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壁 柏・鵬 最後に大鵬vs北の富士。 大相撲中継の解説席で北の富士さんが何度も語ってましたが、 『柏戸さんは立ち合いで当たると硬くて強くて痛かった。嫌だったねえ。そして顔がね、柏戸さんの顔が怖かった。』 『大鵬さんは とにかく負けない相撲を取っていた。得意の左四つになっても向こうも左四つ十分で、私の攻めが通じなくて、力を吸収されてしまい、いつの間にか負けていた。支度部屋に戻って、“あとちょっとで勝てそうだったなぁ”という気になったのですが、その次の対戦でも もう少しのところで負けてしまう……この連続だったね。』 の言葉通り、北の富士は初顔から大鵬に5連敗、11戦目からは全く勝てずに14連敗。 突っ張りからのはたき・左四つからの上手投げ・攻めながらの外掛けなど 北の富士得意の勝ちパターンは通じず、結局、北の富士は対大鵬戦を5勝26敗と惨敗で終えました。だった 文字通りの “壁” だったのでした。
壁 2 柏・鵬 残念だったのは、玉の海がさらに強くなって大鵬を名実ともに超える姿を見ることが叶わなかったことですねえ。 北の富士と横綱同時昇進した玉の海は抜群の安定感を示して横綱在位10場所で優勝4回・準優勝5回。 休場ゼロ 横綱勝率.867 金星配給率の低さは昭和以降トップ! 「ひと場所平均の金星配給数が 0.3個」だった玉の海でした。 2位は白鵬の0.31、3位が玉錦の0.33。 大正以前だと、太刀山の横綱在位6年半(15場所)で 0.00 →つまり金星をひとつも与えなかった!! という不滅の記録が残ってます。 玉の海は、1971昭和46年、恩師でもある大鵬の引退相撲に「太刀持ちとして絶対に出席する」ことを最優先したが為に、夏前から盲腸炎が悪化していたのにも関わらず本場所に出場し続け、虫垂炎をこじらせての腹膜炎。 緊急手術して治ったかにみえ、翌日の退院予定も決まっていた10月11日、術後の肺血栓で急死。肺動脈に直径5cmもの大きさの血の塊があって血流を塞いでしまったのが原因だったそうです。 享年27歳 残念無念!
“ご意見番”武蔵丸が疑問視 まずは大関霧島、1年の最後となる11月九州場所を、大関が優勝で締めてくれたね。ただ、13勝と数字上で勝ってるのは勝ってるんだけれど、「強かったなぁ」との印象が薄くて、ピリッとしなかったんだよね。引く相撲が何番かあった。引くのではなくて、立ち合いで当たって前に持っていく相撲を取らないとな。 同じく大関の豊昇龍もそう。大関になってから守りに入っている。 貴景勝への疑問 成績次第で横綱昇進が話題になった貴景勝だったけれど、9勝6敗に終わった。ケガの影響もあって稽古も思うようにできないとは思うんだけれど、やはり稽古が足りないのが見ていてわかる。突き押しにも勢いがなかった感じだな。 いつも言ってるんだけれど、もちろん、ある程度の筋肉維持のためのトレーニングは必要だと思うよ。うちの部屋でも、ジムと契約してトレーニングに通ってるし。でも、もう幕下の若い子じゃないんだから、大関として肉体は出来上がっているんだよね。もし今の状態に悩んでいるのだったら、これから特に必要なのは、原点に戻っての“相撲力(ぢから)”なんだ。近代的なトレーニングばかりではなく、やっぱり徹底的に四股、すり足、てっぽうをやって、相撲のための“しなやかに動ける筋肉”を大事にすること。最近では専属トレーナーを付けたりするお相撲さんも多いけど、トレーナーの話ばっかり聞いてちゃあダメなんだよ(笑)。 現役時代、アメフト――NFLの研究に協力したことがあるんだけれど、四股、すり足、てっぽうって、相撲という競技に適した体作りに、驚くほどにピッタリなんだって。科学的にも証明されて、昔のお相撲さんたち――先人たちの知恵にみんなでびっくりしてたんだ。一点に立ったままダンベル上げ下げしたって、たかが知れてるんだよね。硬い筋肉をつけ過ぎちゃダメで、体が動かなくなる。ボディビルダーみたいに、筋肉見せてポーズつけるのが仕事じゃないんだからな。 武蔵丸の苦言
壁2 柏・鵬 大鵬vs玉乃島(玉の海)は、 同じ二所一門ということがあって、はじめは、直接対戦がなかったのですが、“部屋別総当たり制度導入”により昭和40年初場所から二人の対戦が始まりました。 その初場所初日、横綱大鵬vs小結玉乃島が実現。注目の一番は玉乃島が内掛けで大鵬に尻餅をつかせました。 二所一門の荒稽古にて三番稽古で散々強いて(しごいて)貰ったおかげで強くなれた玉乃島。 取組後、敗者の弁を聞こうと集まった相撲番記者たちに囲まれた大鵬がインタビューを受けながらながら髷を直して貰っている東の支度部屋へ挨拶に赴いた玉乃島が「ごっつぁんでした」と鍛えてもらった御礼を述べると『おう、強くなったな』と玉乃島に声をかけた大鵬。 成長著しい一門の後輩に対して 若干余裕を感じさせる大鵬のコメントでしたが、この2場所後の夏場所と翌名古屋場所でも玉乃島に土をつけられてしまいました。 “限界説”まで新聞紙面に登場する始末に 焦った大鵬は、対策を徹底的に研究し、微塵の油断もしまいと、この年の秋場所から なんと、直接対戦16連勝して大きく厚い壁となりました。 大鵬が行なった工夫は、立ち合いで玉乃島得意の右差しを許さないように両手をクロスさせて当たり、毎場所のように大鵬得意の左四つに持ち込んでいました。 右の上手を強烈に引きつけておいて左の差し手を返す大鵬。右上手を取らせない状態からさらに右上手を引きつけ、玉乃島(途中から玉の海に改名)を半身(はんみ)に近い状態に浮かせておいて掬い投げ(すくいなげ)で仕留めることが多かったですねえ。 左すくい投げに右の引きつけを加えた「併せ技」で、「呼び戻し」のような大技で、大正時代の強豪横綱太刀山(横綱勝率.966で歴代1位)を彷彿とさせる投げ技で、すでに横綱昇進を果たしていた玉の海を赤子手をひねるようにひっくり返していました。 最終対戦成績は大鵬20勝ー玉の海6勝
壁2 柏・鵬 『次代のホープに負けて自信をつけさせることも横綱の役目なんだ』と二子山理事長となった元横綱初代若乃花がインタビューでコメントしていましたが、 最初に4連勝して力の差を見せつけ、その後甲乙つけ難い勝負となっていく……北の富士にとって まさに理想的な “ 壁 ” となった柏戸でした。 柏戸は玉の海(当時は まだ玉乃島)に対しても、最初の6戦は柏戸5勝ー玉乃島1勝と柏戸が圧倒してました。 が、右の相四つということもあり、玉乃島が、大関に上がった頃には 右四つの型を完成させていた玉乃島を速攻では攻めきれず、ガップリ四つになる相撲が多くなりました。 土俵際で残され得意の電車道で一気に勝負をつけられなくなった柏戸が 土俵中央まで寄り返されてガップリ四つ相撲となると肩幅の広い玉乃島の肩越しに上手を取ることが増え、そもそも腰の位置の低い玉乃島にしてやられる場面が増え、玉乃島が大関に昇進してからは玉乃島10勝ー柏戸5勝と逆転。 特にラストの5戦は、柏戸の糖尿病の悪化と肝機能障害も発症して寄り切られたり吊り出されたりと全く勝負にならず、玉乃島の5連勝で終わりました。
「壁」2 栃・若から引き継いで角界の屋台骨を背負うことになった 大鵬・柏戸も 彼らの次に角界を担うだろうと言われた 北の富士 と 玉乃島(後の 玉の海) の“壁”になりました。 北の富士vs柏戸は、柏戸が貫禄の4連勝でスタートし、10戦終えた時点でも柏戸7勝に対して北の富士3勝と 速攻の柏戸が 同じタイプの北の富士の強烈なうわ突っ張りをモノともせず “電車道”の速攻で北の富士を土俵下まで持っていく相撲でリードしてました。 DVD“柏鵬”を見返しても、陸上の短距離走のスタートのようにぶつかってそのままダッシュしてくる柏戸に対して土俵際で残すこともできない北の富士が土俵下に尻から転落、勝った柏戸も勢い余ってそのまま北の富士の上に覆い被さって勝負檢査役(昭和43年以降~今の呼称は勝負審判、明治初期からの呼称が「勝負檢査役」、明治初期以前の呼称は「中改=なかあらため」)の上に二人して落下していました。 足首を、痛そうに引きずりながら土俵にあがって勝ち名乗りを受ける柏戸の姿を何度も見ました。 柏戸vs北の富士の直接対戦での11戦目以降は7勝7敗の五分。 当たってから のど輪で柏戸の上体を起こしておいて “得意の黄金の引き足”ではたいたり、立ち合いで当たってすぐに横から攻めたり、自分十分の左四つになれたと同時に動きまわって左差し手をかえし右手で柏戸の肩口をおさえて渾身の肩透かしを喰らわしたり、攻め込まれて土俵際に追いつめられた瞬間に捨て身の首投げを繰り出して腰高気味に寄ってくる柏戸をひっくり返したり……。 柏戸が勝った決まり手は「寄り切り」「寄り倒し」「浴びせ倒し」「押し出し」ばかり。 一方、北の富士は「うっちゃり」「外掛け」「首投げ」「はたき込み」「肩透かし」などで、柏戸の一気の寄り=速攻をなんとか食い止めてから あの手この手で勝ち星を挙げていた北の富士でした。
壁 大鵬と柏戸は、ご存知のように二人揃って横綱へ同時昇進した昭和36年から44年までの9年間、“柏・鵬時代”として角界を背負っていきました。 無類の攻め一辺倒の相撲が故に怪我と病気で休場がちだった柏戸ですが、負けない相撲で鉄壁の守りの相撲を見せていた大鵬とは五分五分の星でした。 栃ノ海や佐田の山・北の富士や豊山ら他のすべての力士との対戦成績で圧倒していた大鵬でしたが、“一気の寄り”で攻めてくる柏戸とだけは、21回目の対戦でやっと11勝10敗と初めて勝ち越しましたが、その後3連敗などしてひっくり返され、27度目の対戦で再度大鵬が勝ち越し。 結局、晩年に柏戸の糖尿病が悪化し一般人なみに脚が細くなってしまった昭和42年9月場所以降では 大鵬が対柏戸5連勝して二人の本割りでの直接対戦を終えたのですが、それまでの本割りでは 大鵬16勝 vs 柏戸16勝 と全くの五分五分でした。 優勝回数を比べると大鵬32回vs柏戸5回と大きな差がついた二人でしたが、毎場所のように千秋楽の結びで 桟敷席からの『待ってましたぁ!ご両人!!』の掛け声も多数かかり、東西から登場した柏戸と大鵬が全く互角の熱戦を毎場所のように繰り広げて千両役者ぶりを発揮し続けたからこそ、『 “栃若時代”のあとの 柏・鵬時代』と呼ばれ、大相撲人気を牽引し、 怒涛の如く番付を上がってくるニュースターたちの壁となることによって、彼らを鍛え、 その後の『北玉時代』『貴輪湖時代』『千代の富士1強時代』『若貴&曙武蔵時代』と大相撲の繁栄が続いたのでしたね。
壁 大正生まれの栃錦は 大鵬が入幕2場所目の昭和35年3月場所4日目に対戦して「押し出し」で栃錦が勝っています。 栃錦vs.大鵬はこの一度だけ。 栃錦vs柏戸は 「寄り切り」「押し出し」「上手投げ」「すくい投げ」「突き落とし」で栃錦の5勝0敗とサラブレッド柏戸を手玉に取っての完勝でした。 初代・若乃花は 晩年だった昭和35年8月の夏巡業で新大関・柏戸、関脇・大鵬と三番稽古をやり、柏戸とは20番の三番稽古で一度吊り出されただけ、大鵬とは 25番に及んだ三番稽古で2度土俵を割っただけ。 この時の若乃花は完全に二人を圧倒しました。 因みに若乃花vs.柏戸は本場所では6勝6敗、 夏巡業でみっちり鍛えられた柏戸が翌月の秋場所こそ上手投げで若乃花の投げ技に敗れたものの九州場所から押し出し→寄り切り→吊り出し→寄り切りと4連勝。 最終の手合わせとなった37年初場所は 33歳のベテラン横綱若乃花が上手出し投げで23歳の若き横綱の柏戸を投げ捨てました。 若乃花と大鵬は同じ二所一門だったので、“二所の荒稽古”でみっちり若乃花に しごかれた大鵬は『若乃花関のおかげで下半身強化に磨きがかかった』と後述しています。 この当時は 「同門対決」はありませんでしたので本場所では対戦なし。 栃錦は本場所の土俵で、若乃花は巡業や一門の稽古で それぞれが「柏・鵬にとっての壁」となって横綱の威厳を体感させてバトンタッチしていったのでした。
壁 栃・若は、ちゃんと柏・鵬の壁になった! まだ年間4場所(1月・3月・5月・9月の本場所興行)だった昭和30年初場所にて序ノ口デビュー。 翌々昭和32年に11月の九州場所が本場所に加わり、年間5場所へ、33年には7月本場所に昇格した名古屋場所が初開催されました。 その場所で “角界のサラブレッド”と期待されていた新鋭の富樫 剛=19歳 (後の柏戸)が十両4枚目で12勝3敗の好成績で新入幕を決めました。 十両を5場所で通過した富樫、その間50勝25敗。 その50勝の内訳は “寄り切り“ “寄り倒し“ “押し出し” “押し倒し” ”突き出し” ”吊り出し”ばかり。“はたき込み”や“引き落とし”がひとつもない完全正攻法の相撲で『次代を背負うホープ』と新聞で大見出しが打たれていました。 その富樫(柏戸)から2年遅れての初土俵となった二所ノ関部屋の納谷(後の大鵬)も僅か2年半で関取へ、丸3年で新入幕と 昇り龍のように番付を駆け上がってきた大鵬。 衰えが見えてきた栃錦・若乃花の両横綱の次の世代だと期待されました。 この長身・正攻法のハンサムな若武者二人(柏戸と大鵬)の前に 栃・若が壁として立ち塞がりました。
来場所(令和6年初場所)は久しぶりに関脇が2名のみになりそうです。 予想番付 横綱 照ノ富士 東横綱 (九州場所全休) 東大関 霧 島 (九州13勝2敗) 西大関 豊昇龍 (九州10勝5敗) 西大関2 貴景勝 (九州 9勝6敗) 東関脇 大栄翔 (九州 9勝6敗) 西関脇 琴ノ若 (九州11勝4敗) 東小結 高 安 (九州 10勝5敗) 西小結 宇 良 (九州 8勝7敗) 東前頭筆頭 若元春 (九州 6勝9敗) 西小結筆頭 熱海富士 (九州 11勝4敗) 東前頭2 翠富士 (九州 9勝6敗 西前頭2 豪ノ山 (九州 8勝7敗 東前頭3 阿 炎 (九州 6勝9敗 西前頭3 北勝富士 (九州 5勝10敗 東前頭4 翔 猿 (九州7勝8敗 西前頭4 正 代 (九州 6勝9敗 東前頭5 竜 電 (九州 10勝5敗 西前頭5 錦 木 (九州 7勝8敗
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,649件 』
壁 柏・鵬
最後に大鵬vs北の富士。
大相撲中継の解説席で北の富士さんが何度も語ってましたが、
『柏戸さんは立ち合いで当たると硬くて強くて痛かった。嫌だったねえ。そして顔がね、柏戸さんの顔が怖かった。』
『大鵬さんは とにかく負けない相撲を取っていた。得意の左四つになっても向こうも左四つ十分で、私の攻めが通じなくて、力を吸収されてしまい、いつの間にか負けていた。支度部屋に戻って、“あとちょっとで勝てそうだったなぁ”という気になったのですが、その次の対戦でも もう少しのところで負けてしまう……この連続だったね。』
の言葉通り、北の富士は初顔から大鵬に5連敗、11戦目からは全く勝てずに14連敗。
突っ張りからのはたき・左四つからの上手投げ・攻めながらの外掛けなど 北の富士得意の勝ちパターンは通じず、結局、北の富士は対大鵬戦を5勝26敗と惨敗で終えました。だった
文字通りの “壁” だったのでした。
壁 2 柏・鵬
残念だったのは、玉の海がさらに強くなって大鵬を名実ともに超える姿を見ることが叶わなかったことですねえ。
北の富士と横綱同時昇進した玉の海は抜群の安定感を示して横綱在位10場所で優勝4回・準優勝5回。 休場ゼロ
横綱勝率.867
金星配給率の低さは昭和以降トップ!
「ひと場所平均の金星配給数が 0.3個」だった玉の海でした。
2位は白鵬の0.31、3位が玉錦の0.33。
大正以前だと、太刀山の横綱在位6年半(15場所)で 0.00 →つまり金星をひとつも与えなかった!! という不滅の記録が残ってます。
玉の海は、1971昭和46年、恩師でもある大鵬の引退相撲に「太刀持ちとして絶対に出席する」ことを最優先したが為に、夏前から盲腸炎が悪化していたのにも関わらず本場所に出場し続け、虫垂炎をこじらせての腹膜炎。
緊急手術して治ったかにみえ、翌日の退院予定も決まっていた10月11日、術後の肺血栓で急死。肺動脈に直径5cmもの大きさの血の塊があって血流を塞いでしまったのが原因だったそうです。
享年27歳
残念無念!
“ご意見番”武蔵丸が疑問視
まずは大関霧島、1年の最後となる11月九州場所を、大関が優勝で締めてくれたね。ただ、13勝と数字上で勝ってるのは勝ってるんだけれど、「強かったなぁ」との印象が薄くて、ピリッとしなかったんだよね。引く相撲が何番かあった。引くのではなくて、立ち合いで当たって前に持っていく相撲を取らないとな。
同じく大関の豊昇龍もそう。大関になってから守りに入っている。
貴景勝への疑問
成績次第で横綱昇進が話題になった貴景勝だったけれど、9勝6敗に終わった。ケガの影響もあって稽古も思うようにできないとは思うんだけれど、やはり稽古が足りないのが見ていてわかる。突き押しにも勢いがなかった感じだな。
いつも言ってるんだけれど、もちろん、ある程度の筋肉維持のためのトレーニングは必要だと思うよ。うちの部屋でも、ジムと契約してトレーニングに通ってるし。でも、もう幕下の若い子じゃないんだから、大関として肉体は出来上がっているんだよね。もし今の状態に悩んでいるのだったら、これから特に必要なのは、原点に戻っての“相撲力(ぢから)”なんだ。近代的なトレーニングばかりではなく、やっぱり徹底的に四股、すり足、てっぽうをやって、相撲のための“しなやかに動ける筋肉”を大事にすること。最近では専属トレーナーを付けたりするお相撲さんも多いけど、トレーナーの話ばっかり聞いてちゃあダメなんだよ(笑)。
現役時代、アメフト――NFLの研究に協力したことがあるんだけれど、四股、すり足、てっぽうって、相撲という競技に適した体作りに、驚くほどにピッタリなんだって。科学的にも証明されて、昔のお相撲さんたち――先人たちの知恵にみんなでびっくりしてたんだ。一点に立ったままダンベル上げ下げしたって、たかが知れてるんだよね。硬い筋肉をつけ過ぎちゃダメで、体が動かなくなる。ボディビルダーみたいに、筋肉見せてポーズつけるのが仕事じゃないんだからな。
武蔵丸の苦言
壁2 柏・鵬
大鵬vs玉乃島(玉の海)は、
同じ二所一門ということがあって、はじめは、直接対戦がなかったのですが、“部屋別総当たり制度導入”により昭和40年初場所から二人の対戦が始まりました。
その初場所初日、横綱大鵬vs小結玉乃島が実現。注目の一番は玉乃島が内掛けで大鵬に尻餅をつかせました。
二所一門の荒稽古にて三番稽古で散々強いて(しごいて)貰ったおかげで強くなれた玉乃島。
取組後、敗者の弁を聞こうと集まった相撲番記者たちに囲まれた大鵬がインタビューを受けながらながら髷を直して貰っている東の支度部屋へ挨拶に赴いた玉乃島が「ごっつぁんでした」と鍛えてもらった御礼を述べると『おう、強くなったな』と玉乃島に声をかけた大鵬。
成長著しい一門の後輩に対して 若干余裕を感じさせる大鵬のコメントでしたが、この2場所後の夏場所と翌名古屋場所でも玉乃島に土をつけられてしまいました。
“限界説”まで新聞紙面に登場する始末に
焦った大鵬は、対策を徹底的に研究し、微塵の油断もしまいと、この年の秋場所から なんと、直接対戦16連勝して大きく厚い壁となりました。
大鵬が行なった工夫は、立ち合いで玉乃島得意の右差しを許さないように両手をクロスさせて当たり、毎場所のように大鵬得意の左四つに持ち込んでいました。
右の上手を強烈に引きつけておいて左の差し手を返す大鵬。右上手を取らせない状態からさらに右上手を引きつけ、玉乃島(途中から玉の海に改名)を半身(はんみ)に近い状態に浮かせておいて掬い投げ(すくいなげ)で仕留めることが多かったですねえ。
左すくい投げに右の引きつけを加えた「併せ技」で、「呼び戻し」のような大技で、大正時代の強豪横綱太刀山(横綱勝率.966で歴代1位)を彷彿とさせる投げ技で、すでに横綱昇進を果たしていた玉の海を赤子手をひねるようにひっくり返していました。
最終対戦成績は大鵬20勝ー玉の海6勝
壁2 柏・鵬
『次代のホープに負けて自信をつけさせることも横綱の役目なんだ』と二子山理事長となった元横綱初代若乃花がインタビューでコメントしていましたが、
最初に4連勝して力の差を見せつけ、その後甲乙つけ難い勝負となっていく……北の富士にとって まさに理想的な “ 壁 ” となった柏戸でした。
柏戸は玉の海(当時は まだ玉乃島)に対しても、最初の6戦は柏戸5勝ー玉乃島1勝と柏戸が圧倒してました。
が、右の相四つということもあり、玉乃島が、大関に上がった頃には 右四つの型を完成させていた玉乃島を速攻では攻めきれず、ガップリ四つになる相撲が多くなりました。
土俵際で残され得意の電車道で一気に勝負をつけられなくなった柏戸が 土俵中央まで寄り返されてガップリ四つ相撲となると肩幅の広い玉乃島の肩越しに上手を取ることが増え、そもそも腰の位置の低い玉乃島にしてやられる場面が増え、玉乃島が大関に昇進してからは玉乃島10勝ー柏戸5勝と逆転。
特にラストの5戦は、柏戸の糖尿病の悪化と肝機能障害も発症して寄り切られたり吊り出されたりと全く勝負にならず、玉乃島の5連勝で終わりました。
「壁」2
栃・若から引き継いで角界の屋台骨を背負うことになった 大鵬・柏戸も
彼らの次に角界を担うだろうと言われた 北の富士 と 玉乃島(後の 玉の海) の“壁”になりました。
北の富士vs柏戸は、柏戸が貫禄の4連勝でスタートし、10戦終えた時点でも柏戸7勝に対して北の富士3勝と 速攻の柏戸が 同じタイプの北の富士の強烈なうわ突っ張りをモノともせず “電車道”の速攻で北の富士を土俵下まで持っていく相撲でリードしてました。
DVD“柏鵬”を見返しても、陸上の短距離走のスタートのようにぶつかってそのままダッシュしてくる柏戸に対して土俵際で残すこともできない北の富士が土俵下に尻から転落、勝った柏戸も勢い余ってそのまま北の富士の上に覆い被さって勝負檢査役(昭和43年以降~今の呼称は勝負審判、明治初期からの呼称が「勝負檢査役」、明治初期以前の呼称は「中改=なかあらため」)の上に二人して落下していました。
足首を、痛そうに引きずりながら土俵にあがって勝ち名乗りを受ける柏戸の姿を何度も見ました。
柏戸vs北の富士の直接対戦での11戦目以降は7勝7敗の五分。
当たってから のど輪で柏戸の上体を起こしておいて “得意の黄金の引き足”ではたいたり、立ち合いで当たってすぐに横から攻めたり、自分十分の左四つになれたと同時に動きまわって左差し手をかえし右手で柏戸の肩口をおさえて渾身の肩透かしを喰らわしたり、攻め込まれて土俵際に追いつめられた瞬間に捨て身の首投げを繰り出して腰高気味に寄ってくる柏戸をひっくり返したり……。
柏戸が勝った決まり手は「寄り切り」「寄り倒し」「浴びせ倒し」「押し出し」ばかり。
一方、北の富士は「うっちゃり」「外掛け」「首投げ」「はたき込み」「肩透かし」などで、柏戸の一気の寄り=速攻をなんとか食い止めてから あの手この手で勝ち星を挙げていた北の富士でした。
壁
大鵬と柏戸は、ご存知のように二人揃って横綱へ同時昇進した昭和36年から44年までの9年間、“柏・鵬時代”として角界を背負っていきました。
無類の攻め一辺倒の相撲が故に怪我と病気で休場がちだった柏戸ですが、負けない相撲で鉄壁の守りの相撲を見せていた大鵬とは五分五分の星でした。
栃ノ海や佐田の山・北の富士や豊山ら他のすべての力士との対戦成績で圧倒していた大鵬でしたが、“一気の寄り”で攻めてくる柏戸とだけは、21回目の対戦でやっと11勝10敗と初めて勝ち越しましたが、その後3連敗などしてひっくり返され、27度目の対戦で再度大鵬が勝ち越し。
結局、晩年に柏戸の糖尿病が悪化し一般人なみに脚が細くなってしまった昭和42年9月場所以降では 大鵬が対柏戸5連勝して二人の本割りでの直接対戦を終えたのですが、それまでの本割りでは 大鵬16勝 vs 柏戸16勝 と全くの五分五分でした。
優勝回数を比べると大鵬32回vs柏戸5回と大きな差がついた二人でしたが、毎場所のように千秋楽の結びで 桟敷席からの『待ってましたぁ!ご両人!!』の掛け声も多数かかり、東西から登場した柏戸と大鵬が全く互角の熱戦を毎場所のように繰り広げて千両役者ぶりを発揮し続けたからこそ、『 “栃若時代”のあとの 柏・鵬時代』と呼ばれ、大相撲人気を牽引し、
怒涛の如く番付を上がってくるニュースターたちの壁となることによって、彼らを鍛え、
その後の『北玉時代』『貴輪湖時代』『千代の富士1強時代』『若貴&曙武蔵時代』と大相撲の繁栄が続いたのでしたね。
壁
大正生まれの栃錦は 大鵬が入幕2場所目の昭和35年3月場所4日目に対戦して「押し出し」で栃錦が勝っています。
栃錦vs.大鵬はこの一度だけ。
栃錦vs柏戸は 「寄り切り」「押し出し」「上手投げ」「すくい投げ」「突き落とし」で栃錦の5勝0敗とサラブレッド柏戸を手玉に取っての完勝でした。
初代・若乃花は 晩年だった昭和35年8月の夏巡業で新大関・柏戸、関脇・大鵬と三番稽古をやり、柏戸とは20番の三番稽古で一度吊り出されただけ、大鵬とは 25番に及んだ三番稽古で2度土俵を割っただけ。
この時の若乃花は完全に二人を圧倒しました。
因みに若乃花vs.柏戸は本場所では6勝6敗、
夏巡業でみっちり鍛えられた柏戸が翌月の秋場所こそ上手投げで若乃花の投げ技に敗れたものの九州場所から押し出し→寄り切り→吊り出し→寄り切りと4連勝。
最終の手合わせとなった37年初場所は 33歳のベテラン横綱若乃花が上手出し投げで23歳の若き横綱の柏戸を投げ捨てました。
若乃花と大鵬は同じ二所一門だったので、“二所の荒稽古”でみっちり若乃花に しごかれた大鵬は『若乃花関のおかげで下半身強化に磨きがかかった』と後述しています。
この当時は 「同門対決」はありませんでしたので本場所では対戦なし。
栃錦は本場所の土俵で、若乃花は巡業や一門の稽古で
それぞれが「柏・鵬にとっての壁」となって横綱の威厳を体感させてバトンタッチしていったのでした。
壁
栃・若は、ちゃんと柏・鵬の壁になった!
まだ年間4場所(1月・3月・5月・9月の本場所興行)だった昭和30年初場所にて序ノ口デビュー。
翌々昭和32年に11月の九州場所が本場所に加わり、年間5場所へ、33年には7月本場所に昇格した名古屋場所が初開催されました。
その場所で “角界のサラブレッド”と期待されていた新鋭の富樫 剛=19歳 (後の柏戸)が十両4枚目で12勝3敗の好成績で新入幕を決めました。
十両を5場所で通過した富樫、その間50勝25敗。
その50勝の内訳は “寄り切り“ “寄り倒し“ “押し出し” “押し倒し” ”突き出し” ”吊り出し”ばかり。“はたき込み”や“引き落とし”がひとつもない完全正攻法の相撲で『次代を背負うホープ』と新聞で大見出しが打たれていました。
その富樫(柏戸)から2年遅れての初土俵となった二所ノ関部屋の納谷(後の大鵬)も僅か2年半で関取へ、丸3年で新入幕と 昇り龍のように番付を駆け上がってきた大鵬。
衰えが見えてきた栃錦・若乃花の両横綱の次の世代だと期待されました。
この長身・正攻法のハンサムな若武者二人(柏戸と大鵬)の前に 栃・若が壁として立ち塞がりました。
来場所(令和6年初場所)は久しぶりに関脇が2名のみになりそうです。
予想番付
横綱 照ノ富士 東横綱 (九州場所全休)
東大関 霧 島 (九州13勝2敗)
西大関 豊昇龍 (九州10勝5敗)
西大関2 貴景勝 (九州 9勝6敗)
東関脇 大栄翔 (九州 9勝6敗)
西関脇 琴ノ若 (九州11勝4敗)
東小結 高 安 (九州 10勝5敗)
西小結 宇 良 (九州 8勝7敗)
東前頭筆頭 若元春 (九州 6勝9敗)
西小結筆頭 熱海富士 (九州 11勝4敗)
東前頭2 翠富士 (九州 9勝6敗
西前頭2 豪ノ山 (九州 8勝7敗
東前頭3 阿 炎 (九州 6勝9敗
西前頭3 北勝富士 (九州 5勝10敗
東前頭4 翔 猿 (九州7勝8敗
西前頭4 正 代 (九州 6勝9敗
東前頭5 竜 電 (九州 10勝5敗
西前頭5 錦 木 (九州 7勝8敗