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貴景勝が休場することになりました。 中日まで休場すれば来場所は関脇に陥落することになりますが、怪我を甘く見ず、今場所は治療に専念し来場所10勝を目指した方が今後の為になると思います。 特に彼は「ポスト稀勢の里」と言われているだけに、無理は禁物です。
食べても太らない、羨ましいね。 食べたら食べただけ、肉がついてるし、それがなかなかというより、この年になると落ちない。 落ちないんだから、つかないでほしいが… 幼年期にそんな苦労していたなんて微塵も感じさせないし、明るいし豪快だしね。 人となりを読む内益々ファンになるおばちゃん達です。
北の富士流 12 村松友視さんの「北の富士流」から 横綱千代の山との出会い そんなこともあり、進学か就職かの希望進路に、家の窮状をわかり始めていた勝昭は「相撲」と書いた。すると、学校初めての希望進路に驚いた校長が、相撲関係者に相談してくれて、千代の山後援会の一員で出羽海部屋の世話人をやっていた村上精一郎という人を紹介してくれたのです。 この村上さん、左官屋さんですが、無類の相撲好きで、早速、出羽海部屋の千代の山に連絡を取ってくれた。 しかし、千代の山からの返事は・・・ 「目方が足りないから 71kgになったら来い」というものでした。 (これは、千代の山たちの尺度では、19貫目で、30貫目まで増やすのに!スタートが17貫目ぐらいじゃ、モノにならないし、本人が一番苦労するに違いない・・ということでした。) 14歳で すでに180cm近くあった勝昭でしたが、モヤシのようにほっそりした体型だった。 すると村上さんが 「勝坊をひと月ばかり、うちに預からせてくれ」と両親に申し出て、自宅に引き取ってくれた。腹一杯食べられない日々が続いていた勝昭は、村上さんに勧められるまま、ひたすら体重増を目指して一升飯を毎日食べた。はじめは一緒に食事をする左官職人たちが驚くほど食べていた勝昭だったが、「食えっ、食え!」と攻めたてられるうちに食欲が失せてきた。ついには拒食状態になりかけたが、村上さんの励ましのおかげで、目標の71kgに到達することができたのでした。 ・・・たしかに、食べても太れない時はありますよね。 私も高校卒業時に180cmちょっとの身長に対して体重が59kg。高卒で今の会社に入り、昼飯に一人前では到底足りず、お代わり自由のお店ばかり探して通っていました。それでも体重が増えなかった。 先輩からは「燃費が悪い」とからかわれてました。 今は、お弁当箱に一合半のご飯を詰めて、妻が作ってくれるおかずを一緒に持っていってます。 若い頃と違って、ちょっと怠惰な生活を送ると体重が増えてしまいます。 現在、(ここ数年は)体重が70kgジャスト。膝に不安があるので、これ以上の体重増は辛くなるので気をつけています。 つづく
北の富士流 11 村松友視さんの「北の富士流」から 夜逃げから困窮生活、そして、初の道産子横綱・千代の山との出会い その輝ける思い出の絡む留萌から、勝昭少年が中学二年になった年の暮れの深夜、竹沢一家はトラックに荷物を積み込んで旭川へと引っ越した。再びの夜逃げであった。 こうして、父が経営する留萌の大きな料亭での暮らしから、一家の暮らしが一変するのである。 旭川では、階下に耕運機が置いてある農機具屋の二階を間借りし、便所は一階まで降りて、風呂はなく一週間に一度だけ銭湯へ行くという生活。 父・母と、兄と勝昭・妹・二人の弟という計七人が六畳ひと間に住むことになった。三男の健男とその下の弟は押入れに。足の踏み場のない生活が始まったのです。 高校生の長兄はともかく、中学生の勝昭やほかの妹や弟たちにとって、この生活の急変の意味など、判然と理解できるものではなかった。ただ漠然と親に従っているという感覚の中で、自分が身を立てる方策についての不安のようなものを、少年ながら勝昭が抱きはじめたのは確かだった。 育ち盛りの大柄な中学生が満足に食べられない。 そんな生活を耐え過ごす中で、勝昭の頭には、留萌で行なわれた大相撲北海道巡業の興行を家族で見に行ったときに、当時の横綱だった千代の山の宿舎で、その千代の山に「僕、大きいな」と頭を撫でられた記憶が、すがるような気分とともに広がっていったのかもしれない。 父と母は、道路の辻角の 間口1間くらいの場所で、家族を育てる為に、天ぷらを揚げて売る総菜屋を始めた。 繁盛する日もありましたが、天候次第では お客さんが十人いかない日もあって、仕入の金に困った日も一度や二度じゃなかった。 そんな窮状を見かねた大家さんが、体の大きな中学三年の勝昭を相撲取りにするように父に薦めた。 ・・・人生で、あの出会いがなかったら? とか、あの出会いがあったから今がある。 という、後で思うと、分岐点になった出会いというのがありますね。 恩師との出会い、結婚相手とのそもそもの出会い、仕事相手との出会い、、、その出会いを、後の自分の進む道に生かすかどうか? その出会いを大切にせずに、あとで想えばとても重要なターニングポイントだったのに、そうと気づかずにスルーしてることも多々ありそうです。 出会い、大事にしたいものです。 今日、どんな出会いがあるでしょうか? 初対面の人との会話を意識して大切にしてみます。 つづく
ほっとした時間に、北の富士流読むのが楽しみ! お菓子食べながら、声だして他のおばちゃんに聞こえる様に!笑える状態だけど、声だし読みは、健康にもいいとテレビで言ってたので、続けよう。 早く場所になってほしい。
名古屋場所に向けて朝乃山が白鵬のいる宮城野部屋へ一人で出稽古にいったとか。三番稽古の最初には一気に出て寄り切ったというニュースがありましたよ。金星ゲットなるかなあ?高安もこういう積極的な気持ちがあればもっと強くなっていたはずなのに。
村松友視さんの「北の富士流」から 北の富士流 10 女の子へのアプローチも早くから才能豊かだった勝昭少年、プレイボーイの片鱗を見せはじめる 親友の徳田さんへインタビュー 勝昭と仲の良い遊び友達だった徳田さんは、当時、クラスの中に好きな子ができて その子が盲腸で入院することになった。 徳田さんがラブレター気分で手紙を書いたのを勝昭に見せると、なんと勝昭はその脇に「僕も好きです」と書き加えてしまった。 すぐに慌てて X印をつけて消したつもりでいるが消えてない。すると「好きなのはこの徳田君です」と言葉を書いたという。 新たに手紙を書き直した徳田さんは、その証拠となる手紙をいまだに持っていて見せてくれた。 後のプレイボーイ北の富士を彷彿とさせる親友のありさまを徳田さんはさらに語ってくれた。 徳田さんA. 俺の好きな子に やっこさん(勝昭)も一緒になって乗って書いた。 だけど、やっこさんには好きな子がまた別にいるんですよ。本命はその子。 村松氏 Q. いけませんねえ。二股交際だ。 A. 当時から気が多かったんですよ、やっこさんは。で、弟分のような奴に入院したその子へのお見舞いを届けさせたりして。 Q. 親分肌なんですねえ。自分で届けずに弟分に届けさせたりして。 A. で、こけし を届けさせたんだけど、そのこけしがやっこさんの妹のものだったんですよ。それを勝手に持ち出してその子のお見舞いに使ったのさ。 Q. そりゃあ ひどい話になってきた。妹さんはカンカンでしょう? A. そうそう。 Q. そうそうじゃなくて。しかし気の毒なのは妹さんだな。 ・・・男子たるもの、女の子に興味を持つのは当たり前。ですが、親友の書いた恋文に『僕もです!』と書き足す無軌道ぶりには、開いた口が塞がらないですね。 プレイボーイぶりでは芸能界の雄と名高い山城新伍さんを「北の富士?あいつは女優たちを片っ端から食べちまった!絶対許さねえ!」と激突させた北の富士さん、その素養がこの頃にはすでにあったのですね。 (この山城新伍さんの発言は、ラジオでのことでしたが、一緒に出演していた梅宮辰夫さんから「あのな、女優ってみんなお前のものじゃないんだから!わかってるか?」と戒められていました。) つづく
秋場所の 横綱審議会 稽古総見 我々 相撲見物&ちゃんこ+お酒のツアーの常時出席メンバー 6名全員出席とのこと。 8月31日 (土) 両国国技館 朝8時半~11時半 たぶん 正面の前から2-3列目の舛席=横綱審議委員のみなさんの後方 に 舛二つ か 舛三つ 確保して 陣取ります。 追加参加が3名ほどは いるでしょうから、舛三つ でしょうねえ。 入場はもちろん無料。 チケット不要、 朝から国技館正面入り口で 入れます。 たぶん5000-6000人は入場するでしょう。 相撲博物館の展示物も観ることが出来ます。 昼には終了するので、やっぱり 花の舞 か 霧島 かな
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貴景勝が休場することになりました。
中日まで休場すれば来場所は関脇に陥落することになりますが、怪我を甘く見ず、今場所は治療に専念し来場所10勝を目指した方が今後の為になると思います。
特に彼は「ポスト稀勢の里」と言われているだけに、無理は禁物です。
食べても太らない、羨ましいね。
食べたら食べただけ、肉がついてるし、それがなかなかというより、この年になると落ちない。
落ちないんだから、つかないでほしいが…
幼年期にそんな苦労していたなんて微塵も感じさせないし、明るいし豪快だしね。
人となりを読む内益々ファンになるおばちゃん達です。
北の富士流 12
村松友視さんの「北の富士流」から
横綱千代の山との出会い
そんなこともあり、進学か就職かの希望進路に、家の窮状をわかり始めていた勝昭は「相撲」と書いた。すると、学校初めての希望進路に驚いた校長が、相撲関係者に相談してくれて、千代の山後援会の一員で出羽海部屋の世話人をやっていた村上精一郎という人を紹介してくれたのです。
この村上さん、左官屋さんですが、無類の相撲好きで、早速、出羽海部屋の千代の山に連絡を取ってくれた。
しかし、千代の山からの返事は・・・
「目方が足りないから 71kgになったら来い」というものでした。
(これは、千代の山たちの尺度では、19貫目で、30貫目まで増やすのに!スタートが17貫目ぐらいじゃ、モノにならないし、本人が一番苦労するに違いない・・ということでした。)
14歳で すでに180cm近くあった勝昭でしたが、モヤシのようにほっそりした体型だった。
すると村上さんが 「勝坊をひと月ばかり、うちに預からせてくれ」と両親に申し出て、自宅に引き取ってくれた。腹一杯食べられない日々が続いていた勝昭は、村上さんに勧められるまま、ひたすら体重増を目指して一升飯を毎日食べた。はじめは一緒に食事をする左官職人たちが驚くほど食べていた勝昭だったが、「食えっ、食え!」と攻めたてられるうちに食欲が失せてきた。ついには拒食状態になりかけたが、村上さんの励ましのおかげで、目標の71kgに到達することができたのでした。
・・・たしかに、食べても太れない時はありますよね。
私も高校卒業時に180cmちょっとの身長に対して体重が59kg。高卒で今の会社に入り、昼飯に一人前では到底足りず、お代わり自由のお店ばかり探して通っていました。それでも体重が増えなかった。
先輩からは「燃費が悪い」とからかわれてました。
今は、お弁当箱に一合半のご飯を詰めて、妻が作ってくれるおかずを一緒に持っていってます。
若い頃と違って、ちょっと怠惰な生活を送ると体重が増えてしまいます。
現在、(ここ数年は)体重が70kgジャスト。膝に不安があるので、これ以上の体重増は辛くなるので気をつけています。
つづく
貴景勝、出場するのかな? しっかり休んで秋場所に賭ける
栃ノ心もできたのだから
休め 貴景勝
親方は本人次第って 言ってる 無責任
本人が まだ残っている痛みをよく考え、決めればいい。
北の富士流 11
村松友視さんの「北の富士流」から
夜逃げから困窮生活、そして、初の道産子横綱・千代の山との出会い
その輝ける思い出の絡む留萌から、勝昭少年が中学二年になった年の暮れの深夜、竹沢一家はトラックに荷物を積み込んで旭川へと引っ越した。再びの夜逃げであった。
こうして、父が経営する留萌の大きな料亭での暮らしから、一家の暮らしが一変するのである。
旭川では、階下に耕運機が置いてある農機具屋の二階を間借りし、便所は一階まで降りて、風呂はなく一週間に一度だけ銭湯へ行くという生活。
父・母と、兄と勝昭・妹・二人の弟という計七人が六畳ひと間に住むことになった。三男の健男とその下の弟は押入れに。足の踏み場のない生活が始まったのです。
高校生の長兄はともかく、中学生の勝昭やほかの妹や弟たちにとって、この生活の急変の意味など、判然と理解できるものではなかった。ただ漠然と親に従っているという感覚の中で、自分が身を立てる方策についての不安のようなものを、少年ながら勝昭が抱きはじめたのは確かだった。
育ち盛りの大柄な中学生が満足に食べられない。
そんな生活を耐え過ごす中で、勝昭の頭には、留萌で行なわれた大相撲北海道巡業の興行を家族で見に行ったときに、当時の横綱だった千代の山の宿舎で、その千代の山に「僕、大きいな」と頭を撫でられた記憶が、すがるような気分とともに広がっていったのかもしれない。
父と母は、道路の辻角の 間口1間くらいの場所で、家族を育てる為に、天ぷらを揚げて売る総菜屋を始めた。
繁盛する日もありましたが、天候次第では お客さんが十人いかない日もあって、仕入の金に困った日も一度や二度じゃなかった。
そんな窮状を見かねた大家さんが、体の大きな中学三年の勝昭を相撲取りにするように父に薦めた。
・・・人生で、あの出会いがなかったら? とか、あの出会いがあったから今がある。
という、後で思うと、分岐点になった出会いというのがありますね。
恩師との出会い、結婚相手とのそもそもの出会い、仕事相手との出会い、、、その出会いを、後の自分の進む道に生かすかどうか?
その出会いを大切にせずに、あとで想えばとても重要なターニングポイントだったのに、そうと気づかずにスルーしてることも多々ありそうです。
出会い、大事にしたいものです。
今日、どんな出会いがあるでしょうか?
初対面の人との会話を意識して大切にしてみます。
つづく
秋場所 稽古総見は
8/31 土曜日
朝の7時に入場開始で 7時半から稽古開始
終了が 午前 11時だそうです。
ほっとした時間に、北の富士流読むのが楽しみ!
お菓子食べながら、声だして他のおばちゃんに聞こえる様に!笑える状態だけど、声だし読みは、健康にもいいとテレビで言ってたので、続けよう。
早く場所になってほしい。
名古屋場所に向けて朝乃山が白鵬のいる宮城野部屋へ一人で出稽古にいったとか。三番稽古の最初には一気に出て寄り切ったというニュースがありましたよ。金星ゲットなるかなあ?高安もこういう積極的な気持ちがあればもっと強くなっていたはずなのに。
村松友視さんの「北の富士流」から
北の富士流 10
女の子へのアプローチも早くから才能豊かだった勝昭少年、プレイボーイの片鱗を見せはじめる
親友の徳田さんへインタビュー
勝昭と仲の良い遊び友達だった徳田さんは、当時、クラスの中に好きな子ができて
その子が盲腸で入院することになった。
徳田さんがラブレター気分で手紙を書いたのを勝昭に見せると、なんと勝昭はその脇に「僕も好きです」と書き加えてしまった。
すぐに慌てて X印をつけて消したつもりでいるが消えてない。すると「好きなのはこの徳田君です」と言葉を書いたという。
新たに手紙を書き直した徳田さんは、その証拠となる手紙をいまだに持っていて見せてくれた。
後のプレイボーイ北の富士を彷彿とさせる親友のありさまを徳田さんはさらに語ってくれた。
徳田さんA. 俺の好きな子に やっこさん(勝昭)も一緒になって乗って書いた。
だけど、やっこさんには好きな子がまた別にいるんですよ。本命はその子。
村松氏 Q. いけませんねえ。二股交際だ。
A. 当時から気が多かったんですよ、やっこさんは。で、弟分のような奴に入院したその子へのお見舞いを届けさせたりして。
Q. 親分肌なんですねえ。自分で届けずに弟分に届けさせたりして。
A. で、こけし を届けさせたんだけど、そのこけしがやっこさんの妹のものだったんですよ。それを勝手に持ち出してその子のお見舞いに使ったのさ。
Q. そりゃあ ひどい話になってきた。妹さんはカンカンでしょう?
A. そうそう。
Q. そうそうじゃなくて。しかし気の毒なのは妹さんだな。
・・・男子たるもの、女の子に興味を持つのは当たり前。ですが、親友の書いた恋文に『僕もです!』と書き足す無軌道ぶりには、開いた口が塞がらないですね。
プレイボーイぶりでは芸能界の雄と名高い山城新伍さんを「北の富士?あいつは女優たちを片っ端から食べちまった!絶対許さねえ!」と激突させた北の富士さん、その素養がこの頃にはすでにあったのですね。
(この山城新伍さんの発言は、ラジオでのことでしたが、一緒に出演していた梅宮辰夫さんから「あのな、女優ってみんなお前のものじゃないんだから!わかってるか?」と戒められていました。)
つづく
秋場所の 横綱審議会 稽古総見
我々 相撲見物&ちゃんこ+お酒のツアーの常時出席メンバー 6名全員出席とのこと。
8月31日 (土) 両国国技館 朝8時半~11時半
たぶん 正面の前から2-3列目の舛席=横綱審議委員のみなさんの後方 に 舛二つ か 舛三つ 確保して 陣取ります。
追加参加が3名ほどは いるでしょうから、舛三つ でしょうねえ。
入場はもちろん無料。 チケット不要、 朝から国技館正面入り口で 入れます。
たぶん5000-6000人は入場するでしょう。
相撲博物館の展示物も観ることが出来ます。
昼には終了するので、やっぱり 花の舞 か 霧島 かな