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6月8日は琴錦の朝日山親方の誕生日です♪ 平幕優勝2回・寺尾に決めた右の二丁投げ 武蔵丸に右の上手投げを決めた時は テレビ東京・スポーツtodayのバトルウィークリーで 格闘王・前田日明さんがほめていました! F1相撲・最強の関脇・盛り上がった肩の筋肉 存在感の強い力士でした♪
温故知新・大相撲カレンダー 6月8日 1998平成10年 6月8日 大相撲カナダ公演開催。 元豊山の時津風理事長を団長とする101名が二便に分かれて6月2日に成田空港を出発。 バンクーバーに到着して 6、7日に公演を行ないました。 幕内では、スピード溢れる相撲を魅せる寺尾と琴錦に 大きな歓声が上がっていたそうです。 そして、協会の期待どおり、 新横綱の若乃花 ・ 優勝18回の横綱貴乃花 ・ 優勝9回の横綱 曙・ すでに優勝3度を経験している大関武蔵丸 という当時の大人気の看板力士4人が 番付どおりの強さを発揮して 初日・2日目とも揃って準決勝へ進出。 超満員の現地観客から大喝采を受けました。 特に、春場所・夏場所と連続優勝(4度目と5度目の優勝)して新横綱となったばかりの小柄な若乃花が、曙や武蔵丸に真正面からぶつかって互角以上に渡り合い、低い体勢から出し投げやひねりをみせて 巨躯を翻弄する頭脳的な相撲をとる姿には、 日系のファンのみならず、現地カナダの格闘技ファンも魅了されたそうです。 最後に総合優勝決定戦が行なわれ、貴乃花が総合優勝しました。 二日間、立ち見が出るほどの大盛況、現地メディアも大々的に取り上げ、大成功にて公演を終えた大相撲一行は、翌日に市内観光で息抜き。 9日にバンクーバーを出発、10日に無事帰国しました。
温故知新大相撲カレンダー 6月7日 1992平成4年6月7日 日本テレビ開局40周年記念行事として、花相撲である第一回大相撲勝抜優勝戦が 6/6・6/7と開催され、 二日目(6/7)に琴富士が優勝。 初日優勝は武蔵丸でした。 第14回までは 大相撲勝抜優勝戦と呼ばれていましたが、その後「大相撲最強決定戦」と改称されました。 優勝力士 初日 二日目 第1回 1992平成4年 武蔵丸 琴富士 第2回 1993平成5年 貴乃花 曙 第3回 1994平成6年 貴乃花 貴ノ浪 第4回 1995平成7年 若乃花 貴ノ浪 第5回 1996平成8年 貴乃花 武双山 第6回 1997平成9年) 貴闘力 曙 第7回 1998平成10年) 武蔵丸 貴乃花 第8回 1999平成11年) 琴乃若 旭鷲山 第9回 2000平成12年) 曙 貴ノ浪 第10回 2001平成13年 魁 皇 貴乃花 第11回 2002平成14年 若の里 千代大海 第12回 2003平成15年 魁 皇 第13回 2004平成16年 朝青龍 第14回 2005平成17年 黒 海 第15回 2006平成18年 白 鵬 第16回 2007平成19年 白 鵬 第17回 2008平成20年 白 鵬 11回大会までは二日間開催、以降は一日開催。 また、第14回までは国技館と大阪城ホールの交互開催だったが、第15回以降は毎年国技館で行なわれていました。
温故知新 大相撲カレンダー 6月6日ー2 かくして、協会の期待に反して、年寄・春日野=6年前に現役を退いた元横綱栃木山が優勝してしまいました。 新聞紙上でも 「栃木山として まだまだやれるじゃないか!」との論評で、栃木山健在を世間に見せ付けたが、 協会からは、「年寄が勝って どうするんだ!? それより強い弟子を育てろ 」 と 散々に嫌味を言われる始末。 翌年は、選士権保持者(今で言うディフェンディングチャンピオン)として 嫌々参加し、決勝で、現役大関の玉錦に3敗して優勝を譲りました。 ・・・・小島貞二氏著の「大相撲人物史」から ところで、当時の栃木山が勝った決まり手には、寄り切りより寄り出しが多く、 区別は明確でなかったと推測されます。 また、押し切りという決まり手もあって、 寄り出し や 押し切り は、寄り切りや押し出しとは別に存在した決まり手で、攻め手が土俵の内側に残った状態で相手だけを土俵外へ出した際に用いられた決まり手だそうです。 ちなみに 大正13年5月夏場所で9勝1敗の成績で8度目の優勝を飾った栃木山の決まり手は 以下の通り ○ ○ ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ○ ○ 決まり手 突 落 寄 出 押 倒 寄 切 押 出 突 放 押 出 突 落 寄 切 突 放 押 切 対戦相手 真砂石 能代潟 琴ヶ浦 清瀬川 小野川 射水川 太刀光 阿久津川 大蛇山 朝 響 若でした。
温故知新大相撲ダイアリー 6月6日 1931昭和6年6月6日。 旧両國國技館にて 第一回 全日本相撲選士権大会 が 6/6. 6/7. 6/8 の3日間の日程で開催されました。 開催に至った経緯は、 大正後期に、横綱勝率0.966の「滅多に負けない」最強横綱・太刀山峰右衛門(身長188cm体重150kg)を『小よく大を倒す』よろしく、 相次いで倒して大人気となった出羽ノ海部屋の三横綱(172cm103kgという小兵=歴代横綱最軽量の栃木山守也と、 あんこ型(140kg)ながら低身長(175cm)の大錦卯一郎、 さらに178cm110kgと そっぷ型の常ノ花寛市 )が時を経て、土俵を去り、相撲人気は下火となっていました。 実は、年に二度の本場所とは別に、大正14年から開催し始めた“明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会”がありました。 第1回優勝が現役だった栃木山(その年に現役を引退)、翌年の第2回と昭和4年の第3回は横綱常ノ花、昭和5年の第4回は大関玉錦が優勝と続くのですが、こちらは、現役力士のみが出場できる大会で、協会内や角力通のコアなファンの間で、 『 引退した春日野さん(元栃木山)のほうがまだ強いんじゃないか? 親方より弱い力士の本場所を見てもつまらんよ。 親方たちを出場させないのは、今の大関や横綱が弱いということが露呈してしまうからだろう?』 と話が出ていて、新聞も同様の記事を掲載していたので、 相撲人気回復のために(財)大日本相撲協会は 知恵を絞って出した案が 「誰が相撲日本一かを決める大会を開こう。現役はもちろん、親方やアマチュアも出場できるようにしよう。」 というものでした。 こうして昭和6年6月6日~8日の3日間かけて、「大日本相撲選士権大会」が開催されました。 さすがに地方相撲の大関などアマチュアからの出場は無かったものの、引退して日の浅い親方勢は続々と参加申し込み。 その中に髪の毛が薄くなった40歳の春日野親方(元・栃木山)もいました。 参加者は幕内・十両・年寄で総勢64名 それを4組に分けての予選トーナメント・その後、敗者復活トーナメント等で決勝リーグ進出者を決め、日本一を決めるというものです。 「同部屋対決」も「師匠対弟子」もアリでした。 協会側(大日本相撲協会)は、“さすがに引退して6年以上も経過した春日野親方が勝ちはしないだろう”と、高をくくっていたのですが、 そこで春日野親方は、現役の大関玉錦・関脇天竜らを、いまだ健在の怪力でおっつけ絞り上げ、はず押しで「寄り出し」、「押し切り」で圧勝。 現役力士の上位陣を子供扱いするように退け、見事優勝しました。 最初のトーナメントで4連勝、決勝リーグを3連勝の土つかず。 「強い現役横綱・大関を立証して、相撲人気回復」 を目論んだ協会は大恥をかいたのでした。
あだ名やニックネームの牛若丸 ではなく、 協会に登録した正式な四股名「牛若丸」は 三人いたようです。 最初の牛若丸は 旧四股名 福乃里 牛之助 から 牛若丸へ 最高位 前頭 13 本名 田中 牛之助 生年月日 大正12年12月3日 出身地は 福岡県北九州市 176センチ 85キロ 生涯成績は 377勝391敗1休/(60場所) でしたが、幕内成績は57勝78敗/幕内在位9場所。十両在位は39場所で、若き琴ヶ濱や鶴ヶ嶺と対戦し、勝ち越しています。 しかし、「牛若丸」という四股名で土俵に上がったのは十両の時のひと場所のみだったようです。 二人目の牛若丸は 埼玉は草加市出身 本名 江口 悟 昭和の後半、昭和52年、幕下上位の時に旧四股名 若江口 から 牛若丸に改名、その途端に7戦全勝優勝して十両入り、十両を6場所務めましたが、負け越して幕下陥落が決まったため引退してしまいました。 175.5センチ 121キロ 三人目は、 平成3年に「不動國」からの改名 三段目の時でした。 最高位は 幕下 32 枚目 本名 橋本 武介 生年月日 昭和45年12月3日 出身地 福岡県小郡市 身長 体重は 180センチ 107キロ 牛若丸として7年半、 途中で幕下へも昇進したのですが怪我から序二段まで番付を下げてしまい、その後、「闘将」と改名して三段目へ復帰、 さらに上を目指すべく 再び 牛若丸と改名したが 30歳にして体重が減少し、ついに100kgを割ってしまっていて、体力がおぼつかず、復活なりませんでした。 この力士のことは うっすら 覚えています。 この頃、本場所観戦の際に、舛席の金額が高いということもあり、もったいなから精一杯満喫しようと朝の8時半から行って、舛席の仕切りパイプに紐で結わかれている栓抜きの滑稽さ を笑いながら ビールを飲んで観戦していましたので、 お昼前の相撲で 2度ほどは、『おっ?牛若丸?いいねえ、名前がいい。頑張れよぉーっ』 と 顔も知らないのに 名前を気に入って 声援を送った覚えがあります。
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6月8日は琴錦の朝日山親方の誕生日です♪
平幕優勝2回・寺尾に決めた右の二丁投げ
武蔵丸に右の上手投げを決めた時は
テレビ東京・スポーツtodayのバトルウィークリーで
格闘王・前田日明さんがほめていました!
F1相撲・最強の関脇・盛り上がった肩の筋肉
存在感の強い力士でした♪
温故知新・大相撲カレンダー
6月8日
1998平成10年 6月8日
大相撲カナダ公演開催。
元豊山の時津風理事長を団長とする101名が二便に分かれて6月2日に成田空港を出発。
バンクーバーに到着して 6、7日に公演を行ないました。
幕内では、スピード溢れる相撲を魅せる寺尾と琴錦に 大きな歓声が上がっていたそうです。
そして、協会の期待どおり、
新横綱の若乃花 ・ 優勝18回の横綱貴乃花 ・ 優勝9回の横綱 曙・ すでに優勝3度を経験している大関武蔵丸
という当時の大人気の看板力士4人が 番付どおりの強さを発揮して
初日・2日目とも揃って準決勝へ進出。 超満員の現地観客から大喝采を受けました。
特に、春場所・夏場所と連続優勝(4度目と5度目の優勝)して新横綱となったばかりの小柄な若乃花が、曙や武蔵丸に真正面からぶつかって互角以上に渡り合い、低い体勢から出し投げやひねりをみせて 巨躯を翻弄する頭脳的な相撲をとる姿には、 日系のファンのみならず、現地カナダの格闘技ファンも魅了されたそうです。
最後に総合優勝決定戦が行なわれ、貴乃花が総合優勝しました。
二日間、立ち見が出るほどの大盛況、現地メディアも大々的に取り上げ、大成功にて公演を終えた大相撲一行は、翌日に市内観光で息抜き。
9日にバンクーバーを出発、10日に無事帰国しました。
温故知新大相撲カレンダー 6月7日
1992平成4年6月7日
日本テレビ開局40周年記念行事として、花相撲である第一回大相撲勝抜優勝戦が 6/6・6/7と開催され、
二日目(6/7)に琴富士が優勝。 初日優勝は武蔵丸でした。
第14回までは 大相撲勝抜優勝戦と呼ばれていましたが、その後「大相撲最強決定戦」と改称されました。
優勝力士 初日 二日目
第1回 1992平成4年 武蔵丸 琴富士
第2回 1993平成5年 貴乃花 曙
第3回 1994平成6年 貴乃花 貴ノ浪
第4回 1995平成7年 若乃花 貴ノ浪
第5回 1996平成8年 貴乃花 武双山
第6回 1997平成9年) 貴闘力 曙
第7回 1998平成10年) 武蔵丸 貴乃花
第8回 1999平成11年) 琴乃若 旭鷲山
第9回 2000平成12年) 曙 貴ノ浪
第10回 2001平成13年 魁 皇 貴乃花
第11回 2002平成14年 若の里 千代大海
第12回 2003平成15年 魁 皇
第13回 2004平成16年 朝青龍
第14回 2005平成17年 黒 海
第15回 2006平成18年 白 鵬
第16回 2007平成19年 白 鵬
第17回 2008平成20年 白 鵬
11回大会までは二日間開催、以降は一日開催。
また、第14回までは国技館と大阪城ホールの交互開催だったが、第15回以降は毎年国技館で行なわれていました。
白星○・黒星● と、決まり手、対戦相手の四股名がずれてしまい見づらかったですね。
負けたのは、射水川に です。
温故知新 大相撲カレンダー 6月6日ー2
かくして、協会の期待に反して、年寄・春日野=6年前に現役を退いた元横綱栃木山が優勝してしまいました。
新聞紙上でも 「栃木山として まだまだやれるじゃないか!」との論評で、栃木山健在を世間に見せ付けたが、
協会からは、「年寄が勝って どうするんだ!? それより強い弟子を育てろ 」 と 散々に嫌味を言われる始末。
翌年は、選士権保持者(今で言うディフェンディングチャンピオン)として 嫌々参加し、決勝で、現役大関の玉錦に3敗して優勝を譲りました。
・・・・小島貞二氏著の「大相撲人物史」から
ところで、当時の栃木山が勝った決まり手には、寄り切りより寄り出しが多く、 区別は明確でなかったと推測されます。
また、押し切りという決まり手もあって、 寄り出し や 押し切り は、寄り切りや押し出しとは別に存在した決まり手で、攻め手が土俵の内側に残った状態で相手だけを土俵外へ出した際に用いられた決まり手だそうです。
ちなみに
大正13年5月夏場所で9勝1敗の成績で8度目の優勝を飾った栃木山の決まり手は 以下の通り
○ ○ ○ ○ ○ ● ○ ○ ○ ○ ○
決まり手 突 落 寄 出 押 倒 寄 切 押 出 突 放 押 出 突 落 寄 切 突 放 押 切
対戦相手 真砂石 能代潟 琴ヶ浦 清瀬川 小野川 射水川 太刀光 阿久津川 大蛇山 朝 響 若でした。
温故知新大相撲ダイアリー 6月6日
1931昭和6年6月6日。
旧両國國技館にて 第一回 全日本相撲選士権大会 が 6/6. 6/7. 6/8 の3日間の日程で開催されました。
開催に至った経緯は、
大正後期に、横綱勝率0.966の「滅多に負けない」最強横綱・太刀山峰右衛門(身長188cm体重150kg)を『小よく大を倒す』よろしく、 相次いで倒して大人気となった出羽ノ海部屋の三横綱(172cm103kgという小兵=歴代横綱最軽量の栃木山守也と、 あんこ型(140kg)ながら低身長(175cm)の大錦卯一郎、 さらに178cm110kgと そっぷ型の常ノ花寛市 )が時を経て、土俵を去り、相撲人気は下火となっていました。
実は、年に二度の本場所とは別に、大正14年から開催し始めた“明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会”がありました。
第1回優勝が現役だった栃木山(その年に現役を引退)、翌年の第2回と昭和4年の第3回は横綱常ノ花、昭和5年の第4回は大関玉錦が優勝と続くのですが、こちらは、現役力士のみが出場できる大会で、協会内や角力通のコアなファンの間で、
『 引退した春日野さん(元栃木山)のほうがまだ強いんじゃないか? 親方より弱い力士の本場所を見てもつまらんよ。
親方たちを出場させないのは、今の大関や横綱が弱いということが露呈してしまうからだろう?』 と話が出ていて、新聞も同様の記事を掲載していたので、
相撲人気回復のために(財)大日本相撲協会は 知恵を絞って出した案が
「誰が相撲日本一かを決める大会を開こう。現役はもちろん、親方やアマチュアも出場できるようにしよう。」 というものでした。
こうして昭和6年6月6日~8日の3日間かけて、「大日本相撲選士権大会」が開催されました。
さすがに地方相撲の大関などアマチュアからの出場は無かったものの、引退して日の浅い親方勢は続々と参加申し込み。
その中に髪の毛が薄くなった40歳の春日野親方(元・栃木山)もいました。
参加者は幕内・十両・年寄で総勢64名
それを4組に分けての予選トーナメント・その後、敗者復活トーナメント等で決勝リーグ進出者を決め、日本一を決めるというものです。
「同部屋対決」も「師匠対弟子」もアリでした。
協会側(大日本相撲協会)は、“さすがに引退して6年以上も経過した春日野親方が勝ちはしないだろう”と、高をくくっていたのですが、
そこで春日野親方は、現役の大関玉錦・関脇天竜らを、いまだ健在の怪力でおっつけ絞り上げ、はず押しで「寄り出し」、「押し切り」で圧勝。
現役力士の上位陣を子供扱いするように退け、見事優勝しました。
最初のトーナメントで4連勝、決勝リーグを3連勝の土つかず。
「強い現役横綱・大関を立証して、相撲人気回復」 を目論んだ協会は大恥をかいたのでした。
ダウンタウンなうで九重部屋の様子放映。
千代丸、九重親方が出るらしいが、九重親方は千代の富士のイメージだからな。
千代大海はいまいちだ。
あだ名やニックネームの牛若丸 ではなく、 協会に登録した正式な四股名「牛若丸」は 三人いたようです。
最初の牛若丸は
旧四股名 福乃里 牛之助 から 牛若丸へ 最高位 前頭 13 本名 田中 牛之助
生年月日 大正12年12月3日 出身地は 福岡県北九州市
176センチ 85キロ
生涯成績は 377勝391敗1休/(60場所) でしたが、幕内成績は57勝78敗/幕内在位9場所。十両在位は39場所で、若き琴ヶ濱や鶴ヶ嶺と対戦し、勝ち越しています。
しかし、「牛若丸」という四股名で土俵に上がったのは十両の時のひと場所のみだったようです。
二人目の牛若丸は 埼玉は草加市出身 本名 江口 悟
昭和の後半、昭和52年、幕下上位の時に旧四股名 若江口 から 牛若丸に改名、その途端に7戦全勝優勝して十両入り、十両を6場所務めましたが、負け越して幕下陥落が決まったため引退してしまいました。
175.5センチ 121キロ
三人目は、
平成3年に「不動國」からの改名 三段目の時でした。
最高位は 幕下 32 枚目 本名 橋本 武介
生年月日 昭和45年12月3日
出身地 福岡県小郡市 身長 体重は 180センチ 107キロ
牛若丸として7年半、 途中で幕下へも昇進したのですが怪我から序二段まで番付を下げてしまい、その後、「闘将」と改名して三段目へ復帰、
さらに上を目指すべく 再び 牛若丸と改名したが
30歳にして体重が減少し、ついに100kgを割ってしまっていて、体力がおぼつかず、復活なりませんでした。
この力士のことは うっすら 覚えています。
この頃、本場所観戦の際に、舛席の金額が高いということもあり、もったいなから精一杯満喫しようと朝の8時半から行って、舛席の仕切りパイプに紐で結わかれている栓抜きの滑稽さ を笑いながら ビールを飲んで観戦していましたので、
お昼前の相撲で 2度ほどは、『おっ?牛若丸?いいねえ、名前がいい。頑張れよぉーっ』 と 顔も知らないのに 名前を気に入って 声援を送った覚えがあります。
そういえば昔、牛若丸という四股名の十両力士がいたな。
昭和(戦後)の牛若丸 といえば 藤ノ川でした。 後に伊勢ノ海親方となりました。