日本の地震学の基礎を築いた福井県出身の地震学者【シリーズお墓から郷土の偉人発見 VOL.12】

東北沖では今も地震が発生しておりますが、今回は福井県出身の地震学者・大森房吉さんをご紹介します。

大森さんは現在の福井県福井市の手寄である越前国足羽郡福井城下にて、下級武士・大森藤輔の5男として生まれました。小学生の時に上京した大森さんは、1890年に東京帝国大学理科大学物理学科を卒業した後大学院に進み、イギリスから招聘されたジョン・ミルン教授の指導のもとで地震学及び気象学を専攻研究しました。

1891年の濃尾大地震(M8.0)の際、余震調査や現地調査に当たり、この時に地質学者の小藤文次郎氏などと1892年に震災予防調査会設立とともに委員となりました。1894年にはドイツ・イタリアに留学後、1897年には東京帝国大学地震学教授となり、震災予防調査会を主宰して地震学界を指導しました。

国内地震はもとより海外の大震災にも出張踏査し、日本代表としてしばしば国際会議にも出席するなど、万国地震学協会の設立にも尽力しました。 これらの調査報告および学術論文は和欧文を含めて200編以上にのぼり、当時を代表する著作に『地震学講話』(1908)があります。

○地震学上の業績としては、
1.大森式地震計、微動計の考案
2.地震帯の発見
3.初期微動と震源距離との関係(大森公式)
4.余震頻度の式
5.潮位、津波の研究
6.建築物の振動測定(耐震試験)
などがあげられます。これらの業績は世界的にも認められ、スウェーデンのノーベル賞委員会から審査論文の提出を求められた話は有名です。

大森を助けた後輩で同じ大学の助教授・地震学者の今村明恒さんの働きも大きく、地震予知説論争では相対立したが体系をととのえた功績は大きいとされています。 大森を中心に樹立された地震学は、1923年に発生した関東大震災によりさらに多くの貴重な実質的資料が得られ日本の地震学を発展させた。

オーストラリアのシドニーでの汎太平洋学術会議に出席中に関東大震災の悲報を知り、リバビュー天文台で関東大震災の揺れを観測し、その大きさに驚愕。 急ぎ帰国の船中で脳腫瘍のために倒れ、帰国後悪化し翌月に逝去しました。正3位 勲1等 理学博士 享年55歳でした。亡くなる前に対立していた今村さんに今後の地震研究を託していたといいます。 その後、今村さんは幅広い震災対策を呼びかけ尽力しました。 なお、関東大地震の後、震災予防調査会は廃止され、1925年に東京帝国大学地震研究所が設立され、地震学の基礎的研究と災害軽減が特に重視されたといいます。

【地震予知説論争】
東京帝国大学地震学教室の教授の大森房吉と、同大学の助教授の今村明恒(12-1-5)の間で繰り広げられた論争。なお、年齢は大森が二歳年上。
関東大震災前に双方とも東京にいずれ地震が来て大火災に見舞われるという考えは一致。 しかし、1905投稿記事の中で今村は「将来起こりうる関東地方での地震への対策を訴える」「今後五〇年間に関東に大地震が発生するおそれあり」と猶予はないと警告するのに対し、大森は世情を必要以上に動揺させることを恐れ、今村の説を退けていたため、両者は対立。今村は「ホラ吹きの今村」と中傷されるも、1923関東大震災によって現実のものとなった。

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◆取材協力
歴史が眠る多磨霊園
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/
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