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温故知新 大相撲カレンダー 6月6日ー2 かくして、協会の期待に反して、年寄・春日野=6年前に現役を退いた元横綱栃木山が優勝してしまいました。 新聞紙上でも 「栃木山として まだまだやれるじゃないか!」との論評で、栃木山健在を世間に見せ付けたが、 協会からは、「年寄が勝って どうするんだ!? それより強い弟子を育てろ 」 と 散々に嫌味を言われる始末。 翌年は、選士権保持者(今で言うディフェンディングチャンピオン)として 嫌々参加し、決勝で、現役大関の玉錦に3敗して優勝を譲りました。 ・・・・小島貞二氏著の「大相撲人物史」から ところで、当時の栃木山が勝った決まり手には、寄り切りより寄り出しが多く、 区別は明確でなかったと推測されます。 また、押し切りという決まり手もあって、 寄り出し や 押し切り は、寄り切りや押し出しとは別に存在した決まり手で、攻め手が土俵の内側に残った状態で相手だけを土俵外へ出した際に用いられた決まり手だそうです。 ちなみに 大正13年5月夏場所で9勝1敗の成績で8度目の優勝を飾った栃木山の決まり手は 以下の通り ○ ○ ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ○ ○ 決まり手 突 落 寄 出 押 倒 寄 切 押 出 突 放 押 出 突 落 寄 切 突 放 押 切 対戦相手 真砂石 能代潟 琴ヶ浦 清瀬川 小野川 射水川 太刀光 阿久津川 大蛇山 朝 響 若でした。
温故知新大相撲ダイアリー 6月6日 1931昭和6年6月6日。 旧両國國技館にて 第一回 全日本相撲選士権大会 が 6/6. 6/7. 6/8 の3日間の日程で開催されました。 開催に至った経緯は、 大正後期に、横綱勝率0.966の「滅多に負けない」最強横綱・太刀山峰右衛門(身長188cm体重150kg)を『小よく大を倒す』よろしく、 相次いで倒して大人気となった出羽ノ海部屋の三横綱(172cm103kgという小兵=歴代横綱最軽量の栃木山守也と、 あんこ型(140kg)ながら低身長(175cm)の大錦卯一郎、 さらに178cm110kgと そっぷ型の常ノ花寛市 )が時を経て、土俵を去り、相撲人気は下火となっていました。 実は、年に二度の本場所とは別に、大正14年から開催し始めた“明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会”がありました。 第1回優勝が現役だった栃木山(その年に現役を引退)、翌年の第2回と昭和4年の第3回は横綱常ノ花、昭和5年の第4回は大関玉錦が優勝と続くのですが、こちらは、現役力士のみが出場できる大会で、協会内や角力通のコアなファンの間で、 『 引退した春日野さん(元栃木山)のほうがまだ強いんじゃないか? 親方より弱い力士の本場所を見てもつまらんよ。 親方たちを出場させないのは、今の大関や横綱が弱いということが露呈してしまうからだろう?』 と話が出ていて、新聞も同様の記事を掲載していたので、 相撲人気回復のために(財)大日本相撲協会は 知恵を絞って出した案が 「誰が相撲日本一かを決める大会を開こう。現役はもちろん、親方やアマチュアも出場できるようにしよう。」 というものでした。 こうして昭和6年6月6日~8日の3日間かけて、「大日本相撲選士権大会」が開催されました。 さすがに地方相撲の大関などアマチュアからの出場は無かったものの、引退して日の浅い親方勢は続々と参加申し込み。 その中に髪の毛が薄くなった40歳の春日野親方(元・栃木山)もいました。 参加者は幕内・十両・年寄で総勢64名 それを4組に分けての予選トーナメント・その後、敗者復活トーナメント等で決勝リーグ進出者を決め、日本一を決めるというものです。 「同部屋対決」も「師匠対弟子」もアリでした。 協会側(大日本相撲協会)は、“さすがに引退して6年以上も経過した春日野親方が勝ちはしないだろう”と、高をくくっていたのですが、 そこで春日野親方は、現役の大関玉錦・関脇天竜らを、いまだ健在の怪力でおっつけ絞り上げ、はず押しで「寄り出し」、「押し切り」で圧勝。 現役力士の上位陣を子供扱いするように退け、見事優勝しました。 最初のトーナメントで4連勝、決勝リーグを3連勝の土つかず。 「強い現役横綱・大関を立証して、相撲人気回復」 を目論んだ協会は大恥をかいたのでした。
あだ名やニックネームの牛若丸 ではなく、 協会に登録した正式な四股名「牛若丸」は 三人いたようです。 最初の牛若丸は 旧四股名 福乃里 牛之助 から 牛若丸へ 最高位 前頭 13 本名 田中 牛之助 生年月日 大正12年12月3日 出身地は 福岡県北九州市 176センチ 85キロ 生涯成績は 377勝391敗1休/(60場所) でしたが、幕内成績は57勝78敗/幕内在位9場所。十両在位は39場所で、若き琴ヶ濱や鶴ヶ嶺と対戦し、勝ち越しています。 しかし、「牛若丸」という四股名で土俵に上がったのは十両の時のひと場所のみだったようです。 二人目の牛若丸は 埼玉は草加市出身 本名 江口 悟 昭和の後半、昭和52年、幕下上位の時に旧四股名 若江口 から 牛若丸に改名、その途端に7戦全勝優勝して十両入り、十両を6場所務めましたが、負け越して幕下陥落が決まったため引退してしまいました。 175.5センチ 121キロ 三人目は、 平成3年に「不動國」からの改名 三段目の時でした。 最高位は 幕下 32 枚目 本名 橋本 武介 生年月日 昭和45年12月3日 出身地 福岡県小郡市 身長 体重は 180センチ 107キロ 牛若丸として7年半、 途中で幕下へも昇進したのですが怪我から序二段まで番付を下げてしまい、その後、「闘将」と改名して三段目へ復帰、 さらに上を目指すべく 再び 牛若丸と改名したが 30歳にして体重が減少し、ついに100kgを割ってしまっていて、体力がおぼつかず、復活なりませんでした。 この力士のことは うっすら 覚えています。 この頃、本場所観戦の際に、舛席の金額が高いということもあり、もったいなから精一杯満喫しようと朝の8時半から行って、舛席の仕切りパイプに紐で結わかれている栓抜きの滑稽さ を笑いながら ビールを飲んで観戦していましたので、 お昼前の相撲で 2度ほどは、『おっ?牛若丸?いいねえ、名前がいい。頑張れよぉーっ』 と 顔も知らないのに 名前を気に入って 声援を送った覚えがあります。
今朝の毎日新聞、読まれましたか? 毎月の第1火曜日のみ掲載の、1ページ記事「月刊相撲」 今日のは、令和の牛若丸 炎鵬を「平成の牛若丸」舞の海や、旭道山、隆の山と比べながら、炎鵬の魅力と課題を書き連ねています。 あと、コラム「技あり」では、幕内優勝した朝乃山の特集。 そして、コラム「待ったなし」では、トランプ大統領観戦騒動が徳川の世に行なわれた上覧相撲により京都・大坂相撲より優位に立ったわけだが、その「お上にへつらう様子」が令和になっても変わってない。ファン不在という相撲協会の姿勢が丸見え と、厳しく断じている。
相撲ざんまいの富岡→両国巡り 楽しんでますよー。 暑くて、陽射しもけっこうあって、生まれて初めて日傘を差して、歩いてましたが、それでも蒸し暑くて 花の舞で、ガソリン?補給。 土俵の近くの席に陣取り、さっそくビールと馬刺し2人前、 貴ノ花さんの優勝掲額の真ん前で、もちろん北の富士さんの優勝掲額も見えます。 外国人の団体さんがいて、土俵のこと、甚句のことなど色々訊かれたのでお答えしながら楽しんでます。
おばちゃんずのお姉さん、ありがとうございます。 明日は、誕生日休暇を頂けたので、 門前仲町の富岡八幡宮を訪れて、横綱碑・大関碑・強豪関脇碑・超五十連勝力士の碑・巨人力士身長碑・釈迦ケ嶽等身碑・出羽一門友愛之碑などを久しぶりに見ます。 次に、先日亡くなった私の先輩で一番の相撲観戦仲間でもある姉御の御墓参り。 その後、清澄白河まで歩いて、阿炎のいる錣山部屋とかの前を通って両国へ。 両国では、回向院の裏(やや東南)にある工藤写真館へ。 ここは、永く相撲協会の写真撮影担当をしていた工藤さんという写真屋さんが、本業の定休日である毎週火曜日しか展示をしてない・・という「なかなか観られない相撲写真資料館」へ。 その後、ちゃんこ料理でお昼を食べてから、蔵前橋を渡って蔵前へ出て、御蔵前書房へ。 ここは、大相撲マニア垂涎の大相撲古書が1000冊以上が狭い店内にぎっしり! という本屋さんです。 戦前の大相撲雑誌、明治時代の番付、大正時代の木番付、江戸時代の相撲錦絵なども展示販売しています。 そんな相撲ざんまいの1日を、富岡さん→両国→蔵前という散策で、誕生日休暇を満喫する予定です。 蒸し暑そうなので、相撲手拭いと江戸時代の相撲浮世絵が描かれた扇子を持参して暑さ対策するつもりです。 で、リフレッシュして明後日からまた仕事です。 皆さまも、東京へお越しの際は、どれか一つ、探訪してみてください。
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温故知新 大相撲カレンダー 6月6日ー2
かくして、協会の期待に反して、年寄・春日野=6年前に現役を退いた元横綱栃木山が優勝してしまいました。
新聞紙上でも 「栃木山として まだまだやれるじゃないか!」との論評で、栃木山健在を世間に見せ付けたが、
協会からは、「年寄が勝って どうするんだ!? それより強い弟子を育てろ 」 と 散々に嫌味を言われる始末。
翌年は、選士権保持者(今で言うディフェンディングチャンピオン)として 嫌々参加し、決勝で、現役大関の玉錦に3敗して優勝を譲りました。
・・・・小島貞二氏著の「大相撲人物史」から
ところで、当時の栃木山が勝った決まり手には、寄り切りより寄り出しが多く、 区別は明確でなかったと推測されます。
また、押し切りという決まり手もあって、 寄り出し や 押し切り は、寄り切りや押し出しとは別に存在した決まり手で、攻め手が土俵の内側に残った状態で相手だけを土俵外へ出した際に用いられた決まり手だそうです。
ちなみに
大正13年5月夏場所で9勝1敗の成績で8度目の優勝を飾った栃木山の決まり手は 以下の通り
○ ○ ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ○ ○
決まり手 突 落 寄 出 押 倒 寄 切 押 出 突 放 押 出 突 落 寄 切 突 放 押 切
対戦相手 真砂石 能代潟 琴ヶ浦 清瀬川 小野川 射水川 太刀光 阿久津川 大蛇山 朝 響 若でした。
温故知新大相撲ダイアリー 6月6日
1931昭和6年6月6日。
旧両國國技館にて 第一回 全日本相撲選士権大会 が 6/6. 6/7. 6/8 の3日間の日程で開催されました。
開催に至った経緯は、
大正後期に、横綱勝率0.966の「滅多に負けない」最強横綱・太刀山峰右衛門(身長188cm体重150kg)を『小よく大を倒す』よろしく、 相次いで倒して大人気となった出羽ノ海部屋の三横綱(172cm103kgという小兵=歴代横綱最軽量の栃木山守也と、 あんこ型(140kg)ながら低身長(175cm)の大錦卯一郎、 さらに178cm110kgと そっぷ型の常ノ花寛市 )が時を経て、土俵を去り、相撲人気は下火となっていました。
実は、年に二度の本場所とは別に、大正14年から開催し始めた“明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会”がありました。
第1回優勝が現役だった栃木山(その年に現役を引退)、翌年の第2回と昭和4年の第3回は横綱常ノ花、昭和5年の第4回は大関玉錦が優勝と続くのですが、こちらは、現役力士のみが出場できる大会で、協会内や角力通のコアなファンの間で、
『 引退した春日野さん(元栃木山)のほうがまだ強いんじゃないか? 親方より弱い力士の本場所を見てもつまらんよ。
親方たちを出場させないのは、今の大関や横綱が弱いということが露呈してしまうからだろう?』 と話が出ていて、新聞も同様の記事を掲載していたので、
相撲人気回復のために(財)大日本相撲協会は 知恵を絞って出した案が
「誰が相撲日本一かを決める大会を開こう。現役はもちろん、親方やアマチュアも出場できるようにしよう。」 というものでした。
こうして昭和6年6月6日~8日の3日間かけて、「大日本相撲選士権大会」が開催されました。
さすがに地方相撲の大関などアマチュアからの出場は無かったものの、引退して日の浅い親方勢は続々と参加申し込み。
その中に髪の毛が薄くなった40歳の春日野親方(元・栃木山)もいました。
参加者は幕内・十両・年寄で総勢64名
それを4組に分けての予選トーナメント・その後、敗者復活トーナメント等で決勝リーグ進出者を決め、日本一を決めるというものです。
「同部屋対決」も「師匠対弟子」もアリでした。
協会側(大日本相撲協会)は、“さすがに引退して6年以上も経過した春日野親方が勝ちはしないだろう”と、高をくくっていたのですが、
そこで春日野親方は、現役の大関玉錦・関脇天竜らを、いまだ健在の怪力でおっつけ絞り上げ、はず押しで「寄り出し」、「押し切り」で圧勝。
現役力士の上位陣を子供扱いするように退け、見事優勝しました。
最初のトーナメントで4連勝、決勝リーグを3連勝の土つかず。
「強い現役横綱・大関を立証して、相撲人気回復」 を目論んだ協会は大恥をかいたのでした。
ダウンタウンなうで九重部屋の様子放映。
千代丸、九重親方が出るらしいが、九重親方は千代の富士のイメージだからな。
千代大海はいまいちだ。
あだ名やニックネームの牛若丸 ではなく、 協会に登録した正式な四股名「牛若丸」は 三人いたようです。
最初の牛若丸は
旧四股名 福乃里 牛之助 から 牛若丸へ 最高位 前頭 13 本名 田中 牛之助
生年月日 大正12年12月3日 出身地は 福岡県北九州市
176センチ 85キロ
生涯成績は 377勝391敗1休/(60場所) でしたが、幕内成績は57勝78敗/幕内在位9場所。十両在位は39場所で、若き琴ヶ濱や鶴ヶ嶺と対戦し、勝ち越しています。
しかし、「牛若丸」という四股名で土俵に上がったのは十両の時のひと場所のみだったようです。
二人目の牛若丸は 埼玉は草加市出身 本名 江口 悟
昭和の後半、昭和52年、幕下上位の時に旧四股名 若江口 から 牛若丸に改名、その途端に7戦全勝優勝して十両入り、十両を6場所務めましたが、負け越して幕下陥落が決まったため引退してしまいました。
175.5センチ 121キロ
三人目は、
平成3年に「不動國」からの改名 三段目の時でした。
最高位は 幕下 32 枚目 本名 橋本 武介
生年月日 昭和45年12月3日
出身地 福岡県小郡市 身長 体重は 180センチ 107キロ
牛若丸として7年半、 途中で幕下へも昇進したのですが怪我から序二段まで番付を下げてしまい、その後、「闘将」と改名して三段目へ復帰、
さらに上を目指すべく 再び 牛若丸と改名したが
30歳にして体重が減少し、ついに100kgを割ってしまっていて、体力がおぼつかず、復活なりませんでした。
この力士のことは うっすら 覚えています。
この頃、本場所観戦の際に、舛席の金額が高いということもあり、もったいなから精一杯満喫しようと朝の8時半から行って、舛席の仕切りパイプに紐で結わかれている栓抜きの滑稽さ を笑いながら ビールを飲んで観戦していましたので、
お昼前の相撲で 2度ほどは、『おっ?牛若丸?いいねえ、名前がいい。頑張れよぉーっ』 と 顔も知らないのに 名前を気に入って 声援を送った覚えがあります。
そういえば昔、牛若丸という四股名の十両力士がいたな。
昭和(戦後)の牛若丸 といえば 藤ノ川でした。 後に伊勢ノ海親方となりました。
今朝の毎日新聞、読まれましたか?
毎月の第1火曜日のみ掲載の、1ページ記事「月刊相撲」
今日のは、令和の牛若丸
炎鵬を「平成の牛若丸」舞の海や、旭道山、隆の山と比べながら、炎鵬の魅力と課題を書き連ねています。
あと、コラム「技あり」では、幕内優勝した朝乃山の特集。
そして、コラム「待ったなし」では、トランプ大統領観戦騒動が徳川の世に行なわれた上覧相撲により京都・大坂相撲より優位に立ったわけだが、その「お上にへつらう様子」が令和になっても変わってない。ファン不在という相撲協会の姿勢が丸見え
と、厳しく断じている。
相撲ざんまいの富岡→両国巡り
楽しんでますよー。
暑くて、陽射しもけっこうあって、生まれて初めて日傘を差して、歩いてましたが、それでも蒸し暑くて
花の舞で、ガソリン?補給。
土俵の近くの席に陣取り、さっそくビールと馬刺し2人前、
貴ノ花さんの優勝掲額の真ん前で、もちろん北の富士さんの優勝掲額も見えます。
外国人の団体さんがいて、土俵のこと、甚句のことなど色々訊かれたのでお答えしながら楽しんでます。
相撲三昧日楽しんでますか?
おばちゃん達は両国から浅草コース計画して、日にち合わせて行こうと思っとります!
充分に楽しんでリフレッシュして下さい。
こちらこれからパートだす。
おばちゃんずのお姉さん、ありがとうございます。
明日は、誕生日休暇を頂けたので、
門前仲町の富岡八幡宮を訪れて、横綱碑・大関碑・強豪関脇碑・超五十連勝力士の碑・巨人力士身長碑・釈迦ケ嶽等身碑・出羽一門友愛之碑などを久しぶりに見ます。
次に、先日亡くなった私の先輩で一番の相撲観戦仲間でもある姉御の御墓参り。
その後、清澄白河まで歩いて、阿炎のいる錣山部屋とかの前を通って両国へ。
両国では、回向院の裏(やや東南)にある工藤写真館へ。
ここは、永く相撲協会の写真撮影担当をしていた工藤さんという写真屋さんが、本業の定休日である毎週火曜日しか展示をしてない・・という「なかなか観られない相撲写真資料館」へ。
その後、ちゃんこ料理でお昼を食べてから、蔵前橋を渡って蔵前へ出て、御蔵前書房へ。
ここは、大相撲マニア垂涎の大相撲古書が1000冊以上が狭い店内にぎっしり! という本屋さんです。
戦前の大相撲雑誌、明治時代の番付、大正時代の木番付、江戸時代の相撲錦絵なども展示販売しています。
そんな相撲ざんまいの1日を、富岡さん→両国→蔵前という散策で、誕生日休暇を満喫する予定です。
蒸し暑そうなので、相撲手拭いと江戸時代の相撲浮世絵が描かれた扇子を持参して暑さ対策するつもりです。
で、リフレッシュして明後日からまた仕事です。
皆さまも、東京へお越しの際は、どれか一つ、探訪してみてください。