大相撲のコメント部屋

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応援コメント一覧 全2,407件

  1. #132919 | KON |
    大相撲ダイアリー 2月20日 1925大正14年のこの日、江戸川区小岩で蛇の目傘製造業を営む大塚家で男児が誕生しました。 名前は「清」。 後に“名人横綱”と讃えられる栃錦清隆です。 13歳で春日野部屋に入門。師匠春日野(元横綱栃木山)から『寝る時はエビのように小さくなって寝ろ。飯を食う時には大きな体で食え』という指導を受け忠実に教えを守って着実に番付を上げていった。 入幕した時の体重はわずか75kgでしたが、元々運動神経抜群だった大塚少年は、ありとあらゆる技を覚えそれを実戦で磨くことに長けていた。 十両昇進とともに、四股名を「大塚」から「栃錦」に改めました。 師匠春日野から『栃木山の “栃” と、(同じ出羽海部屋の兄弟子で栃木山より先に横綱となっていた)大錦卯一郎の “錦” をつけておいた。』と軽く言い渡されたが、師匠からの期待の大きさを裏付ける四股名でした。 この四股名に感銘を受けた栃錦は現役引退後、親方となって春日野部屋を継いでからも、弟子が関取になるとほぼ全員に “栃”のついた四股名を与えました。 大師匠栃木山から厳しく教わった「脇を固めハズ押しで攻めるために両脇に藁(わら)を挟んでの押しの稽古」を実践し、技能賞においては5場所連続を含む9回も受賞しました。 出し投げの切れ味は抜群で、羽黒山や鏡里・千代の山や東富士に吉葉山という大柄な横綱が犇めく昭和25~29年の横綱乱立時代を勝ち上がった。 優勝10回、準優勝9回、大相撲史上初の幕内500勝達成。 後から番付を駆け上がってきた初代若乃花とは毎場所のように熱戦を繰り広げ、“栃・若の一番”は、戦後の荒廃した日本に元気をもたらし、一般家庭へのテレビの普及には大きく貢献しました。(今でもYouTubeで栃・若対決を視ることができます) 以前に、当時を知る先輩方50人以上に『栃若の相撲をテレビで見ていましたか?』と訊くと 「必ず見てたよ」「自分は見てなかったけど父親や祖父母が見てたからテレビでは相撲中継が必ずかかっていた。」という返答ばかり。例外は3人だけでしたから、推計視聴率は低く見積もっても90%でしょう。 残念ながら、長きにわたって協会の理事長職 を務め多忙を極めたせいか?、栃錦の直接の弟子たちで横綱になった力士は誰もいません。 幕内優勝も初代栃東ただひとり。 (二代栃東は初代栃東が独立して玉ノ井部屋を興してから、栃ノ心は後任の春日野親方=栃乃和歌の時代になってから。) この2月20日は、やはり日本のテレビ普及に大きく貢献した“ミスター”長嶋茂雄さんやアントニオ猪木さんの誕生日でもあります。
  2. #132912 | KON |
    大相撲ダイアリー2月19日 1884明治17年のこの日、初代梅ヶ谷藤太郎に吉田司家から第15代の横綱免許が授与されました。 福岡県朝倉市出身、玉垣部屋。 身長 176cm 体重 105kgとずば抜けて大柄な力士とは言えなかった梅ヶ谷でしたが、極めて怪力でハズ押しで相手の差し手を絞り上げて上体を浮きあがらせてしまっていました。 明治維新の後、文明開化の西洋化の波により、抜刀令が出たりちょん髷も廃止されそうになるなどの世の中の流れで、大相撲は存続の危機に陥っていた時代。次第に世間の大相撲への感心も冷めてしまい、不人気極まりない興行が続き、 “大相撲=時代遅れ”のイメージがついてまわっていたそうです。 そんな中で梅ヶ谷が孤軍奮闘して大相撲の屋台骨を背負いました。 この梅ヶ谷(初代)の活躍が後の「梅・常陸時代」(=二代梅ヶ谷と常陸山)の大相撲大繁栄に繋がりました。 幕内戦歴 116勝6敗18分2預78休 勝率 .951 関取になって以降、11年あまりで負け越しは1度もなし。 当時の10日間興行でひと場所で最も多く負けたのが2敗。 大関在位期間中は 66勝3敗(勝率 .957)と圧巻の強さで、1876明治7年 - 1881明治12年にかけて 58連勝(分・預・休は除く)を記録し、新大関だった若嶌久三郎に敗れて連勝記録が一度止まるも、翌日から1884明治7年5月場所まで35連勝を記録した。 昭和3年6月に、横綱経験者として最高齢となる83歳3ヵ月で亡くなりました。 1斗酒を毎晩飲んでも、一向に酔わなかったという。 江戸時代の1845弘化3年生まれにして昭和まで存命だった長生き。 来月末に満81歳となる北の富士さんが、この梅ヶ谷の “横綱経験者最高齢記録” を更新しそうです。
  3. #132907 | 匿名 |
    場所も終わり番組も少なくて寂しい限りですね。 武隈部屋がある街だから、たまにですが力士さんがスーパーにいます。 子供が喜ぶんですよね。 前に頑張って下さいねと声かけたらあざーすと返されがっかりしたとコメントしましたが、うちのチビが大きいねと側でいったら僕もいっぱい食べておおきくなってとかえされて喜んでました。親方しっかりと教育したのかな?頑張ってほしいです。
  4. #132898 | s***@yahoo.co.jp |
    朝乃山の来場所の番付に関してですが十両据え置きか幕返り咲きか、 果たしてどちらに決まってるのか大変興味深いです。 普通に番付編成をして行けば北青鵬や水戸龍を上回るとは思えないのですが、 デイリースポーツなど入幕濃厚と書いてるメディアもあるようです。 たとえ今回据え置きであっても彼の目的達成が一場所遅れてしまう結果にはならないと私は思いますが、 実力人気伴う力士で処分に同情する相撲ファンも当然多く、 北の富士さんはじめちまたでは入幕への強い希望やその必然性を訴える意見も多いですね。
  5. #132896 | KON |
    大相撲ダイアリー2月18日 1938昭和13年のこの日、長崎県南松浦郡(現在の新上五島町)の佐々田家で男の子が誕生、後の第50代横綱となる佐田の山晋松でした。 郷土(五島)の英雄 元大関 五ツ嶋奈良男に憧れて相撲を始め、栃錦・千代の山一行が長崎巡業に訪れた際に角界入りを決めました。 182cm,129kgと均整のとれた筋肉質の体型で突き押し相撲を武器に、新入幕からわずか3場所目で幕内優勝を果たしました。 前頭上位に番付を上げた翌場所も初代若乃花・朝潮の両横綱を撃破し、5大関のうちの大鵬や若羽黒に歯が立たなかったものの、大関柏戸・北葉山には勝利して11勝して、小結を通り越して一気に関脇へ昇進。関脇4場所目で2度目の幕内優勝を果たして昭和37年夏場所から大関に昇進しました。 大関3年目に3度目の優勝で横綱昇進を決めました。 3度の優勝全てがタイムリーな番付アップにつなげました。 自身より身体がひとまわり大きな柏戸・大鵬にはなかなか通じませんでしたが、その他の力士には対戦成績で大きく勝ち越す安定した成績を収めました。 次代を担う玉の海には12勝7敗、九重部屋が出羽海部屋から独立したことにより対戦するようになった弟弟子 北の富士にも4勝2敗と勝ち越してました。 当時の横綱の多くが現役引退していた30歳で佐田の山も引退。 出羽の海親方となり、後に境川理事長として協会改革に着手しました。 6年近く前の2017年4月に満79歳で逝去されました。 佐田の山以降、55年間、23人の横綱が誕生してますが、九州出身の横綱は輩出されておりません。 (魁皇があと一歩までいきましたが残念ながら届かず) 生粋の九州男児で、自分のことを『儂(わし)』と言い、無礼な行ないには厳しく、常に自らをも律していました。酒も強くて、大鵬や柏戸に迫る酒豪だったそうです。
  6. #132892 | 匿名 |
    朝乃山が故郷の富山県に帰ったそうです 後援者の人達に迎えられて良かったと思います 取材のインタビューで朝乃山は テッペンを取りたいと言ったそうです 記者がテッペンとは幕内優勝する事ですか?と聞いたら 朝乃山はハッキリとテッペンとは横綱だと言ったそうです 気持ちの中で、横綱を目指したいと思っていても。 中々、口に出して言えないと思うけど ハッキリと言った事は本当にそう思っている事なのだと思います 大関に戻る事が最終目的ではなくて、 その上の横綱を目指したい 大関は、その目標の為の通過点なのですね
  7. #132890 | KON |
    大相撲ダイアリー 2月17日 1782天明2年の2月17日 二代谷風梶之助が江戸本場所で 63連勝達成(63勝0敗2引き分け・2預り)。この間に京都相撲本場所・大坂相撲本場所での35連勝もあったので、それを加えると なんと『本場所98連勝』。 あと一歩で100連勝という記録でした。 しかし、翌日、相撲巧者の小野川喜三郎に屈して大連勝はついにストップとなりました。 時の将軍は 10代将軍徳川家治。 このすぐ後の11代将軍家斉の時に “将軍上覧相撲”が行なわれ、谷風と小野川に「横綱免許」がおりたのでした。 それから6年後、円熟の境地を極め、再び「負けない相撲」を完成させた谷風が35連勝していた最中、インフルエンザに罹患して現役死してしまいました。 享年44歳。 二代谷風の生涯成績は、 通算成績 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 幕内在位49場所で優勝相当21回 この幕内勝率9割4分9厘は、雷電為右衛門(9割6分2厘)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(9割5分1厘)に続く史上3位。 横綱在位勝率は、9割6分5厘(55勝2敗5分1預2無勝負36休、勝率9割6分5厘、11場所で優勝相当3回)。 横綱在位ひと場所のみで幕末の戊辰戦争で西郷隆盛陣営に走った為に角界を離れてしまった12代横綱の陣幕久五郎の勝率10割(9勝0敗) を除けば、明治末期~大正の第22代横綱の太刀山峰右エ門の勝率9割6分6厘(84勝3敗1分1預51休)に次ぐ 史上2位。 明治後期までは “横綱”は名誉称号だったので、 『横綱成績を含む大関以上での勝率』を古今十傑の力士らと比較すると 1位 陣幕 勝率1.000 横綱ふた場所目を前に戊辰戦争へ走って相撲界を去った陣幕(勝率1.000) 2位 雷電(為) .9615 3位 二代谷風 .9610 4) 太刀山 .9583 5) 初代梅ヶ谷 .9565 6) 栃木山 .939 7) 小野川 .923 8) 稲妻雷五郎 .911 9) 常陸山 .902 10) 双葉山 .895 以下、 大正時代の大錦(卯)が勝率 .879。 戦後では  白鵬が .8696 大鵬が .850 千代の富士が .8478 朝青龍が .8364 貴乃花が .8167  北の湖 .8106 と続いている。 北の湖の勝率.8106でも15日間に換算すると12.2勝となり、 白鵬の勝率.8696が15日間で13.0勝に値します。 そして歴代6位の栃木山の勝率13.9勝は15日間換算で14.09勝となります。
  8. #132861 | KON |
    大相撲ダイアリー 2月11日 1825年2月11日 “無類力士”雷電為右衛門が現役を引退しました。 また1878年のこの日、雷電の命日に合わせて、建立された雷電為右衛門顕彰碑の除幕式が行なわれました。 全国各地にある雷電関係の碑の中で、いちばんの大物であろう雷電為右衛門顕彰碑は、 雷電夫人 八重(幼称おはん)の実家の菩提寺だった浄行寺を吸収した千葉県佐倉の妙覚寺に建っている。 巨大な仙台石で、高さ277cm、幅143cm、重さは4.5tという、黒光りする巨大な碑です。 雷電生誕の地長野県東御市の力士雷電之碑から「天下第一流 力士雷電之碑」の11文字を拾って冠するというデザインで、 除幕されたのは1878昭和53年2月11日。 背面には、希代の好角家でもある小島貞二撰で元佐倉市長堀田正久筆になる碑文があり、それは 雷電為右衛門は 「こゝ臼井のひとを 娶りたるえにしにより この地を愛し此処に眠る 歿後百五十三年の命日に因みて その偉容を等身大に刻み もつて顕彰の碑となす」  昭和五十三年二月十一日  佐倉 雷電顕彰会  この顕彰碑の前では、建立以来「佐倉雷電祭」が命日の2月11日に行なわれており、法要が営まれ、夫人が甘酒茶屋の出であることに因んで甘酒が振る舞われている。 雷電為右衛門については、皆様 ある程度ご承知の通り、並び立つ強豪が居なかった為に横綱免許は降りませんでしたが、 先輩力士の谷風梶之助でも達成してない凄まじい記録の数々で、しかもその後の初代梅ヶ谷も角聖常陸山も、大正の大横綱の太刀山も栃木山も、昭和の双葉山や大鵬も、そして北の湖や千代の富士も、貴乃花も白鵬も達成できなかった『唯一無二 天下無双の記録』、それをいくつも残しました。 例えば 雷電為右衛門 (本名 関 太郎吉) 浦風部屋 ・関脇付出での初土俵でいきなり幕内優勝 (番付が平幕に落ちたことがない) ・9場所連続優勝 =1806文化3年11月から1810文化7年10月にかけて。 そのまま引退。この時43歳でした。 (この他に7場所連続優勝があり。) ・幕内勝率 .962 (254勝10敗2分14預5無41休 幕内在位35場所=20年2ヶ月) ・優勝回数28回 (年間ふた場所制でしたので 現在の年間6場所になおすと優勝84回と考えられなくもない?) ・初土俵から引退まで、2日続けて負けたことが1度もない。 ・あまりの強さに、相手力士にはなんの制約もないのに、雷電だけは、『張り手』 『鉄砲』=突っ張り 『かんぬき』『さば折り』が禁じられました。 雷電だけが攻め技をいくつも禁じられたハンデ戦の中での9場所連続優勝・254勝10敗でした。
  9. #132853 | KON |
    大相撲ダイアリー 2月9日 1912明治45年のこの日、大分県の宇佐市の、穐吉家に男の子が産まれました。 名前は定次。 後の大横綱双葉山定次です。 双葉山については、数多(あまた)紹介されているのでご承知のことばかり…でしょうから、不滅の69連勝を少々詳しく……。 初土俵は昭和2年。 序ノ口をふた場所で通過、序二段を3場所で、三段目を4場所、幕下は6場所で通過しましたが、各段で全勝は一度もなし。 負け越しはありませんでしたが、序二段でも三段目でも幕下でも3勝3敗で終えることが2度ずつありましたので、取り分け将来を期待されていたわけてはありませんでした。 昭和6年5月場所にて新十両となりましたが、その場所では3勝8敗と負け越し。 秋の大阪場所では7勝4敗。 年間 10勝12敗の為、 翌年の1月場所では少し番付を下げて十両6枚目という番付のはずで、実際に番付は発表されてました。 しかし、1月場所直前に天竜らによる造反力士団らが決起して起こした春秋園事件により十両・幕内力士が40人も一斉に離脱。 困窮した協会が十両・幕下から力士を大挙幕内へ引き上げて番付を作り直し、2月に延期した本場所の体裁を保ちました。 その引き上げられた力士の中に双葉山もいて、なんと前頭4枚目に据えられました。 この場所を5勝3敗で勝ち越した双葉山でしたが、その後は、攻め込まれてからの“うっちゃり”で逆転する相撲が目立ち、昭和11年に大連勝が始まるまで4年間(9場所)は 合計52勝42敗という目立たぬ存在でした。 蓄膿症の手術を受けて鼻が治ってからは相撲が開花して、それまで6戦して1度も勝てなかった横綱玉錦に初勝利するなど躍進しました。 昭和11年春場所七日目に始まった69連勝の初期は “うっちゃり双葉”の相撲がまだ残ってましたが、右四つ左上手の相撲になってけら徐々に安定していきました。 69連勝の決まり手は 八日目から「うっちゃり」「二枚蹴り」「うっちゃり」「下手投げ」「すくい投げ」 翌場所に「上手投げ」「上手投げ」「下手投げ」「下手投げ」「寄り切り」「上手投げ」「寄り切り」「うっちゃり」「浴びせ倒し」「すくい投げ」「うっちゃり」で11戦全勝優勝。 翌場所は大関昇進し「寄り倒し」「寄り切り」「突き出し」「押し倒し」「寄り倒し」「上手投げ」「寄り切り」「うっちゃり」「寄り切り」「寄り倒し」「上手投げ」 で、ふた場所連続の11戦全勝優勝。 『大相撲に双葉山あり』と新聞で話題になって来場客が一挙に増加し入場しきれないお客さんから苦情が殺到。 翌場所からは13日制となり、「突き出し」「腰くだけ」「上手投げ」「上手投げ」「押し出し」「寄り倒し」「寄り倒し」「押し切り」「上手投げ」「寄り倒し」「からみ投げ」「下手投げ」「うっちゃり」 で ここも全勝優勝。 大関ふた場所は全勝で翌場所は横綱昇進。 そこで 「寄り切り」「上手投げ」「押し倒し」「寄り切り」「寄り切り」「下手投げ」「下手投げ」「寄り倒し」「吊り出し」「押し出し」「上手投げ」「寄り切り」「上手投げ」で13戦全勝優勝。 さらに 「押し切り」「寄り切り」「寄り倒し」「すくい投げ」「寄り切り」「寄り切り」「上手投げ」「上手投げ」「吊り出し」「割り出し」「押し切り」「押し出し」「寄り倒し」と ここでも13戦全勝優勝し66連勝となりまひた。 そして70連勝ならずとなった昭和14年春場所四日目までの序盤三日間が 「寄り倒し」「突き放し」「上手投げ」でした。 みるみる「うっちゃり」が減っていったのが解りますね。 千代の富士が 投げ技主体から前みつを取って一直線に走る相撲になって開花したのにも似ていますね。
  10. #132848 | KON |
    福祉大相撲にて 高安関が福祉大相撲のステージで歌った曲は、昭和の名曲「バス・ストップ」と紹介しましたが ほかに、女性歌手と共演するコーナーに参加した際に “歌唱力怪獣”島津亜矢さんと「虹と雪のバラード」でデュエットされたそうです。。 ほかに、翔猿関もアイドルグループ・STU48とブラックビスケッツの「タイミング」を披露歌を披露したようですし、 女性歌手のゲストには山形出身で元民謡全国チャンピオンの朝倉さや さんも出演します。 デビューの頃から応援してる山形弁の若手歌手なので、23日の放送がますます楽しみになってきました。

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