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朝乃山が故郷の富山県に帰ったそうです 後援者の人達に迎えられて良かったと思います 取材のインタビューで朝乃山は テッペンを取りたいと言ったそうです 記者がテッペンとは幕内優勝する事ですか?と聞いたら 朝乃山はハッキリとテッペンとは横綱だと言ったそうです 気持ちの中で、横綱を目指したいと思っていても。 中々、口に出して言えないと思うけど ハッキリと言った事は本当にそう思っている事なのだと思います 大関に戻る事が最終目的ではなくて、 その上の横綱を目指したい 大関は、その目標の為の通過点なのですね
大相撲ダイアリー 2月17日 1782天明2年の2月17日 二代谷風梶之助が江戸本場所で 63連勝達成(63勝0敗2引き分け・2預り)。この間に京都相撲本場所・大坂相撲本場所での35連勝もあったので、それを加えると なんと『本場所98連勝』。 あと一歩で100連勝という記録でした。 しかし、翌日、相撲巧者の小野川喜三郎に屈して大連勝はついにストップとなりました。 時の将軍は 10代将軍徳川家治。 このすぐ後の11代将軍家斉の時に “将軍上覧相撲”が行なわれ、谷風と小野川に「横綱免許」がおりたのでした。 それから6年後、円熟の境地を極め、再び「負けない相撲」を完成させた谷風が35連勝していた最中、インフルエンザに罹患して現役死してしまいました。 享年44歳。 二代谷風の生涯成績は、 通算成績 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 幕内在位49場所で優勝相当21回 この幕内勝率9割4分9厘は、雷電為右衛門(9割6分2厘)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(9割5分1厘)に続く史上3位。 横綱在位勝率は、9割6分5厘(55勝2敗5分1預2無勝負36休、勝率9割6分5厘、11場所で優勝相当3回)。 横綱在位ひと場所のみで幕末の戊辰戦争で西郷隆盛陣営に走った為に角界を離れてしまった12代横綱の陣幕久五郎の勝率10割(9勝0敗) を除けば、明治末期~大正の第22代横綱の太刀山峰右エ門の勝率9割6分6厘(84勝3敗1分1預51休)に次ぐ 史上2位。 明治後期までは “横綱”は名誉称号だったので、 『横綱成績を含む大関以上での勝率』を古今十傑の力士らと比較すると 1位 陣幕 勝率1.000 横綱ふた場所目を前に戊辰戦争へ走って相撲界を去った陣幕(勝率1.000) 2位 雷電(為) .9615 3位 二代谷風 .9610 4) 太刀山 .9583 5) 初代梅ヶ谷 .9565 6) 栃木山 .939 7) 小野川 .923 8) 稲妻雷五郎 .911 9) 常陸山 .902 10) 双葉山 .895 以下、 大正時代の大錦(卯)が勝率 .879。 戦後では 白鵬が .8696 大鵬が .850 千代の富士が .8478 朝青龍が .8364 貴乃花が .8167 北の湖 .8106 と続いている。 北の湖の勝率.8106でも15日間に換算すると12.2勝となり、 白鵬の勝率.8696が15日間で13.0勝に値します。 そして歴代6位の栃木山の勝率13.9勝は15日間換算で14.09勝となります。
大相撲ダイアリー 2月11日 1825年2月11日 “無類力士”雷電為右衛門が現役を引退しました。 また1878年のこの日、雷電の命日に合わせて、建立された雷電為右衛門顕彰碑の除幕式が行なわれました。 全国各地にある雷電関係の碑の中で、いちばんの大物であろう雷電為右衛門顕彰碑は、 雷電夫人 八重(幼称おはん)の実家の菩提寺だった浄行寺を吸収した千葉県佐倉の妙覚寺に建っている。 巨大な仙台石で、高さ277cm、幅143cm、重さは4.5tという、黒光りする巨大な碑です。 雷電生誕の地長野県東御市の力士雷電之碑から「天下第一流 力士雷電之碑」の11文字を拾って冠するというデザインで、 除幕されたのは1878昭和53年2月11日。 背面には、希代の好角家でもある小島貞二撰で元佐倉市長堀田正久筆になる碑文があり、それは 雷電為右衛門は 「こゝ臼井のひとを 娶りたるえにしにより この地を愛し此処に眠る 歿後百五十三年の命日に因みて その偉容を等身大に刻み もつて顕彰の碑となす」 昭和五十三年二月十一日 佐倉 雷電顕彰会 この顕彰碑の前では、建立以来「佐倉雷電祭」が命日の2月11日に行なわれており、法要が営まれ、夫人が甘酒茶屋の出であることに因んで甘酒が振る舞われている。 雷電為右衛門については、皆様 ある程度ご承知の通り、並び立つ強豪が居なかった為に横綱免許は降りませんでしたが、 先輩力士の谷風梶之助でも達成してない凄まじい記録の数々で、しかもその後の初代梅ヶ谷も角聖常陸山も、大正の大横綱の太刀山も栃木山も、昭和の双葉山や大鵬も、そして北の湖や千代の富士も、貴乃花も白鵬も達成できなかった『唯一無二 天下無双の記録』、それをいくつも残しました。 例えば 雷電為右衛門 (本名 関 太郎吉) 浦風部屋 ・関脇付出での初土俵でいきなり幕内優勝 (番付が平幕に落ちたことがない) ・9場所連続優勝 =1806文化3年11月から1810文化7年10月にかけて。 そのまま引退。この時43歳でした。 (この他に7場所連続優勝があり。) ・幕内勝率 .962 (254勝10敗2分14預5無41休 幕内在位35場所=20年2ヶ月) ・優勝回数28回 (年間ふた場所制でしたので 現在の年間6場所になおすと優勝84回と考えられなくもない?) ・初土俵から引退まで、2日続けて負けたことが1度もない。 ・あまりの強さに、相手力士にはなんの制約もないのに、雷電だけは、『張り手』 『鉄砲』=突っ張り 『かんぬき』『さば折り』が禁じられました。 雷電だけが攻め技をいくつも禁じられたハンデ戦の中での9場所連続優勝・254勝10敗でした。
大相撲ダイアリー 2月9日 1912明治45年のこの日、大分県の宇佐市の、穐吉家に男の子が産まれました。 名前は定次。 後の大横綱双葉山定次です。 双葉山については、数多(あまた)紹介されているのでご承知のことばかり…でしょうから、不滅の69連勝を少々詳しく……。 初土俵は昭和2年。 序ノ口をふた場所で通過、序二段を3場所で、三段目を4場所、幕下は6場所で通過しましたが、各段で全勝は一度もなし。 負け越しはありませんでしたが、序二段でも三段目でも幕下でも3勝3敗で終えることが2度ずつありましたので、取り分け将来を期待されていたわけてはありませんでした。 昭和6年5月場所にて新十両となりましたが、その場所では3勝8敗と負け越し。 秋の大阪場所では7勝4敗。 年間 10勝12敗の為、 翌年の1月場所では少し番付を下げて十両6枚目という番付のはずで、実際に番付は発表されてました。 しかし、1月場所直前に天竜らによる造反力士団らが決起して起こした春秋園事件により十両・幕内力士が40人も一斉に離脱。 困窮した協会が十両・幕下から力士を大挙幕内へ引き上げて番付を作り直し、2月に延期した本場所の体裁を保ちました。 その引き上げられた力士の中に双葉山もいて、なんと前頭4枚目に据えられました。 この場所を5勝3敗で勝ち越した双葉山でしたが、その後は、攻め込まれてからの“うっちゃり”で逆転する相撲が目立ち、昭和11年に大連勝が始まるまで4年間(9場所)は 合計52勝42敗という目立たぬ存在でした。 蓄膿症の手術を受けて鼻が治ってからは相撲が開花して、それまで6戦して1度も勝てなかった横綱玉錦に初勝利するなど躍進しました。 昭和11年春場所七日目に始まった69連勝の初期は “うっちゃり双葉”の相撲がまだ残ってましたが、右四つ左上手の相撲になってけら徐々に安定していきました。 69連勝の決まり手は 八日目から「うっちゃり」「二枚蹴り」「うっちゃり」「下手投げ」「すくい投げ」 翌場所に「上手投げ」「上手投げ」「下手投げ」「下手投げ」「寄り切り」「上手投げ」「寄り切り」「うっちゃり」「浴びせ倒し」「すくい投げ」「うっちゃり」で11戦全勝優勝。 翌場所は大関昇進し「寄り倒し」「寄り切り」「突き出し」「押し倒し」「寄り倒し」「上手投げ」「寄り切り」「うっちゃり」「寄り切り」「寄り倒し」「上手投げ」 で、ふた場所連続の11戦全勝優勝。 『大相撲に双葉山あり』と新聞で話題になって来場客が一挙に増加し入場しきれないお客さんから苦情が殺到。 翌場所からは13日制となり、「突き出し」「腰くだけ」「上手投げ」「上手投げ」「押し出し」「寄り倒し」「寄り倒し」「押し切り」「上手投げ」「寄り倒し」「からみ投げ」「下手投げ」「うっちゃり」 で ここも全勝優勝。 大関ふた場所は全勝で翌場所は横綱昇進。 そこで 「寄り切り」「上手投げ」「押し倒し」「寄り切り」「寄り切り」「下手投げ」「下手投げ」「寄り倒し」「吊り出し」「押し出し」「上手投げ」「寄り切り」「上手投げ」で13戦全勝優勝。 さらに 「押し切り」「寄り切り」「寄り倒し」「すくい投げ」「寄り切り」「寄り切り」「上手投げ」「上手投げ」「吊り出し」「割り出し」「押し切り」「押し出し」「寄り倒し」と ここでも13戦全勝優勝し66連勝となりまひた。 そして70連勝ならずとなった昭和14年春場所四日目までの序盤三日間が 「寄り倒し」「突き放し」「上手投げ」でした。 みるみる「うっちゃり」が減っていったのが解りますね。 千代の富士が 投げ技主体から前みつを取って一直線に走る相撲になって開花したのにも似ていますね。
福祉大相撲にて 高安関が福祉大相撲のステージで歌った曲は、昭和の名曲「バス・ストップ」と紹介しましたが ほかに、女性歌手と共演するコーナーに参加した際に “歌唱力怪獣”島津亜矢さんと「虹と雪のバラード」でデュエットされたそうです。。 ほかに、翔猿関もアイドルグループ・STU48とブラックビスケッツの「タイミング」を披露歌を披露したようですし、 女性歌手のゲストには山形出身で元民謡全国チャンピオンの朝倉さや さんも出演します。 デビューの頃から応援してる山形弁の若手歌手なので、23日の放送がますます楽しみになってきました。
大相撲ダイアリー 2月7日 1995平成7年のこの日 ホテルニューオータニで貴乃花の横綱昇進披露宴が行なわれました。 横綱土俵入りの型は「雲龍型」を選択、当時同じ二所ノ関一門の横綱だった18代間垣(第56代横綱・二代若乃花)と13代鳴戸(第59代横綱・隆の里)の二人が指導した。 新横綱で迎えた1995年1月場所は初日に武双山に敗れ、1994年9月場所初日から続いた連勝は30でストップ、八日目に魁皇にも敗れたが、十四日目に1敗の武蔵丸を破り、千秋楽は13勝2敗で並んだ武蔵丸との優勝決定戦を制し、自身初の3連覇を達成。 新横綱の優勝は15日制になってからは、大鵬・隆の里以来史上3人目。 この直後に行なわれたのが横綱昇進披露宴でした。 春場所は曙との13勝1敗同士の相星決戦となり、敗れて4連覇は逃したが、翌5月場所でも2場所連続で曙との相星決戦となり、雪辱を果たして14勝1敗で優勝した。 7月場所では十四日目に優勝を決めた。 翌9月場所でも十四日目に優勝を決め、千秋楽は曙を押し出しで破り、自身2度目の3連覇を全勝優勝で飾った。 九州場所は初日に琴稲妻、七日目に早くも2敗となりましたが、中日以降は順調に白星を重ね、十四日目まで12勝2敗で兄の若乃花と共に優勝争いのトップに立った。千秋楽では若乃花が武双山に敗れ、自身も武蔵丸の注文相撲に屈したため12勝3敗同士の史上初の兄弟優勝決定戦が実現。若貴フィーバーは最高潮に達しました。 前人未到の「新横綱の場所から11場所連続で準優勝以上(優勝8回)」という圧倒的な相撲をみせました。 この記録は大正の太刀山や栃木山も昭和の双葉山や大鵬・そして北の湖・千代の富士も、後の朝青龍や白鵬も達成できていない空前絶後の記録となっています。
放送日知らせてくれてありがとう。 楽しみにまってるわ。 北の富士さんでてほしいけどね。 おばちゃんの仲間は北の富士さんが夜のヒットスタジオで唄ったのみてるからね! まだ当たり前だけど太って丸々してた頃、今の方が数倍ステキだよね。
4日に行われたNHKの福祉大相撲 まだ、何日にNHKで 放送する日にちはわかりませんが 今月中にはNHKでテレビ放送するらしいので 高安の歌も聞けますよ 放送の日にちが決まったら また、ここで誰かが教えてくれるでしょうから 大丈夫ですよ 放送が楽しみですね
大相撲ダイアリー 2月6日 1937昭和12年のこの日、 歴代横綱最高勝率 .966 を記録、“雷電為右衛門の再来” “45日”=ひと突き半の異名があった剛力横綱 太刀山峰右衛門が、大相撲史上初めてとなる「還暦土俵入り」を行ないました。 前例のないことでしたが、太刀山の贔屓筋らが音頭をとって催されたもので、上野精養軒の大広間にて、特別誂えの赤いまわしをつけて見事な横綱土俵入りを行ないました。 太刀山が 22代横綱でしたから、太刀山以降50人以上の横綱が誕生、まだ60歳を迎えてない10人を除いても40人からの横綱が誕生しましたが、 元横綱の寿命そのものが短かったことや、60歳時点で体調不良でまわしをつけて横綱土俵入りを行なうことができず辞退された人も数多く、 還暦土俵入りを行なえたのは、 22代横綱太刀山を皮切りに、27代の栃木山、31代の常ノ花、44代の栃錦、45代の初代若乃花、48代の大鵬、52代の北の富士、57代の三重ノ海、55代の北の湖、58代の千代の富士、63代の旭富士……の計11人。 北の富士さんは、還暦の時には協会を退職していたので、国技館の使用が認められず、都内のホテル(ホテルイースト21 江東区東陽町)で行なわれ、多く報道陣にも囲まれて、56歳の頃からスタートしたNHK大相撲中継の解説者としても好評で、還暦にしてなお衰えない人気ぶりでした。 今年2023令和5年で、それまでの大相撲中継解説者として最長だった玉の海梅吉さんに追い付く「解説者生活25年目」に入りました。 他には、神風正一さんの13年間(1953年~1966年)、出羽錦忠雄さんの9年間(1990年~1999年)、緒方昇さん=元関脇北の洋の12年間(1988年~2000年)といった面々も名解説を繰り広げていましたね。
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朝乃山が故郷の富山県に帰ったそうです
後援者の人達に迎えられて良かったと思います
取材のインタビューで朝乃山は
テッペンを取りたいと言ったそうです
記者がテッペンとは幕内優勝する事ですか?と聞いたら
朝乃山はハッキリとテッペンとは横綱だと言ったそうです
気持ちの中で、横綱を目指したいと思っていても。
中々、口に出して言えないと思うけど
ハッキリと言った事は本当にそう思っている事なのだと思います
大関に戻る事が最終目的ではなくて、 その上の横綱を目指したい
大関は、その目標の為の通過点なのですね
大相撲ダイアリー 2月17日
1782天明2年の2月17日
二代谷風梶之助が江戸本場所で 63連勝達成(63勝0敗2引き分け・2預り)。この間に京都相撲本場所・大坂相撲本場所での35連勝もあったので、それを加えると なんと『本場所98連勝』。
あと一歩で100連勝という記録でした。
しかし、翌日、相撲巧者の小野川喜三郎に屈して大連勝はついにストップとなりました。
時の将軍は 10代将軍徳川家治。
このすぐ後の11代将軍家斉の時に “将軍上覧相撲”が行なわれ、谷風と小野川に「横綱免許」がおりたのでした。
それから6年後、円熟の境地を極め、再び「負けない相撲」を完成させた谷風が35連勝していた最中、インフルエンザに罹患して現役死してしまいました。
享年44歳。
二代谷風の生涯成績は、
通算成績 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 幕内在位49場所で優勝相当21回
この幕内勝率9割4分9厘は、雷電為右衛門(9割6分2厘)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(9割5分1厘)に続く史上3位。
横綱在位勝率は、9割6分5厘(55勝2敗5分1預2無勝負36休、勝率9割6分5厘、11場所で優勝相当3回)。
横綱在位ひと場所のみで幕末の戊辰戦争で西郷隆盛陣営に走った為に角界を離れてしまった12代横綱の陣幕久五郎の勝率10割(9勝0敗) を除けば、明治末期~大正の第22代横綱の太刀山峰右エ門の勝率9割6分6厘(84勝3敗1分1預51休)に次ぐ 史上2位。
明治後期までは “横綱”は名誉称号だったので、
『横綱成績を含む大関以上での勝率』を古今十傑の力士らと比較すると
1位 陣幕 勝率1.000
横綱ふた場所目を前に戊辰戦争へ走って相撲界を去った陣幕(勝率1.000)
2位 雷電(為) .9615
3位 二代谷風 .9610
4) 太刀山 .9583
5) 初代梅ヶ谷 .9565
6) 栃木山 .939
7) 小野川 .923
8) 稲妻雷五郎 .911
9) 常陸山 .902
10) 双葉山 .895
以下、
大正時代の大錦(卯)が勝率 .879。
戦後では
白鵬が .8696
大鵬が .850
千代の富士が .8478
朝青龍が .8364
貴乃花が .8167
北の湖 .8106
と続いている。
北の湖の勝率.8106でも15日間に換算すると12.2勝となり、
白鵬の勝率.8696が15日間で13.0勝に値します。
そして歴代6位の栃木山の勝率13.9勝は15日間換算で14.09勝となります。
大相撲ダイアリー 2月11日
1825年2月11日
“無類力士”雷電為右衛門が現役を引退しました。
また1878年のこの日、雷電の命日に合わせて、建立された雷電為右衛門顕彰碑の除幕式が行なわれました。
全国各地にある雷電関係の碑の中で、いちばんの大物であろう雷電為右衛門顕彰碑は、
雷電夫人 八重(幼称おはん)の実家の菩提寺だった浄行寺を吸収した千葉県佐倉の妙覚寺に建っている。
巨大な仙台石で、高さ277cm、幅143cm、重さは4.5tという、黒光りする巨大な碑です。
雷電生誕の地長野県東御市の力士雷電之碑から「天下第一流 力士雷電之碑」の11文字を拾って冠するというデザインで、 除幕されたのは1878昭和53年2月11日。
背面には、希代の好角家でもある小島貞二撰で元佐倉市長堀田正久筆になる碑文があり、それは
雷電為右衛門は
「こゝ臼井のひとを
娶りたるえにしにより
この地を愛し此処に眠る
歿後百五十三年の命日に因みて
その偉容を等身大に刻み
もつて顕彰の碑となす」
昭和五十三年二月十一日
佐倉 雷電顕彰会
この顕彰碑の前では、建立以来「佐倉雷電祭」が命日の2月11日に行なわれており、法要が営まれ、夫人が甘酒茶屋の出であることに因んで甘酒が振る舞われている。
雷電為右衛門については、皆様 ある程度ご承知の通り、並び立つ強豪が居なかった為に横綱免許は降りませんでしたが、
先輩力士の谷風梶之助でも達成してない凄まじい記録の数々で、しかもその後の初代梅ヶ谷も角聖常陸山も、大正の大横綱の太刀山も栃木山も、昭和の双葉山や大鵬も、そして北の湖や千代の富士も、貴乃花も白鵬も達成できなかった『唯一無二 天下無双の記録』、それをいくつも残しました。
例えば
雷電為右衛門
(本名 関 太郎吉)
浦風部屋
・関脇付出での初土俵でいきなり幕内優勝
(番付が平幕に落ちたことがない)
・9場所連続優勝
=1806文化3年11月から1810文化7年10月にかけて。
そのまま引退。この時43歳でした。
(この他に7場所連続優勝があり。)
・幕内勝率 .962
(254勝10敗2分14預5無41休 幕内在位35場所=20年2ヶ月)
・優勝回数28回
(年間ふた場所制でしたので 現在の年間6場所になおすと優勝84回と考えられなくもない?)
・初土俵から引退まで、2日続けて負けたことが1度もない。
・あまりの強さに、相手力士にはなんの制約もないのに、雷電だけは、『張り手』 『鉄砲』=突っ張り 『かんぬき』『さば折り』が禁じられました。
雷電だけが攻め技をいくつも禁じられたハンデ戦の中での9場所連続優勝・254勝10敗でした。
大相撲ダイアリー 2月9日
1912明治45年のこの日、大分県の宇佐市の、穐吉家に男の子が産まれました。
名前は定次。
後の大横綱双葉山定次です。
双葉山については、数多(あまた)紹介されているのでご承知のことばかり…でしょうから、不滅の69連勝を少々詳しく……。
初土俵は昭和2年。
序ノ口をふた場所で通過、序二段を3場所で、三段目を4場所、幕下は6場所で通過しましたが、各段で全勝は一度もなし。
負け越しはありませんでしたが、序二段でも三段目でも幕下でも3勝3敗で終えることが2度ずつありましたので、取り分け将来を期待されていたわけてはありませんでした。
昭和6年5月場所にて新十両となりましたが、その場所では3勝8敗と負け越し。
秋の大阪場所では7勝4敗。
年間 10勝12敗の為、
翌年の1月場所では少し番付を下げて十両6枚目という番付のはずで、実際に番付は発表されてました。
しかし、1月場所直前に天竜らによる造反力士団らが決起して起こした春秋園事件により十両・幕内力士が40人も一斉に離脱。
困窮した協会が十両・幕下から力士を大挙幕内へ引き上げて番付を作り直し、2月に延期した本場所の体裁を保ちました。
その引き上げられた力士の中に双葉山もいて、なんと前頭4枚目に据えられました。
この場所を5勝3敗で勝ち越した双葉山でしたが、その後は、攻め込まれてからの“うっちゃり”で逆転する相撲が目立ち、昭和11年に大連勝が始まるまで4年間(9場所)は 合計52勝42敗という目立たぬ存在でした。
蓄膿症の手術を受けて鼻が治ってからは相撲が開花して、それまで6戦して1度も勝てなかった横綱玉錦に初勝利するなど躍進しました。
昭和11年春場所七日目に始まった69連勝の初期は “うっちゃり双葉”の相撲がまだ残ってましたが、右四つ左上手の相撲になってけら徐々に安定していきました。
69連勝の決まり手は
八日目から「うっちゃり」「二枚蹴り」「うっちゃり」「下手投げ」「すくい投げ」
翌場所に「上手投げ」「上手投げ」「下手投げ」「下手投げ」「寄り切り」「上手投げ」「寄り切り」「うっちゃり」「浴びせ倒し」「すくい投げ」「うっちゃり」で11戦全勝優勝。
翌場所は大関昇進し「寄り倒し」「寄り切り」「突き出し」「押し倒し」「寄り倒し」「上手投げ」「寄り切り」「うっちゃり」「寄り切り」「寄り倒し」「上手投げ」
で、ふた場所連続の11戦全勝優勝。
『大相撲に双葉山あり』と新聞で話題になって来場客が一挙に増加し入場しきれないお客さんから苦情が殺到。
翌場所からは13日制となり、「突き出し」「腰くだけ」「上手投げ」「上手投げ」「押し出し」「寄り倒し」「寄り倒し」「押し切り」「上手投げ」「寄り倒し」「からみ投げ」「下手投げ」「うっちゃり」
で ここも全勝優勝。
大関ふた場所は全勝で翌場所は横綱昇進。
そこで
「寄り切り」「上手投げ」「押し倒し」「寄り切り」「寄り切り」「下手投げ」「下手投げ」「寄り倒し」「吊り出し」「押し出し」「上手投げ」「寄り切り」「上手投げ」で13戦全勝優勝。
さらに
「押し切り」「寄り切り」「寄り倒し」「すくい投げ」「寄り切り」「寄り切り」「上手投げ」「上手投げ」「吊り出し」「割り出し」「押し切り」「押し出し」「寄り倒し」と ここでも13戦全勝優勝し66連勝となりまひた。
そして70連勝ならずとなった昭和14年春場所四日目までの序盤三日間が
「寄り倒し」「突き放し」「上手投げ」でした。
みるみる「うっちゃり」が減っていったのが解りますね。
千代の富士が 投げ技主体から前みつを取って一直線に走る相撲になって開花したのにも似ていますね。
福祉大相撲にて
高安関が福祉大相撲のステージで歌った曲は、昭和の名曲「バス・ストップ」と紹介しましたが
ほかに、女性歌手と共演するコーナーに参加した際に “歌唱力怪獣”島津亜矢さんと「虹と雪のバラード」でデュエットされたそうです。。
ほかに、翔猿関もアイドルグループ・STU48とブラックビスケッツの「タイミング」を披露歌を披露したようですし、
女性歌手のゲストには山形出身で元民謡全国チャンピオンの朝倉さや さんも出演します。
デビューの頃から応援してる山形弁の若手歌手なので、23日の放送がますます楽しみになってきました。
大相撲ダイアリー
2月7日
1995平成7年のこの日
ホテルニューオータニで貴乃花の横綱昇進披露宴が行なわれました。
横綱土俵入りの型は「雲龍型」を選択、当時同じ二所ノ関一門の横綱だった18代間垣(第56代横綱・二代若乃花)と13代鳴戸(第59代横綱・隆の里)の二人が指導した。
新横綱で迎えた1995年1月場所は初日に武双山に敗れ、1994年9月場所初日から続いた連勝は30でストップ、八日目に魁皇にも敗れたが、十四日目に1敗の武蔵丸を破り、千秋楽は13勝2敗で並んだ武蔵丸との優勝決定戦を制し、自身初の3連覇を達成。
新横綱の優勝は15日制になってからは、大鵬・隆の里以来史上3人目。
この直後に行なわれたのが横綱昇進披露宴でした。
春場所は曙との13勝1敗同士の相星決戦となり、敗れて4連覇は逃したが、翌5月場所でも2場所連続で曙との相星決戦となり、雪辱を果たして14勝1敗で優勝した。
7月場所では十四日目に優勝を決めた。
翌9月場所でも十四日目に優勝を決め、千秋楽は曙を押し出しで破り、自身2度目の3連覇を全勝優勝で飾った。
九州場所は初日に琴稲妻、七日目に早くも2敗となりましたが、中日以降は順調に白星を重ね、十四日目まで12勝2敗で兄の若乃花と共に優勝争いのトップに立った。千秋楽では若乃花が武双山に敗れ、自身も武蔵丸の注文相撲に屈したため12勝3敗同士の史上初の兄弟優勝決定戦が実現。若貴フィーバーは最高潮に達しました。
前人未到の「新横綱の場所から11場所連続で準優勝以上(優勝8回)」という圧倒的な相撲をみせました。
この記録は大正の太刀山や栃木山も昭和の双葉山や大鵬・そして北の湖・千代の富士も、後の朝青龍や白鵬も達成できていない空前絶後の記録となっています。
放送日知らせてくれてありがとう。
楽しみにまってるわ。
北の富士さんでてほしいけどね。
おばちゃんの仲間は北の富士さんが夜のヒットスタジオで唄ったのみてるからね!
まだ当たり前だけど太って丸々してた頃、今の方が数倍ステキだよね。
4日に行われた福祉大相撲は
今月の23日の祭日に午後4時半から
NHKで放送されるそうです
楽しみですね
4日に行われたNHKの福祉大相撲
まだ、何日にNHKで
放送する日にちはわかりませんが
今月中にはNHKでテレビ放送するらしいので
高安の歌も聞けますよ
放送の日にちが決まったら
また、ここで誰かが教えてくれるでしょうから
大丈夫ですよ
放送が楽しみですね
大相撲ダイアリー
2月6日
1937昭和12年のこの日、
歴代横綱最高勝率 .966 を記録、“雷電為右衛門の再来” “45日”=ひと突き半の異名があった剛力横綱 太刀山峰右衛門が、大相撲史上初めてとなる「還暦土俵入り」を行ないました。
前例のないことでしたが、太刀山の贔屓筋らが音頭をとって催されたもので、上野精養軒の大広間にて、特別誂えの赤いまわしをつけて見事な横綱土俵入りを行ないました。
太刀山が 22代横綱でしたから、太刀山以降50人以上の横綱が誕生、まだ60歳を迎えてない10人を除いても40人からの横綱が誕生しましたが、
元横綱の寿命そのものが短かったことや、60歳時点で体調不良でまわしをつけて横綱土俵入りを行なうことができず辞退された人も数多く、
還暦土俵入りを行なえたのは、
22代横綱太刀山を皮切りに、27代の栃木山、31代の常ノ花、44代の栃錦、45代の初代若乃花、48代の大鵬、52代の北の富士、57代の三重ノ海、55代の北の湖、58代の千代の富士、63代の旭富士……の計11人。
北の富士さんは、還暦の時には協会を退職していたので、国技館の使用が認められず、都内のホテル(ホテルイースト21 江東区東陽町)で行なわれ、多く報道陣にも囲まれて、56歳の頃からスタートしたNHK大相撲中継の解説者としても好評で、還暦にしてなお衰えない人気ぶりでした。
今年2023令和5年で、それまでの大相撲中継解説者として最長だった玉の海梅吉さんに追い付く「解説者生活25年目」に入りました。
他には、神風正一さんの13年間(1953年~1966年)、出羽錦忠雄さんの9年間(1990年~1999年)、緒方昇さん=元関脇北の洋の12年間(1988年~2000年)といった面々も名解説を繰り広げていましたね。