大相撲のコメント部屋

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externallinkコメント一覧

大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,657件 』

  • 投稿者:KON

    豊ノ島関に関する思い出

    北の富士さんの “ リラックス怪説 ” から

    松鳳山が土俵に上がって仕切りを繰り返していた時、
    北の富士さん
    『 いい面構えだねえ 。勝負師の顔だな。』
    大田アナウンサー
    「 北の富士さん、松鳳山はお酒を全く飲めないそうですよ。」
    北の富士さん
    『 えっ? この顔で? 一斗ぐらい飲みそうな感じだよね。 』
    大田アナウンサー
    「・・・、 えぇっと、ただ今、北の富士さんがおっしゃった “ いっと ” というのは、一升の10倍、十升 ということだそうです。
    そういえば北の富士さん、豊ノ島も全くお酒は飲めないそうですね。」
    北の富士さん
    『 そうなの? 豊ノ島? 高知だよね? 土佐の男て、お相撲さんで、酒 飲めないの? 何やってたの? 』

    ・・・・ このやり取りがおかしくて おかしくて。
    “斗”という単位は、昨今の生活では出てきません。一斗缶ぐらいでしょうか。
    それと、土佐の男性なら飲めて当然、ましてや相撲取りだから
    ってのも、大人の男は酒を飲めるもの という北の富士さんの考えが面白かった。酒豪揃いの出羽海部屋で育ったことが起因してたのでしょうね。

  • 投稿者:KON

    豊ノ島関が引退、井筒親方ですか。
    ファンサービスをことのほか大切にしていた力士でしたね。

    国技館での本場所で、力士の入場や退場を真近(まぢか)で見ようと南側駐車場付近で待っていると、退場時にはどの力士も声援に応え、笑顔もあれば握手もOK.色紙にサインや記念撮影も叶いますが、入場の際は、これから真剣勝負!とばかり、ほとんど笑顔もないし、むすっと(緊張しているフリ?)しているのが圧倒的なのですが、豊ノ島関だけは笑顔あり、声援には返答を返してきてくれる。時には、記念撮影や色紙にサインまでありでした。入場時でそれですから、退場時は^ ^もっと大変!取組を終えた豊ノ島の退場時には、居並ぶファン全員に応対するから前に進まない進まない。毎回そうでした。

    私のイメージで、井筒親方というと、
    第14代の元鶴ヶ嶺さん(寺尾三兄弟の実父)で、栃錦を上回る10度受賞の技能賞を受賞して双差しの名人でした。こちらも気さくな方で、弁も立つ方でしたね。

    元鶴ヶ嶺さんの前(13代井筒親方)が、意外にも北の富士さんも井筒部屋を再興させて、井筒親方だったことがありました。北の富士さんの師匠だった九重親方(元 千代の山)が急逝したために、ほどなく井筒から九重に年寄名跡をして12代九重となり、弟子たちには兄貴分のように接していた北の富士さん。千代の富士や保志を横綱に育てあげたのは皆さまご存知の通り。
    愛弟子の 千代の富士と北勝海の競演による、足掛け三年かけての “同部屋力士による10場所連続幕内優勝”は、年間ふた場所時代の、大正6年〜10年に本場所全制覇した(栃木山・大錦・常ノ花による)出羽ノ海部屋10連覇に並ぶ史上最多タイ記録。

    昨年秋に亡くなった15代井筒(元関脇逆鉾)も、やはりファンサービスを惜しまない、とても気さくな親方で、番記者のインタビュー対応が軽妙でしたね。

    豊ノ島関改め16代井筒親方も気さく過ぎるほど気さくな親方になるでしょうね。そう期待しています。
    豊ノ島関そっくりだったお父様は、まだご健在でしようか?
    舛席で我が子を応援する姿がテレビ画面に映ったことがありましたが、父と息子があんなに似た顔になるかな!?と思うほど似てました。引退相撲にお見えになるかな?

    新・井筒親方には、小柄でも根性のある!土俵を割るまで勝負を諦めない力士、基礎稽古を愚直に反復し下半身を徹底的に鍛えて見応えのある相撲を取る力士を育てて欲しいと願います。

  • 投稿者:匿名

    豊ノ島が引退で年寄井筒を襲名したそうですが。
    井筒の年寄り株は借りたのでしょうか?
    将来、鶴竜が引退したら。
    亡くなった親方の井筒を襲名して
    井筒部屋を引き継ぐのかなと思っていたので。
    そう思いました。

  • 投稿者:keichan

    豊ノ島関、お疲れさまでした。
    巡業で、気さくに握手してくださったこと、写真撮影も応じてくださったこと、良い思い出です。
    バラエティ番組で観るまんまの、飾らない優しい方でした。
    ぜひ、大相撲チャンネルで、荒磯親方と中村親方と3人で盛り上がって欲しいです。いつまでも明るく、努力家な豊ノ島関でいてくださいね。

  • 投稿者:匿名

    豊ノ島が引退、年寄井筒を襲名します。
    豊ノ島はかつて「錦島」を保有していましたが、朝赤龍に譲渡しました。

  • 投稿者:匿名

    昔、佐ノ山親方(元・小錦)が業界を去った時を思い出した。
    小錦で芸能活動していたら、「小錦」は使用しないで欲しいという角界からの要求に「KONISHIKI」と改名。
    当時、子供心に角界って厳しいなって思った。
    その後、小錦を名乗る力士いないなぁ。
    今の高砂部屋は「朝」だからか? 「朝汐」を名乗る力士が先に現れそう。

  • 投稿者:KON

    私の大相撲コレクション 2
    サイン色紙

    いくつもありますが、
    現役を引退した直後で、髷が残ったワイシャツ姿のご本人から、現役四股名と襲名した年寄名を連記してもらった色紙
    豊真将関(立田川親方)
    嘉風関(中村親方)

    立田川親方には、ゴールデンウィークに行なわれていた両国にぎわい祭りの会場(国技館通り)に出店していた ちゃんこの出店 “寺尾”の屋台の前に立っていた立田川親方にサインを貰えました。現役引退への引鉄となった膝と足首の怪我について訊ねたところ『これは治らないので、痛みと付き合って生きていきます。心配して頂いてありがとうございます。』と丁寧に御礼されました。
    中村親方には、今年の初場所初日、観戦に行った際に、国技館内の相撲茶屋小路にて、引退相撲の挨拶まわりでお茶屋さんを一軒一軒訪ねていた中村親方に、声をおかけして、「 お忙しいところ、すみませんが、サインをお願いできますか? 」と訊ねたら、いったんは、世話役らしき男性に制止されたのですが、中村親方が、『いや、せっかくだからお書きします』と歩みを止めて、書いて下さいました。そして、やはり、怪我の具合を訊ねたところ、私の目をしっかり見て、『ありがとうございます。ゆっくりじっくり治したいと思います』と答えて戴けました。

    同じ日(今年の初場所初日)、前夜から寒さを我慢して並んで、整理券をゲットし、二階椅子席の自由席を確保して、やっと座れた!と思って土俵の方に目をやると、二階席のかなり前列のA席とB席の間の通路に、髪を七三分けにした荒磯親方が場内整理にあたっていました。早速、数人の女性ファンが握手したり写真撮っていたので、ようやく座った最上段の自由席でしたが、稀勢の里が塩を蒔いて、その塩が放物線を描いてる美しい写真をあらかじめ貼っておいた色紙とマジックを手に20段ぐらい降りていきました。すでに5人くらい、サインだ・写真だ と並んでいて、とても場内整理どころではなく、もう一人の若手親方がその任にあたってました。私の番になったので、「サインをお願いできますか?」と その写真つき色紙を出すと、写真のところに視線がいって、『おっ?』と言いながら、ニコッと微笑んで、サインをしてくれました。
    色紙を受け取りながら、「 亡くなった鳴戸親方のように、横綱と大関を育ててくださいね」と言うと、目を見開いてこちらを見て、『はい!そうします。』と力強く答えてくれました。

    これら、どれも、忘れられない思い出です。

    定年直後に相撲塾講師として再雇用されたばかりの大山親方にお願いしてサインを書いてもらった色紙も思い出深いです。
    東京場所の初日前日の相撲塾受講の直後に、国技館正面玄関で、色紙にサインをと、お願いしたら
    『えっ!私なんかでいいんですか? 本当に?私のサイン? へへ、嬉しいなあ』と恐縮されていらっしゃいました。謙虚な方でしたねえ。

    どちらも、サインして戴いた色紙そのものはもちろん、その時のやりとりの思い出が、嬉しく、そして貴重な思い出です。

  • 投稿者:匿名

    日馬富士はもういないし、力士でもない!(笑)

  • 投稿者:SAI

    4月14日は日馬富士の誕生日です♪
    掛け投げ・裾払い・吊り落とし
    モンゴル相撲で培った技は凄かったです!
    今はモンゴル日馬富士学園理事長です
    これからも頑張って下さい♪

  • 投稿者:KON

    私の大相撲コレクション 1
    錦絵
    明治最初の横綱だった鬼面山谷五郎(武隈部屋)が「不知火型土俵入り」をする姿、土俵の上には対戦相手の初代梅ヶ谷藤太郎(玉垣部屋)が仁王立ちしているという、錦絵らしいアンバランスな組み合わせの相撲錦絵が、私の部屋の壁に飾ってあります。
    土俵の上では裃袴姿の行司:木村誠道
    絵の下半分、土俵の下には、
    「露払い」の劔山谷右ヱ門、「太刀持ち」の千年川。高砂や朝汐の姿も見えます。
    ・・行司に木村誠道、っていうのが、鬼面山や初代梅ヶ谷とは、時代がずれているのでは?と、はなはだ疑問なのですが、まあ錦絵なので許容範囲かな?と納得することにしてます。

    「不知火型」とタイトルが、描かれてありますが、右手を腹から胸にあてて、左手は横に伸ばしてせり上がる形。昭和初期に、記憶違い甚だしい論客・彦山光三氏の強弁により、江戸後期に土俵入りが美麗だった、第11代横綱の不知火光右衞門の攻守兼ね備えた型を「雲竜型」にされ、両腕を力強く開いて上げていく第10代横綱の雲竜久吉の攻撃一本槍の型を「不知火型」にされてしまいました。
    当時の協会幹部に 反論する意見や証拠たるものが乏しく、それ以降、の歴代の協会執行部も、一向にその間違いを訂正する意欲が見られず、興味もないのか、「定着しちゃったんだし、今さら、どっちでもいいんじゃないか? 面倒くさいし」ということなのか? 雲竜型・不知火型は、呼称を取り違えられたまま 令和の現在に至るまで、直されていません。
    その間違いの証拠のひとつ とも言える錦絵です。
    まあ、横綱土俵入りは、せり上がり だけでなく、綱の結び目の形も違いがあるので、正面から見た姿だけでは論じられないものではありますが。
    初代若乃花が二子山理事長だった頃、新横綱が土俵入りの練習をするために一門の力士や親方が集まり、綱打ちをしたり、横綱土俵入りの指導がありましたが、横綱経験者だった親方が あれやこれや時間をかけて指導していたのを見ていた二子山が、『基本だけ教えて、あとは好きにやらせ! この横綱がやった土俵入りの形が彼の土俵入りの型になるんだ!』と一括。 一所懸命 指導していた佐渡ケ嶽親方がシュンとなってしまっていました。

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