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温故知新 大相撲カレンダー10月28日 1780安永9年10月28日 仙台藩の伊達関 森右エ門 改め 二代谷風梶之助が、8勝0敗2休という好成績で 四場所連続10度目となる幕内優勝(相当)を挙げました。 元禄時代の初代谷風梶之助=讃岐の谷風が9年間無敗だったとの記述が残っているが、番付や対戦相手の詳細などが、度重なる江戸の大火や関東大震災・東京大空襲で焼失しているため、二代谷風の優勝相当10度は、史上初の二桁優勝(相当)と言える。 この時、当時歴代1位の63連勝の真っ只中。 この時点で谷風は、看板大関としてデビュー後、 いったん前頭筆頭から相撲を取り直し以来 幕内在位11年、幕内22場所で110勝8敗10預1無勝負4分け47休 戦後、優勝回数32回を数えた大鵬幸喜曰く、 『双葉山関やそれ以前の年二場所の時代の優勝回数は、もし自分の頃の年6場所制と比較するなら、その優勝回数を三倍にした回数が妥当で、谷風関は63回、雷電為右衛門関は84回の優勝と言える』とのことでした。
昨日25日に荒磯親方が早稲田大学院・スポーツ科学研究科修士課程に合格した!というニュースが入ってきました。 怪我に泣いた横綱時代を教訓に、相撲協会の業務の合間を縫って、スポーツ医学や身体運動科学を学ぶとのことです。
銀座一丁目の外堀通り沿いにある「茨城県アンテナショップ・IBARAKIsence」で今日、悪天候の中、このショップの開店一周年イベントに元横綱稀勢の里が参加してトークショー・握手会をやったそうです。 今日は休みだったので、残念ながら稀勢の里を見ることはできませんでした。
千葉県を台風以上の大雨が襲っています。 緊急放流により養老川や村田川などで氾濫し始めた地域も出てきたようです。 千葉県には、松戸の佐渡ケ嶽部屋、習志野の阿武松部屋、鎌ヶ谷の朝日山部屋、船橋の二所ノ関部屋という、四つの相撲部屋があります。 殆どの力士は秋巡業に行っていて不在でしようが、数名のこれから雨雲が移動していく茨城県にも、立浪部屋と式秀部屋があります。 居残り力士と女将さんだけで、いざとなったら、浸水対策をせざるを得ないですねえ。
ただいま(すぐに!)帰りました。単純だからすぐ頭来て、すぐ戻る。 アホなおばちゃんです。 語学が出来るのは羨ましいね。あいラブユーしか知らん。 穏やかに楽しい場所が一番だね。 週末の雨が恐怖だわ。 今日の浅川は水位も下がってなくて、茶色に濁り、怒っている様だった! そのままでいてよと旦那と早朝お清めしてきたよ。
温故知新大相撲カレンダー 10月23日 1932昭和7年10月23日 玉錦が横綱昇進。 京都市東山線三条上ル仮設国技館で開催された10月場所で東大関 玉錦が7勝4敗(優勝は9勝2敗の東張出大関・清水川)という成績ながら、前の場所で10勝1敗での(自身五度目となる)優勝を遂げていたこともあり、場所後、吉田司家から、第32代横綱へ推挙されました。 173cmと小兵のあんこ型体型ながら角界一!無類の稽古好きで知られる玉錦は、右差し一直線の怒涛の寄り、太鼓腹に乗せての吊りを得意とし、小部屋の力士が稽古に集まってくる両国回向院常設屋根なし相撲場の土俵上を占領し、あちこち傷だらけになって「ぼろ錦」と呼ばれても稽古し続けました。 1930昭和30年秋場所から翌年一月春場所、三月場所と大関で三場所連続優勝したのにも関わらず、横綱推挙されず。 普段の素行が、ヤクザと大立ち回りをしたりするのは日常茶飯事、曲がったことが大嫌いで、相手が誰であろうと「許せないものは許さない。俺は玉錦だ!文句あるのか?」という激しい性格からくる武勇伝は数知れず。 穏健派の多い協会幹部から見ると「素行の荒さこの上なし」と目をつけられていて横綱昇進を見送られたのですが、今回は、同昭和7年1月に、関脇天竜が謀反を起こして勃発した春秋園事件により幕内29/40人・十両19/22人の計48人という大量の関取を失った大日本相撲協会。素行のよい優等生たちだったはずの力士が、それも主流本流の出羽ノ海部屋をはじめとした出羽一門が中心になって協会に反旗を翻して強行手段に敢行しての離脱でした。 苦肉の策として、その春秋園事件の力士大量離脱騒動の渦中でも「義」を通して協会に残り、第一人者の大関として大相撲を守った玉錦は(15日制なら三場所35~36勝・9~10敗相当となる)三場所25勝7敗の優勝1回ながら、吉田司家から横綱推挙されました。 なお、この時、この年の2月に協会を飛び出して、新しい形の相撲興行を行なって、各地を転々としていた天竜一派から「素行不良」という物言いがついた。 しかし大日本相撲協会は「天竜一派の存在を認めない」と見事にこれを一蹴。 三場所連続優勝しても綱の声がかからず、「こうなったら、死んでも横綱になってやる!」と事あるごとに言っていた玉錦三右衛門はついに 横綱免許を授かったのでした。 よって、1931昭和6年に29代横綱宮城山福松が引退したことで発生した「昭和最初で唯一の横綱不在」を1年半で解消した。玉錦は昭和に誕生した最初の横綱でもありました。 ・・・私の祖父が営んでいた柔道接骨医院のところへも何度も通って来ていた玉錦は、当時10歳前後ぐらいだった私の母にもお土産をくれていたそうで、それが毎回お相撲にまつわるもので、自然と母も相撲好きになったいったそうです。学校から帰ると、優しくて太ったお相撲さんが家の縁側に居て、可愛がってもらった と言っていました。 その時に玉錦さんから貰ったお土産が残って入れば、私にとって超超お宝になっていたはずだったのですが、東京大空襲で全部焼けてしまったとのことでした。 残念無念 ・・・ 86歳で亡くなった母ですが、生きていれば、今年の12月に100歳になっているところでした。
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温故知新 大相撲カレンダー10月28日
1780安永9年10月28日 仙台藩の伊達関 森右エ門 改め 二代谷風梶之助が、8勝0敗2休という好成績で 四場所連続10度目となる幕内優勝(相当)を挙げました。
元禄時代の初代谷風梶之助=讃岐の谷風が9年間無敗だったとの記述が残っているが、番付や対戦相手の詳細などが、度重なる江戸の大火や関東大震災・東京大空襲で焼失しているため、二代谷風の優勝相当10度は、史上初の二桁優勝(相当)と言える。
この時、当時歴代1位の63連勝の真っ只中。
この時点で谷風は、看板大関としてデビュー後、
いったん前頭筆頭から相撲を取り直し以来 幕内在位11年、幕内22場所で110勝8敗10預1無勝負4分け47休
戦後、優勝回数32回を数えた大鵬幸喜曰く、
『双葉山関やそれ以前の年二場所の時代の優勝回数は、もし自分の頃の年6場所制と比較するなら、その優勝回数を三倍にした回数が妥当で、谷風関は63回、雷電為右衛門関は84回の優勝と言える』とのことでした。
最近の千葉県は台風や大雨
災害に苦しめられています!
千葉県出身の力士や千葉県の高校出身の力士の
頑張りが千葉県民にとって励みになります!
これからも頑張って下さい♪
昨日25日に荒磯親方が早稲田大学院・スポーツ科学研究科修士課程に合格した!というニュースが入ってきました。
怪我に泣いた横綱時代を教訓に、相撲協会の業務の合間を縫って、スポーツ医学や身体運動科学を学ぶとのことです。
吉田司家って今はどうしてるのかな?
借金問題で協会と絶縁してるからな。
金の切れ目が縁の切れ目って、相撲用語だったかな?
銀座一丁目の外堀通り沿いにある「茨城県アンテナショップ・IBARAKIsence」で今日、悪天候の中、このショップの開店一周年イベントに元横綱稀勢の里が参加してトークショー・握手会をやったそうです。
今日は休みだったので、残念ながら稀勢の里を見ることはできませんでした。
4:56の投稿
最後の4行の 2行・2行が入れ替わってしまいました。
すみません
千葉県を台風以上の大雨が襲っています。
緊急放流により養老川や村田川などで氾濫し始めた地域も出てきたようです。
千葉県には、松戸の佐渡ケ嶽部屋、習志野の阿武松部屋、鎌ヶ谷の朝日山部屋、船橋の二所ノ関部屋という、四つの相撲部屋があります。
殆どの力士は秋巡業に行っていて不在でしようが、数名のこれから雨雲が移動していく茨城県にも、立浪部屋と式秀部屋があります。
居残り力士と女将さんだけで、いざとなったら、浸水対策をせざるを得ないですねえ。
昨日の即位の礼に元魁皇の浅香山親方が招かれてましたね
ソフィアバンクの王会長に続いて入られる場面をテレビで見ました
八角理事長ではないんだなと思いました
ただいま(すぐに!)帰りました。単純だからすぐ頭来て、すぐ戻る。
アホなおばちゃんです。
語学が出来るのは羨ましいね。あいラブユーしか知らん。
穏やかに楽しい場所が一番だね。
週末の雨が恐怖だわ。
今日の浅川は水位も下がってなくて、茶色に濁り、怒っている様だった!
そのままでいてよと旦那と早朝お清めしてきたよ。
温故知新大相撲カレンダー 10月23日
1932昭和7年10月23日 玉錦が横綱昇進。
京都市東山線三条上ル仮設国技館で開催された10月場所で東大関 玉錦が7勝4敗(優勝は9勝2敗の東張出大関・清水川)という成績ながら、前の場所で10勝1敗での(自身五度目となる)優勝を遂げていたこともあり、場所後、吉田司家から、第32代横綱へ推挙されました。
173cmと小兵のあんこ型体型ながら角界一!無類の稽古好きで知られる玉錦は、右差し一直線の怒涛の寄り、太鼓腹に乗せての吊りを得意とし、小部屋の力士が稽古に集まってくる両国回向院常設屋根なし相撲場の土俵上を占領し、あちこち傷だらけになって「ぼろ錦」と呼ばれても稽古し続けました。
1930昭和30年秋場所から翌年一月春場所、三月場所と大関で三場所連続優勝したのにも関わらず、横綱推挙されず。
普段の素行が、ヤクザと大立ち回りをしたりするのは日常茶飯事、曲がったことが大嫌いで、相手が誰であろうと「許せないものは許さない。俺は玉錦だ!文句あるのか?」という激しい性格からくる武勇伝は数知れず。
穏健派の多い協会幹部から見ると「素行の荒さこの上なし」と目をつけられていて横綱昇進を見送られたのですが、今回は、同昭和7年1月に、関脇天竜が謀反を起こして勃発した春秋園事件により幕内29/40人・十両19/22人の計48人という大量の関取を失った大日本相撲協会。素行のよい優等生たちだったはずの力士が、それも主流本流の出羽ノ海部屋をはじめとした出羽一門が中心になって協会に反旗を翻して強行手段に敢行しての離脱でした。
苦肉の策として、その春秋園事件の力士大量離脱騒動の渦中でも「義」を通して協会に残り、第一人者の大関として大相撲を守った玉錦は(15日制なら三場所35~36勝・9~10敗相当となる)三場所25勝7敗の優勝1回ながら、吉田司家から横綱推挙されました。
なお、この時、この年の2月に協会を飛び出して、新しい形の相撲興行を行なって、各地を転々としていた天竜一派から「素行不良」という物言いがついた。 しかし大日本相撲協会は「天竜一派の存在を認めない」と見事にこれを一蹴。
三場所連続優勝しても綱の声がかからず、「こうなったら、死んでも横綱になってやる!」と事あるごとに言っていた玉錦三右衛門はついに 横綱免許を授かったのでした。
よって、1931昭和6年に29代横綱宮城山福松が引退したことで発生した「昭和最初で唯一の横綱不在」を1年半で解消した。玉錦は昭和に誕生した最初の横綱でもありました。
・・・私の祖父が営んでいた柔道接骨医院のところへも何度も通って来ていた玉錦は、当時10歳前後ぐらいだった私の母にもお土産をくれていたそうで、それが毎回お相撲にまつわるもので、自然と母も相撲好きになったいったそうです。学校から帰ると、優しくて太ったお相撲さんが家の縁側に居て、可愛がってもらった と言っていました。 その時に玉錦さんから貰ったお土産が残って入れば、私にとって超超お宝になっていたはずだったのですが、東京大空襲で全部焼けてしまったとのことでした。 残念無念 ・・・ 86歳で亡くなった母ですが、生きていれば、今年の12月に100歳になっているところでした。