですね。
遠方から両国へ足を運んできたファンはどうしていたか?……というと、はるばる両國へ来たのに中止?となると両國界隈に宿をとり1泊、2泊して雨が上がり本場所が開催されるのを待っていたそうです。
つづく
二所ノ関一門がグランフロント大阪で連合稽古。都心部のど真ん中で稽古するのもオモロイな。
昨年の三月場所は尊富士の
新入幕優勝に驚きました!
今年は誰が優勝して
大阪府立体育会館を沸かすのか?
これからも頑張って下さい♪
稀勢の里情けない!
問題おこした親方達には会見させて説明させるのが相撲ファンに対しての礼儀だろうが!
一般常識だよ。
それをしないのは協会も親方達もおかしいし、ファンをバカにしてる。
肝心な事はなにもせずにのうのうと巡業なんてやってる場合か。
まったくファンをバカにしてるわ!