気が付けば朗々介護(4) -介護には自身の体力作りが必須だ-

50代半ばになっても自分はまだ若いつもりでいるのだが、体の衰えは正直なもので、介護していて「しんどい」と感じることが増えてきた。その最たる作業は週2回のシャワー介助である。右半身の麻痺が影響しているのか、母は極端に寒がりで、特に動かない右足は、私が触っても冷たく感じるほどだ。なので、まずは浴室を暖房機能で十分に温めておかなければならない。頃合いを見て浴室の椅子に腰かけさせる。しかも転倒しないよう、細心の注意を払いながら。そして体が温まるまで少し熱めのシャワーを体全体にかけて、髪、背中そして全身を洗う。そんなに広くない浴室の中で、私はいつも全身汗だくになりながら奮闘している。シャワーを出た後も、体にシッカロールと保身クリームを塗り、着替えの介助をする。こうして一連の行程が終わるころには、私は疲れてクタクタのなってしまうのだ。それでも唯一救われているのは、「気持ちよかった!ありがとう」という母の言葉だ。

杖をついて歩けた時期は、少しの介助だけで湯船に入ることもできたし、たいていのことは自分でやれたのだが、何度か転倒し、足の手術をして車いす生活になってからというもの、シャワーだけになってしまった。もっともデイサービスを利用するという手もある。近年のケアプラザには最新の浴室が整備されているし。しかし、母はデイサービスに行くことに関しては断固拒否の姿勢を貫いている。以前近所のケアプラザに通所していた時、浴室で母の体を洗い始めたのが男性だったことに母は憤り、それ以来ケアプラザを毛嫌いし、また行ってみたらと勧めても聞く耳を持たないのだ。

それにしても今後の朗々介護生活を考えると、まずは私自身の体力作りが必須であることは間違いない。

さて、前回の続き。母の入院後、私が高校へ行ったのは中間試験と期末試験の時だけだった。よくも落第せずに卒業できたと思うが、それは担任の先生が事情を理解し、力になってくれたからである。病室の消灯時間後、私は外来の待合室やナースステーション(ちょっと間借り)、喫煙所(その頃は一晩中明かりが点いていた唯一の場所)などを転々とし、教科書を読んだりしていた。そのうちに警備員のおじさんや看護師とも顔見知りになり、お菓子や飲み物を差し入れてくれたり、励ましてくれたり、いろんな話を聞かせてもらったりして、それなりに楽しいナイトライフを過ごした。その頃、私には一つだけ夢があった。それは大学へ進学すること。母は中学を卒業してすぐに働き、若くして私を生み、苦労を重ねてきた。そのせいか、大学進学を熱望していた。自分の将来は自分で切り開くとして、まずは大学へ進学し、母を喜ばせることができれば、生きる勇気にもつながるだろうと思っていた。この年の12月、私は某大学の授業料が免除になる給費生試験を受け、翌4月から大学生になった。

母はリハビリが功を奏し、体を少しずつ動かせるようにはなったが、その頃大変だったのは排泄だった。夜はベッドで済ませるため、その度に私を起こす必要がある。しかし失語症で声が思うように発せられないから、私も目が覚めないことがあった。そこで考えたのは、母の左手首(麻痺していない方)と私の右手首を軽く結んで寝るということ。母が排泄したくなったら、左手を動かせば私は目を覚ますという仕組みで、夜中に大きな声を出さなくて済む。寝る前に何回か練習して、いざ睡眠へ。これはうまくいった。おかげでシーツを汚すこと回数が激減した。

介護はする方もされる側もストレスを溜めてはいけない。お互い(ここが大事)が楽になると思うことは試し、うまくいけば採用する。この考えは、介護歴37年にして今も変わらない。

私の高校時代が終わりに近づいた初秋、母は一大転機を迎える。リハビリ専門の温泉病院へ転院するが決まったのだ。しかもそこは完全看護で、私はもうそばにはいないのだ。母は転院が決まってから、毎日泣くようになった。(続く)

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筆者:渋柿
昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。
私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。
平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。
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[写:hu album @fliker]

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