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北の富士さん 舌好調 今朝の定例投稿でも『まずお目当ての大一番。豊昇龍と王鵬の一番。十一日目、阿炎にいいところなく敗れた王鵬に対し、かなり辛辣に批判したものですから、読者の皆さんに合わせる顔もありませんが、私の予想は外れやすくなっています。「夜明けのふんどし」みたいなものです。……』 ベテランの落語家さんが昔よく用いていた昭和の頃の“下ネタ比喩”ですが、便秘で苦しんだ先週末とは打って変わって、大腸・直腸などの体調も宜しいみたいで、投稿終盤では『力士諸君、残る3日間頑張ろう。そうだ、この日から外出が許されるらしい。夜の街に出て、うんと美味しい物を食べることだ。私も今夜は外出したい気分ではある。それでは、ごきげんよう。 』と締めくくりました。 夜の中洲へお出ましですね?
訃報 名行司庄之助 逝く 36代木村庄之助の山崎敏廣さんが23日午後11時1分、肺がんのため東京都江戸川区の自宅で死去した。日本相撲協会が24日、発表した。74歳だった。6月から体調を崩して入退院を繰り返し、今月17日に本人の希望で病院から自宅に戻っていた。 山崎さんは1948年昭和23年5月16日、鹿児島県生まれ。鹿児島・枕崎中卒業後、相撲界に入り、1964年に初土俵を踏んだ。 9代式守与之吉、10代式守勘太夫をへて、2008年夏場所から立行司の38代式守伊之助、2011年九州場所から36代木村庄之助を襲名した。立行司を務めてから5年間、差し違えは1番のみという名行司だった。 相撲字の腕もすぐれ、2000年春場所から2007年秋場所までは戦後6人目となる番付の書き手を務めた。2013年4月には、JR枕崎駅が新駅舎になった際、駅名の看板を揮毫(きごう)した。 2013年夏場所で定年。同年12月には文科相からスポーツ功労者顕彰を贈られていた。 今の伊之助さんや玉治郎よりも、動きも数段機敏で力士にぶつかることなどありませんてした。 ご冥福をお祈りします
昨日は雨で仲間もそれぞれ家観戦だったから、北の富士さんラジオ忘れて芝田山聞いてしまった! 大失敗の日だね。 オバァ的には何とか高安に優勝させてあげたいんだけどねー あれだけ苦杯を味わっているんだから、何とかねー 落ち着いているし、頑張ってほしい。
間違えたコメントすいませんでした! 翠富士が技ありの右の掬い投げを決めました! 安美錦もビックリ? これからも頑張って下さい♪ 相撲・レスリング・ボクシング 格闘技が強い静岡県の飛龍高校 これからも頑張って下さい♪
今朝の読売新聞に「1横綱1大関の危機」と題して『1横綱1大関の番付は1909明治42年に横綱の地位が明文化されて以降、例がない』 とありましたが これは間違いですね。 横綱の地位が明文化されたのは 1890明治23年。 1909明治42年(6月夏場所)は、個人優勝制度が確立された年です。最初の優勝者は前頭7枚目だった高見山酉之助が7勝0敗3分で、東横綱の常陸山(7勝1敗2分)や西横綱の二代梅ヶ谷(5勝0敗5分)、西大関の太刀山(8勝2敗)を上回ったとして初の幕内個人優勝者となりました。 横綱・大関があわせて二人というのは、明治30年5月夏場所。東大関に小錦 八十吉、西大関に鳳凰 馬五郎が居ただけでした。 “横綱”は、明治23年、すでに横綱免許を受けていた初代西ノ海嘉治郎が前場所の成績不振により「張出大関」とされた番付に文句をつけて関係がこじれ、明治維新後もまだ薩摩藩勢力の影響が強く、考えあぐねた東京相撲協会が 妥協策というか折衷案として、最上位である番付欄の横の余白部分に張り出した“横綱”として西ノ海を承諾させ、明治23年5月夏場所~明治29年1月春場所までの間、大関とは別に“横綱 西ノ海”が番付に載っていた。 そして以降の小錦八十吉や大砲万右エ門も “横綱”という呼称をつけて番付に載せるのが10年以上も慣例となったのだそうです。 で、明治42年に、後づけでの規約改正として最上位を横綱とするとなったようです。
先場所の優勝力士 玉鷲が今日で負け越してしまいましたね。 今年、毎場所毎場所 異なる力士が優勝して、話題には事欠かないのですが、 初場所からの優勝力士5人とも、翌場所翌々場所から不調を極めてますね。 初場所優勝の御嶽海は 翌場所こそ11勝しましたが翌々場所では、6勝9敗、その次の場所には2勝5敗8休 春場所優勝の若隆景も 翌場所勝ち越しはしましたが二桁ならず で9番、翌々場所8番 夏場所優勝の照ノ富士にしても 翌場所11番で優勝を逃し翌々場所には5勝5敗5休 名古屋場所優勝の逸ノ城は 翌場所で6勝9敗と負け越して三役から平幕へ陥落、翌々場所となる今場所も2勝9敗。 先場所(秋場所)優勝した玉鷲は ご承知のように翌場所となる今場所、3勝8敗で負け越しが決まりました。 優勝した後に、挨拶まわりやら後援会との宴から稽古不足になっているのか。 どんぐりの背比べ状態で、少しの慢心により勝てなくなってしまってるのでしょうか?
高安 9勝目 休まず動きまわる元気いっぱいの錦富士を落ち着いて捌いてましたねえ。 土俵際、勝負がついた後、蛇の目に膝から落ちた高安が痛そう。 1敗力士を追う形になってますが、先頭で走ってマスコミ陣から「優勝を意識しますか?」「念願の初優勝へ向けて……」とうるさい質問が飛び、最終盤で硬くなってしまって優勝を逃してましたから、追いかける展開のほうが高安にとって好ましいのでは?
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北の富士さん 舌好調
今朝の定例投稿でも『まずお目当ての大一番。豊昇龍と王鵬の一番。十一日目、阿炎にいいところなく敗れた王鵬に対し、かなり辛辣に批判したものですから、読者の皆さんに合わせる顔もありませんが、私の予想は外れやすくなっています。「夜明けのふんどし」みたいなものです。……』
ベテランの落語家さんが昔よく用いていた昭和の頃の“下ネタ比喩”ですが、便秘で苦しんだ先週末とは打って変わって、大腸・直腸などの体調も宜しいみたいで、投稿終盤では『力士諸君、残る3日間頑張ろう。そうだ、この日から外出が許されるらしい。夜の街に出て、うんと美味しい物を食べることだ。私も今夜は外出したい気分ではある。それでは、ごきげんよう。 』と締めくくりました。
夜の中洲へお出ましですね?
やりました!
ザ・番狂わせ!
王鵬が豊昇龍を下しました。
誰しも豊昇龍の勝ちと思ってた中で、立ち合いでの当たり勝ち!
花道でのインタビューで
『楽しかったです』
と、驚きのコメントでした。
訃報
名行司庄之助 逝く
36代木村庄之助の山崎敏廣さんが23日午後11時1分、肺がんのため東京都江戸川区の自宅で死去した。日本相撲協会が24日、発表した。74歳だった。6月から体調を崩して入退院を繰り返し、今月17日に本人の希望で病院から自宅に戻っていた。 山崎さんは1948年昭和23年5月16日、鹿児島県生まれ。鹿児島・枕崎中卒業後、相撲界に入り、1964年に初土俵を踏んだ。
9代式守与之吉、10代式守勘太夫をへて、2008年夏場所から立行司の38代式守伊之助、2011年九州場所から36代木村庄之助を襲名した。立行司を務めてから5年間、差し違えは1番のみという名行司だった。 相撲字の腕もすぐれ、2000年春場所から2007年秋場所までは戦後6人目となる番付の書き手を務めた。2013年4月には、JR枕崎駅が新駅舎になった際、駅名の看板を揮毫(きごう)した。 2013年夏場所で定年。同年12月には文科相からスポーツ功労者顕彰を贈られていた。
今の伊之助さんや玉治郎よりも、動きも数段機敏で力士にぶつかることなどありませんてした。
ご冥福をお祈りします
昨日は雨で仲間もそれぞれ家観戦だったから、北の富士さんラジオ忘れて芝田山聞いてしまった!
大失敗の日だね。
オバァ的には何とか高安に優勝させてあげたいんだけどねー
あれだけ苦杯を味わっているんだから、何とかねー
落ち着いているし、頑張ってほしい。
間違えたコメントすいませんでした!
翠富士が技ありの右の掬い投げを決めました!
安美錦もビックリ?
これからも頑張って下さい♪
相撲・レスリング・ボクシング
格闘技が強い静岡県の飛龍高校
これからも頑張って下さい♪
今朝の読売新聞に「1横綱1大関の危機」と題して『1横綱1大関の番付は1909明治42年に横綱の地位が明文化されて以降、例がない』
とありましたが
これは間違いですね。
横綱の地位が明文化されたのは
1890明治23年。
1909明治42年(6月夏場所)は、個人優勝制度が確立された年です。最初の優勝者は前頭7枚目だった高見山酉之助が7勝0敗3分で、東横綱の常陸山(7勝1敗2分)や西横綱の二代梅ヶ谷(5勝0敗5分)、西大関の太刀山(8勝2敗)を上回ったとして初の幕内個人優勝者となりました。
横綱・大関があわせて二人というのは、明治30年5月夏場所。東大関に小錦 八十吉、西大関に鳳凰 馬五郎が居ただけでした。
“横綱”は、明治23年、すでに横綱免許を受けていた初代西ノ海嘉治郎が前場所の成績不振により「張出大関」とされた番付に文句をつけて関係がこじれ、明治維新後もまだ薩摩藩勢力の影響が強く、考えあぐねた東京相撲協会が 妥協策というか折衷案として、最上位である番付欄の横の余白部分に張り出した“横綱”として西ノ海を承諾させ、明治23年5月夏場所~明治29年1月春場所までの間、大関とは別に“横綱 西ノ海”が番付に載っていた。
そして以降の小錦八十吉や大砲万右エ門も “横綱”という呼称をつけて番付に載せるのが10年以上も慣例となったのだそうです。
で、明治42年に、後づけでの規約改正として最上位を横綱とするとなったようです。
阿炎の突っ張りが強いです!
寺尾さんもビックリ?
霧馬山が右の外掛けを決めました!
鶴竜力三郎もビックリ?
翠富士がありの掬い投げを決めました!
安美錦もビックリ?
これからも頑張って下さい♪
ф(^∇^◆) 豊昇龍が強いですね。
朝青龍のお兄さんの次男で、顔立ちがよく似ています。
雰囲気は、朝青龍&千代の富士を合わせた感じのオーラが漂い、いつかは横綱になると思います。
先場所の優勝力士 玉鷲が今日で負け越してしまいましたね。
今年、毎場所毎場所 異なる力士が優勝して、話題には事欠かないのですが、
初場所からの優勝力士5人とも、翌場所翌々場所から不調を極めてますね。
初場所優勝の御嶽海は
翌場所こそ11勝しましたが翌々場所では、6勝9敗、その次の場所には2勝5敗8休
春場所優勝の若隆景も
翌場所勝ち越しはしましたが二桁ならず で9番、翌々場所8番
夏場所優勝の照ノ富士にしても
翌場所11番で優勝を逃し翌々場所には5勝5敗5休
名古屋場所優勝の逸ノ城は
翌場所で6勝9敗と負け越して三役から平幕へ陥落、翌々場所となる今場所も2勝9敗。
先場所(秋場所)優勝した玉鷲は
ご承知のように翌場所となる今場所、3勝8敗で負け越しが決まりました。
優勝した後に、挨拶まわりやら後援会との宴から稽古不足になっているのか。
どんぐりの背比べ状態で、少しの慢心により勝てなくなってしまってるのでしょうか?
高安 9勝目
休まず動きまわる元気いっぱいの錦富士を落ち着いて捌いてましたねえ。
土俵際、勝負がついた後、蛇の目に膝から落ちた高安が痛そう。
1敗力士を追う形になってますが、先頭で走ってマスコミ陣から「優勝を意識しますか?」「念願の初優勝へ向けて……」とうるさい質問が飛び、最終盤で硬くなってしまって優勝を逃してましたから、追いかける展開のほうが高安にとって好ましいのでは?