気が付けば朗朗介護(3) -「生かしてあげたい」先生の言葉は勇気と希望に-

付添い生活を始めてから2か月、日差しはすでに夏だった。

病院暮らしは不便極まりないものだったが、一番の苦痛は蒸し暑い日に風呂に入れないこと。母は三食入浴付きだが、付添人の私にはそんなことはない。かといって家に帰るには、日に何本もないローカル線に乗り、駅から歩いて軽く2時間はかかる。ただ風呂に入るだけで往復4時間は気が重かった。

そんなある日のこと、母のリハビリを待つ間、M先生と雑談していたら、「風呂なら我が家で入ればいいじゃないか。ここからなら歩いて10分だよ」と言ってくれたのだ。私はM先生の好意に甘えることにし、週に3~4度はお宅にお邪魔するようになった。風呂はもちろんだが、先生の奥さんが用意してくれる夕食がとてもうれしかった。私はそういう家庭の暖かさから遠ざかって暮らしていたので、普通の家庭の食卓が心地よかった。そしてなにより、M先生と奥さんのやさしさが心に沁みたのだった。

「お母さんは若いから、なんとしても生かしてあげたいんだよ」M先生はいつもそう言ってくれた。その言葉は、先が見えない私に大きな勇気と希望を与えてくれた。

「1日も早くリハビリを開始することが大事」だと、まだ意識も回復していない母をリハビリ室に通わせたのも、M先生のそんな思いからだったのだ。

母は自力で立ち上がれるようになり、リハビリを開始して3週間ほど経った頃には、わずかな距離だが杖をついて歩けるまでに回復した。

その後、M先生は東北の有名な温泉地にある「温泉リハビリテーション病院」への転院を進めてくれた。そこは身体機能回復訓練だけでなく、日常生活の中で自立する訓練ができる専門病院で、入院希望待ちがかなりいると聞いていたが、先生の尽力もあり、秋には転院することもできた。

母が30年以上生きていられるのも、この時にM先生と巡りあったからだと思う。まさに一期一会だ。私は今も感謝の気持ちを忘れない。

こうして少しずつ動けるようになった母の次なる課題は、言葉だった。失語症は、主に脳出血などの脳血管障害によって脳の言語機能の中枢が損傷されることにより、人が一旦獲得した、「聞く」「話す」といった音声に関わる機能、「読む」「書く」といった文字に関わる機能言語機能が障害された状態で、高次脳機能障害のひとつだ。ある時、病室の窓から鳥を見て「カラス」と母が言う。しかしそれは「すずめ」だ。すずめだとわかっていても、それがさっと言えず、口から発する言葉はカラスになってしまうのだ。

そこで私は画用紙にあ、い、う・・と五十音の表を書いて、夜になると二人で言葉の練習をはじめた。「か」の字を指さして、これは何と読む?と聞く。「か」と言が出るように練習する。次は「ら」、次は「す」と。夕食が終わって寝るまでの間、毎晩その表でいろんな言葉の練習をした。しかし不思議なことに、子供の名前だけは自然に出る。つまり私の名前だけはきちんと呼べるのだった。

ある朝、母の朝食の片づけをしていた時、なにげなく病室の窓を見たら、通学する学生たちが見えた。そういえば学校に行ったのは中間試験の2日だけで、あれから1ヶ月以上は経っていた。その時、ふと自分の将来に不安を感じた。「これから僕はどうなるんだろう・・・」と。(続く)

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筆者:渋柿
昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。
私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。
平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。
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[写:hu album @fliker]

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