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朝乃山を優勝争いに残したいのは わかりますがビデオ判定の意味がないです! 他の格闘技ならば「このアホ審判!」ですが 相撲ではそうはいかないです 栃ノ心さんは明日の鶴竜との勝負は がっぷり四つの相撲を期待します♪
北の富士さんは足と、髷をつかんだのではと言っていたが…長い話し合い終わり親方が説明する前に、楽しみ!と言ったの、聞き逃さなかったよ! にしても、観戦の前、観戦後、丁度真ん中に行って、今日はラジオ! 残念だな… 炎鵬痛かったら休んでほしい。宇良しかりだし。 怪我は怖いわ
綺麗に掃き清められた蛇の目の砂 に残るはずの、 足が出てたか 出てなかったか? の 証拠部分の砂を 朝乃山が倒れて手を付く際に 掻き消してしまったのではないか? それにしても 審判たちが、土俵際でもっと 砂を確かめてというしぐさがあってもよかったのでは?
栃ノ心の足、出たのか出ていないのか? 炎鵬の太もも、心配です。 高安、かろうじて勝った!。 遠藤、嘉風、心配だ、、、。 明日はなんとしても鶴竜は勝ちたいだろうし、 栃ノ心だって、勝ちたい。 朝乃山、もしかしたら、優勝!? 目が離せませんね。
温故知新・大相撲カレンダー 5月24日 1916大正5年5月24日 五月夏場所 七日目、 横綱太刀山 対 大関大錦卯一郎 入幕四場所目にして すでに大関ふた場所目という「前人未到の速さ」で出世してきた大錦卯一郎を寄りきりで破った太刀山が連勝記録を56に伸ばした。 これで、歴代2位の初代梅ヶ谷の58連勝を場所中に抜き、 その先、翌場所= 翌年1月春場所には(江戸時代の天明~安永年間の)谷風の63連勝をも抜いて史上1位に躍り出ることも現実味を帯びてきた。 しかし好事魔多し、 翌日、188cm150kgある太刀山が,小結の栃木山172cm103kgに立ち合いで低く入られて食いつかれ、寄り切られ ついに連勝ストップ。 太刀山が大正時代に入って初の敗戦だった。 その時の熱戦譜 立ち合い、栃木山がすぐ右を差し頭をつけた。 太刀山は左から小手に振ろうとし、また右を筈にして割り出さんとしたが、 その遑(いとま)を与えず栃木山は左も入れて二本差し、 間髪入れず右から大きく掬って東に太刀山を寄り立ててがぶり寄り、堪える太刀山を渾身の力で寄り切った。 時は大正5年5月、元号が明治から大正に変わってからまだ一度も負けたことがない太刀山が土俵を割った。際どい相撲ではなく、小兵の栃木山に正攻法で寄り切られたのだった。 旧両國國技館は一瞬 しーん と静まり返った。 が、すぐさま、満場は百雷が一遍に轟いたかのような大騒ぎ、満場総立ち、座布団は飛ぶ、ミカンやびわなど果物も飛んでくる。土俵に上がり踊り狂う見物客が二人いたという。 すでにごった返した状態の花道を、なんとか支度部屋へ下がる栃木山。 支度部屋で付け人から教えられて鏡で背中を見ると、栃木山の背中には、狂喜した角力ファンからのご祝儀、百圓紙幣が二枚も貼りつけられていた。 (この大正前半の貨幣価値は、1圓が15000-20000円ほど。つまり弐百円だと300~400万円ぐらいでしょうか
至難な道・・・大関復帰 大関復帰の10勝目前で、上体に力が入り過ぎ、足踏みする栃ノ心と、勝ち越し目前で3連敗している炎鵬に 『 とにかく頑張れ! 』とエールを送った今朝の北の富士さん。 さらに『・・あと1勝くらい、なんとかなるだろう。気を楽に持った方がいい。 人のことだから何とでも言えるが、お相撲さんは大変だ。この日もテレビで力士達に文句ばかり言ってしまった。 反省はしてるが、仕事だから勘弁してもらいたい。 私も現役のころは解説の親方衆が大嫌いであった。 まさか、その俺が解説者になろうとは夢にも思わなかった。 人生って、不思議なものである。なんだか、美空ひばりさんの歌みたいになってしまった。 この日は相撲場から錦糸町の寿司屋に直行して一杯やってきた。いつもは原稿を書いてから飯を食うのだが、あまりに腹が減ったので飯を先に食べた。しかし、これは失敗だった。少しの酒にすっかり酔って、原稿を書くのが億劫になり、ひどい原稿になってしまった。私が悪いのではなく 酒が悪い。 そんなわけで、締め切りがもうすぐだ。辛うじてセーフだった。13日目からは、しらふで仕事します。ごめんなさい。 ・・・北の富士さんが現役のころの NHK大相撲中継のメイン解説者は、激辛解説の玉の海梅吉さん。 けっこう辛らつな解説をしていた玉の海さんは、 ネオン無情が50万枚も売れて夜のヒットスタジオに毎週出演し、本業では万年大関となりかけていた北の富士を称して 「北の富士?あぁ、歌手の人ね。 趣味が相撲なんでしょ? けっこう相撲、上手いみたいだよ・・・・」と 愛弟子の玉乃島のライバル北の富士には きつい嫌味を言ってました。 後年になって北の富士さんは玉の海さんのことを訊かれて 『あの人ねえ、うちの部屋の稽古を見ていない割には 俺に「稽古が足りない」とか言うんだよ・・・』と当時の批判に対して反論してました。 栃ノ心の苦難の道 に話を戻すと 大関陥落からひと場所で二桁勝利して復帰した力士は 1976昭和51年名古屋場所 三重ノ海4勝3敗から6連勝して10勝到達→大関復帰 2000平成12年 初 場所 貴ノ浪 7勝5敗から3連勝 2000平成12年 秋 場所 武双山 5勝4敗から4連勝、千秋楽で10勝目 2004平成16年名古屋場所 栃 東 9勝4敗から10勝目 2005平成17年 初 場所 栃 東 8勝4敗から3連勝で11勝。 今場所の栃ノ心のように 関脇に陥落し、10勝して大関復帰を目指した力士の中で、あと一歩及ばなかったのが 昭和49年名古屋場所の大受と、平成29年春場所の琴奨菊で、ともに9勝6敗。 大受は、三日目から十日目までの八日間で3勝5敗と振るわず、十二日目の長谷川戦で寄り切られて6敗目、復帰は叶わなかったが、ラスト3日間を3連勝。もう一歩だった。 琴奨菊は、8勝5敗で迎えた14日目に後輩大関の照ノ富士にはたき込みで敗れて、復帰の夢を断たれた。千秋楽は気落ちせずに嘉風を一気に寄り切ったが「時すでに遅し」だった。 大関陥落―復帰への救済制度 1958昭和33年に、7月場所が名古屋本場所となり年間6場所制度となった際、 “2場所連続負け越しで陥落”では厳しすぎるとして、“3場所連続の負け越しで関脇に陥落”と改められました。 ところが今度は、それでは甘すぎるとする批判が相次ぎ、 1969昭和44年7月場所より現行の「2場所連続負け越しで関脇に陥落、直後の場所で10勝以上を挙げた場合は特例で復帰できる」とする規定となりました。 (この間=昭和33年~44年5月まで 2場所連続負け越ししたのに陥落とならなかった力士は、 松登、琴ヶ濱、若羽黒、栃光、豊山、と、当時の大関は軒並みこの恩恵を受けていた。 この恩恵を受けて、大関を維持し、後に奮起して横綱になった力士には、我らが北の富士さんがいます。 例外=当時の大関で二場所連続負け越しをしなかった のは、北葉山と清國ぐらいでした。
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令和最初の場所で令和の大誤審とは…
理事自ら汚点こさえて どうする?
明日、豪栄道の相手が朝乃山なら千秋楽は誰と対戦するのでしょうか?高安、それとも鶴竜のどちらかだとは思いますが…。
朝乃山を優勝争いに残したいのは
わかりますがビデオ判定の意味がないです!
他の格闘技ならば「このアホ審判!」ですが
相撲ではそうはいかないです
栃ノ心さんは明日の鶴竜との勝負は
がっぷり四つの相撲を期待します♪
令和の大誤審と語りつがれるのですね。
北の富士さんは足と、髷をつかんだのではと言っていたが…長い話し合い終わり親方が説明する前に、楽しみ!と言ったの、聞き逃さなかったよ!
にしても、観戦の前、観戦後、丁度真ん中に行って、今日はラジオ!
残念だな…
炎鵬痛かったら休んでほしい。宇良しかりだし。
怪我は怖いわ
綺麗に掃き清められた蛇の目の砂 に残るはずの、
足が出てたか 出てなかったか? の 証拠部分の砂を
朝乃山が倒れて手を付く際に 掻き消してしまったのではないか?
それにしても
審判たちが、土俵際でもっと 砂を確かめてというしぐさがあってもよかったのでは?
栃ノ心の足、出たのか出ていないのか?
炎鵬の太もも、心配です。
高安、かろうじて勝った!。
遠藤、嘉風、心配だ、、、。
明日はなんとしても鶴竜は勝ちたいだろうし、
栃ノ心だって、勝ちたい。
朝乃山、もしかしたら、優勝!?
目が離せませんね。
栃の心の足は出てないのではないか!
温故知新・大相撲カレンダー 5月24日
1916大正5年5月24日 五月夏場所 七日目、
横綱太刀山 対 大関大錦卯一郎
入幕四場所目にして すでに大関ふた場所目という「前人未到の速さ」で出世してきた大錦卯一郎を寄りきりで破った太刀山が連勝記録を56に伸ばした。
これで、歴代2位の初代梅ヶ谷の58連勝を場所中に抜き、 その先、翌場所= 翌年1月春場所には(江戸時代の天明~安永年間の)谷風の63連勝をも抜いて史上1位に躍り出ることも現実味を帯びてきた。
しかし好事魔多し、
翌日、188cm150kgある太刀山が,小結の栃木山172cm103kgに立ち合いで低く入られて食いつかれ、寄り切られ ついに連勝ストップ。
太刀山が大正時代に入って初の敗戦だった。
その時の熱戦譜
立ち合い、栃木山がすぐ右を差し頭をつけた。
太刀山は左から小手に振ろうとし、また右を筈にして割り出さんとしたが、 その遑(いとま)を与えず栃木山は左も入れて二本差し、
間髪入れず右から大きく掬って東に太刀山を寄り立ててがぶり寄り、堪える太刀山を渾身の力で寄り切った。
時は大正5年5月、元号が明治から大正に変わってからまだ一度も負けたことがない太刀山が土俵を割った。際どい相撲ではなく、小兵の栃木山に正攻法で寄り切られたのだった。
旧両國國技館は一瞬 しーん と静まり返った。 が、すぐさま、満場は百雷が一遍に轟いたかのような大騒ぎ、満場総立ち、座布団は飛ぶ、ミカンやびわなど果物も飛んでくる。土俵に上がり踊り狂う見物客が二人いたという。
すでにごった返した状態の花道を、なんとか支度部屋へ下がる栃木山。
支度部屋で付け人から教えられて鏡で背中を見ると、栃木山の背中には、狂喜した角力ファンからのご祝儀、百圓紙幣が二枚も貼りつけられていた。
(この大正前半の貨幣価値は、1圓が15000-20000円ほど。つまり弐百円だと300~400万円ぐらいでしょうか
至難な道・・・大関復帰
大関復帰の10勝目前で、上体に力が入り過ぎ、足踏みする栃ノ心と、勝ち越し目前で3連敗している炎鵬に 『 とにかく頑張れ! 』とエールを送った今朝の北の富士さん。
さらに『・・あと1勝くらい、なんとかなるだろう。気を楽に持った方がいい。
人のことだから何とでも言えるが、お相撲さんは大変だ。この日もテレビで力士達に文句ばかり言ってしまった。
反省はしてるが、仕事だから勘弁してもらいたい。 私も現役のころは解説の親方衆が大嫌いであった。
まさか、その俺が解説者になろうとは夢にも思わなかった。
人生って、不思議なものである。なんだか、美空ひばりさんの歌みたいになってしまった。
この日は相撲場から錦糸町の寿司屋に直行して一杯やってきた。いつもは原稿を書いてから飯を食うのだが、あまりに腹が減ったので飯を先に食べた。しかし、これは失敗だった。少しの酒にすっかり酔って、原稿を書くのが億劫になり、ひどい原稿になってしまった。私が悪いのではなく 酒が悪い。
そんなわけで、締め切りがもうすぐだ。辛うじてセーフだった。13日目からは、しらふで仕事します。ごめんなさい。
・・・北の富士さんが現役のころの NHK大相撲中継のメイン解説者は、激辛解説の玉の海梅吉さん。
けっこう辛らつな解説をしていた玉の海さんは、 ネオン無情が50万枚も売れて夜のヒットスタジオに毎週出演し、本業では万年大関となりかけていた北の富士を称して
「北の富士?あぁ、歌手の人ね。 趣味が相撲なんでしょ? けっこう相撲、上手いみたいだよ・・・・」と 愛弟子の玉乃島のライバル北の富士には きつい嫌味を言ってました。
後年になって北の富士さんは玉の海さんのことを訊かれて
『あの人ねえ、うちの部屋の稽古を見ていない割には 俺に「稽古が足りない」とか言うんだよ・・・』と当時の批判に対して反論してました。
栃ノ心の苦難の道 に話を戻すと
大関陥落からひと場所で二桁勝利して復帰した力士は
1976昭和51年名古屋場所 三重ノ海4勝3敗から6連勝して10勝到達→大関復帰
2000平成12年 初 場所 貴ノ浪 7勝5敗から3連勝
2000平成12年 秋 場所 武双山 5勝4敗から4連勝、千秋楽で10勝目
2004平成16年名古屋場所 栃 東 9勝4敗から10勝目
2005平成17年 初 場所 栃 東 8勝4敗から3連勝で11勝。
今場所の栃ノ心のように
関脇に陥落し、10勝して大関復帰を目指した力士の中で、あと一歩及ばなかったのが
昭和49年名古屋場所の大受と、平成29年春場所の琴奨菊で、ともに9勝6敗。
大受は、三日目から十日目までの八日間で3勝5敗と振るわず、十二日目の長谷川戦で寄り切られて6敗目、復帰は叶わなかったが、ラスト3日間を3連勝。もう一歩だった。
琴奨菊は、8勝5敗で迎えた14日目に後輩大関の照ノ富士にはたき込みで敗れて、復帰の夢を断たれた。千秋楽は気落ちせずに嘉風を一気に寄り切ったが「時すでに遅し」だった。
大関陥落―復帰への救済制度
1958昭和33年に、7月場所が名古屋本場所となり年間6場所制度となった際、
“2場所連続負け越しで陥落”では厳しすぎるとして、“3場所連続の負け越しで関脇に陥落”と改められました。
ところが今度は、それでは甘すぎるとする批判が相次ぎ、
1969昭和44年7月場所より現行の「2場所連続負け越しで関脇に陥落、直後の場所で10勝以上を挙げた場合は特例で復帰できる」とする規定となりました。
(この間=昭和33年~44年5月まで 2場所連続負け越ししたのに陥落とならなかった力士は、
松登、琴ヶ濱、若羽黒、栃光、豊山、と、当時の大関は軒並みこの恩恵を受けていた。
この恩恵を受けて、大関を維持し、後に奮起して横綱になった力士には、我らが北の富士さんがいます。
例外=当時の大関で二場所連続負け越しをしなかった のは、北葉山と清國ぐらいでした。