TheNews(ザ・ニュース) > コメント部屋 > 大相撲のコメント部屋大相撲のコメント部屋 ※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。 ※誹謗中傷、なりすまし、野球に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。 ※2019年7月1日からコメントの確認・サイト掲載時間は9時~18時の間のみです。またコメント反映までは1時間程度を目安としてください。 ※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。
力士・親方のテレビ出演情報2 プレバト!!【人気現役力士が大集結!★「俳句」&「絵手紙」の才能査定!!】 2020年3月5日(木) 19時00分~20時00分 本場所より集中した!?輝大士、正代直也、松鳳山裕也、千代大龍秀政、千代丸一樹、照強翔輝、竜電剛至が登場 ▼土俵上では見せない現役力士の素顔が見える1時間!!. 番組内容 輝大士、正代直也、松鳳山裕也、千代大龍秀政、千代丸一樹、照強翔輝、竜電剛至ら7人をゲストに招き、「俳句」と「絵手紙」の査定に挑んでもらう。『俳句の才能査定ランキング』では観戦ゲストとして立川志らく、千原ジュニア、鈴木光が登場。 初めて俳句に挑戦する力士たちを見守ることに。意外にも文学少年だった力士も!?夏井先生は「お見事!」と力士たちの才能をベタ褒め!人気力士たちは、果たしてどんな一句を詠むのか!?「絵手紙の才能査定ランキング」では、輝関、千代丸関、正代関、竜電関、千代大龍関の5人が参戦。松鳳山関、照強関は観戦ゲストとして、ジュニアと共に5人を見守る。査定をするのは、絵手紙作家の花城祐子先生、「発想はすごい!」と大絶賛!母親宛で絵手紙に挑戦した千代大龍は自身の出来栄えについて「上手すぎるなと思って」と自画自賛するも結果は!?土俵上では見せない現役力士の素顔が見える1時間をお楽しみに! MC浜田雅功 アシスタント玉巻映美(MBSアナウンサー) ゲスト 輝大士 正代直也 松鳳山裕也 千代大龍秀政 千代丸一樹 照強翔輝 竜電剛至 観戦ゲスト鈴木光 立川志らく 千原ジュニア 専門家ゲスト 夏井いつき(俳人) 花城祐子(絵手紙作家)
力士・親方のテレビ出演情報 3月5日(木曜) ⑥TBS・22時~22時57分 「櫻井有吉The夜会」 ゲストに人気の炎鵬 角界のニュースター炎鵬の意外な司会ぶりに櫻井有吉がMC降格のピンチ? 3月7日(土曜) BSフジ・14時~15時25分 「感動!大相撲がっぷり総見~春場所を百倍楽しく見る極意」 先場所、幕尻優勝した徳勝龍にフォーカス、初場所の名勝負を振り返る。 春場所の展望も。 同じく3月7日(土曜) NHKBS1にて16時~16時50分 「大相撲・伝説の一番の真相『異例の物言い!貴ノ花の神業 & 大横綱の連勝を止めた禁断の技』をアンコール放送」 これは必見!!要録画! 我らが第52代横綱北の富士さんvs角界のプリンス・関脇貴ノ花の「つき手orかばい手問題」昭和47年初場所八日目。 庄之助の軍配は西・貴ノ花。物言いとなり、長い長い協議の末、行司差し違い。浴びせ倒して北の富士の勝ち!とされた木村庄之助が辞表を出し、理事長に慰留されるも、そのまま引退してしまうことになってしまいました。 後に北の富士さんが『今だから言えるけど、あれは俺の負けだったね。貴ノ花の脚の筋肉を見ても、彼はあの態勢で攻めていたよ。俺は貴ノ花を頭をかばったんじゃなく自分の顔をかばったんだ。』と潔く負けを認めていました。 この翌場所も二人は土俵際でもつれる大熱戦で、寄り立てる北の富士を貴ノ花がうっちゃり。やや北の富士有利かと見え立行司伊之助の軍配は北の富士に。が、またもや物言い。長い協議の結果、北の富士の勇み足で貴ノ花の勝ち となりました。 これも差し違いとされた式守伊之助が辞表を提出。ふた場所続けて立行司が辞表を出す大事件。理事長の必死の説得に、伊之助は、ようやく引退を思い留まったのでした。 毎回熱戦を繰り広げる二人の対戦は毎回熱戦となり、昭和46年夏場所から『サンデースペシャル』として、しょっちゅう中日(日曜日)に割りが組まれ、貴ノ花が大関になって以降も、横綱大関戦としては異例の中日に頻繁に組まれてました。 そして、千代の富士の54連勝を阻んだ大乃国の捨て身の技 昭和最後の一番となった昭和63年九州場所千秋楽に大乃国が起こした(ある意味)大事件。
温故知新・大相撲カレンダー 3月2日 1815文化12年3月2日 この日、翌日(3月3日)から始まる春場所の番付に、津軽五所川原出身の柏戸利助が新大関として登場。記録が残っている「最古の大関」雪見山から数えてちょうど100人目の大関となりました。 柏戸利助は、柏戸部屋=無類力士雷電為右衞門の唯一ライバルだった大関・柏戸宗五郎が興した部屋で後の伊勢ノ海部屋所属で、雷電為右衞門が引退した後の江戸の相撲を四代玉垣額之助とともに牽引し、個人優勝(相当)16度という堂々たる成績で、新大関として臨んだこの春場所でも7勝1敗1無勝負で5度目の個人優勝(相当)でした。183cm132kg。 ちなみに、150人目の大関は、 1913大正3年に大関に昇進した伊勢ノ濱慶太郎(友綱部屋)。身長168cmと小柄ながら怪力を活かしてのなげわさが得意で玄人好みの相撲っぷりでした。 ちょうど 200人目の大関は、 昭和42年に大関昇進を果たした琴櫻傑將。 オールドファンならご存知の、頭からぶちかましての押し相撲が得意で、デゴイチのあだ名がつけられてました。182cm.150kg。 そして、一番新しい大関である貴景勝が249人目。 果たして、大関獲りに懸ける朝乃山が250人目の大関となれるでしょうか?
とりあえず、春場所中止は回避したが、問題が山積し大混乱は避けられない情勢だ。 すでに完売している前売り券の払い戻し方法は後日、協会のホームページなどで告知する予定。現時点では、幕内の取組が対象の懸賞をはじめ、土俵入り、初日と千秋楽の協会あいさつ、物言いがついた場合の審判長による場内説明などは基本的に通常通りに行われる予定だ。 感染対策も検討されている。神聖な土俵に上がる際に身を清めるために力士から力士へ渡される力水は「形だけにする。口をつけない」。幕内優勝力士には天皇賜杯と優勝旗が授与されるが、その他の表彰やVパレードは中止となる方向。 報道陣は支度部屋で取材できず、別に「ミックスゾーン」が設けられる。ただ、過去に前例がない事態だけに、運営方法の細部までは詰め切れていないのが現状だ。 協会は力士に感染者が出た場合は春場所途中でも中止にする方針。親方衆、行司、呼び出し、床山など力士以外の協会員が感染した場合について、芝田山広報部長は「その時の状況を見て対処していくしかない。ケース・バイ・ケース」としている。何より、春場所を途中で打ち切った場合の優勝力士、成績の扱い、番付編成については未確定のままだ。 打ち切りの段階でV争いのトップが複数いた場合は、優勝者は誰になるのか。関脇朝乃山が大関取りの目安の12勝に王手をかけた段階だったら、大関昇進の可否はどうなるのか。一人大関の貴景勝が打ち切りの時点で負け越していたら、翌場所はカド番になるのか…。事前に確たるルールを決めておかなければ、大混乱に陥ることは必至だ。 それ以外にも、力士は春場所中に電車など公共交通機関は利用せず、車やバスを手配して場所入りする予定だが、詳細については決まっていない。 力士の体温検査(37・5度以下)も会場入場時ではなく、各部屋での実施に委ねられている。 さらには報道陣に対しても、部屋での力士への稽古取材の自粛を要請したが…多くの部屋が一般のファン見学を禁じている一方で、後援者の見学はフリーで稽古場に招き入れているのが現状協会としても各部屋に一任し、規制しない方針だという。 報道陣より後援者の人数のほうがはるかに多いケースもあるだけに、これでは効果そのものに疑問符が付く。 日本国与党である自民党総裁が声を大にしてコロナ菌封鎖の水際作戦に失敗しながら、『水際作戦は失敗しました。すみません』と潔く頭を下げないので不安と不信が増している現状。口では全力でコロナ菌を水際で封鎖 と叫びながら、最終的な責任を他者へ押し付けようという魂胆みえみえの言い回し、実際は穴ぼこだらけの緩々の作戦、検査体制の不備による中途半端な陰性を野に放った無責任さ、随所での判断の曖昧さ、たらいまわしせざるを得ない医療機関、重症化しないと検査しないという愚かさ、などで、日本国内に蔓延させ、挙げ句、猶予期間も与えずにいきなり学校休みだ!イベントには行くな!と思いつきで言葉を発するから、働く女性も 給食センターも 保育所も 先生たちもみな大混乱、世論でも反論が過半数を占めてくる。 協会の判断もそれと大同小異。 無観客開催の決断を下したものの、「見切り発車」の感は否めない。きちんと外部に相談して細部を詰めていかないと 何が起きるかわからないから「現場合わせ」=「行き当たりバッタリ」となりますね。 この期に及んで、体温測定を各部屋に任せる・・・って? アンビリーバボーなことですね
土俵外での新型コロナウイルスとの闘いにも「夜の外出は控えめにして、手洗いうがいをしっかりします」 と 朝乃山。 ってことは、すこしぐらいは夜の外出もあり????? 駄目でしょう!朝乃山! それで 菌を貰ってきたら、春場所は途中でも中止になるんだよ タニマチさんも一切 お誘いをかけないようにお願いします
戦時下の大相撲(3) 苦難の末、復興 1945昭和20年11月 国技館で行なわれたが鉄傘の修復未だ成らず、晴天10日間興行。 進駐軍の指示で土俵が16尺とされ、仕切り時間が幕内 5分となった。東冨士が新大関。双葉山はアメーバ赤痢と黄疸で休場していたが、 九日目に引退を表明。 戦場から復員して散切り(ざんぎり)頭の力士も 大関佐賀ノ花はじめ多数いた。 戦後には、本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなどの問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。 1945昭和20年11月 いったん大きくされた土俵は力士会の反対で元の大きさ=直径4.55m(15尺)に戻されて 秋場所開催。 1946昭和21年に両国国技館がGHQによって接収されメモリアルホールとして改装され、こけら落としとして11月秋場所が13日間の日程で行なわれた。しかし観客はGHQ関係者とその家族が大半を占め、日本人の相撲ファンが来場したのはわずかだった。 1947昭和22年にはGHQによって本場所開催を年3回認められたが、両国の(本来は国技館だった)メモリアルホールを使用することは許可されず、明治神宮外苑相撲場にて行なうこととなる。青天井のこの相撲場では観客も寒さに耐えられないと、正月場所なしで、6月夏場所、11月秋場所を行なった。 1948昭和23年5月は、大阪の福島公園に建設した假設國技舘にて、1949年1月と5月は日本橋濱町公園假設國技舘にて、 1949昭和24年10月は再び大阪の福島公園の假設國技舘にて本場所を開催。 そして1950昭和25年1月、ようやく浅草蔵前にて假設國技舘が出来上がり、昭和27年についに蔵前国技館が完成。5月場所を行なったのでした。 なお、大阪には「大阪国技館」および「大阪大国技館」が大正から昭和初期にかけて建造されていましたが、前者が昭和20年3月13日の大阪大空襲で焼失、後者は、双葉山人気に肖ろうとした思惑が外れ、戦争で娯楽どころではない状況に陥り、本格的相撲興行もせぬまま 帝国陸軍に接収された。 以上の理由で、仮設国技館を作り直したのだそうです。 終り
戦時下の大相撲(2) ついに無観客興行。 1944昭和19年11月 戦局のさらなる悪化に備え、翌20年 1月場所を繰り上げて後楽園で開催された。 1945昭和20年 3月10日の東京大空襲で現役力士の豊嶋・松浦潟・岩友(射水川)が犠牲となった。 また、B29により無数の焼夷弾が都内全域にまかれて地上で爆発、旧両國國技館の屋根(大鉄傘)は焼失、両国(本所)界隈等 近隣にあった相撲部屋多数が全焼した。 この大空襲の最中、幕下の郷錦ら防護団が翌朝までバケツリレーで天皇賜盃が納められている金庫を水浸しにして、天皇賜盃の焼失を防いだ。 1945昭和20年6月 本来 5月場所として 5月23日より 7日間明治神宮外苑で行なう予定だったが、 閑院宮薨去で 2日間の延期となり、さらに25日の土俵祭りを終えた後に 米軍の艦載機が来襲、 同夜 山の手方面大空襲があり神宮外苑が被災して中止となった。 その後、焼けた国技館で明治神宮奉納の神事相撲の形で 7日間の非公開開催が決まった。 国技館にて穴だらけの屋根の下、十両以上は負傷復員兵及び家族や関係者だけの観覧による本場所を、幕下以下は、国技館からほど近い春日野部屋にて本場所を行なった。 双葉山は面疔を患い 2日目より休場。 横綱土俵入り以外の力士は 大銀杏ではなく丁髷で土俵を務めた。 1945昭和20年8月 広島・長崎に相次いで原子爆弾が投下され、8月15日、ついに降伏。 昭和天皇からの玉音放送がラジオを通して日本中に流れ 終戦となる。
三月場所は観客がいないので、立ち合いの時の力士がぶつかる時の音がテレビで見ていても、よく聞こえるだろうから そうした迫力が感じられるそうです。 清めの水も、口にはしないで所作だけする ようですね。 場所入りや帰りの時にファンが押し寄せて来ない事を願います。 1人でも感染者が出たら中止となったら お相撲さん達が可哀想です
『 大相撲のコメント部屋 へのコメント 4,661件 』
力士・親方のテレビ出演情報2
プレバト!!【人気現役力士が大集結!★「俳句」&「絵手紙」の才能査定!!】
2020年3月5日(木) 19時00分~20時00分
本場所より集中した!?輝大士、正代直也、松鳳山裕也、千代大龍秀政、千代丸一樹、照強翔輝、竜電剛至が登場
▼土俵上では見せない現役力士の素顔が見える1時間!!.
番組内容
輝大士、正代直也、松鳳山裕也、千代大龍秀政、千代丸一樹、照強翔輝、竜電剛至ら7人をゲストに招き、「俳句」と「絵手紙」の査定に挑んでもらう。『俳句の才能査定ランキング』では観戦ゲストとして立川志らく、千原ジュニア、鈴木光が登場。 初めて俳句に挑戦する力士たちを見守ることに。意外にも文学少年だった力士も!?夏井先生は「お見事!」と力士たちの才能をベタ褒め!人気力士たちは、果たしてどんな一句を詠むのか!?「絵手紙の才能査定ランキング」では、輝関、千代丸関、正代関、竜電関、千代大龍関の5人が参戦。松鳳山関、照強関は観戦ゲストとして、ジュニアと共に5人を見守る。査定をするのは、絵手紙作家の花城祐子先生、「発想はすごい!」と大絶賛!母親宛で絵手紙に挑戦した千代大龍は自身の出来栄えについて「上手すぎるなと思って」と自画自賛するも結果は!?土俵上では見せない現役力士の素顔が見える1時間をお楽しみに!
MC浜田雅功
アシスタント玉巻映美(MBSアナウンサー)
ゲスト
輝大士 正代直也 松鳳山裕也 千代大龍秀政 千代丸一樹 照強翔輝 竜電剛至
観戦ゲスト鈴木光 立川志らく 千原ジュニア
専門家ゲスト 夏井いつき(俳人) 花城祐子(絵手紙作家)
力士・親方のテレビ出演情報
3月5日(木曜)
⑥TBS・22時~22時57分
「櫻井有吉The夜会」
ゲストに人気の炎鵬
角界のニュースター炎鵬の意外な司会ぶりに櫻井有吉がMC降格のピンチ?
3月7日(土曜) BSフジ・14時~15時25分
「感動!大相撲がっぷり総見~春場所を百倍楽しく見る極意」
先場所、幕尻優勝した徳勝龍にフォーカス、初場所の名勝負を振り返る。
春場所の展望も。
同じく3月7日(土曜)
NHKBS1にて16時~16時50分
「大相撲・伝説の一番の真相『異例の物言い!貴ノ花の神業 & 大横綱の連勝を止めた禁断の技』をアンコール放送」
これは必見!!要録画!
我らが第52代横綱北の富士さんvs角界のプリンス・関脇貴ノ花の「つき手orかばい手問題」昭和47年初場所八日目。
庄之助の軍配は西・貴ノ花。物言いとなり、長い長い協議の末、行司差し違い。浴びせ倒して北の富士の勝ち!とされた木村庄之助が辞表を出し、理事長に慰留されるも、そのまま引退してしまうことになってしまいました。
後に北の富士さんが『今だから言えるけど、あれは俺の負けだったね。貴ノ花の脚の筋肉を見ても、彼はあの態勢で攻めていたよ。俺は貴ノ花を頭をかばったんじゃなく自分の顔をかばったんだ。』と潔く負けを認めていました。
この翌場所も二人は土俵際でもつれる大熱戦で、寄り立てる北の富士を貴ノ花がうっちゃり。やや北の富士有利かと見え立行司伊之助の軍配は北の富士に。が、またもや物言い。長い協議の結果、北の富士の勇み足で貴ノ花の勝ち となりました。
これも差し違いとされた式守伊之助が辞表を提出。ふた場所続けて立行司が辞表を出す大事件。理事長の必死の説得に、伊之助は、ようやく引退を思い留まったのでした。
毎回熱戦を繰り広げる二人の対戦は毎回熱戦となり、昭和46年夏場所から『サンデースペシャル』として、しょっちゅう中日(日曜日)に割りが組まれ、貴ノ花が大関になって以降も、横綱大関戦としては異例の中日に頻繁に組まれてました。
そして、千代の富士の54連勝を阻んだ大乃国の捨て身の技
昭和最後の一番となった昭和63年九州場所千秋楽に大乃国が起こした(ある意味)大事件。
温故知新・大相撲カレンダー
3月2日
1815文化12年3月2日
この日、翌日(3月3日)から始まる春場所の番付に、津軽五所川原出身の柏戸利助が新大関として登場。記録が残っている「最古の大関」雪見山から数えてちょうど100人目の大関となりました。
柏戸利助は、柏戸部屋=無類力士雷電為右衞門の唯一ライバルだった大関・柏戸宗五郎が興した部屋で後の伊勢ノ海部屋所属で、雷電為右衞門が引退した後の江戸の相撲を四代玉垣額之助とともに牽引し、個人優勝(相当)16度という堂々たる成績で、新大関として臨んだこの春場所でも7勝1敗1無勝負で5度目の個人優勝(相当)でした。183cm132kg。
ちなみに、150人目の大関は、
1913大正3年に大関に昇進した伊勢ノ濱慶太郎(友綱部屋)。身長168cmと小柄ながら怪力を活かしてのなげわさが得意で玄人好みの相撲っぷりでした。
ちょうど 200人目の大関は、
昭和42年に大関昇進を果たした琴櫻傑將。
オールドファンならご存知の、頭からぶちかましての押し相撲が得意で、デゴイチのあだ名がつけられてました。182cm.150kg。
そして、一番新しい大関である貴景勝が249人目。
果たして、大関獲りに懸ける朝乃山が250人目の大関となれるでしょうか?
満員のお客様の歓声
相撲協会に残っているビデオから音声だけをテープで館内に大音量で流すとか?
力士のモチベーションを上げる為に、いろいろやってみては?
とりあえず、春場所中止は回避したが、問題が山積し大混乱は避けられない情勢だ。
すでに完売している前売り券の払い戻し方法は後日、協会のホームページなどで告知する予定。現時点では、幕内の取組が対象の懸賞をはじめ、土俵入り、初日と千秋楽の協会あいさつ、物言いがついた場合の審判長による場内説明などは基本的に通常通りに行われる予定だ。
感染対策も検討されている。神聖な土俵に上がる際に身を清めるために力士から力士へ渡される力水は「形だけにする。口をつけない」。幕内優勝力士には天皇賜杯と優勝旗が授与されるが、その他の表彰やVパレードは中止となる方向。
報道陣は支度部屋で取材できず、別に「ミックスゾーン」が設けられる。ただ、過去に前例がない事態だけに、運営方法の細部までは詰め切れていないのが現状だ。
協会は力士に感染者が出た場合は春場所途中でも中止にする方針。親方衆、行司、呼び出し、床山など力士以外の協会員が感染した場合について、芝田山広報部長は「その時の状況を見て対処していくしかない。ケース・バイ・ケース」としている。何より、春場所を途中で打ち切った場合の優勝力士、成績の扱い、番付編成については未確定のままだ。 打ち切りの段階でV争いのトップが複数いた場合は、優勝者は誰になるのか。関脇朝乃山が大関取りの目安の12勝に王手をかけた段階だったら、大関昇進の可否はどうなるのか。一人大関の貴景勝が打ち切りの時点で負け越していたら、翌場所はカド番になるのか…。事前に確たるルールを決めておかなければ、大混乱に陥ることは必至だ。
それ以外にも、力士は春場所中に電車など公共交通機関は利用せず、車やバスを手配して場所入りする予定だが、詳細については決まっていない。
力士の体温検査(37・5度以下)も会場入場時ではなく、各部屋での実施に委ねられている。
さらには報道陣に対しても、部屋での力士への稽古取材の自粛を要請したが…多くの部屋が一般のファン見学を禁じている一方で、後援者の見学はフリーで稽古場に招き入れているのが現状協会としても各部屋に一任し、規制しない方針だという。
報道陣より後援者の人数のほうがはるかに多いケースもあるだけに、これでは効果そのものに疑問符が付く。
日本国与党である自民党総裁が声を大にしてコロナ菌封鎖の水際作戦に失敗しながら、『水際作戦は失敗しました。すみません』と潔く頭を下げないので不安と不信が増している現状。口では全力でコロナ菌を水際で封鎖 と叫びながら、最終的な責任を他者へ押し付けようという魂胆みえみえの言い回し、実際は穴ぼこだらけの緩々の作戦、検査体制の不備による中途半端な陰性を野に放った無責任さ、随所での判断の曖昧さ、たらいまわしせざるを得ない医療機関、重症化しないと検査しないという愚かさ、などで、日本国内に蔓延させ、挙げ句、猶予期間も与えずにいきなり学校休みだ!イベントには行くな!と思いつきで言葉を発するから、働く女性も 給食センターも 保育所も 先生たちもみな大混乱、世論でも反論が過半数を占めてくる。
協会の判断もそれと大同小異。 無観客開催の決断を下したものの、「見切り発車」の感は否めない。きちんと外部に相談して細部を詰めていかないと
何が起きるかわからないから「現場合わせ」=「行き当たりバッタリ」となりますね。
この期に及んで、体温測定を各部屋に任せる・・・って? アンビリーバボーなことですね
土俵外での新型コロナウイルスとの闘いにも「夜の外出は控えめにして、手洗いうがいをしっかりします」 と 朝乃山。
ってことは、すこしぐらいは夜の外出もあり?????
駄目でしょう!朝乃山!
それで 菌を貰ってきたら、春場所は途中でも中止になるんだよ
タニマチさんも一切 お誘いをかけないようにお願いします
戦時下の大相撲(3) 苦難の末、復興
1945昭和20年11月 国技館で行なわれたが鉄傘の修復未だ成らず、晴天10日間興行。 進駐軍の指示で土俵が16尺とされ、仕切り時間が幕内 5分となった。東冨士が新大関。双葉山はアメーバ赤痢と黄疸で休場していたが、 九日目に引退を表明。
戦場から復員して散切り(ざんぎり)頭の力士も 大関佐賀ノ花はじめ多数いた。
戦後には、本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなどの問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。
1945昭和20年11月 いったん大きくされた土俵は力士会の反対で元の大きさ=直径4.55m(15尺)に戻されて 秋場所開催。
1946昭和21年に両国国技館がGHQによって接収されメモリアルホールとして改装され、こけら落としとして11月秋場所が13日間の日程で行なわれた。しかし観客はGHQ関係者とその家族が大半を占め、日本人の相撲ファンが来場したのはわずかだった。
1947昭和22年にはGHQによって本場所開催を年3回認められたが、両国の(本来は国技館だった)メモリアルホールを使用することは許可されず、明治神宮外苑相撲場にて行なうこととなる。青天井のこの相撲場では観客も寒さに耐えられないと、正月場所なしで、6月夏場所、11月秋場所を行なった。
1948昭和23年5月は、大阪の福島公園に建設した假設國技舘にて、1949年1月と5月は日本橋濱町公園假設國技舘にて、
1949昭和24年10月は再び大阪の福島公園の假設國技舘にて本場所を開催。
そして1950昭和25年1月、ようやく浅草蔵前にて假設國技舘が出来上がり、昭和27年についに蔵前国技館が完成。5月場所を行なったのでした。
なお、大阪には「大阪国技館」および「大阪大国技館」が大正から昭和初期にかけて建造されていましたが、前者が昭和20年3月13日の大阪大空襲で焼失、後者は、双葉山人気に肖ろうとした思惑が外れ、戦争で娯楽どころではない状況に陥り、本格的相撲興行もせぬまま 帝国陸軍に接収された。
以上の理由で、仮設国技館を作り直したのだそうです。 終り
戦時下の大相撲(2) ついに無観客興行。
1944昭和19年11月 戦局のさらなる悪化に備え、翌20年 1月場所を繰り上げて後楽園で開催された。
1945昭和20年 3月10日の東京大空襲で現役力士の豊嶋・松浦潟・岩友(射水川)が犠牲となった。
また、B29により無数の焼夷弾が都内全域にまかれて地上で爆発、旧両國國技館の屋根(大鉄傘)は焼失、両国(本所)界隈等 近隣にあった相撲部屋多数が全焼した。
この大空襲の最中、幕下の郷錦ら防護団が翌朝までバケツリレーで天皇賜盃が納められている金庫を水浸しにして、天皇賜盃の焼失を防いだ。
1945昭和20年6月 本来 5月場所として 5月23日より 7日間明治神宮外苑で行なう予定だったが、 閑院宮薨去で 2日間の延期となり、さらに25日の土俵祭りを終えた後に 米軍の艦載機が来襲、 同夜 山の手方面大空襲があり神宮外苑が被災して中止となった。 その後、焼けた国技館で明治神宮奉納の神事相撲の形で 7日間の非公開開催が決まった。 国技館にて穴だらけの屋根の下、十両以上は負傷復員兵及び家族や関係者だけの観覧による本場所を、幕下以下は、国技館からほど近い春日野部屋にて本場所を行なった。
双葉山は面疔を患い 2日目より休場。
横綱土俵入り以外の力士は 大銀杏ではなく丁髷で土俵を務めた。
1945昭和20年8月 広島・長崎に相次いで原子爆弾が投下され、8月15日、ついに降伏。
昭和天皇からの玉音放送がラジオを通して日本中に流れ 終戦となる。
三月場所は観客がいないので、立ち合いの時の力士がぶつかる時の音がテレビで見ていても、よく聞こえるだろうから
そうした迫力が感じられるそうです。
清めの水も、口にはしないで所作だけする
ようですね。
場所入りや帰りの時にファンが押し寄せて来ない事を願います。
1人でも感染者が出たら中止となったら
お相撲さん達が可哀想です
今日2日のNHKで
七時半から「鶴瓶の家族に乾杯」に
元安美錦の安治川親方が出演されます
ぶっつけ本番でカラオケもするそうです。
安治川親方の活躍ぶりを見るのが楽しみです