■優勝・三賞
優勝 日馬富士
殊勲賞 貴景勝
敢闘賞 阿武咲 朝乃山
技能賞 嘉風
■取り組み速報
十三日目 十四日目 千秋楽
十日目 十一日目 十二日目
七日目 中日 九日目
四日目 五日目 六日目
一日目 二日目 三日目
■番付
【東】 【西】
・白鵬 [ 横綱 ] 日馬富士
・稀勢の里 [ 横綱 ] 鶴竜
・照ノ富士 [ 大関 ] 豪栄道
・高安 [ 大関 ]
・御嶽海 [ 関脇 ] 嘉風
・玉鷲 [ 小結 ] 栃煌山
・栃ノ心 [ 前頭筆頭 ] 琴奨菊
・北勝富士 [ 前頭二枚目 ] 碧山
・阿武咲 [ 前頭三枚目 ] 千代大龍
・松鳳山 [ 前頭四枚目 ] 宇良
・正代 [ 前頭五枚目 ] 貴景勝
・逸ノ城 [ 前頭六枚目 ] 輝
・千代の国 [ 前頭七枚目 ] 勢
・千代翔馬 [ 前頭八枚目 ] 宝富士
・貴ノ岩 [ 前頭九枚目 ] 荒鷲
・石浦 [ 前頭十枚目 ] 豪風
・大栄翔 [前頭十一枚目] 千代丸
・大翔丸 [前頭十二枚目] 佐田の海
・錦木 [前頭十三枚目] 魁聖
・遠藤 [前頭十四枚目] 隠岐の海
・徳勝龍 [前頭十五枚目] 豊山
・朝乃山 [前頭十六枚目]
『 大相撲 平成29年九月場所 TOP へのコメント 300件 』
支度部屋よもやま話2-3
化粧廻しは、関取以上(十枚目以上の力士)が土俵入りで身につける立派な前掛けのようなものです。
博多織りや西陣織り(綴れ織り)で作られていて、重さは6-7kgはあります。
長さは基本が7mほどですが、巨漢力士ほど8-10mぐらい必要で、
「ハワイの巨象」小錦のような腹回りの大きな力士の廻しは13m近く必要だったそうです。
化粧廻しの幅はどれも三尺三寸=70㎝ぐらいで、これを六つ織りにして腰に三重に巻き、
最後の1mぐらいは折らずに前に垂らすようにします。
この、前に垂らした部分は金襴の裏地になっています。
前面は刺繍でいろいろな模様が施されています。
相撲を学んだ出身校だったり、企業のキャラクターだったりと様々。
土俵入りの時の観客の楽しみのひとつでもあります。
また、化粧廻しをして土俵に上がる時だけは、下に白い晒の褌を着けていきます。
支度部屋四方山話2
化粧廻し2
時を経て、
短い前掛けだったものが、だんだん立派になっていきました。
江戸の大火 や、関東大震災、東京大空襲でも焼失せずに残っている記録上、「最初の大関」とされる雪見山の頃、つまり、宝暦年間(1751〜1764年)の末期には、土俵入り専用の化粧廻しが出来てきました。
それでも当初は、膝の辺りまでしかありませんでした。
時代を下って、安永年間(1772〜1781年)の頃ってぇ言いますと、二代谷風梶之助が大活躍を始めた頃なんですが!近代のものと同じ、足首まであるような化粧廻しに変化しました。錦絵にも多数残っています。
また、ひらひらをなくしてから明治初期までは、締込の先をほぐして20cmぐらいを垂らしていました。
今の「下がり」の前身といえます。
これが、勝負の最中に、手に巻きついたり絡んだりしてたいそう危ない!ということに相成りまして、明治中期ごろからでしたでしょうか、すぐに外れる下がりに変更され、概ね現在の様式になっていったそうです。
また間違いです
高砂親方とは、若嶋津20勝・・・朝潮13敗と大きく勝ち越しています
でした。
すみません
頑張れ 二子山親方
若嶋津に関してー2
実は、憎たらしいほど強かった怪童北の湖が全盛期~晩年にかけて若嶋津には負け越していました。
因みに、北の湖が対戦成績で負け越したのは11人
北の湖の横綱昇進以前
対北の富士〈2勝-4敗〉
清國〈2-4〉 琴櫻〈2-6〉 大麒麟〈4-6〉
全盛期
朝潮〈7-13〉 若嶋津〈6-8〉 輪島〈21-23〉
北の湖の晩年
小錦〈0-1〉 陣岳〈0-1〉 北尾〈0-1〉 保志(北勝海)〈2-3〉
若嶋津は、
北の湖に勝ち越すだけでなく、北の湖が対戦成績7勝13敗と「大の苦手」としていた朝潮太郎=現在の高砂親方とは、若嶋津20勝・北の湖13敗と大きく勝ち越しています
この頃の若嶋津は、後に横綱になる精鋭たちと熱戦を繰り広げていて、
旭富士に9勝11敗1不戦敗、同じく大乃国も善戦していて10勝12敗1不戦敗、保志改め北勝海とは9勝13敗。北尾とは7勝7敗の五分でした。
実家の沿線の電車に。
両国国技館で場所がある時は、二所ノ関部屋の若いお相撲さんが乗っている
姿を見かけます(姉がどこの部屋?と聞いたら二所ノ関部屋と言ってました)
電車の中では、お相撲さんの頭からびん付け油の良い匂いがしてました。
親方が手術したニュースを見て電車に乗っていた若いお相撲さん達を思い出しました
お相撲さん達は福岡に出発したようですが、入院中の親方の事が心配でしょうが
九州場所では頑張って欲しいです
北の富士さんと九州場所
北海道から上京してきた元野球少年の竹澤勝昭君は、母から持たされた小豆を上野駅でばら撒いてしまったりというハプニングを乗り越えて、出羽海部屋に入門しましたが、関取に上がるまで六年もかかってしまいましたが、取的での六度の九州場所では、勝ち越しが四度、3勝4敗の負け越しが一度、、、?
あとのひと場所は、4勝4敗の五分でした。
??
実は、昭和30年代前半は、幕下以下は「ひと場所八日間」だったのです。
番付を上げてついに十両で迎えた九州場所では
なんと15戦全勝優勝。
一気に入幕を果たして、さらに勝ち進み、あっという間に小結・関脇へ昇進、いったん平幕に落ちますが、関脇で負け越しての奮起の場所(昭和39年九州場所=東京五輪の年)で、二桁の10勝で関脇復帰を果たし、関脇で初めて迎えた九州場所では9勝。
翌場所以降は、勝ち越しを続けて、三場所合計28勝ながら、大関が豊山一人だけという事情もあって、幸運にも大関昇進。
大関として臨んだ九州場所では、10勝→8勝→11勝→13勝(優勝)
横綱になってからの九州場所では
昭和45年に11勝→13勝(優勝)→10勝→10勝
合計86勝34敗、休場ゼロ、勝率.716
で、北の富士さん自身の大関横綱時代成績合計(455勝191敗62休み)勝率.704をややうわまわっていますし、八度の九州場所で休場が一度もなかった ということは、
北の富士さんにとって九州場所は験のいい場所!と言えますね。
二所ノ関親方の「若嶋津当時」の九州場所
昭和50年初土俵し、初の九州場所4勝3敗でなんとか勝ち越し、
翌年は序二段で7戦全勝、昭和54年に幕下で6勝1敗と勝ち越し。
翌年は十両で9勝と勝ち越し、その翌年には幕内で九州を迎え、
不沈艦北の湖を下した初金星を含めた8勝して勝ち越し、
翌年(昭和57年)は関脇で12勝と大勝ちして大関昇進を決めました。
昭和58年からは2年連続11勝、しかし、アイドル高田みづえさんとの結婚が大きく話題になった直後の昭和60年は
場所前の稽古不足は補おうと焦って、二子山伝統の荒稽古で肩や膝の捻挫が重なり、3勝12敗と大負け、
翌年(61年)の九州は勝ち越したものの、
前身ぼろぼろで、62年に現役を引退しました。
支度部屋よもやま話2
化粧廻しのルーツを訪ねると、時代は元禄時代となります。
意外と最近・・・とみるか、 そんなに前なの?とみるかは、人それぞれ。
徐々に色が派手目になっていった慶安年間(1648-1652)、初代横綱と認定されている「身の丈八尺」の明石志賀之助の時代が終えた後、(初代谷風梶之助が登場して9年間無敗だったという)元禄年間となると、
廻しの素材も豪華になっていき、相撲人気は高まるし、各大名の後ろ盾があり、躊躇せずに廻しに金をつぎ込むことようになりました。
華美になるとともに形状も変化し始め、生地の端を股間が隠れるくらい垂らした廻しになっていき、
ひらひらした短い前掛けを垂らしているようになり、さらにこの前掛けに様々な模様を施すようになりました。
私たちが見慣れた、足首まであるような化粧廻し」=大きな前掛けに比べると、なんともけち臭い、
小さな子供用のよだれ掛けのようで情けないように感じますが、当時はそれで精一杯だったのです。
KON
支度部屋よもやま話1
化粧回し
大関若嶋津の1億5千万円もする化粧回しの話を紹介しましたが
そもそも、化粧回しとは・・・
ということで九州場所までの2週間と九州場所後の1ヶ月間ほどで、
「化粧回し」「締め込み」「稽古廻し」「さがり」「まわし」「力士の衣装」「力士の履物」「明け荷」「力士座布団のいろいろ」「力士の櫛」などの力士関連、「行司装束」「行司の」「行司さんの軍配」「呼出さんの衣装(断着袴=たっつけばかま)」「呼出さんの打つ柝」「太鼓」「土俵を綺麗に掃く箒」などの裏方関連、などなど、ご紹介したいと思います。
なるべく簡潔にまとめますので、おつきあいください。
KON
大阪での巡業が異例の三日連続興行だったけど、天候の悪い中、大盛況だったそうな。